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山岸徳平・鈴木一雄 「待望の御子出生−第五『内野の雪』−」
(『鑑賞日本古典文学.大鏡・増鏡』.角川書店.昭51.p231以下)





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額縁の中の摂関権力

 「第三 藤衣」の終わりに、後鳥羽院の孤島における悲嘆哀愁の生涯を描いたあと、『増鏡』は、いわゆる「破の段」に入る。「第四 三神山」から「第十四 春の別れ」あたりまで、後嵯峨天皇から後醍潮天皇の前半にいたる歴代の事績である。いわば、『大鏡』の帝紀(天皇紀)だけの叙述がつづく。

 帝の誕生・元服・立坊・践祚・即位・入内・立后・出産・譲位・院号・出家・崩御の記事や、行幸・遊宴・諸儀式の連続のなかに、居並ぶ人々の装束やら、盛儀の模様の逐一やら、ときには奥深い雲居に秘められた情事までをもまじえて、繁をいとわず繰り返すのである。

 『大鏡』でいえば、天皇紀のなかに、列伝における帝関係の細事だけを添えたかたちである。承久の変と元弘の乱とにはさまれた両統迭立期における宮廷・仙洞内部の生活史─それも平安王朝にまがう文化的・情趣的生活史─にむしろ視座を求めて記されているかのようである。ともあれ、編年体叙述の大枠として天皇歴代の諸事項を省くことはない。

 これに反して、平安時代には政治支配者であった摂関公卿貴族への顧みはあまりにも薄い。『栄花物語』や『大鏡』『今鏡』があれほど力を注いだ摂関家の権勢家たちの系譜は影薄く、摂関交代などの記事もきわめて簡略である。

 摂関の交代といえば、『栄花』『大鏡』の世界では、政治権力の行方を占う最重要事項であったはずである。院と帝とをさえ記せば、『増鏡』においては、端役としての宮廷朝臣たちの事績は、すっぽりとその影に隠れてしまうのである。摂政といい、関白といっても、すでに威信地に堕ち、形骸化して、武家政治の規制内に動くほかはない時代の実状を如実に反映しているというほかはない。

いまの摂政は、院(後鳥羽)の御時の関白(基通)の大臣、その後は、後京極殿(良経)ときこえ給ひし、いと久しくおはしましき。この大臣はいみじき歌の聖にて、院の上おなじ御心に、和歌の道をぞ申行はせ給ひける。(第一 おどろの下)

家実の大臣、また摂政になりかへらせ給ひて、よろづおきてのたまふも、さまざまに引きかへたる世なりかし。(第三 藤衣)

はかなく明け暮れて、貞応もうち過ぎ、元仁・嘉禄・安貞などいふ年も程なくかはりて寛喜元年になりぬ。この程は光明峰寺殿(道家)また関白にておはする。(同)

同じ三年七月、関白をば御太郎(教実)の大臣に譲りきこえ給ひて、わが御身(道家)は大殿とて、……(同)

嘉禎三年より岡屋の大臣(兼経)摂政にていませしかば、そのままに、今の御代のはじめも関白ときこえつれど、三月二十五日、左の大臣(良実)にわたりぬ。(第四 三神山)

といった簡略な記事が散見するだけである。摂関の交代からその人の権力・系譜や事績行状におよぶこともほとんどない。その摂関交代の記事も、

十一月になりて、五節の頃、去年をおぼし出でて、その折に関白にておはせし兼忠の大臣に櫛遣はすとて、新院(伏見院。この年七月二十二日後伏見天皇に譲位)、

 をとめ子がさすや小櫛のそのかみにともに馴れこし時ぞ忘れぬ

御返し、歓喜園前摂政殿(兼忠)、

 いとどまたこぞの今宵ぞしのばるるつげの小櫛を見るにつけても
(第十一さし櫛)

という、永仁六年(1298)の鷹司兼忠の摂政辞任の記事までであって、以後、摂政・関白も、儀式参列とか事件にかかわるとか、事にふれて登場するのみである。前引の「をとめ子が」「いとどまた」の贈答歌は、譲位の帝と、これを輔佐した前摂政とが、ひたすら「現役時代」を回顧し、懐しむ体(てい)である。あたかも形骸化した摂関の挽歌ともいうべき趣がうかがえるのである。

 『増鏡』が武家には敬語さえ添えない冷たさを見せながらも、将軍に関しては頼朝・頼家・実朝の三代をも比較的くわしく、つづく清華将軍・親王将軍の歴代すべてを記し、執権北条氏をも、公武交渉の責任者、事実上の支配者として、時政・義時・時頼・時宗・貞時・高時などに筆がおよんでいるのに比すれば、摂政・関白など公家の影の薄さが明らかであろう。摂関の交代など、鎌倉時代の動乱の政局にほとんど意義がないということである。『増鏡』の作者としては、まったく不本意なかたちで、はからずも「歴史の眼」の確かさを証明しているところでもある。

 こうした摂関上流貴族の扱いの大勢のなかで、異例ともいうべきは西園寺家の人々である。阿波の土御門上皇の御子として、源大納言通方に預けられ、「心ぼそげに」「人わろくあぢきなう」過ごされる宮が、四条天皇の崩御に、一転して運命がひらけ、帝位につくこの後嵯峨天皇開運の経過を劇的に記した「第四 三神山」の掉尾には、

まことや、この頃前右大臣ときこゆるは実氏の大臣(おとど)よ。その御女(むすめ)、十八になり給ふを、女御に奉り給ふ。六月三日入内(じゆだい)あり。儀式、有様、になく清らをつくされたり。母北の方は四条大納言隆衡の女(むすめ)なり。女御の君いとささやかに愛敬(あいぎやう)づきて、めでたくものし給へば、御覚えいとかひがひしく、よろづうちあひ、思ふ様なる世の気色(けしき)、飽(あ)かぬことなし。同じ年八月九日、后に立ち給ふ。その程のめでたさいへばさらなり。

と、右大臣実氏とその女で、後嵯峨天皇の中宮※子を紹介する。西園寺家の登場であり、台頭である。以後、第五 内野の雪」をはじめとして、以下の巻々にも西園寺家の人々の記事はくわしい。
※女へんに「吉」

 「内野の雪」では、まず実氏の父公経の西園寺建立のめでたさに筆を起こし、その結構規模や風情眺望をくわしく述べて、平安王朝の全盛期の金字塔ともいうべき道長の法成寺に劣らずと讃美し、つづく実氏も「をさをさ劣り給はず、世のおもしにて、いとやんごとなくおはする」うえに、後嵯峨天皇の寵を得た女御※子の懐妊が加わる。

 掲載の本文は、※子中宮の出産のまことに詳細な経過を語る。待望の皇子(後深草天皇)の誕生である。おそらく『紫式部日記』や『栄花物語』にも倣って記されたであろうこの条は、表現・文章が王朝の世継物語や日記の体に似ているだけではない。平安摂関時代─そこでは娘の皇子出産こそ、父権力者にとって政権獲得の道であった─そのままの熱の入れようなのである。鎌倉幕府の掣肘(せいちゅう)を受けつつも、宮廷内部では、摂関支配の原則がまさに生きつづけている。

 京に限られ、宮廷内部に局限されながら、─『増鏡』のなかにおいても、次第に摂関の影がうすくなる趨勢は前述のとおりであるが─、その範囲内では、額縁の枠内における限り平安時代のままなのである。というよりも、頑固に平安時代を保守しているといえるであろう。『紫式部日記』や『栄花物語』に倣った文章は、たしかに生きているのである。



西園寺家の人々

 首尾やいかにと、更衣腹の皇子をとどめて待つ後嵯峨帝、「宿世見ゆべき際ぞかし」と祈念する父実氏、「皇子誕生ぞや」と声高く叫ぶ兄公相、一時に緊張が解けて茫然とし、喜悦の興奮にまきこまれてゆく一家中、─まさに大願成就の一瞬である。御湯殿の儀、人々の禄、御佩刀、親王宣旨、立太子がつづき、ここに後深草天皇誕生をめぐる西園寺一家の興奮もようやく静まるのである。

 それにしても、その後も西園寺一門への筆はくわしい。大宮院※子が後深草院、亀山院の生母であり、※子の妹公子は後深草院の中宮となり、実氏自身は太政大臣にいたり、その子公相、孫実兼などみな顕われ、一門を五摂家をしのぐ権門にのしあげたのであるから、後嵯峨・後深草・亀山三院の時代のその繁栄ぶりからして当然ともいえる。しかし、『増鏡』全体の宮廷摂関貴族の扱いから見て、やはり異例ともいえる詳細な記事というぺきであろう。こころみに、木藤才蔵氏の『増鏡』(校注古典叢書)の年表に沿って、西園寺家関係をあらあら抜き出してみれば、

 第四 三神山
○仁治3(1242)・6・3 大宮院(※子)入内。
○8・9 大宮院立后。

 第五 内野の雪
西園寺公経、北山に西園寺を建立(元仁元・12・2供養)。
寛元元(1243)・6・10 後深草院降誕(掲出本文の個所)。
○8・10 後深草院立太子
○寛元4(1246)・1・28 後深草院践祚。
○即位(3・11)。
●大嘗会のころ、少将内侍、西園寺実氏の歌に返歌す。
○宝治元(1247)以来、後嵯峨院、所々に御幸(大宮院ほぼ常に同行)。
●後嵯峨院、西園寺実氏の吹田山荘に、しばしば御幸。
●公事のまねを女房たちにさせる(建長2秋)。
○建長元(1249) 亀山院降誕(5・27)。
○建長5(1253)・1・3 後深草院元服。
●10・10頃 後嵯峨院・大宮院(※子)鳥羽殿に朝覲御幸(建長2・10・13)(太政大臣実氏喜悦)。

 第六おりゐる雲
●康元元(1256)・12・17 東二条院(公子)、後深草院に入内(1・17)。
○正嘉元(1257)・1 東二条院立后(1・29)。
●西園寺実氏一門繁栄す。
○正嘉2(1258)・8・7 亀山院立太子。
●正元元(1259)・3・5 大宮院(※子)北山邸で『一切経』供養。
○8・28 亀山院元服。

 第七北野の雪
○11・26 亀山院践祚。
○12・28亀山院即位。
●西園寺公宗、妹京極院(佶子)に恋慕す。
●文応元(1260)・10・22 京極院(佶子)、亀山院に入内(12・22)。
○弘長元(1261) 今出川院(嬉子)入内(6・14。西園寺公相の女)。
●弘長3(1263)・2 亀山殿へ御幸(13日)。後深草院・大宮院(※子)・東二条院(公子)と亀山殿に御幸(14日)。
●5、後嵯峨院、亀山殿で『如法経』書写(28日)。
●大宮院(※子)同じく書写。
●十種供養。
●文永3(1266) 西園寺公相(太政大臣)、後嵯峨院の前で憂いを述ぶ。
○文永4(1267) 西園寺公相没(10・12)。
●12・1 後宇多院降誕。

 第八 あすか川
●文永5(1268)・閏1・24 後嵯峨院五十賀試楽を冷泉殿で行う(1・24)。
●2・17 後深草院御所で御賀試楽を行う(閏1・17)。
○8・25 後宇多院立太子。
●9・13 白川殿月見の宴にて後嵯峨院出家の本意をもらす。
●10・5 後嵯峨院、亀山殿に御幸。同夜出家。逆修を始む。
●文永6(1269)・3・1 月華門院(綜子。後嵯峨院第一皇女、母大宮院※子)没。
●文永7(1270)・10 後嵯峨院、宸筆御八講を亀山殿に修す(7日)。
●文永8(1271)・1月 後嵯峨院、後深草院と御方わかちのことをす。
●8・20 東二条院(公子)、女子を出生す。
●文永9(1272)・1・17 後嵯峨院、亀山殿へ御幸。
●2・17 後嵯峨院没。
○2・23 大宮院(※子)出家。
●洞院公雄出家(2・22)。
●後嵯峨院の遺言、亀山院の親政。

 第九 草枕
●文永11(1274)・1・26 後宇多院践祚。
●1末 後深草院『法華経』の書写を始む。
●2・7 亀山院御幸始め(大宮院滞在の実氏旧邸へ)。
○3・26 後宇多院即位。
●建治元(1275)・10 後深草院、前斎宮☆子内親王(後嵯峨院皇女)と亀山殿に会し契る。
●☆子内親王をめぐって、後深草・西園寺実兼・二条師忠の情事。

 第十老のなみ
●建治3(1277)・1・3 後宇多院元服。
●1・22、亀山殿に朝覲御幸。
●弘安元(1278)・10 二条内裏炎上(閏10・13)。
そのころ、大宮院(※子)病む(後深草院・亀山院、つねに見舞う)。
●亀山院の後宮に人多く、あまたの御子生まれる。
○後宇多院の後宮人少なし。
●弘安8(1285)大宮院(※子)の宿世のめでたさを強調。
●2・30 准后貞子(西園寺実氏の室)の九十の賀を北山邸で挙行。
●3・1〜2 北山邸で御遊・和歌・蹴鞠の会を行う。

とつづく。「第十一 さし櫛」以下にも、永福門院(□子)やその父実兼、後醍醐天皇中宮礼成内院禧子のことなど、なお西園寺家系の記事はあるが、ひとまずここでとどめる。記事の上に●印を付したものは木藤氏が本文の叙述の詳しいものとされた項目であり、( )内は正しいと思われる年月、ならびに、筆者の付言などである。記事は多少語句を変えたところもあるが、おおむね木藤氏年表をそのまま使わせていただいた。これを表に整理すると、

木藤氏増鏡年表 西園寺家関係記事
全体項目数 叙述の詳細な項目 全体項目数 叙述の詳細な項目
三神山 15
内野の雪 25 15 12
おりゐる雲 12
北野の雪 16 11 12
あすか川 18 14 14 12
草枕 14
10 老のなみ 29 20


となり、『増鏡』の特に後嵯峨・後深草・亀山三院の時代を中心に、その後宮に人を入れ得た西園寺家関係の記事の多さ、またそのくわしさがわかるであろう。大宮女院※子の後深草院出生がその端をなしているだけに、掲出本文の、

御兄の大納言公相、「皇子誕生ぞや」と、いと高らかにのたまふを、あまりの事に皆あきれて、「まことか、まことか」と、大臣のたまふままに、喜びの御涙ぞ落ちぬる。あはれなる御気色、見る人も事忌みしあへず。

といった、一家の感動興奮をあざやかに描き、『増鏡』にしてはまことに珍しいまでの熱のこもった叙述も、まことに重みを持つのである。

 『増鏡』が西園寺家関係にくわしく、また感情をこめている点は、作者を、現在最有力とされている二条良基と考えれば、まことによく結びつくところがある。良基の母は、右大臣西園寺公顕の娘である。太政大臣にまでなった西園寺突兼は、良基にとって曾祖父にあたるわけである。「第九草枕」の巻に語られる、後嵯峨院皇女、前斎宮☆子内親王をめぐる情事の一方の当事者が母方の曾祖父実兼であり、もう一人の当事者は父方の祖父兼基の兄香園院関白師忠であるのも興味深い。ともあれ、『増鏡』が良基の著であれば、西園寺家系内に特にくわしい知識、時には内々の裏話まで洩らすほどの情報が盛られていても不思議はないことになるであろう。



※皇子(後深草天皇)誕生の場面の原文と、山岸・鈴木氏の見解に対する私の批判についてはこちら




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