更新11.11/13



第93代 後伏見天皇(遊義門院の甥)

肥後和男編『歴代天皇紀』
(秋田書店.昭和47年.水戸部正男執筆部分)







水戸部正男氏の見解
私の考え方

亀山上皇の運動

 天皇は御名胤仁(たねひと)、伏見天皇第一皇子、母は中宮永福門院藤原※子、実は参議藤原経氏女経子である。正応元年(1288)三月三日の誕生、同年八月十日親王宣下、正応二年四月二十五日皇太子となる。内大臣兼忠を東宮傅(ふ)、権大納言藤原家教を春宮大夫に任じた。永仁六年(1298)七月二十二日、譲りを受け践祚時に十一歳、藤原兼忠の関白を改めて摂政とした。父伏見上皇(三十四歳)の院政が行なわれた。


1270年生まれの遊義門院にとっては18歳下の甥である。
※金へんに章。
正妻である西園寺実兼の娘永福門院に子供ができなかったため、出自が劣る五辻経子(中園准后)の子を形式的に永福門院の子とした。五辻家、そして当時の公家社会で家格の持つ意味については村松剛氏の『帝王後醍醐』に詳しい。なお、後伏見天皇は後醍醐天皇と同じく1288年生まれで、ともに母が五辻家出身なので、互いに意識するものがあったと思われる。
鷹司兼忠(1262〜1301.40歳)は、『とはずがたり』で「近衛の大殿」とされている鷹司兼平の子。
「翌年正月、内裏安置の内侍所のしめ繩が下におちるという珍事があった。人々はひそかにどのような前兆かとささやきあった」というのは『増鏡』の記述そのままである。

実兼の娘瑛子(昭訓門院.1273〜1336.64歳)は、1301年1月16日、亀山院の宮に入り、3月16日従三位、同月19日院号宣下並びに准后に遇されるという栄進ぶりである。この動きは、明らかに同年1月の後伏見天皇譲位と連動するものであり興味深い。
 なお、29歳での入内というのは当時としてはかなり遅い。1303年、この瑛子が生んだ恒明親王を晩年の亀山院は溺愛し、大覚寺統の嫡統としようとしたため、後宇多院の反発を招いた。なお、瑛子の母は公衡と同じく中院通成の娘、顕子であり、公衡は亀山院の遺命を受けて恒明親王を助けたために、後宇多院と厳しく対立し、勅勘を受けることとなった。

花園天皇(1297〜1348.52歳) 後伏見天皇より9歳下。母は洞院実雄の娘季子(顕親門院.1265〜1336.72歳)。洞院実雄の3人の娘のうち、後深草院の後宮に入った玄輝門院(「東の御方」.1246〜1329.84歳)が伏見天皇を生み、亀山院の後宮に入った京極院(1245〜1272.28歳)が後宇多天皇を生み、さらに伏見天皇の母の妹である顕親門院が伏見天皇の後宮に入って花園天皇を生む訳である。閨閥だけから見たら、この時期、支流である洞院家の方が西園寺家を圧倒しているのである。
 花園天皇は学者肌の人物で、その学識の深さは一種の驚異を感じさせるほどである。母の家柄が自分より良くて、知的レベルでも優秀すぎる弟の存在も、後伏見天皇にとっては、多少は鬱陶しい面もあったように思われる。
 同年八月十日、後宇多上皇の皇子邦治(くにはる)親王を立てて皇太子としたが、天皇より三歳の年長であった。また十月十三日には後伏見天皇の即位式が太政官庁において行なわれた。正安二年(1300)正月三日、天皇一三歳で元服。

 ところが翌年正月、内裏安置の内侍所のしめ繩が下におちるという珍事があった。人々はひそかにどのような前兆かとささやきあったが、やがて後伏見天皇の譲位が行なわれた。これより先、大覚寺統の亀山法皇は東宮践祚について関東に猛運動を行ない、正安二年末、藤原永康を差遣し、また関東申次西園寺実兼の女瑛子を後宮に納れた。

 これらのことにより、幕府の意が動き、正安三年正月七日、帰京した永康は亀山法皇に譲位その他の情報を奏上し、ついで正月十八日、関東使者二階堂行貞らが上洛、西園寺実兼第に入って後伏見天皇の譲位せらるべきことを伝えたのである。実兼は直ちに参内し、幕府の意向を奏上し、ついに後伏見天皇の譲位、東宮邦治親王践祚が実現した。それは正安三年正月二十一日のことであった。後伏見天皇はいまだ十四歳、在位は二年六力月にすぎなかった。


皇位大覚寺統へ

 このことは、治世の君が久しぷりに大覚寺統に移ったことを意味し、新帝後二条天皇の後見として、父後宇多上皇の院政が始まった。後伏見上皇はのちに正和二年(1313)から五年間、九十五代花園天皇(上皇の弟宮であったが猶子とされた)の院政を行ない、さらに、元弘元年(1331)八月の後醍醐天皇の笠置遷幸から、同三年五月京都還幸までの約二年間、光厳天皇の院政を行なった。
 そして元弘三年鎌倉幕府滅亡の時、六波羅探題北条仲時に擁せられ、花園上皇、光厳天皇とともに東国に脱出をはかったが、近江国番場(ばんば)宿で敵襲にあい、捕えられて帰京、六月二十六日、四十六歳で出家、持明院殿を御所とした。それから三年後の延元元年(1336)四月六日、四十九歳で崩御。歌集に『後伏見院御集』、日記に『後伏見院宸記』が存する。御陵は京都の深草北陵(法華堂形式)である。





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