暉峻康隆『日本人の愛と性』(岩波新書)




暉峻康隆氏の略歴(上掲書より)
(てるおかやすたか)1908年鹿児島県に生まれる。1930年早稲田大学文学部卒業。専攻日本近世文学。現在−早稲田大学名誉教授、NHK「さわやか文芸」選者。著書−「定本西鶴全集」「西鶴−評論と研究」「蕪村−生涯と芸術」「芭蕉の俳諧−成立と展望」「落語の年輪」ほか多数。


暉峻康隆氏の見解
私の考え方
封建時代前期(中世)の愛と性


王朝の残照
 将門の乱など小波瀾はあったが、まずは平穏無事に過ぎた四世紀におよぶ平安貴族社会であった。しかし源平の闘争の果てに鎌倉に武家政権が登場し(一一九二年)、政治・経済・文化の主役が交代することになった。それからまたやく四世紀、内憂外患の動乱期を迎えたにもかかわらず、棚上げされた貴族社会は、台風の眼のような静謐の中で、愛欲に関しては信じられないくらい王朝末期的退廃を温存している。その事実を確認するためにも、台風の眼の外の激動の諸相を瞥見しておこう。

 







 十二世紀末に成立した源頼朝の鎌倉幕府は、三代将軍実朝が暗殺されて後、北条氏が執権となったが、執権時宗の文永十一年(一二七四)と弘安四年(一二八一)の再度にわたる元・高麗連合艦隊の来襲を撃退した。その蒙古来襲の外患につぐ半世紀後の内憂は、鎌倉幕府を倒して天皇親政を復活した後醍醐天皇の建武中興(一三三六年)であったが、同年足利尊氏の叛によって、後醍醐天皇は神器を奉じて吉野に入り、その後一三九二年に後亀山天皇が帰京するまでの五十七年間、吉野の南朝と足利氏が擁立した京都の北朝が対立した南北朝時代に突入した。蒙古来襲の外患につぐ内憂の最たる時代、『太平記』の世界である。
(年号違いを指摘のこと)
 一三九二年、南北朝は合一し、三代足利将軍義満によって、事実上の室町時代に入った。しかし東山に銀閣寺を建て、能・茶の湯・活花・連歌・造庭などを開花せしめて文化史上の東山時代を演出した、八代義政の跡目相続に瑞を発する応仁の大乱(一四六七−七七年)の延長線上に、十六世紀末の信長・秀吉・家康の戦国時代を迎えている。まさに疾風怒濤の中世であった。
 もちろん泰平から戦乱へと世の中が変っただけではない。それにつれて後に述べるように結婚の様式も百八十度も様変りしているのに、台風圏外の京都の貴族社会では動ずることなく、王朝以来のスワッピングを続行している。そのもてあそばれた上流貴族女性の一人が、あまりのことに聞かれもしないのに、性の深淵をのぞいたみずからの半生を書き綴った自照の文学を、題して『とはずがたり』という。
 筆者は文永・弘安の再度の蒙古来襲の時に当たる鎌倉中期の帝王・後深草院(一二四六年即位)に仕えた二条という高位の女房名の女性である。彼女は名流の村上源氏の家に生まれた。二条が二歳の時に亡くなった母は、藤原氏四条家の出で、後深草院の乳母であっただけでなく、幼い天皇に男女の営みを教えた女性であった。院はその娘の二条を四歳の年から御所に引取って育て、十四歳の春を迎えた正月に、否応なく愛人にしてしまった。その夜院は、「そなたの幼なかったころからいとしいと思い続けて、この夜を待っていたのだよ」と、幼い紫の上の成長を待って正妻にした光源氏気取りであった。二条は名門に生まれた誇りと美貌と歌才に自負するところがあったのだが、紫の上のようには扱われず、帝のセックスの相手もつとめる女房に週ぎなかった。





 実は二条が後深草院の手活(ていけ)の花になる以前から彼女に懸想(けそう)し、贈り物などしていた縁続きの貴公子、院の側近でもある西園寺実兼(雪の曙と仮名)がいた。二条が院に召された翌年の秋、父が死んだので四条大宮の乳母の家に宿さがりしていると、「雪の曙」が訪れて契りを結ぴ、翌年の九月に「雪の曙」の女子を出産したが、院には死産と報告してすました。
 同じ年の十二月、伊勢神宮に奉仕していた未婚の前斎宮(さきのさいぐう)が院を訪れた。二十歳すぎの斎宮はすっかり成熟して満開の桜のように美しかったので、性的グルメ志向の院はさぞかし思い悩んでおられるだろうと、二条が気の毒に思っていると、夜更けて部屋に戻ってこられた院は思ったとおり、「幼い時から仕えてきたしるしに、あの方を取り持ってくれたら、本当にわしのことを信頼しているのだと思うぞ」とおっしゃるので、二条はさっそく斎宮に渡りをつけて院を導いた。翌朝院は「桜の色つやは美しいが、枝がもろくて手析(たお)りやすい花であった」と、まるで食通の試食感のようにデートの感想を二条に話すのだから、一天万乗(ばんじょう)の君はまことにあっけらかんとしたものである。その二条は院と「雪の曙」(西園寺)との三角関係にあったのみならず、院の後見役や兄弟とも院の勧めでベッドインするのだから、院直属の遊女同様であった。
 
 二十歳の二条は、その秋八月、伏見の御所での院の宴会の夜、三十歳も年上の院の後見役にあたる近衛の大殿こと鷹司兼平(かねひら)に、強引に抱かれた。院の腰を打っている二条を大殿が呼ぴに来て、手を取って引き立てると、院は「早く立て、さしつかえあるまい」とささやき、障子の向こう側で大殿が二条をもてあそぶ様子を、寝たふりをして聞いていたのだから二条が驚きあきれたのも無理はない。
 さらにまた二十四歳の一月、御祈祷のために御所を訪れた院の異母弟の法親王の阿闍梨(有明の月と仮名)が、院の留守の間に二条を涙ながらにかき口説いているのを、戻ってきた院は立ち聞きする。二条が口説かれたことを告白すると、院は「お相手をして一念の妄執を晴らしてあげるがよい」と同衾を勧める。そして修法の最後の夜、すすめられるままに阿闍梨と契り、同じ年の十一月に阿闍梨の男子を生んだが、院の計らいで世間には死産と披露した。その「有明の月」も同月下句にあっけなく病死した。その年、弘安四年の六月、二度目の元・高麗の連合艦隊が北九州に来襲したのだが、その大事件を知るや知らずや、まったく彼女の筆は及んでいない。
 さてその阿闍梨の子を生んだのは十一月。その前月の臨月も間近な二条は、これまた院の差金によって、院の同母弟の亀山新院に抱かれた。同月、嵯峨の離宮に兄弟の院が会した夜、彼女も召されて宴席に侍った。かねてから二条に目を付けていた新院は、「この人を二人の側に寝かせてください」と、しきりに兄院に頼む。後深草院が「二条はただ今身重な身の上ですから、身軽になりましたら仰せのとおりに致しましょう」と辞退されると新院はなお食い下がり、「わたくし方の女房は、どれにても兄上のお気に召しました者をお好きになされませ、とお約束いたしましたのに、その誓いも甲斐なくなります」と引き下がらない。兄院はやむなく「おそばにいなさい」と二条に言い付け、酔ったふりして寝込んでしまった。すると新院は屏風のうしろに二条を連れ込んでもてあそぴ、次の夜もまた添い臥しさせられたのを、「のがるるすべなき宮仕え」と、二条は今さら憂世のならいを思い知るのであった。
 その翌二十五歳の初夏のころ、亀山院との浮名が噂にのぼり、彼女はまもなく御所を追放され、二条町の祖父の家に退下させられた。そうして彼女は三十歳を過ぎてまもなく出家し、浮世の風に当たるとともにたくましい動乱期の女性に変身する。鎌倉を目ざして海道をくだり、しばらく将軍の都に滞在してから武蔵野を訪れて浅草の観音堂で月を賞し、信濃の善光寺に詣でている。帰京してからは大和の春日神社をはじめ法隆寺、当麻寺などの古寺を順礼している。その後も彼女の順礼修行の足跡は、厳島から四国・中国路に及んでいる。四十九歳の秋七月、後深草院の三回忌法会に参会した叙述でこの自分史は終り、これでもう愚痴をこぼす相手もいなくなったと締めくくり、その後の二条の消息は杳としてわからない。だが彼女が私淑したという西行もどきの大旅行を、宮女上がりの身でやってのけたたくましい二条のことだから、後深草院、亀山院、近衛の大殿、有明の月など、自分をもてあそんだ男どもはすぺてあの世に送り込んで今や光風霽月(せいげつ)、さわやかに長生きしたことであろう。
原文では2月に善光寺参詣に出かけ、半年を同地で過ごしてから、8月15日に浅草の観音堂に参詣したことになっており、順序が逆である。

『とはずがたり』は確かに暉峻康隆氏のように解釈される可能性がある書物である。しかし、暉峻氏がとりあげたような話だけではなく、そのほかに極めて多種多様な要素が含まれているので、その全体を理解するために、多くの学者が努力している訳である。
 暉峻氏には全体を理解しようとする態度がそもそも存在しないが、これは暉峻氏の知性の限界であってやむを得ない。
 暉峻氏の歴史観は、要するに町人史観、それもかなり程度の低い町人レベルのものであり、氏が複雑な政治や宗教がからむ中世を選ばずに、近世文学を専攻したのは、正解だったと言えよう。
 愚劣な内容ではあるが、都の西北に密集する在野莫迦のサンプルとしては興味深いので紹介した。


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