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田中稔 「第四代 藤原頼経」
(『鎌倉・室町将軍家総覧』.秋田書店.平成元年.p77以下)






田中稔氏の略歴(上掲書による)
(たなか みのる)
国立歴史民俗博物館教授
※後日、補充します。



第四代 藤原頼経

 幼い摂家将軍を迎えた執権北条氏は貞永式目
 を制定するなど執権政治の確立期を迎える!

生没




墓所
建保六年(1218)正月十六日生
康元元年(1256)八月十一日没
藤原(九条)道家
藤原倫子(西園寺公経女)
竹御所(源頼家女)
不明


将軍降下の奏請

 頼経は幼名を三寅(みとら)という。これは寅歳の正月寅の日の寅刻に生まれたために、このように名付けられたという。

 建保七年(1219)正月二十七日夜、将軍源実朝1192〜1219.28歳〕は鶴岡八幡宮で任右大臣の拝賀を行なったが、その社頭で兄頼家1182〜1204.23歳〕の子公暁1200〜1219.20歳〕によって暗殺され、公暁もまたその直後に誅された。実朝には子供がなかったため、源家将軍の血統はここに断絶してしまった。そこで幕府は急いでその後継者を決めねばならなくなった。二月十三日、政所執事二階堂行光1164〜1219.56歳〕を上洛させ、後鳥羽上皇1180〜1239.60歳〕の皇子六条宮雅成親王1200〜55.56歳〕と冷泉宮頼仁親王1201〜64.64歳〕のどちらかを将軍として関東に下向されるようにと奏請した。

 これより先の建保六年(1218)二月、北条政子1156〜1225.70歳〕は熊野詣を表向きの理由として上洛した。その際政子は、当時後鳥羽上皇の側近にあってその信任を得、強大な権勢を誇っていた卿二位兼子1155〜1229.75歳〕と会談したが、その中で最も重要なのは将軍実朝の後継者問題である。実朝に万一のことがあった場合には、この上皇の皇子二人のうちのいずれかを将軍として下向させるということで、両者の間には密約が成立した。

 卿二位兼子は後鳥羽上皇の心の動きをよく察して行動し、ために彼女への信頼があつく、彼女の言うことはほとんど上皇の聞き入れるところとなったという。したがってこの両者の密約も上皇の耳に入れられ、その暗黙の了解を与えられていたものであろう。

 兼子はかねてより、将軍候補の一人となった冷泉宮の養育の任に当っていたが、承元四年(1210)順徳天皇1197〜1242.46歳〕の即位によって皇位継承の望みを失っていた。そこで彼女にとっては由縁の深い冷泉宮を将軍とすることは望ましいことであったろう。また、彼女は先に実朝夫人となった坊門信清の娘西八条禅尼.1193〜1274.82歳〕も養女としており、実朝の結婚問題に際しても積極的にその実現に努力している。

 兼子はこうしたことによって朝幕両方への権勢の拡大を計ろうとする意図が強く働いていたものと思われる。また上皇にとっても、皇子の一人を将軍とすることによって、幕府を自分の意のままに従うものに変えることができる可能性も考えられ、一先ずは政子の希望に暗黙の了解を与えたのではなかろうか。

 実朝の死後、幕府が直ちに宮将軍の東下を院に要請したのはこのような密契によるものであった。そしてその使者の任に当った二階堂行光はかつて政子に従って上洛しており、その時の事情を知る者として選び任ぜられた。しかし上皇はこの幕府の奏請に対して、
「宮二人のうち一人は必ず下向させるが、いまはだめだ」
といってそれを拒絶した。しかも上皇は寵姫伊賀局の所領摂津国長江・倉橋両庄の地頭職を停止すべきことを求めるなど、幕府に対して強硬な態度を示した。

 そこで幕府は、右大将家以来の地頭職を罪なくして停めることはできないとして、この要求を拒絶するとともに、三月十五日、北条時房1175〜1240.66歳〕をして兵一○○○騎を率いて上洛させ、再度宮将軍の東下を要請した。しかし上皇は宮将軍東下により、
「この日本国が二分されるおそれがあるから、これは決してしてはならないことだ」
といって、幕府の要請を拒否してしまった。

 突然の将軍実朝暗殺により、今や幕府はその主を失い、宮将軍さえ実現させなければ、幕府の崩壊は時間の問題のように上皇には思われたのであろう。


 三寅の東下

 こうした上皇の意図を察して、幕府側は宮将軍の実現を断念し、代りに源家将軍に血縁を有するものの中からしかるべき者を早急に後継者として迎えることによって、この緊急事態の乗切りを計ることになった。かくして選ばれたのが左大臣九条道家1193〜1252.60歳〕の子三寅(当時二歳)である。

 三寅の母は当時朝廷内での親幕派の中心であった大納言西園寺公経1171〜1244.74歳〕の娘倫子であるが、この倫子の母は一条能保1147〜97.51歳〕と源頼朝の妹との間に生まれた子で、頼朝の姪に当る一方、九条家は兼実1149〜1207.59歳〕の時以来幕府と親密な関係にあり、しかも摂関家の一つであって、出自としては宮将軍に次ぐ高さをもっている。将軍後継者として三寅が選ばれたのは、単にその血縁ばかりでなく、幕府の中心たるに相応しい家柄の高さも大きく作用していたものであろう。

 当時、三寅は外祖父公経のもとに養われていたが、六月二十五日に京を出で、七月十九日に鎌倉に到着した。かくして彼は鎌倉幕府の主としての生活を始めることになった。九条家の一族慈円1155〜1225.71歳〕はその著者『愚管抄』の中で、三寅について、
「誠につねの幼い人にも似ない子」
と評し、またその鎌倉への下向の途次について
「亭を出た時から下り着くまで、少しも泣き声を立てるようなことはなかったので(人々は)不思議なことだといった」
と彼のことを褒めている。慈円は三寅の曾祖父兼実の同母弟であるから、身内褒めをしたい気持も強く働いていたであろうが、ごく幼少ながらも人々になかなか優れた子と認めさせるようなところがあったようである。

 三寅は鎌倉に下って鎌倉幕府の主となったのであるが、僅か二歳の幼少では将軍宣下もいまだ行なわれなかった。そして頼朝未亡人の北条政子1156〜1225.70歳〕が三寅に代って幕府を総領し、実質的な幕府の代表者、即ち鎌倉殿の役割を果すこととなった。このため政子は後世「尼将軍」と呼ばれる。彼女は弟の執権北条義時1163〜1224.62歳〕の補佐のもとに幕府の政務を裁断し、実朝亡き後の幕府を支えていった。


 承久の乱と三寅

 三寅が鎌倉へ下って二年後の承久三年(1221)五月、後鳥羽上皇は倒幕の兵を挙げた。これが承久の乱である。当時朝廷の権威には絶大なるものがあり、朝廷に直接敵対して戦うということは当時の武士達にとっては、初めての経験であった。

 保元の乱ではそれぞれが上皇・天皇をかついで戦い、平治の乱も上皇・天皇をどちらが手中にするかで戦の帰趨が定まっている。また頼朝1147〜99.53歳〕も挙兵に際しては、以仁王1151〜80.30歳〕の令旨を旗じるしとして戦い、朝敵の汚名を免れるようにつとめた。したがって今度はっきりと朝敵とされたことは幕府にとって最大の危機であり、その存続の上で重大な岐路に立たされることになった。

 上皇挙兵の報を聞くと、尼将軍政子は直ちに御家人達を召集し、かつて頼朝が彼等のためにいかに尽くしたか、また幕府の存立が彼等にとっていかに必要かということを述ベ、幕府を守るように説いた。これによって御家人達は、皆一致団結して院方と戦う決意を固めた。

 幕府は直ちに京都に向けて大軍を遣し、上皇の挙兵より僅か一ヵ月の後には、幕府軍は院方を破って京都を占領し、後鳥羽上皇を隠岐に流すなど、首謀者を処分し、戦後処理を行なった。

 この幕府方の勝利について、政子の果した役割は極めて大であるが、それは頼朝未亡人としての権威と信頼をもって可能となったのである。実朝の後継者となったとはいえ、三寅は幼少であり、実質的にはなお鎌倉殿ではなく、政子の後継者にしか過ぎなかった。したがってこの承久の乱に際しては、三寅の存在は幕府の将来に対する一つの安心材料ではあっても、危機の幕府をまとめ、救うことは政子でなければできないことであった。

 三寅は次第に成長し、七歳になった元仁元年(1224)四月二十八日には手習始をした。この時その父九条道家が手本ならびに硯などを送ってきている。

 この年六月十八日、執権北条義時が死んだが、その死因については疑惑が持たれている。すなわち義時は後妻伊賀氏らによって毒殺されたとするのである。

 義時の死後、その嫡男の泰時1183〜1242.60歳〕が執権職を継いだが、それから一ヵ月余り後の閏七月三日、義時の後妻等の陰謀が発覚した。伊賀氏は兄伊賀光宗1178〜1257.80歳〕等と謀り、義時亡き後、伊賀氏所生の娘婿藤原実雅(参議・従三位)1196〜1228.33歳〕を将軍とし、また実子の北条政村(泰時の弟)1205〜73.69歳〕を執権にしようとすることを企てた。

 しかしこれは政子が事前にその一味として誘われていた三浦義村?〜1239〕を説得したことによって、この謀議は未然に防がれ失敗した。このため三寅は地位の安泰を保つことができた。


 将軍宣下

 義時の死んだ翌年の嘉禄元年(1225)六月十日、幕府創業の功臣大江広元1148〜1225.78歳〕が没したが、当時すでに政子も病床にあり、翌七月十一日には政子も後を追うように相次いで卒した。以後、執権北条泰時が三寅の後見をすることになった。

 泰時1183〜1242.60歳〕は、これまで三寅の居所となっていた大倉の第は執権の館内にあり、手狭でもあったところから、鎌倉殿の御所にふさわしい新邸を造ることとした。そこで鶴岡八幡宮の南正面の若宮大路の地に御所を新造することに定め、同年十二月には新御所が完成し、同月二十日に三寅はそこへ移り住んだ。そして大倉の地にあった時には手狭を理由に御所の宿直警固は西侍所で行なわれていたのを改め、小侍所に祗候して行なうことにした。これが小侍所番役である。

 ところがこの新御所造営を機会に、御所の東の小侍所の他に西侍所での宿直警固を復活し、遠江国以下東国一五ヵ国の御家人らに命じ、一二ヵ月毎に交替して宿直させることとした。これを鎌倉番役又は鎌倉大番役という。

 新御所へ移ってすぐ後の十二月二十九日に、三寅は元服の式をあげ、頼経と名乗ることになった。その理髪加冠、すなわち烏帽子親の役は執権泰時が勤めた。時に頼経年八歳である。

 ついで翌嘉禄二年1226〕正月八日、幕府は頼経の叙位・任官ならびに征夷大将軍宣下のことを朝廷に申し入れることにした。そこで同月二十三日の除目で、頼経は正五位下・右近衛少将となり、征夷大将軍の宣下をうけて、鎌倉殿としての形式が整った。

 頼経の元服は僅かに年八歳で、通例の元服年齢よりは少し早かった。これは、それまで実質的な鎌倉殿であった政子が死んだため、幕府としては彼を早く征夷大将軍とし、新鎌倉殿にふさわしい形式を備えさせることが必要となったが、しかし、将軍宣下を受けるためには元服をすませ、成人していることが前提条件となるため、政子の死後、急いで頼経を元服させたものであろう。そして前述した頼経の居所新造も新鎌倉殿にふさわしい御所に住まわせることによって、彼が今や政子の後を継いで新しい幕府の主となったことを人々にはっきりと示すためになされたことである。

 こうして頼経は征夷大将軍として鎌倉幕府の中心的存在の名を得たわけであるが、幕府の実権は執権泰時を中心とする北条氏が握っており、彼は実権を持たない形式的な鎌倉殿として、「幕府統合の象徴」とでもいうべき地位を有するに過ぎなかった。したがって将軍宣下を受けたとはいえ、幕府内における彼の立場には以前と大きく異なるようなことはなかった。


 出世・結婚

 その後頼経は安貞元年(1227)正月二十六日兼近江権介、寛喜三年(1231)二月五日従四位上、同三月二十五日左中将、同四月八日正四位下、貞永元年(1232)正月三十日兼備後権守を経て、同年二月二十七日従三位・参議となり公卿に列せられた。

 ここに頼経は正式に政所を開設する資格を獲得した。これまでも幕府に政所は置かれていたが、三位になる以前には公式に政所を称することはできなかった。そこで御家人所領の安堵などのために出される将軍の下文(くだしぶみ)は袖判の下文の形式のものが用いられていたが、これから後は将軍家政所下文の形式を用いるようになった。このことは現存する頼経の下文によっても裏付けされている。

 その後の彼の官位の昇進について主なものをあげると、次のようである。

 天福元年(1233)正月権中納言、文暦元年(1234)十二月正三位、嘉禎元年(1235)十月按察使、同十一月従二位、嘉禎二年七月正二位、同十一月民部卿、暦仁元年(1238)三月権大納言、同四月権大納言辞職と進んだ。そして寛元二年(1244)四月二十八日征夷大将軍をその息頼嗣に譲って隠退し、翌三年七月五日出家、法名を行智と称した。以上が頼経の官位昇進の過程である。

 これより先の寛喜二年(1230)十二月七日、頼経は前将軍源頼家1182〜1204.23歳〕の遺子鞠子(竹御所・竹御方)1203〜34.32歳〕と結婚した。時に頼経一三歳、竹御所二八歳で、二人の間には一五歳もの隔りがあった。これは、藤氏将軍家と源氏との繋りをさらに強くしようとする意図のもとになされた政略結婚である。

 ところが文暦元年1234〕七月、竹御所は難産のため死児を生み、またそのために自らも命を失った。このため藤氏・源氏両将軍家の結合の意図は果されなかった。

 やがて頼経は中納言藤原親能の女(むすめ)大宮局(大宮殿・二棟御方)を寵愛し、延応元年(1239)十一月二十日、その腹に生まれたのが嫡男頼嗣(五代将軍)1239〜56.18歳〕である。なお頼経にはその他に二人の男子があったが、後にいずれも出家して僧となっている。


 頼経の上洛

 将軍頼経の代には、貞永元年(1232)御成敗式目の制定、仁治三年(1242)四条天皇1231〜42.12歳〕死後、幕府の干渉による後嵯峨天皇1220〜72.53歳〕の即位その他、重要な政治的事件は少なくない。しかしこれは執権泰時の事績とすべきものであるから、頼経が直接関与しなかった事件については一切割愛して触れないこととする。したがって彼の将軍在職中の事績としては特筆すべきものは少ないが、その一つとして彼の上洛について触れておきたい。

 頼嗣誕生の前年暦仁元年(1238)正月二十八日、頼経は執権北条泰時1183〜1242.60歳〕、連署北条時房1175〜1240.66歳〕ら大勢の御家人を従えて上洛の途につき、二月十七日に入京、六波羅に新造した邸に着いた。承久元年1219〕の東下以来約二○年を経て、初めて入京の望みを果すことができた。しかるべき「大名」は一人残らず彼に従って参洛したといわれ、その行列は美々しく壮観であったようで、都の人々はこぞって行列見物に出向き群集したという。頼経が幼少の東下以前の頃にその養育に当たっていた外祖父西園寺公経1171〜1244.74歳〕も、この行列を見物するため白河河辺に桟敷を作り、父九条道家〔1193〜1252.60歳〕近衛家実1179〜1242.64歳〕らを招待している。

 頼経は入京五日後の二月二十二日に初めて六波羅の邸より外出した。まず第一に外祖父西園寺公経の邸を訪問し、その次に父九条道家を訪れた。そして翌二十三日に参内し、二十四日の小除目で権中納言還任、兼右衛門督となり、同二十五日検非違使別当に補された。三月七日権大納言となり、右衛門督・検非違使別当を辞任、四月十八日権大納言辞任と、将軍を飾るにふさわしい官位の昇任が行なわれた。

 その後十月十三日に出京し鎌倉へ帰ったが、この約九ヵ月の間、彼はしばしば父道家・外祖父公経らと会談しているが、中でも公経との交渉回数の多いことが注目される。また春日大社・石清水八幡等の社寺参詣もしばしば行なっている。なお、彼の滞在中に京都市中の盗賊の難を防ぐため、市中に篝屋を設け、常時在京の御家人らをして主な辻々を警固させる制度が始められた。以後鎌倉時代を通じてこの制度は維持され、京都の治安維持に役立った。


 九条道家と西園寺公経

 承久の乱後、九条道家は摂政関白としてのみでなく、将軍頼経の父として幕府の実力を背景にして、朝廷内で大きな権力を握った。その後さらに四条天皇1231〜42.12歳〕の外祖父となったことは彼の権勢の強化に大いに役立った。しかしこの道家の権勢も、頼朝の代以来親幕派の立場を変えなかった縁家西園寺公経が、幕府の信任によるその権勢をもって道家の後援に当ったことに負うところが大である。

 これより先の嘉禎元年(1235)道家は後鳥羽・順徳両上皇の帰京を幕府に要請して一蹴されたことがあった。これが実現すれば承久の乱以前の状態が再現される危険すらあり、幕府は九条家に対する警戒心を次第に抱くようになったことが考えられる。しかしなお表面上は何等変化なく、頼経の上洛当時は道家の最も得意の時期であった。

 一方、西園寺公経1171〜1244.74歳〕は、承久の乱後幕府の深い信頼と強力な後援を背景にして、朝廷内で強大な発言力を確立し、摂関をも凌ぐまでに権勢を増大させていった。彼は従一位太政大臣にまで昇進し、頼経入京当時は既に出家していたが、その勢力には何等変化なく、朝廷内に隠然たる権勢をもっていた。頼経が入京後最初に公式訪問したのが、父道家ではなく外祖父公経であったということは、彼が単に幼時の扶養者であったということによるものではなく、朝廷内において幕府の立場を最もよく代弁してくれるものとして、幕府にとっては将軍の父道家以上に大切な最重要人物であったことによるのではなかろうか。そしてこの後も公経ならびにその子孫らはますます勢力を増大していき、以後の鎌倉時代政治史上において西園寺氏は極めて高い役割を占めている。


 将軍職譲位

 頼経上洛後四年を経た仁治三年(1242)四月、執権北条泰時1183〜1242.60歳〕は病気となり、一時小康状態を得た。しかし再び病状は悪化して五月〔六月の誤り十五日に没した。その後は彼の嫡孫北条経時1224〜46.23歳〕が継ぐことになったが、経時はまだ、一九歳の若さであり、ために先に泰時が義時の後を継いで執権となった場合と同様に、今度も北条氏一族内で後継者争いがあったようである。

 泰時が死ぬ直前に、泰時のすぐ下の弟名越朝時1193〜1245.53歳〕が急に出家したが、これを伝え聞いた公卿の一人平経高1180〜1255.76歳〕は、その日記の『平戸記』の中で、
「(泰時・朝時)兄弟は日頃仲がよくなかったのに急に此の事がおこったが、その理由には不審なところがあり、世間も驚いている」
と記している程で、泰時の死は人々に不安動揺を与えたようである。『吾妻鏡』はこの年の巻を最初から欠いていたように思われるが、これは幕府官撰史書としては、書くのを憚るような深刻な事態があったからではないかと推測されている。経時はともかくもこの事態を無事収拾して、執権の座に着くことができた。

 それから約二年後の寛元二年(1244)四月二十一日、頼経の嫡子頼嗣1239〜56.18歳〕が元服した。執権経時が烏帽子親の役をつとめている。時に頼嗣は年僅かに六歳であった。そして即日京都に向けて急使を遣し、彼の叙位任官ならびに征夷大将軍の彼への宣下を奏請した。この使者は行程六ヵ日という最も火急な使として進発されている。それから七日後の四月二十八日には将軍宣下・叙位任官がなされ、五月五日には宣下状・除書等が鎌倉に届けられた。

 以上のようにこの頼経から頼嗣への将軍譲位の様子を見ると、その年齢といい、宣下奏請の使者の火急ぶりといい、余りにも異例のことが多いようである。頼経はなお二七歳の働き盛りで、病弱などのことはなかったようであり、急に六歳の幼い子を元服させて将軍の職を譲る必要はない筈である。『吾妻鏡』には、
「これは天変により、御譲与のことをにわかに思い立たれた上、五、六両月は御慎に当たるので今月この儀を遂げられた」
と記している。しかしこれは幕府官撰の史書の記すところであり、天変ぐらいのことで譲与が異常なまでに急がれたということは信頼を置き難い。平経高が、
「もっとももって不審、不審」
と日記に書き留めているように、当時の世人の目にもまことに奇怪なことと感ぜられていたようである。

 その理由を明記したものは現在残されてはいないが、将軍頼経の身辺近くに何か重大な異変が起こり、このために頼経は急に将軍職の譲与を余儀なくされたのではなかろうか。なお『吾妻鏡』によれば、頼嗣元服のことは四月三日に正式に定められたという。

 ところで先述の平経高は、すでに同年三月六日、関自二条良実(頼経の兄)1216〜70.55歳〕から将軍頼経のことについて見た夢の話をされたという。その内容は記すことを憚っているため不明であるが、深刻で重大な事柄が含まれていたようである。或いは単なる夢想ではなく、すでにこの頃、頼経の身近に深刻な事態が生じつつあったことが京都へも伝わっていたことを示すもの、と考えてよいのではないだろうか。

 この頼経の征夷大将軍辞職の理由について、執権経時との関係が険悪化し、ために辞職を余儀なくされたとする見方が通説となっている。これについて、頼嗣の元服から征夷大将軍宣下まで、最大の急事として最短の時日をもって取り運ばれたようなあわただしさ、またその後の事態の進展を併せ考えると、全く正しい推測というべきである。


 頼経の出家

 頼経は将軍職を譲った後は、「大殿」と呼ばれ、依然として鎌倉に住んでいた。ところで将軍職辞任の前年の寛元元年1243〕中頃に、彼は再度の上洛を希望し、六波羅の邸の修理を命じていたが、憚り事があるため一時その修理を延期させた。その後間もなく、彼は辞任に追い込まれ、上洛の希望を果すことはできなかった。辞任後の寛元二年1244〕頃、また頼経の上洛計画が再燃し、明年二月をもって上洛することに定められ、準備が進められた。しかし、十二月二十六日の火災で幕府政所も類焼の難にあい、上洛のための調度類をすべて焼いてしまったため、この計画はまたまた頓挫してしまった。

 翌寛元三年(1245)七月五日、頼経は鎌倉の久遠寿量院において出家し、法名を行賀と号した。その理由について『吾妻鏡』には、今年春頃、彗星客星が出現して変異を示し、また病気なども重なったため、ついに出家を決意したとしている。この年は三合の年に当るが、当時の人々にはこの年は大きな災厄の起こる年として恐れられていた。

 公卿の一人平経高1180〜1255.76歳〕も日記『平戸記』の中で、そうした不安の気持ちを各所で書き記している。正月十六日の条には鎌倉で大雪があり、四尺もの積雪を見たとの風聞を記した後で、将軍に事が起こる場合にはその前に必ず大雪が降るとし、また今年起こった正月の雷鳴もまた将軍にとって不祥であると述べでいる。これは三合の厄年であることも一つの理由ではあるが、その奥には幕府内部に将軍・大殿と執権との間の緊張が強まってきているのを、人々が知っていたことによるところが大きいのではなかろうか。その後もこうした不安を感じさせる記事は少なくない。

 三月十五日夜、関東よりの早馬が京都に着いたが、その理由は深く秘密にされて人々は推測がつかなかった。また六月六日にも関東よりの早馬が六波羅に着いたが、その用向きも秘密にされ、世人は皆いぶかしく思っていると記されている。したがって鎌倉では何か重大な事件がひそかに進展していたことがうかがわれる。


 名越光時の陰謀

 執権北条経時1224〜46.23歳〕は五月末頃より健康を損ね、黄疽を患い、一進一退の状態であった。『平戸記』六月十二日の条には、鎌倉より「権武所労大事」のことを伝える使者が入京したことを記しており、経時の病気はかなり重かったようである。

 経時が危篤状態になれば、また前回のような執権の後継者をめぐっての権力争いが起こりやすくなる。頼経の出家の理由についても、執権との対立により出家させられたとして、『吾妻鏡』の記事に疑いを挟もうとする人もある。出家と権力の強化・弱化とは必ずしも直接関係するものではないが、複雑な内情からこうした考えも出てこよう。

 経時の病状はその後快方に向かうことなく、次第に悪化していった。翌寛元四年(1246)三月二十三日、経時はついに執権の職を弟時頼1227〜63.37歳〕に譲り、ーヵ月余後の閏四月一日に死んだ。その後は鎌倉中に種々の風説が飛び交い、近国の御家人等が参集してきて、騒然たる状態となった。

 これは北条氏の一族名越光時生没年未詳が、大殿頼経を担いで新執権時頼を除き、みずから執権になろうとする陰謀によるものであった。しかし経時死後約二ヵ月の間に、時頼はその政争の主導権を握り、鎌倉市中及び周辺における武力優位を確立した。このため五月二十五日、ついに光時は出家に追い込まれ、クーデター計画は未然に抑えられて失敗に終った。

 光時は頼経の近習を勤めており、またこの計画に参画した但馬前司定員、名越時幸(光時の弟)?〜1246〕も同じく近習の者であった。首謀者光時は伊豆に流され、時幸は自害し、定員は召し籠められた。なおこの陰謀には評定衆後藤基綱1181〜1256.76歳〕・藤原為佐・千葉秀胤?〜1247〕、問注所執事三善康持1206〜57.52歳〕らの有力者も加担しており、執権時頼にとっては深刻な事態であった。


 鎌倉追放

 頼経は将軍であった時から飾り物であったが、将軍としての権威は持っており、成年に達すると共にその側近グループができるのは成り行き上必然的なことである。将軍を頼嗣に譲らされても、新将軍は幼少であり、頼経は大殿としてその権威は揺らぐこともなかった。このため幕府内部での権力争いが起これば、このように将軍(大殿)をおしたてて相手に対抗しようとする者が出やすくなる。また成人に達した頼経自身がみずからの意志で権力を志向することも生じてくる。こうなっては頼経を鎌倉に置いておくことすら得宗(北条氏嫡流)にとっては、危険この上ないことになる。

 そこで時頼は、頼経を京都へ送り返して禍根を断つこととした。頼経は六月二十七日まず北条時盛1197〜1277.81歳〕の佐介第に移され、七月十一日京都へ向けて出発させられることになった。鎌倉の主となるべく下ってから二七年後の今、その地位を失い、京都への追放の身となった。七月二十八日京都に着き、六波羅若松殿に入った。この上洛の旅に供奉した中の一人三浦光村1205〜47.43歳〕は鎌倉へ帰るに当って、頼経のもとに祗候し、数刻の間退出せず涙を流していたという。光村もまた二○余年間、頼経の側近に仕えていたもので、その後人々に、
「何とかしてもう一度鎌倉へお入れしたいものだ」
と話していたという。このことからも長年の間に、将軍と側近御家人との間にきわめて親密な関係が生み出されていたことが知られよう。

 京都に帰った頼経は父九条道家〔1193〜1252.60歳〕に会おうとして、八月四日、道家の法性寺第の訪問を企てた。しかし世間の人が見物するのを憚って一旦は夜間を選ぶまでにしながらも、ついに、その計画を中止した。そして八月十二日にやっとその望みを果したが、京都での頼経の生活は衆目を憚らねばならないものであった。

 すでに以前より幕府との関係が疎遠となりつあった父道家も、この事件によってその立場は決定的に悪化し、その邸宅附近には不穏のものがあるとの風聞さえ流れたことがあった。これ以後、九条家は従来のような幕府との緊密な関係を全く失い、その権勢の後退は決定的となった。


 宝治合戦ののち

 三浦氏は北条氏に対抗しうる力を持つ有力御家人であるが、その三浦一族の光村1205〜47.43歳〕が頼経の鎌倉帰還を公然と口にすることは、頼経・名越光時の陰謀への加担と考えられた。頼経の帰京には光村だけでなく、三浦氏全体が不賛成でもあった。

 そこで執権時頼は三浦氏を討つこととし、宝治元年(1247)六月五日、戦闘を挑んでこれを滅ぼした。当時この戦を「宝治合戦」と呼んだ。これによって幕府創業以来の最強の豪族を滅ぼすことができ、北条氏の幕府内での地位は完全に安定をうることができた。

 この合戦に敗れて三浦泰村1204〜47.44歳〕・光村等が鎌倉内の法華堂に逃れ入った時の会話を聞いた法華堂承仕法師の話によると、光村は次のようなことを語っていたという。すなわち光村は、
「頼経の時代に九条道家は三浦氏を誘って事を挙げようとしたが、兄泰村が逡巡したために時頼を討つことができず、今日の敗北となったことは後悔しても余りあることだ」
といって自殺した。このように九条道家自身が先の陰謀に加担したことが明らかとなれば、九条家一族の立場はまことに悪くなる。このためかえって頼経ならびにその親縁者たちは執権に対する不満を増し、権威の回復を願うようになった。

 しかし幕府側も頼経ならびに側近に対して警戒の目を放さなかった。ところが建長三年(1251)十二月二十六日、了行法師・矢作左衛門尉(千葉氏一族)・長久連等の謀叛計画が発覚し、彼等は捕えられて或いは斬られ、或いは配流された。この陰謀の黒幕に頼経ら九条家一族がいたため、彼等は勅勘を蒙り、また頼経の子将軍頼嗣は廃されて父と同様に京都へ送り返されることになった。

 建長四年(1252)三月十八日宗尊親王1242〜74.33歳〕が将軍宣下をうけ、二代にわたる藤氏将軍は終りを告げた。

 以後、頼経は失意・不遇の生涯を送ることになったが、頼嗣帰京後四年余を経た康元元年(1256)八月十一日、三九歳をもって世を去った。なお子の頼嗣も父の直ぐ後を追うかのように、同年九月二十日に没しているのも奇しきことである。



☆「公経ならびにその子孫らはますます勢力を増大していき、以後の鎌倉時代政治史上において西園寺氏は極めて高い役割を占めている」という考え方が支配的となったのは龍粛氏「後嵯峨院の素意と関東申次」によるところが大きいが、近時、こうした「西園寺中心史観」への批判も有力である。
☆追放される頼経が「まず北条時盛の佐介第に移され」とあるが、これが将軍追放の際の奇妙な先例となって、宗尊親王・惟康親王以下も、やはり最初に佐介第に移されている。『とはずがたり』に描かれた惟康親王追放の様子はこちら




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