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※山岸徳平・鈴木一雄氏の略歴はこちら。
| 『増鏡』の書き方 『増鏡』では、序文を離れると対話形式がもうあらわれない。あの「口すげみたる」老尼のロ吻も、ほとんど影をひそめてしまう。叙述はほぼ編年体である。
巻頭第一「おどろの下」の書き出しである。ここまでならば『大鏡』の天皇紀と大差ないが、つづいて、「その年の春の頃」「またの年」と、年をついで記述され、後白河法皇に皇位継承者として指名された経緯、寿永二年(1183)八月二十日の践祚、元暦元年(1184)七月二十八日の即位の次第というように、その叙述はまったく紀伝体と異なり、なだらかな編年体で記されている。それは『栄花物語』方式といえよう。 序文は『大鏡』以来の鏡物方式、そして本文は『栄花物語』方式。そして文章表現にも、『栄花物語』や『源氏物語』の影響が深く、特に『源氏物語』に倣った行文も多く見られるが、その点についてはなお後述することにする。 『増鏡』の構成 『源氏物語』や『栄花物語』の影響は、それに倣った優艶雅致に富む擬古文体や、それにふさわしい巻名の優しさなどからも察せられるが、編年体叙述といいながら、時に一事件をそれだけで数年分まとめて記す方式を交えているなど、歴史叙述の円熟した手法にも気づかせられる。特に、十七巻全体を通読して注目させられるのは、大きく山場を押さえ、たくみに緩急のリズムを盛りあげる構成のたくみさである。 承久の変を頂点とする後鳥羽院の悲痛な生涯と、元弘の乱を中心とする後醍醐天皇の波瀾万丈の半生とを、二大高峰として首尾に据え、その間に、後嵯峨院、後深草院、亀山院などの、武家支配の制約下になお堅持しつづけた仙洞・朝廷の優艶華麗な諸行事、御幸、そして日常生活の哀歓を尽くしてゆくのである。 これは、『増鏡』の構成といってよい。単に、鎌倉時代の動乱の史実を年月順にたどった自然の結果とばかりはいえないであろう。大きな山場の、その一つ一つがまた、それぞれ小さなリズムを持っていることからも、首尾の大きい山場である後鳥羽院の生涯と後醍醐天皇の半生の扱いがまた、決して同様な繰り返しではなく、首尾呼応させながら、しかも詳略繁簡、たくみに密度を異にしていることからも、あるいは延延と続く宮廷日常の優雅な世界に、点々と哀愁に満ちた恋愛絵巻や愛欲のエピソードを交えている点からも、『増鏡』の構成のたくみさは説明できるのである。 『増鏡』全体の大きなリズムは、能楽の序破急三段の構成にも比せられているが(日本古典文学大系『増鏡』解説)、なっとくできる卓見と思う。後鳥羽院を中心とする「第一 おどろの下」「第二 新島守」「第三 藤衣」が「序の段」、「第十四 春の別れ」にはじまり、「第十五 むら時雨」「第十六 久米のさら山」「第十七 月草の花」が「急の段」、世阿弥が『花鏡』でいう「揉み寄せて、乱舞・はたらき、目を驚かす気色なり」にあたる構成となる。 「破の段」は、間に挿まれた十・十一巻を包含するが、『花鏡』では「三番目より、能は、細かに手を入て、物まねのあらん風体なるべし。其日の肝要の能なるべし。かくて、四・五番までは破の分なれば、色々を尽くして事をなすべし」という。 『増鏡』の場合も、じつは中間十・十一巻ほどの、一見、諸行事、御幸、日常生活が続いて、今日の私どもにはやや退屈に感じるかもしれぬ叙述に、まことにこまやかな配慮をこめていて、筆者の最も書きたかったのは、当時の王朝的文化生活の存在証明とその価値の宣揚をこまやかに尽くすことにあったともいえるのである。 ともあれ、まず「序の段」を取りあげよう。先述のように、この大きい山場も、三巻それぞれに色調を異にし、「おどろの下」では主として後鳥羽院政の盛時における華麗豪奢な風流韻事を、「新島守」で承久の変に敗れて隠岐に赴かれた後鳥羽院の悲痛な心境を和歌を中心に、そして「籐衣」では隠岐のわび住まい十五年を経た頃からの後鳥羽院の不遇な晩年三年間を扱ってその崩御にいたる、たがいに因となり果となって、おのずから対照させつつまとまりをつけるのである。ここでは、「序の段」のなかでも盛りあがりを見せる承久の変に焦点をあわせて「新島守」を読むことにした。 公家の武家認識 『増鏡』はどこまでも京都側、公家側から見た歴史物語である。歴代の天皇に関しては、その父母、誕生、元服、立坊、践祚、即位、後宮、子女、譲位、出家、崩御などをかならず記している。これに対して、鎌倉の将軍に関しては、親王将軍、清華将軍を別にすれば、源頼朝にも、三代右大臣実朝に対しても敬語すら使おうとしない。 事実上の支配者であった執権の北条氏の場合も、京都側とのかかわりにおいて登場させられるにすぎず、時頼に関して、諸国を修行して民政に意を用いた話を挿み、その子時宗にも賛辞を呈したり、逆に高時にはその粗暴逸楽な性質を指弾したりといった、それぞれの人物には客観公平を保つ記述があるが、全体としてはどこまでも脇役として配されるのである。 ここに『増鏡』の公家中心の精神を見ることができるが、これこそ、当時の京都の公家が、圧倒されながらも決して誇りを失わなかった、そして支配されながらも、ついに蔑視の眼をそらさなかった対武家観の反映であろう。公家上流の貴族たちのかたくななまでの内面の露呈である。 圧倒的な武力を持ち、鎧袖一触、たちまち院側を敗走せしめ、一挙に京都を制圧するほどの義時・泰時父子が、承久の変勃発時にはかくも動揺している。天皇みずから先頭に立っての軍勢であったらという泰時の問いに対して、その時は恭順のほかなし、と義時は答えるのである。 鎌倉時代の公家・武家両勢力の関係がかく認識されていたというよりも、これもまた京都側、公家側に見られる武家認識、極言すれば、公家の武家に対しての期待とか願望とかを汲むべきであろう。京に進撃を開始する泰時・時房らの大軍、そのなかに一騎馳せ戻って父の真意を問う泰時 ─ この話が、『増鏡』以外の諸書にはまったく記されていないことも考え合わさねばならない。 |
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