更新10.10/11

田中貴子 『日本古典への招待』(ちくま新書)







田中貴子氏の略歴(『日本ファザコン文学史』巻末より)
1960年京都生まれ。奈良女子大学文学部卒業。広島大学大学院博士課程修了。広島大学文学部助手、池坊短期大学講師、梅花女子大学助教授を経て、現在京都精華大学人文学部助教授。専攻:国文学。中世、仏教関係の説話と女性の問題などを研究。「<玉女>の成立と限界」で第16回日本古典文学会賞受賞。著書に『〈悪女〉論』(紀伊國屋書店)、『聖なる女』(人文書院)他。
※『日本ファザコン文学史』(紀伊國屋書店.1998)



田中貴子氏の見解
私の考え方


 それにしても、いきなり「原文を読め」と言われても、本屋さんに古典文学の作品がずらりと置いてあることはまれだし、「国文学のコーナー」なんて棚をのぞいてみても、むずかしそうな注釈本とか『何々についての研究』とかいう本ばっかりで、いったい私は何を読んだらいいのだろう・…と、途方に暮れる人がいると思う。

 何千円もする『岩波新日本古典文学大系』なんて買うのはもったいないような気がするし、かといって文庫で古典の原文が読めるのは、今では講談社学術文庫(学術!)や岩波文庫だけだ。

 講談社のには現代語訳がついているけど、文庫とは思えない値段だし、原文と現代語訳と注釈とが交互に並べられている紙面は、慣れていないととても読みにくい。岩波文庫だってなんにも注がなくて、わけがわからないし‥‥と、またしても古典を諦めようとしたあなたの目に、こんな本の名が飛び込んできたとしよう。『田辺聖子の源氏物語』『瀬戸内晴美訳 とわずがたり』『安西篤江が語る今昔物語』などなど。

 へえ、これなら原文読まなくてもいいじゃん、と、あなたはそうした本に手を伸ばそうとする……。これが、現代作家による古典の「現代語訳」だ。

例.次田香澄『とはずがたり』(上)434ページ.1204円(税別)、(下)525ページ.1398円(税別)。確かに文庫本の値段とは思えないが、あんまり売れない種類の本だから仕方ない面もあると思う。

田辺聖子(1928生)
瀬戸内晴美(1922生)
安西篤江(1926生)
 それに加えて、この日本には歴史小説というジャンルがあるんだよね。戦国武将のドラマが国民的に好まれるというのも、歴史小説を通じて得た知識が、主に中年以上の人の教養になっているせいだ。つまり、日本人は歴史小説好きな民族。最近亡くなった司馬遼太郎さんはもっぱらおじさん御用達だけど、永井路子さんとか杉本苑子さんといった女性作家の書いた歴史小説には、誰でも一度くらい目を通したことがあるんじゃないかな。

司馬遼太郎氏も『とはずがたり』について論じているが(『三浦半島記』)、おじさん感覚に溢れていて役に立たない。


永井路子(1925生)
杉本苑子(1925生)

こうして有名な女流歴史小説家の名前をあげてみると、その生年が1925年前後のごく短い期間に集中していることに気づく。そのため、それぞれが多様な個性をもちながら、しかしやはり、同時代的特徴が刻印されている感じがする。
 とくに古代史とか鎌倉、江戸あたりを題材にした歴史小説に強いお二人だ。もう長老と言っていい風格で、「歴史物の二大女流」として認められている。かくして、あなたは歴史小説や、現代作家の書いた「現代語訳」を通じて古典の世界の扉を開けることになる。そうすると、どうなるか。

 歴史小説は、いろいろな資科にもとづいて書かれてはいるけれど、資科そのままじやない。その資料には、当然古典の作品も含まれているはずだ。それらを作家がたんねんに再構築して作り上げたのが歴史小説ということになる。だから、そこには作家の頭の中で作り上げられたイメージによる人物造形がなされているし、ある事件やある場面についての解釈も作家ごとに変わるのが当たり前だ。

 たとえば、『万葉集』の額田王は極端に資科の少ない人物として有名だけど、彼女を取り上げた歴史小説は山ほどある。つまり、作家が百人いれば、一つの出来事を題材にして百通りの歴史小説ができるかもしれないんだ。

 だから、歴史小説をいくら読んだって、それは現代作家の「作品」を読んだにすぎないのであって、あなた自身が古典を読んだということにはならない。これは、「誰々訳」とあるものでも基本的にはまったくおなじこと。

 ためしに『源氏物語』の例をあげようか。『源氏』には、古くは与謝野晶子から谷崎潤一郎、円地文子、未完に終わったけど舟橋聖一、そして最近では瀬戸内寂聴、田辺聖子、橋本治ら各氏の「現代語訳」がある。

 でも、もっとも原文の遂語訳に近いとされている「円地源氏」でさえ、原文と対照させると作家の「くせ」みたいなものが浮び上がってくるんだ。その特徴は、たいていの場合登場人物の女の人にどのような性格や役割を与えているかというところに現われるように思う。『源氏』にはたくさんの女性が登場するし、「『源氏物語』の女たち」なんて本はくさるほど出ているから、女性像の造形、これが作家の腕の見せどころになるわけだね。

田中貴子氏は、じめじめ・ネチネチした陰気な学者が多い国文学会において、乾いた知性を有する稀有の存在である。国文学の狭い世界に閉じこもらず、広い視野のもとに研究されており、その見解には賛成できることが多い。この部分も極めて的確な指摘のように思われる。
 まあ、女性は男性主導の文学の世界では常に「見られる存在」として描写されてきたから、この現象はしかたないと言えぱしかたない。だから、作家の好みが女性像に反映されるのは言うまでもない。

 瀬戸内さんは、『私の好きな古典の女たち』(新潮文庫)で、『源氏』から朧月夜、六条御息所、女三宮、明石君、そして浮舟の五人を取り上げている。もちろん『源氏』には光源氏の永遠の人となる藤壺中宮をはじめ、主要な女性がいっぱい出てくるんだけど、瀬戸内さんがこの五人をとくに取り上げたのは「好み」のせいじゃなかろうか。

 文中でも、「藤壺はあまり理想的に書かれ過ぎていて、私にはあまり魅力が感じられません」とか、「『源氏物語』の中で一番好きな女性をひとりあげよと言われたら、私はためらいなく六条御息所をあげます」というような言葉が見える。

 こういう人が『源氏』を現代的に訳したら、自分の興味が持てる人物については自分流の解釈をまじえて詳しく書くだろうし、おもしろくないと思った人物についてはさらりと流すんじゃないかな。私は瀬戸内さんを責めているわけじゃなくて、誰でも作家であれば必ず多かれ少なかれこういう傾向はあると言っているんだ。

 とすれば、あなたが手に取った『誰誰訳源氏物語』は、作家の誰かさんの作品にすぎないんであって、『源氏』のオリジナルとはかなり違うものを読んでいることになる。このことを充分に認識しておかなければ、古典を読むということなんか一生できやしない。

 前の章でも触れたように、ある人物やある事件について私たち現代人が持っている知識は、近現代の作家のフィルターを通したものである可能性がとても高い。だから、額田王(ぬかたのおおきみ)といえば岩下志麻みたいな妖艶な女性を思い浮べてしまうんだろうし、六条御息所といえばじっと思い詰めて内に籠っちゃう「男からすれば苦手なタイプ」だと思い込んでしまうんだ。

 そんなフィルターをとっぱらって古典の原文に一歩でも近づこうとするならば、歴史小説や作家の訳本は古典とは別のもの、という気持ちで読むべきなんだ。

 さて、これから取り上げるのは、現代作家が描いたある女性と、彼女が実際に書いた本との間にあるギャップの話だ。つまり、作家はある古典を作品の「ネタ本」に使っているわけだが、その「ネタ本」と出来上がった歴史小説との間には、驚くばかりの違いが見える。これがつまり、作家の「古典のとらえ方の差」なんである。

 ネタ本は、一般の人にはあまりなじみのない鎌倉中期の『とはずがたり』という本。学校の文学史では、鎌倉時代の「女流日記文学」に分類され、「宮廷内の性愛に関する赤裸々な告白が特徴」なんてレッテルを貼られているやつだ。

 もちろん私は、『とはずがたり』は「女流日記文学」という位置づけが適当だとも、「赤裸々な告白」が妥当な表現だとも思っていない。それはこれから述べていくことにして、まずは『とはずがたり』の世界へと入ってゆくことにしよう。


田中氏は、以下で主に内容の違いについて述べられているが、文体についても大変な違いがあり、違和感を感じてしまう。『とはずがたり』の原文は、非常にきびきびとしたスピード感溢れる文体なのに、これを小説家が現代語訳すると、とたんにスピードがおちて、ねっとりした重苦しい感じになってしまうのである。

私も、田中氏のこの本を読む前から、『とはずがたり』が「日記」でもなく、また「赤裸々な告白」でもなく、要するに単なる「物語」であると考えていた。しかし、国文学会では、このような立場は異端的とも言えるほどの少数説で、田中氏のほかには、筑波大学名誉教授の小西甚一氏(『日本文藝史V』講談社)がいるくらいである。小西甚一氏の見解は、別途紹介する。


不幸な?『とはずがたり』


 『とはずがたり』という名前を聞いたことがない、って人を責めるわけにはいかない。この本は、一三世紀の半ばに生まれてからほとんど読まれてこなかった本なんだ。たいていの古典は成立以後ある程度の読まれ方をしていて、だから『土佐日記』にもあれだけ写本があるんだけど、『とはずがたり』は宮内庁書寮部にある一本だけしか伝わっていない。それも昭和一五年に、山岸徳平さんという国語学者が「地理部」に分類されていたこの本の名を奇妙に思って手にしたことから「発見」された、いわば歴史の新しい本なんだ。

 『源氏』が千年近くも読み継がれてきたことに比べると、この世にたった一本しかないなんて驚きだ。この本には天皇や上皇の性に関する記述があるせいで、あまり公にできなかったという理由もあるらしい。


最終記事は1306年になっている。



山岸徳平氏が「発見」したのは昭和13年で、それを学会誌に発表したのが昭和15年である。
 『とはずがたり』は五巻で構成されていて、巻一から三までが宮中を舞台とする「宮廷編」、あとの巻四、五は、主人公が出家して諸国を巡礼する旅がメインだから「出家編」と分けて呼ばれることが多い。書いたのは、後深草院二条という女房。

 後に「南北朝の争乱」という宮廷の内部紛争が起こるけど、二条の生きた時代はまさに南北へと宮廷が分裂を始めようとする鎌倉中期だ。後嵯峨天皇の二皇子である後深草と亀山は、それぞれ持明院統(北朝)、大覚寺統(南朝)という二流派のもととなった。

 二条はこの後深草院の宮廷で育った女性で、母親は後深草天皇の乳母を勤めたことがある。正式には後深草院の正妻である東二条女院つきの女房だったらしいけど、小さいころから後深草院を父とも兄とも慕って生きてきた。でも一四歳の春、二条は無理やり後深草院と関係を持たされ、以後は院の女房と愛人とを兼任することになる。



後嵯峨院(1220〜1272.53歳.)

後深草院(1243〜1304.62歳)
亀山院(1249〜1305.57歳)

東二条院(1232〜1304.73歳)
 この二人の関孫に、二条を恋する西園寺実兼や性助法親王といった複数の男性がからんでゆく。そして二条は身も心も翻弄されたあげく、出家して諸国を遍歴する旅に出ることになる。後半部分は、出家後の二条が見た寺社についての記述が多くなるが、後深草院との再会や、院の死などを経て、院や父母の供養をする場面で全巻は終わっている。

西園寺実兼(1249〜1322.74歳)
性助法親王(1247〜1282.36歳)



 さて、今までの文学史では、『とはずがたり』は日記文学という位置に置かれてきたけれど、これを日記だと思って読み進めるとおかしなことがたくさん出てくる

 これまで研究者によって明らかにされているのは、記述された事件が必ずしも実際に起こった順番に配置されているわけではなく、作者は意図的に事件を入れ替えたり、省略したりしているということだ。

 だから、日記とはいえここにはフィクションの部分がかなりあって、物語に描かれるようなシーンが何回も登場することから、『とはずがたり』はむしろ物語に近い性格だと考えた方がいいだろう。

この田中貴子氏の立場は、国文学会の中では極めて少数説である。殆どの学者が、『とはずがたり』は事実をベースにした日記であるが、諸事情から、作者が一部の事実を「朧化」したものと考えている。
 しかし、学者たちは「朧化」した理由として根拠に乏しい推定を、「ではなかろうか」などと自信なさそうにあげるだけであって、きちんとした説明はしていない。そもそも「おかしな部分」がいくら何でも量的に多すぎるのであり、真実の中にいくらかの虚偽が混じっているという程度の話ではないのである。
 ちなみに、この「朧化」という言葉は、普通の世界ではそう頻繁に使うことはないように思うが、『とはずがたり』に関する国文学者の論文には信じられないくらいたくさん出てくる。
 ところで、いまだ研究の途中と言っていい『とはずがたり』に目をつけたのは、研究者よりむしろ作家の方だったようだ。とくに一九七○年代、この本は女性作家によく読まれ、エッセイなんかにしばしば取り上げられている。瀬戸内さんは三度も現代語訳をし、『中世炎上』という歴史小説まで書いているし、永井路子さんや杉本苑子さんも、対談やエッセイで何回もこの本に言及している。

 女性作家に比べると、男性作家が『とはずがたり』に関して何か言っているのを、私はほとんどと言っていいくらい知らない。『とはずがたり』は、「鎌倉時代の一女房の性と愛の手記」という触れ込みで紹介されたせいもあって、女性作家がなじみやすかったこともあると私はふんでいる。

男性作家では、いくつになっても「性と愛」ばかり書いている小説家として有名な中村真一郎氏が、『日本古典に見る性と愛』『源氏物語の世界』(ともに新潮選書)『色好みの構造−王朝文化の深層−』(岩波新書)などで、繰り返し『とはずがたり』に言及している。それも『とはずがたり』の全体を考察する姿勢は全くなく、愛欲場面だけを執拗に分析しているのである。私は中村真一郎氏の「王朝文化の深層」を捉える能力について疑問をもっているので、別途検討する。
 げんに、作者であり作品のヒロインである二条を男性は敬遠しがちだという例もある。たとえぱ、国文学者である久保田淳さんと瀬戸内さんは、一九七五年の対談でこんな会話をしている(『国文学』昭和五○年一二月号、対談「物書く女たち−和泉式部的なものをめぐって」)。

久保田  私、和泉式部は好きなんですけど、どうも後深草院二条はなかなか好きになれないんですけどね。どうでしょうか。やはり二条にも和泉的なものをお感じになるわけですか。
久保田淳氏は、この対談の後、日をおいてから『とはずがたり』の全訳をされており、若干、作者に対する見方が変化したと述べている。その推移が興味深いので、別途紹介したい。
瀬戸内  はい、私は感じますね。(中略)現代の小説としてもちっともおかしくない。リアリティーがあるし、迫力があるし。(中略)久保田さんは、二条のどこがおきらいですか。
久保田 そうですね、そうなりますとちょっと困るんですけれども、やはり非常に自分自身を凝視しているところがあると思うんですけどね。
瀬戸内 突っぱねてますでしょう、わりあいに。
久保田  だからよほど自意識の強い女性で、強いというか、自意識過剰な女というものは、男から見るとまるでかわい気のない女じやないかという気がするんです。


 男から好かれない二条、そして、女に好かれたらとことんまで好かれる二条、という対比が出ていておもしろい。でも、「ジェンダー」とか「フェミニズム批評」とかっていう言葉なんか国文学者は知らない時代の対談だもの、少しくらい考慮してあげるべきかもしれない。

 この対談が行なわれた七○年代は、瀬戸内さん、杉本さん、永井さんの三人による『とはずがたり』論、いや、正確に言えば「二条像」論があちこちに見られた。そしてそれが、『とはずがたり』の現代における読まれ方の二つの流れを作っていったと私は考えている。

 一つは、瀬戸内さんのように『とはずがたり』を我が身に引きつけて「私小説」として読む方向、もう一つは杉本さんや永井さんのように、「政治性がなく男女のことしか頭にない女」としてそのあり方を批判する方向。

 いまでもこの二大潮流は変わってはいないと思う。でも、これって、もしかしたら『とはずがたり』の不幸な読まれ方なんじゃないの、と私はげんなりしてしまうのだ。


「恋する女・二条』というイメージ

 「女のさが」「女の業」「女の情念」−なんて陳腐な言葉なんだろう。でも、瀬戸内さんの描く二条はこういった言葉がぴったり似合う女性に描かれてしまっている。

 瀬戸内さんと『とはずがたり』の関係は、現代語訳、歴史小説のほかに、現代小説の中にも見出せる。自分の出家体験にもとづく『比叡』という小説の骨子には、明らかに『とはずがたり』の影響が認められる。

 ごくかいつまんで言えば、今まで数々の恋の遍歴をしてきた女性が、あるとき出家を志し、いろいろ大変な経験をしたすえ立派な尼さんになる、という小説。構成は『とはずがたり』とほとんどそっくりだ。

 瀬戸内さんは、「女としての自分」という視点から小説を書くタイプの作家だから、『とはずがたり』にも溺れるほど感情移入できたわけだ。だから、瀬戸内さんの書く二条像は、言うなれば自分の鏡像のようなものと言っていい。

 さっき引用した久保田さんとの対談でも言っていたように、彼女がイメージする二条とは、男に対する情はあついけれど、過剰なまでの自意識でもって「突っぱねて」いる女性で、しかもそれは「現代の小説としてもちっともおかしくない」ヒロイン像だったんだ。

瀬戸内晴美氏の場合は少し極端だが、『とはずがたり』は多種多様な部分から、しかも素直に考えれば考えるほど相互に矛盾している部分から構成されているため、学者や小説家が自分にとって大切だと思われることを書いていると、いつの間にか自分自身を描き出してしまうようである。『とはずがたり』は、一種の鏡のような構造を持っているのである。
 
 瀬戸内さんの『とはずがたり』には、一つの大きな特色がある。それは、現代語訳版でも、『中世炎上』でも、巻四、五の「出家編」を思い切って省略している点だ。『とはずがたり』がなぜ二部に分れているように見えるのか、それはまだよくわからないのだけれど、瀬戸内さんにとって問題になってくるのは前半の「宮廷編」だけであって、「出家編」はあってもなくてもいい、ということだ。その証拠に、現代語訳でも『中世炎上』でも、巻四の石清水八幡宮での後深草院との再会の場面と、巻五の院の死に会う場面を巻三の後に継ぎ足した格好で終わっている。

 ほんとうは、後半部は前半部と同じくらいのウエイトを占めており、けっして軽く扱うべきではなく、前半と後半とが照応し合って一つの作品が構成されていると考えるべきなんだけど、でも、瀬戸内さんにとって後半部で重要なのは、院と出家後の二条のかかわりを記した部分だけだったんだ。


 というのも、瀬戸内版『とはずがたり』は明確な主題を持っているからだ。それは、後深草院と二条との愛憎半ばした人生、と言えるだろう。オリジナルな『とはずがたり』の主題がどうであれ、瀬戸内さんにとっては自分が『とはずがたり』に見出した主題こそが優先されるべきだったんだ。だから、『中世炎上』では、院の葬式の列を裸足で追いかけるという劇的なシーンでラストが締めくくられている。オリジナルにも、

……事なりぬとて御車の寄りしに、慌てて、履きたりし物もいづ方へか行きぬらん、裸足にて走り下りたるままにて参りしほどに、

 という場面がちやんとあるんだけど、この後に続く院の供養をしたりする部分をカットしてここを小説のクライマックスに持ってきたのは小説家の工夫と言える。また、つけ足された巻四の石清水八幡での再会場面には、実は大きな謎がある。互いに出家の身となった院と二条が一夜をともに過ごすのだけれど、単に昔のことを語り明かしただけなのか、それとも禁断の関係を再ぴ結んでしまったのか、意見が分れているのだ。

 偶然に石清水に参詣した二条は、一昨日から院が来ていることを知らされ、院からお召しを受ける。

(院)「ゆゆしく見忘られぬにて、年月隔たりぬれども、忘れざりつる心の色は思ひ知れ」などより始めて、「昔今の事ども、移り変る世のならひ、あぢきなくおぼしめさるる」など、さまざま承りしほどに、寝ぬに明け行く短夜は、程なく明け行く空になれば、

 「年月がたっても忘れていなかった私の心を思い知ってくれ」という院の言葉に、音話もはずみ、気がつくと夜は明けていた、という部分だ。「寝ぬに明け行く短夜」は、とうとう関係を持たなかった、というふうにもとれるのだけど、この後二条は退出にあたって院から肌着を三枚もらっている。

 旅の尼僧姿の二条に昔のよしみで着物を贈ったとも考えられるのだが、互いの肌着を交換するというのは関係のある男女の風習でもある。だから、ほんとに何もなかったかどうかは、二条にしかわからないことになっている。

 瀬戸内さんは、ここで院と二条の間には関係があった、と考えて小説化している。出家後の関係という禁断を犯してもなお恋しい院であったから、二条は裸足で葬列を追うような行為に出たとするんだ。「院との愛こそすべて」、このテーマに沿って、瀬戸内さんは『とはずがたり』の解釈を自分なりに一貫させていることになる。だけど、これには反論もあって、研究者の八嶌正治さんは、
そう解釈する時(注・院と二条の間に肉体関係を想定する)、紀行編は全く不用になり、愛という主題で、この執筆動機不明な一書に、近代的解釈を与えた事になる。
八嶌正治の『とはずがたり』に関する考え方はこちら(「頽廃の魅力」)。
 『現代語訳とわずがたり』解説を見ると、八嶌正治氏は田中氏の引用部分の直前で、「かつて、瀬戸内氏とこの書を勉強した時に、紀行部の後深草院との出会いに、肉体関係を想定し、両者の関係をラクロ風な共犯関係として解釈した。」と述べている。
 「頽廃の魅力」でも「巻四、二条三十四歳の二月頃、八幡で院に避遁、一夜語り明かす。この時私は僧体の男女の交情を想定するが、この説には実証面からの岩佐美代子氏の支援がある。」と書かれており、八嶌正治氏は瀬戸内氏と同じく「院と二条の間に肉体関係を想定する」立場である。

足摺岬については、行っていないと考える学者の方が多数のようである。私は浅草寺さえ本当に行っているのか極めて疑わしく、二条にとって必要だったのは「浅草」という言葉だけだったのではないかと考えている。この点についてはこちら
と言っている(『現代語訳とわずがたり』解説新潮文庫)。

 ちなみに、八嶌さんが「紀行編」と言っているのが「出家編」にあたるものだ。巻四、五で、二条は、東は浅草寺、西は足摺岬まで旅をしたと書いている(実際に行ったことのない部分も含まれているらしいけど)。

 もしオリジナルでも「院との愛」を主題にしていたのなら、後半部のほとんどを占めるこうした参詣の旅の様子はなぜ書かれなければならなかったんだろう、っていう疑問がわいてくる。

  だから、くりかえすけど、瀬戸内さんのイメージする『とはずがたり』はあくまで近代的な「愛」っていう主題が先にあって、それに従って構築された、別の新たな瀬戸内版『とはずがたり』と言うべきなんだ。そしてそれは、瀬戸内さんのほかの小説と同じように、作品として一人歩きをしてしまったと言える。

 もうわかってもらえたかな、瀬戸内版を読んでもオリジナルな『とはずがたり』を読んだわけにはならないってことを。瀬戸内さんの小説として読むつもりならいいけれど、ほんとうに『とはずがたり』に触れるには、瀬戸内寂聴というフィルターをはずしてしまわなければならないんだ。



二条ってパカなの?

 では次に、現代におけるもう一つの流れについて触れておこう。ここでは、永井路子さんと杉本苑子さんが二条をどんなふうに把握しているかを問題にしてみたい。二条に関する発言は、圧倒的に永井さんの方が多くて、これは七○年代から始まっている。

 そして永井さんの二条に対するとらえ方は、それからずっと変わっていない。つまり、中世の爛熟しきった宮廷のなかで、恋愛技巧だけにたけてしまったかわいそうな女、というものだ。一九七二年に新聞に連載された『歴史のヒロインたち』(文春文庫)から拾ってみようか。

ところが、後深草天皇はこの密事を知って嫉妬に狂うどころか、弟との逢う瀬をとりもつようなことをするわけです。こうなると、恋愛は真剣な心のやりとりではなく、〃遊び〃。寝ることは〃あいさつ〃といったところまでモラルは低下してしまっている。当時の貴族の恋がいかに人間性を失ったものであったかがうかがい知れますね。

 この本は、一人の女性をめぐって小説家や歴史家、文学者と永井さんが対談する方式で進められているんだけど、こういう言い方の裏には、「プレイガールニ条」へのひそかな軽蔑の心が含まれているとしか思えない。ほかにも永井さんは、二条が初め後深草院に抵抗して関係を拒み、二度めの機会にようやく結ばれることについて、こういっている。

初夜は天皇の意に従わないんです。そして実兼ともうまく愛をつないでいく。このように恋愛技巧にたけているのは、彼女の天性としか思えないのですが。

 でも、この発言が永井さんの先入観に支配されていることは明らかで、対談相手の国文学者・冨倉徳次郎さんには

わたしはそうは思いませんね。第一夜の拒否は、まだ十四歳の少女としてはあたりまえのことでしょう。(中略)男との交渉を楽しむ浮気っぽい女性なら、はじめて男性に接したときの気持ちを、悲哀とも愛憐ともいえない切ない感情を込めて〃かなし〃と表現するはずがありません。
と、否定されている。私は冨倉さんの理解の方が正しいと思っている。なぜなら、永井さんの抱く二条像には、奇妙なゆがみがあるからだ。

 七○年代と言えば、六○年代にアメリカで起こった女牲解放運動の波が日本にも及んで、「進歩的な」女性のほとんどはその洗礼を受けている。だから、積極的に「自己実現」に向かおうとせず、恋愛やセックスに溺れている女を見ると「女々しい」と感じる人が多かったと想像される。

 おそらく、永井さんや杉本さんの年代の女性は、こうした物の考え方をしたんだと思う。だからたとえば、二人とも『平家物語』に出てくる建礼門院のことをあまり良く書かないけれど、あれは、源氏と潔く戦ったわけでもなく、入水自殺をしてもみすみす敵方に助けられて命を長らえてしまう、というところに「女々しさ」を感じたせいだからなんだ。この二人は、どうも北条政子のような「雄々しい」女性が好みらしい。

永井・冨倉氏の対談内容については、別途紹介した。私は田中貴子氏とは異なり、冨倉氏の理解も間違っていると思う。なぜなら、この部分は、しらじらしくウブな少女を演じている二条を、基本的にはコメディタッチで描いたものであって、「悲哀とも愛憐ともいえない切ない感情」を漂わせているような場面ではないからである。
 永井さんと杉本さんに共通する二条像は、政治性の欠如という言葉でも表わされる。ちょっと日本史を思い返してみよう。

 『とはずがたり』の舞台となった一三世紀後半は、日本が初めて外国から襲来を受けたというとてつもない事件が起こった時期だった。「蒙古襲来」、つまり中国の征服王朝である元が、大挙して九州に押し寄せてきた事件が二度もあったんだ。

 この騒ぎの渦中にあって、『とはずがたり』にはこのことは一行も記されていない。永井さんはこの態度を「政治オンチ」と言い、

政治的に浮上った存在は、必然的に社会に無関心になり無責任になる。それが続けばどうなるか、せいぜい関心を侍つのは、セックスくらいになってしまうだろう。『とはずがたり』はそのいい見本である。(『歴史をさわがせた女たち日本篇』文春文庫)




1258年生まれの二条が14歳の1271年正月にこの物語(通説によれば日記)が始まり、その3年後の1274年(二条17歳)に文永の役、1281年(二条24歳)に弘安の役が起きたことになる。
とまで言い切っている。この状況は、まさに七○年代後半の著者の姿と呼応していて、永井さんが二条に彼らの姿を重ね見ていることは明らかなんじゃないか。杉本さんもこの点についてはほとんど同じだ。

 
政治性は全く欠如していますね。(中略)しかし中央の公家社会の認識は、九州のどこかで何か事が起こったという程度の徴弱なものだったのですよ(笑)。(中略)女性たちはまったく無関心。自分の世界だけにしか心が向かない。女は政治などに関心を持ってはいけないのだというようにしつけられ続けてきましたからね。無理ないといえばいえますけど、それにしてもあまりにのんきすぎる。(『聞き語りにっぼん女性「愛」史』講談社)

ここは杉本苑子氏の低レベルな歴史認識をうかがわせる部分である。当時の公家の(文学作品ではない)日記を見れば、元寇による異常な緊張感が漂っていたことは明らかであり、「中央の公家社会の認識は、九州のどこかで何か事が起こったという程度の徴弱なものだった」などということは絶対にない。鎌倉時代は、武家社会に較べて公家社会の研究が非常に遅れており、このような誤解が生まれる原因のひとつとなっているが、近年、こうした状況はかなり改善されてきている。
 この発言にもとづいて、杉本さんは『新とはずがたり』という小説を書いている。ここでは、語り手を、関東申次(宮廷と幕府との連絡役)という重要な役目にあった西園寺実兼に設定し、二条を単なる女房から、当時全国を布教して歩いていた時衆の開祖・一遍上人によって「自立」に目覚めた女として描いている。

 もちろん、一遍の存在などは原文にはないし、二条の出家が一遍に触発されたものとも思えない。これは杉本流の解釈による『とはずがたり』にすぎないんだ。

私も『新とはずがたり』(講談社)を読んでみたが、杉本苑子氏は西園寺実兼という極めて優れた政治家の価値が全く分かっていないように思われる。

西園寺実兼(1249〜1322.74歳)

一遍上人(1239〜1289.51歳)
 なぜか歴史小説家は「実際にあったこと」にこだわるような気がしてならないんだけど、二条はほんとうに政治オンチでバカみたいな女だったんだろうか。そして、女性はみんな、そうした「頽廃」や「政治性の欠如」から「自立」しなきゃならないんだろうか。

 私は、二条が政治オンチであるという点については異論を持っている。二条は、単に「愛欲」に溺れて自分のまわりしか見えなかったんじゃなくて、蒙古襲来なんてものは、いくら世間が大騒ぎしても、自分の作品に書く必然性がなかったから書かなかっただけと思うのだ。

 たとえば、世間で大ニュースが起きて、大手新聞はみんなそれを一面に大見出しで掲げていても、スポーッ新聞じゃあ「今年も阪神最下位か」なんて言葉が踊っている、ということがあるだろう。スポーツ新聞という世界は、いくら大ニュースでもそんなことを一面に乗せる必然性がないからしないだけだ。

 また、二条の場合、政治についてまったく触れていないとは言えない。たとえば、巻四で、それまで幕府に人質同然の形で将軍として下っていた惟康(これやす)親王が、新しい親王と交代する場面などはちゃんと描いている。それもニュースを聞いてやってきたというんじゃなくて、たまたま自分が鎌倉の八幡の現場に居合わせた、というさりげなさで記しているんだ。

 これは、二条が政権というもの、宮廷と幕府というものへ大きな興味を持っていることを示している。だから、声高に叫ばず、さらりと作品に紛れ込ませているんだ。彼女にとって作品に必要だった政治性とは、蒙古襲来なんかじゃなくて、「誰が政権を取るか」という問題だったといえるだろう。



惟康親王(1264〜1326.63歳)は鎌倉幕府第7代将軍。父は宗尊親王。1289年、惟康親王が京都に送還される場面については、大岡信氏が詳細に分析している(『あなたに語る日本文学史.古代中世篇』)。
 こんなふうに、永井・杉本さんの『とはずがたり』観には、彼女たちが生きた時代の、とくに女性史的なフィルターがかかっていることを忘れてはならない

 もちろん、現代の女性が『とはずがたり』を読んだら現代女性の意識が反映されるだろうけどね。でも、たいていの若い女の子は、古典には永井さんとか杉本さんの歴史小説から入ることが多いようで、「なんか古臭いな」って思いながらも、「えらい先生の書いたものだから間違いないよね」って安心しちゃってるところがある。

 私が注意したいのは、そこなんだ。『とはずがたり』をどう読もうと、それはあなたの勝手。でも、あなた自身の目で見た、あなた独自の読み方でないと、ほんとうに古典とつきあったことにはならない。

田中貴子氏は極めて鋭い人であるが、氏も通説の弱点を痛烈に批判するだけで、『とはずがたり』の最も根本的な問題、即ち前半と後半の関係、そして『とはずがたり』執筆の動機について、自ら積極的に見解を提示している訳ではない。私は、これらの点について、ひとつの仮説をもっているが、それを説明する前に検討しなければならないことが多いので後回しとせざるを得ない。

[参考文献]
瀬戸内寂聴『中世炎上』『とはずがたり』新潮文庫
杉本苑子『新とはずがたり』講談社

[原典を読んでみたい人のために]
『とはずがたり』は新潮古典集成に入っているが、この解説は充分批判的に読んだ方がいい。
『新潮古典集成』の解説(福田秀一氏)はこちら




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