柊心居にて

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 奥田博子著『原爆の記憶』を読む  建築のグラフィック化と空間の喪失  ツイッター不適合者 次の記事へ
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  松山厳の『建築はほほえむ』


 大きな活字、やさしい文体、余白を埋める柔らかい挿絵や写真に欺かれてはならない。その含意は深く、放たれる良識の矢は、越え難いように見える現実の強固な壁の「目地」 に突き刺さって、そこから侵入しようとしている。「この貧しくも乏しい時代」と別のところでは言い放った松山は、ここでは希望を捨てずに、執拗に良識の矢を放ち続ける。その矢は、建築に関わる人々と、そうではない人々の両方の胸元に向けて放たれている。そうでなければ目地に亀裂が生まれず、壁が揺らがないことを知悉しているからだろう。
 上等な箒のように、大切な部分を大事に残して、建築にともなう余計な知理や雑念を掃き出しながら、周到に「時間」と「記憶」のアクチュアリティーを組み込んで、建築が作り上げるべきものへの眺望を開こうとしている。
 奥付で知ったのだけれど、これは隠れたベストセラーだった。いや、隠れていなかったのかも。
  「建築はほほえむ 目地 継ぎ目 小さき場」
  松山巖
  西田書店 2004
  172×116/116頁
  2004/04
  1,365円(税込)
  ISBN-10: 4888663858
  ISBN-13: 978-4888663854

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  奥田博子著『原爆の記憶』を読む


 1945年8月6日、広島、9日には長崎に投下され、一瞬にして二つの都市を壊滅し、そこで生活をしていた26万人を超える人々が殺戮され、さらに夥しい数の被爆者にその後の過酷な運命を強いてきた「原爆」について知らない人はいないだろう。しかしその時から始まった「原爆」を背負った歴史は、65年間広く伝えられる機会もなく、われわれの理解や知識も貧しいまま時を経てきた。原爆による死者や被爆者に対して私たちの国や広島・長崎の自治体がどのような考えと行政で向き合ってきたのか、被爆者の救済はどのように、どれほどなされてきたのか、新聞を中心とするメディアはどのような報道をしてきたのか、学校の歴史教科書は生徒たちに何をどのように教えてきたのか、毎年行われる式典でそれぞれの市長や、国の最高責任者たちがどのような思想や約束を表明してきたのか、国会ではどのような論議がされてきたのか、そして非核運動がどのようにその理念と形態を変えつつ続けられてきたのか。「原爆の記憶」は戦後65年間の夥しい量の資料を渉猟して、それぞれの歴史を紡ぎ合わせて詳細に記している。
 それらは日本の現代史に欠けてきた大切な部分を補うと同時に、日本がかかえ続けている幾つかの基本的な問題を改めて明示している。一つは国が非核三原則を国是とする一方で、米国の「核の傘」で安全保障を維持しようとする、ダブルスタンダードを温存してきたことである。米国の「核の傘」で守られる安全とは原子爆弾を生みだした科学技術に依存することであり、米国の核戦略を支えることを意味している。その結果、政府は「国連総会に提出され、そのほとんどが圧倒的な賛成で可決されてきた多くの非核決議案を棄権あるいは反対し続け」、「ハーグ国際司法裁判所において、核兵器の使用・威嚇は一般的に国際法に違反しない、という見解を陳述(1995)」することになった。そしてその一方では、広島・長崎の原爆体験を、「唯一の被爆国」ないし「唯一の被爆国民」という被害者のアイデンティティーとして神話化し、それによって、日本の戦争犯罪や戦争責任の問題を忘却する装置として利用してきた、と著者は指摘する。
 一方、広島・長崎の非核運動は、長い時間と紆余曲折を経て、被爆の当事者としてその悲惨を訴えるだけでなく、日本の戦争犯罪と戦争責任を日本自身が自覚し追求しなければ、日本発の非核、平和の理念や運動が説得力を持ち得ないことを表明するようになる。原子爆弾を実際に使用した米国の戦略を批判することも、核兵器廃絶を願う運動を展開する資格もないという自覚に導かれる。国と広島・長崎との齟齬は明白だった。
 広島・長崎の被爆を中心に据えて核の問題と正面から向き合うこのような歴史が著され社会化されるのに、65年という時間がかかったということは何を意味しているのか。現代社会が目まぐるしく変容する中で、その遅々とした時間の流れは何を示しているのか。この国の「知」のあり方に問題があったからではないのか。時間を超えて、置き忘れてはならないことの所在を示しているのか。
 今日、ヒロシマ・ナガサキの問題は新しい局面を迎えている。バラク・オバマ大統領の「核兵器のない世界」の演説は、9.11.の悲劇を経て「核テロリズムについての軍事的解決が極めて難しいという認識に米国が至ったことを示唆する」ものであり、冷戦構造の崩壊以後「これまでの米ソ二核大国によるチェスゲームという『核の均衡』から、複数の保有国によるポーカーゲームという『恐怖の不均衡』へと移行しつつある。私たちは今まさに核兵器がいつ、いかなる理由で使用されるか予測できない『恐怖の不均衡』のなかに生きているのである。」
 さらに被爆の問題はすでにヒロシマ・ナガサキに限定された問題ではなく、ウラン鉱山の採掘に関わる人々、核兵器の開発や実験に関わる人々、スリーマイル島、チェルノブイリ、東海村などの原子力発電所の事故に遭遇した人々、枯葉剤や劣化ウラン弾による被害者などの被爆を含むグローバルな問題として普遍化されている。「核」の問題に対する認識を抜きにこの時代と世界の現実を把握することが出来なくなったことをこの書物は明らかにしている。

 白井晟一の「原爆堂計画」を改めて、少し多角的に考えようとしている時に、この書物に出会った。戦後の建築界で、広島・長崎の被爆を正面に据えて建築と向かい合った建築家が白井の他にどうしていなかったのか、私にはずっと不思議であり続けている。建築とはそういう表現媒体ではないと、一蹴する人々は多いに違いない。しかしそれでは思想や知を建築家から切り離さなければならないことにはならないだろうか。国民の抱えている基本的かつ深刻な問題と向き合うことのない論理や概念を「知」と呼ぶことが出来るのだろうか。白井晟一という建築家を特定するためというのではなく、白井晟一を媒体として、この国の「知」というもののあり様に関心を抱いてきたのである。そういう意味で、建築界からの研究でも発言でもないが、「原爆の記憶」は手がかりを与えてくれる書物だった。難問に対する答えが用意されているわけではない。しかし大切なものとは何なのかを問い続けながら、歴史から抜け落ち、欠けているものを丁寧に掬いあげ、強い意志と情熱に支えられた、丹念で執拗な探求の成果に出会うと、進歩というものをようやく少し感じることができるのである。 
  原爆の記憶 ヒロシマ/ナガサキの思想
  奥田博子
  慶應義塾大学出版会 2010
  四六判/480頁
  2010/06/17
  3,990円(税込)
  ISBN:978-4-7664-1725-8

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  長崎の親和銀行大波止支店の建築


 長崎の親和銀行大波止支店の建築は、白井晟一の最も代表的な建築設計と言うばかりでなく、長崎の被爆への深い思いの託された 建築である。その長崎に「白井晟一展」をなんとか巡回できないだろうか。以下はその大波止支店にふれた拙稿の抜粋である。

 長崎の親和銀行大波止支店は、白井が最も好んだ作品であった。前面湾曲した二階分高さのシリンダーを、左右に伸びるギャラリーのストレートなラインが囲む、静かな美しいファサードの建築である。硬質でテンションのつよい激しさをひめた原爆堂計画とは対照的に、それは優しく清楚でけれんがない。それにもかかわらず、私には原爆堂作家の同じ造形的な意想の方向にあるように思われる。丁度一つのモティーフの雌雄を見ているようなのだ。ファサードのシリンダーの内部はそのまま二階分吹き抜けのバンキングホールになっていて、ほとんどそれだけの建物であるが、天井や床の高さや、視線の奥行が多様に構成され、しかしそれらが猥雑にならずに、静謐で聖なる気配を現出させている。


親和銀行大波止支店 (白井晟一/長崎,1963)

 これは地方金融機関の支店という機能に対応しながらも、かつて白井が秋ノ宮村役場で雪国の人々の生活の戦いに示したような、土地の人々に対する深い感情と敬愛の祈りにも似たナイーヴな様式を認めることができるのである。原爆堂計画の作者としての白井のような建築家が、被爆の悲惨な経験と歴史に対する思いを、その主要な建築的モティーフとして出発したであろうことは、むしろそのことを抜きにこの建築を読み取る方が難しいだろう。
 外部のギャラリーは祈りの列をやさしく守り蔽うにふさわしく、浅い池に浮かぶファサードもその内部の窓から射し込む光も、深く静謐な慰霊の魂をつつむ空間に似つかわしい。そこに認められるのは、闘争やイロニー的な精神の緊張よりも、いわば愛の様式ともいえそうなフモールのたたずまいであろう。(イロニーの様式 Vより)

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  デザインの否定(白井晟一における)


ある問いに応えて:
 (白井晟一の建築作品の中で)一番関心があって好きでもあるのは「呉羽の舎」で、とくに「書屋」です。一人で身を置いたときに充実出来る空間のように思えるからで、しかも閉鎖的でなく、日常的な住居性からも自由で、自分が願っているような存在の仕方に場を与えてくれる空間と感じられるからだろうと思います。住居論から見ると、呉羽に限らずかれの住宅建築はエステティックな構成に主眼が置かれていて、日常的な居住性は副次的につくられているように見えるのですが、いろいろ考え合わせてみると、それはどちらが優先しているかというものではなく、白井の「生活」というものに対する考え方が反映していると見る方が当たっているのだろうと思います。「滴々居」と呼んだ自宅に便所を設けなかったために、かれに住宅を作らせると便所がないという噂がある時期広がっていたそうですが、それは下水管が細く水洗便所の敷設が許可されていなかったからで、後の自邸「虚白庵」には4か所もありました。住宅に便所は不可欠なわけですが、食べたり、団欒したり、寝たり、仕事をする場は、その臭いから守られていることが大事だったのだと思います。
 白井晟一はある講演を「華道と建築」という表題でエセーとして遺していますが、そこでは日本建築の、ヨーロッパ文化では真似することの出来ない「簡素」ということについて述べています。その具体的な一つの例として、ヨーロッパ留学からもどってその日に訪れたという大徳寺聚光院の閑隠席について触れています。利休の作とも言われる閑隠席は、優れた茶室遺構の中でも、意図的な意匠や装飾性を徹底して退けた、簡素に徹した建築といえると思いますが、白井はそこに日本建築の最も優れた伝統を見出しています。
 商品価値ということからデザインや建築までも評価される社会になって久しいわけですが、「簡素」はそのデザインの否定につながる価値観であると思います。ということはこの社会では追及されることも、求められることもなくなっているのかもしれません。官能的な欲望を刺激し、さまざまな快感を導き出すことのできる美が、デザインの商品価値を生むものだとしたら、しかしながら「簡素」にその力がないわけではない。美は個々の人間が主観で判断するものであり、メディアや社会が判断するものではありません。
 白井は別のエセー「めし」の中で「『美』をつくる術が人間の手にあると思い上がったときから、人間の生命と自然の根本法則との連着が断ちきられてしまった。それからの人間はあけてもくれても『用』と『不用』の闘いを続けざるを得なくなったのである。」と述べています。デザインとはまさにこの思い上がりを象徴的に示す行為といえます。
 興味深いのは、建築もそのデザインということから自由になることが出来ないということです。

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  建築のグラフィック化と空間の喪失


 建築家とインテリアデザイナーの違いは、インテリアデザイナーが面の合成で空間をイメージするのに対して、建築家は時間を呼び込む装置として空間をイメージする点で顕著である。

 扉と窓は内と外を仕切るとともに、視覚的にも動線上も、内と外を繋ぐもので、建築を構成する面の両義性を象徴的に示している。一方、インテリアデザイナーにとっては窓も扉も壁を構成する面の一部にすぎない。かれらは壁と天井と床をそれぞれ独立した面として個別にとらえ、その上で相互の調和やコントラストを図り、起こし図を組み立てるようにインテリアを構成する。

 建築家は、面を最初から表と裏、内と外の両面として意識下に置く。窓は室内では外を眺望し、外気や外光を取り込む「口」であり、室内の気配をさまざまに変化させる。外からは中に空間があることを示唆し、遮蔽物としての鬱陶しさを和らげ、周到な比例やリズムで設けられた窓は、建築に魅力的な容姿をもたらしたりもする。この内と外を同時に意識下に置こうとすることによって、タイムラグが生じ、そこで建築家は空間と出会うことになる。
 
 遠近法を示すために考案されたブルネレスキの透視図法装置は、鏡を用いて人が二つの視線を同時に手に入れる装置でもあったようだが、それはすでに実在する建築や空間の観察においてであり、新たな計画に有効なイメージ装置へは発展しにくい。しかも厳密には視線は外の鏡に映る建築の外観に向かっており、内部は空間の気配としてその観察者に感じられているにすぎない。内に居ながら外からの視線を獲得しているわけだが、同一人物における異なった視線の同時性という点では、立体写真や3D映像止まりということになるのだろうか。

 建築の設計に際して求められる視線は内と外だけではなく、鳥のように空からも、設備の管や線のながれる壁の内側や床の下へも向けられる。その視線の数だけタイムラグが発生し、全体における思考やデザインの同時性も、ひいては均質性も最初から破綻している。

 インテリアデザイナーとの対比で、時間を呼び込む装置として空間を、ひいては建築をイメージし、かつ作り上げるのを建築家としたが、その時間とは昼と夜であり、一度訪れて再び訪れることのない時間であり、人生の時間であり、歴史の時間でもある。もちろんそのような建築家がどれ程いるかは別の話であり、建築のグラフィック化は進み続けている。

 ネット社会の時制の並列化と、このグラフィック化は連接していると思われる、建築から空間が喪失するということは、建築から時間が消えるということでもある。建築から全体性への視線が消え、グラフィックな面の組み立てで語り尽くせる建築とは、なんと面白く、なんと薄っぺらで、なんとどうでもよいことか。   

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  虚白庵の時間と空間


  虚白庵を訪れた人からは、「時間の経つのを忘れてしまった」と聞くことが時々あった。私の話が面白いからというわけではなさそうだった。かれらが時をすごしたのは、白井晟一が書斎として設計し使っていたスペースで、奥には天井から床まで切り取られた窓があり、そこからは、一面白河砂で、枝垂れ桜、後には枝垂れ梅とローマ建築の柱頭、それに黒御影石の座禅石を点景とした庭を見渡せた。その窓はガラス戸が二重に設けられ、間に障子とガラリ戸が挟まれていた。

 室内では、一日の時間の流れは、射し込む日の光の変化で感じ取られることが多い。光が消え闇になると夜だと思う。障子越しの光の変化は穏やかで、時間の経過が緩慢に感じられる。一般の住宅のように天井からの照明はほとんどなく、従って部屋全体を一気に照らし出すことは必要とされていない。明りは手元のスタンドでとるシステムである。

 表の大通りに面しては、ブロンズ製の重厚な扉の玄関があるだけで、ほかに開口は一切設けられていない。原爆シェルターと呼ばれた。窓がないと、建築を構成する面の両面性、両義性は生じ難く、内と外がそれぞれ独立した面として存在する。内からは外を、外からは内を拒絶しているようにみえる。虚白庵に射し込む光は弱く、天井も床も黒いので光の反射もない。黒は薄明かりの中では視線を遮りにくい色である。すべての光を吸収し、すべての色を含んで成立する黒色は面から両面性を奪う色でもある。それは茫漠さを生み、空間へ向かう視線を闇の中に拡散する。闇の中でわずかな光源で広がる空間は、壁によることなく境界を形成する。たしかに虚白庵の中を流れる時間は少し違っていたのだ。

 水上に立ち、宙空に浮かぶ原爆堂の主室は光廊と名付けられており、人が歩行して周回する空間であることを示唆している。常行三昧の空間へと展開した阿弥陀堂と似ている。中心にあるのは仏ではなく、地上に導く地下道への中空の筒状の空間である。光廊は四方に窓が設けられているが、虚白庵同様、その壁は両義性を欠き、内と外の連携にも欠けているように見える。

 虚白庵では、一般の建築空間の手掛かりになるような論理を見つけるのが難しい。「内外空間の相互貫入」も退けられ、開口の少ない、壁の建築でありながら、ガイディングウォールの機能をはたしてはいても、薄明かりの中で壁は空間を明確には仕切らないのである。建築的構成と視覚的構成のギャップは虚白庵に限るものではないが、虚白庵の手掛かりになるものでもある。

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  原爆と日本の建築文化


 知人が送ってくれた「三つの原爆計画―失われた原爆の記憶」という飯島洋一さんの論考を読んだ。ここで取り上げられている原爆計画とは、丹下健三の「広島平和記念公園」と白井晟一の「原爆堂計画」そして磯崎新の「電気的迷宮」である。「これは驚いていいことなのだが、世界唯一の被爆国である我が国の建築界において、1945年8月の原爆投下をはっきりとテーマに掲げた建築計画は実に数が少ないのである。」と述べられ、それぞれが「廃墟」というキーワードを用いて解説される。その数の少なさ故は分かるのだが、この三つを「原爆」というくくりで一つの箱の中にいれるのは土台無理がある。「広島平和記念公園」「広島平和記念資料館」はその名の通り、被爆地広島に原爆犠牲者を弔い平和を祈念する建造物である。しかし平和を願うその建築が、「戦時中の大東亜共栄圏構想のための計画と同じ構成で」まとめられているということや、今度は被爆を「犠牲」として象徴化しながら「平和」を掲げ、戦争における加害者の問題をあいまいにしようとする国策の一環であって、原爆被災者の真の声を反映したものであったかどうかとか、さまざまの重い問題が含まれていることを別にしてもなお、設計者自ら「原爆」をテーマとして取り組んだものとは、かれのコメントを見ても言い難い。また、「電気的迷宮」は作者が建築家であるというだけであって、建築作品とは言い難い。「原爆堂計画」だけが「原爆」という問題をテーマにして建築家によって建築として表現された唯一のものであり、しかもそれすら実現しなかった「計画案」にすぎない。つまり人類史上未曽有の核による大量殺戮を経験したこの国には、それを正面に見据えて設計されかつ造り上げられた建築は一つとして存在しないのである。

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  ツイッター不適合者


 わが友は言う。オマエにツイッターは不似合いだ。ツイッターをしてもいないかれが言うには、ツイッターとは目まぐるしく変化する世界の、時の流れの一瞬をとらえて発声するものだ。そして次々に消えていく泡のような情報だ。オマエのように一つのことに反応したり結論を出すのに、何日も、いやものによっては何年もかかるやつには似あわない。だいたい流行に乗るのはオマエが忌避してきたことではないのか。ナルホド長年のつきあいだけあって、私の性格分析に異論はない。しかしはやっているから始めたわけではないし、自分がすることで人のツイッターを見る機会が増えた。最新情報が次々手に入るというわけではないが、先日の北朝鮮の砲撃は、フォローしている誰かが廻してくれたお陰で、テレビより先に知った。ウィキリークスの情報などもあった。興味深い話や情報に遭遇することもある。 たどたどしい自分の発声には不似合いの誹りは免れないが、誰を相手に発しているかもわからないつぶやきも含めておおいに興味深い。泡のような情報というが、この社会がその泡のような情報や知識で作られている比重が増している。何十億というツイッターのほんの一つまみに遭遇しているにすぎないわけだから、もちろんそこで一般性を獲得することにはならない。それでも声なき声の溢れ出ている今の世界の一端を知ることはできる。ツイッターにツイッターすることで、匿名性という隘路は厳然としているが、ある種のコミュニケーションが発生していることも否めない。

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  白井晟一展 セカンドヴァージョン


 1月8日からパナソニック電工汐留ミュージアムで「白井晟一展」のセカンドヴァージョンが始まります。ヴァージョンには翻訳の意味があります。展覧会は白井晟一の表現ではなく、かれの表現を素材とした今この時代の一つの表現です。展覧会を主催し実行している人々は、白井の側から展観者に向かっているのではなく、展観者の側から白井に向かっています。それが「白井晟一展 精神と空間」の意味であるとおもいます。以下は1984年の拙稿「イロニーの様式 V」からの抜粋です。

 ともあれ私は白井を、そのような精神として措定することによって、「イロニーの様式」を始めたのである。このことが白井と、時代的な規範や概念と考えられたものの上に現代建築を定位しようとした典型的な建築家との異質を、最も端的に示しうる精神の出自の相違であると考えられたからである。この国で建築家というプロフェッションの価値観や使命感、自負や信念を支えてきたのは、時代に主題があろうが無かろうが、現象的であれ先見的にであれ、ひたすら時代を表現し、その表現が時代的であることによって正統性を得ようとする、影のない光のような意識であったように思われる。合理主義的な生産および流通の仕組みとその中で主客入れ替わって機能化される市民生活、極大化した機能主義の中で、コンピューターによる人間と社会の管理化、情報アレンジ能力に知性を矮小化する概念的主知主義、人間を自然から切り離して概念の箱詰めにする機械的美学、揺るぎない技術信仰。例えばそれらのような時代を特性化するシステムやメカニズムとそれに呼応する概念を共通言語として、その文脈の中に表現を定位する以外には表現はリアリティーを獲得できないという意識。そこではなによりも、自己は自己の時代の積極的な表現として自覚されなければならなかったのである。
 これに対してそれらを精神の自由を妨げる時代の現実として、それを克服しようとする闘いに創造のリアリティーを見出そうとした精神との、この出発点の相違が、白井とその建築作品を時には異端、時には例外者として特質化しながら、通念的なアプローチを困難にし、神話的境域に押しやってきた最大の理由ではなかったかと思う。そしてこの「自己を自己の時代の積極的な表現と」自覚しない者の、「自己固有の本質においてなされたこの時代の経験を最後まで徹底させ、時代の現実を克服するために、この時代の現実そのものに徹する」精神の具体的なアクション―表現として「善照寺」及び「原爆堂計画」を見てきたのであった。

 中略 

 「自己を自己の時代の積極的な表現として自覚しない」精神は、腹貸し女を母と呼ばなければならない子のようであるが、それは白井に創作者と批判者、フモールとイロニーの共存をかえって容易にするものであったろう。時代との距離は精神の問題としてア・プリオリに前提され、過度なテンションを起こさない。創作者としてのフモールは、張られた弦を弾くイロニーのピッチカートに合わせて躍動する軽やかな舞踏のようである。
 ジャンケレビッチはニーチェの「鳥が高く舞い上がる」のは、「執着から解脱するためではなく、解脱そのものから解脱するためである。」と言っているが、「仏に会っては仏を殺し、祖にあっては祖を殺し、母にあっては母を殺す」ばかりでなく、解脱や達悟をも大笑してはばかることのなかった白井が現実の様式として贈りとどけた「精神としての建築」は、「自己自身のうちから携えてきたり、生産したりしなければならない」人々の、単独者としての闘いのなかに、おそらくたびたび現れて、もう一つの歴史を形成することになるに違いない。

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