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高橋慎一朗 「『親玄僧正日記』と得宗被官 」
(『日記に中世を読む』.東京大学出版会.1998年.p208以下)




高橋慎一朗氏の略歴(上掲書による)
1964年生れ 東京大学史料編纂所助手



※この論文の構成は
はじめに
一 平頼綱一族
二 長崎氏一族
三 矢野倫景
おわりに
となっていますが、ここでは「はじめに」と「一 平頼綱一族」を引用します。



はじめに


 『親玄僧正(しんげんそうじょう)日記』は、鎌倉末期の醍醐寺僧親玄〔1249〜1322.74歳〕の日記である。正応五年(一二九二)から永仁二年(一二九四)までの三年分が自筆原本の形で現存しており、京都市伏見区の真言宗醍醐派総本山醍醐寺に所蔵されている。南北朝期の醍醐寺座主満済(まんさい)〔1378〜1435.58歳〕の日記『満済准后(じゅごう)日記』に混入する形で伝来していたが、岩橋小弥太氏によって親玄の日記であることが知られるようになった(1)。

 原本の写真が東京大学史料編纂所に架蔵されている(架蔵番号六一七三−二八五)ほか、親玄僧正日記を読む会によって全文翻刻がなされている(『中世内乱史研究』一四〜一六号、一九九三〜九五年)。

 『親玄僧正日記』は、一般に著名な日記とは言い難い。それは、現存している記事がわずか三年間のみということもあるであろうし、記主の親玄がさほど有名な人物ではないということもあろう。そこで、まずは親玄の略年譜を掲げてみたい。


事項 典拠
建長元年(一二四九) 久我通忠(こがみちただ)息として誕生。 『密宗血脈鈔』(2)
文永九年(一二七二) 醍醐寺地蔵院の親快より受法。 『血脈類集記』(3)
建治二年(一二七六) 親快没。地蔵院管領をめぐり実勝と対立。 『密宗血脈鈔』
(この間に鎌倉へ下向)
正応五年(一二九二) 日記の始め。鶴岡八幡別当頼助北条経時男.1245〜96.52歳〕より受法。 『親玄僧正日記』
永仁元年(一二九三) 平禅門の乱に遭遇。 『親玄僧正日記』
永仁二年(一二九四) 日記の終わり。
永仁六年(一二九八) 醍醐寺座主に任じられる。 『醍醐寺座主次第』(4)
正安元年(一二九九) 座主を辞す。 『醍醐寺座主次第』
(この間に京都へ上る)
嘉元元年(一三〇三) 醍醐寺座主に再任。 『醍醐寺座主次第』
嘉元三年(一三〇五) 座主を辞し、再び鎌倉へ下向。 『醍醐寺座主次第』
徳治元年(一三〇六) 東寺長者に加えられる。大僧正に昇任。 『東寺長者補任』(5)
徳治二年(一三〇七) 東寺長者を辞す。 『東寺長者補任』
元亨元年(一三二一) 鎌倉永福寺別当在任。 『鶴岡八幡宮寺社務職次第』(6)
元亨二年(一三二二) 没。年七十四。 『密宗血脈鈔』



 親玄は久我(源)通忠〔1216〜50.35歳〕の子で(系図@参照)、『問はずがたり』の作者後深草院二条〔1258〜?〕は従姉妹にあたる。京都の醍醐寺に住し、地蔵院の親快〔?〜1276〕より法流を伝授された。幕府将軍久明親王〔1276〜1328.53歳〕および得宗北条貞時〔1271〜1311.41歳〕の護持僧として、正応二年(一二八九)ころには鎌倉へ下向したと思われる(7)。幕府の推挙により鎌倉に留まったまま醍醐寺座主に任命され、のちに一旦上洛するが再び鎌倉へ下向している。


 系図@久我家略図
通親通光┬通忠−通基−通雄
   │    └親玄
   └雅忠−後深草院二条
   └道朝


 日記が残されているのは、ちょうど親玄の最初の鎌倉在住の時期で、しかも日記の中間地点にあたる正応六年(永元年・一二九三)には「平禅門(へいぜんもん)の乱」に遭遇している。

 平禅門の乱とは、正応六年四月に、得宗被官の中心的存在であった平禅門(頼綱)?〜1293〕および子息飯沼助宗1267〜93.27歳〕らの一族が、謀反の疑いにより得宗北条貞時によって滅ぼされた事件である。

 『醍醐寺座主次第』の親玄の項には、

正応六年飯沼判官謀反時、於関東修仏眼法、供僧廿人大法云々、賞二ヶ所、

とあって、この時に親玄が得宗のために祈祷を行い、その恩賞によって二ヶ所の所領を得たことをうかがわせる。

 このように、親玄は、鎌倉にあって得宗(日記では「太守」と表されている)の周辺で活動をしていた人物である。よって、『吾妻鏡』のような幕府関係の基本史料が存在しないこの時代においては、幕府政治史を研究するための貴重な史料と言える。

 そこで、本稿では、『親玄僧正日記』に見える得宗被官の活動に関する記事に着目し、平禅門の乱の以前と以後の状況を比較し、北条貞時政権の性格の変化を明らかにしてみたい。



一 平頼綱一族

 得宗被官平氏は、平家一門出身で、治承・寿永の乱後に北条氏の庇護下に入った氏族である。得宗被官長崎氏も、同氏から後に分かれた流れである(8)。 とりわけ、弘安八年(一二八五)の霜月騒動で安達泰盛〔1231〜85.55歳〕が討伐されて以降、得宗被官平頼綱の一族が実権を掌握したことは、既に先学の指摘するところである(9)。

 頼綱と、その子息宗綱・(飯沼)助宗(系図A(10)参照)について、日記中の関連記事を年月日順に掲げてみよう。なお、傍注は、筆者注である(以下同じ)。


 系図A平氏・長崎氏略系図
盛綱┬盛時−頼綱−宗綱
   │        └飯沼助宗
   └長崎光盛−光綱−高綱−高資



年月日 事項
正応五・二・二七 今日備州等事、申状付飯沼(助宗)了、
正応五・三・三〇 今日自佐々目力者一人進発上洛了、飯沼(助宗)同進発云々、
正応五・五・二○ 佐伯申状付飯沼(助宗)了、但不対面、伯耆房請取云々、
正応五・閏六・二四 仲、向禅門(頼綱)宿所、依物忌不及問答云々、
正応五・閏六・二五 仲寛、雖向禅門(頼綱)宿所、不請取状、
正応五・閏六・二六 仲寛、向禅門(頼綱)宿所、付書状了、
正応五・一一・二五 七条僧正(道朝)、平左衛門尉(宗綱)之許へ遣状、使者向云々、
正応六・一・一二 相州(貞時)社参歟、禅門(頼綱)又参了、
正応六・四・一○ 今夕僧正(頼助)、被向禅門(頼綱)之許了、無対面、指合云々、
正応六・四・二二 殿中以外騒動、可被打平禅門(頼綱)之故也、(略)合戦以前平左衛門宗綱参云々、(略)杲然(頼綱)并飯沼左(ママ)野左衛門入道(助宗)於一所自害之由風聞了、
正応六・六・一四 飯沼(助宗)縁者召取之由有其聞、
永仁二・四・二一 今日可来之由太守(貞時)被示了、(略)所願之旨趣、平入道(頼綱)等一廻相当之間可訪、但非追善之儀云々、



 正応六年(一二九三)四月二十二日条が平禅門の乱の記事であり、それより以前の記事を見てみると、頼綱を始め宗綱、助宗の活動が知られる。

 正応五年二月二十七日条では備州等の事、同年五月二十日条では佐伯庄(同年十一月十一日条に「佐伯庄等事、問答了」と見える)のことで各々申状を助宗に提出しており、助宗が所領の訴訟に関与していることがわかる。

 正応五年閏六月には、「仲寛」なる人物が再三にわたり頼綱を訪ねて、書状を渡そうとしている。仲寛は京都より使者として下向してきた人物と思われ(同月二十二日条)、訴訟の申状を持ち込んできたものと推測される。同年十一月二十五日条では、「七条僧正」道朝の書状が宗綱のもとに届けられているが、道朝は親玄と同じく醍醐寺僧で、かつ久我氏の出であった(系図@参照)。よって、親玄の仲介により何らかの訴状が届けられた可能性が高い。

 また、正応六年一月十二日条によれば、得宗貞時の鶴岡八幡宮参詣に頼綱が付き添っていたようであり、頼綱の得宗側近としての姿が表れている。

 しかるに、そのわずか数ヶ月後には、乱によって頼綱、助宗は敗死、宗綱は佐渡へ流されることになる。

 いっぽう、乱後の記事は当然のことながらほとんどなく、乱の余波で助宗の縁者が捕らわれた記事(正応六年六月十四日条)を除けば、わずかに一例である。それは、平禅門の乱のちょうど一年後の記事(永仁二年〔1294〕四月二十一日条)であり、貞時より親玄に対して頼綱等の「一廻」にあたり祈祷を依頼するものである。興味深いのは、「但し追善の儀に非ずと云々」とあることで、決して平氏一族の名誉が回復されたのではないようであり、むしろ彼らの祟りを恐れての祈祷ではないかと思われる。



(1)岩橋小弥太「親玄僧正と其の日記」(『国史学』2号、1930年)。
(2)東京大学史料編纂所架蔵版本。
(3)『真言宗全書』所収。
(4)東京大学史料編纂所架蔵謄写本。
(5)『群書類従』所収。
(6)同右。
(7)土谷恵「東下りの尼と僧」(『新日本古典文学大系月報』52、1994年)。
(8)平氏・長崎氏に関する最新の研究成果として、森幸夫「平・長崎氏の系譜」(安田元久編『吾妻鏡人名総覧』吉川弘文館、1998年)がある。
(9)佐藤進一『鎌倉幕府訴訟制度の研究』(岩波書店、1993年)51〜52頁など。
(10)長崎氏の系譜に関しては不明な部分が多く、諸説あるが、ここでは細川重男「内管領長崎氏の基礎的研究」(『日本歴史』479号、1988年)によった。なお、注(8)森論文では、細川説とは異なる系譜を提示している。




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