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湯山学 「執権北条家と波多野氏」
(『波多野氏と波多野庄』.夢工房.1996年.p85以下)






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 三 執権北条家と波多野氏


承久の乱と波多野氏
 この年(承久元年・一二一九)七月実朝〔1192〜1219.28歳〕の後継者として九条道家〔1193〜1252.60歳〕の子三寅(頼経〔1218〜56.39歳〕)が京都から迎えられ、波多野朝定らはその下向にあたり警固を勤めた。同三年四月朝定は伊勢神宮ヘ「祠官の外孫」として政子〔1156〜1225.70歳〕の使者となって参詣した。政子の祈願は暁方に天下大乱を予告する夢を見たため行われた。五月十五日後鳥羽上皇〔1180〜1239.60歳〕は北条義時〔1163〜1224.62歳〕追討の宣旨を下し、幕府の京都守護、伊賀光季を討った。光季の使者からその報らせを受けた政子は、集まった鎌倉御家人につぎのように呼びかけた。

皆、心を一つにしてうけたまわるべし。これが最後のことばなり。故右大将軍(頼朝)朝敵を征伐し、関東を草創してこのかた、官位といい、俸禄といい、その恩はすでに山岳より高く、大海より深きに、報謝の志、浅からんや。しかるに今、逆臣の讒(ざん)により非義の綸旨(りんじ)を下さる。名を惜しむの族は、早く(藤原)秀康・(三浦)胤義等を討ち取り、三代の将軍の遺跡を全(まっと)うすべし。ただし院中に参らんと欲さば、只今申し切るべし。

 この檄(げき)によって、幕府は軍勢を上洛させることを決した。

 二十二日北条泰時〔1183〜1242.60歳〕はわずか十八騎の武士をしたがえて先発した。ついで 三方面から上洛する軍勢が決定した。

東海道     北条時房・泰時、足利義氏、三浦義村の軍勢(十万騎)
東山道 武田信光、小笠原長清、小山朝長、結城朝光の軍勢(五万騎)
北陸道 名越朝時、結城朝広、佐々木信実の軍勢(四万騎)

以上十九万騎の幕府軍が上洛した。鎌倉で捕えた上皇の使者押松丸を京都へ帰すときに、義時は時房〔1175〜1240.66歳〕・泰時・朝時〔1193〜1245.53歳〕らに十九万騎の軍勢を添えて上洛させるが、「なお、これにても飽き奉らずんば、三郎重時〔1198〜1261.64歳〕、四郎政村〔1205〜73.69歳〕らを先として、二十万騎を相具して、義時も参らんずるにて侯」との書状を持たせた。

 京方ではこの幕府軍を尾張河(木曽川)の九ヶ瀬(大井戸・鵜沼・板橋・池瀬・摩免戸・稗島・食〈じき〉・洲俣・市脇の各渡〈わた〉し)で迎撃することになった。幕府軍は摩免戸を中央突破し洲俣にも攻撃をかけた。そのとき東山道の幕府軍が到着し大井戸を突破した。敗れた京勢は動揺し、一部は退却をはじめた。正面の泰時の率いる東海道の幕府勢は摩免戸の渡しに一せいに渡河を開始し、同時に時房の軍勢が洲俣の渡しを越えて京方の退路を断った。逃れた山田重忠・三浦胤義らが幕府軍の追撃を阻止しようとしたほかは、京都を目指して退却した。

 波多野経朝は北条時氏〔1203〜30.28歳〕・有時〔1200〜70.71歳〕にしたがい、六月六日の暁方に摩免戸の渡しを渡河し、ここを守る京方の山田重忠の軍勢と筵田で激戦となった。このとき波多野義重は「矢石(しせき)」が右の眼に当ったが、なお「答(とう)の矢」を射返した。『承久記』は杭瀬川(揖斐川)での山田重忠との戦いで、波多野五郎が「尻もなき矢にて、其も真甲の余を射させて引退」いたとある。同書は五郎を信政としているが、ここの文句は意味がいま一つはっきりしない(『承久記問答抄』には「やじりなき矢なり」とある)。

 追撃する幕府軍は途中で京都攻撃の手はずを決めた。

勢多−北条時房   宇治−北条泰時
供御瀬−武田信光 芋洗−毛利季光
淀−三浦義村

激戦は勢多・宇治での戦いで、十三・十四両日の宇治橋の戦いでは多くの死傷者が出た。前夜来の雨で増水し、六十九騎が水没し、八百余騎が奔流にのみ込まれる有様であった。十三日松田小次郎・三郎・五郎・平三郎・右衛門太郎、沼田小太郎、佐藤太、波多野経朝・義重が、翌十四日河村藤四郎、波多野朝定が負傷した。

 『承久記』は十三日宇治河の合戦で、五番手として進んだ波多野五郎が、「相模国の住人、波多野五郎信政」と名のって、敵の矢が雨のごとくに射こまれるなかに橋桁を渡ろうとして、向う岸をよく見ようとふり仰いだところを右の眼に矢がささり、川に落ちそうになったが、橋桁に取りつき、心を落ちつかせ、さらに向う岸を見ようとするが見えない。戻るは敵に後ろを見せるので、くやしいと思い、「後(うし)ろ様(ざま)」に退き、橋板のうえに登って、取って返すところヘ、郎等の則久がかけつけて肩にひっかけて引き返し、川端の芝のうえに寝かせ、二人が左右から寄って、膝をあてて信政の眼にささった矢を引き抜いた。眼からおびただしい血が流れ、鐙は紅に染まったとある。

 同書はこの描写のなかで信政が杭瀬川の戦いで「尻もなき矢にて額を射られ」とあるので、彼は先の合戦で額を射られたことがわかる。『承久軍物語』は矢尻(鏃〈やじり〉)のない矢で額を射られた信政は「うすだか」(堆)に腫れあがっていたので、宇治橋の戦いでは向う岸の様子がよく見えず、立ち上って見ようとしたら敵の矢が右眼にあたったとある。『承久兵乱記』は、右眼を射抜かれた義重が矢を立てながら大将北条泰時の前に来て軍忠を申し立てたとき、杭瀬川で負傷したうえでの行為を賞し、これは「鎌倉権五郎(景正)の再誕」とのべ、勲功については泰時自らが証人となるとまで保証したとある。『承久記』などは信政とする。系図類は義重ははじめ宣俊と名のったとある。

 この戦いで両軍の勝敗は決し、入京した泰時に後鳥羽上皇は今度のことは一部の謀臣が行ったことだと院宣をもって伝えた。七月後鳥羽上皇が隠岐へ、順徳上皇〔1197〜1242.46歳〕 が佐渡へ配流され、八月京方の公卿・殿上人・武士の所領三千箇所が没収され、それら所領へ東国の御家人が新補地頭として配置された。この月幕府は合戦の勝利について伊勢神宮へ社領を寄進した。その寄進状を送る使者を波多野朝定が勤めた。


六波羅探題重時の代官波多野義重と道元
 承久の乱で京方を討つ者のうちに河村四郎・同太郎・同三郎・同五郎四郎などの名がある。河村氏一族の多くが参陣したことが知れる。『秀郷流系図』には藤三郎秀基は洲俣の戦いで遠定を討ち、宇治では京方の大将右衛門佐藤原朝俊を討ち取ったとある。このとき負傷した藤四郎行秀は帰国したのち疵がもとで死んだという。宇治橋の合戦で京方の軍兵一人を手討ちにした波多野盛高は、父高義が「大槻」を名のったとあるので渡多野庄内大槻郷を本領とした。先の秀基とともに盛高は「強弓・強力」をもって知られたが、両人は義兄弟の間柄であった。その盛高は和泉国軽部郷の新地頭であった。同国に関東御家人が承久の乱の勲功により補任された新補地頭が多い。盛高もその一人と思われる。

 松田氏一族も宇治橋の合戦で多く負傷したが、松田十次郎・同九郎は京方の軍兵を討ち取っている。この松田九郎は有常(経)の子有忠である。有忠は翌貞応元年(一二二二)七月八日関東下知状を与えられた。

早く松田九郎有忠をして出雲国安来庄地頭職となさしむべき事
右の人、勲功の賞として彼の職になさしむべし。依って得分已下の事は、兵衛尉資朝の例に任せ、沙汰いたさしむべきの状、仰せにより下知、件のごとし。
 貞応元年七月八日
                 (北条義時)
              陸奥守平(花押)

のち有基は亡父有忠の譲状によって同国大野庄地頭職を幕府から安堵され、さらに子保秀へ安来庄地頭職を譲っている。『系図纂要』に有忠を「安木」としているのは、この安来庄のことである。民謡「安来節」で知られる安来庄は有忠が承久の乱での勲功の賞として与えられたものである。

 同系図は菖蒲実経の子実盛を長野三郎とし、「承久の乱、大井戸の渡しで疵つく」とあり、子実基が石見国長野庄に住んだとある。松田有忠が安来庄地頭職に補任された二箇月後、石見国守護所にあててつぎの北条泰時、時房連署状が発せられた。

石見国美乃地・黒谷地頭職の事
菖蒲五郎真(実)盛が関東より預り給うところなり。ただし未知福原地頭職は御下文に載せられるといえども、先度他人にこれを給い畢(おわ)んぬ。その旨を存じせしむべきの状、件の如し。
 貞応元年九月十八日
                 (北条泰時)
              武蔵守平(花押)
                 (北条時房)
              相模守平(花押)
  守護所

のち実盛は嫡子実基の承知をえて同国長野庄美能地内の所領を佐藤五実時に譲った。

 安貞元年(一二二七)三月、波多野経朝は鎌倉前浜の民家で承久の乱での京方の残党を捕え、美作国で一箇村を与えられた。

 承久の乱でめざましい活躍をした波多野義重は、その後しばらく『吾妻鏡』の記事にあらわれない。その義重の消息を伝えたのが、曹洞宗の開祖道元禅師〔1200〜53.54歳〕があらわした『正法眼蔵』(第二十二・全桟)の奥書である。仁治二年(一二四二)十二月、道元は京都六波羅密寺の側にある「雲州刺吏幕下」で「全機」の巻を大衆に説法したとある。道元の伝記『建撕記(けんぜいき)』は、檀那雲州の私宅で説法し、翌寛元元年〔1243〕に波多野雲州太守藤原義重が越前国吉田郡内で自分が知行している領地のうちに古寺があるから、そこへ下向することをすすめたとある。先の六渡羅密寺付近に邸宅があった雲州刺吏とは渡多野義重のことである。この年七月道元は越前国志比庄に到着し、翌閏七月同庄吉峰で『正法眼蔵』の第三十二(三界唯心)を示衆した。この吉峰は現在の福井県吉田郡上志比村の古寺、吉峰寺を指しており、義重と覚念は新しい寺地を別に選定し、法堂の造営を始めていた。翌二年七月吉祥山大仏寺は開堂の供養が行われ、同四年〔1246〕六月永平寺と改称した。今日の曹洞宗大本山、永平寺であることはいうまでもない。協力者の覚念は波多野(宇治)義定の子(中島)義泰とされているが、彼は六波羅評定衆の斎藤基尚であろう。

 鎌倉初期にこの志比庄地頭は、北陸道の総追捕使(守護)比企朝宗であったらしい。その子能員〔?〜1203〕が比企氏の乱で討たれ、朝宗の娘を母とした北条重時〔1198〜1261.64歳〕に同庄は伝えられた可能性がある。重時の娘は波多野義重に嫁しており、のち義重の一族に志比庄地頭職が伝えられたのは、以上の姻籍関係からと考えられる。あるいは承久の乱における勲功の賞として義重に与えられたとの説もある。

 承久の乱後、幕府は京都六波羅に探題を置き、西国の支配にあたらせた。はじめ北条義時〔泰時の誤り〕・時房〔1175〜1240.66歳〕が両探題となり元仁元年(一二二四)執権北条義時が死んだため、両人は鎌倉に下向し、執権・連署となり、その子時氏・時盛〔1197〜1277.81歳〕が六波羅探題となった。ところが寛喜二年(一二三○)時氏は病気のため鎌倉に下向、代って重時が六波羅探題として上洛し同北方に住んだ。大仏寺(永平寺)が開堂供養をしたころ(寛元二年〔1244〕)、義重は在京中の関東御家人に「六波羅殿」の命令を伝え、市中の篝屋のことで代官を派遣するよう命じている。その書状の端裏書に義重を「極楽寺殿重時御代官」とある。義重は六波羅探題重時の代官として在京中で、六波羅邸に隣接した六波羅密寺のそばに住んでいたのである。


波多野氏の信仰−経因・浄心・定憲
 波多野氏一族のうちで義通の子経因、義景の子浄心、忠綱の子定憲〔?〜1264〕が僧籍の身であった。系図に経因は「十禅内供奉(じゅうぜんないぐぶ)」とある。十禅内供奉=内供奉十禅師は、宮中の内道場に奉仕する知徳兼備の十人の僧=十禅師のことで、同道場で正月御斎会に読師の役を勤める浄行の僧=内供奉を兼ねた。経因は宮中の内道場で鎮護国家の祈祷に際して読師の役を勤める内供奉十禅師に登用されたのである。彼は歌人として『千載和歌集』につぎの和歌が収められている。

                経因法師
はかなしな憂き身ながらも過ぎぬべき
          この世をさへも忍びかぬらん

 同和歌集は源平争乱の渦中、寿永二年(一一八三)二月後白河法皇〔1127〜92.66歳〕から藤原俊成(としなり)〔1114〜1204.91歳〕に撰進の院宣が下って始まった。この年七月都落ちする平家一門のうちにあった薩摩守平忠度(ただのり)〔1144〜84.41歳〕が、この撰集のあることを知り「生涯の面目に、一首なりとも」入集したいと途中から引き返し、俊成に百首の歌を託したと『平家物語』の一節にある。平家が滅亡し、源氏の覇権が確立した文治三年(一一八七)九月、俊成は撰進した『千載和歌集』を法皇に奏覧した。

 同和歌集には曾祖父成近(秀遠)も入集しており、義理の兄弟義職も同集の作者とある(秀郷流系図)。叔父河村秀高も関白師実の家司として歌人であるなど、一族にそうした文化的素養を持つ者が少くなかった。

 浄心は波多野禅師、弁禅師と呼ばれ、禅師=禅行を専修する禅僧であった。彼は「南部菩薩山」の住僧であった。同寺は奈良の東南の山中にある菩提山正暦寺で、正暦二年(九九一)関白兼家(道長父)〔929〜90.62歳〕の子兼俊が創建した。建保六年(一二一八)関白師通〔忠通の誤り〕の子信円〔1153〜1224.72歳〕が再興し、最盛時には八十六の僧坊があった。信円は興福寺 別当(一一八一−八九)として一乗・大乗両門跡寺院の院主を兼ねた。

 信円の異母兄九条兼実〔1149〜1207.59歳〕は、源頼朝〔1147〜99.53歳〕の支持をえて藤原氏の氏長者となった。兼実は平重衡〔1157?〜85〕の焼討ちで焼失した藤原氏の氏寺、興福寺を「藤原之中興、法相之紹隆」として再建した。その再建にあたって当時は南都仏所の傍系であった仏師康慶(運慶父)を兼実は起用した。信円が別当を兼ねた奈良内山の永久寺で吉祥天像を造立したのが、康慶の事績としての始まりである。興福寺別当、一乗・大乗両門跡寺院の別当、永久寺別当を兼ね、正暦寺を再興した信円は、金峯山検校職をも兼ねた。

 奈良金峰山に拠る修験を掌握した同検校職は、近江園城寺(三井寺)の聖護院が掌握する熊野三山検校職とともに、全国修験の二大勢力として、前者を当山派、後者を本山派といった。当山派は興福寺の東西両金堂に拠る堂衆を中心に、大和国内の同寺末寺に拠る同衆とともに、吉野・大峰山で修験行を行った。当山派三十六先達衆(正大先達)には、菩提山(正暦寺)・内山(永久寺)など門跡が別当を兼帯した寺院の堂衆が含まれていた。江戸時代、当山派は京都醍醐寺三宝院に属し、当山十二先達として永久寺・正暦寺は存続した。秦野市曽屋の井明神社の末社に「三峰社」(御嶽社)があり、その別当寺であった神代寺は修験で、内山永久寺に属していた。

 定憲〔?〜1264〕は元仁二年(一二二五)定舜から鶴岡八幡宮供僧職(永金坊のちに永厳坊)を譲られ、安貞三年(一二二九)正式に同宮供僧に任ぜられた。同供僧永金坊は定豪〔1152〜1238.87歳〕がはじめて任ぜられ、弟子定舜に譲られ、ついで定憲が供僧となったものである。定憲はこの定豪から伝法灌頂(密教の奥儀を授ける儀式)を受けた。

 頼朝が父義朝〔1123〜60.38歳〕の菩提を弔うため創建した勝長寿院別当を二十四年間も勤めた定豪は、そののち鶴岡八幡宮別当となり、承久三年(一二二一)定雅に同別当職を譲り、紀伊熊野山検校・高野山伝法院座主となり、京都東寺一長者・奈良東大寺別当を勤めたほか、鎌倉明王院(五大堂)別当など「都鄙(ひ)」の社寺二十余箇所の別当職を兼帯した。鎌倉や京都で行われた定豪の灌頂では定憲は色衆(しきしゅう)(法会に加わる僧衆)に加えられている。

 建長五年(一二五三)から文応元年(一二六○)にかけて定憲は、鎌倉の千秋谷や鶴岡八幡宮若宮の雪下坊・北谷坊で多くの弟子たちに授法している。その定憲は「遺跡相論により闕所」の処分を受けている。文永元年(一二六四)のころ定憲は死んだ。


赤橋北条氏と六波羅評定衆波多野氏
 寛元二年(一二四四)四月藤原頼経〔1218〜56.39歳〕は二十八歳の若さで、わずか七歳の子頼嗣〔1239〜56.18歳〕に将軍職を譲らされ、翌三年七月に出家し「大殿」と呼ばれた。翌四年正月幼い将軍頼嗣が始めて甲胃を着ける儀式が行われ、執権経時〔1224〜46.23歳〕のほか波多野義重・同盛高の二人だけがこれに侍した。そのころから病気がちであった北条経時は、三月弟時頼〔1227〜63.37歳〕に執権職を譲り、二箇月後に病死した。

 このころ「大殿」頼経を担ぎ、時頼に代って執権になろうとした名越光時らの陰謀があり、五月時頼は光時を出家させて伊豆国へ流し、これに加担した評定衆を罷免し、七月頼経を京都へ追放した。世に「宮騒動」といわれる。翌宝治元年〔1247〕五月安達景盛?〜1248〕らに挑発されて三浦泰村〔1204〜47.44歳〕が決起し、ついに三浦氏一族は滅ぼされた。宝治合戦ママある。このニつの事件を通して覇権を確立した執権時頼は、重時を連署に迎えた。七月重時は十七年間の在京生活を終えて鎌倉に帰った。

 この年五月、恒例の新日吉社小五月会が京都で行われ、その流鏑馬(やぶさめ)役を重時以下の在京人が勤めた。一番の頭人は重時、三番の頭人は波多野出雲前司宣政であった(系図に義重が宣と名を改めたとあるが、これは宣で、『承久記』に信政とあるはこの宣政で、彼ははじめ義重といったのである)。宣政(義重)の射手は千次郎左衛門尉藤原盛忠、的立は波多野左衛門尉藤原広能が勤めた。広能は紀伊国三上庄勢多郷半分地頭であったが、同郷は平家没官領で頼朝が随身兼平に与え、その孫のとき没収し、広能と金持広澄に与えられたものであった。盛忠も波多野氏の一族と思われるが、広能とともに系図類には見えない。

 これを最後に重時は京都を去った。この年鎌倉では宝治合戦の影響で例年八月十五日に行われる鶴岡八幡宮の放生会が延期され、十一月に行われた。十五日同宮へ参詣する将軍頼嗣に供奉した随兵の先陣の筆頭に波多野義重があった。翌日この義重の次に随兵として供奉した三浦盛時は、行列の順位を不満として幕府へ訴えた。宝治合戦で三浦一族でありながら盛時の兄弟は時頼方に味方し、佐原姓の盛時は三浦氏の嫡流に伝えられた三浦介を冒(おか)した。

 盛時は「当家代々いまだ(他人に)超越」されたことがないと訴え、それなのに「一眼の仁」(義重)の下に位置づけされたと主張した。義重は「累家の規模においては誰が比肩」できよう、一眼は承久の乱での負傷で名誉の疵であるとこのことばに怒って反発した。結局、小侍所別当北条実泰実時の誤り〕が時頼・重時と相談し、従五位の義重が上になるのは当然と決定した。義重はなおも言い分があると申し立てたが、説得されてようやく落着した。
 建長三年(一二五一)八月将軍頼嗣が犬追物を催したが、安達義景〔1210〜53.44歳〕と義重が検見役を勤めた。翌四年三月頼嗣は将軍職をやめさせられ、代って皇族将軍として宗尊親王〔1242〜74.33歳〕が鎌倉へ下向した。京都から北条長時〔1230〜64.35歳〕それに長井泰重・佐々木親清と義重が親王に供奉した。長時は父重時が連署として鎌倉へ下向するのと代って六波羅探題北方として上洛した。

 同五年〔1253〕京都新日吉社の小五月会での流鏑馬に、長時はじめ長井泰重らと義重が当番を勤めている。泰重は六波羅探題の評定衆であった。『秀郷流系図』は義重を六波羅「評定衆」としている。十二月京都法勝寺の阿弥陀堂供養で、南大門を二階堂行有ら、西二階門を長井泰重ら、西北門を武田一族ら、北門西脇を小笠原一族らが警固した。義重は小早川茂平と北門の警固にあたった。茂平は在京人であった。

 この義重が鎌倉に滞在していた宝治元年〔1247〕八月、越前国の永平寺から道元〔1200〜53.54歳〕鎌倉を訪れた。この鎌倉下向は義重と記主禅師良忠(鎌倉光明寺開山)〔1199〜1287.89歳〕の懇請によるものであった。道元は鎌倉名越の白衣舎(俗家)に入ったが、ここは義重の館であったという。道元は時頼に菩薩戒を授けるとともに、道俗男女を教化した。時頼は「名藍(めいらん)」(立派な寺院)を建てて招請をしたが、道元はこれを辞退し、翌二年三月永平寺に帰った。建長四年(一二五二)ごろから健康を害した道元に、義重はたびたび使者を永平寺へ送ったが、翌五年道元は弟子懐弉(えじょう)〔1198〜1280.83歳〕をともない上洛し、覚念(六波羅評定衆斎藤基尚)の宅で入滅した。

 道元が死去したのち、懐弉が永平寺を継いだが、文永四年(一二六七)病気のため義介〔1219〜1309.91歳〕が同寺三世となった。ときに「大檀越波多野出雲次郎金吾」時光で、彼は義重の子である。のち懐弉が重病となり、時光は六波羅より三十日の休暇を賜って越前国へ下国した。その懐弉の死後、義介と法弟の義演との間に相論が起り、義介は永平寺を下山しようとした。このため時光の子息「四郎金吾重道」は、志比「庄内の郎従」をして義介に入山を乞うた。

 建長二年〔1250〕十二月将軍家の近習衆に時光と兄宣時、彼らの従兄弟秀頼が撰ばれている。それに秀頼の兄重朝(宣経とある)らは、北条重時〔1198〜1261.64歳〕が将軍家へ※飯を献ずる席に馬を牽く役を勤め、同四年宣時は鎌倉御所の御格子番衆に選ばれた。正嘉元年(一二五七)将軍家の御所の問見参衆に波多野定康、御格子上下衆に時光が加えられた。近習番・御格子番・問見参番等はいずれも御所内で御家人が勤める番役で、問見参とは申次番のことともされている。この年京都の新日吉社小五月会で行われた流鏑馬は、北条長時〔1230〜64.35歳〕に代って六渡羅探題となった時茂〔1240〜70.31歳〕、そして義重らがその番頭を勤めた。
※土へんに「完」

 弘長三年(一二六三)のころ探題北条時茂は波多野五郎左衛門尉に訴訟のことで証人の召喚を命じている。その波多野五郎左衛門尉は守護にあてて訴訟の当事者を上洛するよう伝えている。彼は義重の子宣時に推定される。建治三年(一二七七)十二月幕府は六波羅評定衆を任命した。そのうちに時光があった。ところが十日ほどのち時光に代って佐々木頼綱らが評定衆に加えられた。

 最近、紹介された京都六条八幡宮造営注文のうち、建治元年〔1275〕五月の注文に造営役を負担した関東御家人として、在京人二八名に波多野出雲前司跡(十貫文)と波多野弥藤二左衛門尉跡(四貫文)の名がある。前者は義重の遺跡を示し、後者は盛高である。盛高は和泉同軽部郷の新補地頭であった。また同注文に相模国御家人(三三名)として波多野小二郎入道跡(五貫文)・波多野中務丞跡(五貫文)それに河村人々(七貫文)・松田左衛門尉跡(五貫文)が造営役を課せられている。なお田小太郎跡(五貫文)とあるは田小太郎跡と思われる。


鎌倉幕府の滅亡と波多野氏
 弘安三年(一二八○)五月京都新日吉社の小五月会で流鏑馬の射手を波多野出雲五郎左衛門入道道覚が勤めている。鎌倉新仏教の一つ、時宗(じしゅう)を開いた一遍上人〔1239〜89.51歳〕の弟子他阿真教〔1237〜1319.83歳〕から有阿呑海にあてた書状に、「自分は諸国への遊行をやめ、当麻道場(相模原市無量光寺)に独住している。道場は全国で百ヶ所を超え、これまでは遊行上人一人だけが賦算し、複数の人たちで賦算するのは軽々しくなると考えていた。そのところへ出雲五郎左衛門入道から四条道場の浄阿弥陀仏に賦算して念仏勧進を行うのを許してほしいとの申し出があり、京都のみでの賦算を許した。今度は四郎太郎から有阿弥陀仏にもとの要望があったので、念仏の形木をつかわし、賦算を許す」とある。

 出雲五郎左衛門入道は「自身京都の篝を勤て在京」していた。篝とは京都の市中を警固する篝屋役のことで、在京の関東御家人の公事役である。寺伝では彼を波多野道とするが、道の誤りであろう。道覚は宣時の法名である。浄阿は京都四条道場(金蓮寺)の開山真観で、諸国の村里をめぐって念仏をすすめていたとき、越中国野尻村で日蓮宗の宗徒に誹謗され捕えられた。その真観を領主波多野氏が救い出した。宣時の弟時光は「野尻」を称しているので、右の領主はこの時光の一族であろう。

 有阿呑海は京都七条道場(金光寺)を開いたが、のち相模国藤沢に道場(清浄光寺=遊行寺)を開いた。開基俣野景平は彼の兄で、呑海の京都での賦算を要望した四郎太郎は藤沢四郎太郎である。俣野・藤沢両氏ともに関東御家人として在京していた。真教は河村文阿弥陀仏と松田浄阿弥陀仏に法語を与え、とくに文阿への法語のなかで彼の領内で「温州橘」(蜜柑)が栽培されていたことが述べられている。

 波多野時光の子重通は後宇多天皇〔1267〜1324.58歳〕の春日社行幸に大番(おおばん)武士として供奉し、宣時の子宣茂(重)は花園天皇〔1297〜1348.52歳〕の大嘗会(だいじょうさい)への行幸に検非違使として警固にあたっている。重通の弟景秀も六波羅探題の使者を勤めた。嘉暦二年(一三二六)八月波多野通貞は永平寺へ梵鐘を施入した。そのころ京都東寺と志比庄地頭通貞は年貢納入のことで争っている。彼は重道の孫(朝通子)である。志比庄は本家(東寺)−領家(入道弾正親王家)−地頭(波多野氏)によって支配されていた。争いの原因は領家が本家役を東寺へ納めないので、地頭から本家へ直納するようにしたが、地頭は本家役(年貢)を納めないということにあった。

 波多野氏は現地に代官(地頭代)を置いて支配を行っていたが、その地頭代頼暹は「往古」から志比庄の年貢は「地頭請」であり、地頭が取り立てて領家へ納めていた。領家が納めていた本家役のことは知らないと申し立てた。領家は領家で本家の東寺が本家役を地頭直納としたことに反発した。当時の庄園をめぐる典型的な争いである。

 元弘元年(一三三一)八月大塔宮(護良親王)〔1308〜35.28歳〕から幕府が天皇を遠国へ流すとの知らせを受けた後醍醐天皇〔1288〜1339.52歳〕は、内裏を脱出して南都(奈良)ヘ向った。六波羅探題は天皇の行方を追求するため万里小路宣房〔1258〜?〕ら四人の公卿を捕え、うち藤原公明〔1282〜1336.55歳〕を波多野上野前司に頂けた。大塔宮の計略で花山院師賢〔1301〜32.32歳〕が天皇と偽り比叡山へ登った。六波羅勢は天皇が比叡山へ籠ったと思い、軍勢を差し向けた。山門の僧兵と唐崎浜(大津市)で戦った六波羅勢は敗れ、海東左近将監の若党八騎、波多野上野前司宣道の郎等十三騎などが討死した。宣道(通)は宣茂の子で、海東氏らととも六波羅評定衆であった。

 弘安九年〔1286〕三月京都大番の武士として、波多野重通らとともに春日行幸に供奉した「松田八郎平頼直」は、右近衛府将監の官位を帯していた。その後、六波羅の奉行人としての松田九郎左衛門尉頼行、同刑部丞頼清、六波羅探題の使者を勤めた松田平内左衛門尉頼秀・同十郎左衛門がいる。これら頼直・頼行・頼秀はおそらく一族とみることができる。元弘三年〔1333〕五月安芸国御家人熊谷直清は後醍醐天皇の綸旨を受けて、丹後国内の朝敵が籠る城郭を一族とともに攻撃した。そのうちに松田平内左衛門入道性秀が拠る丹波郡内の城郭があった。性秀は先の頼秀のことである。頼秀はなお幕府方として抵抗していたのである。先の松田氏は平姓を称しているので、藤原姓である波多野氏の一族かは検討を要する。この月七日足利高氏〔1305〜58.54歳〕・赤松円心(則村)〔1277〜1350.74歳〕らは六波羅を攻め落した。八日上野国で挙兵した新田義貞〔1301〜38.38歳〕は武蔵国へ進出し、これに三浦大多和義勝がひきいる相模国勢が加わった。そのうちに松田・河村両氏があった。二十一日義貞の軍勢は鎌倉を攻略し、鎌倉幕府は倒壊した。


『とはずがたり』と広沢入道
 『とはずがたり』は後深草院二条〔1258〜?〕の作である。後深草上皇〔1243〜1304.62歳〕の寵愛を受けた二条は、宮中での愛欲にただれた生活に決別して出家し、諸国への漂泊の旅に出た。乾元元年(一三○二)十一月のころ、彼女は船中で知り合った備後国の女の家を訪ねた。女の夫は毎日数人の男女を鞭打ちその有様は目も当てられず、鷹狩や狩りで多くの鳥獣を殺し、悪業深重な者であった。丁度、鎌倉から広沢与三入道が熊野参詣のついでに立ち寄るということで、家中は大騒ぎ、絹障子を張って絵を描こうとしたが絵具がない。鞆(とも)というところまで買い求めに行って、二条が描いてやった。

 この間に二条はこの家の主人の兄がいる江田に出かけた。これを「としごろの下人」が逃げたと主人は広沢入道に訴えた。主人は同国和知の人で、和知・江田兄弟の伯父広沢入道はこの地の地頭であった。広沢入道と連歌の遊びをしながら、よくよく見ると鎌倉で飯沼左衛門らと連歌の会で一緒になった者であった。飯沼左衛門は得宗内管領平頼綱?〜1293〕の次男飯沼助宗1267〜93.27歳〕で、広沢余三入道は実能の子行実である。

 広沢実能(義)の弟実村は備後国三谷郡西方を所領とし、その子実綱とともに備後国上御使を勤めている。実綱の弟実成が和智(知)を称した。おそらく兄実綱は江田 を所領としたのであろう。実成は北条貞時1271〜1311.41歳〕とともに出家した。嘉元三年(一三○五)五月北条宗方宗頼男.1278〜1305.28歳〕が連署北条時村政村男.1242〜1305.64歳〕を殺害した。時村の討手五大院高頼は宇都宮貞綱1266〜1316.51歳〕に預けられた。その使者を広沢弾正忠が勤めた。徳治二年1307〕五月北条時宗1251〜84.34歳〕の忌日に鎌倉円覚寺で営まれる法事に結番する武士に広沢弾正左衛門尉がいる。この広沢弾正忠・弾正左衛門尉は行実の子宗実で、彼は北条氏嫡流(得宗)の御内人であった。また、正安・徳治のころ六渡羅の使者を江田六郎・同五郎入道が勤めている。なお、元亨三年(一三二三)七月他界した広沢安芸前司は宗実に比定される。

 元弘三年閏二月幕府に倒幕を企てたとして配流された隠岐島から脱出した後醍醐天皇は、名和長年?〜1336〕に迎えられて伯耆国船上山に入った。ここに出雲国守護塩谷高貞?〜1341〕をはじめとした同国の武士、さらに伯耆・因幡両国の御家人たちはもちろん、石見・安芸・美作・備前・備中・備後をはじめ四国・九州の者までが馳せ参じたとある。『太平記』はそのうちに備中国の河村氏、備後国の広沢・江田両氏の名をあげている。



☆広沢氏について詳しくはこちら。(『吉良町史中世編』)
☆神奈川県秦野市のホームページはこちら



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