柊心居にて

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 たまには父として  「原爆堂計画」の背景を求めて 「柊心居にて」目次へ


  アールトと白井晟一の隔壁


 2月20日、パナソニック電工汐留ミュージアムで開かれるシンポジウム「空隙としての白井晟一・20世紀における建築家白井晟一の位置づけ」の第一部では、「ノアビル」と「原爆堂」をテーマにして、私が所見を述べたあと、田中純さんに質問をして進められることになりますが、おそらく時間の関係で話が及ばないと思われる三つ目のテーマについて用意した前説の以下は草稿です。

 解体直前の虚白庵で行われた中谷研究室の企画、主催で開かれた「白井晟一学習会」で田中さんがされたレクチャーには、「独学に学ぶ」という表題を付けられ、「住宅建築」誌にも掲載されました。そこでは橋川文三のautodidacte=独学者を起点にして、独学のもつ体制やアカデミズムからのスタンス、あるいは異端性にふれながら、さらに、全体性を失った分裂の文体としてのアフォリズムと、その克服に向かい、ある統合へ向けた憧れを背後に持ったエッセイとを比較しながら論をすすめられました。そしてアドルフ・ロースのイロニー的なエッセイ性と「用」の重視という点で白井晟一と通底するものがある、と述べられています。
 私は田中さんが「政治の美学」で取り上げられているアルヴァ・アールトのほうにより通底するもの、近似性を認められると思いました。アールトの「人間主義」「技術への人間の服従に対する批判」あるいは「人間的な規格化は国際的な単一化としては実現しえない」といった田中さんの指摘されているアールトの思想という点でも、また、自国フィンランドを「辺境の小国」と認識したように、白井は自国日本を「辺境の小国」と考えていたと思える点でもです。さらに「建築は建築史の問題ではなく、第一に国民の問題」であり、かれの建築空間は「等質的な要素の連続した拡大としてではなく、異質な断片の並置が触覚的に把握される過程で生成する秩序としての統一体なのである」と、田中さんがアールトの思想と造形を分析、評説される点に白井にも通底するものがあると考えます。
 そしてこの両者を決定的に隔絶するものは、それぞれが背負っていた国と文化の本質的な異質性であったと思います。アールトはその「人間主義」をフィンランドという「小さな国」に根差した建築の思想として構想することができた。イデオロギーとして展開することができた。一方、白井は「イデオロギーでは自分の仕事が育たなかったことに気がつきかけたのが、遅かったんだが」と述懐せざるを得なかった。内省的な表現の形をとってはいますが、ひっくり返してその裏を見れば、戦後の日本という国がイデオロギーが有効に働いて、社会を形成する力になるような知的風土を持たないところだったという認識を示していると考えられます。そのことは、「原爆堂」のところで触れましたように、ひいては戦前、戦中と戦後の間にしっかりした批判的「知」を働かせることのできないままに、今日の科学技術時代に突っ走ってきた日本の近代建築「思想」そのものへの問題提起を意味するものでもあると思われます。日本の近代建築思想そのものが、知の文化と言えるものであったのかどうかということが問われているのだと思います。

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  白井晟一の木造建築


 「建築は先に平面があって、そのあとで立面ができるというものではないし、もちろんその逆でもない。自分が平面を計画したときは、内も外も含めて立面計画も同時に出来ている。」と白井晟一は語ったことがある。一連の親和銀行の設計以来、石を硬軟自在に用いる作品を多く手がけたが、それらはたいてい、石を薄くスライスして貼り付けるのではなく、組石造かと思わせるような厚い荒石で分厚い壁を構成することが多かった。近代建築の合理主義的な視点からは、その壁の厚さや重い印象はひどく不可解なものに見えたらしい。

 白井の作品というと、このような石の建築ばかりが目立って木造は見過ごされがちだが、周到な合理的解析によって生み出された木造建築は、かれの建築家としての業績の中でも本来大きな比重を占めるものである。コンクリートの躯体を被覆する厚い石やレンガの建築では、造形的な印象が支配して、かれが元来木造建築から出発した人であり、そのことによって保持している基本的な空間の骨格や構成を見失いやすい。

 構造と意匠が緊密に結びついている木造建築の特性と制約に、白井は様々な形で挑戦している。例えば、床を低く開口を大きくとるために、土台や桁といった構造材をそのまま敷居や鴨居のような内法材として用いる手法では、棟を上げるまでの構造材の加工において既に、意匠的な緻密な配慮が求められる。その一方、かれが真壁式大壁と呼んだ手法では、建築を大壁式で造り、それに真壁を思わせるような付柱を自由に配置するもので、これは木造建築のもつ制約を空間的に解放する効果をもつものだった。

 戦後間もなく進められた一連のローコスト住宅の設計では、垂木構造を軸にして、木造住宅の合理性を厳しく追及した。そして、数寄屋的な和風の美意識を批判的に退け、銘木や高価な材料を用いることなく、端正で格調の高い住空間の実現が可能なことを示している。

 (中略)白井の木造建築における功績はなによりも、現代においてなお「和風」に創造的可能性のあることを示した点であろう。そしてその創造が技術やデザインだけからでは、達成されえないことを示し続けた点にあると思われる。

(1993年筑摩書房より発行の「写真集 雲伴居」に収めた拙稿の一部です。) 

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  たまには父として


 白井晟一について、子としてのプライベートな思い出話を求められることは少なくない。公の場では大抵お断りしてきたのは、肝心な白井晟一についての情報や議論が閉塞的な中で、取っつきやすい柔らかいインティムな話が誤解を招くことへの危惧や、白井晟一についての研究論者の一人であるという自負からでもあったように思います。その状況はさして変わってはいないけれど、白井晟一展の実現によって肝心な部分についての論議の場が、たとえ一時的にせよ開かれていることからなのか、緊張感が少しゆるんで、ブログも更新しなけりゃならないし、といった軽い乗りで綴ってみることにしました。しかし息子で長い間そばにいた者の話だからと言って記憶違いや思い違いもあるでしょうから、全面的に信用することは出来ません。

 「書」にも「無伴」「孤頂」「離騒」といった字があったり、「闇」とか「孤高」といった言葉で語られることがあったりしたので、陰気で偏屈なオヤジのようにとらえられていた面があるように思いますが、生前を御存じの方は同じ印象と思いますが、どちらかと言えば気さくで天真爛漫なユーモアを言うことも多いタイプの人でした。江古田の「滴々居」では、1950年代ですが、大抵フンドシかステテコ姿で、女性客のときはさすがに上下を着ていましたが。この家は塀もなく、すぐ前にバスの停留所があり、待っている人からはもろにその姿が見えました。しかし出かけるときは、常に水玉模様のネクタイを締め、背広を着てどんなに暑い時でも、ネクタイを緩めたり、背広を脱ぐことはなかったようです。母は父の性格を「両極端」と言い、栗田勇さんは「野人と貴公子」の両面を持つ、と書かれていました。秋田へ出張するたびに、母の着物や自分の時計を質屋に預けては旅費を工面していたので、質屋の上得意になり、そこで町の映画館のナイトショウの切符をもらっては家族と唯一のスタッフだった中村健築さんとでよく出かけたのもそのころです。

 小学校の4,5年の頃だったと思いますが、ある晩、試験勉強をしているところへ来て、「明日僕は出ていくので、お母さんを宜しく頼む」と言います。夫婦喧嘩はしきりにあったので、そのためだと察しはつきましたが、兄は高校の寄宿舎生活でいなかったので、僕が標的にされたわけです。喧嘩の原因は大抵、父の女性との交流にあったようですが、10,11歳の子供をつかまえて、普通親が子に言う台詞ではありません。「この親父は一体何なんだ」とその時思ったに違いありません。しかし翌日もその翌日も父はいつものように家におり、出て行くのをどうしてやめたのか説明はありませんでした。父が今度は本当に、ただし今度はあの世に出て行った後も、このときのショッキングな言葉が耳を離れず、母を助けるために何もできませんでしたが、彼女の傍から離れることはありませんでした。

 母は3年ほどの入院生活の後になくなりましたが、ちょうど父の13回忌の時期を過ぎた時でした。彼女は痴呆も患っていましたが、すでに前もって死装束を用意し、一緒に棺に入れるようにと革装の日記帳が添えられていました。それは父との新婚の何ヶ月かを記したもので、言われた通り母の遺体に添えました。彼女は弔いに呼ぶ人、終わってから知らせをする人の指示を遺しており、その通りにしました。

                                              ◆

 江古田の「虚白庵」のあった場所へ和田本町から移ったのは、一九四九年で僕が五歳の頃ですが、後に「滴々居」と呼ぶようになった家は予定していた建設が遅々として進まず、当初は応急的に4坪ほどの小屋が作られ、しばらくは一家4人がそこに住みました。当時その近辺には画家や彫刻家が多く住んでいて、芸術家村と呼ばれていましたが、その方たちが集まって来られることが多く、小屋に入れるわけもないので、大工さんが即席で作ったベンチに座り、将棋を指したり談笑していた光景をよく覚えています。その輪の中には近所の炭屋さんや蕎麦屋さん、旅館の御主人などもいました。晩年になって「お母さんが嫌がるので人を呼ばないが、僕は人間が好きなんだ。」と言っていたことがあります。
 
 小屋は片側に2段ベットが造りつけられているだけの1室で、皆が寝た後手元の明りで仕事をしていたようです。隣で「滴々居」を建築していたわけですから、希望をもって生活をしていたとはいえ、お嬢様育ちの母には相当きついものだったに違いありません。しかも父は「滴々居」は住宅ではなく仕事場、アトリエとして設計していたもので台所も設けられていませんでした。小屋に住んだ期間を明確には覚えていませんが、2年間くらいだったと思います。厳しい経済の中での建設でしたから移り住んだ「滴々居」は外も内も壁は中塗のままで、天井も仕上げられず照明用の丸い穴があいたまま、外の基礎部分を覆う筈だったレンガもつけられず、覗き込むと向う側が見通せ、中にもぐりこんでは「宝物」を埋め隠して遊びました。計画されていた広い露台も床を支持する片持ちの梁が露出して突き出したままでした。屋根は予定した銅版が使えず、それが、たまには雨も漏りますという「滴々居」の由来になったわけです。そして最後までそれらの状態は変わりませんでした。

 やがて滴々居の横に10坪の、垂木構造のモデルハウスのような家が設計され造られました。入口は中央にある居間の4枚の引き違いのガラス戸で、居間の左は寝室で2段ベットが2組設けられ、右は手前に4畳の台所と奥に4畳の風呂が予定されていましたが、結局そのようにはつくられず、部屋として子供部屋になったり、中村さんの執務室になったりしていました。つまり滴々居からの移動は行われず、居間の部分が製図室で、寝室部分が父の書斎兼寝室として一時期使われていました。予定どおり完成し使われていたとしても、これ以上ないほど「簡素」な住宅だったと言えます。あるとき家族で外出から帰ってくると、その居間の部分に見知らぬ老女が座っており、ここは私の家だと言い張って動かなかったことがありました。

 「滴々居」はアトリエからの転用住宅だったわけですが、そこでの生活経験が僕の住宅建築観のベースになりました。機能や多少の美的趣味で綿密に計算された住宅などといったものを、住宅としては評価するようにはならなかったのです。現実の住宅事情からいって、小さい土地に家族全員が気持よく住めるようにするのは、それだけで大きな作業ですが、機能が先にあって、人間がそれに付いて行くような住宅はやはり大切なものを失っていると思っています。父が経験させてくれたのは、誰にとっても理想的のような住まいではなく、住まいというものは、ひとそれぞれにとって、もっと自由なものだということの実感でした。

                                              ◆

 中学2年のとき、「面白いから読んでみろ」と言われ父が購読していた「思想」を渡されました。「現代の価値観」という特集で、その中の清水幾太郎の「現代における価値の問題」でした。小さい字で印刷された、いわば大人の本を手渡され戸惑ったに違いありません。しかし何を理解できたのか覚えていませんが、面白いと思ってしまったのです。おそらく価値というものが、与えられるものではなく自分自身で切り拓いていくものだ、ということや、ニーチェの「価値の転換」というあたりに興味を持ったような気がします。それから暫くはニーチェのアフォリズムを読みふけることになりました。高校で文芸部に所属し少し文章を発表するようになると、こんどは「こういうのがお前に向いている」と言って、キルケゴールの「死に至る病」を渡されました。哲学書でも表現が堅苦しい論理でなく、詩的あるいは文学的なところのことだったのかもしれません。「神」という言葉が出てくる度に戸惑い続けましたが、これもやがて面白く感じるようになりました。こうした本や論文を渡されていなければ、その後父をテーマに文章を書いたり、雑誌を作ったりすることはなかったかもしれません。
 
 父は「書物」を愛する人でした。ここで「書物」というのには二つの意味があり、一つは当然内容ですが、もう一つは装丁です。ヨーロッパを旅行する機会が二度ありましたが、その何れでも入る店といえば書店と骨董屋が多く、買い求める本の一,二割は装本が気に入ったものでした。汐留ミュージアムで展示された若い時の写真は、大きく引き伸ばされていたので始めて気がつきましたが、後ろの書架に収まっていたのは、カントのアカデミー版とニーチェのムザリオン版でした。留学から帰国する時にはかなりの量の書籍を持ちかえったが、すべて戦争で焼けてしまったと言っていました。同行したヨーロッパの古書店で半世紀ぶりにそれらを見つけ手に入れた時は、相当嬉しかったに違いありません。
 
 日本でも神田の古書店に行く時は同行させられました。夭折した哲学者、前田利鎌の「宗教的人間」もそういったときに「読んだ方がいい」と言って買ってくれたもので、僕にとっては最も大切な書物です。表題は堅いのですが、中味は臨済や荘子、ファウストなどが取り上げられており、禅が基調になっていると思われる論考で、いわゆる哲学書とは異質なものです。中に「一所不住の徒」という章があり、そこではキリストやファウスト、一休や芭蕉とならんでサーニンが取り上げられています。アルツィバーシェフの文学「サーニン」は肉欲文学のような取り扱いを受け、出版された翻訳書は伏字の多いいわくつきの文学だったようです。サーニンはその主人公の名前ですが、道徳さらには人倫さえ越えて徹底して生を追求する人物で、父は若い頃サーニンのようだと言われていたことがあるなどと話していました。

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 父は姉きよ、弟隆吉の三人兄弟でした。祖父は銅を扱う豪商で京都で自動車を初めて購入し乗りまわすという人物だったそうです。しかし財をそうしたことに惜しげもなく使うといった性格のせいか破産し、父親は呉服を行商のような形で商っていた、と父からは聞きました。その父親も四二歳という若さで亡くなり、絵の先生だった近藤浩一郎と結婚していた姉きよのところに家族ぐるみ身を寄せます。父は金属への関心が強く、若い時には色々な鉱物の採集やコレクションが好きで方々の山を回ったそうですが、それはもしかしたら生家が銅屋だったからかもしれない、などと話していたことがあります。

 黄檗山萬福寺に四、五歳のころ預けられたと言っていましたから、それはまだ祖父も健在で、銅御殿と呼ばれていたという家にも住んでいた頃なのでしょう。豪商の未来を背負う子供として、寺に行儀見習い目的で預けられていたのかもしれません。書、習字もその見習いには欠かせないものだったのでしょう。後に顧之昏元と号して習書に没頭し、多くの書を遺すことになったのも、あるいは仏教、とくに禅宗や道元を深く学ぶようになったのも、この見習いのときの経験がスタートラインであり引き金になったと思われます。

 近藤浩一郎という人は、恩の深い父親のような存在であると同時に、父にとっては終生理想の女性であり、母のような存在でもあった姉を奪った宿敵のような存在でもあり、心情的には複雑な愛憎いりまじった人であったようです。近藤さんは引っ越しをすることが多く、そのたびに学校を変わらなければならなかった、とこぼしていたこともありました。転々とする中で、隣に黒田辰秋がいてもうその頃から木工がずば抜けていたとか、一つ上に大岡昇平がいたとかいう話を断片てきに覚えています。、横山大観の家に寄宿していたときには関東大震災に襲われ、彼の手を引っ張って逃げたという話もありました。 

 近藤浩一郎は芸大ではトップを争う優秀な生徒であったそうで友人も多く、主に京都の家でだと思いますが、親友の藤田嗣治、後輩の中川一政、作家の菊池寛や芥川竜之介、山本有三、岡本一平、かのこ、あるいは国務大臣を経て親和銀行の頭取、会長になった北村徳太郎といった方たちが頻繁に訪れ、父が言うには、大抵はその目的が姉であるきよ夫人の美貌と彼女の作るプロを越える料理にあったそうです。近藤は夏目漱石や森鴎外の本の漫画チックな挿絵でも一世を風靡して人気者でした。

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 こうして記憶を辿りながら、父のことを思い出しても、小さい時から随分いろいろなことをしてもらいながら、成人するまで親しみの感情が薄かったのがどうしてだったのか自分でも分かりません。小さい時に酔って帰ってきた父に寝ているところを蹴飛ばされたことがあり、それを根に持ったのだとしたら、相当執念深い性格だったことになります。高校一年のとき、書いた創作原稿を批評してもらおうと読んでもらったことがあります。一夜明けて返してもらった原稿は大幅に書き直されていました。しかも原文を消して直されており、涙ながらに僕はそれを破り捨て最初から書き直しました。小さい時にはやはり作文を随分直してくれ、それが先生に褒められるということも何度かありました。高校生でも父には小学生と変わらなかったのでしょう。良い文章であることよりも、自分を表現するためには下手でも自分自身の言葉であり、文章であることが大事でした。そういう風に成長していたのです。そんなことも分からないのか、分かっても平気で踏みにじるのかと、プライドは酷く傷つき怒りは止まりませんでした。以後書いたものを原稿で見せることはなくなりました。
 
 僕は父からあまり怒られた記憶がありません。父のように勤勉な性格ではなかったので、寝てばっかりの「むっつり右門」とか「龍眠居士」とか仇名をつけられましたが、とにかく扱いにくい子供であったようです。建築設計の仕事を経験させてもらうようになってからも同じでした。手前みそで言えば、弟の僕の方は、自分の置かれた立場や役割を、自分の個人的な思い入れや趣向と混同させない意識が強かったからだったと思っています。ある時母が「お父さんはどうしてお前にあんなに気を使うんだろう」と言ったことがありました。自分が二児の父親になってよく分かったことですが、父は二人の子供に同じように愛情を持って接してくれていました。僕も父を尊敬し感謝していましたが、僕と父との間にはとりわけベタベタした感情といったものがなかったのかも知れません。僕の方は喧嘩にでもなれば、二度と戻ってくることはないだろうと考えていたような節がありました。
 
 その父と将棋を指すことが時々、かなり年取ってからもありました。かれは盤に駒を叩きつけるように指すのです。つまりまず威嚇して相手をたじろがせペースを奪うのです。つぎには歩を巧みに使って上位の駒を攻撃し、王将までも歩で奪おうとします。歩にやられるということは、素人のへぼ将棋では痛く傷つくものなのです。長いこと歯が立ちませんでしたが、やがて僕は父の相手にする誰よりもその脅しに乗らなくなり、たまに勝つこともあるようになりました。二連勝したら千円やるぞ、と言われ二,三万円奪いとったことがあります。ささやかな勝利の思い出です。 

                                              ◆

 小学校低学年の頃だったと思います。母が生活費をしまっているバッグを知っていた僕はそこから小銭を何度かくすねていました。それが発覚すると父から「おまえは橋の下に捨てられていたのを拾ってきたんだ」と言われ、身から出たさびとはいえ傷つきいつまでも忘れませんでした。そう言われたことが何度もあったということは、それだけ何度も悪事を働いたということになります。僕が生まれる前に母は一度流産しており、「その子が生まれていたら、おまえは生まれなかったかもしれない」と言われそこでも傷つきました。それもきっと何か悪事を働いた時だったのでしょう。戦時中に生まれたせいなのか、自分の乳幼児のときの写真がないこともあり、僕はこの家の子供ではないんだ、と本気に思ったりしていました。
 同じころ、貧しい生活は続いていましたが、誕生日になると池袋の駅の前にあった「ホワイト・ベアー」というレストランに連れて行ってくれました。目当ては美味しいアイスクリームにあり、誕生日が近づくのが楽しみでした。町で買える冷菓はアイスキャンデーの時代です。そんなときに、よせばいいのに自動車のそれも動く玩具を欲しがったらしいのです。動く玩具は高かったので、それは無理な注文でした。それから数年たったある日、突然両親から電池で動く玩具の自動車を渡されました。もう中学生で関心は別のものに移っていました。遅きに逸したのです。そのとき自分がどういう反応をしたか覚えていませんが、後になって思い出すたびに、子供の願いを忘れずにずっと覚えてくれたことが嬉しく、思い出すたびに感激していました。
 貧しくお金のないことを気にとめず、いつでも大金持ちのように思っている、母は父についていつもそう評していました。普段着るものは決まって米軍払下げのセーターとズボン、暑ければフンドシかステテコで、虚白庵に移った六〇代末になっても変わりませんでした。貧しさは所有する物によらず心による、ということを疑う気配はありませんでした。「建築は徹頭徹尾、物なんだ」と言い、物と人間との関係を突き詰めていく建築家である一方、物に支配されることを徹頭徹尾拒否して、それは思想と言うより性格のようなものになっていました。「食べるものもなくなって生きていけなくなったら、みんなで首つって死ねばいいじゃないか。大したことじゃない」という台詞も二度三度聞きました。小さかった僕は一瞬一家心中の場面をイメージしたりしましたが、そのたびに母は「いやですよ」と言い、それを聞くと父は少し不機嫌になりました。

                                              ◆

 父は葬式というものに出席することが全くといっていいほどありませんでした。父代わりのような存在だった義兄と、竣工して間もない親和銀行本店のホールで行われた北村徳太郎氏の葬儀くらいしか記憶にありません。兄や僕が代理で行かされることも何度かありました。儀礼の伴った「おつきあい」には極めて冷淡だった父を、母は「非常識な人」と呼び、心配のあまり「おいでになった方がよくありませんか」などと言うのをしばしば聞きました。
 
 記憶をたどっているうちに不可解なことが生まれました。小学低学年かそれより少しまえだったか、ある夕方突然両親に連れられて、東京郊外の小さな家を訪れたことがあります。玄関から入るとすぐに4畳半ほどの小さな部屋があり、炬燵が置かれていて、子供が二人おりその右手に襖で仕切られた6畳か8畳くらいの和室があって、敷かれた布団に遺体がくるまれていました。その周りを何人かの人が取り囲んでいたのです。炬燵に入っていた子供は僕より大分年上で小学5,6年に見えるとても可愛い少女と、僕と同じくらいの年齢の男の子でした。僕はその兄弟に遊んでもらいながら、それほどみじかくない時間をすごしました。

 今思い出しても「通夜」であったとしか思えません。留学時代に出会い、ベルリンで一緒に邦人相手の新聞に携わったり、日本に帰ってきてからは、父の仕事を探して東奔西走して下さったりした市川清敏と言う方がおられ、母は父の唯一親友のような存在だったと言っていました。遺体を目の前にして過ごすような通夜の席に父がいくということは、相手が余程の存在でない限りあり得ないことでした。ところが市川清敏著の「理想選挙ものがたり」という本が見つかり、それは昭和46年に時事通信社から出版されており、「謹呈 白井兄 著者」とあるのです。あれは一体何だったのか、解くカギはありません。
 
 父の書に「灰骨耳」というものがあり、その読みと意味を聞きました。すると「はい こつ のみ」と読み、「死んだらただのカルシウム」という意味だと答えがありました。後には遺志もなにものこさない、そのために徹底して生きる、ということでもあったかもしれません。父には徹底して怜悧ともいえる禅的合理主義のような姿勢を感じることも、熱い細やかな心遣いや情を感じることもあり、要するに母の言う「両極端の人」だったのでしょう。あるとき年老いた父をつかまえて、死ぬ前最後に食べたいと思うものは何かとたずねました。つまり一番好きな食べ物は何かということを厭味ったらしく聞いたわけですが、すぐに「用宗の釜揚げシラス」と答え、その次は長崎の蒲鉾かなと言いました。

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  狭間からの視点


 歴史を見ていると、名を遺したその人物がいなかったとしても、同じような歴史的役割を果たすような人物が別に登場していたに違いないと思うことがある。少なくとも社会や時代との関連性を抜いては、歴史的な個人についての解析や理解は客観性を失う。異端や孤高、あるいは素人建築家というような言葉で例外化されてきた白井晟一という存在が、特殊で希少、あるいは唯一的でさえあったことが、しかし社会的にどういうことを意味していたかということは論じられることがなかった。私には時代や社会が求めていなければ他のどのような当時の建築家よりも、白井晟一という建築家は存在し得なかったと考えるようになっている。
 
 前川國男、丹下健三という両巨頭を筆頭に展開していた戦後の建築界で、主潮だった近代主義の対称軸として白井が捉えられたのも、かれが声高らかに近代主義批判を展開したからではない。実際かれはそのような論陣を張ることはなかった。むしろ単一な思想だけで流れることに対する危惧が潜在していて対称軸が求められていたから、先ずそれがあって、そこに格好の建築家が現れた、という順序の方が理性的な見方であろう。そういう役を担うようになったのは、そのような役が必要とされたからであり、突出した個性がそのような役をつくりだしたからではない。多くの白井晟一論はしたがって入口で終わってきた。白井というような存在を必要とし、育てさえした時代や社会への視線を欠き、解析しなかった。

 その効果もあって、戦後の建築家の中でも、白井は今この時代最も遠い存在になっているかもしれない。しかし興味深いのは、白井晟一展がわずかに開いた場で実現されてきている論説のなかには、明らかに30年まえとは異質で、すぐれた解析や論考が展開されてきている点である。そこには表層的な作られた歴史を越える個と個の対話の存在が見え隠れする。 

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  白井晟一展に潜在するコンセプト


 今回の「白井晟一展」の企画にあたって、最も関心深かったのは、かれの没後ほぼ30年という時間とその間の社会と文化の変化でした。いま20代の方は生まれてきたときにはもう白井は生存しておらず歴史上の人物になっていたわけで、しかもこの間、歴史としてもほとんど論究されることなく過ぎてきました。実行委員として協力していただいている方たちに最初に集まって戴いたときも、「白井晟一は忘れられた建築家であり、その展覧会を今開く意味はどこにあるのか」という率直な意見が先ずありました。そして実はこのことが「白井晟一展」の「潜在」的なコンセプトといえるようなものになっています。

 そこから導き出されるのは三つの点です。一つは白井という建築家は忘れられたまま歴史から消し去るのが正しいのか、ということ(消して消えるものかどうかは別にして)。二つ目は、どうして建築界やその中に居る研究者たちは、白井という建築家とその表現をきちんと歴史化する作業をしようとしなかったのか、どのような理由が考えられるかという点。三つ目はかれの遺した建築作品や様々な表現は、今この時代に意味のある、あるいは有効な提起や示唆するものを含んでいるのか、いるとしたらそれはどのような点か、という三点です。

 展覧会は三〇年という時間の経過からくる疎外感と、肝心の建築作品を向こう側に置いたかたちで、それを間接的に伝える2次的な資料によってしか1人の建築家の存在を展示することができない、そういう隔靴掻痒を踏まえたうえで展示の努力がなされていることをご理解いただかなければなりませんが、その展示を前提として、今日のシンポジウムでは先の3つの点に対する手掛かりとなるような指摘がいろいろ示されるとおもいます。 

 このシンポジウムは、一昨年、解体直前の虚白庵で、中谷研究室の企画構成で5回にわたって開かれた「白井晟一学習会」の延長線上にあると理解しています。この間、今日も講師として参加されている沢さんの企画で、東京造形大学で開催された「白井晟一展」の2回にわたるシンポジウム、群馬県立近代美術館で開かれた実行委員会によるシンポジウムがありました。「住宅建築」や「新建築」での特集、エセー集「無窓」の復刊や対談集の出版、一般書籍として作られた展覧会のカタログの発行。そこでは30年振りに磯崎さん、布野さんが白井についての論稿を寄せられています。「芸術新潮」をはじめ幾つかの新聞や雑誌における展覧会や関連書籍の記事や書評、それにテレビでも高松さんが白井晟一について語られたそうです。さらには今日も講演される岡崎さんが「美術手帖」で「芸術の条件」という連載を始められ、2011年1月号と2月号で、「白井晟一という問題」と真正面から取り組んでおられます。

 白井晟一に関する言説が一気に噴き出ているようにも見えるこの現象は、ネット上では奇怪に感じられているコメントを見かけることもありました。岡崎さんの論稿を除けば、継続的な展覧会という場があってはじめて可能であったことは確かです。それらを注意深く見ると、言説の多くはすでに20年、30年前にインプットされていたものの展開であることが判ります。時間的な隔たりや疎外感が、そこではまるで考えるために必要だった時間へと転換され、議論のタイムスケールを広げています。超スピードで目まぐるしく変化し、今、この時に意識を集中させるのが特徴にも見えるこの時代に、このスローな展開はアナクロのようでもあり、時代のアクチュアリティーに「潜在」するものを示しているようにも見えます。そういえば岡崎さんの今回の論稿は「潜在」するものを次々にあぶり出していく作業のようにも見えます。

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  「原爆堂計画」の背景を求めて


 建築家の戦争責任という問題は、小出しにはさまざまに取り上げられることはありましたが、正面から取り組んだ論稿は1970年の中真巳のペンネ−ムで出版された佐々木宏著の「現代建築家の思想・丹下健三序論」くらいのものなのではないでしょうか。当時現役の第一線の建築家の批判にもならざるを得ない内容を含んでいたために、暗い運命を辿ったようで、かえってそのあとの真摯な研究に歯止めをかけてしまうような結果を招いてしまったようですが、時間の経過の中で、生臭い権威主義や同族保護の悪習から解放されて、歴史の見直しが必要とされる今こそ読まれるべき研究書であるとおもわれます。

 その中で著者は1942年の「大東亜建設記念造営計画」と1943年の「在盤谷(バンコック)日本文化会館」の二つのコンペをとりあげ、「この二つの競技設計を支持し参加した日本の建築家の大部分は結果的に見て戦争を支持し肯定し賛美さえしたことになる。」と指摘しました。この両方のコンペで一等に入選したのが丹下健三であり、戦争協力として批判される根拠となったわけですが、実はそれ以上に本質的な問題と思われるのは、戦後の「広島平和記念公園」の構成配置が「大東亜記念造営計画」とそっくり同じであると指摘されたことでした。最近では飯島洋一氏が周知のことであるとして「戦時中に実現し得なかったプランを、今度は原爆の鎮魂と世界平和の象徴の施設として、戦後すぐ、この広島において堂々と作り上げてしまった。」と記しています。

 これは「思想」の問題としてとらえれば、ノンポリというような言葉ではかたずけられない内容を持っていると考えられますが、日本ばかりではなく、戦争に積極的にかかわった一流の科学者や技術者が戦後一転して、平和主義者として活動した事実はこれも周知のことであり、それらを「転向」というような概念でくくってしまうのは、個人的な思想への問題の転嫁であり、本質からむしろ遠のく結果をもたらしたと考えられます。なんら批判を加えることもなく、むしろ称揚して支えもした建築界と社会があり、戦時下を例外化して、戦後を本質的に対象化することのできなかった戦後の建築文化全体の「知」の問題であるという視点が確立されなければならないのだと思われます。

 中谷礼仁氏の著書「国学・明治・建築家」はこの問題を考えていく時、示唆的な切り口を提供してくれます。それは江戸期の国学が明治以降も日本的「知」の底流として流れ続け、建築の近代主義にも及んでいることを示唆している点です。ヨーロッパの近代的「知」が、個人と国家などの全体的な制度や力との齟齬、矛盾の自覚を前提としたものであるのに対して、国学における「個人」の概念は曖昧であり、「全体」に対して「個人」はそれを支えるものとして設定されている思想と言えると思うのですが、このような国学的な「知」の伝統が、建築家を含む技術や科学の分野の知識人の思想には潜在しつづけていたと言えるのではないか。極言すればそのような「個人」にとっては、戦争と平和ですら対立軸でなくなります。

 「原爆堂計画」は発表されたとき建築界に衝撃を与えたと言われていますが、その後「原爆」や「核」を正面に見据えた、建築家によるプロジェクトも論稿も現れることはありませんでした。つまりこの国の建築文化は「原爆堂計画」を例外化することによって、ジャーナリスティックな一瞬の衝撃が走っただけで、何の影響も受けなかったわけです。先に引用した論稿の中で、飯島氏は「この国において、建築家はそれほどまでに、ひさしく原爆に関心をもたずにいられたということだろうか。」と記していますが、それは建築界に限られたことではありませんでした。
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 昨年、奥田博子氏による「原爆の記憶」が出版されて話題になりましたが、原爆投下とその後の歴史を多角的な資料を渉猟して研究執筆されています。驚くべきは原爆投下から65年も経ってようやくこのような歴史書が現れていることです。政治の状況や資料の非公開などが障碍にもなっていたでしょうが、さらに大きな障碍は、原爆や核に対する関心と理解の薄さであったと思われます。

 9.11と崩壊したツインタワーの跡地、ゼロ地点の再開発計画の経緯を克明に伝えながら、今日の世界の状況を浮き彫りにしている、田中純氏の著書「死者たちの都市へ」では収容所の室内から写された一組の写真を読み解きながら、アウシュビッツについても論究されていますが、その中でもしばしば引用されているジョルジョ・アガンベンの「ホモ・サケル」三部作は、フーコーの「生政治」の主題を引き継ぐような形で、近代の最も暗く重い歴史である「絶滅収容所」と「アウシュビッツ」を、例外化してきた歴史から取り戻して、それが如何に今日の政治と通底する生政治の本質を示しているかを解析しています。いわく「私たちの政治は今日、生以外の価値を知らない。このことがはらんでいる諸矛盾が解決されないかぎり、剥き出しの生にかんする決定を最高の政治的基準にしていたナチズムとファシズムは、悲惨なことにも、いつまでも今日的なものでありつづけるであろう。」

 アガンベンの「ホモ・サケル」はヨーロッパの近代的「知」の成果を示すものであり、建築を含む日本の近代史に欠けてきた「知」を対称的に照射するものですが、戦時を例外化し、個人の思想や転向に問題を転嫁してきた日本的「知」がさまざまな問題解決の力を失ってきたことは、まさに今日の問題です。

 「原爆堂計画」が発表されたのは1955年ですから、すでに半世紀以上の時間がすぎました。この間歴史は大きく動きました。ソビエト連邦が解体し、冷戦構造が崩れ、解放された東ヨーロッパでは民族紛争が繰り返され、戦争の世紀と言われた20世紀から新たな世紀を迎えてまもなく9.11.の悲劇が起こり、テロの脅威が増す中でアメリカによるアフガニスタン、イラクへの戦争が起こりました。『原爆の記憶』では、この政治構造の変化を経て、米ソ二大国による「核の均衡」から、複数の核保有国による「恐怖の不均衡」へと移行しつつある、と指摘され「私たちは今まさに核兵器がいつ、いかなる理由で使用されるか予測できない」時代に生きていると述べられています。

 核の問題は、戦争や兵器と連動する問題であるにとどまらず、ウラン鉱山の採掘に関わる人々、スリーマイル島、チェルノブイリ、東海村などの原子力発電所の事故に遭遇した人々、枯葉剤や劣化ウラン弾による被害者など、ヒロシマ、ナガサキだけでなく核による被爆と被曝の問題は普遍化しつつあることも指摘されています。

 アレントは現代世界は「最初の原子爆発から生まれた」と言っていますが、その現代世界もコンピューターとインターネットによって革命的な変化をおこしています。その変化の中で、「個人」が露出し続け、同時にその「個人」がコンピューターによってプログラムされるアイコンとして取り込まれ続けています。「核」の問題はそういう「個人」が直接向かい合わなければならない問題として現前化していると言えます。白井晟一の「原爆堂」もこのような場で漸く見えてくるものが認められ、現代世界が抱えている問題におけるアクチュアルな意味を開示する可能性が開かれていると考えています。
    

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