更新11.11/14


第91代 後宇多天皇(遊義門院の夫)


肥後和男編『歴代天皇紀』
(秋田書店.昭和47年.水戸部正男執筆部分)






水戸部正男氏の見解 私の考え方


好学の天皇

 後宇多天皇世仁(よひと)が文永十一年(1274)正月二十六日、父亀山天皇の譲りを受け践祚、同年二月二十六日、大政官庁に即位式をあげたときはわずかに八歳で、亀山上皇の院政が行なわれた。

後宇多天皇(1267〜1324.58歳)は1270年生まれの遊義門院より3歳上である。また、1258年生まれの後深草院二条よりは9歳下となる。後宇多天皇については検討しなければならないことが多すぎ、また水戸部氏の見解に対する批判をしたい気持ちもあるが、ここでは簡単な紹介に留めたい。
 以後、在位十三年九か月で、二十一歳の時、弘安十年(1287)十月二十一日、位を後深草上皇皇子煕仁(ひろひと)親王に譲った。天皇としての在位中、文永・弘安の両役がおこった。

 後字多上皇は、正安三年(1301)第一皇子邦治親王(後二条天皇)が践祚するとともに治世の君として院政を見ること七年七か月、さらに文保二年(1318)第二皇子尊治親王(後醍醐天皇)践祚以来約三年、再ぴ院政を行なった。しかし後醍醐天皇は院政を排す気持が強かったので元享元年(1321)後宇多上皇の院政が廃止された。

邦治親王(後二条天皇)は1285年生まれなので、1267年生まれの後宇多天皇が19歳の時の子である。

ここは若干誤解を招きがちな表現である。後醍醐天皇が院政廃止を決定したのではなく、後宇多院が院政を止めることを幕府に希望し、幕府がそれを認めたのである。

後宇多院の真言密教研究は恐ろしいレベルに達しており、「好学の天皇」という言葉から我々がイメージするものとは随分異なる。
 後宇多上皇は幼より学を好まれ内外(ないげ)の典籍を修め、ことに仏典の講究、仏道の修練に熱心であった。『神皇正統記』に、中古より以後にありがたき天皇とし、文学(もんがく)については後三条天皇以後にはかほどの才能の方は聞こえないといい、在位中も、また上皇として十余年閑居の間も学問修業に熱心であったとほめたたえている。

 徳治二年(1307)七月、仁和寺禅助(ぜんじょ)についてにわかに出家、法名金剛性(こんごうしょう)と称した。大覚寺の側に宮室をつくり、世事をさけて専ら密教を修め、宇多天皇、円融天皇の例にならって東寺で灌頂した。東寺には後字多法皇宸筆の空海弘法大師像が安置されていたというから、大師に心酔していたことが知られる。

1307年7月24日に遊義門院が亡くなると、後宇多院はそれを嘆いて2日後に出家しまったのである。これは天皇・上皇の出家の理由としては異例である。後宇多院本人は真剣だったに違いないが、バッカじゃなかろか、と冷ややかに見ていた人もいたはずである。
 正中元年(1324)六月二十五日、大覚寺殿に崩御、宝算は五十八、同月二十八日蓮華峰寺(れんげぶじ)の傍山に奉葬、運華峰寺陵という(京都市右京区北嵯峨朝原山町)。後宇多院という追号は、遣詔によったが、宇多天皇の追号に後の字を冠したのである。



天皇の著作

 後宇多天皇の著作には、『後宇多天皇宸記』四巻その他がある。宸記は伝法灌頂後授与御記一巻(正和二・正・二六と同・二・一一両日の記録、皇子円性法親王に伝法灌頂を授与した時の記)と文保三年御記(文保三年の具注暦に注記したもので七日分残っている)と石清水伝法灌頂御記二巻(元応二・正・二五石清水八幡宮において法緑灌頂の時の記録)の四巻が大覚寺その他に伝わっている。その他では『後宇多院御遺告』、『伝法灌頂注』、『後宇多院御千首』『後宇多院御百首』、『月御五十首』等が伝わっている。







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