更新13.3/26 up11.3/4


外村久江 「五代帝王物語考−正元二年院落書・増鏡との比較−」(前半)
(『鎌倉文化の研究−早歌創造をめぐって−』.三弥井書店.平成8年』.p136以下)


※初出は『日本文化史研究』(肥後先生古希論文集)昭和44年4月






※外村久江氏の略歴はこちら


※原文の傍点部分を下線に替えました。


 

 五代帝王物語は後堀河・四条・後嵯峨・後深草・亀山の五代の天皇にわたる歴史であるが、その内容は先学の既に明らかにされているように(1)(2)、承久の乱後の後堀河天皇〔1212〜34.23歳〕の践祚から書き出して、土御門院〔1195〜1231.37歳〕の皇子後嵯峨天皇〔1220〜72.53歳〕が皇位を継がれるまでの経緯を記した前半と、この天皇の新政並びに御子に当る後深草〔1243〜1304.62歳〕亀山〔1249〜1305.57歳〕二帝の時期の院政の後半とに分けることが出来、結局は後嵯峨の一代にその中心があるといってもよいものである。

 ところで、こういうものが、どのような時期に書かれたのであろうか。また、何の為に書かれなければならなかったであろうかが問題になろう。まず、その著述の時期についてであるが、坂本太郎氏は「著述の年代は、書中に順徳天皇〔1197〜1242.46歳〕の皇子忠成王〔1221〜79.59歳〕の子源彦仁が三位中将で死んだという文があるが、彦仁は永仁六年三月二十三日に死去したことが公卿補任に見えるから、永仁六年(西紀1298)以後の著述である」と述べられ(3)、群書解題でもこの説をとり、写本の識語にある嘉暦二年(1327)書写をもって、成立年代は「永仁六年以降嘉暦二年の間」としている。この彦仁の死と、識語の嘉暦二年については早く、坂井衡平氏が紹介されたものである。坂本氏は先の引用の文に引き続き、「恐らく持明院・大覚寺両統の皇位の争のはげしくなった頃、往時を回顧し、両統の源としての後嵯峨の盛時を思って、追憶の筆をとったものであろう。」と結び、その述作の動機をも推測されている。

 これまでいわれて来た成立の年時についての論の中、下限を識語にある嘉暦二年にとることは問題がないと思うが(4)、上限を彦仁のなくなった永仁六年〔1298〕とすることについては一考すべきものがあると考える。五代帝王物語のこの部分は、宝治年間の鎌倉における三浦氏の乱につづいて、この事件と関係のあったらしい順徳院の宮について述べて、

其御子三郎宮とておはしまししは。源姓給て彦仁とて。正応永仁の比。中将に成て上階などせられしかども。三位中将にてうせ給ぬ。その御子ぞ当時つかさなどなり給ぬる(5)

とあって、順徳院の御子忠成王のあと、その御子の彦仁王、そのまた御子の忠房親王と三代に及んで記されている。彦仁王の死の永仁六年以後の述作は勿論の事であるが、その御子の忠房親王がつかさとなったという点もとれるのではないか。これは、公卿補任によれば、正安三年十二月十五日、正五位下で、元服し、禁色・昇殿をゆるされ、同月十八日には左少将となっているので、上限としては、この正安三(1301)十二月十五日以降をとることが考えられる。先の永仁六年三月と正安三年十二月とでは僅かに三年半ではあるが、この間は、持明院統の伏見院の院政・後伏見天皇の時期で、この正安三年一月には大覚寺統後宇多院院政・後二条天皇と変るのである。両統の皇位継承問題はこの頃から急速に、激しく、且つ、複雑化して来て、持明院・大覚寺両統の中にまた、二流・三流を生じ、単純に両統の対立という状態ではなくなって来る。著作はこのような微妙な動きのある年代の、ある時期に成されたとすれば、この上限のとり方は、慎重を期さなければならない。私は「その御子ぞ云々」の最後の文章を生かして、正安三年〔1301〕を注目することにした。

 それならば、この両統の迭立問題の激化した時期に、何故に、後嵯峨院の一代を書かなければならなかったかが疑問となろう。次に、こういう時期に書かれる以上は、その内容は、当然、両統迭立問題と無関係ではありえないのではないかと考えられ、両統の主張が、この書にはどのように反映しているかが問題となって来る。その上、両統迭立問題には鎌倉幕府が大きな役割を果しているので、この方面も注目する必要があろう。以上の疑問に答えるために五代帝王物語の内容を検討し、諸事件の扱い方を比較し、著作の意図を探り、それによって、作者の属する社会を想定してみた。


 

 五代帝王物語の序に当る箇所に、

後堀河院の御時の事。又未生れぬ世の事なれば。いかに僻多侍らめど。聞及にしたがひてをろをろ注付はべり。

と記しているので、著者は少くとも後掘河天皇〔1212〜34.23歳〕の次の四条天皇〔1231〜42.12歳〕以降に生れたことが知られる。四条天皇は貞永元年(1232)十月四日に践祚されたのであるから、これ以後の生誕として、五代帝王物語の書き終りの後嵯峨院崩御の文永九年(1272)まで四十年間あることになり、四条天皇受禅と同年に生れても、後嵯峨の天皇の時期(在位四年)は著者の十代の前半に当り、院政期は後深草(在位十三年)・亀山(在位十五年、うち最後の一年は後嵯峨院崩御後)両天皇計二十七年で、院政の終末が四十才となる。著者が自身で歴史事象を見聞し、また、それを取捨し、まとめることの可能な年齢は、主として、後嵯峨の院政期である。そういう意味からも、この時期は特に重視される。

 この院政期の中間部に当る後深草・亀山両天皇の交代期の正元二年(1260)に院の御所に落された落書がのこされている。即ち、正元二年院落書(続群書類従雑部)であるが、これは、後嵯峨院の院政に対する不満を四十九項目にわたり「……アリ」という形式で訴えたもので、最後に書かれた「正元二年庚申正月十七日院御所落書云々」の正月十七日は延暦寺衆徒が園城寺戒壇勅許に憤慨し、院宣に抗して蜂起した日である所からも、その内容からも、作者は延暦寺の僧であろうといわれている(群書解題)。こういう性質のものであるから、院政に対し、相当激しい非難の言句が連ねられている。同時期の院政期を取り扱っている五代帝王物語にも、当然、同一事件が記されていて、その評価がまことに対照的であることが注目される。今、そのなかで、記述の重なっている事件を数箇所とり挙げて、比較することにより、五代帝王物語の著者の執筆の態度を考察してみようと思うのである。

 まず、落書は

(1)年始凶事アリ (2)国土災難アリ(番号は筆者書き入れ)

にはじまり、これに類するものに、

(6)諸国飢饉アリ (14)河原白骨アリ

が見られる。これについては、五代帝王物語(以下物語と略す)には、

正嘉三年の春比より世のなかに疫病おびただしくはやりて。下臈どもはやまぬ家なし。川原などは路もなきほどに死骸みちて。浅ましき事にて侍りき。崇神天皇の御代昔の例にも劣らずやありけん。飢饉もけしからぬ事にて。諸国七道の民もおほく死亡せしかば。三月廿六日改元ありて正元と改る。正月上旬の比。死人を喰ふ小尼出来て。よろづの所にてくふといふほどに。……此後少はしづまりたりとは申しかども。七月ばかりまでは猶なごりもありしやらん。さて七月の末よりは病もとどまり世も殊に豊年にてぞありし。

とあって、前年の流行病や飢饉の凶事を記し、そのため改元され、正元元年〔1259〕となったが、それも七月末よりは病気もなくなり、豊年となったとしている。しかし、吾妻鏡には、落書の年の正元二年=文応元年〔1260〕六月四日に、検断に関して、諸国飢饉・人民病死のため、法にすぎず、十年をすぎざる殺害人の放免を令しているし、同十二日には疾疫対治の祈祷として諸国の寺社に、大般若経転読を命じていて、前年でおさまってはいない事が知られる。

 また、(1)年始凶事アリ、には、

(32)園城寺ニ戒壇アリ (33)山訴訟ニ道理アリ (4)政ニ僻事アリ (5)朝儀偏頗アリ (7)天子二言アリ

等と関連して、先にも述べたように、園城寺戒壇許可の事件の憤りが含まれているとみられる。これも、前から起っていた事件であったが、この年の正月四日遂に官符を園城寺に下して許可した為、六日には比叡山の衆徒は日吉・祗園・北野の神輿を奉じて入京、十七日も蜂起したので、十九日にはその官符を返上させるということがあった。このことは物語には、

さて三井寺に戒壇を立べきよし訴申せども。昔より沙汰ありて許されざりしを。正元二年正月四日三昧耶戒にて法臈を定むべきよし宣下せられたりしかば。山門の衆徒蜂起して日吉の神輿を陣頭まで振奉りて。嗷々に訴申によりやがて召かへされぬ。中々面目なくぞ侍し。代々勅裁なかりし事を。適聖断ありて程なく召返さるる。定て様こそ侍つらめ。

と記して、落書で朝議の偏頗・聖断の権威のなさ等をなじっていることに対しても、物語では、何か特別な理由があったことであろうとしめくくっている。物語の著者は、

よき事も悪き事も。皆夢の世なれば、さながら生死輪廻の業とのみなりて。人々世にふるならひ罪業ならぬ事はなければ。是を御覧ぜん人々は。必先念仏十返を申て。六道に廻向せられば。万法皆六字の名号に治るなれば。妄想顛倒の余執。併往生極楽の因となり侍べし。

とその序に記していて、僧侶もしくは出家者らしい様子がうかがえるが、坂井衡平氏は「仏教的因果観や浄土往生の信仰を持した人で恐らく山の入道者であった」のではないかと記されている。しかし、この戒壇許可事件に対して、特に比叡山側の憤慨は想像以上のものがあったから、物語の作者が、公平客観を志していたとしても、あまりに冷静な筆つきなので、作著は山門にも寺門にも属さない人ではないかと思われる。

 落書はこの事件で憤激して投ぜられたとみられるので、当事者の後嵯峨院〔1220〜72.53歳〕とその妃大宮院〔1225〜92.68歳〕に対して、

(10)ソゾロニ御幸アリ (11)女院常ニ御産アリ

とし、その住いには、

(13)内裏焼亡アリ (29)嵯峨殿ニバケ物アリ (31)五条殿ニ天狗アリ

と激しい言葉を連ねている。物語では、後嵯峨院の熊野・八幡・賀茂・高野等の御幸は、後鳥羽院〔1180〜1239.60歳〕等の栄華をしのぐ盛儀として捉えられ、大宮院についても、聖運のたのもしさとしてえがかれている。内裏焼亡については、物語にも、前年のこととして、

同五月廿二日。閑院又回禄あり。最勝講の御装束用途を行事官が下人あまた私用して日は近くなる。いかにもすべき様なくて火をつけたる。末代の作法力なしと申ながら不思議の事也。其下手人は禁獄せられたりしかども云がひなき事にてぞありし。

とあるが、「又」焼けたとあるのは、宝治三年=建長元年(1249)二月一日の炎上、同年六月二十七日造営成って遷幸の事が前に出ているためである。嵯峨殿については、

さて院は西郊亀山の麓に御所を立て。亀山殿と名付。常に渡らせ給ふ。大井河嵐の山に向て桟敷を造て。向の山にはよしの山の桜を移し植えられたり。自然の風流求ざるに眼をやしなふ。まことに昔より名をえたる勝地とみえたり。殊更に梅宮に事由を申されて。橘大后〔嘉智子〕の御願檀林寺の跡に浄金剛院を建られて。道観上人を長老として浄土宗を興行せらる。又大御所の乾角に当りて。西には薬草院をたてられ。東には如来寿量院を立て。御幽閑の地に定らる。是法花の本迹二門を表せらる。事に触て叡慮のそこ思食入ずといふことなし。又大御所に大多勝院と云御持仏堂を造て。天台三井両門の碩学を供僧になされて。春秋の二季。止観の御談義あり。

とある。この部分は増鏡にも影響を与えていて、単なる資料として使われただけではなく、その表現も近似している僅かな例の一つに数えられる所である。この殿では度々盛大な供養も行なわれ、後の天王寺御幸によって、金堂を移して、殿中に、多宝院も建てられ、救世観昔・太子の御影なども安置したことが、文永八年(1271)の項にみられる。ただ、嵯峨殿に怪異があった記載はない。落書の(8)院中念仏アリに対するものも、この文中の浄金剛院で道観上人をして浄土宗を興行したということを指しているのであろう。

 次に五条殿については、物語に、

康元元年二月十日官庁焼亡。同廿八日五条殿炎上。打つづき浅ましかりき。五条殿は大宮院の御所なるべしとて。常盤井の大相国の造られしかば。橘知茂が沙汰にて造りしに。閑院の外京中になきほどの御所に造りたてて。御移徙に両院〔後嵯峨・大宮〕御幸ありて。目出かりしに。程なくやけたりしを。なじかは又つくり侍らざらんと橘知茂申けるによりて。又同き程につくりて。常に内裏にもなりしうへに。将軍御昇りあらば。これが御所になるべしなど沙汰ありて。障子には年中行事を絵にかかれて。経朝の御言葉がきなどして。ゆゆしき御所にて有しに。文永七年八月に折ふし主上も此御所にわたらせ給しに又焼ぬ。大かた此御所には変化どもの事ども常にありと聞えしかば。つゐに久しからず。二度ながらおびただしき焼亡にて。ただごとならぬ儀にてありしは。天魔の所為にや侍らん。

とあり、また、別項に、文永七年(1270)四月十七日主上の御病気に関して、五条殿に「変化の事」が多いことが詳しく記されている。この五条殿は余程有名であったのか、徒然草二百三十段にも「五条内裏には妖物ありけり」と書き出して、未練の狐の化け損じの事が書かれている。物語では、この変化の出没によって、亀山天皇が病気になられ、たびたび験者をもって祈られた事が記され、

大方御在位の時御瘧病は。延喜〔醍醐〕天暦〔村上〕寛仁〔後一条〕延久〔後三条〕など例有。皆聖代明時の佳例とも申べきにや。

と結んでいる。ここにも、主上の病気という憂うべき事に対して、先例をひき、佳例とする書き方が見られるので落書が批難する同じ事件を取り扱っても、物語では凡そ、反対の結果を予想し、祝福で結ぼうとするのである。物語に引かれる先例についてはまた後に触れたい。


 

 この他、落書には後嵯峨院に関して、

(9)当世両院アリ (17)将軍親王アリ (19)諸門跡宮アリ (20)高橋宮ニ嘉寿アリ (41)円満院乱僧アリ

等がみられ、(9)は後深草天皇を廃して、弟亀山天皇を立てられたため、後嵯峨・後深草両院が出来たことを、(17)は御子宗尊親王〔1242〜74.33歳〕が関東に下られ、初めて宮将軍となったことを、(19)は、後嵯峨院の御子が多く、門跡となられた事、即ち性助法親王〔1247〜82.36歳〕は仁和寺、覚助法親王〔1247〜1336.90歳〕は聖護院、慈助法親王〔1254〜95.42歳〕は青蓮院に入られていることをさしている(本朝皇胤紹運録。一代要記)。(20)の高橋宮は後嵯峨院の弟君で尊守法親王といい、天台座主で、文応元年〔1260〕正月二十四日になくなられて、年五十一才であるから、五十の賀に関していったものであろう(本朝皇胤紹運録・続史愚抄)。(41)の円満院仁助法親王.1214〜62.49歳〕は後嵯峨院と同腹の兄弟で、三井長吏・天王寺別当である(本朝皇胤紹運録・一代要記)。物語にも、

円満院宮は御一腹の上。承明門院の御所にて一所にわたらせ給て。互の御志もふかくたのみ申されたれば。政道何事も申合らる。関東にも宮の計申さるるむね賢明なりと申ければ。まして僧中の事は。一向に計ひ御沙汰ありけり。

と記して、その権勢のただならぬ事を述べている。園城寺の戒壇問題の中心勢力であるから、乱僧アリと批難されるのも当然であろうが、その背景に鎌倉幕府の力が考えられることが、物語では明らかにされている。これに似たものに、(42)桜井ニ酒宴アリというのがあるが、これも物語に、

さて院は建長二年三月に熊野へ御幸ありしが同七年三月に重て参らせおはします。御先達は三山検校にて桜井宮後鳥羽皇子覚仁法親王参り給。親王にて御先達是が始めなるべし。

と書かれている方である。後鳥羽院〔1180〜1239.60歳〕の皇子覚仁法親王〔1198〜1266.69歳〕といい、母は舞女滝で、親王は文永三年(1266)四月十九日、六十九才でなくなっている(本朝皇胤紹運録)。

 この他、落書は、摂政・左右内大臣・按察使・大弁の事まで言い及んでいるが、なかでも、承久の乱後に権勢を振った四条家について、(25)四条権威アリアマリと特筆している。物語の方でも四条家の栄華については随所に書かれている。即ち、承久の乱後、後堀河〔1212〜34.23歳〕の践祚に際しては四条大納言隆親〔1203〜79.77歳〕の冷泉万里小路の家に入られ、その後も永くおいでになったこと、建長五年(1253)十二月二十二日法勝寺の阿弥陀堂供養の項には、宝治元年〔1247〕八月焼けたこの堂を隆親が造って供養することになり、行幸・御幸があった事、正嘉元年(1257)三月二十日の高野御幸に隆親・隆顕親子の行粧が人々の眼を驚かす素晴らしさであった事、院五十の御事に働き、その子息が陵王を舞った事等がみられる。

 落書には、前述の(17)将軍親王アリの他に、

(3)京中武士アリ (34)寺法師ニ方人アリ (48)武家過差アリ

というような鎌倉幕府に対するものと思われる声もきかれる。(3)はこの年の衆徒蜂起の不穏な形勢によって、関東より武士数百人が上洛している事をさし、(34)は勿論園城寺の背後には幕府がいて、力を貸していることをほのめかしているものである。また、(48)武家過差アリにつづいて、

(49)聖運スデニスヱニアリ

というので、最終の結びとしていて、公武の対比を鮮明にさせている。物語では後嵯峨院の崩ぜられた所で、歴史上めでたい例になっている白河〔1053〜1129.77歳〕・鳥羽〔1103〜56.54歳〕・後白河〔1127〜92.66歳〕・後鳥羽にもそれぞれの御生涯中に難があったのに、

故院御代は波も風もたたず。みやこの中ことに穏に三十一年保せ御座す事。有がたきほどの聖運にてぞわたらせ給うヘ。叡慮柔和にうけて御慈悲をさきとせり。よろづにつけて御情深くおはしませば。公家も武家も異心異事の心もなく。一すぢに聖慮の貴事を深く仰奉りしかば。さらでだに歎かしかるべき御事に。いとど思に色を添てぞ侍し。

と院の御治世を讃えていて、落書とは全く反対である。勿論、二つの書きものの牲質の相違、一は代々のめでたいことどもを書く鏡類の伝統をうけている歴史書で、しかも、崩御の後という箇所でもあるし、一は時の政治に憤慨した落書であるから、結局の所、両極端の評価となることは当然であろうと思われる。ただ、物語で注意しなければならないことは、後嵯峨の院政を始終単純に讃美謳歌しているというものではないということである。例えば、後嵯峨院が御子後深草天皇〔1243〜1304.62歳〕に譲位した所で、

院は御位さらせ給て後は。いとど世上治て吹風も枝をならさぬ御世にてありし。

と記すが、それにすぐ続いて、

鎌倉に三浦若狭前司泰村。舎弟能登守光村謀叛の事ありて。宝治元年六月五日合戦あり。

とし、この事件が鎌倉ばかりの問題ではなく、この時、京都では順徳院の宮の御元服などがあって、都にも重大な影響があったことをほのめかして、

もし泰村本意を遂たらば。都はいかがあらんずらむと申あひたりしかば御祈ども有しに。誅せられしかば聖運もいとど目出かりき。

と結んでいる。このように、関東の事件も、京都と密接に関連する問題として捉えられ、武士の動向が結局は聖運のめでたさとつながっていることを強調している。こういう点は後に触れる増鏡とは大いに相違する所であり、また、落書も、この点、物語の著者が京都における鎌倉幕府の力を強調する程には武家の権力を認めず、したがって、蔭の力としては諷するが、政治の矢面にはたてていないという違いがみられる。



(1)坂井衡平氏『新撰国文学通史』中巻
(2)木藤才蔵氏「五代帝王物語と増鏡」(日本女子大学紀要文学部一五)
(3)坂本太郎氏『日本の修史と史学』
(4)識語に「嘉暦二年八月廿一日於生源寺西窓書写了、即校合、近来流布号五代記云々」
(5)五代帝王物語の諸写本は平仮名・片仮名の相違や漢字・仮名の出入りはあるが、本文の内容に問題がある程の違いは認められない。以下の引用は群書類従本(村井古厳本)を使った。木藤才蔵氏より松平文庫本の写真を借覧したことを感謝する。



※つづきがあります。こちら




トップページ 参考文献