更新12.2/23

八嶌正治 「頽廃の魅力」
(岩波書店『新日本古典文学大系』月報52)






八嶌正治氏の略歴(後日補充します。)
宮内庁書陵部図書調査官



八嶌正治氏の見解


私の考え方


さても、広く尋ね、深く学するにつきては、男女の事こそ罪なき事に侍れ。逃れざらん契りぞ、力なき事なり。されば昔もためし多く侍(はべり)。(中略)この思ひに堪へずして、青き鬼ともなり、望夫石といふ石も恋ゆゑなれる姿なり。もしは畜類、獣(けだもの)に契るも、みな前業の果たす所なり。人ばしすべきにあらず。

八嶌正治氏が瀬戸内晴美氏『現代語訳とはずがたり』の解説として『とはずがたり』について述べた文章はこちら


後深草院のこの言葉が出てくる場面はこちら
 後深草院の哲学である。男女の事は罪悪とは関係のない事で、獣姦でさえ辞すに能わない。何故なら、性に関する事は、総て宿命の致す所で人間の意志によっては如何ともし難いからである。「力なき事なり」「人ばしすべきにあらず」と人力の及ばない事が繰り返され、この文脈の中でとらえられると、異類婚姻譚も新たな光を帯びる事になる。

 この日記も巻三に至ると、作者の筆はかなりの振幅をみせ物語性が拡がる。フィクション側で真実を求めはじめているのである。この巻冒頭からこの日記独自の世界へ突入する。院は二条と有明との会話を聞いてしまい二条が二人の関係を告白するに至るのである。「例の人よりは早き御心なれば」とあり、この種の事に関して院は勘が鋭いのである。拒否されると思いきや院は二人の関係を慫慂する。

「フィクション側で真実を求めはじめている」というのは、奇怪な表現であり、どういう意味なのかよく分からない。学者たちの方がフィクションに真実を求めている、というのなら理解できるが。
「例の人よりは早き御心なれば」との表現が出てくる場面はこちら

より正確に言うならば、院は「この種の事に関しては勘が鋭い」ように、作者によって描かれている訳である。作者はこの種の批評が本当にうまい。批評の絶対量は少ないのに、その表現が非常に鋭く、またタイミングが絶妙で、後深草院に対する読者の印象を巧妙に誘導して行くのである。すぐ後に出てくる「逢引きの床から脱け出して来た二条に向い、嫉妬や皮肉をちらつかせる」場面も、こうした誘導の典型例であり、心理操作のプロフェッショナルである作者の面目躍如たるところである。

私は、八嶌正治氏と異なり、この「有明の月」の子を身籠もった事を意味する夢が、あまりにきれいにまとまりすぎていることに不信を抱いている。要するに出来過ぎなのである。

 遊義門院の為の如法愛染王法最後の日の院の夢もフロイトを地で行くかのように、有明が五鈷を二条に与えると、二条はそれを院に隠して懐に入れたとする。よく知り合った仲なのにどうして隠すのか聞く院に、涙ながらに見せたのが後嵯峨院の遺品の銀製の品であったので院が貰い受けたという。有明の子を身籠った事を意味し、『源氏物語』の薫のように、生まれる子を院が引き取る事を引歌にて隠喩するのである。

 院は二条と有明の密会の手引をする一方、逢引きの床から脱け出して来た二条に向い、嫉妬や皮肉をちらつかせる。窃視性にしてサディズムなのである。二条は院にも有明にも引かれており、自分の心の矛盾に苦しんでいる。人間の本性から言って、確かに二つに引き裂かれる心の矛盾は苦悩なのであるが、やがては人は慣いによって苦悩を欲するようになるのであろう。巻三が最も高揚を見せるのも二条の肉体がこの時最も張りつめているからであって、デカダンス期の宿命観や快楽至上主義から言えば、この苦悩は容易に倒錯した快楽に転ずるものなのである。

 有明を写す中でも最後の逢瀬の描写は美しい。二晩の愛の状況が告げられる訳であるが、長い愛に耐えて前の晩は一睡もせず、翌日仮眠した時には有明は鴛鷲になって二条の胎内に入った夢を見る。巻四・五には有明の追憶がないのも、あの有明の恐ろしい程の肉欲が後深草院に転化したからであり、その苦悩の度に於いて院にまさるものはなかったのである。




宮廷編ではしつこく出てくる「有明の月」が、紀行編では全く、ただの一箇所も出てこない理由については、多くの学者が不思議に思って、色々な説明をしているのであるが、この八嶌正治氏の解釈は特別に難解であり、何を言っているのかよくわからない。従って、賛成はできないが、批判のしようがない。
石清水八幡宮での再会の場面はこちら
鶴見大学名誉教授岩佐美代子氏は、八嶌正治氏が引用されている論文(「『とはずがたり』における和歌表現−「衣」をめぐる考察−」)において、「内衣なる『小袖』はまた、男女の秘めごとの象徴でも」あり、「肌小袖を賜わった事によって、肉体交渉の存在は自明であろう」と書かれている。岩佐氏の論証は非常に説得的で、私も『とはずがたり』の読み方としては岩佐氏の考え方が正しいと思う。ただ、八嶌氏と岩佐氏の考え方は、実は大きく異なっている。八嶌氏は「僧体の男女の交情」を「グロテスク」な「愛欲図」と考えているのに対し、岩佐氏は「このような男女間の機微を、現代の道徳観で表面的に律することはできない」としているのである。岩佐氏の他の論文を読むと、岩佐氏の『とはずがたり』についての捉え方は、八嶌氏のように陰気でネチネチ、ネバネバと糸を引くようなものではない。岩佐氏は、『とはずがたり』に流れるきびきびとしたリズム感、力強い躍動感を極めて正確に把握されており、むしろ八嶌氏の対極に位置しているのである。
(岩佐氏の略歴はこちら。)
 巻四、二条三十四歳の二月頃、八幡で院に避遁、一夜語り明かす。この時私は僧体の男女の交情を想定するが、この説には実証面からの岩佐美代子氏の支援がある(『女流日記文学講座』第五巻・勉誠社)。二年程後の九月伏見殿を訪ね、同じく一夜語り明かし、この後、院から生活上の慰問がある。元気な院と会うのもこれが日記の上では最後である。

 巻五でも夢を除けば二度院との出会いがある。二条四十七歳、実兼の取りなしで「夢のやうに」危篤の院を見る。二度目はその二日後、今度は実像ではなく、葬送の車を裸足で追い、火葬の煙を見るのである。

 『とはずがたり』を読む時、事実が、事実以外の何者でもなく岩膚のような姿を現す。その意味では宮廷篇も修行篇も同じである。後深草院との出会い、父の死、扇に油壺の夢、出産……これらを情緒的に見ては居るのだが、筆は飽くまで乾いた微細なリアリズムであり、鎌倉期の絵画・仏像のリアリズムと通ずるものである。

(父は)ちと眠りて、左の方へ傾くやうに見ゆるを、猶よくおどろかして、念仏申させたてまつらんと(私は)思て、膝をはたらかしたるに、(父は)きとおどろきて、目を見開くるに、(互いに)あやまたず見合はせたれば、(父)「何とならんずらむは」と言ひも果てず、(中略)年五十にて隠れ給ぬ。
 父の死に際であるが、極めて即物的に微細に描かれ、それが印象的な効果を出している。この表現方法は全巻を通していると見てよい。

 父の死の描写と似たものとして二条の那智での院の夢がある。父の霊は、院の姿が右に傾いて居るのを次のように説明する。

あの御片端は、いませおはしましたる下に、御腫れ物あり。この腫れ物といふは、我らがやうなる無智の衆生を、多く尻へ持たせ給て、これをあはれみ、はぐゝみおばしめすゆゑなり。またくわが御誤りなし。

父の死の場面も、那智での夢の場面も、表現方法がどこか映像的である。視点を自在に切り替え、リアルな動きのある場面を連続させるのである。
 「事実が、事実以外の何者でもなく岩膚のような姿を現す」というのも、『とはずがたり』のリアルさへの驚きを表現したものであろうが、このようなリアルさについての私の考え方は、出産場面に関する久富木原玲氏の「日記紀行文学の諸相」を素材として、別途検討した。
 
 父の場合は左の方であったが、院の場合は右である。この片向く姿は仏の端正な姿と比べると如何にもいびつで『とはずがたり』のイメージに相応しいが、院と父は重なり合う性質のものだったのである。

 風俗的にも刺戟的で残酷なものを好む時代相である。僧に魚の頭を料理させて喜んだり、女房に男装の蹴鞠装束をつけさせたり、僧体の男女の愛欲図等、通常のものに飽き足らなくなっている。下世話な欲の描写にも長けているのであって、醍醐勝倶胝院で曙から物をもらう尼の描写や、四条傅傅(めのと)の家での乳母の下品さを写す部分等精彩に富んでいる。又、光源氏・藤壺・紫上の関係に、院・母・二条を準えているが、『源氏物語』の中には、親子に渉っての肉体関係は存在しないし、まして、僧体の男女の交情などはない。

「僧に魚の頭を料理させて喜んだ」場面があることは確かであるが、それは「粥杖事件」というコメディの中の一つのシーンであり、また、その僧侶が料理の家の四条家出身だからである。八嶌正治氏のように、文脈と切り離してこのように引用するのは大変な誤解を招く。また、「四条傅傅(めのと)の家での乳母の下品さを写す部分」も、素直に読めばコメディタッチの部分であり、八嶌正治氏の表現は悪意に満ちている。
「女房に男装の蹴鞠装束をつけさせ」る場面はこちら。「醍醐勝倶胝院で曙から物をもらう尼の描写」がある場面はこちら
 『源氏物語』には細部にまで神経が行き渉った独自で確かな人間造型があるが、『とはずがたり』は日記を基にしているだけに体験がそのまま全体の脈絡の中に放置されグロテスクな姿を曝しており二条の感性に於いて統一されているのである。二条の酒好きは日記に記す所であり、逞しく、そして古い言葉で言えばアプレでニヒルである。

 一つの作品を一つの方法で割り切る事は困難であってこの作品には、自己の情念を追求したいという、主題に密着した方法と、ルポルタージュ性ともいうべき体験性とがあって、両者は分離できるとともに入り交っても居る。鎌倉で将軍惟康親王が廃される様や、江田・和知の兄弟が作者のことで争う件などは、両者ともに記事の地理上の最端に近く、ルポルタージュ文学以外の心理によって記されているとは考えられない二つの最端の地を繋ぐ人物として広沢与三入道なる人物が現れるが、それとて偶然で、両地でのかなり荒々しい体験談を記す事に目的があったのであろう。

 巻四と巻五は東と西という形でシンメトリカルにできており、そのうえ共に後深草院の記事で結ばれる。当時、川口や厳島まで行く事は大変な大旅行であり、二条としては是非記して置きたかったに違いない。この修行篇は、巻一の西行追慕に繋がるが、最終的にはそれらは置き去りにされ、主題としては院への愛という事で終結する。

 巻四と五はシンメトリカルであるといえども、明らかに、巻五の方が宮廷関係の記事は多い。肉体的なレベルで様々な事象を感受する二条ではあったが、一筋主題を通す時、自分の生は院以外の何者でもない事を納得するのである。その愛のあり方を示す言葉が前半巻二の「ささがにの女」の挿話の中に現れている。院を中心とした三角関係の苦悩が作者の描きたがった対象であり、その不幸がまた二条を救う。「憂きは嬉しかりけむ」と言う主張の中にこの書の主題は存するのである。

 最後に一言。『古筆学大成』に伝九条兼実筆という「とはずがたり切」が紹介されている。写真で見る限り、南北朝期の筆と推定される雄勁な一葉で、隆遍僧正が鯉の頭を割るくだりである。「頭をばえ割り待らじと申されしを」が「頭をば割らでいだすをなにかはせむ」となっている。江戸初期までにこれほどの相違をきたす、文献学の好例である。  
私は八嶌正治氏の見解に全く賛成できない。『とはずがたり』を実際に読んでみると、「グロテスク」などといった印象はあまり受けない。どの場面も描写が生き生きとしていて、とても面白い。そしてあれよあれよという間に次の場面に変わってしまって、その場面もまた面白い。ホントに面白いなあ、と思って次から次へと読みすすみ、やがて読み終えてから、さて、ひとつひとつの場面の関係はどうなっていたのだろう、とじっくり落ち着いて考え出すと、どうもよく分からないことが出てきてしまうのである。そして、特に性格の良くない人、刺激的で残酷なものやグロテスクなものを好む人、「頽廃の魅力」を感じやすい人が、適当なところでやめずに、ひたすら考え続けてゆくと、まるでひとつひとつの場面が「そのまま全体の脈絡の中に放置されグロテスクな姿を曝して」いるような感じすらしてくるのではないかと思う。

私は、「鎌倉で将軍惟康親王が廃される様や、江田・和知の兄弟が作者のことで争う件など」が「ルポルタージュ文学以外の心理によって記されているとは考えられない」とは思わない。何故なら、これらの話は面白すぎるからである。
 鎌倉に行けば将軍が流され、熱田神宮に行けば大火事になり、和知に行けば美しい女(自分のこと)をめぐる壮絶な兄弟喧嘩が展開されるのである。二条はまるで「嵐を呼ぶ女」である。何故、二条の行くところには次々と大事件が起こるのだろうか。
 そしてまた、鎌倉では内管領平頼綱が使いをよこすばかりか、執権北条貞時まで手紙をくれる。平頼綱の息子で、美貌と優雅さと冷酷さを併せ持つ飯沼判官とは、人から怪しい関係と思われるほど親しくなる。また、伊勢に行けば宗教界の大物である度会行忠が親切に迎えてくれる。何故、二条の行くところ、超有名人が次々に出てくるのだろうか。
 素直に考えれば、ここには「ルポルタージュ文学以外の心理」が働いていると思わざるを得ない。







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