それでも抱いて、奪って欲しかった。
 言えなかった言葉の後には……苦く、泥のように沈んだ世界が、オレを待って居て。
 そんな風景の中で、キミはオレの、光
 だったから。
 決して失えない、そう思う程に……。

 キミは、キミで――キミは、あなたで。

「ねぇ、そんなに、十年後の僕の事が好き?」
「……え?」
 びっくりした。入江くんが突然、そんな事を問い掛けるから。好き、って……だって、そんなのは好きに決まってるけど、でも急にどうして――。
「キミは僕が大人だったから、好きになったんじゃないの? 綱吉くん。今の何も出来ない僕の事なんか――」
「ちょ、入江くん。何、一体どうしたの? 何かあった? どうして急にそんな事……」
 入江くんは、結構唐突に何かする事が多い。それには大分慣れたつもりだったけど、流石にこんな、何の前触れも無く涙ぐんで……なんて事は、初めてだったから、オレは思わず本当に面食らって。
「……」
「え」
 ガタ、と音を立てて、無言のままキミが引き出しの中から取り出して指し示したものを見て、オレは言葉に詰まる。
「何で、それ――」
 ──それは、あの人がオレに。オレは、キミの手の中の、淡い色の封筒に視線をやったまま、何だか世界がぐらぐらと揺らぐような気がした。
「……昨日貸してくれた本に、挟まって居たんだ。見ちゃいけないって分かって居たけど……我慢、出来なかった。ごめん……。見なきゃ、良かったと思うくらい、未来の僕が、キミに惚れ込んで居たって事が、分かったよ。そして、キミも多分、同じように大人の僕の事を――」
 それ以上は、言いたくない。そう言いたげに苦しげな視線をオレから外して足元へと落とすと、唇を噛むキミ。
「……入江くん」
 それは、オレを最後まで本当に大切にしてくれたあの人が、渡してくれた手紙だった。誰かに見られたら恥ずかしいくらい、どんなにオレを想ってくれて居るかが書かれて居て、だけどオレは、それをお守り代わりにいつも読み返しては、そう――確かにあの人の事を、痛いくらいに想って、……何度でも思い返して。今も、まだ胸が熱くなるくらいに……そこに書かれた事は全部、覚えた。だけど、――だからって、そんな。
 ──キミの事は。
「そんな事は、……入江くん。だってオレは、キミの、事が……」
 もうこんなにも、好きなのに。そう、今なら分かる……あの時のあの人が、きっとこんな気持ちだったって事。オレは未来のあの人を片時も忘れられないのに、忘れられないからこそ――目の前のまだ幼いあなたに、どうしようもなく惹かれて、そうしてまたあの人との違いに戸惑いながらも、そんな所に否応なしに惹き込まれて行く、麻薬のように甘い力を、……あなたも、同じように感じて居たんだろうって。
「だから、……それは、僕とは違う僕なんだろ?」
 眼鏡を押し上げると、ごしごしと袖口で擦った目元を赤くしたキミが、こちらを見据えて尋ねる言葉の意味が、今のオレには──苦しくなる程、理解出来るから。
「……」
 あぁ、……入江くん。どうしたら、分かるかな? オレはバカだから……どうやって伝えたら良いか、分からないよ。だってこんなにも、キミと――キミじゃない、あの人の事を。それはきっと、同じ状況に置かれなければ分からない、そして……もしもキミが、同じ経験をしたのなら、分からない筈が無い――そんな、複雑で簡単な、事だった。だから――。
「ねぇ、……入江くん。だったら、キミも会って来てごらんよ。きっとオレが、十年後のキミの事を思ったように、──」
 けれど、オレのその言葉を受けて……ふと。キミの頬に、影が落ちるのを、見た。オレは思わず、声を失う。
「キミは、……良いの?」
「入、……」
 ぽつりと、キミが零した問い掛けが。ちく、――と心に刺さって、オレは――。
「僕が、未来のキミに心変わりしても、良いの――?」
「違……」
 それは、違う、入江くん……。
 だけどキミの口元を見て、伝えたかった言葉が舌先で引っ掛かって、止まる。心変わり、なんかじゃ、ないよ……。オレは、どちらも裏切ったりなんか、──……入江さん。入江さん──。
「キミを、……入江くん。キミの事を好きになる事で、未来の入江さんを忘れる事は、オレには……出来ないよ。だからそれは、同時にキミの事を――」
 いつの間にか、同じくらいに大切に感じて居たと言う、……事で。だけどそんなオレに、キミを縛る資格は、きっと無いだろうから、――。
「……分かってるんだ。きっと僕は、この世に生まれて来てくれた瞬間から……いつかどこか遠い場所へ消えて行ってしまう、その瞬間までも……どんな時空を切り取った所で、きっと必ずキミに囚われるんだって。だから、それは未来の僕だって、同じ筈で、――そんな僕を、キミが認めてくれて居る事も、そんな僕だからこそ、受け入れてくれたんだって事も、……本当は、分かってる」
「……入江くん」
 そうだよ、……多分オレはそう言うキミの事が、――。
「だけど、分かって居るけど、……でも、それでも僕には……キミだけで、良いよ」
「え」
「……僕は、キミだけ好きで居られたら良い。今ここに居る、こうして触れられるキミだけが側に居てくれたら、他に何にも要りはしないから――」
「いり、えくん……」
「ねぇ、綱吉くん。僕が一番、キミの事を大事にするよ。だから――」
 ちゅ、と――まだ不器用で優しいキスが、頬に触れる。ダメだ、入江くん……それ以上言葉にしたら、オレは。
「僕が、……未来の僕自身の分まで、……ううん、もっとずっとそれ以上に、キミだけを誰よりも――」
 ……だってそれは、オレが本当は一番――。
「いつまでも、好きだから」
 何よりも欲しかった、言葉で。
「だからお願い、僕の事一番に、……どんな僕と比べても良いから、僕だけ一番好きになってよ」
 ……キミを。そう出来たらどんなに良いだろうって、オレがいつからかそう思って居た事を――キミは、知って居たの?
「入江くん……どうしてそんなに、オレの欲しいもの全部、キミはくれるの――」
 ……好きで。どうにかなりそうだった。キミが望んでくれる事。あの人が望んでくれなかった事、……オレが望めずに居た、事。
 どうしてそんなにも簡単に、伝えてくれるの。
「キミが、――」
 愛しくて、おかしくなりそうだよ。本当はそれを望んでくれるキミを、好きになる資格は、オレには無いのに、ごめん……それでも。
「ずっと、……一緒に居るから。キミを一人にしたりしないから、……だから」
 キミの真っ直ぐな声。ずっと聴いて居たいけど、今は──。
「……入江くん?」
 オレはすっと手を伸ばすと、キミの幼さの残る頬に掌で触れて、答えようと無防備に開き掛けたその唇を、キミが振り払えるだけの力で、塞いだ。
「ん……」
 唇を離すと、きらきら濡れた瞳が、オレを見て居た。それが愛しくて、言葉は──自然と、口元から零れた。
「オレは、……未来のキミがオレを好きになってくれて、……嬉しかったんだ。だけど、最初はそれが、分からなくて。きっとオレの事なんか、子供だと思って居るんだと、思ってたよ。それで良いとも思ってた」
「そんな、……訳、無いよ。僕がキミに出会って、単純に惹かれない訳が──」
 ……ふ、と。口元が綻ぶ。困ったように小さく告げるキミの素直な気持ちが、嬉しくて。
「うん、……でもキミには、分かるよね。その時のオレの気持ち。それなのに今のオレに、キミの気持ちが分からない筈が、無いんだ。そして、……ねぇ、今キミが言った通りだよ。あの人はオレをオレとして見てくれた。だから、――あの人がそれを分からずに居たオレに、そうじゃないんだって伝えてくれた事も……ううん、あの人がオレに言ってくれた事を、オレは今も全部覚えてる」
 ……大好きだった、から。今も柔らかい笑顔に会いたくて、不意に泣き出しそうになるくらい。
 けれどそう告げると、キミの瞳と口元が、少し苦しげに歪むのが見えた。少し、待って。ちゃんと言いたい事、分かって欲しいから。上手く出来なくて、ごめん――内心そう告げながら、オレは言葉を続ける。
「でもね、……この世界に戻って来て、キミともう一度出会って。それからキミがオレに言ってくれた事も、……全部、覚えてる。ねぇ、それってどう言う事か、分かる――?」
 問い掛けに応えるように、揺れた瞳が恐る恐るこちらを窺って居て。キミのその、気持ち――。
「キミの今の言葉は、以前のオレと同じなんだよね、きっと。それはもう一人の自分の事だって。今のキミは、オレが『あの人は未来のオレのものなんだから』と、割り切ったのと同じように、感じてるんだろ? だけど……あの人は、言ってくれたんだ。初めて『オレ』を見た時から、……って。オレ、本当に嬉しかった。でもキミは、いま最初から、分かってた。未来のキミがオレをちゃんと見てくれてたって事。それってキミだけだったと、思う──?」
「……え」
 揺らぐ、その瞳が。一度大きく戸惑いの色を見せて、……それから。
「ねぇ、入江くん。オレがキミを好きなのは、未来のキミがオレを好きになってくれたからで、──未来のオレを好きになってくれたキミがオレの事も好きになってくれて、だからオレはあの人の事を好きになって、……そう言う過程があって初めて、こうして今ここに居るオレが、今ここに居てくれるキミを好きになれたんだと、思う。もしもあの時代のキミがオレを未来へ呼ばなければ、どうなって居たのか分からないけれど、……でもオレにとって、あの時キミに出会えてキミを好きになれたのは、本当にとても嬉しい事で……ねぇ、今オレが、どうしてこんなにドキドキして居るのか、分かる――?」
 上手く伝えられないままに、……泣きそうに、なった。キミと居て、愛しさに溺れそうな自分に気付いて――その、苦しさに、嬉しさに。だからオレを真っ直ぐに見つめるキミの手を取って、自分の胸に当てながら、どうしてもこの気持ちを伝えたくて、キミに――もう辛い想いは、させたくなくて。
「綱……」
「オレは、キミの事が、好きだよ。……今ここで、オレを見てオレを呼んでくれる、他の誰でもない『キミ』が、……キミがそう想ってくれたのと同じように、オレもキミをキミとして、大好きだと想ってる。オレにとって、本当に大切な──二人の、キミを。今ここに居るキミと、未来のキミを比べる事は、オレには出来ない。それでも、……キミと未来の……あの人を、同じに考える事も、出来ない。キミはキミで、……キミはあの人で。キミが望む事を、あの人が望む事と同じだけ叶えてあげたいと思うけど、……ごめん」
 オレは、――。
「キミを、忘れられないんだ、入江くん。そんなオレに、オレだけで良いなんて言ってくれるキミを好きになる資格は、初めから無かったのかもしれない。……それでも、オレはキミに、オレの事を──……。キミはこんな勝手なオレの事、……」
「好きだよ」
 すとんと。真っ直ぐに突き刺さるように心の中に落ちたキミの、言葉に。
 瞳が、揺れた。
「何度言わせるの。どんなキミだって、僕はどんな僕よりも一番、強く想ってるよ。絶対に誰にも渡さない。それが例え、――初めてキミが好きになってくれた、十年後の僕自身であったとしても。……嫌なんだ。キミに無理強いなんてしたくないのと同じくらい、僕が一番大好きなキミの、一番になりたいよ。他の誰かに奪られるのは、……嫌だよ」
「……」
 想いが。痛いくらいに交錯していて、オレはもうこれ以上、キミと距離を置く事なんて出来ないと、思った。もう誰にも、オレ達の事を……入江さん、あなたにも──。
「……ごめん」
 キミに謝ったのは、多分……初めてこんなに乱暴に深く口づける事を、――きっと戸惑わせてしまうだろう事を、だけど分かって居て、そうしたかったから。
 そして思い出すのは、初めてオレに触れた優しい人が囁いた……風に消える程の、涙声の告白。
「んん……」
 潜り込む、舌先が。覚えて居るあなたの全てと、今ここで感じるキミの違いに、熱く痺れて痛かった。
『キミを――僕のものにしたい』
 オレがそう思うのと全く同じタイミングで、キミがオレを抱き締めて絞り出すように、そう告げてくれたから。
 絡めた指先がするりと離れて、オレのシャツの上から胸元を辿る荒っぽさに、目眩に近い何かを感じて瞼を伏せながら――。
「もう、……とっくに、全部奪ってくれて居る、癖に……」
 そうしてオレは、そっとキミの耳元を人差し指でなぞって……その眼鏡を、外す。
「良いの……?」
 ──今更? だけど……。
 どうして、知って居るの。これが、オレ達の──。
「ダメだよ、オレにはまだ早いって、……あの人が」
「……僕が?」
 そう……言いながら、何度もオレを、大切に温めてくれた、あなたが。……多分オレは今も、──。
「どうしても?」
 訊ねるキミが、オレを抱き締めて離さないのは、ねぇ……どうして? オレの手からキミが眼鏡をするりと取り上げて、カタ、と音を立てて机に置いた。その仕草が、思い出させる……。
「……どうしても。だって、──」
 ……多分。言ってみたかったんだ。時々あの人がそうしてみせたみたいに、少しだけ意地悪な言葉を、──キミに。
「好きだよ……?」
 だけどそれ以上は、オレが──。
「ん、……本当はオレも──どうしても、欲しいよ。……キミの事が」
 我慢出来る、筈が無かった。……それは誰の、代わりでもなく。きっとキミを失えば、オレは苦しくて──。
「綱吉くん」
 ……唇が。降る、強さ。舌先の、甘さ。呼び掛ける、淡さ。歯を立てる……優しさ。オレだけを――オレ以外の何も要らない、オレだけ見て居ると、だから他の誰も見ないでと繰り返し言って聞かせる、熱に浮かされたようなキミの幼い囁き声。
 ……まるで楽園に居るみたいだと、思った。幸せで、──。

 ねぇ、……入江さん。今なら言っても良いのかな……オレが一度も、あなたに言えなかった、言葉、……『あなたを』。

 ……あなたの、一番になりたい――。

「ふ、……」
 嗚咽が、堪え切れず零れ落ちると、まるでそれを拾うかのように、キミの唇がオレの唇を塞いで、呼気を吸い取って行く。そうして――溢れる直前の涙を、十年後の世界でオレ達が互いによくそうしたように、キミが優しく舐め取って、また命を吹き込んでくれるみたいに、口づける。
 ……キミの、涙。あの時と何も変わらない味がするのに。オレ達は今こんなにも――。そう、忘れられる筈が無かった。あの場所でキミがオレの名前を呼んでは、ぽろぽろと落としたその雫を、何度も吸い取っては、二人重ね合った、心と、――。
 それでも。
「あのね、綱吉くん。さっきのは、……嘘だから。何度でも言わせて? 僕が、誰よりもキミを好き。もう……誰にも、『僕』にも……キミを一瞬だって、奪わせやしないから」
「……ん」
 口づけは、宣告。オレの自由をいつだって奪って欲しかった、たった一人のこの人が、──……今はこうして、傍に居てくれて。
 うん……そうだね。入江くん……。オレはもう……きっとキミから、離れられないと思う。もし、……もしも、――オレの大切な、十年後の入江さんが……今ここにオレを迎えに来てくれたとしても、絶対にキミがオレの手を引いて放さずに、この世界へずっと繋ぎ止めてくれるんだろ? ……それにもう、こんなにもキミを、悲しい程に一番に、心に思い描くから、……いつか思い出を、思い出に出来るくらいには――キミが、オレを殆ど、支配して、
 ……あっ
「いり、……」
 え、さん。……未来で。あの世界で、あなたが刻み付けてくれた、深い優しい愛情が……いま輝きを増して、オレを包み込んでくれる、みたいだよ――。
 ねぇ、時々……キミが愛し過ぎて『あなた』を思い出しても、良いですか――? だってこんな風に、キミと触れ合う事で――あなたを忘れられる気が、しないんだ……キミに募る想いが、まるで勢いを増して、あなたにも積もり続ける、ばかりで。オレは一体、どこまであなたを好きになれば、良いの──?
「つなよし、くん――」
 キミの、呼び声。まだ幼くて、今までオレには見えなかった夢を見せてくれるような、キミの……。
「正一って、呼んで?」
「あ、はは……」
 思わず苦笑した。だって、……そんな事、未来のあの人も、……皆が見て居る前で突然言って、結構びっくりさせられたり、したっけ。キミは、本当に──。入江くん。結局オレは、二人きりの時には、何だか照れ臭くてそう呼べないままだったけれど――今、もしもキミが、心からそう望んでくれるのなら。
「……しょ、う……んっっ!」
 叶えてあげたい、気持ちが。言葉になる前に、キミが触れたその場所から、……反射的に背筋がびくりとのけ反ると同時に、思考ごと断ち切られるようで、……息が、つけない。
「ん、んん……ハぁ、……っ」
 ――キミの、指が……。
「ゃぁ、んっ、──」
 舌先が。それから、――。
「あ」
 ――いつの、間にか。優しくオレをくるんで居た筈の、キミの優しい腕が。何だか別人のそれのように激しさを感じさせて、……纏う炎は、まるでじりじりと火傷しそうなまでに照り付ける、陽射し――。
 あぁ。──いま初めてキミが、見えた……よ。
「好きだ──入江、くん」
 もうキミと離れる事が、──
 できな、い
 もっと、──ずっと。
 それは予感。
 きっと、……いつかキミ、だけを。

 抱き締めて、オレを離さないのは、キミの――

 ねぇ、笑って。
 そうしてずっと、傍に居て。
 それだけが、

 ……正一くん。
    好きだよ。