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仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)・神功皇后(じんぐうこうごう)

仲哀天皇は「ヤマトタケル」と呼ばれた小碓皇子(おうすのみこ)の子供です。
小碓皇子は例の女装して近づいて倒した九州の熊襲梟帥(クマソタケル)他
出雲征伐・関東征伐など、幾度もの遠征をこなして、大和朝廷の勢力範囲を
拡大します。しかし最後は伊吹山に勢力を持っていた豪族との戦いに敗れて
名古屋の地で亡くなりました。
そのため皇位はいったん小碓皇子の弟の成務天皇(せいむてんのう)に引き継が
れますが、この成務天皇に関する記事はひじょうに少ないので、恐らく短期間で
亡くなられたのではないかと思われます。そして皇位は小碓皇子の系統に戻されて
仲哀天皇の即位となったものと思われます。
仲哀天皇の記事も日本書紀では少なく、九州征伐に出かけていて、福岡県の
香椎宮(かしいぐう)の地で急逝したとされています。しかし民間には仲哀天皇に関
する伝説はけっこうあちこちに残されているようです。例えば下関市の忌宮(いみのみや)神社に
伝わる「数方庭」(すほうてい)の起源は、朝鮮からやって来た敵と仲哀天皇及び皇子たちが戦った
ときの様子であるとされています。
この仲哀天皇の皇后が、有名な神功皇后(じんぐうこうごう)です。神功皇后は
日本書紀では事実上天皇扱いで、神功皇后の巻が1つ設けられています。
また一部の文献では彼女を「天皇」と記しているものもありますが、現代では公式
には天皇の代数には加えられていません。
仲哀天皇が亡くなったあと神功皇后は武内宿禰(たけうちのすくね)とともに朝鮮
に出兵しているのですが、これが恐らく紀元369年の戦役に相当するのではないか
と思われます。従って、仲哀天皇は360年頃の人なのではないかと推測されます。
現代日本の歴史学者はこの神功皇后の子供の応神天皇以降についてのみ実在
を認めています。この応神天皇は日本書紀によれば神功皇后が朝鮮から戻って
きてから福岡県の宇美の地(現在の宇美八幡)で生まれたとされています。
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