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田中隆裕 「『増鏡』と洞院公賢−作者問題の再検討−」(前)
(『二松学舎大学人文論叢』第27輯.1984年.p23以下)






田中隆裕氏の略歴( 上掲書による)
二松学舎大学修士課程二年
※後日補充します。



※なるべく早く「私の立場からの補足」を付します。




 はじめに

 後鳥羽天皇の降誕から後醍醐天皇の京都還幸までの天皇を中心とした一五三年間の歴史を老尼公が語る『増鏡』の作者については、古来多くの説が提出されてきたが、今日もっとも有力な候補者は二条良基である。和田英松博士の投ぜられた1この説は、岡一男2・石田吉貞3・木藤才蔵諸博士4によって強く打ち出され、多くの先学の支持を得ている。その一方で宮内三二郎氏の兼好法師説5や小沢良衛氏による中村直勝博士四条隆資説の再評価6など全く別の作者も提唱されている。

 何れも作者としての確証はなく、良基説も新に提出された兼好説もそれぞれの作品との文章の類似に基づいた立論であり、ただ四条隆資説などは別の視点−資料利用の立場から説いている。

 ※園門下が競って李王等の詩文に似せて書くことに専念したのを思うと、文章の類似は果して確固たる決め手になるのか甚だ疑問を感ずる。
※「援」のてへんをごんべんに換え、草かんむりを乗せた字(読みはケン)

 一資料の利用だけの視点も不安定である。 『増鏡』以外に作者を解明する鍵がないのならば、もっと作品自身に問い掛ける必要があるのではないか。

 本稿は作者が何に興味を持ち描いているかかく描かるべき理由は何か、その対象を分析し、獲麟の元弘三年を合む後醍醐朝に作者が既に生存し、その間の記載には何らかの反映があると考える立場から作者問題を考察していくものである。

 まず『増鏡』中に点在する大臣を取り上げたい。それも人生の帰着点である薨去を中心に取り上げる。作者が臣下であり、上流貴族出身とされているから、直接の身内をそこに指摘できるかもしれないと考える。

 次に細かな記事であるが、華美を尽した賀茂の祭なのに公清という少年にスポットをあてて描かれている理由を探る。作者が関心を寄せる一人物と考えられるからである。

 視点を大きくして、特に作者生存と考えられる後醍醐朝の御会を分析し、何らかの作者を識る手掛りを得たい。また南朝の方でよくいわない邦良親王を描く筆致や後醍醐天皇隠岐遷幸の詳細さなどかなりの分量を占める事柄と、かく描くべき作者の立場を探っていく。

 以上の各方面から導き出された作者と好意的に描かれている歌人御子左為定や資料として使われている『とはずがたり』の入手などの問題との関連を考え合せ、最後に史書編述の事実にふれて作者として洞院公賢なる人物を提唱したいと思う。

 『増鏡』のテキストは『日本古典文学大系』により、( )内に頁のみを記した。


 一 大臣薨去の扱い

 薨去は人生の帰着点であり、筆記者の立場から評価が下されたりする、公家日記にはよく見受けられることである。『増鏡』は天皇を中心とする編年体で、臣下の動静までは適宜に配されているにすぎない。その中で叙述された、しかも薨去を含む、よく顔を出す臣下は作者の関心を寄せる人物であると考えられ、薨去に及ぶ筆勢には自ずと作者の評価の言が付されているのではなかろうか。作者の条件に高位の貴族であることが先学によって数えられている7。ならばその高位の貴族即ち大臣クラスの薨去の扱いはどうなっているのであろうか。

 大臣以上の薨去は七人取り上げられている。歴代大臣の中から七人を抽出している、これは作者の関心度により、また血縁関係にも当然のごとく関わるものと考えられる。つまり薨去に示された作者の言が、その人物との関係を示唆すると考えるのである。

 そこでその七人についてみていくが、その内薨去そのものが異常で、好奇心からの執筆ともとれる二人、源実朝と近衛家平とは除き、残りの五人について順に分析したい。

@九条摂政教実の場合
 藻璧門院・廃帝・後堀河院など崩御が続き、天変地異も頻繁、そんな不穏な時勢の中、嘉禎と改元された三月の末から教実は病み出し、やがて薨去となる。

三月の末つかたより、洞院摂政殿教実重くわづらひ給。故院の御位のほどより、大殿、御譲りにて、関白ときこえしが、御門幼くおはしませば、この比は摂政殿と申なるべし。かたちも心ばへもめでたくおはしつるに、いとあえなく失せ給ぬれば、大殿の御歎きたとへんかたなし。(中略)摂政殿にも、大殿たちかへり成給ぬ。かくて三度政事をおさめ給ぬるにや。北政所の御父は、公経の大臣なれば、かの殿とひとつにて、世は弥御心のまゝなるべし。(289頁)

 後堀河幼帝の摂政、容姿学才ともに勝れた教実が薨去したことを「いとあえなく」と残念気に記している。が有能な人材の死を惜しむことはさることながら、これによって父道家が三度摂政となり、その夫人の父君西園寺公経とともに政治参画の実権を維持したことを結局は述べたかったのである。道家一族の背景には「北の方は公経の大臣の御女なれば、まして世の重くなびき奉るさま、やんごとなし。」(285頁)と別のところにもみえる通り、夫人の実家西園寺家への言及が必ずなされ、九条家の繁栄も西園寺家の一端といった扱いであると考えられ、教実の記述の真意もそこにあったものと考えられる。教実という人物に関心があるのならばもっと単独の活躍の場を作品中に設けたであろう。西園寺家は多くの先学が認める、もっとも好意的に描かれている家柄なのである。

A西園寺太政大臣公相の場合
 さて好意的であるべき西園寺三代目公相は複雑である。本院・新院の御一家揃った御会の席上公相は酔中の愚痴を零し、

「いとあやなく」薨じた公相の真相は、所謂廿巻本に詳述されており、内情暴露といった内容である。そこに記された公相の評も

その薨去を真実悼む者もいなかったという。その上髑髏の盗難という奇怪な事件まで記すような死屍に鞭打つこの扱いは、作者が当の西園寺家そのものには好意を寄せる者でない一証となろう。公相の薨去が叔父の洞院実雄との皇子降誕争いの結果としての叙述である点を考え合せると、公相と対抗する洞院家の公相不快とする側と共通したものを作者に見出せようか。

B洞院大臣実雄の場合
 後嵯峨院崩御に続く寵臣公雄の出家、早世する公宗や皇后宮佶子など子供達の連続した精神的打撃によって父実雄は薨去する。

心労は致死と詠歎している。この実雄の薨去をめぐっては佐藤敏彦氏が取り上げ、叙述意図を考察し、西園寺家の分家洞院家への作者の関心をみておられる8。実雄は「第七北野の雪」「第八あすか川」と登場回数が多く、重要な話題のひとつの焦点となっており、作者の関心が高い人物であることがわかる。

C鷹司大殿冬平の場合
 故邦良親王の一周忌が営まれた頃

鷹司の大殿も失せ給ぬ。このごろの世には、いと重くやむごとなくものし給へるに、いとあたらし。(437頁)

 政界の重鎮として栄華の中にあった冬平の薨去を残念がっている。が冬平は他に二箇所(花園天皇御即位と御元服の記事)名前のみ登場する程度で、話題の中心になって語られていない。作者の冬平への関心はこの辺にとどまり、もっと描くべき必要を感じなかった人物なのである。

D洞院左大臣実泰の場合
 再び洞院家で、B実雄の嫡孫である。後醍醐天皇の中宮嬉子の空妊娠騒ぎを前例を交えて叙述したあとにポンと挿入的に

そのころ、左の大臣実泰も失せ給ぬ。世の中いみじく歎きあへり。(440頁)

とある。このように悲歎の情を表したのは今までなく、挿入的な記述であることからも薨去を述べるのにかなり意識的であったことがわかる。実泰は「第十三秋のみ山」以降数多たび登場しており、作者の関心の高さが伺える。挿入的記述・哀悼表明、それに後醍醐宮廷の一員であったことを考慮すると、作者との付き合いを想定してもおかしくなく、多分に作者の周辺人(かなり親しい)であると考えられる。

 以上五人の大臣の薨去に要点を置いてみたが、作者説の中で有力な二条良基と彼ら達との関係はどうなのであろうか。略図すれば次のようである。

  (後掲)

 冬平を除いて、他の四人はともに西園寺とその縁者で占められている。公相は勿論西園寺嫡流。教実も文中に公経女の子であることを説明している。また実雄・実泰は西園寺の分家洞院家である。しかも単に縁者というばかりでなく、考察してきたように洞院家の二人には取分け好意的筆致をみせていたのである。一体『増鏡』の筆致は批判的視点から諸家の難を吐くことが多いが、洞院家に限ってそれが殆どみられないようである。

 さて二条良基の右の図中の位置は、母親が西園寺の出身、嫡家実兼の庶子公顕の女にあたる9。公顕が今出河を号した分家であることを考慮すると良基と西園寺家とは直接結び付かないようである。ましてその遠い分家の洞院家に彼が関心を持つ必然性は何辺にあったのであろうか。特別好意を注ぐべき位置にいないといえよう。ならば政治上なのか。作者が率直に哀悼した実泰は良基八歳の時薨去しているから、政治上とは考えられない。

 この実泰の子に古来珍重する名記『園太暦』の著者公賢がいる。


二 祭の使い徳大寺公清

 次に取り上げるものは、元亨四年の賀茂祭の叙述である。特に公清という人物を中心に描いていることに注目したい。作者が生存していた同時代人達への筆遣いは、作者の解明に何らかの手掛りを与えると考えるからである。文面は左の如くである。

あくる日は祭なれば、神館のかた、うち続き花やかにおもしろし。今日の使ひは、徳大寺中将公清也。春宮の大夫公賢の聟にておはすればにや、左大臣の大炊御門富小路の御家よりぞ出でたゝれける。人がらと、よろづめでたく見ゆ。萌黄の下襲、御家の紋のもかうを色/\に織りたりしにや。近比の使ひには似ず、いみじくきらめきたまへり。中宮の使ひは亮藤房なり。このごろ、時にあひたる物なれば、いときよげに劣らぬさま也。(424〜425頁)

 この年の祭の情況を知る記録は諸注のあげる『花園院宸記』以外にないようである。それによると「上下着綾羅錦繍、忘倹素事奢侈」であったという。絢爛豪華な祭であったことを知るが、敢えて徳大寺公清の出立ちに代表させて描いている。そこに表された公清は「よろづめでたく見」え「いみじくきらめきたまへり」と絶讃し、中宮使い万里小路藤房のそっけない「このごろ、時にあいたる物なれば」と難を付けた口吻と対照的である。

 この公清とは如何なる人物なのであろうか。『公卿補任』によると彼は当時十二歳の少年で、父実孝はこの祭より二年前元亨二年正月一七日に没している。そのためこの頃の彼は、文中にある通り洞院公賢の聟としての立場が大きく作用していたと考えられる。

 公清と二条良基との関係は二条家祖良実の女が父実孝の母にあたっている10。が『尊卑分脈』に「母内大臣公親公女、実者関白良実公女」とあり、披露できない内情があるらしく、ここをもって良基と結び付けるのは問題であろう。良基は公清より八歳年少の当時僅に四歳の幼児にすぎないことから、この祭の記載は多分に記録などの間接的経験に基づく筈で、華美なこの祭を描くにあたって、殊更に洞院家の聟とまで表明して公清の晴れ姿を強調し、讃辞をもって描くべき必然性はどこにあるのであろうか。やはり良基には不自然な、洞院家偏重の作者の視点を考えざるをえない。


三 後醍醐朝の御会

 今までの考察対象は個別の人物であったが、次は別の角度、作者生存の可能性のある後醍醐朝の中で御会の記述を取り上げたい。

 『増鏡』は後醍醐天皇の京都還幸の元弘三年におわっている。諸写本の奥書の内一番古いものが永和二年であるからこの間四三年間に作者は描きそして没したとも考えられる。翻ってみるならば、終りの部分は作者が生存した直接経験に属するものということも可能である。著述資料駆使のため作者の条件のひとつに高位の貴族が数えられる。『公卿補任』のこの元弘三年の面々の中に目指す作者がいると想定しても誤りではなかろう。因に二条良基の周辺は、彼自身まだ一四歳権中納言。父道平は左大臣四六歳(二年後建武二年薨)。西園寺家の当主は公宗権大納言二三歳。母の父公顕は既に故人(元応三年薨)、子息実顕はこの年に薨じている。今まで度々言及してきた洞院家の当主は公賢内大臣四三歳で健在である。後醍醐朝に作者が生きているならば、同朝の記述は直接体駄を反映させていると充分に考えられよう。逆にその辺を分析することによって作者解明へと接近できるのではなかろうか。

 御会は王朝文化の調べを秦で、『増鏡』の雰囲気のひとつの基調をなしている大事な記事群である。またその叙述には作者の直接体験を反映させやすい遊びの筆遣いもあろう。そこで早く平田俊春氏が指摘されながらも具体的人物をお挙げにならなかった11北山御覧の折の御会の問題の記載を中心に考察していきたい。

 これは元徳二年二月六日の北山行幸の御遊の叙述中にある語り手の尼公の直接の言葉として書かれているもので、尼公は幼童から聞いたと態々表明しており、他の箇所にみられない叙述である。

 『北山舞御覧記』を資料にしたためのカモフラージュという西沢正二氏の御説があるが12、そうすべき必然的理由に疑問を感じる。頃は獲鱗の元弘三年から僅か三年前にすぎない。作者が生存していたとしてもおかしくない頃であり、態々かく記していることに何か含みがあるとみてもよさそうである。平田氏はこの御会に欠席したものが即ち作者であるとされながらも論を閉じられたが、試みに、この御会にのみ欠席を表明していることは他の記載の御会には出席している可能性が高いのではないか。だとすれば他の御会と比較検討することによって何らかの結果−尼公の口を借りた作者自身が判明するかと考えられる。

 後醍醐朝に行われ記載されている御会は次の六点である。

@安福殿釣殿観月御会(416〜418頁)
A常盤井殿朝覲行幸の折の御会(418〜420頁)
B中殿作文会(421頁)
C中殿御会(440〜441頁)
D女踏歌節会(436〜437頁)
E北山舞御覧の折の御会(442〜444頁)

 今問題とした御会はEにあたる。この内Cが他の叙述と性格を異にすると考えられるので除き(すぐ後の世良親王薨去と傅北畠親房出家の前奏的記述になっている)、逆に列席者を詳述するためDを敢えて加えた。

 右の五点を取り上げるが、その前に果して作者の臨席体験を伺わせる御会があろうか。Bを上げたい。この作文会には作者の見識を伺わせるに足る叙述がある。

時に臨みて、にはかに難き題をたまはせて、うち/\詩を作らせ歌を詠ませて、賢く愚かなりと御覧じわくに、いとからい事多く、心ゆるいなき世なり。(421頁)

 臣下の賢愚を試みる当座の御会の感想で、「いとからい事多く、心ゆるいなき世なり」という口吻は、尼公のものと思えず、学才に自信のある作者の言そのものと考えられる。二条良基は当時四歳の幼児で、後年執筆の折にかく述べるであろうか。作者の臨席した体験とみても時期的に矛盾はしないのである。

 また同日に御製を左大臣である洞院実泰が朗詠したことを

披講の終はる程に、短か夜はほの/゛\と明けはてぬ。御製を左の大臣返々誦して、うるはしく朗詠したまふ。声いとうつくし。折ふし郭公の一声なのりすてて過ぎたるは、いみじく艶也。

と叙述している。実泰が郢曲の名人であったことは『御遊抄』の同日記事で確認できるが13、それを郭公が恰も唱和するごとく一声啼いたといかにも稀有なる朗詠者として優美に表現されている(この描写も洞院家に対する好意を伺せよう)。これらは単に文飾でなく、披講が黎明に及んだ時のハプニングで、これも臨席の感慨を記したものであると考えられる。

 さて「その日のこと見たまへねば」という尼公の口を借りた作者を探ることにしたい。欠席を表明したことは異例であるため列席者を中心にみていきたいと思う。前掲五点の御会の叙述に明記された出席者を家別に分類し、表示したものが別表の「後醍醐朝御会出席者一覧」である。

  (後掲)

 問題の元徳三年の北山舞御覧の分は五段め。この会に限って欠席したと表明していることから他の会には出席していたと考えられる。この条件に当て嵌る人物がいる。表の右端の洞院家の公賢である。彼の名だけが他の四会にみえて、問題の会にはみえない。その上「おさなきわらはべ」から聞いたとある通り問題の会には公賢の一四歳年下の弟公泰の名がみえる。恐らくこの弟から聞いたと想定しても自然であろう。他の家をみても右に指摘した条件に当て嵌るものはいない。

 二条良基はこの元徳三年一二歳で、父の道平が四四歳。良基が後年この御会を描くとして出席していた道平から話を聞いていたと考えられるが、態々「おさなきわらはべ」から聞いたと書くであろうか。甚だ不自然な記述になってしまう。今みた洞院家を想定した方が妥当であろう。しかも当時の当主公賢という具体的人物を描出し得た。本稿で度々触れた実泰は彼の父親である。


四 皇太子邦良親王

 御会という個々に記述されたものを取り上げたが、作者問題の解明の対象としてはまだ小範囲なので、特に力をこめて描かれ、かなりの分量を占める皇太子邦良親王と後醍醐天皇隠岐遷幸との二点を取り上げたい。

 まず皇太子邦良親王の記事に入りたいが、この皇太子冊立は所謂「文保御和談」によるもので、この邦良流と持明院統とで交互に皇位を継承する定めのため甥とはいえ後醍醐天皇にとっては面白くない存在であり、事実不和であった。北畠親房の『神皇正統記』にみえる邦良親王は「鶴膝」を病む虚弱な邪魔者といった口吻で描かれている14。このように政治的にも肉体的にも暗い影のある邦良親王を『増鏡』ではどのように描いているのであろうか。微妙な位置にいたこの親王をどう描くか、作者の一側面を知る手掛りになると考える。

 邦良親王を叙述した箇所は全部で四点ある。

@皇太子に立った時の、後醍醐天皇への御挨拶の贈答歌の記事(413頁)
A致死の病床に臥された祖父後宇多院を御見舞する記事(427〜428頁)
B御子左為藤の死を悼み、その父為世と慰籍の和歌の贈答の記事(429〜430頁)
C邦良親王の薨去と慕い歎く人々(432〜434頁)

 @とAからは親王の優しい心遣いの文雅な面を描き、Bでは御見舞に行啓された孫邦良親王と祖父後宇多院の濃やかな交流、

その夜はとまり給へるも知ろしめさで、夜うち深けて、すこしおどろかせ給て、「春宮はいつ返給ぬるぞ」とのたまふに、うち声づくりて、近く参り給へれば、「いまだおはしましけるな」とて、いとらうたしと思されたる御気色あはれ也。(428頁)

 子の後醍醐天皇と孫の邦良親王との軋轢を心配なさり、今死の床にありながらなお孫邦良を不憫がられるさまを極めて印象的に描いている。またDの邦良薨去の時の乳母対の君の取り乱し歎く描写も印象深い。

限りと見え給御顔にさしよりて、「かく残りなき身を御覧じ捨てては、えおはしましやらじ。いま一たび、御声なりとも聞かせさせ給て、いづ方へも御供に率ておはしましてよ」と、声を惜しまず泣き入り給へるさま、いとあはれ也。(432頁)

 慟哭する乳母の気持がひし/\と伝わってくる叙述である。このあと亡き邦良親王を追慕して多数の出家者が出たことを述べて、それを評して作者は

やむごとなき君の御時も、かくばかりの事はいとありがたきを、仏などの現はれ給て、ことさらに迷ひふかき衆生を導きたまふかとまで見えたり。(434頁)

 恰も衆生済度の仏の化身とまで美め讃え、最大級の迫悼を綴っている。かれといい、これといい、邦良親王について語る筆致は印象的であり、作者の強い同情を感じさせる。これほどまで愛情溢れた扱いは『増鏡』中他に例がないようである。

 二条良基を作者として考えた場合邦良親王にこれだけの愛情を注いで描くであろうか。後醍醐天皇が隠岐から還幸された時、光厳天皇の許皇太子であった邦良の子康仁も廃された後、この邦良の流れは南朝でもまして北朝でもない全く皇位継承から除外されてしまう不幸な運命を辿ってしまう。邦良が薨去した時良基はまだ七歳の少年であるから記録などの間接材料によって描いたと考えられる。 それを駆使してまで描かねばならぬと良基は邦良親王に愛着を持っていたか甚だ疑問である。除外された過去の皇統を懐古すべき要因が俗物の一面を持つ良基のどこにあろうか。

 また宮廷哀話として邦良の薨去が語られていたのであろうか。これも疑問である。勅撰集や家集などには邦良哀悼の和歌は載っていない。『史料綜覧』に挙げる没日の書籍を探っても薨去の事実を記しているだけである。

 結局邦良の薨去の悲劇は一種の派閥間の問題にすぎなかったのではないか。後宇多院が即位の暁には埋もれた逸材を登庸するようにと邦良親王に諭し、

又この比すこし世に恨みあるやうなる人/゛\の、わが御心にはあはれと思さるゝなどあまたあるをぞ、御心のまゝなる世にもなりなん時は、かならず御用意あるべくなど、きこえたまひける。(428頁)

『増鏡』は次の人物を推測している。

中御門の大納言経継・六条の中納言有忠・右衛門督教定・左衛門佐俊顕などきこえし人/゛\の事にやありけん。(右同頁)

 教定を除く三名は邦良薨去にともない出家した面々の中に見出せる。有忠などは鎌倉へ邦良即位の早期実現のため交渉下向していた最中の訃報であったと劇的に描いている(433頁)。彼は出家の時「我世つきぬる今日のくれかな」と詠じている(434頁)。彼ら達は哀悼はさることながら多分に前途に失望して出家したのであろう。「大方、我身を限りはてぬると思ふ人のみ多かり。」(433頁)とか「大かたの世にもさし放たれて、身をようなき物に思ひ捨つるたぐひなど」(434頁)が多数出たと邦良薨去の衝撃の大きさを記しているが、その背景には邦良一派の政治的崩解、出世の機会を逸した者達の悲劇を暗示していると考えられる。大覚寺統では後継の皇太子を決めかねているうちに即座に持明院統から量仁親王をその席に坐らせてしまう(435〜436頁)。持明院統の方は「文保御和談」に拠るとはいえ、邦良側にあるべき大覚寺統が、邦良の子達を無視して後継を後醍醐天皇の諸親王の中から撰ぼうとしたのである。この渦中にあって邦良親王を真に悲しむ者が何辺にいたか、自明であろう。

 邦良親王に対する好意の厚い作者は、邦良一派に近い位置にいて平生親王をよく知っていたものと考えられる。飽くまでも近いのであって派閥の一員であったとは考えられない。邦良薨去による凋落を味わった者が描くならば、恐らく邦良親王を基調とした作品になっていた筈で、『増鏡』とは大分掛け離れたものになろう。一歩離れた立場から平生邦良親王を見守る位置にいた者が相応しいと考えられる。

 邦良の皇太子期間はその死をもって幕を閉じる九年の間である。その頃の邦良親王の周辺を『東宮坊官補任』でみたい。高官であり派閥からくる偏頗な見識を持たない作者条件に叶う、皇太子邦良を見守る役職の名簿である。


  邦良親王 文保二年三月九日立太子十九歳
         正中三年三月廿日薨(廿七歳)
左大臣従一位藤経平  文保二三九兼
同年六廿五薨
大納言従一位藤師信 同二八二兼
元応三四廿三薨
右大臣正二位藤房実 元亨二四五兼
同三九廿八辞
内大臣正二位藤冬教 同三九廿八
正中三三廿七止之
学士 少納言従四位下管在嗣 元応二四十二任
大夫 権中納言正二位藤公賢 文保二三九兼
正中三三廿七止之
権大夫 権大納言正二位源具親 文保二三九兼
同年八十八解任
参議正三位源有忠 同年十六兼
同三壬七五辞
権大納言正二位源具親 同三壬七五復任
正中三三廿七止之
従四位上藤経宣 文保二三九任
元応元八五辞
正四位下平範高 同二十廿二任
元亨二壬五廿三辞
権亮 左近衛権中将従四位上藤経定(ママ) 文保二三九任
大進 左衛門権佐従五位上藤経顕(ママ) 文保二三九兼
元応元九廿一辞
右衛門権佐正五位下藤経季 文保二十廿二任元権大進
元亨二八辞
伊勢守正五位下藤季房 元応元八廿一任元権大進
元亨二八辞
権大進 正五位下藤季房 文保二三廿六任
元応元八廿一任大進
右兵衛佐正五位下藤経季 文保二十廿二任
元亨二八一任大進
正五位下藤光顕 元応六十七任
               (宮内庁書陵部蔵本による)

 皇太子の補佐である傅は四度死或いは昇進によって代っている。最後の冬教は二二歳であった。東宮坊の実質的執務長官である大夫は九年間同一人が勤めている。権中納言正二位藤公賢。『増鏡』中好意的に叙述されている洞院家の、最前も考察抽出した公賢その人である。任期中の年齢も二八〜三六歳という若かりし折の重職は、それ自体印象深いものであったろう。権大夫は一度解任されるが源具親が勤めている。解任中任ぜられた有忠は鎌倉下向したそれ。具親の解任の原因は大納言典侍との出奔事件で、このことは『増鏡』にみえている(415頁)。

 作者としての候補は右の冬教・公賢・具親三人に留まろう。その中で邦良に実際親近する立場で傅は他二人に及ばないと考えられるが、何度も代っての役職よりも、最後まで一心に勤めた者の方が遙かに邦良を見る限は温かい筈である。具親では若輩の時の失体を態々記載するであろうか。やはり公賢が薄幸の親王の側に侍し、後年語るに相応しいと考えられる。良基の介在の余地のない『増鏡』記事と人間関係との密接さを公賢が充分に持っているということは作者自身といえるのてはなかろうか。

(以下次号)




1 改造社日本文学講座「増鏡の研究」
2 日本古典全書『増鏡』解説
3 「増鏡作者論」『国語と国文学』昭和28年9月
4 「増鏡の作者上(下)」『国語と国文学』昭和37年10〜11月
5 『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』明治書院刊
6 「増鏡をめぐる諸問題」『文学研究』昭和52年6月
7 松村博司博士『歴史物記改訂版」259頁参照
8 「『増鏡』洞院実雄薨去の記事について」日大文理学部三島研究年報27
9 伊藤敬氏『新北朝の人と文学』三弥井書店刊 81頁に公顕女達の御考祭がある。
10注9前掲書78頁に良実の子女をめぐる考察から実孝母も御取り上げである。
11「増鏡の成立−舞御覧記との関係について」『吉野時代の研究』所収
12『増鏡研究序説』桜楓社刊143頁
13「今度文人之中、左府之外無郢曲人之故也」『続群書類従』第19輯上
14『日本古典文学大系』171頁
本稿は昭和58年和歌文学会五月例会の発表に基づく。略儀乍ら諸先生方に感謝申し上げます。



         近衛
       ┌基実──○──家実───────┬──
       │                         │ 鷹司
     ─┤ 九条                     └─兼平─○─冬平
       └兼実──○──道家────┬
                           │二条
                           └○──○──道平
                    教実                
                                       
           ┌─────女                   ─良基
     西園寺  │                            
     公経──┼─実氏─公相─○─┬─公衡       
           │              │ 今出河        
           │              └─公顕─────女
           │ 洞院
           └─実雄─○─実泰─┬─公賢
                            │
                            ├─公敏
                            │
                            └─公泰


後醍醐天皇御会出席者一覧(家名は『公卿補任』に基づく。但四姓で示した場合もある。)

元亨元年 元亨二年 元亨三年 嘉暦二年 元徳三年
@安福殿釣殿観月御会 A常盤井殿朝覲行幸の折の御会 B中殿作文会 D女踏歌節会 E北山舞御覧の折の御会
洞院公賢
   公敏
御子左為世
    為藤
小倉実教
   季雄
花山院師賢
富小路公修
三条実任
平惟継
四条隆資
丹波忠守
   忠定
   為冬
洞院実泰
   公賢
   公敏
   公泰
御子左為藤
    為定
三条実任
   公明
吉田冬方
   定房
一条内経
久我通雄
今出川兼季
鷹司冬教
西園寺実衡
堀川具親
土御門顕実
花山院経定
中御門冬定
中院光忠
日野資朝
大宮季衡
洞院実泰
   公賢
   公泰
西園寺実衡
九条房実
北畠親房
大炊御門氏忠
日野俊基
藤原嗣家
中院光忠
洞院公賢
   公泰
近衛経忠
   基嗣
三条実任
   実忠
土御門顕実
    親賢
鷹司冬平
九条光経
万里小路藤房
御子左為定
大炊御門冬信
平惟継
源国資
洞院公泰
北畠具行
   顕家
今出川兼季
一条兼房
二条道平
三条公明
御子左為定
大炊御門冬信
中御門冬定
室町公春
園基成
二条資親



※後半はこちら


☆西園寺家・洞院家系図はこちら

☆今谷明氏はこの田中隆裕氏の論文を極めて高く評価され、自身も『増鏡』の作者を洞院公賢と考えておられる。(「『増鏡』の作者論」



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