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湯山学 「隆弁とその門流−北条氏と天台宗(寺門)−」
(『鎌倉』第38号.昭和56年.p1以下)





湯山学氏の略歴(上掲書による)
藤沢市教育委員会
※後日補充します。




 隆弁と北条時頼

 鶴岡八幡宮別当で、「鎌倉の政僧」(1)といわれた隆弁〔1208〜83.76歳〕は、「大納言法印」(2)といわれたように、大納言であった四条隆房〔1148〜1209.62歳〕の子であった。彼が近江国園城寺(三井寺)から鎌倉に下向したのは、文暦元年(1234)三月六日である。その後、将軍藤原頼経〔1218〜56.39歳〕の帰依僧としてしばしば御所に参上して修法を行い、将軍家持仏堂であった鎌倉久遠寿量院(3)の供養に加わっている。

 頼経が将軍職を罷めてからのち、病気がちであった執権北条経時〔1224〜46.23歳〕のために祈祷を行い、そうしたことからその子時頼弟の誤り.1227〜63.37歳〕は隆弁に帰依するようになった。このようにして北条氏嫡流(得宗)の帰依を受けるようになった隆弁に、大きな転機がおとずれたのは宝治合戦(1247)である。この合戦で鶴岡八幡宮別当であった定親源通親の子.?〜1265〕が、三浦泰村〔1204〜47.44歳〕の謀叛に連座して失脚し、代って隆弁が同宮別当に補任された。

 鶴岡八幡宮別当は公暁〔1200〜19.20歳〕(将軍頼家〔1182〜1204.23歳〕の子)が将軍実朝〔1192〜1219.28歳〕を殺害して自らも殺されたのち、「一年別当」といわれた慶幸が、そのあと一年在任して死去したのち、真言宗東寺の門流である定親〔1152〜1238.87歳〕の一門が歴任した。定親も定豪の弟子として、同宮別当を十九年にわたって在任し、鎌倉仏教界に君臨した(4)。その定親が失脚し、天台宗寺門派の隆弁が、「寺門預此職、自是而始焉」のである(5)

 『鶴岡社務記録』は、隆弁の鶴岡八幡宮別当の補任について、宝治「合戦御祈賞」によるとしている。宝治合戦は北条時頼の外祖父安達景盛(覚智)〔?〜1248〕の挑発によるとされているが、紀伊国高野山から鎌倉に下向した景盛と、その子義景〔1210〜53.44歳〕泰盛〔1231〜85.55歳〕父子、それに時頼とが三浦一族を討伐することを議した宝治元年〔1247〕四月、隆弁は義景の「殊なる願い」によって、秘法を修している。時頼もまた修法を隆弁に依頼し、事件ぼっ発の六月三日から隆弁は如意輪の秘法を修し、合戦後に時頼へ結願の巻数を献じた。


 隆弁の家系−四条家の出身

 隆弁は承元二年(一二〇八)に生れたが、父隆房は後鳥羽上皇〔1180〜1239.60歳〕の院司で、平清盛〔1118〜81.64歳〕の女を妻とし、嫡子隆衡〔1172〜1254.83歳〕が生れた。隆弁の母は藤原光雅〔1153〜1200.48歳〕の女であった(6)

(系図略)

 この四条家は隆房の祖父顕季〔1055〜1123.69歳〕が白河法皇〔1053〜1129.77歳〕の乳母親子として、同院別当として権勢をふるい、歌人としても知られた。隆衡は後白河上皇〔1127〜92.66歳〕の伝奏高階泰経〔1130〜1201.72歳〕の孫女を妻とし、同院に仕えた。その隆衡の子隆綱〔1189〜?〕が鎌倉御家人の大内惟義の女を妻とし、また将軍実朝の妻と姉妹である坊門信清1159〜1216.58歳〕の女との間に隆親〔1203〜79.77歳〕が生れるなど、幕府との関係を生ずるにいたった。

 惟義は在京して治安維持や公家との折衝にあたり、信清は後鳥羽上皇の院別当として、朝幕間の政治交渉に介在した。その惟義の子惟信、信清の子忠信〔1187〜?〕は、承久の乱(一二二一)に京方に組みして失脚した。隆親もこれに与同し、隆弁の母方・藤原光親光雅の子.1176〜1221.46歳〕は北条義時追討の宣旨を書いたとして、捕えられて関東下向の途中で、駿河国加古坂において斬首された。

 しかし隆親は乱後、後堀河上皇1212〜34.23歳〕に仕え、後嵯峨院政のもとで評定衆を勤めた(7)。そして鎌倉御家人の足利義氏1189〜1254.66歳〕の女を妻とした。その子隆顕1243〜?〕は、建長三年(一二五一)に幕府の請負った閑院殿造営の行事における父隆親の功によって従四位に叙せられた(8)。さらに隆弁の兄隆仲の孫隆茂は、鎌倉将軍家の近習として鎌倉にあった(9)

 一方、隆弁は十三才(承久元年)で園城寺大覚院の覚朝に学び、はじめ光覚と号した。覚朝の師、同寺長吏公顕1110〜93.84歳〕は再三、頼朝1147〜99.53歳〕の請により鎌倉に下向し、勝長寿院や永福寺の供養に導師を勤めた。文暦元年1234〕鎌倉に下向した隆弁は、暦仁元年1238〕円意にしたがって阿闍梨位を授けられ、寛元元年(一二四三)六月、皇子(後深草院)誕生のときの加持の賞によって、法印に叙せられた。


 鶴岡八幡宮別当隆弁

 宝治元年1247〕六月、定親に代って鶴岡八幡宮別当となった隆弁は、建長二年(一二五〇)二月、幕府に園城寺の興隆を訴え、同年九月、上洛して園城寺に入った。ところがその年十二月、北条時頼の室が懐妊し、その安産祈祷のため、時頼は園城寺にあった隆弁を、無理に鎌倉へ下向させた。翌三年五月、無事に時頼の室は男子を出産した。のちの時宗1251〜84.34歳〕である。

 これを喜んだ時頼は隆弁に能登国諸橋保(庄)を与えた。隆弁は同保を園城寺内の如意寺に寄進した。建長六年1254〕のころ、隆弁はこの如意寺の鎮守諸社数宇を、幕府の助力をえて建立した。同寺は園城寺背後の長等山の最頂を如意宝山といったことから名づけられ、隆弁が管領したところから、彼は「如意寺」を号した(補1)

 隆弁はまた将軍宗尊親王1242〜74.33歳〕の病気平癒の加持の賞として、権僧正に任ぜられ、美濃国岩滝郷を与えられた。そして時宗についで宗政1253〜81.29歳〕が産れたときも、隆弁は時頼から安産の祈祷を依頼された。建長六年1254〕四月、時宗(正〔聖〕寿)・宗政(福寿)兄弟の無事息災を祈って、鎌倉に聖福寺が建立された(10)。隆弁が「聖福寺僧正」といわれるのは、彼が同寺建立の大勧進であったことによる。

 安達氏と隆弁との関係は、すでに宝治合戦のとき、義景1210〜53.44歳〕らに依頼されて祈祷を行ったことに見られるが、建長五年1253〕五月、その義景が出家するに当って、隆弁はその戒師を勤めた。翌六月三日、義景(願智)は死去し、百箇日供養が彼の甘縄旧宅で行われたとき、隆弁はその導師を勤めた。さらに義景の十三回忌や北条長時(重時の子)1230〜64.35歳〕の供養でも、隆弁は導師を勤めている。

 文永二年(一二六五)十一月、祈祷の賞として大僧正に任ぜられた。

 そのころ、隆弁はしきりに鎌倉での歌会に出席している。『東撰六帖』(評定衆後藤基政1214〜67.54歳〕が撰者)には彼の和歌も収められ、『新和歌集』には笠間時朝1204〜65.62歳〕が、唐本一切経を鹿島社に奉納したとき、その導師を勤めた隆弁の歌がのせられている(11)。建長二年1250〕園城寺興隆のため上洛した隆弁一行の記録『隆弁法印西上記』には、園城寺の僧と連歌をかわしている記事がある(12)。これも顕季以来の和歌の家に隆弁が生れたからである(13)


 園城寺長吏隆弁

 正嘉のころ(一二五七)から園城寺は、延暦寺(山門)と戒壇の設置をめぐって争いがあり、ついに文永元年1264〕五月、山門衆徒による園城寺焼打ちの事件に発展した(14)。この間、幕府は一貫して園城寺を支援した。同四年1267〕十一月、隆弁は園城寺の長吏となった。しかし一年で辞任し、その後、建治二年1276〕正月ふたたび長吏に還補された。そして弘安六年(一二八三)六月まで在任したが、四年1281〕七月には蒙古襲来の祈祷によって、伊勢国斉院勅旨田を隆弁は賜った。

 弘安六年1283〕八月十五日、隆弁は「関東長福寺」で、七六才にして示寂した。彼の遺命により、その遺骨を園城寺の如意峯西方院に納めた。このように園城寺興隆に努めた隆弁は、鎌倉仏数界にも大きな足跡を残し、以後、その門流が鶴岡八幡宮別当を歴任した。

 北条氏一門の頼助(経時の子)第4代執権経時の子.1245〜96.52歳〕・政助(宗政の子)1265〜1303.39歳〕のあと、鶴岡八幡宮別当となった道瑜1256〜1309.54歳〕は、弘安六年1283〕五月、隆弁から円珍814〜91.78歳〕伝来の奥儀を授けられた(15)。彼は関白二条良実1216〜70.55歳〕の子で、母は鎌倉御家人の大友親秀〔1195〜1248.54歳〕の女である(16)。道瑜は隆弁のあと園城寺の如意寺を管領し、永仁五年(一二九七)十二月、鎌倉にあって園城寺長吏に補任された(17)

 乾元二年(一三〇三)六月、鶴岡八幡宮別当となった道瑜は、延慶二年(一三〇九)六月、弟子道珍1275〜1312.38歳〕に同職を譲った。道珍は関白鷹司基忠〔1247〜1313.67歳〕の子であったが、徳治三年(一三〇八)六月、鎌倉在任のまま園城寺長吏となった(18)。正和二年(一三一三)八月、彼は房海の宿所で死去した。

 房海〔1244〜1316.73歳〕は道珍のあと鶴岡八幡宮別当となったが、彼も鎌倉にあって園城寺別当となった。房海は鎌倉将軍家の近習、難波宗教の子で、嘉元三年〔1305冬、天皇の病気平癒の祈祷の賞として、加賀国村井庄を賜った。正和元年〔1312八月、彼は北条貞時〔1271〜1311.41歳〕の助力をえて、園城寺南院に勧学院を興した。そして同院に村井庄を施入した(19)

 房海の死後、ふたたび東寺系の信忠〔?〜1322〕が鶴岡八幡宮別当となったが、信忠が元亨二年(一三二二)十月に死去したのち、代って隆弁の弟子、顕弁〔1268〜1330.63歳〕が同宮別当に補任された。房海は鎌倉右大将家(頼朝)法華堂別当を兼帯したが、顕弁も同法華堂別当を兼ねた。顕弁は北条氏一門の金沢顕時〔1248〜1301.54歳〕の子で、道瑜・道珍・房海と同じく、鎌倉にあって園城寺別当となり、のち同寺長吏となった(20)。元応元年(一三一九)園城寺の金堂供養を行ったとき、同寺別当であった顕弁は、幕府の権威をかさに着て、戒壇を設けたため、延暦寺衆徒の焼打ちにあった(21)(補2)


 鎌倉長福寺と聖福寺

 鶴岡八幡宮別当であった房海の師、房源は長福寺別当であった。房源の師頼兼は園城寺別当であったが、弘長元年(一二六一)七月、鎌倉で死去した。同門の房暁は延慶二年〔1309十月、鎌倉名越で死んだ(22)。房暁の弟子房仙は名越長福寺の別当であった(23)。この名越長福寺は、隆弁が死んだ「関東長福寺」であろう。道珍が死去した「房海の宿所」もこの名越長福寺と推定される。つまり、房海をはじめ、その師房源・頼兼や房暁らは、この名越長福寺の別当として同寺に居住したのである。

 名越長福寺は「名越備前禅門代々墳墓之地」で、同禅門の子「助法印」が管領し、鎌倉末期には彼の孫朝宗が相伝した(24)。この名越備前禅門は、名越に別業を構えた北条朝時〔1193〜1245.53歳〕の子、時長がその子宗長−家政と、歴代備前守を称しているので、長福寺は時長一族の菩提寺であったことがわかる。

 助法印の父で、朝宗の祖父、名越備前禅門は、時長の子宗長と思われる。長福寺は建長四年〔1252、時長が死去したのち、子宗長が鶴岡八幡宮別当であった隆弁を開山に請じて、創建した寺院と推定される(25)

 なお北条時直の孫房朝(清時の子)は、「助法印」といい、元徳二年(一三三〇)園城寺長吏となった(26)。宗長の子助法印とはあるいは房朝かも知れない。また歌人として知られる名越一門の公朝(朝時の猶子)は、鎌倉にあって園城寺別当となリ、鎌倉右大将家法華堂別当を勤めた(27)

 鎌倉末期、名越長福寺を管領した朝宗の師、兼助は関白兼基二条.1268〜1334.67歳〕の子で、鎌倉にあって園城寺内の如意寺を管領した(28)。彼は鎌倉聖福寺の新熊野社別当で、この聖福寺新熊野社も同寺内の諸社とともに、隆弁が勧進したとみることができる(29)。北条長時1230〜64.35歳〕の子長弁はこの聖福寺別当で、隆弁の代官を勤めている(30)

 また兼助は奥州平泉(中尊・毛越両寺)惣別当を兼ねており、その弟子朝宗、朝宗の兄弟春助・定助も同惣別当職を歴任した。そして朝宗の在任中に「関東乱」(元弘の動乱)があり、彼は平泉から遂電してしまった(31)。これらの事実も隆弁の門流が、鎌倉聖福寺などを管領していたことを示すものである。


 北条氏と天台宗(寺門)

 以上、隆弁とその門流の事績を考察した結果、将軍家護持僧として鎌倉に下向した隆弁は、次第に北条氏嫡流(得宗)の帰依を受け、とくに北条時頼〔1227〜63.37歳〕の絶大な信頼をえた。その契機が宝治合戦である。この乱で東寺系の定親が三浦氏に与同して失脚し、代って隆弁が鶴岡八幡宮別当に補任された。

 隆弁の同宮別当は寺門にとってはじめてのこととされ、以後、同門流は鶴岡八幡宮別当を歴任した。園城寺はもともと源氏とのゆかりが深く、頼朝〔1147〜99.53歳〕のころから堂宇再興につとめ、鎌倉将軍家の祈願寺供養には、園城寺の僧がしばしば招かれて下向した(32)。北条氏は源家将軍家に代って、同寺の興隆に努めた(33)

 やがて鎌倉に在住したまま、園城寺の別当・長吏になるものが多くなり、ますます鎌倉との関係を強めた(34)。その隆弁と同門流は、北条氏一門の氏寺、聖福・長福両寺を、鎌倉における拠点とした。その寺門派と北条氏の関係は、得宗のみならず、名越・金沢両氏や重時〔1198〜1261.64歳〕の一族にもおよんだ。さらに北条氏の東北地方支配の精神的支柱たる平泉中尊・毛越両寺も、右の門流によって占められた。

 従来、北条氏と仏教との関係は、禅宗などの鎌倉仏教について論じられることが多いが、天台宗などの旧仏教についても無視することはできない。本稿はそうした試みの一つとして、隆弁とその門流をとり上げた。




(1)加藤功「鎌倉の政僧」(『歴史教育』一六巻一二号)。以下とくに注記がない限り、本論文によって論じた筒所が少くない。
(2)『鶴岡八幡宮寺社務職次第』(『神道大系」神社編二十・鶴岡)
(3)久遠寿量院については、櫛田良洪『真言密教成立過程の研究』(六五七頁以下)にくわしい。
(4)『鶴岡八幡宮寺社務職次第』
(5)『寺門伝記補録』(『大日本仏教全書』八六巻・寺誌部四)
(6)『三井続燈紀』(同全書・六七巻・史伝部六)。以下、隆弁についての履歴のうち、特記しないかぎり、この『三井続燈記』による。
(7)橋本義彦「院評定衆について」(論集日本歴史『鎌倉政権』所収)
(8)『吾妻鏡』建長三年〔1251〕七月四日条
(9)『吾妻鏡』正嘉元年〔1257〕十二月二十四日条他
(10)貫達人『鎌倉の廃寺』(諸宗の部)聖福寺の項。聖福寺の開山を隆弁とすることは、以下同寺を彼の門流が占めていることによって推定した。
(11)『東撰六帖』に収められた隆弁の和歌は、
人しれぬみやまかくれの松の戸に
    これみよとてか花の咲らん
此歌は法印に成て侍ける時、よろこひ申たりける人の、返事によめりける
  また『新和歌集』巻五に
鹿嶋社にて唐本一切経供養し侍ける時、ひころはあめやます侍けるか、けふしも空はれて、このゆへなく供養とけぬる事とて導師 権僧正隆弁
 今よりや心のやみも晴ぬらん
  神代の月の影をうつして
(12)高野辰之『古文学踏査』に全文が紹介されている。
(13)『続後撰和歌集』『玉葉和歌集』にも隆弁の和歌が収められている。『徒然草』(二一六段)に隆弁・時頼・足利義氏との関係をうかがわせる一節がある。
(14)福尾猛市郎「慈覚門徒と智証門徒の抗争について」(天台宗寺門派御遠忌事務局『園城寺之研究』)
(15)『三井続燈記』隆弁の項
(16)『鶴岡八幡宮寺社務職次第』
(17)道瑜の補任に当って、園城寺の学頭と衆徒との間に論争があった。当時、道瑜が鎌倉に居住したことが原因かも知れない(『三井続燈記』)。隆弁と同様に、道瑜も和歌にすぐれていた。歌人宇都宮景綱(蓮愉)〔1235〜98.64歳〕との交渉があリ(『沙弥蓮愉集』)、一遍上人〔1239〜89.51歳〕の弟子他阿真教〔1237〜1319.83歳〕とも和歌で結ばれている(『他阿上人歌集』)。そのなかに道瑜が聖福寺で詠んだ歌がある。『柳風和歌集』『拾遺風躰和歌集』にも、道瑜の和歌が収められている。
(18)『鶴岡八幡宮寺社務職次第』。道珍の園城寺長吏補任については、同別当となった房海も鎌倉在住のままであったので、園城寺内でも「其例なし」として、早く上洛することが求められたが、ついに拝堂も行われなかった(『三井続燈記』)。
(19)『鶴岡八幡宮寺社務職次第』『三井続燈記』。彼の勧学院興隆については、高橋俊乗「勧学院の研究」(前掲『園城寺之研究』所収)を参照。
(20)『鶴岡八幡宮寺社務職次第』『三井続燈記』
(21)元応元年〔1319四月と推定される、延暦寺衆徒一揆衆議事書案(『禅定寺文書』九九号)にその経過がのべられている。
(22)『三井続燈記』
(23)『鎌倉市史』史料編第二・一三四号。房仙は鎌倉御家人で六波羅評定衆であった水谷清有の子である(『三井続燈記』『尊卑分脈』)。
(24)『鎌倉市史』史料編第二・一一六号。長福寺は相模国山内庄秋庭郷内信濃村を弘安七年〔1284に安堵された(同一三四号)。おそらく弘安六年〔1283八月、隆弁の死後、寺領を安堵されたのであろう。
(25)長福寺については貫達人『鎌倉の廃寺』(諸宗の部)に若干の考察が加えられている。
(26)『三井続燈記』
(27)『三井続燈記』『寺門伝記補録』『鎌倉市史』史料編第一・五九九号。この文書は源頼朝が上洛のとき、京都にとどめ置いた源家重代の銘剣「髭切」を、のち安達泰盛が尋ね出して鎌倉に戻した。その泰盛が弘安八年〔1285の霜月騒動で滅亡した際に、偶然に執権貞時の手に入り、それを頼朝ゆかリの頼朝法華堂に納めることを、同堂別当公朝に伝えたものである(多賀宗隼「秋田城介安達泰盛」『史学雑誌』五二編一一号)。公朝は鎌倉期に撰進された勅撰集に数多く入首している(西畑実「武家歌人の系譜−鎌倉幕府関係者を中心として−」『大阪樟蔭女子大学論集』一○)。公朝と一遍上人との交流については、大橋俊雄『一遍』を参照。鎌倉時代の頼朝法華堂別当として知られる公朝・房海・顕弁が、いずれも寺門派であることから、同堂別当は寺門派が歴住したと推定される(貫達人『鎌倉の廃寺』法華堂の項)。
(28)『寺門伝記補録』
(29)『鎌倉市史』史料編第二・一一六号。建長六年〔1254正月、隆弁は鶴岡八幡宮の神宝を、聖福寺新熊野社に移している(『鶴岡社務記録』。
(30)『北条系図』。『鶴岡社務記録』弘安元年〔1278四月二十日条に長弁が上洛中の隆弁の代官を勤めている。
(31)遠藤巌「平泉惣別当譜考」(『国史談話会雑誌』一七号)
(32)中村直勝「園城寺と源氏」(前掲『園城寺之研究』所収)
(33)北条時頼・時宗・貞時の帰依を受けた、園城寺の僧に幸尊がいる(『三井続燈記』)。
(34)覚乗・親性も鎌倉に在住のまま園城寺別当となった(『三井続燈記』)。

(補1)如意寺の子院大慈院は、頼朝が平家一族の霊をなぐさめるために建立した(中村直勝前掲論文)。建長六年〔1254二月、幕府が隆弁に与えた「六波羅の大慈院」とは、別院のことであろうか(『吾妻鏡』)
(補2)この事件については前田元重「三井戒壇の建立」(『金沢文庫研究』四四号)にくわしい。また顕弁についても同氏「顕弁考(一)」(同誌四○号)に隆弁の事績とともに考察が加えられている。



☆隆弁については貫達人氏「隆弁」と中川博夫氏「大僧正隆弁−その伝と和歌−」も参考となる。

☆湯山氏は四条隆衡の子隆綱が隆親の父で、隆親は隆衡の孫とされているが、普通は隆親は隆衡の子と考えられている。隆衡〔1172〜1254.83歳〕・隆綱〔1189〜?〕・隆親〔1203〜79.77歳〕の生年を考えると、やはり隆親は隆衡の子であろう。

☆四条家についてはこちら(角田文衛氏『平家後抄』。また四条隆親と隆顕の父子関係についてはこちら

☆隆弁は『とはずがたり』巻二「粥杖事件」の場面に登場し、また北条時頼・足利義氏とともに『徒然草』第216段に登場する。

☆後深草院二条は正応2年(1289)に鶴岡八幡宮を訪問しているが、二条の目から見れば、鶴岡八幡宮は寛喜元年(1229)から宝治元年(1247)までは父方の親戚が、宝治元年から弘安6年(1283)までは母方の親戚が最高責任者たる別当を勤めていたところである。そうした客観的事実に二条のずうずうしい性格を加味すると、二条にとって鶴岡八幡宮は殆ど自分の庭のように思えたのではないかと私は想像している。
 『とはずがたり』に描かれた鶴岡八幡宮寺参詣の場面はこちら。また、『とはずがたり』を「引用」していることが明らかな、『増鏡』の鶴岡八幡宮放生会の場面はこちら





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