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第94代 後二条天皇

肥後和男編『歴代天皇紀』
(秋田書店.昭和47年.水戸部正男氏執筆部分)



水戸部正男氏の見解

私の考え方


不吉な即位

 天皇御名は邦治(くにはる)、永仁六年(1298)八月十日、後伏見天皇の皇太子に立てられたのは十四歳の時で、天皇より三歳の年長であった。十七歳の正安三年(1301)正月二十一日、譲りを受けて践祚、ついで同年三月二十四日、太政官庁で即位式を挙げた。

1285年に邦治を実際に生んだのが堀川基子(西華門院.1269〜1355.87歳)で、遊義門院(1270〜1307.38歳)は形式的な母とされているのであるが、私はそれを疑っている。
後伏見天皇(1288〜1336.49歳)
 『増鏡』によると、即位式の時、花山院三位中将家定が、天皇太政官庁に御幸にさいし、御剣の役をつとめ、清涼殿昼の御座(ござ)の御剣を奉持したが、還御のときさかさまにして内侍(女官)に渡すという失態をした。太政大臣西園寺公衡はこれをとがめ、出仕停止の処分を主張したが、前関白鷹司基忠は、そういうことをしてはかえって事が表面化してよくない、問題にせずにそのままにしておいたほうがよいと反対し、沙汰やみとなった。

 この珍事は、なにか不吉な事の前兆であったのであろうか。後二条天皇は在位七年七力月で、延慶元年(1308)八月二十五日、二十四歳で崩じたのである。

花山院家定(1283〜1342.60歳)は「久我大納言雅忠の女(むすめ)」が「三条」という名前で出仕した場面(『増鏡』巻11さしぐし)に登場する花山院家教(1261〜1297.37歳)の子で、1301年の時点では19歳。この場面の原文はこちら。なお、家定の失態については『歴史物語講座第6巻増鏡』(風間書房)において、熊本大学講師小川剛生氏が興味深い指摘をされているので後述する。

西園寺公衡(1264〜1315.52歳)は1301年には38歳。
鷹司基忠(1247〜1313.67歳)は公衡より17歳上で、1301年には55歳。鷹司兼平(「近衛の大殿」に比定されている人)の子。
亀山院(1249〜1305.57歳)

後二条天皇は1267年生まれ。後宇多天皇が19歳の時の子である。

吉田経長(1239〜1309.71歳).吉田定房の父。

後嵯峨院(1220〜1272.53歳)
 ところで、後二条即位の背後には祖父亀山法皇の対幕府猛運動があったことはいうまでもない。後二条天皇は即位のとき十七歳であったが、父後宇多上皇が治世の君として院政を行なった。ついで後二条天皇の皇太子にいずれの皇統から定めるかは、きわめて重要な事柄であった。

 大覚寺統では自統からの立太子を期し、この年、亀山法皇は中納言吉田経長を関東に特派し、国に二主あるべからず、後嵯峨院のご素意分明の由を申し述べさせた。他方、持明院統は、後伏見天皇の譲位の早きを不満とし、大覚寺統の主張する後嵯峨院のご素意なるものは根拠なきことを強調し、自統から立坊すべきことを幕府に要望したのである。

 大覚寺統でははじめ後二条天皇に皇子なく、天皇の弟尊治(たかはる)王は英邁の資質があり、祖父亀山法皇がとくに愛され、将来の皇位は尊治王の一流に伝えたいとの考えをもっていたから尊治王の立坊を主張した。一方、後伏見上皇にも皇子がなく、弟富仁王のほかには立坊候補者がなかった。ただし富仁王を立てるには、後伏見の猶子とすることとし、将来後伏見上皇に皇子誕生の際は、その皇子を富仁王の猶子として皇位を継承させ、持明院統が二流に分かれることを防ごうとした。

「大覚寺統でははじめ後二条天皇に皇子なく」というのは変な表現であり、践祚前の1300年に既に邦良親王が生まれていた。

花園天皇(富仁王.1297〜1348.52歳)
 両統の運動ははげしさを加え、京都では競馬(くらべうま)の如しといって両統の関東への特使派遣を冷笑した。これに対し、幕府は、両統御流践祚依違(いい)(どっちつかず)あるべからずとの原則に立って、両統から交互に皇太子を立てらるべきもの(迭立)とし、正安三年(1301)八月十日、関東の両使上洛し、持明院統から立坊あるべき旨を奏上した。

 これにより八月十五日、伏見上皇の第二皇子富仁王を後伏見の猶子とし、また親王宣下し、同月二十四日に至り、後二条天皇の皇太子に立てたのである。

 大覚寺統はこの措置を不満とし、幕府に抗議された。そこで幕府は十一月二十三日、二階堂行藤(ゆきふじ)を上洛させ、関東申次を経て、立坊の沙汰が早急であったことを陣謝し、譲位の遅速は天皇の考えによるべきことと、親疎は聖断によるべきことを奉答した。大覚寺統はこの奉答を了としたが、ただ幕府の両統御流践祚依違あるべからずとする方針は、後嵯峨院のご素意分明とする主張と相容れないものであったから、その旨を幕府に重ねて示した。しかし幕府はこれには応じなかった。




二階堂行藤(1246〜1302.57歳)
大覚寺統の分裂

 嘉元二年(1304)七月十六日、後深草法皇が二条富小路殿で崩じ、翌三年九月十五日には亀山法皇が万里小路(までのこうじ)殿で崩じた。亀山法皇は嘉元元年に昭訓門院藤原瑛子(西園寺実兼女)の腹に恒明(つねあきら)親王をもうけると親王を大覚寺統将来の皇太子と定め、後宇多上皇に遺命して、親王に嫡統の待遇を与えて御領を譲り、西園寺公衡の援助によるべきことと定めた。



後深草院(1243〜1304.62歳)

昭訓門院(1273〜1336.64歳)
恒明親王(1303〜1351.49歳)
 しかし、この遺命は、当然先に亀山法皇が尊治王に期待せられたことと矛盾することで、とうてい後宇多上皇の容るるところとはならないことは明らかである。後宇多上皇は父法皇の遺命に従われなかったばかりか、公衡とも衝突し、公衡は一時勅勘を蒙って籠居したが、関東申次の任にあったため、幕府の援助で勅免された。しかし両者の溝は深く、後宇多上皇は尊治王に望を嘱し、公衡は恒明親王を扶持したため、大覚寺統はおのずから分裂するようになった。

公衡は後宇多院より3歳上である。公衡が勅勘を蒙ったのは亀山院崩御後まもなくの1305年12月であり、伊予・伊豆の両知行国も没収された。公衡は翌1306年4月に娘の寧子(広義門院)を後伏見上皇の後宮に入れ、持明院統への接近を図った。

 徳治二年(1307)は後二条天皇在任七年目にあたるが、天下に疫病流行し、五穀みのらずという悪い年であったから、それを天子の徳至らざる結果として譲位を望む運動がおこった。持明院統側は富仁親王の践祚を望み、大覚寺統の恒明親王側では次期皇太子の地位を望んだ。両者は後二条の譲位を望む点で一致した。

 二月十日、両派連合の特使として前権中納言平経親(つねちか)が派遣された。特使のもたらした事書の主旨は、天変地妖は天子不徳の致すところであること、皇位は七年に及び、もはや譲位の時期であること、亀山法皇の遺命を破っている後宇多上皇は不孝の君である。不孝の君は天下を知(しろ)し召すことはできない筈である。亀山院の遺命によれば、恒明親王は継嗣の正嫡であるからその立坊は当然のことであるとし、譲位と立坊の二つの要求をしたのである。幕府は譲位の遅速は天皇の考えに依るとの先年たてた原則を主張し譲位の時期に容喙しない立場をとった。

平経親(1260〜?)は後深草院・伏見院の信任厚い人物であるが、私にとっては、六条殿での前栽合(壺合)の場面の登場人物として興味深い存在である。橋を盗んだのが『とはずがたり』では善勝寺大納言隆顕となっているのに、『増鏡』では平経親になっていて、タカとツネが入れ替わっているのである。
 ところが、この特使派遣が実を結ばないうちに、翌徳治三年(1308)八月二十五日後二条天皇は病気で崩御したので、ここに富仁親王の践祚となって、持明院統の伏見上皇が再び治天の君として院政を行なうことになった。そして皇太子には幕府の両御流依違あるべからずとの原則によって、九月十九日、後宇多上皇の考えで恒明親王をやめて、尊治親王の立坊が実現した。



伏見院(1265〜1317.53歳).後宇多院より2歳年上。

尊治親王(後醍醐天皇.1288〜1339.52歳)
 ただし、後宇多法皇(徳治三年閏八月三日出家)は、尊治親王の立坊は、後二条の皇子邦良(くによし)親王成長までの仮のものであるとの方針をとり、出家に先立つ遺領の処分(譲与)も尊治親王にことごとく譲られながら、親王死亡の後は邦良親王に返すべきことと定められたのである。このことはやがて大覚寺統が三分の形勢を生み出す因となったのである。

「徳治三年閏八月三日出家」というのは水戸部正男氏自身が「歴代天皇紀.第91代後宇多天皇」で書かれていることと異なっており、間違いである。後宇多院は徳治2年(1307)7月24日の遊義門院崩御の2日後に出家したのである。
 後二条天皇は在位七年七ヵ月、二十四歳を以て崩じた。『後二条院御集』、『後二条院御百首』などの歌集を遣されている。陵は京都市左京区北白川追分町北白河陵(円丘)である。後二条院の追号は、二条天皇の追号に後の字を冠したものである。



花山院家定の失態について


 熊本大学講師小川剛生氏の「増鏡と鎌倉時代の公家日記」(『歴史物語講座第6巻増鏡』所収.風間書房)には、後二条天皇即位式における花山院家定の失態について、次のような記述がなされている。

 
 後二条天皇は正安三年(1301)三月二十四日に太政官庁に即位式を挙げる。

この行幸時、花山院三位中将家定、御剣の役をつとめ給とて、さかさまに内侍にわたされけるを、今出川のおとゝ(西園寺公衡)、御覧しとかめて、出仕とゝめらるへきよし申されしかと、たかつかさの大殿(鷹司基忠)、中なかさたかましくて、あしかりなん、たゝおとなくてこそと申とゝめ給へりしこそ、なさけふかく侍しか、後に思へはけにあさましきことのしるしにや待けん、

還御に際して、花山院家定が宝剣をさかさまに内侍に渡した事が咎められ、前右大臣西園寺公衡は処分を主張したが、前関白鷹司基忠のとりなしで不問に付されたのであった。

 この即位式についての記録には「業顕王記」があるが、家定が行幸に供奉した人数に見えるのみで、他にこうした逸話を伝える史料は管見に入らない。
 しかし、遡ること三年、『公衡公記」永仁六年(1298)十月二十五日条、先帝後伏見天皇の大嘗会御禊行幸の記事は看過し得ないであろう。
伝聞、出御官司之時、花山院三位中将候剣璽、御剣逆二入之※、摂政候御裾之次、置直之、(※八[以]柄為北)

 やはり家定(時に十五歳)が剣璽の役を勤め、出立の際、輿に宝剣を逆方向に入れたというのである。この日公衡は出仕しておらず、日記による限り家定の処分が話題となった形跡はない。

 公衡は永仁度は黙過、正安度に見咎めたものの、一方の家定には「失礼」という意識がなかったことになる。宝剣を持つ近衛次将の故実を調査する必要があるが、家定の所作が仮に花山院家の家説に基づいていたとしても、これは明らかな「失礼」であった。家定の宰相中将時代の作法は他の公家から重んじられており、そのような人物が大祀に於いて二度も同じ失敗を犯すのも、やや不自然である。

 結局正安度の即位式について良質な史料が見出されない限り、『増鏡』と『公衡公記』とを整合させる解釈を幾通りか憶測するだけになるが、『増鏡』が、正安度の即位行幸と永仁度の大嘗会御禊行幸を混同したとするのも一案であろう。但し、この「失態」を「あさましきことのしるし」、つまり徳治三年(1308)、後二条が在位のまま二十四歳で崩御する讖をなしたと述べていることからすれば、単純なミスとも思えないのである。あるいは後二条夭折の凶兆とするため、後伏見の大嘗会御禊行幸時の「失態」をここに置いたのであろうか。記事の配列を操作し、因果関係があったように見せて、歴史の叙述の効果を狙う手法は他にも見受けられるからである。

 なお、ここでの公衡は、恰も祖父公相を思わせる峻厳な重臣、基忠は寛容な元老という印象を与えられる。恐らく作者は、長く廟堂の中心にあった両人を同時代人としてよく知っていたのであろう。

 私には、既に小川剛生氏が殆ど問題を解決済みのように思われる。ただ、私の立場から補足すると、「宝剣をさかさまに渡す」という行為は、後二条夭折の凶兆であるとともに、後二条天皇には何か「さかさま」な事情が隠されているということを暗示しているように思われるのである。以上については、遊義門院をめぐる他の不審な点と併せて再度検討したい。





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