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肥後和男編『歴代天皇紀』
(秋田書店.昭和47年.水戸部正男氏執筆部分)
| 水戸部正男氏の見解 |
私の考え方 |
不吉な即位 天皇御名は邦治(くにはる)、永仁六年(1298)八月十日、後伏見天皇の皇太子に立てられたのは十四歳の時で、天皇より三歳の年長であった。十七歳の正安三年(1301)正月二十一日、譲りを受けて践祚、ついで同年三月二十四日、太政官庁で即位式を挙げた。 |
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| 『増鏡』によると、即位式の時、花山院三位中将家定が、天皇太政官庁に御幸にさいし、御剣の役をつとめ、清涼殿昼の御座(ござ)の御剣を奉持したが、還御のときさかさまにして内侍(女官)に渡すという失態をした。太政大臣西園寺公衡はこれをとがめ、出仕停止の処分を主張したが、前関白鷹司基忠は、そういうことをしてはかえって事が表面化してよくない、問題にせずにそのままにしておいたほうがよいと反対し、沙汰やみとなった。 この珍事は、なにか不吉な事の前兆であったのであろうか。後二条天皇は在位七年七力月で、延慶元年(1308)八月二十五日、二十四歳で崩じたのである。 |
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| ところで、後二条即位の背後には祖父亀山法皇の対幕府猛運動があったことはいうまでもない。後二条天皇は即位のとき十七歳であったが、父後宇多上皇が治世の君として院政を行なった。ついで後二条天皇の皇太子にいずれの皇統から定めるかは、きわめて重要な事柄であった。 大覚寺統では自統からの立太子を期し、この年、亀山法皇は中納言吉田経長を関東に特派し、国に二主あるべからず、後嵯峨院のご素意分明の由を申し述べさせた。他方、持明院統は、後伏見天皇の譲位の早きを不満とし、大覚寺統の主張する後嵯峨院のご素意なるものは根拠なきことを強調し、自統から立坊すべきことを幕府に要望したのである。 | |
| 大覚寺統でははじめ後二条天皇に皇子なく、天皇の弟尊治(たかはる)王は英邁の資質があり、祖父亀山法皇がとくに愛され、将来の皇位は尊治王の一流に伝えたいとの考えをもっていたから尊治王の立坊を主張した。一方、後伏見上皇にも皇子がなく、弟富仁王のほかには立坊候補者がなかった。ただし富仁王を立てるには、後伏見の猶子とすることとし、将来後伏見上皇に皇子誕生の際は、その皇子を富仁王の猶子として皇位を継承させ、持明院統が二流に分かれることを防ごうとした。 |
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| 両統の運動ははげしさを加え、京都では競馬(くらべうま)の如しといって両統の関東への特使派遣を冷笑した。これに対し、幕府は、両統御流践祚依違(いい)(どっちつかず)あるべからずとの原則に立って、両統から交互に皇太子を立てらるべきもの(迭立)とし、正安三年(1301)八月十日、関東の両使上洛し、持明院統から立坊あるべき旨を奏上した。 |
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| これにより八月十五日、伏見上皇の第二皇子富仁王を後伏見の猶子とし、また親王宣下し、同月二十四日に至り、後二条天皇の皇太子に立てたのである。 |
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| 大覚寺統はこの措置を不満とし、幕府に抗議された。そこで幕府は十一月二十三日、二階堂行藤(ゆきふじ)を上洛させ、関東申次を経て、立坊の沙汰が早急であったことを陣謝し、譲位の遅速は天皇の考えによるべきことと、親疎は聖断によるべきことを奉答した。大覚寺統はこの奉答を了としたが、ただ幕府の両統御流践祚依違あるべからずとする方針は、後嵯峨院のご素意分明とする主張と相容れないものであったから、その旨を幕府に重ねて示した。しかし幕府はこれには応じなかった。 |
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| 大覚寺統の分裂 嘉元二年(1304)七月十六日、後深草法皇が二条富小路殿で崩じ、翌三年九月十五日には亀山法皇が万里小路(までのこうじ)殿で崩じた。亀山法皇は嘉元元年に昭訓門院藤原瑛子(西園寺実兼女)の腹に恒明(つねあきら)親王をもうけると親王を大覚寺統将来の皇太子と定め、後宇多上皇に遺命して、親王に嫡統の待遇を与えて御領を譲り、西園寺公衡の援助によるべきことと定めた。 |
| しかし、この遺命は、当然先に亀山法皇が尊治王に期待せられたことと矛盾することで、とうてい後宇多上皇の容るるところとはならないことは明らかである。後宇多上皇は父法皇の遺命に従われなかったばかりか、公衡とも衝突し、公衡は一時勅勘を蒙って籠居したが、関東申次の任にあったため、幕府の援助で勅免された。しかし両者の溝は深く、後宇多上皇は尊治王に望を嘱し、公衡は恒明親王を扶持したため、大覚寺統はおのずから分裂するようになった。 |
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| 徳治二年(1307)は後二条天皇在任七年目にあたるが、天下に疫病流行し、五穀みのらずという悪い年であったから、それを天子の徳至らざる結果として譲位を望む運動がおこった。持明院統側は富仁親王の践祚を望み、大覚寺統の恒明親王側では次期皇太子の地位を望んだ。両者は後二条の譲位を望む点で一致した。 |
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| 二月十日、両派連合の特使として前権中納言平経親(つねちか)が派遣された。特使のもたらした事書の主旨は、天変地妖は天子不徳の致すところであること、皇位は七年に及び、もはや譲位の時期であること、亀山法皇の遺命を破っている後宇多上皇は不孝の君である。不孝の君は天下を知(しろ)し召すことはできない筈である。亀山院の遺命によれば、恒明親王は継嗣の正嫡であるからその立坊は当然のことであるとし、譲位と立坊の二つの要求をしたのである。幕府は譲位の遅速は天皇の考えに依るとの先年たてた原則を主張し譲位の時期に容喙しない立場をとった。 |
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| ところが、この特使派遣が実を結ばないうちに、翌徳治三年(1308)八月二十五日後二条天皇は病気で崩御したので、ここに富仁親王の践祚となって、持明院統の伏見上皇が再び治天の君として院政を行なうことになった。そして皇太子には幕府の両御流依違あるべからずとの原則によって、九月十九日、後宇多上皇の考えで恒明親王をやめて、尊治親王の立坊が実現した。 |
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| ただし、後宇多法皇(徳治三年閏八月三日出家)は、尊治親王の立坊は、後二条の皇子邦良(くによし)親王成長までの仮のものであるとの方針をとり、出家に先立つ遺領の処分(譲与)も尊治親王にことごとく譲られながら、親王死亡の後は邦良親王に返すべきことと定められたのである。このことはやがて大覚寺統が三分の形勢を生み出す因となったのである。 |
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| 後二条天皇は在位七年七ヵ月、二十四歳を以て崩じた。『後二条院御集』、『後二条院御百首』などの歌集を遣されている。陵は京都市左京区北白川追分町北白河陵(円丘)である。後二条院の追号は、二条天皇の追号に後の字を冠したものである。 |
| 花山院家定の失態について 熊本大学講師小川剛生氏の「増鏡と鎌倉時代の公家日記」(『歴史物語講座第6巻増鏡』所収.風間書房)には、後二条天皇即位式における花山院家定の失態について、次のような記述がなされている。
私には、既に小川剛生氏が殆ど問題を解決済みのように思われる。ただ、私の立場から補足すると、「宝剣をさかさまに渡す」という行為は、後二条夭折の凶兆であるとともに、後二条天皇には何か「さかさま」な事情が隠されているということを暗示しているように思われるのである。以上については、遊義門院をめぐる他の不審な点と併せて再度検討したい。 |