更新10.9/25


竹本源吾 『増鏡』の作者についての考証
−『とはずかたリ』−後深草院二条とのかかわり(季刊ぐんしょ再刊22号)




※上掲書に竹本源吾氏の肩書き等が一切のっていないので、どういう方か私は知りませんが、中村直勝博士以来の『増鏡』四条隆資作者説であり、興味深い指摘もあるので、紹介します。



竹本源吾氏の考え方

私の考え方

 はじめに、小論では次の本を基としたことをおことわりしておく。『増鏡』は徳川義親氏所蔵応永の古写本(和田英松校訂 岩波文庫)を用いる。『とはずかたり』は宮内庁書陵部蔵の唯一の写本(玉井幸助校訂 岩波文庫)を用いる。

 『増鏡』の序は次の言葉で始まっている。

二月の中の五日は…嵯峨の清涼寺に、まうでると傍に、八十にもや余りぬらむと見ゆる尼ひとリ、鳩の杖にかかりて参れり。‥‥「あはれにも、山の端近く傾きぬめる日影かな、わが身の心地こそすれ」とて、寄りいたる気色、なまめかしく、心あらむかしと見ゆれば、近くよりて、「いづくよりまうで給へるぞ、ありつる人の帰りこむほど御伽せむはいかが」

と年老いた尼に語らせている。
 この老尼を後深草院上臈女房、二条(「とはずかたり」の作者)と私は見たい。

いきなり老尼が二条だという大胆な断定がなされており、ちょっと驚く。また、中村直勝博士は、昭和7年に四条隆資作者説を発表して以来、誰からも賛成の拍手を得られないことを嘆いたまま亡くなられたのであるが、ここに60年を経て新たな賛成者が登場したことになる。
 『増鏡」の作者は誰か、あえて断定すれば、四条中納言隆資(1293〜1353)の名を挙げなけれぱならない。



この部分の指摘は従来からなされているのであるが、私にとって興味深いのは「三条前大納言公秀の娘、三条」という具合に、「三条」が繰り返し出てくるところである。もちろんこれは実在した人名であるから、それ自体は別におかしくはないのであるが、二条が三条という名前に替えられてしまってことを嘆いた、という記事に特別な意味を見い出している私にとっては、この部分も本来の意味の他に何か別の意味を重ね合わせているように思えるのである。別途検討したい。

陽禄門院(1311〜1352.42歳)は光厳天皇妃。北朝の崇光・後光厳天皇の生母。院号宣下は没年の1352年。

足利尊氏(1305〜1358.54歳)
崇光天皇(北朝第三代天皇.興仁親王.1334〜1398.65歳)の親王宣下・立太子は1338年8月8日、践祚は1348年10月27日。在位4年目の1351年11月7日、退位。
 『増鏡』の書かれた時はいつか、作成年代を考察することにより作者を紋ってみる。本文最後の記事は、元弘三年(1333)後醍醐天皇の隠岐よリ京都還幸の年で終わる。この書の筆写されている永和二年(1376)までの四十三年間の作であることは疑いないところ、更に第十六「くめのさら山」の末尾に「三条前大納言公秀の女、三条とて侯はるる御腹にぞ、宮々あまたいでものし給ひぬる、つひのまうけの君にてこそおはします。」とあるから、公秀の女三条即ち陽禄門院御腹の興仁親王についで弥仁親王ご降誕の延元三年(1338)三月二日以後に下らなければならない。

 更にまた、第十七「月草の花」に「今の尊氏の子(義詮)四つになりけるを大将軍にして、云々」とあり、従って足利尊氏の死没した延文三年(1358)四月三十日までの筆致とみられる。なお「くめのさら山」に「つひのまうけの君にてこそおはしますめれ」とあり、ついには天位をもつぐべきことと、崇光院の未だ御践祚遊ばされない以前、正平三年(1348)十月以前の筆致とすると、書かれた年代は、即ち、延元三年(1338から正平三年(1348)の十年間に狭められるものと考えられないか。



作者・四条中納言隆資について

 隆資は、正平八年(1353)五月十一日、八幡男山にて南朝方として足利軍と戦って奪戦討死にする。歳六十一とある(大平記)から、生年は永仁元年(1293)となる。

ここは竹本氏の勘違いである。男山八幡の戦いは正平7年(1352)5月のことであり、この年に61歳だから生年は正応5年(1292)となる。
 前記の延元三年、四条隆資が四十六歳頃から以後十年の間に書き、『増鏡』本文の終わりに自らの事を「四条中納言隆資といふも頭おろしたりし、また髪おふしぬ。」…と元弘二年(1332)逐電して身を敵から隠していた姿を(公卿補任)「増鏡」を書き終えてからか、当時としては老境にある歳五十六の時に現わし、南朝につくす。

 『とはずかたリ』作者二条はこの「増鏡』作成期間の十年間には何歳かみると、『増鏡」の序に言っている八十一歳から九十一歳にあたる。当時二条を大層可愛がってくれていた縁者に、「今年北山准后九十にみち給へば、御賀の事、…」とあり、二条八十一から何年か四条隆資と関わることがあれば、「増鏡」執筆のうえで大きく影響を及ぼしたものと考えられる。

 本文中における作者推定箇所をいくつか順をおってみると、次のところに注目される。

二条の祖父四条隆親の姉であり、西園寺実氏夫人、また後深草院・亀山院の祖母でもある北山准后四条貞子(1196〜1302.107歳)は、13世紀をまるまる生きた驚くべき長命の人であり、その90歳の祝いは『とはずがたり』にも『増鏡』にも膨大な分量で出てくる。これは四条隆資作者説には有利な材料であり、中村直勝博士も既に指摘されている。
@ 最終巻の終末のところで、四条隆資が蓄髪したことを細かく書き、「もとより塵をいづるにはあらず、かたきのために身を隠さむとて、かりそめに剃りしばかりなれば、今はた更に眉をひらく時になりて、男にならむ、何のはばかりかあらむとぞ、」と強調する、この一公卿の活躍は重くは見られるが、然しながら『増鏡』の著述全体を眺めるときに、この最終の締め括りにあたって、斯く書かなければならない理由は史実上よりは窺えないのに、なお書く事は、そこに書き留めなければ居られないものがあったに違いない、それは著者自身であったからではなかろうか。

最終巻の終末を四条隆資の逸話で終わらせていることは、確かに極めて奇妙なことであるが、通説(二条良基説)に立つ学者は、この点について、きちんとした説明をすることができない。唯一、西沢正二氏が『増鏡』未完成説を唱えていて、一応の説明をしているが、私は賛成できない。別途検討する。

『とはずがたり』では、1283年の秋に二条の祖父四条隆親が死んだことになっており、その時点で、四条隆顕も既に死亡していると書かれている。『とはずがたり』のこの部分は極めて奇妙であり、そもそも四条隆親は、『とはずがたり』などより遙かに信頼できる『公卿補任』では1279年に死んだとされていて、『とはずがたり』とは4年ものずれがあるのである。私は四条隆顕は1283年の時点ではもちろん、1293年に隆資が生まれた後も生存していたと思う。隆資の強烈な生き方には、四条本家の正嫡の地位を剥奪された隆顕による特別な教育が反映しているように思われるのである。
A  『増鏡』が『とはずかたり』から多くの資料を採ったことは明白である。『増鏡』の記述に、『とはずかたり』作者後深草院上臈女房二条の院殿中においての記事がしばしば採り入れられている、そこに大きな意味があるとみる。四条隆資の家系に二条の母系の繋がりがみられ、しかも隆資幼少のころ父は早世し、祖父四条大納言隆顕に育てられた。即ち二条の伯父が隆顕であり、隆資は幼少より二条を見知っていたことになる。『増鏡』の記事には、二条の関知する事柄に就いては詳細に書かれることが各所に散見される。後年嵯峨の清涼寺にて老尼に語らせたとして、『増鏡』を書くことになったものと推埋する。

B 「増鏡」本文中にて特に二条との関連を見出せる箇所について、

 第十「老のなみ」に「又上臈だつ久我の太政大臣(通光)のうまごとかや、かば桜の七、紅のうちきぬ、山吹のうはぎ赤色の唐衣、すずしの袴にて、しろがねの御杯、柳筥にすえて、同じひさげにて、柿ひたし参らすれば、はかなき御たはぷれなどの給ふ。」本文中このように上臈女房に就いて詳細に服装などを書き、後深草院は二条にとりとめのないことなどいって和やかな様におよぷと、院の側近に祗候する一女性を好意的に書く。

二条に「はかなき御たはぶれなどの給」ったのは亀山院であって、後深草院ではない。岩波文庫本の『増鏡』は最近復刊されたので、念のため確認してみたが、やはり竹本源吾氏は読み違えている。

C作者の身内の故に書くことに、こだわりのある箇所について、

 第十「老のなみ」に「なにがしの朝臣の、槇の島のけしきを造りて侍りけるを、平大納言経親、いまだ下臈にて、兵衛佐などいひけるほどにや、その宇治川の橋をぬすみて、わがつくろいたるかたに渡して侍りける、いとおそろしく、心かしこくぞ侍りける。」とある、ここの部分は『とはずかたり』より採り、しかも二条が言っているところは、『とはずかたり』によると三九「御壺合せ」「そりはしを、やり水にちひさく、うつくしくわたしたるを、善勝寺の(隆顕)大納言、夜のまにぬすみわたして、我が御つぽに置かれたりしこそ、いとをかしかりしか。」と宇治の橋を他所よりぬすみ、二条のお壺に渡す人物を、伯父隆顕から経親にかえて書く、我がと言うことは二条のお壷であるからの言葉になり、『増鏡』では不自然であることが指摘できる。

多くの学者は『とはずがたり』の「我が御つぼ」とは善勝寺大納言の御壺と考えており、また『増鏡』の「我がつくろいたるかた」も、平経親のそれと考えていて、特別な矛盾は感じていないようである。ただ、竹本源吾氏の解釈に従って「我が」を二条の御壺だと考えたとしても、『増鏡』が不自然ではないと考える余地はある。それは二条自身が『増鏡』を書いた場合である。
D 雅忠の女、二条を慰める見方で書く

 第十一「さしぐし」「出車十両、に乗る人ぴと何々殿また…誰々の女」とだけ数名かいている箇所、二条については、「二の車の左に久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからい事に嘆き給へど、皆人先だちてつき給へれば、あきたるままとぞ、慰められ給ひける。」と、どこまでも説明する丁寧さ心くばりが見られる。

 おわりに、以上『増鏡』の著者に就いての概要を述べてまいりましたが、管見にかかわらず敢えて断定して、一条の光を投ずることとし、諸先学のご批判を待つものであります。
(平成五年一月十五日稿)

竹本源吾氏が指摘された諸点についての私の考え方は既に述べた。




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