更新14.3/15 up12.12/15

※上横手雅敬氏の略歴はこちら。
| 上横手雅敬氏の見解 |
私の考え方 |
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歴史を見る眼は、明らけき鏡でなければならないのだが、歪んだ鏡に照して、偽りの姿を写すことが、いかにも多い。古人には思いもよらぬ事を、さかしらに忖度し、それをしも「眼光紙背に徹す」などと、自他ともに誤解することが少なくなかったのである。 |
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| 増鏡の研究史を余す処なく論ずる自信はさらさらないが、かつて歴史学の立場から、この古典をとりあげた研究の中には、もとより全く聞くべき点がないとはいえぬものの、右のような所感を抱かせるものが少なくない。曰く、承久・元弘の討幕に重きをおいた、曰く、公家一統の政治をねがった、南朝びいきであった、大覚寺統に好意をもった、武家政治に反感を抱いた、後鳥羽・後醍醐の悲運に涙し、武士の暴悪をにくんだ等々。もちろん、このすべてがまちがっているとはいわない。しかし、このような論説には、明かに一つの先入主がつらぬいている。南朝正統論、それである。歴史の流れを見る上に於いて、正閏論自体が無意味なのだが、かつて南北朝時代史の蒙った歪曲と受難の痛ましい疵痕は、増鏡研究史の上にも、くっきりと印されている。国史学の大きな目的が、国体の大義の究明におかれていた時期の研究を、今更逐一批判するつもりもないが、「史学に従事する者は其心至公至平ならざるべからず」「勧懲の旧習を洗ふて歴史を見よ」という重野・久米の啓蒙をくり返したくなるのは、わりなき思いがするのである。 |
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| 文学的素養の乏しい私が、増鏡のどの部分がすぐれているかという論議に入れてもらってよいか不安だが、やはり後醍醐天皇の悲運を中心とする「くめのさら山」を推したい。「めでたし」が全篇で一五○回以上出てくるそうだが、まことにめでたずくめで、いささか退屈ぎみの私が、ぐっと膝をのり出したくなるのは、この部分である。確かに作者は天皇に同情している。だからといって、南朝びいき、大覚寺派、武士へのいきどおりなどを云うのは軽卒である。幕府に不満を持っていたにしては、「心ばへなどもいかにぞや、うつつなくて、朝夕好むこととては、犬くひ・田楽などをぞあそばしける」(第十五)という高時は別として、「心も猛く魂まされる」義時(第二)、「いと心かしこくめでたき聞えありてつはものも靡き従ひ、大方世も静かに治まりすましたり」という時頼(第五)、「いとめでたきもの」(第九)という時宗と、鎌倉もめでたき器量人ばかりである。 |
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| 大覚寺・持明院統の皇位争いをはじめ、宮廷の様々な紛争には、多くの筆を費しているが、むしろ作者がこの種の問題に関心の深いのは当然で、さりとて誰がよいとか悪いとかいっているのではない。時に「いづれも離れぬ御中に、挑みきしろひ給ふほど、いと聞きにくきこともあるべし」(第七)と紛争の醜さの余り、やりきれなさを洩らす程度で、南朝びいき云々は論外である。南北朝時代に、前代の事を記す場合、後醍醐天皇に同情したとしても、憎しみは北条氏に向けられこそすれ、足利氏は全く別のことだし、逆に鎌倉攻めの新田義貞が、足利義詮を奉じて挙兵したというような珍らしい記述を行ない、後世の学者を狼狽させ、恰好の論題を与えた点など、足利びいきだとさえいえぬこともない。 |
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| しかし、私は南朝びいきを裏返して、北朝びいき、足利びいきをいうのではない。作者の政治的立場を云々する問題設定の愚をいいたいのである。本書を特定の立場と結びつけ、愚管抄・神皇正統記のごとき傾向の書と同日に論ずるさかしらを批判したいのである。武士の強盛をなげき、天皇の悲運に涙するのは、当時の貴族の一般的心情であって、特殊の立場と結びつくものではない。それは歎きであり涙であっても、それ以上の何ものでもない。いきどおりにもならないし、まして行動にはならない。 |
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| 「くめのさら山」のすぐれた描写は、後醍醐天皇への同情によるものだけだとは断定できない。伝え聞く去にし承久の昔はさておき、天皇が遠流に処せられるという異例が、作者の文学的感興をそそった事情をも考えておくべきである。この悲運につけて思い出されるのは、「後鳥羽院の隠岐にうつらせ給けん時」だけでなく、「崇徳院の讃岐におはしましけんほどのありさま」も含まれており、連想は果されざりし討幕よりも、異域の天皇へとはたらいているのである。そして後醍醐天皇の配流と脱出に、作者の感興は、いつしか須磨の浦の光源氏の身の上との対比に移っている。 |
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| 承久と元弘に重点があるといわれるように、後鳥羽院の描写は、確かに後醍醐天皇のそれと対比される。後者への深い関心が、前者にも多くの筆を費させたのであろう。しかし「くめのさら山」にあたる後鳥羽院の「新嶋もり」は、先学の推賞にも拘らず、余りすぐれているとは思えない。作者の手許に院の詠草が多数用意されており、その素材を連ね記すことに興味があるようで、「新嶋もり」から、詠草を除けば何も残らない。しばしば引用される承久の乱の論評は「さてもこのたび世のありさま、げにいとうたて口惜しきわざなり」で始まるが、「うたて口惜しき」と歎くものの、「この世ひとつのことにもあらざらめども、迷ひの愚かなる前には、なをいとあやしかりし」と問題を投げ出してしまう。それは詠歎であつても、悲憤や批判ではなく、「名分の乱れた時代にかくも見事な批判を下し得たもの、当時に於いて幾何あつたであらうか」(平田俊春「吉野時代の研究」五九○頁)とほめられては、作者もさぞ気恥ずかしかろう。ましてその後で、すぐに院を評して、「万機の政事を御心ひとつにをさめ、百の官を従へ給へりしその程、吹風の草木を靡かするよりも優れる御ありさまにて、遠きをあはれみ近きを撫で給御恵み、雨の脚よりも茂ければ、津の国のこやの隙なき政事をきこしめすにも、難波の葦のみだれざらむことをおぼしき」とあるのを見ると、作者の政治音痴は、まことにいとおめでたい。かの北畠親房にして、峻烈、公正な後鳥羽批判のあるのを知る人も多いであろう。めでたき王朝趣味と源氏の世界を、落ち下れる世に再現することこそ、作者の最大の関心だったのである。 |
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| 「かやうに聞ゆる程に、蒙古の軍といふこと起りて、御賀停まりぬ。人/゛\口惜しく本意なしと思すこと限りなし。何事もうちさましたるやうにて、御修法やなにやと公家武家ただこの騒ぎなり。されどもほどなくしづまりて、いとめでたし」(第八) |
| 文永五年、蒙古の国書が来た際のこの記事には、いささか胸をうたれる。後嵯峨院の五十賀の停止を口惜しく思う様が目に浮ぶのである。しかしこれもめでたく鎮まると、ひまゆく駒の足早み、こんな所に滞っているのも惜しく、筆は後宇多の立坊に進む。この態度を非国民扱いするのは野暮である。危急が迫って来ぬ限り、蒙古よりも賀宴の方が大切なのが、なべての貴族の生活と意見なのである。
増鏡は政治的に読まずに、王朝趣味で時代を観じた真澄の鏡として読む方が素直であろう。すべてめでたく非難がましいことを殆ど記さぬ作者にして、幾何かの批判が見えるとすれば、それは洗練された趣味に外れたものへの風俗批判である。亀山院の後宮の争いにふれて「宮仕のならひ、かかるこそ、昔の人はおもしろくはへあることにし給けれど、今の世の人の御心どもも、余りすくよかにてみやびをかはすことのおはせぬなるべし」(第七)と、「今の世の人の御心」の「昔の人」に比べて品下れるを歎くのもそのためであり、亀山院の周辺の男女の乱脈も、作者の関心をそそるものの、さすがに乱がわしきものと見ている。そして全篇をつらぬく一つの批判的立場は、今の世の移ろい易い人心に向けられている。「目の前にうつろひかはる世中かなとあぢきなし」(第十一)「目の前に移り変る世の有様、今さらならねど、いと著くけちえんなるもあぢきなし」(第十五)といった記述は、随所に拾い得よう。その意味で、私は巻末の |
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の歌と、この歌によって立てられた終巻の巻名「月草のはな」にとくに意味を感じるのである。「月草のうつればかはる」は、建武中興の瓦解や、北朝の栄華の瓦解、吉野の天子の帰京を示唆したり、期待したりするものではない。この歌の直前にある四条隆資の例が直ちに示すように、人心のうつろいを意味するものなのである。後醍醐天皇の還京が本書の獲麟となっているのは、それ以後の歴史の展開が、作者にはなお整理しきれぬ現代史であったためだと考えるが、還京に重点を置くとすれば、巻名は、 |
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の歌からとった方が、「おどろのした」「新嶋もり」「むら時雨」「くめのさら山」の流れにもマッチして、よりふさわしいであろう。「月草のはな」こそ、強いていえば、本書の主要なるテーマの一つなのである。 |
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| 王朝趣味で書かれた本書から、後鳥羽・後醍醐などの人々について、比較的軽んぜられた一面を読みとりうるのは貴重である。「おどろのした」に見る水無瀬宮の御遊の記事など、勇猛で意志的だったという後鳥羽院のイメージと、ややかけはなれたものが感じられる。それは我々の常識ばかりか、明月記の後鳥羽像とさえやや異っており、若干の警戒も必要だが、後鳥羽・後醍醐を皇権回復・討幕の一色にぬりつぶし、いつしか歪めてつくられて終った虚像を、いくらか修正してくれる。日々の両天皇の行状が、他の諸天皇・貴族と異らなかったのを知るのも、大切なことである。これは作者の立場によるのであろう。学殖の深さは知らず、政治的には特異な立場をもたず、貴族大衆の一員にすぎなかった作者の眼には、その平凡さの故に価値が認められるのである。 |
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| 増鏡は政治的には痴呆の書であったし、そこから歴史書として見た場合の、本書の限界が生れる。「保元ノ乱イデキテ後ノコトモ、又世継ガ物ガタリト申物ヲカキツギタル人ナシ。少少アルトカヤウケタマハレドモ、イマダヱ見侍ラズ。ソレハミナタダヨキ事ヲノミツルサントテ侍レバ、保元以後ノコトハ、ミナ乱世ニテ侍レバ、ワロキ事ニテノミアランズルヲハバカリテ、人モ申ヲカヌニヤト、オロカニオボエテ」 − 愚管抄(第三)のこの記事にふれて、すでに一五○年も以前に、慈円が増鏡のおちいる欠陥を予言していたように思えてならない。世継風の歴史叙述は、「ヨキキ事(=めでたき事)」をのみ記すにふさわしいものであり、「世ノウツリカハリ、オトロエタルコトハリヒトスヂ」を追求する慈円は、あの特異な文体と史眼を以て、世継と快別しなければならなかったのである。従ってこの意味で増鏡は、やはり、 |
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であった。ただ幸か不幸か、作者はその歴史叙述の破綻を意識していなかったのである。
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