肥後和男編『歴代天皇紀』
(秋田書店.昭和47年.水戸部正男執筆部分)
| 水戸部正男氏の見解 | 私の考え方 |
後深草上皇の遺恨 天皇御名は恒仁(つねひと)、後嵯峨天皇弟三皇子で、後深草天皇同母弟である。建長元年(1249)五月二十七日、外祖父西園寺実氏の今出川第で隆誕、直ちに親王宣下があり、父上皇、母大宮院にこよなく愛され、十歳の正嘉二年(1258)八月七日、皇太弟に立てられ、あくる正元元年(1259)十一月二十六日、兄後深草天皇がたまたま病気をした時、譲りを受けて践祚、即位式を太政官庁にあげた。すなわち亀山天皇である。 |
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| 後深草天皇は幼少から病弱で足腰の発育がおくれていたようであるが、弟宮への譲位はすべて父後嵯峨上皇の意図にもとづいたことであった。後嵯峨上皇は亀山天皇の即位を見て「いろいろに枝を重ねて咲きにけり花も我世も今さかりかも」(増鏡)の御製をものされたように、深い満足を示したのである。 |
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| しかしこの偏愛に出た措置は深刻な皇位継承争いの出発点となった。後深草上皇はこの時十七歳、深い怨みを抱いた。しかもその怨みをますように、文永四年(1267)亀山天皇の第二皇子世仁親王の誕生を見ると、皇子が皇后腹であるところから、後嵯峨上皇がその養い親となり、翌文永五年には早くも亀山天皇の皇太子に立てられたのである。このことは皇位が今後、兄後深草上皇の系統から弟である亀山天皇の系統に伝わってゆくことを示すものであった。 |
水戸部氏は「深い怨み」という表現を多用するが、重要なのは持明院統の主張は「嫡流直系相続主義」というひとつの正理であり、これに対する大覚寺統の主張も「父帝(治天の君)による選定相続主義」という別の正理であって、二つの異なる正理の対立という側面があることである。水戸部氏のように個人的な「怨み」を強調しすぎると、問題を矮小化するおそれがある。 この点については、橋本義彦氏の『平安の宮廷と貴族』(吉川弘文館)に基づいて別途検討する。 |
| この後四年、文永九年(1272)二月十七日、後嵯峨上皇(法皇)の崩御となり、遺言を四十九日に当る四月七日に開封したところ、治天の君を誰方にするかは必ずしも明確にはされていなかったが、遺領の分配においては、亀山天皇が兄後深草上皇に比してはるかに多く、相続分のみからいえば亀山天皇が嫡子たる待遇を与えられたのである。 | |
| すなわち亀山天皇には冷泉殿御文庫、讃岐と美濃の国衙領、和歌、蹴鞠の文書を与えられたのに対し、後深草上皇には熱田社領、播磨社領、措磨国衙領、肥前神崎庄、諸家の記録が譲与された。しかも治天の君には六勝寺とその寺領、鳥羽殿を贈られることになっていたから、やがて幕府が大宮院から故上皇の意思が亀山天皇にあったことをきいて、亀山天皇を治天の君と決定、院政されることになったから、将来は経済的にも莫大な所領を相続し、政治上の地位にも就くということになって、兄後深草上皇の怨みはいよいよ深いものになったのである。 |
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| 蒙古襲来 亀山天皇は父上皇崩御の時二十四歳であったが二十六歳の正月(文永十一年=1274)に位を皇太子(八歳)に譲り、院政を行なった。この年はかねて来襲の噂があった蒙古軍の北九州侵人があった。七年後の弘安四年(1281)には蒙古の大軍が再びわが国に迫った。 亀山上皇は伊勢神官へ敵国降伏を祈願するための勅使を派遣、宸筆の願文には身命にかえて国難撃攘を祈願する文言が書かれてあったといわれる。また石清水八幡宮にも行幸し、西大寺長老叡尊(えいぞん)をして真読(しんどく)の大般若経(だいはんにゃきょう)を供養し、敵国降伏を祈願したと伝えている。 |
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| 亀山上皇は院政を行なうこと十三年、幕府の提案によって、大覚寺統と持明院統との迭立の議が定まり、弘安十年(1287)十月二十一日、後宇多天皇が譲位、後深草上皇の皇子煕仁(ひろひと)親王が即位して伏見天皇となるとともに、中院(なかのいん)と称し、院政をやめ、正応二年(1289)九月七日には 薙髪(ちはつ)して法皇と称し、嘉元三年(1305)九月十五日、宝算五十七をもって崩じた。 荼毘(だび)に付し遺骨は浄金剛院、亀山殿法華堂、南禅寺、全剛峯寺に分葬したが、法華堂をもって山陵とした(京都府右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町)。亀山院の追号は御在所の名(亀山殿)に因んだものである。 |
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| 天皇の著作には、『亀山院御集』、『亀山院御百首』、『極楽直道抄』等がある。天皇の時代はわが国臨済禅の勃興期で、無学祖元、一山一寧ら中国僧の渡来も多く、天皇は禅宗を保護され、自ら大いに学ばれた。円爾弁円(べんねん)などは特に天皇の敬愛された禅僧であった。天皇は東山に禅林寺殿を営まれ、ここで多く政務をみられたが、これが後に南禅寺の基となった。創立は正応四年(1291)のことであった。 |
