更新12.1/14
肥後和男編『歴代天皇紀』
(秋田書店.昭和47年.水戸部正男氏執筆)
| 水戸部正男氏の見解 | 私の考え方 |
天皇暗殺未遂 天皇御名は煕仁(ひろひと)、後深草上皇第一皇子で、母は玄輝門院藤原☆子(左大臣洞院実雄女)。文永二年(1265)四月二十三日誕生、建治元年(1275)十月二十七日親王宣下、同十月五日、後宇多天皇の皇太子に立てられた。 |
☆りっしんべんに音。 ※金へんに章。 |
| 右大臣藤原師忠を皇太子傅、権大納言西園寺実兼を春宮大夫とした。弘安十年(1287)十月二十一日、二十三歳で践祚、翌正応元年三月一五日、太政官庁に即位。同年六月、西園寺実兼の女従三位藤原※子(後に永福門院)を女御とした。 | |
| 伏見天皇の践祚とともに父後深草上皇の院政となった。ただし上皇の院政は表向き正応元年(1290)まで行なわれ、以後は永仁六年(1298)の譲位まで天皇親政であった。女御※子には皇子女が生まれなかったが、参議藤原経氏の女経子の腹に胤仁(たねひと)親王が生まれたのを女御の皇子とし、正応二年四月二十五日立太子、のちに後伏見天皇となった。 | |
| また伏見天皇は、生母※子の末の妹季子(叔母に当る)を愛し、その腹に富仁(とみひと)親王が生まれ、のちに花園天皇となっている。 |
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| 正応三年三月四日、紫宸殿の御帳の前にある獅子狛犬破裂という怪異がおこった。うらないをさせたところ、血流るべしということで、いかなる事が出来(しゅったい)するかと人々が騒いだところ、同月九日、浅原為頼ら数人の武士の富小路内裏乱入事件が勃発した。 | |
| 為頼は甲斐国小笠原一族であるが、一族をひきいて宮中に乱入し、伏見天皇を殺そうとして果さず、夜の御殿で自殺した。伏見天皇は女装して春興殿に脱出、皇太子は女官が抱いて常盤井殿に難をさけて事なきをえた。 |
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| 為頼が大逆をしようとした理由は不明であるが、両統対立がからまった事件として、一大疑獄に発展しそうな形勢となった。すなわち、事件の背後に亀山上皇があるという風評が立ち、四月八日には三条宰相(参議の唐名)中将実盛父子が六波羅に逮捕され、西園寺公衡(実兼長男後に左大臣)は、後深草法皇に、今上(伏見)の即位を心よく思われぬため、世を傾けようとされたのであるから、先ず亀山上皇を六波羅に移すべきであると進言し、承久の例にならおうした。 |
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| 法皇は公衡の進言を抑えたが、伏見天皇は強く事件の核心を追窮しようと主張した。ここに至って亀山、後宇多両上皇も驚き、この事件に関係がないという事を誓った告文(こうもん.誓紙)を関東へ遣わしたので、事件はようやく落着した。 亀山上皇がどの程度に関与したかは不明であるが、『伏見天皇宸記』正応五年(1292)三月十日条によると、今朝の夢に、禅林寺殿(亀山上皇)から仙洞(後深草法皇)に謝し申さるる旨があり、そのわけは、日ごろの凶害をご後悔の由であったとあり、どうも為頼事件に亀山上皇が関与していたことを物語るもののようである。 |
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| 事実とすれば、亀山上皇の憤り(父後嵯峨の素志をまげられたこと)が深刻で、殺し屋を皇居に向けたことになり、はなはだ穏やかでない。『増鏡』『太平記』など南北朝時代の書物はこれを肯定する立場をとって書いている。 |
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| この事件は、両統間の対立がきわめて深刻であったことを想像させる。これにより、持明院統は一層幕府に接近し、大覚寺統は反幕府的立場をとらざるをえなくなった。 |
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| 宮中制度の改正 伏見天皇親政の中で、特記すべきは宮中制度の改正であって、正応五年(1292)の記録所の性格変更が重要である。後年、後醍醐天皇が大事の決裁のため記録所に出御されたとすることはよく知られているが、これは後醍醐天皇の創設ではなく、実は伏見天皇時代に記録所の制度改正があり、それまで公家政治の民事裁判所的の性格であったものが、天皇親政の際の最高政治機関としての性格を付与され、天皇出御の下に評定を行なう機関になったのである。伏見天皇はこの記録所を活用して公家政治の振興に意を用いた。 |
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| 天皇を輔佐したのは京極為兼であった。為兼は歌人藤原定家の曾孫で、京極流の歌人として、鎌倉末期の歌壇の重鎮であった。天皇は為兼を信任し、諸事ほとんど関与しないものはなかった。永仁元年(1293)七月八日、国家の安泰と徳政の興行を大神宮に祈願のため為兼を勅使として派遣したこともあり、同年八月には勅撰集の撰集を命ぜられ、これが後に『玉葉和歌集』として実を結んだのである。 |
勅撰集の撰集に関しては、政治状況とからんで大変な紆余曲折があり、『玉葉和歌集』ができたのは、実に19年後の1312年である。伏見天皇にしてみれば、29歳の時に命じたものが、48歳になってやっと実現したのである。 |
| しかし為兼の信任が増すことは、反対に関東申次西園寺実兼との対立を深めることになり、かえって関東申次が持明院統を遠ざかる形勢が生じた。この形勢に乗じ大覚寺統は治世の地位を奪還しようと試み、関東に働きかけた。この形勢に驚いた後深草法皇は伏見天皇に進言するところがあり、伏見天皇の宸記によれば永仁三年(1295)九月十四日、宮中の内侍所に願文をささげて持明院統の皇位継承を特に祈願されている。 | |
| 願文中に「煕仁(ひろひと)不徳の身をもって天日嗣(あまつひつぎ)を受けて天下をつかさどることすでに九年に及べり。その間随分に正直の誠を致して国家を安んずるの念を専(もつぱ)らにす。而(しか)るに一方無道の秘計日を追って繁昌(はんじょう)し、諸人の奔波(ほんぱ)次第に色を添ふ。ひとへに政道を奪ひて天下を傾けんと欲する企(くわだて)なり。みだりに縦横(じゅうおう)の不実をかまへて、ほしいままに政道の不可を称す。これを関東に訴へて天下を反さんと欲す……」云々とあり、事態の切迫をはっきりつかんでいたことが知られる。 |
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| 関東申次実兼と為兼の対立はやがて幕府の干渉をまねき、永仁六年(1298)正月七日、為兼は六波羅に逮捕され、三月十六日、佐渡に配流となった。 | |
| このことは持明院統と関東申次西園寺実兼との離間を示すもので、政情は急転回して、同年七月二十二日、伏見天皇は譲位せざるをえなくなった。皇太子胤仁(たねひと)親王即位して後伏見天皇となり、伏見上皇の院政となった。さらにつづいて八月十日には後宇多上皇の皇子邦治(くにはる)親王を後伏見天皇の皇太子に立てるという事になり、ここに治世が大覚寺統に移る形勢となってきたのである。 |
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| 伏見天皇は、敬神の念がことに深かった。大神宮、石清水八幡宮への遣使奉幣、内侍所の御拝等を伝える記録が多い。為兼に就いた関係で歌人としても勝れ、『伏見院御集』『伏見院御百首』『伏見院御五十首』等の歌集をのこし清新の気風を歌壇に注いだ点で和歌史上高く評価されている。『伏見天皇御記』(宸記)はもと七十巻の浩瀚な日記であるが現在は八巻をのこすのみである。非常に克明な記録である。 伏見上皇は後伏見、花園両天皇時代院政をとったが、正和二年(1313)十月十四日、政権を後伏見上皇に譲り、同十七日出家(この日京極為兼も出家)、法皇となり、文保元(1317)九月三日、伏見殿で崩御、宝算五十三であった。深草北陵(京都市伏見区深草坊町にあり、法華堂形式)に葬る。追号は御在所の名(伏見殿)に因んだものである。 |
天皇陵というのは、もちろんそれなりの由緒はあるのだが、実は明治に入ってから新しく創り上げられたフィクションとしての面もあって、その際に持明院統と大覚寺統では、かなり露骨な差別がなされているようである。 |
※次回更新のとき、「『鎌倉・室町人名辞典』(新人物往来社)の伏見天皇の項(伊藤一美氏執筆)には「後深草上皇が正応3年(1290)まで院政を行っていたが、死後は伏見天皇が親政をとった。永仁6年7月、後伏見天皇に譲位したあと、院政を開き、花園天皇の正和2年(1313)まで行った。」とあるが、後深草上皇を1290年に殺してはいけないと思う。また、その後の部分も1301年の後二条天皇即位と後宇多院政をまったく無視した書き方であり、いくら何でもひどいと思う。」をどこかに入れること(角田文衛氏「冷泉家の歴史」に書いたもの)