更新12.7/12 up12.7/10

| 田中隆裕氏の略歴( 上掲書による) |
| 二松学舎大学修士課程二年 ※後日補充します。 |
| ※なるべく早く「私の立場からの補足」を付します。 |
はじめに 後鳥羽天皇の降誕から後醍醐天皇の京都還幸までの天皇を中心とした一五三年間の歴史を老尼公が語る『増鏡』の作者については、古来多くの説が提出されてきたが、今日もっとも有力な候補者は二条良基である。和田英松博士の投ぜられた1この説は、岡一男2・石田吉貞3・木藤才蔵諸博士4によって強く打ち出され、多くの先学の支持を得ている。その一方で宮内三二郎氏の兼好法師説5や小沢良衛氏による中村直勝博士四条隆資説の再評価6など全く別の作者も提唱されている。 何れも作者としての確証はなく、良基説も新に提出された兼好説もそれぞれの作品との文章の類似に基づいた立論であり、ただ四条隆資説などは別の視点−資料利用の立場から説いている。 ※園門下が競って李王等の詩文に似せて書くことに専念したのを思うと、文章の類似は果して確固たる決め手になるのか甚だ疑問を感ずる。 ※「援」のてへんをごんべんに換え、草かんむりを乗せた字(読みはケン) 一資料の利用だけの視点も不安定である。 『増鏡』以外に作者を解明する鍵がないのならば、もっと作品自身に問い掛ける必要があるのではないか。 本稿は作者が何に興味を持ち描いているかかく描かるべき理由は何か、その対象を分析し、獲麟の元弘三年を合む後醍醐朝に作者が既に生存し、その間の記載には何らかの反映があると考える立場から作者問題を考察していくものである。 まず『増鏡』中に点在する大臣を取り上げたい。それも人生の帰着点である薨去を中心に取り上げる。作者が臣下であり、上流貴族出身とされているから、直接の身内をそこに指摘できるかもしれないと考える。 次に細かな記事であるが、華美を尽した賀茂の祭なのに公清という少年にスポットをあてて描かれている理由を探る。作者が関心を寄せる一人物と考えられるからである。 視点を大きくして、特に作者生存と考えられる後醍醐朝の御会を分析し、何らかの作者を識る手掛りを得たい。また南朝の方でよくいわない邦良親王を描く筆致や後醍醐天皇隠岐遷幸の詳細さなどかなりの分量を占める事柄と、かく描くべき作者の立場を探っていく。 以上の各方面から導き出された作者と好意的に描かれている歌人御子左為定や資料として使われている『とはずがたり』の入手などの問題との関連を考え合せ、最後に史書編述の事実にふれて作者として洞院公賢なる人物を提唱したいと思う。 『増鏡』のテキストは『日本古典文学大系』により、( )内に頁のみを記した。 一 大臣薨去の扱い 薨去は人生の帰着点であり、筆記者の立場から評価が下されたりする、公家日記にはよく見受けられることである。『増鏡』は天皇を中心とする編年体で、臣下の動静までは適宜に配されているにすぎない。その中で叙述された、しかも薨去を含む、よく顔を出す臣下は作者の関心を寄せる人物であると考えられ、薨去に及ぶ筆勢には自ずと作者の評価の言が付されているのではなかろうか。作者の条件に高位の貴族であることが先学によって数えられている7。ならばその高位の貴族即ち大臣クラスの薨去の扱いはどうなっているのであろうか。 大臣以上の薨去は七人取り上げられている。歴代大臣の中から七人を抽出している、これは作者の関心度により、また血縁関係にも当然のごとく関わるものと考えられる。つまり薨去に示された作者の言が、その人物との関係を示唆すると考えるのである。 そこでその七人についてみていくが、その内薨去そのものが異常で、好奇心からの執筆ともとれる二人、源実朝と近衛家平とは除き、残りの五人について順に分析したい。 @九条摂政教実の場合 藻璧門院・廃帝・後堀河院など崩御が続き、天変地異も頻繁、そんな不穏な時勢の中、嘉禎と改元された三月の末から教実は病み出し、やがて薨去となる。
A西園寺太政大臣公相の場合 さて好意的であるべき西園寺三代目公相は複雑である。本院・新院の御一家揃った御会の席上公相は酔中の愚痴を零し、 「いとあやなく」薨じた公相の真相は、所謂廿巻本に詳述されており、内情暴露といった内容である。そこに記された公相の評も
B洞院大臣実雄の場合 後嵯峨院崩御に続く寵臣公雄の出家、早世する公宗や皇后宮佶子など子供達の連続した精神的打撃によって父実雄は薨去する。 心労は致死と詠歎している。この実雄の薨去をめぐっては佐藤敏彦氏が取り上げ、叙述意図を考察し、西園寺家の分家洞院家への作者の関心をみておられる8。実雄は「第七北野の雪」「第八あすか川」と登場回数が多く、重要な話題のひとつの焦点となっており、作者の関心が高い人物であることがわかる。 C鷹司大殿冬平の場合 故邦良親王の一周忌が営まれた頃
D洞院左大臣実泰の場合 再び洞院家で、B実雄の嫡孫である。後醍醐天皇の中宮嬉子の空妊娠騒ぎを前例を交えて叙述したあとにポンと挿入的に
以上五人の大臣の薨去に要点を置いてみたが、作者説の中で有力な二条良基と彼ら達との関係はどうなのであろうか。略図すれば次のようである。 (後掲) 冬平を除いて、他の四人はともに西園寺とその縁者で占められている。公相は勿論西園寺嫡流。教実も文中に公経女の子であることを説明している。また実雄・実泰は西園寺の分家洞院家である。しかも単に縁者というばかりでなく、考察してきたように洞院家の二人には取分け好意的筆致をみせていたのである。一体『増鏡』の筆致は批判的視点から諸家の難を吐くことが多いが、洞院家に限ってそれが殆どみられないようである。 さて二条良基の右の図中の位置は、母親が西園寺の出身、嫡家実兼の庶子公顕の女にあたる9。公顕が今出河を号した分家であることを考慮すると良基と西園寺家とは直接結び付かないようである。ましてその遠い分家の洞院家に彼が関心を持つ必然性は何辺にあったのであろうか。特別好意を注ぐべき位置にいないといえよう。ならば政治上なのか。作者が率直に哀悼した実泰は良基八歳の時薨去しているから、政治上とは考えられない。 この実泰の子に古来珍重する名記『園太暦』の著者公賢がいる。 二 祭の使い徳大寺公清 次に取り上げるものは、元亨四年の賀茂祭の叙述である。特に公清という人物を中心に描いていることに注目したい。作者が生存していた同時代人達への筆遣いは、作者の解明に何らかの手掛りを与えると考えるからである。文面は左の如くである。
この公清とは如何なる人物なのであろうか。『公卿補任』によると彼は当時十二歳の少年で、父実孝はこの祭より二年前元亨二年正月一七日に没している。そのためこの頃の彼は、文中にある通り洞院公賢の聟としての立場が大きく作用していたと考えられる。 公清と二条良基との関係は二条家祖良実の女が父実孝の母にあたっている10。が『尊卑分脈』に「母内大臣公親公女、実者関白良実公女」とあり、披露できない内情があるらしく、ここをもって良基と結び付けるのは問題であろう。良基は公清より八歳年少の当時僅に四歳の幼児にすぎないことから、この祭の記載は多分に記録などの間接的経験に基づく筈で、華美なこの祭を描くにあたって、殊更に洞院家の聟とまで表明して公清の晴れ姿を強調し、讃辞をもって描くべき必然性はどこにあるのであろうか。やはり良基には不自然な、洞院家偏重の作者の視点を考えざるをえない。 三 後醍醐朝の御会 今までの考察対象は個別の人物であったが、次は別の角度、作者生存の可能性のある後醍醐朝の中で御会の記述を取り上げたい。 『増鏡』は後醍醐天皇の京都還幸の元弘三年におわっている。諸写本の奥書の内一番古いものが永和二年であるからこの間四三年間に作者は描きそして没したとも考えられる。翻ってみるならば、終りの部分は作者が生存した直接経験に属するものということも可能である。著述資料駆使のため作者の条件のひとつに高位の貴族が数えられる。『公卿補任』のこの元弘三年の面々の中に目指す作者がいると想定しても誤りではなかろう。因に二条良基の周辺は、彼自身まだ一四歳権中納言。父道平は左大臣四六歳(二年後建武二年薨)。西園寺家の当主は公宗権大納言二三歳。母の父公顕は既に故人(元応三年薨)、子息実顕はこの年に薨じている。今まで度々言及してきた洞院家の当主は公賢内大臣四三歳で健在である。後醍醐朝に作者が生きているならば、同朝の記述は直接体駄を反映させていると充分に考えられよう。逆にその辺を分析することによって作者解明へと接近できるのではなかろうか。 御会は王朝文化の調べを秦で、『増鏡』の雰囲気のひとつの基調をなしている大事な記事群である。またその叙述には作者の直接体験を反映させやすい遊びの筆遣いもあろう。そこで早く平田俊春氏が指摘されながらも具体的人物をお挙げにならなかった11北山御覧の折の御会の問題の記載を中心に考察していきたい。 これは元徳二年二月六日の北山行幸の御遊の叙述中にある語り手の尼公の直接の言葉として書かれているもので、尼公は幼童から聞いたと態々表明しており、他の箇所にみられない叙述である。 『北山舞御覧記』を資料にしたためのカモフラージュという西沢正二氏の御説があるが12、そうすべき必然的理由に疑問を感じる。頃は獲鱗の元弘三年から僅か三年前にすぎない。作者が生存していたとしてもおかしくない頃であり、態々かく記していることに何か含みがあるとみてもよさそうである。平田氏はこの御会に欠席したものが即ち作者であるとされながらも論を閉じられたが、試みに、この御会にのみ欠席を表明していることは他の記載の御会には出席している可能性が高いのではないか。だとすれば他の御会と比較検討することによって何らかの結果−尼公の口を借りた作者自身が判明するかと考えられる。 後醍醐朝に行われ記載されている御会は次の六点である。
右の五点を取り上げるが、その前に果して作者の臨席体験を伺わせる御会があろうか。Bを上げたい。この作文会には作者の見識を伺わせるに足る叙述がある。
また同日に御製を左大臣である洞院実泰が朗詠したことを
さて「その日のこと見たまへねば」という尼公の口を借りた作者を探ることにしたい。欠席を表明したことは異例であるため列席者を中心にみていきたいと思う。前掲五点の御会の叙述に明記された出席者を家別に分類し、表示したものが別表の「後醍醐朝御会出席者一覧」である。 (後掲) 問題の元徳三年の北山舞御覧の分は五段め。この会に限って欠席したと表明していることから他の会には出席していたと考えられる。この条件に当て嵌る人物がいる。表の右端の洞院家の公賢である。彼の名だけが他の四会にみえて、問題の会にはみえない。その上「おさなきわらはべ」から聞いたとある通り問題の会には公賢の一四歳年下の弟公泰の名がみえる。恐らくこの弟から聞いたと想定しても自然であろう。他の家をみても右に指摘した条件に当て嵌るものはいない。 二条良基はこの元徳三年一二歳で、父の道平が四四歳。良基が後年この御会を描くとして出席していた道平から話を聞いていたと考えられるが、態々「おさなきわらはべ」から聞いたと書くであろうか。甚だ不自然な記述になってしまう。今みた洞院家を想定した方が妥当であろう。しかも当時の当主公賢という具体的人物を描出し得た。本稿で度々触れた実泰は彼の父親である。 四 皇太子邦良親王 御会という個々に記述されたものを取り上げたが、作者問題の解明の対象としてはまだ小範囲なので、特に力をこめて描かれ、かなりの分量を占める皇太子邦良親王と後醍醐天皇隠岐遷幸との二点を取り上げたい。 まず皇太子邦良親王の記事に入りたいが、この皇太子冊立は所謂「文保御和談」によるもので、この邦良流と持明院統とで交互に皇位を継承する定めのため甥とはいえ後醍醐天皇にとっては面白くない存在であり、事実不和であった。北畠親房の『神皇正統記』にみえる邦良親王は「鶴膝」を病む虚弱な邪魔者といった口吻で描かれている14。このように政治的にも肉体的にも暗い影のある邦良親王を『増鏡』ではどのように描いているのであろうか。微妙な位置にいたこの親王をどう描くか、作者の一側面を知る手掛りになると考える。 邦良親王を叙述した箇所は全部で四点ある。 @皇太子に立った時の、後醍醐天皇への御挨拶の贈答歌の記事(413頁) A致死の病床に臥された祖父後宇多院を御見舞する記事(427〜428頁) B御子左為藤の死を悼み、その父為世と慰籍の和歌の贈答の記事(429〜430頁) C邦良親王の薨去と慕い歎く人々(432〜434頁) @とAからは親王の優しい心遣いの文雅な面を描き、Bでは御見舞に行啓された孫邦良親王と祖父後宇多院の濃やかな交流、
二条良基を作者として考えた場合邦良親王にこれだけの愛情を注いで描くであろうか。後醍醐天皇が隠岐から還幸された時、光厳天皇の許皇太子であった邦良の子康仁も廃された後、この邦良の流れは南朝でもまして北朝でもない全く皇位継承から除外されてしまう不幸な運命を辿ってしまう。邦良が薨去した時良基はまだ七歳の少年であるから記録などの間接材料によって描いたと考えられる。 それを駆使してまで描かねばならぬと良基は邦良親王に愛着を持っていたか甚だ疑問である。除外された過去の皇統を懐古すべき要因が俗物の一面を持つ良基のどこにあろうか。 また宮廷哀話として邦良の薨去が語られていたのであろうか。これも疑問である。勅撰集や家集などには邦良哀悼の和歌は載っていない。『史料綜覧』に挙げる没日の書籍を探っても薨去の事実を記しているだけである。 結局邦良の薨去の悲劇は一種の派閥間の問題にすぎなかったのではないか。後宇多院が即位の暁には埋もれた逸材を登庸するようにと邦良親王に諭し、
邦良親王に対する好意の厚い作者は、邦良一派に近い位置にいて平生親王をよく知っていたものと考えられる。飽くまでも近いのであって派閥の一員であったとは考えられない。邦良薨去による凋落を味わった者が描くならば、恐らく邦良親王を基調とした作品になっていた筈で、『増鏡』とは大分掛け離れたものになろう。一歩離れた立場から平生邦良親王を見守る位置にいた者が相応しいと考えられる。 邦良の皇太子期間はその死をもって幕を閉じる九年の間である。その頃の邦良親王の周辺を『東宮坊官補任』でみたい。高官であり派閥からくる偏頗な見識を持たない作者条件に叶う、皇太子邦良を見守る役職の名簿である。 邦良親王 文保二年三月九日立太子十九歳 正中三年三月廿日薨(廿七歳)
皇太子の補佐である傅は四度死或いは昇進によって代っている。最後の冬教は二二歳であった。東宮坊の実質的執務長官である大夫は九年間同一人が勤めている。権中納言正二位藤公賢。『増鏡』中好意的に叙述されている洞院家の、最前も考察抽出した公賢その人である。任期中の年齢も二八〜三六歳という若かりし折の重職は、それ自体印象深いものであったろう。権大夫は一度解任されるが源具親が勤めている。解任中任ぜられた有忠は鎌倉下向したそれ。具親の解任の原因は大納言典侍との出奔事件で、このことは『増鏡』にみえている(415頁)。 作者としての候補は右の冬教・公賢・具親三人に留まろう。その中で邦良に実際親近する立場で傅は他二人に及ばないと考えられるが、何度も代っての役職よりも、最後まで一心に勤めた者の方が遙かに邦良を見る限は温かい筈である。具親では若輩の時の失体を態々記載するであろうか。やはり公賢が薄幸の親王の側に侍し、後年語るに相応しいと考えられる。良基の介在の余地のない『増鏡』記事と人間関係との密接さを公賢が充分に持っているということは作者自身といえるのてはなかろうか。 (以下次号) 注 1 改造社日本文学講座「増鏡の研究」 2 日本古典全書『増鏡』解説 3 「増鏡作者論」『国語と国文学』昭和28年9月 4 「増鏡の作者上(下)」『国語と国文学』昭和37年10〜11月 5 『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』明治書院刊 6 「増鏡をめぐる諸問題」『文学研究』昭和52年6月 7 松村博司博士『歴史物記改訂版」259頁参照 8 「『増鏡』洞院実雄薨去の記事について」日大文理学部三島研究年報27 9 伊藤敬氏『新北朝の人と文学』三弥井書店刊 81頁に公顕女達の御考祭がある。 10注9前掲書78頁に良実の子女をめぐる考察から実孝母も御取り上げである。 11「増鏡の成立−舞御覧記との関係について」『吉野時代の研究』所収 12『増鏡研究序説』桜楓社刊143頁 13「今度文人之中、左府之外無郢曲人之故也」『続群書類従』第19輯上 14『日本古典文学大系』171頁 本稿は昭和58年和歌文学会五月例会の発表に基づく。略儀乍ら諸先生方に感謝申し上げます。 |
近衛
┌基実──○──家実───────┬──
│ │ 鷹司
─┤ 九条 └─兼平─○─冬平
└兼実──○──道家────┬
│ │二条
│ └○──○──道平
├教実 │
│ │
┌─────女 ├─良基
西園寺 │
│
公経──┼─実氏─公相─○─┬─公衡 │
│ │ 今出河 │
│ └─公顕─────女
│ 洞院
└─実雄─○─実泰─┬─公賢
│
├─公敏
│
└─公泰
後醍醐天皇御会出席者一覧(家名は『公卿補任』に基づく。但四姓で示した場合もある。)
| 元亨元年 | 元亨二年 | 元亨三年 | 嘉暦二年 | 元徳三年 |
| @安福殿釣殿観月御会 | A常盤井殿朝覲行幸の折の御会 | B中殿作文会 | D女踏歌節会 | E北山舞御覧の折の御会 |
| 洞院公賢 公敏 御子左為世 為藤 小倉実教 季雄 花山院師賢 富小路公修 三条実任 平惟継 四条隆資 丹波忠守 忠定 為冬 |
洞院実泰 公賢 公敏 公泰 御子左為藤 為定 三条実任 公明 吉田冬方 定房 一条内経 久我通雄 今出川兼季 鷹司冬教 西園寺実衡 堀川具親 土御門顕実 花山院経定 中御門冬定 中院光忠 日野資朝 大宮季衡 |
洞院実泰 公賢 公泰 西園寺実衡 九条房実 北畠親房 大炊御門氏忠 日野俊基 藤原嗣家 中院光忠 |
洞院公賢 公泰 近衛経忠 基嗣 三条実任 実忠 土御門顕実 親賢 鷹司冬平 九条光経 万里小路藤房 御子左為定 大炊御門冬信 平惟継 源国資 |
洞院公泰 北畠具行 顕家 今出川兼季 一条兼房 二条道平 三条公明 御子左為定 大炊御門冬信 中御門冬定 室町公春 園基成 二条資親 |
※後半はこちら。
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☆西園寺家・洞院家系図はこちら。 ☆今谷明氏はこの田中隆裕氏の論文を極めて高く評価され、自身も『増鏡』の作者を洞院公賢と考えておられる。(「『増鏡』の作者論」) |