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辞書・辞典類における『とはずがたり』と後深草院二条の記述







『広辞苑』第五版(岩波書店.1998年)

とわず・がたりトハズ‥【問わず語り】人が問わないのに、自分から語り出すこと。源「あさましかりしほどの─も心憂く」。「─に語る」
とわずがたりトハズ‥【とはずがたり】鎌倉時代の日記文学。作者は中院源雅忠の女(むすめ)二条。五巻。一三〇六年(徳治一)四九歳ごろの執筆か。作者が一二七一年(文永八)正月一四歳で後深草上皇と結ばれてからの宮廷生活の体験・感懐を記した三巻と、三一歳で出家した後に諸国を遍歴した旅の見聞・感想を記した二巻とから成る。愛欲の記録としても注目される。




『日本国語大辞典』第二版(小学館.2001年)

とわず・がたりとはず‥【不問語】(1)〔名〕他人から事情をきかれたりしないのに、自分から話し出すこと。また、相手なしに一人でものをいうこと。ひとりごと。とわずがたらい。とわずものがたり。*蜻蛉(974頃)中・天禄二年「『身をしかへねば』とぞいふめれど、前わたりせさせ給はぬ世界もやあるとて、今日なん。これもあやしきとはすかたりにこそなりにけれ」 *宇津保(970−999頃)蔵開中「いで、あやしのとはずがたりや」 *天理本狂言・酒講式(室町末−近世初)「惣じてそちのむすこは、口のまめな者で手習はせいで人ごと云てとはずがたり斗する」 *信長記(1622)一三・佐久間右衛門尉信盛父子御折檻の事「うちしはぶきつつ、問(トハ)ずかたリをしけるは」 *読本『南総里見八犬伝(1814−42)六・六〇回「茶店のあるじが売弄問話(トハズガタリ)は、只世渡りの方便のみ」 *雁(1911−13)〈森鴎外〉五「その婆さんが問(ト)はずがたりに云ふには」 (2)(とはずがたり)鎌倉時代の日記。五巻。後深草院の二条(中院大納言源雅忠の女)作。前三巻は後深草院御所を中心に、文永八年(一二七一)一四歳で院の寵愛を受けて以来のさまざまの愛欲遍歴とその感想を、後二巻は出家後、西行の跡を慕い、諸国行脚によって、懺悔修行の生活を送る次第とその心境、後深草院三回忌の感概などをしるす。愛欲生活と、それを超克してゆく魂の遍歴を直叙している。 [方言] @問いもしないのにべらべらしゃべる人。饒舌家(じょうぜつか)。島根県鹿足郡725 ◇とろじかたり青森県北津軽郡073 A訳の分からないことを言うこと。島根県出雲725 [発音]トワズガタリ 〈なまり〉トッパジカダリ〔岩手〕〈標準ア〉※〈京ア〉ガ [辞書]言海 [表記]不問語(言)




『岩波日本史辞典』(岩波書店.1999年)

とはずがたり とわずがたり 鎌倉後期の仮名日記。5巻。後深草院二条の作。14歳の年、後深草院の寵愛を得るが、産んだ皇子の夭折に遭う。西園寺実兼や仁和寺御室性助法親王とも逢瀬をもち、御所を退いてから31歳頃出家し、西行に倣って鎌倉・伊勢・奈良・厳島・坂出などを訪ね、院と再会して復交、のち院の3回忌を迎える。前3巻には華やかな後宮生活と愛欲の苦悩が、後2巻には出家後の修行生活が回想される。特異な体験や見聞は貴重な史料であり、構成・文体ともに優れ、一貫する人生史を構築したところが高く評価されている。〔新古典〕

後深草院二条 ごふかくさいんにじょう 1258(正嘉2)−? 鎌倉後期の日記文学作者。父は中院雅忠、母は後嵯峨院大納言典侍(四条隆親女)。後深草院の寵愛を得たが、上臈女房に終り、出家後、諸国修行の旅を試み、また自伝「とはずがたり」を執筆した。




『朝日 日本歴史人物事典』(朝日新聞社.1994年)

後深草院二条
ごふかくさいんのにじょう
正嘉2(1258)〜徳治1(1306)以後
鎌倉時代の日記文学作者。二条とも。大納言源雅忠と後嵯峨院大納言典侍(四条隆親の娘)の子。2歳で母を亡くし,4歳から後深草上皇の御所で育ち,14歳の年,上皇の寵愛を受けるが.15歳で父に先立たれ,生んだ皇子の夭折に遭う。幼なじみの西園寺実兼に言い寄られ,ひそかに契り秘密裡に出産。仁和寺御室(11代)の性助法親王(一説に10代御室の法助法親王)にも恋を告白され,上皇の許しにより逢瀬を持ったが,法親王は病没,その後御所を退いた。31歳ごろ出家し,西行に倣って鎌倉,伊勢,奈良,厳島,坂出などへ修行の旅に出る。旅先で上皇(のち法皇)と再会して旧交を温めあったが,やがてその死に遭い,三回忌までを迎えたことが自伝『とはずがたり』にある。この自伝全5巻の前3巻には華やかな後宮生活と愛欲の苦悩が,後2巻には出家後の修行生活が回想される。特異な体験が興味をひくが,それだけでなく,構成,文体ともにすぐれ,一貫する人生史を構築したところが高く評価されよう。
[参] 松本寧至『とはずがたりの研究』
(三角洋一)




『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』(新人物往来社.平成2年)

にじょう 二条 一二五八〜?(正嘉二〜?)
鎌倉中期の貴族の女性。後深草上皇に仕え後深草院二条ともいわれる。二条は女房名で実名は不詳。大納言中院雅忠と父とし、四条隆親女を母として生れる。二歳のとき母に死別し、四歳から後深草院御所で育てられ、長じて院の女房となった。性助法親王・西園寺実兼などとも交際があった。正応元年(一二八八)出家し、翌年から全国を旅して歩いた。自分の一生を記した『とはずがたり』は当時の宮廷生活、地方の実情などが生き生きと描かれていて名高い。
(飯倉)




『新編日本史辞典』(京大日本史辞典編纂会編.東京創元社.平成2年)

とはずがたり とわずがたり 5巻.鎌倉時代の日記風自伝文学.筆者は大納言中院雅忠の娘で,後深草上皇御所の女房となり,上皇の愛人でもあった後深草院二条(実名末詳).巻1〜3は,宮廷生活と,上皇はじめ西園寺実兼・仁和寺性助法親王らとの愛欲が中心.巻4,5は出家後,関東や中国地方などの旅と修行の記録で,1306年(徳治1)まで.この年からまもなくの成立と推定され,日記の体裁をとりつつ往時を回想したもの.一部虚構もあり,日記文学の伝統の上に,紀行文学を加味している.したがって文字通りの日記ではないが,すでに「増鏡」にも引用がみられ,宮廷生活や地方の事情について,注目すべき史料を含む.古写本は宮内庁書陵部蔵本が唯一.刊本は「岩波文庫」ほか.〔熱田公〕




『日本史広辞典』(山川出版社.1997年)

とわずがたり〔とはずがたり〕 鎌倉後期の女流日記文学。五巻。作者の後深草院二条は源通親の曾孫で、源(久我)雅忠の女。四歳で後深草の院御所に迎えられ、やがて上皇をはじめ西園寺実兼・性助法親王・鷹司兼平、さらには亀山上皇などと次々に関係をもち、少なくとも四人の子供を生む(巻一〜三)。三○歳をすぎて出家し、鎌倉善光寺・奈良・厳島から、四国・中国地方へと修行の旅を続けた(巻四・五)。これは九歳のときにみた「西行が修行の記」に深く影響された結果という。「源氏物語」などの影響が強く、細部のすべてを事実とみるのはためらわれる。「増鏡」に材料として利用される。「完訳日本の古典」「新日本古典文学大糸」所収。




『日本歴史大事典』(小学館.2001年)

とはずがたり とわずがたり
 後深草院の女房で院の寵人だった後深草院二条(久我雅忠女)が、晩年に己が人生 を回顧して書き綴った作品。普通は日記文学に分類されるが、前代・同時代の物語文学の影響も強い。五巻。前半三巻では、院の寵愛を受けた一四歳の春から御所を退出するまでの間の宮廷生活の苦悩が、「雪の曙」(西園寺実兼)、「有明の月」(通説では性助法親王)ら複数の男性との密通などを交えて描かれる。後半二巻は西行に倣って出家した作者の旅と修行の記で、後深草院への忠節と家門再興の願いとが仏道修行を通じて強調される。王朝文学のさまざまな分野の手法を集大成した作品であると同時に、同時代に多くいたと思われる天皇・院の寵愛を受けた女房が自ら書き残した記録としても貴重である。通説では作品の最後の記述がある一三○六年(徳治元)から一三年(正和二)まての成立とされている。伝兼実(かねざね)筆という古筆切が存在するほかは宮内庁書陵部本が天下の孤本である。
〈辻本裕成〉
□ 『とはずがたり たまきはる』(『新日本古典文学大系五○』一九九四・岩波書店)/松本寧至『とはずがたりの研究』(一九七一・桜楓社)




『日本史大事典』(平凡社.1993年)

後深草院二条 ごふかくさいんのにじょう
一二五八(正嘉二)−?
後深草院の女房で愛妾。日記「とはずがたり」の著者。後深草院の近臣久我雅忠の女として一二五八年(正嘉二)に生まれた。母の大納言典侍近子(四条隆親女)は、後深草院に新枕を教えた人であったが、二条が二歳のときに死んでいる。七一年(文永八)、一四歳で後深草院の寵を得て御所に女房として出仕、翌七二年には父の雅忠が死んで孤児となり、以後、後深草院のきまぐれな愛情に翻弄される宮廷生活を送った。一方で、院の近臣西園寺実兼や仁和寺の高僧(法助とする説と性助とする説がある)とも関係を結んでいる。これらの男性との間に少なくとも四人の子を生んでいるが、いずれも夭折したり生別したりして、晩年は孤独な単身者としての生涯を送った。後深草院は弟の亀山院と不和になり、これが持明院統と大覚寺統の対立という王家(天皇家)の分裂の危機にもつながっていくが、こうしたなかで二条は、後深草院の命令で、後深草と亀山の不和・緊張をほぐすため、亀山とも関係を結ぶ。しかし、これが後深草院の嫉妬となり、八八年(正応元)二条は御所を追放されて出家、翌九年以後、みずからを女西行になぞらえて熱田・鎌倉・奈良・瀬戸内と旅の生涯を送る。一三○四年(嘉元二)の後深草院の死に際しては、後深草の葬送の車を裸足で追った。○六年(徳冶元)以後の消息は不明。 細川涼一
[参] 『とはずがたり』新潮日本古典集成、新潮社。松本寧至『中世宮廷女性の日記』中公新書、一九八六年。

とはずがたり とわずがたり
後深草院の女房で愛人でもあった後深草院二条(中院雅忠の女)の日記文学。伝本は宮内庁書陵部に一本のみ伝わる。晩年にその生涯を回顧する形で綴られた自伝的作品で、全五巻から成るが、大きく前編三巻、後編二巻に大別できる。前編三巻は、一二七一年(文永八)、作者が一四歳で後深草院の御所に出仕して以来、後深草院の寵愛を受けながらも、院の近臣の「雪の曙」」(西園寺実兼)、院の護持僧の「有明の月」(仁和寺御室性助・法助の両説がある)とも関係を結ぶなどの愛欲に満ちた宮廷生活が描かれる。後編二巻では、八九年(正応二)後深草院のきまぐれな寵愛の果てに御所を追われて出家し、尼となった作者の東国鎌倉への旅、次いで西国への旅などが描かれる。二条はこの旅に流離するみずからを、女西行、あるいは小野小町の落塊した姿になぞらえている。そして、一三○四年(嘉元二)の後深草院の葬送に際して、その葬送の車を裸足で追った二条は、○六年(徳治元)、院の女の遊義門院と再会し、院の三周忌の仏事を聴聞するところで回想は終わっている。鎌倉時代末期の後深草院の持明院統、亀山院の大覚寺統の対立が激しくなっていく時期の公家政権内部の実態を、女性の立場から描いた書物としても貴重である。 細川涼一
[刊] 『新潮日本古典集成』。『講談社学術文庫』




『国史大辞典』(吉川弘文館)

とわずがたり とはずがたり 鎌倉時代末期、徳治元年(一三〇六)ごろ成立の女流日記。五巻。作者は村上源氏の名門久我(中院)大納言雅忠の女で、母は四条隆親の女大納言典侍。正嘉二年(一二五八)誕生。没年不詳。後深草院後宮時代の女房名は二条。一皇子を生んだが翌年夭折した。ほかに愛人との間に一女二男を生む。前三巻が宮廷生活篇、後二巻が御所退出出家後の紀行篇にあたる。作者の波瀾に富んだ一生を、みずから語らずにはいられぬという内発的な欲求から発想した特異な自伝文学で、文学史上また女性史上も高く語価されるが、記録文学としても多面的な資料を提供する。本書は鎌倉時代中期から末期ヘ、作者十四歳、後嵯峨院の院政時代の終期あたりから始まる。朝廷では皇位経承の問題をめぐって後深草院と同母弟亀山院との間に対立が起り、対幕府の関係もからみ、持明院・大覚寺両統の迭立期を経て、のちの南北朝動乱の端緒となるが、この紛争の遠因をなす両院の対立の始まった時期の微妙な状況を、その一方の上臈女房であった作者の眼でとらえた貴重な記録である。前篇は後嵯峨院死没前後の状況、大宮院・弟院と兄院の不和、兄院の出家表明から一転して幕府の慰留と東宮決定、両院の交遊、廷臣間の官位の争奪、西園寺家の繁栄、准后貞子の九十の賀の盛儀など、後篇では将軍の交替、幕府要人平入道一門の動静などが、必要な時点で作者の見聞として正確に記述され、ことにつぎつぎ計画される両統の宴遊では、親睦の間にもみられる両院の性格の差と激しい対抗意識が、時には作者自身を中にして生々しく活写される。社会的な事象としては六波羅北方北条時輔の伏誅、神木入京の騒擾、流行病の猖獗などに触れ、紀行篇では東国から近畿・中国・四国まで、各地で実際に見聞した熱田社炎上ほか地方史的な事象や人間交流を具体的に記録している。風俗史・精神史方面では、政治の実権を失った宮廷の頽廃漁色をはじめ、亀山院鷹司兼平西園寺実兼ら最高貴族と作者との関係、また作者との愛欲に身を滅ぼした有明の月(性助法親王とみられる)など、それぞれの人間像や宮廷の裏面史が、事件の当事者である作者の体験を通して鮮明に描き出されている。宮廷の内外でも、伝統の文化や宗教、新興の勢カや思潮が相交錯し浸潤してゆく状態がうかがえ、遊女の中にも、個我を自覚し自立しようとしていた事例を見出す。後篇では地方の武士や豪族、神官らとの文芸的交遊の記事が生彩をそえる一方、後深草院や亡父への追慕とともに、大覚寺統の後宇多院の皇后となっている院の皇女遊義門院への接近を力をこめて記述して筆を擱いているが、その直後に女院は急逝しているから、その後の作者の動静はわからない。自己の恋愛事件などを語る部分には、自己弁護や、文学的修辞がみられるが、全体としてきわめて大胆率直で文章も洗練されており、古典文学を完全に自分のものとして活用するほか、中世語や漢語も駆使し、今様や説話を紹介するなど、文学・国語史上にも貴重な資料である。『増鏡』もこの作品の各巻を材料として露骨に引用しており、これが秘本として一般に流布されなかったことを示す。本書は少なくも三回の転写を経ており、宮内庁書陵部蔵の江戸時代初期の写本五冊が、現在唯一の伝本である。翻刻本文は『校注古典叢書』などに所収。
[参考文献]山岸徳平『とはずがたり』解題(『桂宮本叢書』一五)、次田香澄『とはずがたり』解説(『日本古典全書』)、松本寧至『とはずがたりの研究』、玉井幸助『問はず語り研究大成』
次田香澄




『日本女性人名辞典』(日本図書センター.1993年)

後深草院二条 ごふかくさいんのにじょう 正嘉二年(1258)〜没年不詳
 鎌倉期の日記文学作者。父は中宮大納言源(久我)雅忠、母は大納言四条隆親の娘近子。母が大納言典侍として後深草天皇に仕え寵愛をうけた関係で、幼時から後深草上皇に近侍し、二条と呼ばれ、文永八年(一二七一)上皇の寵を得る。その一方で上皇の謀臣西園寺実兼と恋愛、また関白鷹司兼平、上皇の弟性助法親王と交渉を持ち、亀山天皇とも噂を立てられた。上皇の子、実兼の娘、法親王の子二人などを生むが、いずれものちに死別または生別している。のち宮廷を辞し、正応元年(一二八八)伏見天皇の中宮永福門院(実兼の娘)の入内に伴い再出仕して三条と呼ばれる。翌二年出家し、鎌倉を中心に東国を、乾元元年(一三〇二)厳島から四国、中国を巡る。帰京後、後深草上皇の死没にあい、一代記『とはずがたり』五巻の執筆をはじめる。『とはずがたり』は、後深草上皇(持明院統)と亀山上皇(大覚寺統)との対立、政治の実権を失った宮廷の退廃と漁色などを、自己をも客観化した率直な筆致で描き出し、さらに女西行とも評される自己形成の旅は、朧化と自己観照を主とした平安期の女流日記文学とは一線を画している。文学史上、女性史上高く評価されているばかりでなく、『増鏡』に多量に引用されているように、記録文学としての価値も高い。嘉元四年(一三〇六)作者四九歳の記事で終っているので、この年をそう下らずに完成したと推定される。(『とはずがたり』『古典文学大辞典』)




『和歌大辞典』(明治書院.昭和61年)

とはずがたリ 〔鎌倉期日記〕作者は源雅忠女、二条。現存写本は宮内庁書陵部蔵禁裏本(桂宮本叢書15)一本のみ。成立は嘉元四1306年から徳治二1307年七月の間か。品高き久我家の女でありながら、後深草院後宮に出仕し己が愛欲体験に基づき、在鎌倉政権下の京都宮廷内部の退嬰ぶりを活写すること空前絶後(一〜三巻)。忽然として尼僧の姿を現す四・五巻にあって、東は長野善光寺、西は厳島、足摺押へと行脚した記は紀行文学として秀逸、女西行といわれるのも故なしとしない。同じ女流日記文学とはいえ、平安朝のそれとは朧化しない筆致において格段の差があり、異色な作品。他人の歌五○首を含み、一五○余首の詠を含む。 【参考文献】『とはずがたりの研究』松本寧至(昭46桜楓社)『問はず語り研究大成』玉井幸助(昭46明治書院)*「とはずがたりの構想」和田英道(立教大学日本文学昭51・12)
(守屋省吾)

(参考)
後深草天皇 ごふかくさてんわう 〔鎌倉期歌人〕名は久仁。寛元元1243年六月一○日−嘉元二1304年七月一六日、六二歳。第八九代天皇。寛元四年から正元元1259年まで在位。父後嵯峨院は後深草院(持明院)より同母弟亀山院(大覚寺)を鍾愛、のみならず亀山院皇子世仁親王(後宇多院)を春宮とし、後深草院を疎外する。後深草院の愁訴により幕府が調停に入り、皇子煕仁親王(伏見院)を後宇多院の春宮とし、以後両統交互の皇位継承となるが、時と共に両統の対立は沈澱しつつ南北朝への因を形作って行く。後深草院の人となりの一種独特の異常性は『とはずがたり』に活写されてあますところがない。玉葉集に一首入集。
(守屋省吾)




『増補改訂 新潮日本古典文学辞典』(1988年)

後深草院二条 ごふかくさいんのにじょう 正嘉二−?(一二五八−?) 鎌倉後期の日記作者。村上源氏、中院大納言雅忠の女。後深草院に仕えて二条と称した。正応元年(一二八八)、伏見天皇の中宮永福門院※子の入内の際に再び宮仕えし、三条とよばれたこともある。※金へんに「章」
 その日記『とはずがたり』は、自身の生涯を顧みて問われずとも語らずにはいられぬ衝動からつづった自伝的作品。混沌たる愛欲世界を超克して宗教に浄化されていく過程を叙した懺悔修行の記録で、ここにみられる鋭い人間観察と真摯な宗教心とは、いずれも中世的精神の現れであるが、かくまで大胆に赤裸々に自己を暴露し、現実を果断に描写しきった作品は他にまったく類例がない。まさに女流日記文学中最高級に属する傑作である。『とはずがたり』中の行事などに関する部分を、『増鏡』が資料として、「飛鳥川」「草枕」「老の波」「さし櫛」などの巻々に採用している。
 【とはずがたり】とわずがたり 日記。五巻。正和二年(一三一三)までには成立した徴証があるが、おそらく嘉元四年(一三○六)以後そう距らず成ったであろう。初めて後深草院の寵を受けた文永八年、作者一四歳のときから起筆、翌年、後嵯峨法皇崩御のあとを追うように父が死んで孤児となる。院と並行的に「雪の曙」(西園寺実兼)との秘密の交渉を続け、罪の呵責に悩む(巻一)。高僧「有明の月」(後深草皇弟、仁和寺性助法親王説と藤原道家子、准后法助説とがある)から執拗な求愛を受け、心ならずも身をゆだね、また、院の慫慂で「近衛大殿」(摂政鷹司兼平)にも許す(巻二)。「有明の月」とのことはついに院に知られ、許されて一段と熾烈な恋に陥ったが、「有明の月」は悪疫に罹ってあえなくこの世を去る。以前より二条に愛情を示していた亀山院とも遂に関係をもつに至ったが、その噂、東二条女院(後深草中宮)の嫉妬などもあり、後深草院の寵愛の衰えた作者は、御所を追われるに至る。その後は弘安八年北山准后九十賀に出仕した(巻三)。出家を遂げた作者は西行に倣って正応二年東国の旅に出る。鎌倉で将軍惟康親王の罷免、新将軍久明親王の下向などに際会。翌年善光寺参りを果したという。浅草観音を拝み、隅田川その他の歌枕をたずねて帰京。また奈良路におもむき、諸社寺を巡礼、翌年は石清水八幡宮で後深草法皇と再会、ついで伊勢大神宮に詣で、翌年招かれて法皇と往時を語りあう(巻四)。乾元元年西国厳島に参拝。ついで四国足摺岬にもおもむいたとしるし、崇徳院旧跡をも訪れた。帰途備後の土豪の許に立ち寄って思わぬ難儀にあい、修行の辛さをつぶさに味わって帰京。嘉元二年後深草法皇崩御にあい、悲嘆にくれる。記事は法皇三回忌の嘉元四年作者四九歳までで擱筆(巻五)。〔テキスト〕(A)宮内庁書陵部編『とはすかたり(むぐら)』(昭二五、再版昭三二、養徳社『桂宮本叢書』)、(B)福田秀一『とはずがたり』(昭五三、『新潮日本古典集成』)、(C)井上宗雄・和田英道『とはずがたり』(昭五九、創英社『全対訳日本古典新書』)、久保田淳『とはずがたり』(二冊。昭六○、小学館『完訳日本の古典』)。(松本寧至)




『日本古典文学大辞典』(岩波書店.1984年)

後深草院二条 ごふかくさいんのにじょう 鎌倉時代の日記文学作者。後深草院に仕えて二条とよばれ、伏見天皇中宮※子(西園寺実兼の女。永福門院)入内の折には、三条とよばれた〈増鏡・第十一さしぐし〉。中院大納言源雅忠の女。母は四条大納言隆親の女近子。正嘉二年(一二五八)の誕生。『とはずがたり』により、嘉元四年(一三〇六)四十九歳までのことがわかるが没年未詳。 【家系】父方は村上源氏で、代々有力な政治家や勅撰歌人が出ている。曾祖父は土御門内大臣源通親、祖父は後久我太政大臣通光である。雅忠は具平親王から八代にあたり、二条自身歌道の名門であることを「竹園八代の古風」と誇っている。母の近子は、後深草天皇に仕え、大納言典侍、略して「すけ大」とよばれ寵をうけたが雅忠と結婚、二条を生んだ翌年に死去。二条は近子の忘れ形見として後深草院に愛された。 【閲歴】弘長元年(一二六一)九月、四歳で院御所に参り、九歳の時、絵巻『西行が修行の記』をみて西行を慕い諸国行脚にあこがれる。文永八年(一二七一)後深草院の寵をうける一方、西園寺実兼の求愛もうけ入れる。当時は後嵯峨法皇の院政下にあり、後深草院は院政を行えない不満から、実兼と結んで、皇子(伏見天皇)即位への運動を進めていた。同九年父の死で孤児となり身辺の不安定さから実兼のほか鷹司兼平・性助法親王(法助とする説もある)と交渉をもつ。これらの男性達との間に少なくとも四人の子を生んだが、夭折したり生別したりして、その後半生は孤独であった。二条を永福門院の実母とする説もあるが、疑わしい。また亀山天皇とも噂を立てられ、それらも一因となって後深草院の愛情も冷え、宮仕えを退く。弘安八年(一二八五)北山准后九十賀に連なり、正応元年(一二八九)永福門院入内に出仕したが、その後出家し、同二年二月鎌倉を中心に東国をまわる。乾元元年(一三〇二)厳島から四国・備後等を旅する。帰京ののち後深草院の崩御にあう。そこで生涯の意味を求めて『とはずがたり』五巻を書いた。二条は伝統の世界に育ちながら、それを捨てて旅と信仰に新しい生き方を見出したところが中世的人間であるが、作家としては王朝的なものと中世的なものを統合した散文作品を残した点が注目される。しかし、和歌界に名をとどめることを望みながら、ついに勅撰集に入集することはできなかった。[生没]一二五八−?
〔松本寧至〕
【参考文献】次田香澄『とはずがたり』(日本古典全書)昭和41年。○松本寧至『とはずがたりの研究』昭和46年。○玉井幸助『問はず語り研究大成』昭和46年。○宮内三二郎『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』昭和52年。

とはずがたり とわずがたり 五巻 日記文学。後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう)作。作中の後宇多天皇の注記からの割出しで正和二年(一三一三)十一月十七日以前に成立していたことは確かだが、記事最終の嘉元四年(一三〇六)をそう下らずに成ったのであろう。
【作意】鎌倉時代後期、後深草上皇に愛された女性が過去を回想して綴った自伝的作品。「とはずがたり」という題名は作者自身の命名と思われるが、この語が示すように自己の体験・見聞を語らずにいられない衝動に駆られて書いたものである。跋文にも、廃れようとしているわが家の歌道の誉れを再興しようとしたが成功しそうもなく、そのかわりに、華やかだった宮廷生活のこと、西行の跡を慕っての旅の思い出を書いた、といっている。後深草院崩御後の悲しみと孤独感のなかで、自己の存在証明のためには自伝的作品を書く以外になかったであろう。全五巻を大きく前三巻・後二巻に分けると、前編は後深草院御所の生活、後編は東国・西国の旅がおもな内容になっている。宮廷における愛の遍歴、快楽と苦悩と、それを捨てて出家し諸国行脚の仏道修行に新しい生き方を求めて行く女人の生涯を述べたものである。
【梗概】巻一 −二条が後深草院の寵愛をうけた文永八年(一二七一)十四歳の正月から起筆。翌年、父が死んで孤児となるが、院と並行して「雪の曙」(西園寺実兼)との秘密の関係を続け、罪の呵責に悩む。巻二−高僧「有明の月」(院の異母弟性助法親王、法助とする説もある)の求愛をうけ、また院のはからいによって「近衛大殿」(鷹司兼平)にも身を委ねる。巻三−「有明の月」との関係は院に知られるところとなったが許されて、灼熱の恋として燃えさかる。しかし、かれは流行病にかかって死ぬ。亀山天皇とのことも噂となり、東二条院(後深草院中宮)の排擠にもあって、やがて寵衰えた二条は御所を退出することになる。その後、北山准后貞子九十の賀の盛儀に大宮院女房として出仕する。巻四−かねて念願していた出家を遂げた二条は、西行にならって東国の旅に出る。鎌倉を周遊するうち、将軍惟康親王が廃されて都へ護送されるあわれな様を目撃する。ついで後深草院の皇子久明親王が新将軍として下るその御所の準備などに参画する。ついで小川口(埼王県川口市)に下って越年、善光寺参詣をすませて高岡石見入道の邸に逗留。帰途、武蔵野の秋色をめで、草深い浅草寺に参り、隅田川・堀兼の井などの歌枕をたずねて鎌倉にもどり、帰郷。まもなく奈良路をめぐり、途中石清水で後深草法皇と再会。また伊勢から熱田をまわる。伏見御所に招かれて法皇と往時を語りあう。巻五−それから九年後、正安四年(一三〇二)安芸の厳島をさして旅立つ。厳島からの帰途、足摺岬に行き、帰って西行にならい白峰・松山に崇徳院の旧跡を訪う。またもどって備後の和知に行き、そこで二条の教養が高く評価され、落ちとどまるようすすめられ、豪族間の争いに巻き込まれて、下人にされそうになるが、かつて鎌倉で会ったことのある広沢与三入道に救われて帰ることができた。嘉元二年正月、東二条院崩御、ついで七月に後深草法皇の病悩のことがつたわり、心を悩ますが、ついに七月十六日崩御。悲嘆にくれて裸足のまま霊枢車を追う。その後に法皇三回忌までのことがある。
【特色・影響】愛欲編・修行編は霊と肉の相剋であり、混沌と浄化という対照であるが、一体に立体的に構築されているのが特徴である。後深草院と実兼の性格の相違、または院が好色の対象として召した扇の女とささがにの女の対比、東国の旅と西国の旅、陸路と海路もそうで、作者の論理的な思考と知的な創作力を示す一端である。そして各巻にクライマックスの場面を設定している。物語文学の影響も顕著で、『源氏物語』の影響はもっとも濃厚であるが、構成の巧みさは『狭衣物語』からうけ、女性を主人公とし心理描写の詳しいことは『夜の寝覚』に学んでいる。『伊勢物語』からも想を得ている。説話文学や当時流行の絵巻にも関心を示す。『豊明絵草子(とよのあかりえそうし)』はその絵詞の類似性から二条作者説もあるが、『とはずがたり』の影響作であろう。そのほか先蹤作品から多くを吸収して、虚構的な要素もつよい。史実との矛盾は作者の記憶違いという点もあるが、意識的なものも多い。例えば「有明の月」に関する記事と史実との矛盾ははなはだしいが、作者はもちろん事実を書くより人間性を書くことに目的があったのである。地理の上でも不審が多く、足摺岬行きは虚構とみられている。父への思慕と報恩の念から歌道の誉れを再興したいという宿願をもって作歌に執心するが、これは狂言綺語観の展開であり、文学即仏道という考えで、執筆の背景をなす思想である。旅は西行にならったというが、足跡は一遍と重なるところが多く、二条と時衆は近接関係にあったと思われる。歌も作中に一五八首あるが、大部分は作者の創作であろう。『とはずがたり』は『蜻蛉日記』以来の女流日記における自己観照の精神を仏教によって中世的に自己形成という形で達成した作品である。日記文学の伝統と中世の新しいジャンルである紀行文学の要素とを加えた日記文学の総決算としての意義がある。なお、『増鏡』の「あすか川」「草枕」「老の波」「さしぐし」にかなり多量の引用があり、この歴史物語の重要な資料となった。
【諸本】伝本は江戸中期の書写になる宮内庁書陵部蔵御所本が孤本である。『増鏡』の引用本はどのようなものか不明であるが、『禁裡御蔵書目録』には中山宣親・甘露寺元長写の五冊本があり、『実隆公記』明応六年(一四九七)五月二十六日・同八月二十二日の条には姉小路基綱の女(卿内侍)の書写と校合の記事がある。書陵部本はこの本を祖本としていると考えられる。また東山御文庫および書陵部蔵の『歌書目録』に記載するのも現存本をさしていよう。後世の転写本であるから誤写も少なくない。研究者によって校訂が行なわれている。
【複製】笠間影印叢刊。【翻刻】岩波文庫。桂宮本叢書15。角川文庫。新潮日本古典集成。日本古典全書。
〔松本寧至〕
【参考文献】中田祝夫『とはずがたり全釈』昭和41年。○松本寧至『とはずがたりの研究』昭和46年。○玉井幸助『問はず語り研究大成』昭和46年。○宮内三二郎『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』昭和52年。


※「辞典・辞書類における『増鏡』の記述」はこちら





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