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| 山岸徳平・鈴木一雄氏の略歴(※) |
山岸徳平(やまぎしとくへい) 明治26年、新潟県に生まれる。東京大学文学部卒業。著書に『源氏物語』(一)〜(五)など。 鈴木一雄(すずきかずお) 大正11年、東京都に生まれる。東京文理科大学国語国文学科卒業。著書に『夜の寝覚』など。 (※上掲書による。後日、より詳細なものに差し替えます。) |
| 雲居の秘事(ひめごと) 亀山院の寵も得ず、院の出家後ほとんど忘れ捨てられた寂しい妃、※子女王(※てへんに侖)。女として盛りの身を世から断たれたような佗び住まい。女王に同情し奉仕献身する若き中将。奉仕者であり、妃の信頼する従者である、中将の女王を思う心のうちはいかに。稲妻が走り、雷鳴とどろき、風の烈しいある夜、悪天候をついて中将ははせ参じ、つねのように宿直をつとめるのであったが……。 これは一編の物語である。歴史物語としての『増鏡』にとって必要な素材といえるかどうか。『大鏡』も説話を積みあげて人間を描いた。しかしその説話はかならずその人の政治的命運にかかわる対決の一瞬を核にしていた。政治的人間の、政治的力量を印象づける説話をたたみかけて人間を描き、それによって歴史を顕現した。 『増鏡』の、朝廷・仙洞中心の、しかも儀式・行幸・宴遊をつらねる、王朝的文化顕彰の歴史には、これまた、歴史的にはほとんど意味のない、雲居の、世からは隠された男女の恋が織りこまれる。 『大鏡』は女性を ─すくなくとも愛情に生きる女を描かなかった。歴史の波にゆらぎあえぎながらも、その瞬間、時間を忘却させる男女の恋の物語は、もとより『大鏡』の世界にはない。むしろ『源氏物語』の世界の思慕である。政治的人間の血みどろな対決の説話ではなく、これは情趣に生き愛憎におののく恋愛の物語である。『増鏡』には、歴史物語には異質と思われる男女の恋の物語が、時に、それこそ歴史物語の限界を越えてまで物語の文体をとって織り込まれているのである。 『増鏡』としては、後深草院や亀山院関係の後宮の多彩多岐な実情に触発され、さらにそこに生きる女性たちの後日譚を大きく取りあげたことになるが、その意味では、後深草院と異母妹※子内親王(※りっしんべんに豈)との情事から※子の後日譚におよぶ物語と、亀山院の出家後の妃たちの生活から派生した、掲出の※子女王の悲しい恋の物語はまさに双璧といえる。 後深草院と異母妹※子内親王との情事は『とはずがたり』に拠って書かれたものであるが、実に「第九草枕」の過半をさいて語られているのである。 ─後嵯峨院崩御にともなって斎宮※子内親王が都に戻って来た。大宮院※子がこれを慰めて呼び、亀山殿で後深草院とも同席することとなる。「御髪いとめでたく、さかりにて、二十に一二やあまり給ふらん」と見える※子内親王の美しさに、院は部屋に戻っても「まどろまれ給はず。ありつる御面影、心にかかりておぼえ給ふぞいとわりなき」という始末、輾転反側の末、「御はらからといへど、年月よそにて生ひ立ち給へば、うとうとしくならひ給へるままに、慎ましき御思ひもうすくやありけん」、ついに、情欲のおもむくまま、兄と妹の道ならぬ情事におよぶことになる。『増鏡』も「けしからぬ御本性なりや」と一言している。
などの文章は、『源氏物語』や以後の王朝物語の「濡れ場」そのままの筆致であり、まさに「物語仕立て」というほかはない。翌日もまた、後朝の文から始まって、一日がくわしく描かれるが、この結果は「その後も、をりをりはきこえ動かし給へど、さしはへてあるべき御事ならねば、いと間遠にのみなん」というはかないことになり終わる。 しかし、そこから物語は後深草院を離れながら、さらに急転するのである。※子内親王は、その後西園寺実兼の恋を容れ、その来訪を心待ちにするようになる。ある夕暮れ、訪れる実兼の行列を避けたつもりの二条師忠を、女院側では実兼と思い違えて、今度は師忠と契ってしまうというのである。光源氏が空蝉と間違えて軒端の荻と契った話の逆照射ともいえるし、さらに『堤中納言物語』の「思はぬ方にとまりする少将」さながらの話柄ではある。 さて、亀山院妃※子女王の場合はどうであったか。これまた好個の短編物語として読めるであろう。まず、女王の孤独をかこつ寂しい境遇や、それにふさわしい佗び住まいが描かれ、しかも、亀山院の目には映らなかったものの、「この頃いみじき御盛りの程にて、まほにうつくしう」、とうていこのまま朽ち果てるには惜しい美貌の持ち主と強調される。 そこに、「源氏の末の君に、中将ばかりなる」男があらわれる。彼は黙々と奉仕し、献身する。「風あららかに吹き、稲妻けしからずひらめきて、神鳴りさわぐ、常よりも怖ろしき夜」にも、雨に濡れそぼちつつ、女院に馳せ参じるのである。男のつつましい奉仕ぶりが殊勝である。 男に心中を語らせない。それほど女王と男の身分の懸隔が大きいということである。この男の名すら示さず、すべては漠として、謎を秘めたままである。物語は後半の盛り上がりを期しているのであろう。さて、強風・稲妻・雷鳴……、孤独と怖ろしさにおののく女院。舞台装置はそろった。男は神妙に夜明け近くまで宿直をつとめた。
まさに絵巻物の画面に見るような描写である。余韻として、女王思慕の激情をじっと押さえ静めようとつとめる男の心を言外に感じとってもよいであろう。「つくづくとさぶらひ給へば……」の「給へ」は、この話を通じて「男」に添えられたただ一つの尊敬語である。女王には尊敬語、男には相手方尊敬の謙譲語のみ、これが身分違いの恋物語の進め方である。ここだけに男に尊敬語のあるのは、やはり何らかの意味を持つと思われる。 その男が、突然行動をおこすのである。これまでのつつましさ、奉仕・献身を一挙に捨てて女王に迫った。男の激情である。押さえに押さえた思慕の情をかき口説く ─というには「いと馴れがほに添ひ臥す男」といった表現が男には気の毒だが、身分違いの奉公人、従者として信頼しきっていた女王の困惑・苦痛・不快がどこまでも主である。 こうした表現も男は甘受せねばなるまい。女王にとっては、いかにかき口説かれようとも、亀山殿の妃としての誇りがある。男の恋は、女にとって苦痛であり不快以外のなにものでもない。「さばかりいみじかりし院の御目うつりにこよなの契りの程やとおぼし知らるる」ばかりである。 六条有房のこと 女の身は弱い。いかに自分を強奪した男を憎もうと、その子を宿してはいかんともしがたいことになる。「いとうたて心づきなうおぼされながら」、女王はその男の子を生んだ。中将は有頂天である。 ─これがこの話の結末である。この男の以後の立身、それも晩年の異例な出世を語り、はじめて有房 ─村上源氏の末、六条通有の子 ─であることを明かして、この恋物語を結ぶ。 さきに紹介した前斎宮※子内親王をめぐる情事よりは、有房の一途な恋で貫かれているだけにこの恋物語には救いがあるといえよう。末文の有房の晩年の栄達の書き添えもさこそとうなずかれるものがある。 六条有房は太政大臣久我通光の孫であるが、父六条通有が正四位右少将ではやく没したためもあって、若くから苦労をしたらしい。正安二年(130)五十歳の時、まだ正三位非参議にすぎず、嘉元元年(1303)五十三歳にいたって権中納言に任ぜられ、従二位となった。その後栄達して延慶元年(1308)権大納言、文保二年(1318)、従一位、元応元年(1319)、死の床に臨んで内大臣に任ぜられ、後宇多法皇はその病床を見舞ったという。 彼の、 位山のぼりはてても峰に生ふる松に心をなほ残すかな の歌は、『新千載集』(雑中)に「文保の百首の歌奉りける時」と詞書して入集し、 あつめ来し窓の螢の光もて思ひしよりも身を照らすかな の一首は、『続千載集』(雑上)に、「嘉元の百首の歌奉りし時、螢」と詞書して載せられている。前者は、従一位に任ぜられてなお高官を望む執念を、後者は、若き日の苦節を回顧して晩年の栄達に満足の心境を詠んだものである。 女王※子のその後には『増鏡』もまったく触れていない。若き日の六条有房の恋物語につづくのが、同じく亀山院妃の新陽明門院位子(父は関白近衛基平)の、院出家後の淫乱に近い情事の話であるが、これらは、いずれも亀山院の「御心のあくがるるままに、御覧じすぐす人なく、乱りがはしきまでたはぶれさせ給ふ程に、腹々の宮たち数知らず出(い)で来給ふ。おほかた、十三の御年より宮は出(い)で来そめさせ給ひしが、年々に多くのみなり給へば、いとらうがはしきまでぞあるぺき」(「老のなみ」)と記され、「昔の嵯峨天皇こそ八十余人まで御子持給ヘりけると承り伝へたるにも、ほとほと劣り給ふまじかめり」(同)と言われる行状に原因するものであろう。後深草院といい、亀山院といい、後宮関係の紊乱は想像以上のものであった。 『増鏡』が、これをあらわに描いたのは、かならずしも指弾でもなければ批判でもない。この傍観者的・客観的公正さを持す作者が、もし、どうしても後宮関係の多彩多情な生活史を、そして、歴史物語としては枝葉末節にすぎない、むしろ歴史から切り離された男女の情事までをも事こまやかに書かずにいられなかったとすれば、やはり、木藤氏もいわれるように、「増鏡の作者は、源氏物語をはじめとする王朝の物語の面影を、鎌倉時代の貴族の生活に求め、王朝の伝統を確認しながら、歴史を書きつづってい」く意欲(日本古典文学大系『増鏡』解説)をこの作品の根底に求めねばならないであろう。 |