更新11.3/8
水戸部正男 「第八十九代 後深草天皇」
(肥後和男編『歴代天皇紀』.秋田書店.昭和47年)
| 水戸部正男氏の略歴(※) |
| (みとべ・まさお)明治43年、長野県生まれ。東京高師・東京文理科大学国史学科卒業。神奈川師範学校教授を経て、現在、横浜国立大学学長。法学博士。法制史学会会員。 ※『後醍醐天皇』(秋田書店.昭和49年)巻末より。後日、より詳細なものに差し替えます。 |
| 水戸部正男氏の見解 |
私の考え方 |
| 蒲柳の天皇 天皇御名は久仁(ひさひと)、後嵯峨天皇第二皇子で、母中宮大宮院※子、太政大臣西園寺実氏の女である。寛元元年(一二四三)六月十日誕生、同年八月立太子、同四年正月二十九日、四歳をもって践祚し、同年三月十一日、太政官庁で即位式をあげた。後嵯峨上皇の院政のために、幼少で即位したのである。 後深草天皇は幼少の時から足腰の発育がおくれていたらしく、青年になっても右の方に傾く身体つきであったから、いわゆる蒲柳の質と思われる。後に恒仁(つねひと)親王が同母弟として生まれ、健康で聡明、かったつな性質であったことは、父後嵯峨上皇、母大宮院の愛が急速に恒仁親王に傾くこととなり、後深草天皇十七歳のとき病気(おこり)をした折り、父上皇のはからいで無理に譲位させられたのである。それは正元元年(一二五九)十一月二十六日のことであった。 天皇は病弱といっても、『とはずがたり』によればなかなか好色であった。ただし、愛情の表現には貴族としては情趣を欠くきらいがあったように思われる。情事の果てには腰を打たせるなどという有様で、どうも情趣は感ぜられない。また後深草天皇は酒を飲むと必ずといっていいくらい眠ってしまったとも伝えている。 康元元年(一二五六)太政大臣西園寺実氏の女公子が女御として後深草天皇の宮廷に入った。公子は天皇の母大宮院の妹、すなわち天皇の叔母にあたり、天皇より十一歳年長であった。しかし『増鏡』によると入内の後、若い天皇はあだめいて、恥ずかしそうな様子も見せずに女御に話しかけられたと伝えているから、若い頃から女性の扱いには慣れていたのであろう。 |
※女へんに「吉」 『増鏡』には後深草天皇誕生時の喜び溢れる様子が、微に入り細を穿って描かれているが、同書において皇子女の誕生の様子が極めて詳細に描かれているのは後深草天皇と遊義門院の父娘のみである。遊義門院誕生の場面はこちら。 |
| 在位は寛元四年(一二四六)から正元元年(一二五九)まで十三年十か月であるが、当時は皇位と政務は分離していたから、天皇はいわば員に備わっていたにすぎなかった。 文永九年(一二七二)後嵯峨法皇崩御後、治天の君はどうなったか。後深草上皇があとをついで政治を行なうのを道理とする者も多かったが、一方、亀山天皇は現に天皇であるから、さしあたり政治をとるのを当然とする者もあった。後深草上皇にも皇子があるから、将来の皇位継承に関して機会がない訳ではないところから、上皇方、内(天皇)方という対立が朝臣の間に生ずるようになった。『増鏡』によると、征夷大将軍田村麻呂より伝わる朝廷守護の宝剣は、故後嵯峨法皇の意向によるものか、亀山天皇に伝えられた。この処置には、母后大宮院も一枚加わっていたことから、後深草上皇は、母を恨めしく思い、そのままにも放置できないと考えて事情を関東に報告した。このことは後の両統対立に伴う対幕府への運動の最初として注目しなければならない。 |
| 持明院、大覚寺両統の対立 文永十一年(一二七四)正月、東宮が即位し、後宇多天皇となった。亀山上皇が持明院、大覚寺両統の治世の君として実権をにぎったのてある。後深草上皇はさぞ深い恨みをいだいたことであろうが、父後嵯峨法皇三回忌(文永十一年)には、正月から二月十七日まで六条殿の長講堂に参詣、故法皇の冥助にすがって自己の運命を開こうと祈願をこめ、指の血を出して、自ら法華経を書写している。弟亀山上皇が治世の君として、心のままに所々に行幸をさかんに行ない、花やかに過ごすのを見聞くにつけ、後深草上皇は、つたない自分の宿縁を世間の人がどう思うであろうかと不愉快な日々をおくり、ついに建治元年(一二七五)四月九日には太政天皇の尊号を辞退し出家しようと決心された。この態度には亀山上皇も大いに驚き、円満な解決の道を鎌倉幕府(執権北条時宗)に諮問した。 |
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| 時に関東申次は西園寺実兼であったが、彼は後深草上皇に同情し、幕府に働きかけた。北条時宗は、後深草上皇が出家しようとまでしたことに深い同情を示し、故法皇の御掟は深い訳があるだろうが、上皇は兄君であり、とりたてるほどの誤りもない方であるのに、出家までなさろうとするのはよくないことであると考え、上皇の皇子煕仁(ひろひと)を亀山上皇の猶子として、当今(とうぎん)後宇多の皇太子と定め、将来東宮即位の折りには父後深草上皇が治天の君となることができるようにはからったのである。東宮は天皇より二歳の年長であった。 |
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| 後深草上皇は持明院を御所としたので、後世この系統を持明院統といい、亀山上皇の系統は、後年後宇多上皇が大覚寺に住んだので大覚寺統という。北条時宗のはからいによって、両統に一時的和解が成立したが、両統に属する朝臣は互いに秘策をねって治世の君を自らの統から出すことに懸命となった。持明院統はしきりに幕府に後宇多の譲位の早からんことを運動した。弘安三年(一二八〇)冬十一月飛鳥井雅有は後深草上皇と皇太子の旨を承けて鎌倉に下った。関東申次西園寺実兼もしばしば幕府に連絡した。弘安十年(一二八七)頃には、亀山上皇が幕府に異図をもっているというような風評もおこったが、これは反対党のデマであろう。持明院統は、故後嵯峨法皇の皇位についての意向は亀山天皇ときまっていた訳ではなく、幕府の推戴を考えておられたのを、円満院宮(後嵯峨皇子で僧籍に入る)の策謀によって、故法皇のご意向が亀山天皇にありとしたものと強調した。 |
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| 当時、実兼は春宮大夫を兼ねていたから、一層持明院統のためにはたらき、ついに幕府をして、後宇多の譲位、東宮煕仁の登極を奏請せしめるに至った。すなわち、この年十月二十一日、東宮が跋祚し、伏見天皇となり、後深草上皇は二十八年ぷりに政権の座についたのである。上皇四十五歳のときである。上皇は鎌倉幕府との関係に意を用い、正応元年(1289)九月、久明親王(上皇の第二皇子)を鎌倉におくり、惟康親王(宗尊将軍の皇子)に代わって征夷大将軍に任じた。執権北条貞時時代のことである。 |
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| 後深草上皇は正応三年(一二九〇)二月十一日出家、これより表面は伏見天皇の親政となったが、上皇は出家の後も政治には関係していた。嘉元二年(一三〇四)七月十六日、富小路殿にて崩御、宝算六十二、御陵は京都市伏見区深草坊町深草北陵、著作には『後深草院御記』がある。なお、後深草院という追号は、仁明天皇の別称深草に後の字を冠したもの、後二条天皇嘉元三年の頃決定したようである。 |