シンガポール滞在日誌

毎週日曜日更新 (SINCE 30 MARCH 1997)


5月31日

<領土拡張計画>

地下核実験が横行している。インドといいパキスタンといい、子供の喧嘩に本物の拳銃を持ち出すような真似はやめてもらいたいものである。でも、自分はとっくに核実験を済ませて「核保有」を宣言している国連安保常任理事国の「制裁発言」にはどこか「白々しく」て説得力がないし、外交下手の日本が行う非核PRもどこか弱々しいのも事実である。

この問題、もともとは「領土紛争」に端を発しており、中国も絡んで複雑化している。「紛争の火種」のほとんどは「土地争い」といって過言ではない。そう考えると日本にも「北方領土問題」があり、最近では韓国との「竹島問題」も記憶に新しい。

日本は国土が狭く人口密度が高い、というフレーズは昔から繰り返えされてきたが、ここシンガポールと比べれば日本は領土も経済も「大国」そのものであることに気が付く。車で2時間も走れば国土の隅々まで見渡せるこの国にとって「領土拡張」は宿念である。

一方で、世の中には領土が大きすぎて統治しきれなかった旧ソビエトみたいな国もある。そして、今までは「奇跡的」に一人の指導者によってまとまりを保ってきたシンガポールのお隣り「インドネシア」も、これからの展開しだいでは「旧ソ連的国」になりかねない。

では、インドネシアがなぜ「まとまり」を失ったか。挙げればきりがないが、旧ソ連と共通する点が一つ。経済危機である。通貨価値の下落で「国の富」が急速に国際的価値を失い、国家の求心力が低下した結果である。

旧ソ連でもその崩壊の過程で通貨「ルーブル」が急速に国際的信用を失い、国家財政が悪化していた。国家と国民の関係も所詮「お金」。「金の切れ目が縁の切れ目」なのかもしれない。日本に当てはめれば、さながら「円の切れ目が縁の切れ目」かも。

国同士の喧嘩には「領土」、国の統治悪化には「お金」の問題。考えればしごくもっともな結論であるが、土地が余っているがお金がない国と、土地が不足しているがお金だけはある国が「隣り同士」なら、お互い「ないもの」を「あるもの」と交換するのも現実的な方法である。そうすれば国際的にも国内的にも紛争が少なくて済む。

実は以前にも例がある。日本がバブルだったころ、「北方領土」をソ連から「買い取る」という考えがあった。もし現実になっていれば、ソ連も崩壊せずに済んだかもしれない。その意味で、インドネシアにもシンガポールという「お金持ち」の国がいる。ちょうどあのころの「日本対ソ連」が、「シンガポール対インドネシア」という気がしてくる。

しかもシンガポール人が週末などに気軽に出かける距離に、インドネシア領「ビンタン島・バタム島」というリゾートアイランドがある。インドネシアの首都ジャカルタからは飛行機で2時間近くかかるが、シンガポールからなら船で40分足らず。この組み合わせ、魅力的である。

つまり、インドネシアは国家再建の為にシンガポールへビンタン・バタム両島を売却するというのはどうであろうか。シンガポールの外貨準備は世界でも5本の指に入る。国民一人当たりでは間違いなく世界一の外貨保有者である。一方のインドネシアには数え切れないほどの島がある。しかも「お金」という求心力で国家崩壊を避けることができるなら、領土を少しでも広げたいシンガポールには打ってつけの申し入れになりそうなものである。

まあ、この地域にはインドのような「核」の心配は当分なさそうなので、それだけでも よしとすべきなのかもしれないが...。



<ホーカー物語〜存在>(第十二話)

「意外と魚がいるんだねー!」
「ちょっと汚いけど、満更でもないでしょ?」

海岸線で小春のエアータンクを支えてあげながら、水中では伝えられない「言葉」を使って感動を共有する。

成り行き上小春とペアを組み、バディーとして水中遊泳をできたので、海水の汚れなど気にならなかったが、いざ陸に上がると少々匂う。幸いこの海岸にはシャワーの設備もあるので、潜水メンバー全員が心行くまでシャワーで汚れを洗い流す。

潜水器材を皆で手早く片づけて、何やらテーブルやシートが広げられていく。その上にはビールと誰かがホーカーで買ってきたと思われる料理やスナックが一面に載せられて行く。宴会の始まりである。

「実は、ここでのダイビングは余興で、宴会がメインイベントなのよ」
と、小春が耳元でささやく。いろいろな国籍を持つ者同士が、皆で協力してダイビングや宴会の準備をする姿は、何とも気持ちがいいものである。自分ももちろん手を差し出す。

ちょうど昼時に差し掛かるころだし、ダイビングの疲れも手伝って、飲むもの口にするものすべてがすごくおいしく感じる。日差しが厳しいので誰かが運んできた「大きいパラソル」をさしている。何もかも用意周到、というより「いつものお決まり」なのだろう。

横に座ったオーストラリア男性が、
「小春は、いい女だろう」と、唐突に切り出してくる。

「ここにいるすべての男が、小春の笑顔見たさに集まってくると言っても過言じゃないぜ」と続ける。
「誰か彼女と付き合っているの?」
「それは皆の願いだけど、彼女はちょっとミステリアスで手を出し辛いんだよねー」

そう言いながら、他の仲間と談笑している小春の横顔を、にやりと笑いながらあごで差す。「ミステリアス」という言葉に、妙な共感を抱く。

「こないだ久しぶりに、私も友達と一緒に週末ダイブに参加する、なんてショップに電話を入れてきたから、皆大騒ぎになったんだよ。」
「そんなに有名なの?」
「正直言って、彼女目当ての男がほとんどだったから、彼女があんまり顔を出さなくなって、めっきり参加者も減っていたんだ。今日の賑わいは久しぶりだよ。」

半々とまではいかないが結構女性の参加者もいて、それなりにすてきな人もいる。でも、小春の透き通るような白い肌とプロポーション、溢れる笑顔の前ではただの「霞草」と化す。外見の美しさはもとより、その存在感、周りを和ませ引き付ける「内なる美しさ」も兼ね備えている。そんな女性は滅多にお目にかかれない、と心で呟く。

(次回へ続く)



5月24日

<勝者>

英語をなぜ多くの人が熱心に学ぶのだろうか。巨大企業同士がなぜ合併を繰り返すのだろうか。なぜ読売は他チームの有力選手を高額報酬で引き抜くのか。

これらの疑問は、一見何の関係もないもの同士であるが、「他人と差別化したい」「勝ちたい」という気持ちだけは共通している。つまり、「勝者」を作り上げて行くプロセスである。

だがこれらにはひとつ「共通の落とし穴」がある。それは、その方法が「独り歩き」しやすいことである。見たところ「勝つ為」に「説得力がある方策」なので盲目的に追随する人が多く出てくる。しかし、それが本当に有効な方法であり、そうする必要があるのだろうか。このごろ首を傾げる事が多い。

簡単に考えて、みんなが英語を操れるようになれば「英語をしゃべれる事」に何の「付加価値」もなくなる。普通の基礎教育の目的と同じく「標準レベルの人間」であろうとする努力としての「英語学習」は必要であるが、なぜ英語なのであろうか。別に「かっこよさを感じる」フランス語がいいとか、人口が多い中国語がいいとか言いたいのではない。「英語」がいつまで標準であるのか、考える必要があると思うのである。

シンガポールに来てから、「英単語の綴り」を自動検索してくれるマイクロソフトのWORDやEXCELの「スペルチェック」をしていてよく気になるのだが、シンガポールの英語表記は「米語」ではなく本当に「英語」である。例えば「CENTER(米)CENTRE(英)」「realize(米)realise(英)」といった違いが随所にあり、それらがすべて「チェック個所」として指摘される。マイクロソフト社が「米国企業」である限り、英語の綴りは「米語」が標準であることは確かである。

その時代で一番「勢いのある国」の言語が世界標準になるのは当然の帰結であろうが、コンピュータを使っている限りその「価値基準」も変化する。実は「英語」よりWINDOWSを支えている「コンピュータ言語」や、それを通り超してWINDOWSそのものが世界共通言語となりつつある。いろいろな言語を自動翻訳するソフトが巷に溢れている今、英語をしゃべれるよりWINDOWSの機能をどれだけ多く使いこなせるかが大切になってくる。

そうなると、日本人たるもの「日本語教育」を割いてまで「英語教育」に熱を入れる必要があるのだろうか。「道具としての英語」が身近になればなるほど、むしろ一つの言語を如何に「奥深く理解しているか」という方がよほど重要になってくる。身近に帰国子女や国際結婚をしている人、インタナショナルスクールに通っている日本人などがたくさんいるが、そういう人の話を聞いていると自分が普段頭の中で使っている言葉がしっかりわからない限りお互いの気持ちを深く理解しあうのは不可能である、としみじみ感じる。

なぜなら、その言語の「ニュアンス」をつかむのにはその言語の文化的背景や成り立ちを理解しなければならないのに、「ニュアンス」の存在自体を理解していない人に「ニュアンス」を説明するのはほぼ不可能に近いからである。つまり言葉によって相手の気持ちを正確に理解する手段がほとんど「閉ざされる」のである。英語が重要なのはわかるが、「日本語教育」をなおざりにする程の価値があるのだろうか。

金融機関や自動車産業の「巨大企業同士」合併も、「生き残り戦略」といいながら、それが本当に必要なことなのだろうか。野球界でもサッカー界でも「実績のある人」を金にものを言わせて引き連れてくる「読売」のやり方も、それを正当化するには「勝ち続ける」必要がある。

結果はすべて「勝てば官軍」である。でも最初から戦争に参加していなかったり、あるいは「主体的な行動」をしなかったものは、いつまでも「外様」でしかない。真の「勝利」は「自分は何をやっているのか」本当に理解しているものの元に転がり込んでくる気がする。



<ホーカー物語〜海岸>(第十一話)

「Good Morning」という小春の声が遠くから聞こえる。
イーストコーストまでタクシーを乗り付けたまではよかったが、結構かさばるダイビング用具を肩にさっきから海岸線を右往左往していたのである。

約束は日曜日の朝8時。シンガポールの地場銀行に勤める人やメーカーに勤める一部の人は土曜日休みではないのでこの時間が選ばれているらしい。前日からの興奮で予定より早く起きてしまい、家に居ても仕方なく、というより「浮ついた心」を妻に見抜かれる前に家を飛び出して来たのである。

シンガポールでは集合時間前に全員集まるはずがない。それなのに30分以上も前に集合場所にきてどう暇をつぶそうかという不安は、大声を出して手を振る小春の姿でかき消される。しかもハイレグの水着から伸びる綺麗な足でゆっくり近づいてくる様子は、水着メーカーのプロモーションビデオにでも出てきそうである。

これだけでもここに来た甲斐があったなどと頭の片隅に浮かべながら、笑顔で小春へ歩み寄る。大き目の野球帽に黒色のサングラス、白色のウインドブレーカーのようなものをゆったりはおり、鮮やかなオレンジのスポーツ水着に腰にはパレオをまとっている。サンダルから帽子まで数回目線を往復させるうちに至近距離まで到着。整った唇にはこの前と同じ色の口紅と同じ微笑みがある。

「早いわねー」
「君こそこんなに早くどうしたの?」
「家がこのすぐ近くだから、窓から海を見ていたらあなたの姿を見つけたのよ」
そういいながら海に向かって窓が並ぶ建物を指差す。

「あそこからよく僕とわかったねー」
「そんな荷物を持って朝から散歩している人なんて滅多にいないわよ」
といって小春はくすくす笑う。言われてみればその通り。
「今日はヘイズもほとんどなくて気持ちいいね」
「この二三日雨がよく降ったから...今日も夕方には降り出すかもね」

雨季なのにインドネシア山間部には雨がほとんど降らないらしく、今年はもうヘイズと呼ばれる山火事の煙がシンガポール上空を覆っている。それでも時々風向きが変わったり雨が降ると「いつもの」シンガポール・スカイが戻ってくる。海に入ってしまえば同じ気もするが、日差しが弱いと海中で見える範囲も狭まるのである。

「ダイビング用のボンベはどこにあるの?」
「もうすぐショップの人が車で運んで来てくれるはずよ」
「今回は何人くらい集まるのかな?」
「5〜6人かな。みんな毎週のように潜っている人たちだから、誰と組んでも安心よ」

メンバーのことをあれこれ聞いてみる。彼女が語る人たちが実際自分の目にどんな風に写るのか興味深い。波しぶきを見ながら寄り添い座り会話する二人。それから最初のメンバーが登場したのはダイブ・ウオッチの8時を示していた長針が右を向いたころであり、装備を付けて潜り出すころにはもう一周「長針君」が運動を済ましたころであった。

(次回へ続く)



5月17日

<インドネシア>

近頃お騒がせの国、インドネシア。シンガポールに隣接した赤道直下に、大小合わせて約14千の島々が、東西約 5,000kmに渡って点在する「大国」である。人口約2億人と言われているが、あくまで「把握できている人数」であり、実際はその2倍以上いると言われても誰も否定できない。

今この国を取り巻く情勢は、幾つかの「不幸」が重なった「結果」である。一つは、長年この国を統治してきたスハルト大統領の「高齢」と「後継者」問題。もう一つがここ数年の国内穀物不作による「食料不足」。そして昨年7月に近隣諸国のひとつタイから発生し、飛び火した「通貨危機」問題。

一人の人間が30年以上実権を握り続ければ、いかに優れた指導者でもどこかに「制度疲労」を起こすし、利権を守ろうという「取り巻き」もどんどん「増殖」する。特にスハルトの「家族優遇政策」はすごいらしく、平和的にその権益構造を「温存」しながら次世代に継承することが、今大統領が一番腐心していることらしい。

食料問題も深刻。日本からも「余剰米」の援助を行っているが、小手先の対応では「日本の数倍規模の人口」を潤すのは不可能に近い。そこに「通貨危機」。外から輸入しようにも自国通貨の価値が半年もしないうちに4分の1ぐらいになってしまってはたまらない。食料はじめ日常用品の値上げが相次ぎ、インフレ率は急上昇。

貧困・空腹・腐敗・不公平・不満...ありとあらゆる面で「閉塞感」を感じた時、民衆が「爆発」したのも十分に肯ける。自国通貨の価値が一時の半分近くにまで下落し、十年ぐらい前の水準まで「衰退」している日本の国民として親近感を感じる。ただ決定的に違うのは、インドネシアの場合「失うものがない」層に属する住民が多数いることである。

現状より自分の立場が悪くなりようもない状況におかれた時、群集心理は目の前の物を「略奪」したり「破壊」する、という行為に変わる。スハルト大統領退陣を求めて運動をする学生はともかく、どさくさに紛れた破壊・略奪という「犯罪行為」の方は非常に質が悪い。それらは「一時の快楽」でしかなく、たとえ政権が平和裏に交代したとしても、正常な社会生活を送れるようになるまで長い時間が要するのは明白だからである。

隣国としてのシンガポールはどうであろうか。この「大国」に対してシンガポールは様々な投資や援助を行ってきた。自国内には物理的に投資できるものが限られている以上、自然の成り行きであり、当然今回の騒動は大打撃となっている。しかも、長年寝食を共にしてきたのにも関わらず「中国系住民」というだけで「攻撃対象」になっているインドネシア国内の動きを見るにつけ、心中穏やかでないシンガポール人も大勢いる。

現に身内や友人の中国系インドネシア人が、シンガポールに多数避難してきている。いくら中国人・マレー人・インド人等の「複合国家」だと強調したところで、域内中国人エリートの為の国家であることは誰の目にも明らかであり、政治的にも物理的にも微妙な立場に立たされている。

以前のインドネシア経済危機の際にも、沢山のボートピープルがシンガポール海域に押し寄せ、シンガポール沿岸警備隊が食料やお金を配布して「退散」させたという話を聞いた事がある。今回もそれと同じ状況にならないとは限らないし、そうなればどうしても「治安悪化」は避けられない。

ヘイズ(山火事の煙)による大気汚染と治安悪化、そして域内の経済危機とくれば、シンガポールにわざわざ拠点を置く理由が、特に外資系企業には無くなってくる。それがシンガポール政府にとって一番の「懸念」である。もちろん重要産業である「観光」に対する打撃も計り知れない。

でも、シンガポール国民も、そこに「滞在」する者にもどうにも自力では解決できない問題ばかり。今はまずインドネシアに平和が訪れる事を祈るだけである。



<ホーカー物語〜交友>(第十話)

あっという間に過ぎ去る時間。幾つもの曲が流れ、何人もの若者が二人の会話を遮って小春と挨拶を交わす。そのうちの何人かには自分のことも紹介してくれる。

「この人に顔を覚えてもらったらいいことあるわよ。この裏手にあるダイビング・ショップのオーナーだから、ダイビング用品を割り引いてもらえるし...」
などと、時たまこっそり小春に耳打ちされる。彼氏として紹介をされているような「錯覚」に、せっかくの話を邪魔されたことも忘れて、満更でもない気分に浸る。

「あなたはどんなダイビングスポットを廻ったの?」
「いや、まだまだ初心者だからほとんど知らないけど、でも一度は思いっきり浸かってみたい世界だよね」
「じゃあ、今度のダイビングツアーに参加してみない?」

思いもつかない申し出である。こんな初対面の自分に声を掛けてくれるのはうれしいが、時間にルーズな「シンガポーリアン集団」と一緒に旅行して楽しかったという話を聞いた事がない。いくら小春の誘いと言えども、周りがみんなシンガポール人の集まりに参加するのはちょっと気乗りしない。

「どんなメンバーなの?」
「あるショップを利用する人たちの集まりだから、国籍も年齢もいろいろ。インストラクター以外いつもメンバーが入れ替わるから、いろいろな出会いもあるの。」
「それは楽しそうだ。それって、泊りがけなの?」

肝心な点を忘れていた。家族持ちの自分には、週末泊りがけの旅行など家族帯同以外考えられない。たまの外泊も出張やゴルフならいざ知らず、見知らぬメンバーとのダイビングツアーなど「認可」される見込みはない。そんな「事情」を察したのか小春は、
「泊りがけのもあるけど、まずはうちの近所でファン・ダイブっていうのはどう?」と言う。

「DONE!」

これならいい。近海でのダイビングだと海の綺麗さ、いわゆる「透明度」は期待できないが、ともあれ彼女との再会が保証される。もう少し「近づきたい」。ただそれだけの気持ちで一杯である。

(次回へ続く)



5月10日

<詰将棋>

昔、といっても小中学生の時代だからだいぶ以前の話だが、結構「将棋」が好きで 毎日のように友達と学校でやっていたものである。自分でいうのも何だが、クラスで1、2を争う腕前だったと記憶している。そんな「昔取った杵柄」ではないが、ついつい買ってしまったのが「AI詰将棋」という将棋のコンピューターゲーム。

1手〜11手詰めまでの全部で200題が入っており、レベル的にはアマチュア5級〜初段といったところらしい。7手詰めが出てくる150題目ぐらいまで順調にクリアーして得点を伸ばしてきたが、そこからは挫折の連続。意地でも投げ出しはしないが、ヒントをもらったり次の一手を教えてもらったりと、制限時間もオーバーして散々の目に会っている。

コンピューター対戦といえば、「チェス」の世界が有名。人間界の世界王者がどこかのコンピューターとの対戦に敗れたのも記憶に新しい。ちなみに「オセロ」のタイトルホルダーもコンピューターに「完敗した」というから、「将棋」や「囲碁」の世界にもそういった傾向が忍び寄っているのは間違いない。確かに、ちょっと前にゲームセンターで対戦将棋をやってみたら、結構あっさり勝ち進めて気をよくしたものであるが、今では「数段強く」なって生半可の実力では勝てないものも出ているそうである。

そんなある時、「AI詰将棋」に熱中して何度も「やり直し」をしていて、ふと頭に浮んだ言葉が「ストーカー」。執拗なまでに相手の「王将」を追いかける姿は、「ストーカー」そのものである。何だ、太古の昔?から日本人は「模擬ストーカー行為」に明け暮れていたのではないか。今更「新手の犯罪・ストーカー」と驚かなくても「素地」は出来上がっているのかもしれない。

そう考えると「中原永世十段」の「林葉直子元女流名人ストーカー事件」も十分納得?がいく。夜日中関係なく相手を電話で追いつめ、相手が妊娠すれば「二人の子供なら将棋の強い子になる」などと語ったというから、将棋界の重鎮で「元名人」たるものの実力が伺われる。度重なる「対戦」の末、林葉がニューヨークに「逃げ出す」展開まで追い詰めたところなど、同じ「元名人」と言えども「女流」など「及びでない」ってなもので「面目躍如」といったところ??

こんな皮肉の一つも言いたくなるほど、横綱曙の「入籍騒動」といい、将棋界のこの事件といい、日本の各界伝統文化を支えるリーダー達の「不甲斐なさ」が近頃やけに目立つ。「勝つこと」に特化した集団が、狭い世界で「内部争い」をして単純に「チャンピョン」を決めていることの「弊害」によるものなのだろうか。

将棋といった「伝統文化」の頂点を極めたものは、ただ「強いだけ」ではなく、その「文化」における精神的な「支柱」となるべき存在のはずである。さもなければ、近い将来予想される「コンピューターとの頂上対決」に負けた途端、「将棋界」の存在意義自体が問われる羽目に陥るのが目にみえている。「人間と人間の勝負」だから「そこに勝敗以上の意義がある」ということを示してもらいたい。その為には、「俗世間」から一線を画して欲しいものである。

まあ、暑いシンガポールの夜を一人でパソコンに向かって「詰将棋」している姿も「誉められたものではない」のはよくわかっているのだが...。



<ホーカー物語〜溜場>(第九話)

このシンガポールで「自由交流の場」みたいなものが存在するとは、そういうとちょっと失礼な気もするが、あまり趣味を持たない国民性という理解だっただけに、かえって好奇心を掻き立てられる。

「どんな集まりなの?」
「じゃあ久しぶりに顔を出すとしますか」

そう言いながら軽快な足取りで雨上がりのアスファルトを歩む小春。やがてその足元が石畳となり、前方の街明かりが水面で揺らめきだす。ボートーキーの街並み。お世辞にも「綺麗」とはいえないシンガポール・リバーも、夜の帳が下りる頃には魅惑的な雰囲気に変わり、風が水上を踊って緩やかに店々を包む。

「さて、いったいどこにあるのかな?」
振り返って軽く微笑む小春。店先の明かりで美貌がますます引き立てられ、心臓が張り裂けそうな衝動が全身を覆う。「眼差し」一つで「射抜かれた」とでも言おうか、喜んで「降参」し、後をついて行く自分。

しばらく歩いて突然店と店の間にある階段へ分け入って行く。外にこれといった看板があるわけでないが、何やらバーみたいなものがあることはわかる。砂埃をかぶった階段を何気なくすっーと上って行く小春。もう表情は「古巣に帰った小鳥」のようである。

開いてあげる間もなく、一気にドアを開けて足を踏み込む。後から慌てて飛び込む自分に、小春は「ついてきて」とだけ言い残して奥に向かう。入口から細長く伸びる店の、すぐは入ったところには「生バンド」が大きな音でどこかで聞いたような曲を奏でている。片側にはカウンターがあり、反対側には背の高い丸テーブルを囲んで丸椅子に数人ずつ腰掛けている。

小春に気がついた数人がわざわざ傍まで歩み寄り、握手したり肩をたたいたりして久しぶりの「訪問」を心から歓迎している。有名人を背後から撮影するカメラマンの気分でそのすぐ後ろをもみくしゃにされながらついていく。少しでも離れたら見失いそうな熱気である。ようやく奥まった席に落ち着き場所を見つけて、小春に話し掛ける「順番」が巡ってきた。

「何だか普通のバーに見えるけど、どんな集まりなの?」
「ダイビングよ。あそこで立って女性と会話している彼はインストラクターで、あそこの男性はダイビングショップのオーナー。」
「へー、じゃあダイビング仲間の溜まり場と言うわけか」
「その通り。私も月に一回ぐらいは潜るのよ」

数年前にライセンスを取り、友達と夢中になっていろいろなダイビング・スポットを廻った話や、いろいろな人と巡り合った話しを熱心に語ってくれる。海に囲まれた小さな島国に生まれたのに、ずっーと海で泳いだこともなかったから、すべてが新鮮で驚きに溢れていた様子が、昨日の事のように口から付いて出てくる。

「ごめんなさい、私ばかり話してしまって...」
「全然構わないよ。実は僕も少しだけかじった事があるから、気持ちがすごくよくわかるよ」
「えーそうなんだ」

うれしそうに大きな瞳を輝かせる小春。バンドの音がうるさいくらいに鳴り響く店内では、自然と顔をすぐ近くに突き合わせて会話をすることになる。仄かな香水が香る小春の体が、すごく身近に自分の心を包んで行く。

(次回へ続く)



5月3日

<シングリッシュ中級編>

「何を気取ってしゃべっているのよ!シンガポール人はこうやってしゃべるのよ!」と息巻くあるシンガポール女性。電話で応対に出たシンガポール男性のしゃべり方がよほど気に入らなかったとみえる。

はーい、いきなりの「剣幕」で驚かれましたか? シングリッシュ講座、久々の開講です。

さて、今登場した彼女の「頭にきた」理由をちょっと伺ってありますので、掻い摘んでお話しますと...彼女曰く、米系や英系の企業に電話をすると、周りで交わされる「本場イングリッシュ」の影響を「過大に」受けて、「気取った」喋り方をするシンガポール人が多いそうなんです。なまじ英語を母国語としているだけに、気に入らなくても「英語」で話さざるを得ないのだが、自分は「シングリッシュ・スピーカーではない」と言わんばかりの「巻き舌発音」は、滑稽を通り越して「不快感」を生む、という意見です。

そうですねー。日本人でも偶に「ちょっとうまく喋れる」ことを自慢して「中味のほとんどない」英会話を繰り広げる人たちがいますけど、普通他の日本人の前では「身の程」をわきまえ、社交の範疇で必要最低限の英語を話すものですよねー。

その「感覚」で言えば、表向きの「英語」で足らない部分や「ニアンス」が通じにくい部分を「中国語」で補うのを常とするシンガポール人にとって、「西洋かぶれ」した英語を話す人は「中国人同族意識」を捨てた「アウトロー」に感じるのでしょうねー。

つまり、どちらの言語でも意志疎通ができる状況であえて「シングリッシュ発音」しないことは、シンガポール人に不必要な「緊張感」を強いるのでしょう。ちょうど「きれいな英語発音」をする日本人がいると「一歩引き下がりたくなる」のと同じ、いやそれ以上に「裏切り行為」に感じるみたいですねー。

そう言われて先生も気が付きましたが、中国人も「舌」を使う発音をしませんねー。「think・south・though」といった単語の「th」は日本人の初心者並であるのは前にお話しましたが、そのくせ「LとR」の区別は付くみたいなのでちょっと日本人とは違う気もします。シンガポール人全体的に言えることは、発音が「レイジー(怠けている)」だ、ということでしょうか。

暑い夏の日に、しゃべるのもうっとうしいような状態で「英語」を口にする姿を想像してもらうとわかりやすいかもしれません。抑揚を付けたりするのはともかく、口を大きく開いたり舌を動かすのが「おっくう」な感じ。そう「うるーせーんだよ、黙ってろ」と物臭な言い方をする「不良少年」のような話し方です。

もちろん「個人差」は付物ですが、少ない単語を効率よく「省エネ発音」する姿は、中国人的合理主義を具現しているようで、妙に納得できてしまいます。それは決して彼らの英語力が低いことを示しているわけではなく、必要とあらば高度な文法と語彙力で普通の日本人なら「圧倒」されてしまうのでご注意あれ。知的水準の高いシンガポール人ほど「場面ごとの英語使い分け」が見事なものです。

それでは、またお会いできる日を楽しみにしています。ネバーマーイン!おっとっと、シーユーアゲイン、再会!



<ホーカー物語〜邪心>(第八話)

そんな自分の気持ちを知ってか知らぬか、無邪気そうに
「そう、押し倒されちゃいそうな感じがするわ」と答える小春。

どこまで本気でどこまで冗談かわからない。

「君ぐらい魅力的なら、今まで何回も押し倒されそうになったことがあるんじゃない?」
「さあどうかしら。男友達は多い方だと思うけど、この国では「恋愛」の場が少ないからねー」

可愛い顔してなかなかストレートな表現に面食らってしまう。確かに今まで「ラブホテル」と思われる建物に出くわしたことがないし、シティーホテルは「値が張る」上に「パスポートか身分証明書の提示」が義務づけられているのでちょっと「敷居が高い」感じがする。

「そう言われれば、シンガポールの若者はどこで「愛」を育んでいるのか疑問に思っていたんだけど...」
「わたしも知らなーい」と笑う小春。
「それじゃ、食後にどんな場所があるか探索してみようか?」
「えー、いったいどこを?」
「僕もよくわからないけど、若者が集まるところに行けばわかりそうじゃない?」
「例えば?」
「例えば...ボートキーとか」

シンガポールで一番ホットなナイトスポット・ボートキー。点在するディスコやオーチャード通りの賑わいとは少しちがい、シンガポールリバー沿いに連なるおしゃれなバーの数々。日本で言えばちょうど東京に出現した「お台場」的雰囲気で、西洋人にも人気のスポットである。シンガポールを舞台に「日経平均の先物取引」でベアリング証券を「葬った」ニックリーソンが毎日のように入り浸った地帯でもある。

「ちょうど雨も上がったみたいね」
すっかりその気になっているらしい。自分の「意図」を理解しているのか、はなはだ疑問である。

「じゃーデザートは後回しにする?」
「何だかもうちょっと飲みたい気分よね」

すかさず会計を済ませ、雨上がりの「もーっ」とした空気の外に出る。ここからボートキーまでは歩いて10分とかからない。雨で濡れた服にはレストランの冷房が少々きつすぎたから、体が暖まる感覚でいつになく気持ちいい。小春もそう感じたらしく
「ほっとするわねー。ちょっと酔いが廻りそう」
などと、顔をすこし上気させて口にする。

こういうのを「天性の小悪魔」とでも呼ぶのだろうか。このチャーミングな表情がすぐ目の前に「ぶら下がって」いながら、どうにも手が出せない。隙がありそうで、ない。まあ、まだ夜は長い。明日もう一日会社に行けば週末である。ちょっと「乗りかかって」みるか。

「ボートキーには、どこか行き付けの店でもあるのかな?」
「このごろはあまり出入りしないけど、昔ちょっと通いつめたところがあるわ」
「おしゃれなところなんだろうねー?」
「まーね。でもどちらかと言うと「溜まり場」って感じ」
「何の?」
「ある同好会のね」

(次回へ続く)



4月26日

<ガレージセール>

このところシンガポールでやたらと目に付く「不用品安く売ります!」広告。

自分の住まいで「ガレージセール」する人もいれば、日本の食料品を扱っている店が発行している情報紙(注文品リスト)の「なんでも掲示板」コーナーでアピールする人もいる。近所の人や子供の学校関係で付き合っている人たちから「テレビとか家具とかを安く譲りたいという人がいるけど...」というケースもある。

理由は簡単。多くの企業が決算を迎える3月末日前後に「異動命令」を会社から通知された日本人が例年以上に大勢いるから。日本国内の不景気がここシンガポールでの会社活動まで影響して人員縮小や支店閉鎖を行う企業が続出し、十人に一人といわれる割合で「邦人帰国ラッシュ」が起きている。いつもなら自分の後任にでも「引き継ぐ」ような家具や家電製品も「処分」していかなければならなくなっているのである。

これは何も日本人に限った「現象」ではなく、韓国人はもっとドラスティックに「短期間集団帰国」を迫られていたようである。もちろん「韓国国内経済危機」が引き金である。よく行く近所の韓国料理屋は、以前の「固定客」がすっかりいなくなった上に韓国からの「団体旅行客需要」もすっかり消え失せ、ついこないだまでの人気がうそのような「閑古鳥」状態である。デパートでよく見かけた「韓国人家族連れ」の姿も「今は昔」。ここ六ヵ月ぐらいの驚くほど急激な変化である。

残される者としては、日本人人口減少で日本の食料品が値上がりしたり、手に入りづらくなるのが心配。シンガポール日本人学校はもともと「マンモス」過ぎるのが問題なぐらいだから教育面での危惧はないが、日本人相手のレストランやデパートの縮小撤退は止むを得まい。こういったマイナス面もあるが、それでも実は当面のメリットの方が大きい気がする。

一番大きい「利点」は、何といってもこの「ガレージセール」。自分も日本を出る時に電化製品とかの「処分」に困った経験があるから、人の足元を見るつもりは更々ないが、捨てるよりかは「再利用して欲しい」という感覚で「超特価」で販売する気持ちはよくわかる。それならと「掘り出し物」目当てで行ってみるとこれが結構面白い。

まずは値段の付け方。新品同様のものに「できるだけ高い値段」を付けたくなるのは人情だが、その「割り切り方」に大きな差がある。相場は「定価又は買い値の半額」あたりが多いみたいだが、最初から値下げし過ぎてすぐに売れたら「損した気分」になるし、高く付けておいて徐々に値下げする「安売り店手法」も「お客さん」がなかなかこないと「焦り」そうである。

思い入れがある品は、手に取った時の反応が違うのも面白い。エピソードや体験を交えてセールスしてくる姿には、自分の大切なペットを譲るような感覚に見える。それだけ思い出深いなら持っていけばよさそうなものだが、日本の「住宅事情」を考えるとそうはできないこともよくわかる。自分も「日本帰国」となれば同じ事をしなければならないと思うとちょっと複雑な想いがある。

売れそうで売れないのが「子供服」と「本」。一律「1ドル」とか「破格値」をつけてい るのになかなか売れないみたい。「服」はサイズが合わせにくいのと日頃から「お古を譲り合っている」のでわざわざ見ず知らずから「買う」気にはならない、というのが主な理由。「本」は売る人の趣味が強く反映されているし、本当に価値あるものはやはり持ち帰るのであろう。

それにもうひとつ「ガレージセール」の副産物は、そのアパートの間取りなどの様子が伺えること。つまり、リビングとかの作りや窓からの眺めをリサーチできるのである。「在星外人減少」で住宅家賃の値下がりが続いているおり、「あこがれのアパート」も射程距離に入ってきているので、この「リサーチ」が大いに参考になる。

さあ、今日も「探索」は続く。いざ出陣じゃー!



<ホーカー物語〜小春>(第七話)

「小春って呼んでいいかな?」
「コ・ハ・ル?」

日本語には「音読み」と「訓読み」があり、中国語の読み方に倣った「音読み」だと「しょうしゅん」となるが、日本人には訓読みの「こはる」と呼ぶ方が親しみやすい。ちょっと古風な感じがするが「かわいい女の子」の名前にイメージがぴったりであることを説明する。

「ショウシュン」と「Xiao Chun」の発音が似ている事に驚きながら、「コハル」って呼ばれるのも満更でもなさそうである。母国語以外で自分の名前を呼ばれると、時に面白い「発見」がある。例えば、スペイン語では「H」の発音をしないから「HIROSHI」という自分の名前が「イロシ=色師」となり「突然プレーボーイに変身」してしまった話など、他愛のない話題で盛り上がる。

「そろそろワインにでもしようか?」
「そうね、このダイナミックな料理に合う赤ワインにしましょう」

賛成である。「まったり」とした深みのある赤ワインがいいと思っているのだが、無数にあるワインの銘柄からこの料理に適したものを選ぶ特技はない。かといってどう表現していいものか考えあぐねていた時、ふと「シャトーマルゴー」が浮ぶ。どんな味か知らないが「失楽園」で読んだ限りでは、気品のある逸品みたいである。いつもなら店員に「お勧め」を聞いて選ぶのだが、今夜はちょっと知ったかぶって「気取って」みたい。

「シャトーマルゴー」が一発で通じたのはよいが、それにしても「試飲」ってやつは何回やっても「さま」にならないと自分でも思う。急に背筋を伸ばしてグラスを手にするのも変だし、「低い鼻」で微妙な香りを識別できるはずもない。吹き出しそうな気分を照れ笑いにかえて小春と目を合わせる。彼女に「ぎこちなさ」を見破られたのか、クスクス笑い出しそうな表情である。こうやって幾度となく「温かく」見守られると、わざわざ自分から「距離」を取る必要など全くないことに気が付く。

「さっき僕から Hを取るとプレーボーイになるって話したけど、日本語では Hって言葉にも別の意味があるんだよ」
「Hが?」シンガポール人らしく「ヘイチ」と発音する小春。
「そう...SEXという意味があるんだ」

けらけら笑いながら訝る小春。昔「卑猥(ひわい)なことをする」というのを「Hする」と表現してからそういう意味になったこと。だからHがあってもなくても僕はプレーボーイなのかもしれない、と言うと、

「色男には見えないけど、野生的な感じがするわね。」
「野生的っていうのは本能のままに生きる動物ってことかな?」
「そうね、油断すると食べられちゃいそうな、ちょっと危険なものを感じるわ」
「例えば Hされちゃいそうな?」

酔った勢い、というか、ふいにどこまで自分に好感を抱いてくれているのか試したくなって「危ない会話」に彼女を引き込む。「安全無害な飲み友達」で終わりたくないという「潜在意識」が、今日はなぜだか「むくむく」顔を出してくる。「ワイルド」という表現が久々の「感触」をいきり立たせたのかもしれない。

(次回へ続く)





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