シンガポール滞在日誌

毎週日曜日更新 (SINCE 30 MARCH 1997)


10月4日

<政治を考える1〜文武>

「小春ちゃん」問題の合間に、ちょっと硬派な話題を考えてみたい。「政治」である。

日本のみならず、ここシンガポールをはじめとする東南アジア諸国も、アメリカもロシアも、北朝鮮も、どこの国においても、今これほどまでに「政治家・指導者」の役割がクローズ・アップされている時代はめずらしいと思う。だから、この時期に「政治」というものの「あるべき姿」を、自分なりに考えてみるのは価値あることだと思うからである。

幸か不幸か、ここシンガポールに生活していると日本に関して非常に限定的な情報にしか接しない。日本で日常生活を過ごしていれば、言わずと「肌で感じる」部分がある。その一方で、季節や身近な話題に目を向け耳を傾けているうちに、意外と気づかないこともあるはずである。

例えば、「日本」という「国の体面」に関わるような問題については、日本にいた時よりか非常に敏感になる。「日本」が馬鹿にされれば自分が馬鹿にされた気になり、尊敬されれば気分よく感じる。単純だがこれほど「本源的」な感情もないであろう。

人種差別とか貧富格差がいつまで経っても解決されない問題であることは、日本にいても実感できない。なぜなら、日本ほど「均一」な社会は世界中どこにも存在しないからである。「平等」ではなく「均一」なのである。

決着をつけない風土、というものがいつから日本に蔓延しはじめたのか定かではない。でも、「武士道」を生み出した国民の末裔とはとても思えないほど「争いごと」を避け、傷付け合うことを恐れることになってしまったのはどうしてだろうか。

「和を尊ぶ」精神は、いつでも腕力勝負で決着をつける「武道」の緊張感と並べ持合わせることで初めて「意味ある教え」となる。両者の均衡が崩れては、単なる臆病者か粗暴者になってしまう。軍事力なき平和論者が唱える「世界平和」や、軍事力のみの貧乏者が唱える「金融秩序」ほど「空しく響く」話題はない。

規模の違いこそあれ、文武両道を兼ね備えている国が今一番輝いて見える。「牙を剥かない狼」も、「人に噛み付く兎」も、存在価値が希薄である。本来の姿なくしてその価値を見出してくれる人は、ほとんどいない。周りにとって「価値ある国」ではなくなってしまう。

今、なぜか日本には「お金」がない。人にくれてやる金はおろか、貸す金すらなく日本中不況だデフレだと騒いでいる。世界一お金を貯め込んできたはずの国民はバブル期にちょっと「お買い物」した程度で、ほとんど出費らしい出費もしていないはずなのに、なぜか「資金不足」で倒産や瀕死の状態になっている企業がごろごろしている。

その一方で、世界一の借金国の「ヘッジファンド」とかぬかす金融マフィアが東南アジアで暴れまくり、深い傷痕を残して去っていく。アメリカのどこにそんな貯金があるのか疑問に思っていたら、サミットに「物乞」するためにごり押し参加してきた国の「通貨切り下げ」で「馬脚」が現れてきた。何のことはない、「金融先進国」面してきた国々の「高格付け」銀行がこぞって「過剰融資」してきただけである。

どういう理屈で資本金の数十倍もの金額を「ハイリスク・ハイリターン」を旨とする「一ヘッジファンド」ごときに「無担保」融資できるのであろうか。それが「俺はAAA」だのと偉そうに日本の銀行から「ジャパンプレミアム」を稼いでいる銀行がする行動だろうか。さすがに恥ずかしすぎて会長職や取締役を辞任する銀行経営者もいるみたいだが、ロシアみたいな国に「捨て去った」お金は二度と戻らない。

その「ドブに捨てた金」の出所が、まじめに明日を信じて更なる成長を遂げようとしていた東南アジアや韓国、そして日本から「暴力的」に奪い取った金だと思うと、なおさらやりきれない。為替の動きなどその典型である。ドルが対円で値上がる(ドル高円安)のは日米のファンダメンタルの違いや金利差を背景にしているなどという「理由付け」はどこへやら、「ルーブル切り下げ」のニュースから一週間もしないで10円以上も円高ドル安に動いている。

理由は、今まで日本政府やアジア諸国の意志を嘲笑うがごとく「円安ドル高」を仕掛けてきたヘッジファンドどもが、手持ちのポジションを手仕舞い収益確定したのが主要因である。もちろん、ロシアや中南米で被った「損失の穴埋め」が目的である。その後ろ盾だったのが紳士面した欧米の有力銀行だったとは、何とも皮肉な巡り合わせである。

でも、ちょっと思い起こしてみると、日本の金融機関もバブル前後には同じようなことをしていたのである。海外不動産を買い漁り、国外で過剰融資をして東南アジアをはじめとする各国にバブルを起こしたのも、日本の金融機関やその後ろ盾を得た企業である。それがバブル崩壊とともに衰退し、代わって勢いを得たのは米国のヘッジファンドである。

これらヘッジファンドに過剰融資して瞬時に巨額な不良債権を築いてしまった欧米有力金融機関と、日本の金融機関に、はたしてそれ程大きな違いがあるのだろうか。ちなみに今お荷物の代名詞みたいに扱われている「長銀」も、10年前にはAAA級の格付けを受けた「超優良金融機関」である。

将来に渡る安定性にお墨付きを与えられていた銀行の現状を見れば、所詮その程度の「権威付け」でしかない「格付会社」の評価に一喜一憂するのは「愚の骨董」。でも、そんな「格付会社」の判断がどうしても気になってしまうのも、これまた情けない話しである。どうしてか?

それは、自分たち日本人の中にしっかりとした「価値基準」がないからである。格付など、経済が良い時には意識の片隅に置かれるもので、景気が悪化しだして初めてその存在が意識される。それは自信を失いつつある人や、自己不信に陥った人間に対して「客観的な価値基準」を植え付けてくれるからである。

でも、本来それは「政治」が示すべきものであり、「格付会社」の意見はあくまでも「見解」でしかない。なぜなら、格付会社にはその国の将来に何の責任もないが、「政治」には最後まで「責任」が付きまとうからである。「責任なき発言」にいつまでも頼っていては道を間違う。

こういった問題をよく考え、日本の政治を捉え直してみたい。日本国民として、たまにはいいことだと思う。



<政治を考える2〜韓国>

最初に取り上げたい問題が、お隣「韓国」との外交関係である。今、金大統領が訪日するとかいうので、日本の対応が話題になっているが、なんとも釈然としないのが「過去の歴史」問題である。

単刀直入に言おう。なぜ、今更「再度」の「謝罪」が必要なのであろうか。過去の事実がどうであったか多少のことは理解しているつもりだし、日本の歴代首相や天皇陛下が「謝罪」した事実まで含めて、これを否定するつもりは毛頭無い。だが、なぜ韓国は、今また「謝罪」を要求するのだろうか。

今までの歴代韓国大統領とは違う、というのが理由なら、政権の継承性の問題である。それは韓国内政問題であり、それを理由に日本政府に対し「再度」の謝罪を要求できないはずである。では、それ以外に何の正当事由があるのか。何もない。訪問者に対する単なる「お土産」でしかない。

でも、お土産を持参すべきは「韓国」側である。つい先日、金融危機に見舞われた韓国を手助けしたのはどこの国の金融機関だったと思っているのか。欧米の銀行が「ドライ」に銀行間取引きを停止していく中で、日本の銀行だけが最後まで取引きを継続したことをもう忘れたのか。

しかも、各国金融機関が韓国政府保証を条件に外貨(ほとんどUSD建て)の協調融資を行う時、韓国の将来を考え、欧米流の「ドライな」融資条件から韓国を守り、できるだけ有利な条件に導いてやった邦銀の姿勢に非常に感謝していたあの姿は、いったいどこに消えたのか。

しかも、先進国の仲間入りとなる「OECD加盟国」となって数年もしないうちに、歴代OECD加盟国(全40ヶ国前後、アジアでは日本に次いで二番目)の中で、IMFからの金融支援を仰いだ「初めて」の国である。しかも、そのOECD加盟基準を維持する為に過度な通貨防衛を行い、短期間に外貨準備を使い果たしてしまったような国である。

それでもアジアの兄弟分として親近感を抱き、手助けをした日本の企業がどれだけあったことか。そういう過去・歴史には謙虚な姿を見せることなく、そのずっと前の「過去」にだけこだわり続けるのなら、そんな国との外交は考え直すべきである。

まあ、金大統領本人がまだ訪日する前の段階だし、どういう態度で臨むのかわからないので、これ以上立ち入った論議はできないが、少なくとも日本政府の腹積もりとして、ただ「謝罪」という「お土産付き観光」にするつもりではないという姿勢を示すべきである。お互いの立場や歴史的背景を「適切に尊重しあう」土壌がなければ、いくら回数を重ねても無意味な外交である。

隣国であり、お互い違うと思いながらも、端から見ればこれほど似たような行動をする国民も珍しい。似すぎてお互い素直になれない歴史があるのかもしれないが、ここできっちりした態度が示せないようなら、いつまで経っても日本は「政治三流以下」の国である。外交には熱心な小渕首相の、初めの一歩として、今回の韓国大統領訪日に適切に対応してもらいたい。



9月27日

<自家用車>

シンガポールの自動車は高い、なんてぼやいたのはいつの日か。今もその頃と基本的には変わらない。でも、いざ自分でも購入してみようなどと思い立ったら、もっと深いところまでわかってくるものである。

たかだか車ごときで大騒ぎするなんて、日本ではちょっと想像がつかないかもしれない。しかし、この急激に押し寄せた不況下でも、新車のトヨタ「カローラ」が、日本の新車「ベンツ」ぐらいの価格がついているのだから、やっぱり本当に必要かどうか考え込んでしまう。

もちろん買うとしたら「中古車」。しかも7〜8年ぐらい使用したもの。それでようやく日本で同型の新車価格ぐらい。何せ輸入車関税が200%で、シンガポール国産車はないから、車両価格は自動的に日本の3倍になる。それに「COE」と呼ばれる自動車登録料がかかる。

「COE」は排気ガス容量とかで幾つかにカテゴリーが別れており、毎月の入札で価格が決定される。このところの不景気で、さすがに新車需要も冷え込んでおり、落札価格の大幅下落が伝えられているが、それでも高くて1600cc以下でも300万円は裕に超える。だから日本で150万程度の新車でも「関税とCOE」マジックで「750万円プラス手数料」まで跳ね上がる。

そのCOEは当初10年間のみ有効で、10年後の該当月末に「延長」か「廃車」の選択を迫られる。「延長」には5年と10年があり、直近12ヶ月のCOE平均価格で決まる。10年なら全額、5年なら半額。つまり、10年使った車に最低150万円はつぎ込まないと継続できないのである。実質「廃車の勧め」である。

ところが「廃車」にも「巧妙なトリック」が仕掛けられている。廃車処理をした時に、カテゴリーによってちがうのだが、100万円相当の「シンガポール政府発行クーポン券」が手渡される約束になっている。この金額はCOE登録証に明記されていて、あたかもそれだけの現金還付があるかのごとくの錯覚を受ける。実際中古車価格もその「スクラップ・バリュー」を前提に価格形成されており、例えば8年落ちのマツダ「ファミリア」クラスでも150万円の値段がつくのである。

ところがCOEの廃車還付はあくまでも「クーポン券」によって行われるのであり、それは次に買う新車のCOE価格と「相殺できる権利」なのである。つまり、新車を買わなければ3ヶ月で失効してしまう「用途限定金券」でしかない。

新車を買うつもりがなければ「無駄にするよりは」とカーディーラーにでも引き取ってもらうと、額面の半額くらいまで買いたたかれてしまう。景気のよかった数年前なら、ほとんど額面近くで買い手が見つかったそうであるから、ここにも不景気が顔を出している。

悔しかったら新車を買う人で「買い替えでない人」を自分で「3ヶ月以内に」探し出さないといけない。しかもカーディーラーがマーケットで調達してきたCOEを使って、値引きしてくるかもしれないから、相対交渉も難しそうである。結局は「投げ売り」が待っている。

シンガポール政府も巧妙である。一度COEとして納税されたお金は、二度と市場に還流することはないからである。悪くても新規発行のCOEと相殺、もしくは使われることなく失効したCOEの残存価格分だけ潜在的な損失が回避される。政府「丸儲け」の図式が浮かび上がる。

可哀相なのはシンガポール庶民。不動産価格・株価の急落や失業率の急上昇、近隣諸国との不和などでただでさえ将来に不安を抱いているところに、中古車価格やスクラップ・バリューの急落まで加わっては、まさに「泣きっ面に蜂」状態である。

そんな環境下でも車を買うべきか...まあ、新車のカローラを2年で「乗りつぶす」覚悟があればいいだけ。その間、シンガポール・ライフが充実して、「出不精(=デブ症?)」が解消されれば、それだけの価値があるかもしれない。海外で自家用車を所有する経験なんて、そんなにできるものではないし...



<ホーカー物語〜接岸>(第三十話・・・第一部<完>)

「おはよう。昨日は突然で悪かったね。」

朝食の同じテーブルにつこうとした自分に、にやっとした表情で傍らのドイツ人君がささやく。彼と小春だけが昨日と同じ服装で朝食バイキングのレストランに現れている。

「ノープロブレム。君たちもすてきな夜だったんだろう?」

その問いかけに答える間もなく、アメリカ人夫婦が登場して、にぎやかなテーブルになる。すでに今日のダイビングの話題に移っている。朝食は軽く済ませて、午前中に二本潜り、ホテルに戻ってチェックアウトする。そして、フェリー乗り場へのバスを待ちながらゆっくりとみんなで昼食を取ることで話しがまとまる。

楽しい時が過ぎるのは早い。でも、これが土日の週末だけで過ごした時とは思えないほど充実した旅であった。こんな旅行なら毎週出かけても構わない。でもそれは明らかに「一線」を超えた状態となる。誰も自分が崩れていくと思ってその道に進んで行くはずはない。

煙草と同じで、止めれる時に止めておかないと、止めたい時には止められなくなる。そのことは、止めれる自信があるうちは気がつかない、という点でも同じかもしれない。帰りのフェリーの窓から水面を見つめながら、そんなことを考えている。軽く目を閉じて肩に頭をもたれかけている小春の横顔を複雑な思いで見つめてしまう。

ぼーっと考えている内に、小春と頭を寄せ合いながら眠り込んでしまっていた。フェリーは今まさにタナメラの発着所に接岸しようとするところである。高鳴ったエンジン音が収まり、乗客が下船を開始する。一時ふわーっと解き放たれた心が、数本のロープで母港に手繰り寄せられ行く感じである。自分も降りなければ...。

明日からまたいつもの「時間通りの生活」が繰り広げられる。だが、それも夕方まで。夕食を誰と食べようとも構わない、そしてその後も。家族が日本から戻ってくるのは一ヶ月以上先の話しである。このままこのゆらゆら揺れる船上での甘い生活もいいかもしれない。そこのロープはどうにでもなる。すべては自分の意志しだい。

「さあ、行きましょうか」

小春に促されて、自分たちが船上の最後の乗客だと気が付く。ゆっくり乗降口に向かいながら小春の方を振り向く。ちょっと疲れた顔しているが、目を合わせた時に口元から広がる笑顔が眩しい。この笑顔が永遠に自分のものになるなら...。

微笑み返す自分の姿を、小春はどう思っているのだろうか。この屈託のない笑顔からわかる事は...今、楽しい...それだけである。



(ホーカー物語「第一部」完)


長らくご愛読頂いた「ホーカー物語」を、一旦ここで終了させて頂きます。

小春との関係は...ご想像どおり??...このままでは済まされません。そのうち再開いたしますので、その時までお楽しみに!!!...再会!!!



9月20日

<お国柄>

お誕生日会なんて、何歳までやっていただろうか。そもそも自分の小さい時にやってもらったかどうかも記憶がない。やったとしても仲の良い子だけを限定して家に招待して、ゲームをしたり歌を唄った後にケーキやお菓子、ちょっとした食事でもして解散するというものだった気がする。もちろんプレゼントやお土産が最大の楽しみだった。

時は流れ、自分の子供の誕生日会を主催する立場になると、イメージだけは同じだが、やり方や環境も全く変化していることに驚かされる。もっとも家庭や個人の考え方で違いがあるのだろうが、子供の通うインターナーショナル・スクールでは、子供用の施設を借りて、そこにクラスメイト全員を招待するのが主流である。

日本でもかなりお馴染みになってきたが、立体迷路みたいで巨大なジャングルジムにネットが張り巡らされ、無数のボールや遊具が置いてある屋内施設とそれに隣接するパーティールームが今日の会場。一クラス全員と言っても本人含めて21人。インターは小人数教育だからこういう時に都合がいい。

普段あまり子供の教育に直接タッチしているわけではないので、子供を連れてくる親と会ってもほとんどが初対面だし、日本人ならともかく発音もよくわからない名前など子供を含めて覚えていない。それでも母親同士は学校のボランティア活動を通じてよく知っているらしく、「主催者」とは名ばかりの「写真撮り係」に専念せざるを得ない状況に追い込まれる。

子供を会場まで送り届けたら、夫婦だけのランチが楽しめるとばかり終了時間だけ聞いて親たちはさっさとどこかへ消えてしまう。親が残って見ていたのは日本人と韓国人だけである。ちなみに、クラスメイト21人のうち純粋な日本人はうちの子だけ。近所の友達も2人誘ったので、ハーフの子供も含めて日本国籍者は4名。

参加者の国籍はインターの名に恥じずなかなかのもの。中国系も含めたアメリカ人が4名、インド・フィリピンが各2名。韓国・台湾・アイルランド・デンマーク・フランス・イギリス・オーストラリア・オーストリア・チリ・ノルウエー・カナダ各1名。実に15カ国に及ぶ。

この中で英語を母国語としているのは5〜6名。そのせいか子供たちそれぞれがお互いの国の言葉を多少は意識しているらしく、英語でやりとりする他に中国語とかであいさつしたりしている。日本でいえば幼稚園から小学校にまたがる年齢なのに既に第二外国語を勉強(遊びの延長?)していることも影響しているのだろう。

母国語を第二外国語として選択することは原則許されていない。ハーフとか二重国籍所持者が、英語以外の母国語を学びたい時だけ認められている。だから平均的に3カ国を操り、お互いの違いに関して子供ながらに理解しているのが面白い。何をやるにも大騒ぎで積極的だし、自己主張も激しい。餓鬼はどの国でも「ガキ」である。

ただ笑えない事実もある。シンガポールではインドネシアやフィリピン女性はメイド(住み込みのお手伝い)として働いているのが一般的で、実際今日の参加者にもそういう人が家にいる子供も来ているので、お友達である本人はともかく、フィリピン人のお母さんが来るとメイドと勘違いする子供が多いのである。

なまじ国籍の「違いがわかる」子供たちであるが故に、フィリピン系やインドネシア系住民の特徴をすぐに捉えてそういう具合に判断してしまうのである。まあ、正直言って自分たち親も戸惑うケースがあるのだが...。

確かに国によってイメージする職業というのがありそうである。シンガポールではイギリス人やオーストラリア人と言えば「英語教師」。欧米系は金融機関かセールス。アジア系はメーカーといった具合。あくまで漠然としたイメージでしかないが、この国で働いている「外国人」は、ビザの関係で本当の単純(肉体)労働者か、あるいは管理者ないし技術者に限られているので、その国の「得意分野」に属している人が多いのである。

久しぶりに一日中いろいろな子供たちと付き合ってみて、どんなに小さくても「お国柄」というのが雰囲気に出ているし、いい意味での「個性」の一部なんだと感じる。日本人も、今の経済状態がどうであれ、自分たちの中に存在する「日本」はやはりアジアを代表する国民だと感じるし、優れた文化と慣習を有し、またその事実が世界的に認められている国民である。

自分たち家族はやっぱり日本人に生まれてよかった。そんな気がする。



<ホーカー物語〜裸体>(第二十九話)

固唾を飲むとはこんな状況をさすのであろう。予想だにしなかった展開に、ただただ黙って見つめる自分。そんなことお構いなしに、白いシルクのブラジャーを外し、そして同じ色のパンティーを降ろす。白く光る背中と、引き締まったお尻が目の中に飛び込んで来る。

ザブーン、という音とともに頭から飛び込む小春。しばらく潜水してからプールの真ん中あたりで顔を出す。髪の毛を掻き揚げ両手で目を擦ってから手を振る。

「あなたもいらっしゃいよ。」
「えー?」
「見ててあげるから、早くしなさい」

自分も後を追いかけようと考えはした。でも、無造作に置かれた下着が目に入った時、自分の下半身に「変化」が起きはじめたことが、躊躇させていた。それを知ってか知らぬか小春の呼びかけに、仕方なくポロシャツに手を掛け、ズボンも下ろす。

さっと脱いで足からプールに飛び込むと、小春は微笑んだあと向こうのドラゴンまで泳いで行く。最初はクロールで、小春の泳ぎが止まった後は平泳ぎで潜水して接近する。満月の月明かりはプールの中でも小春の体を浮びあがらせ、暗黒からの出口のように少し離れていてもよく見える。

小春の小脇に両手を当てて、抱き上げながら急浮上する。驚きながらも嬉しそうな声を上げる小春の口に人差し指をあてる。

「そんなに騒ぐと、誰か来ちゃうよ」
「それは大変」

わざとおどけた様に大げさな表情をする小春。再び唇を重ねた二人は、月明かりに見守られながら静かに抱き合った。思ったより大きく弾力のある胸と、それでいて肋骨が感じられるようなきゃしゃな背中。細く柔らかい髪の毛が水面に広がり、そして二人の首に軽く巻きつく。

「さあ、冷えて来たから上がろうか。」
「じゃあ向こうまで競争よ。」

フライングスタートした小春を追って、ちょっと真剣に早く泳ぐ。途中で抜き去りプールから飛び出し、バスタオルで体を拭く。腰にバスタオルを巻いてプール岸に着いた小春を迎える。手を差し出し引き上げてあげると、今までよく見えなかった全身が正体を現す。

「綺麗だ」

思わず呟く。

「ありがとう。そのバスタオル貸して?」
「あー、でも、その。」
「何言っているのよ。」

腰からすっとバスタオルをはずして、自分の方に手繰り寄せる。悪代官に帯紐を解かれるがごとく体をくねらせ、変化している下半身を押える。

頭と顔を拭いた小春は、ナイスボディーにバスタオルを這わせながら

「見とれてないで、早くパンツはいたら?」

おっしゃる通り、手早く服を着て小春の方をむく。彼女は下着も着けずにワンピースだけ羽織ってボタンをはめている。下着を手首にかけたバスタオルで隠しながら歩み寄ってくる。心なしか大きくゆっくり揺れる胸元がセクシーさを増している。

「さあ、部屋にもどりましょ。」
「君って大胆だね。」
「あなたって、結構シャイね。」
「いやー...」

しばらく歩くと夜回りの警備員とすれ違う。おやすみなさい、と声を掛けてくれたガードマンに二人で軽く会釈した後、おどけたように目を合わせて微笑み会う。肩を抱き寄せ、ゆっくりとエアコンの効いた二人だけの部屋に向かう。

(次回へ続く)



9月13日

<真のグローバル・スタンダードとは>(長文注意)

ビッグバンに始まり、ブリッジバンク、グローバル・スタンダードと、金融界を中心として、いつの年にもなくカタカナ言葉が世の中を飛び交っている。欧米の新しい概念を取り入れたと言わんばかりの氾濫である。

グローバル・スタンダードを日本語で表せば、国際標準とか世界標準とかになるであろう。この概念を受け入れるとなると、古来からの日本的な感覚で語れば、従来の日本的な発想を「転換」し広く世界に受け入れられる基準に「軌道修正」する、となる。長い鎖国時代から急速に開国の嵐が吹き荒れてきたような「錯覚」を受けるが、はたしてそうなのであろうか。

今まで日本人がやってきたすべての営みが、国際基準と懸け離れた次元のものであれば、今日の日本などあるはずがない。少なくとも、世界の平均水準より高度で高品質の技術や発想力によって製品やサービスを生み出していなければ、資源がほとんどない国が生き延びてこれたはずがない。

しかし現実には、「グローバル・スタンダード」などという言葉を新たに突きつけられて、それに戸惑い、自信を失っている。何が問題なのでろうか。今までやってきたことが無意味で的外れだったと悟る時がきたのだろうか。そんなはずはない。我々を凌駕するような企業や国がそんなにあるわけがないし、今までだって彼らは存在し、それと戦ってきたのである。

見えない強敵や巨大幻想に惑わされて、自滅しているのが今の日本人ではなかろうか。バブル崩壊と同時に経済発展の目的が消滅した。その後に残された脱力感と無力感、得体のしれない焦燥感といったあらゆる恐怖から目を背け、日々生きながらえればいいなどと考えていては、戦わずして敗れてしまう。今こそ、我々の中にある「グローバル・スタンダード」を見極め、それをきちんと認識し、それに適応できていない分野を変革していけばいい。

金融ビッグバンの指針「フリー・フェア・グローバル」も一見わかりやすそうで、字面が頭上で踊るだけでピンとこない。でも、これを「グローバル・スタンダード」の満たす為の要素ととらえてみよう。例えば、ある国の「公共バス」がその指針に当てはまるかどうかを検証するとどうなるかを考えれば、イメージしやすくなる。

「公共バス」なら、その国の交通事情や地域のニーズに基づいて「バス路線」が決められており、料金体系も明示されているのが普通であろう。行き先や路線を区別する目印が車体のどこかにあり、使われているバスは古いかもしれないが、少なくとも大量輸送に耐えうるレベルを期待する。

さて、その国に初めて降り立った人が、このバスを利用して目的地まで移動したいとする。まずバス路線がどのようなルートを辿っているのか確認するはずである。地図に路線が示されていれば分かりやすいし、停留所を連ねたものでも参考になる。つまり路線を決めるのはその国の事情で構わないが、一度決めたルートは明示されわかりやすく公表されるべきである。これが「フリー」の原則であろう。

ようやく乗るべきバス路線を見つけ、バス停に向かう。小銭やチケットを用意するのは常識と思い、料金体系を確認する。距離や年齢などで料金が違うのが普通で、学生や幼児、あるいは老人は割引料金が適用され、成人が普通料金となると考えるのが一般的。もしここで「男女」や「人種」で料金体系に違いがあると違和感を覚えるはずである。もちろん「妊婦優待料金」などがあるのなら逆に感心するかもしれない。これが「フェア」の意味合いと思う。

準備万端で目的のバスを待つが、もし来るバス来るバスすべてが「無表示」や「現地語」のみの表示でほとんど見当もつかない状況なら如何とも仕様がない。でもバスに「路線番号」や「英語表示」でもあれば問題は一気に解決する。番号や記号、車体の色を頼りにバスへ乗り込めばいい。

この例で「グローバル」を言い換えれば「記号や数字でも分類でき明示されていること」となるだろう。もちろんバスが故障なく動き、ある程度の運転技術を有するドライバーに操られていることも大切である。さながら「最低限のインフラ整備」は前提条件となろう。

こう考えると「フリー・フェア・グローバル」を満たす公共バスとは、あらかじめ定められたルート(フリー)を、常識的な料金体系(フェア)で、それらを数字や記号で表示した(グローバル)バスであると定義付けることができる。この基準に照らし合わせば、世界中のどこの公共バスに対してでも、その「公共性」の判断基準となりそうである。もちろん日本も例外ではない。地方の隅々まで十分基準をクリアーしている公共バスが確認されるはずである。

もう少しそれぞれの意味合いを掘り下げてみよう。「フリー」とは、何をしてもいいというのではなく、事情に合わせてどう決めてもいいがすべて「自己責任」が原則であることがわかる。結果として法令等のルールに反していたり、世間に受け入れられなかったとしたら、自分の行為に対し合理的な説明を行う必要があるし、裁きを受ける可能性もある。

「フェア」とは、機会均等のみならず「受益者負担」や社会コストの「公平負担」に対し一定の判断を示した上で、与えられた機会に対するコストを負担することが要求され、しかもそれが明示されていることを指していると考えられる。

そして「グローバル」とは、ある一定の視点で体系的に分類整理された時に、その体系がどのような形態かを示した上で、誰にでもわかるように分類表示することである。今脚光を浴びている方法は、例えば「格付会社」が金融機関のある分野での優劣を示す「Aaa」のような表し方である。その他にも、ホテルやレストランのサービスを「☆」の数で表示したり、英語力を世界統一基準のスコアー(偏差値)で表示するような「TOEFL」、ゴルフのハンディキャップの認定など、いくらでも実例がある。

いろいろな条件や環境が違っても、最大公約数と思われる次元を基準に的確な判断が下されているのなら、それがグローバルな基準、グローバル・スタンダードとなる。その「判断基準」の決定が難しいが、対象物をいろいろな角度で分類区別してその構成要素を細分化してみれば、全体の状況がどうなっており、他と比べてどういう状況かわかってくる。

ここで重要なことは、どのような分類区別をしているのか、その情報を開示することである。そうでなければ比較しようもないし、その分類の位置づけもわからない。「判断基準」に疑念があれば、その判断自体が疑われる。

最初の例に戻れば、どの路線のバスかわからないような表示では意味がないし、ある基準に従って記号や番号で区分されていても、しょっちゅう路線を外れて運行したり、いつも事故を起こしたり運休するようなバスなら、「公共性」自体を疑われ、それを認定した行政の認定基準や査定能力自体を疑われる。

だが、どういう項目をクリアーすれば公共バスと認定されるかは、その国が独自に決定・公表し、施行すればいい。大切な点は、その基準を満たせば「一定水準で安定したサービス」を提供できるかどうかである。極論すれば実績がすべてであり、その結果だけが認定基準そのものの信頼性を高めて行く事ができる。

もちろん基準そのものが、時代とともに変化していかなければならないことも忘れてはならない。それは、技術革新や人々の思想、環境認識の変化等と密接にリンクしているし、関連していなければならない。20年前のバスと現在のバスでは機能そのものは同じでも、性能は向上しているだろうし、平均的な体型やその国の年齢構成によって座席の大きさやタイプも変化しているべきである。

例えば全体の少なくとも1割は車椅子の乗客用に改良された車両を使うとか、高齢者転倒防止用の手すりや優先席の設置が求められる、といった基準が追加されていく可能性がある。それが現在世界的に求められている次元かどうかと言われると、必ずしもそうではないと思われる。

しかし、将来的にそれがスタンダードになるかどうかという観点に立てば、その可能性は十分ある。なぜなら、高齢者の問題は万国に共通する点が多く、受け入れられやすい要素だからである。そう考えると、グローバル・スタンダードには将来「他の要素」を付け加える可能性にも適応できていなければならないこともわかる。

これまでの話を総合し、「グローバル・スタンダード」に求められる要件としてまとめてみると次のようになる。

@記号や数字で分類することができること
Aその記号や数字が体系的に分類できていること
Bその分類基準に関する情報が開示されていること
Cその分類基準が時代の変化・ニーズに適応していること
Dこれら基準を満たせば、一定のサービスを提供できる水準となること

この5点を満たし、その基準で判断された情報が相対的に価値あるものなら、「グローバル・スタンダードに適応している情報」と言える。

ではその次の段階として、その「情報」の「目的」を考えてみる。ただ闇雲に基準を並べても、価値ある基準として存在しなければ無意味な分類であるし、その価値は「目的」によって逆説的に見出されると思われるからである。ここで個人の英語力を示す基準を例に取って掘り下げてみたい。

個人の英語力を示す国際的指標として、先程も例示した「TOEFL」のスコアーが世界的に広く認識されている。しかし、同じような「英語力判定基準」は巷に溢れかえっており、日本で広く認識されている基準でも「国連英検」「TOEIC」「英検(STEP)」などすぐに幾つか思い浮かべることができる。

どれも先に挙げた@〜Dをすべて満たしているという点で、グローバル・スタンダードとなり得る要件を満たしている。しかしこれらすべてが独立した基準として、少なくとも現時点では、共存できているのはなぜだろうか。なぜ統合して一つの価値基準にしようとしないのだろうか。

この問いに対する答えは、その「基準」の「目的」が違うからと説明する事が可能である。「TOEFL」はアメリカの大学や大学院、その他教育機関の入学応募に関連して「ある一定以上のスコアー」が審査基準の一つとして明示されているのが一般的であり、その条件を満たす為に高得点を目指して世界中に受験者が分布している。

「国連英検」は国連やその関連の職員に応募する際の英語力判定材料となるし、「TOEIC」は企業が海外出張や海外赴任に際し英語力を判定するのに広く用いられている。しかも、「TOEIC」と「TOEFL」のスコアーはお互いに仮換算することも可能となっている。

つまり、「グローバル・スタンダード」はその目的によって判定すべき基準も変化する、という特性を見出す事ができる。「絶対的な英語力」など存在しないことを自明とするなら、「相対的な英語力」を判断する基準(バロメーター)が複数存在しても何等問題はないのである。言い換えれば、目的によってグローバル・スタンダードは使い分けられる性質を有しているとも表現できる。

このように考えてくると、「判断する目的」を論ずることなく「判断基準」であるグローバル・スタンダードを論じても無意味であることがわかってくる。あらゆる目的に備えた判断基準など、ゴールのないプロセス論と同意である。「ビジョン」が描けていなければ「目的」は明確にならず、従ってその目的に対する「判断基準」も必要なくなってくる。

もちろん、ある程度の「判断材料」が明示され、「現状分析」ができていなければ「ビジョン」も描けないという現実的問題もある。事前にある程度の分類と体系化は必要であり、まず企業内での体系的整理とその基準、つまり「ローカル・スタンダード」を確立するというプロセスが、その第一歩として考えられる。

その「ローカル・スタンダード」を基に判定した、その企業の現状をベースに各社固有の「ビジョン」を描く。その「ビジョン」で各分野の目的が明らかになれば、「ローカル・スタンダード」を再度点検し、「グローバル・スタンダード」を考えるか、もしくは既に確立している「グローバル・スタンダード」に近づけて行くという手順になろう。

まずは身近なものを整理・体系化し、その特徴を炙り出す作業が手始めとなろう。当初の設定では「例外」となるものも多いだろうが、「例外」だけを後に整理し、体系化することも可能なはずである。例外を「例外」として規定できるまで特徴づけることができれば、その目的は達せられるはずである。

このような作業で「ローカル・スタンダード」を規定できれば、目的に応じて「グローバル・スタンダード」へと導いて行く道筋も明らかになってくる。「真のグローバル・スタンダード」とは、「ローカル・スタンダード」で明確化した目的を達成する為に必要性が明らかにされた「グローバル・スタンダード」の最大公約数だと言えよう。

現在の社会問題である金融機関の「不良債権」を例に取れば、各銀行が不良債権の分類するために規定した「自己査定基準」が「ローカル・スタンダード」である。それは、たとえその判断基準が明らかにされようとも、各企業の経営指標としての「ローカル・スタンダード」の域を出る事はない。

企業経営者や特定の株主に対しては有益な情報となり得るのだが、一般の株主や投資家に対する説明にはその「ローカル・スタンダード」を「グローバル・スタンダード」に近づけていく必要がある。その際の「グローバル・スタンダード」とは、例えば株式の取引所上場を目的としているのならそこで明示されているか一般的に利用されている基準を指す。公的資金受入なら、その導入を審査する機関が示す基準である。

この時、目的とするものがないのなら、それはあくまでも「ローカル・スタンダード」なのである。また、幾つかのグローバル・スタンダードに則ったものでも、反論される余地は残る。しかし、「ローカル・スタンダード」にあらゆるグローバルな要素を取り入れて行く事で「真のグローバル・スタンダード」を目指して行くことができる。

そのプロセスは各企業で異なるだろうし、時代と共に変化する。しかし行き着く結論は共通するはずである。なぜなら、それが「グローバル・スタンダード」なのだから。



<ホーカー物語〜夕涼>(第二十八話)

落ちてきそうなぐらい大きく綺麗なお月様。立ち止まって上を向いて見つめる小春の横顔がある。波打ち際に立つ彼女の足元を闇夜から忍び寄るがごとく白い波がまとわりつく。静かに、ゆっくりと歩み寄り、耳元にささやく。

「お嬢さん濡れますよ。」
「何かざらざらして変な感じ。」
「魔の手が近づいているのかも」
「恐いわー」
「お任せあれ」

言うが早いか、さっと小春の体を抱き上げる。「えー」という悲鳴とも喜びとも聞こえる声が、短く響きそして消える。軽く重ね合わされた唇が離れた時、優しい表情の小春が仄かに微笑む。やわらかい時間が流れている。

そのまま小春を抱き上げて砂浜を抜け、ホテルの部屋へと向かう。コテージタイプの客室だから、フロント通るわけでもなく海から直接部屋に帰ることができる。たまたま自分の部屋の鍵は僕が持っていたが、小春の部屋はノルウエー人の彼女が持っているみたいである。

自分の部屋の鍵を回しドアを開こうとすると、白い紙切れが床に落ちる。何となく予感がした通り、電気を点けて紙切れを開いてみるとドイツ人の兄ちゃんの筆跡で「今晩ハナの部屋に泊まる。小春がOKなら、このままこの部屋を二人で使ってくれ。シューマッハ」とある。

時計を見ると11時を過ぎたばかり。元のさやに収めることもできるが、自分から言い出すほど野暮ではない。紙切れを小春に渡し、部屋のエアコンを付ける。足元が濡れている小春の為に、浴室からバスタオルを持ってきて差し出しながら顔を覗き込む。

「どうする?」
「あなたはどうしたい?」
「僕の答えは決まっている」
「私もよ。」
「レディーファースト。君からどうぞ。」
「意地悪ね。あなたから言いなさい。」
「よし。それじゃ僕から答えるから目をつぶって聞いてよ。」

素直に目を閉じて耳を澄ます小春。少し緊張しているようで、それでいて自然にやさしく微笑む表情に彼女の答えは見えている。自分はただ彼女の唇に、自分の唇を合わせるだけ。目を開けた彼女の口元に笑顔が広がる。

「ねえ、もう一度外で涼まない?」
「いいね。バーにでも行って飲み直そうか」
「それじゃ私に付いて来て。」

すっーと外に出てしまった彼女の後を、部屋の鍵を閉めてから追いかける。バスタオルを肩に掛けてゆっくり歩いている小春。どうもバーがある方向とは違う。

「方向が違うんじゃない?」
「大丈夫。黙ってついて来なさい。」

夜の散歩もいいかと割り切って彼女をエスコートする。しばらくするとプールが見えてくる。もう夜間照明も消され人気もないが、転落防止の為なのか淡い色の間接照明が幾つかプールを照らしている。

「昼間見た時は何とも思わなかったけど、あの口から水を吐き出すドラゴンの顔って恐いね。」
「あそこまで行ってみましょうか」
「えー、でもあんなところ泳いで行かないと...」

言い終わる前に小春はビーチチェアにバスタオルを置き、靴を脱ぎ、ワンピースの前ボタンを外し始める。下に水着でも着て来たのかと思うくらい自然である。でも、目の前に現れた彼女の姿は、まさしく下着姿である。

(次回へ続く)



9月6日

<「先生の日」>

毎年9月1日は、誰が決めたかシンガポールの「ティーチャーズ・デー(先生の日)」である。日頃お世話になっている先生に感謝の意を表すそうで、一般的なのは学校や塾の先生に親から子供経由で贈物をするらしい。

以前はこの日の為に子供たちが集まって合唱の練習とかをして、当日先生に「歌のプレゼント」などをしていたらしいが、時とともに「即物的」な傾向が高まっていると聞く。ケーキとかクッキーならともかく、何やら高価な物を渡している姿を見ると、当地での受験戦争過熱ぶりが伺われる。

先生の日があるのなら、子供の日は?と連想する人も多いだろう。それもちゃんとあって10月1日である。学校によって違うらしいが、その当日は休校にしてその前日、つまり9月30日に先生生徒が入り交じってスポーツやお遊戯をして楽しむ。日頃の立場を離れて先生と生徒が交流できるのはなかなかいいアイデア。その翌日が休みと思えば心ゆくまで遊べる。

先生の日は例年通り来たのだが、今年は9月1日前後にいろいろな「おまけ」イベントが付いてしまった。時勢を反映して、どれもちょっと暗いニュース。

まず、予定されていたものに「道路通行料」の自動徴収システムが稼動しはじめたこと。「通行料」といっても高速道路だけではなく、オーチャード通り近辺の商業中心地に張り巡らされている「交通規制区域」への乗り入れ料の方がむしろ目玉。その地区を通行すると、各車に強制的に取り付けさせられたセンサーが反応し、そのセンサーに差し込んだカード(プリペード方式)から時間帯や車種によって決められた通行料金が自動的に引き落とされる。

今まで入場券を月払いか、その都度特定の発券所で購入しなければならなかったから、利便性が向上したとも言えるが、今まで以上に時間帯と道を選んで走行しなければかなり割高になる利用者も多いそうである。これだけのシステム投資を回収する為に収入(税収)を増やす算段だろうが、世界的にも珍しこのシステム、誰のためなのかますますわからなくなる。

もうひとつ余り知られていないのが、シンガポール株価指数のひとつ「ストレート・タイムス(ST)工業株価指数」が、工業株以外の銘柄も混ぜて「ST株価指数」として生まれ変わり、8月30日から新規公表されている。ところがおりからの世界同時株安の煽りを受けて、ここ十数年来の安値を更新している最中の登板。ほとんど違和感なく「価格下落」の波に巻き込まれている。

そして極めつけが、お隣マレーシアが発表した通貨の「固定相場制度」導入。昨年の今ごろに比べて半分ぐらいに低下したマレーシア・リンギット(MYR)の米ドル(USD)との交換レートを、USD 1= MYR 3.8 で固定すると突如発表、即日実施したのである。おまけに、今後マレーシア非居住者の MYR 口座保有を禁止し、9月末までに外貨交換を済ませなければその MYR は「無効」となってしまう、という内容。

現実的にどう対応していいのかまだ確定していないが、国際的な自由化の流れに逆行する、事実上の「鎖国政策」である。堅実かつ順調な経済発展をしてきたマレーシアにとって、ヘッジファンドを初めとする「国際的通貨マフィア」の無情な攻撃でその経済運営を大きく狂わされたことに対する対抗措置であり、復讐という見方もできる。同情はするがちょっと無謀である。

そんなこんなで、日頃の先生への感謝の気持ちもどこかに飛んでしまいそうな今日このごろ。感謝する前に、もう一度「私たち先生の教え」を思い起こしなさい、という声が聞こえてきそうな...。



<ホーカー物語〜接吻>(第二十七話)

唇を重ねることが、本当に自分が小春に求めていることなのだろうか。性的に交わる事で今の幸せな気持ち以上に、二人に幸せがもたらされるのだろうか。浮気とか不倫なんて言葉はどうだっていい。浮気も不倫も「結果論」であって、本人が決めることではなく、周りが決め付けることである。

自分が、自分と相手とその周りも含めて、素直に幸せを感じることができると信じることができるのなら、進めばいい。そこに征服欲とか、愛情欲とか、ましてや性欲という次元で突き進めば、いつかは幸せが薄れて行くか、既存の幸せが邪魔になってくる。

その境目が「一線」であって、人によって、生い立ちや環境によってそれが引かれている「位置」は違うはず。それは本人しか見極められないし、その「位置」が違いすぎたり理解できなければ、友人や恋人、夫婦というものにはなれないと思う。

「何考えているの?」

小春の問いかけで、現実に戻る。

「しあわせだなーって」
「嘘ばっかり、スケベなこと考えていたでしょう」
「ちょっと待ってよ。何でそんなに僕の事を見抜けるわけ?」
「やっぱりー、白状した!」
「小春は何考えていたのさ?」

しばらく無言で歩く小春。少し先まで歩いて、振り返って自分の顔を覗き込む。

「私もちょっとエッチなことを考えていた。」
「えー?」
「このところずーっと一人だから...そーっと優しく抱かれてみたいと思ってた」
「そんな...」
「でも、キスしちゃだめよ。私...崩れちゃうから...」

心臓が張り裂けそうになる。これが本当の「試練」というやつかも知れない。抱きしめて接吻したい。それができるし望まれている。男冥利に尽きるが、明らかにここには「一線」が横たわっている。なぜなら、自分も崩れていきそうな不安を感じているから。どうするべきか。答えは自分の中にしかない。

「うっそー!」
「はあー?」
「何そんな真剣な顔しちゃって。冗談よ。」
「おいおい、そりゃないだろう」
「私だってちゃんと相手ぐらい選びます。」
「どういう意味?」

笑いながら僕のお腹から胸を撫ぜる。

「どうせ抱かれるなら、お腹より胸が出ている男性の方がいいってこと」
「そりゃすいませんでした。」
「女にもてたきゃ体鍛えなさい!」

そういいながら走り出した小春。目尻が光ったように見えたのは気のせいだろうか。

(次回へ続く)



8月30日

<長銀問題>

連日の様に紙面を賑わす「長銀問題」。金融不安、不良債権、円安、株安、円金利低下...等々すべての経済問題の「元凶」ごとき扱いで語られ、今や日本経済危機の「象徴」にまでなった感がある。日本の金融機関が再生されて行く過程、つまり「産みの苦しみ」と考えれば避けては通れない問題だろう。

橋本政権当時とは違い、危機についての認識が政界・経済界「温度差なく」語られ、英知が絞り出されようとしている状態だから、あまり悲観せず、むしろ「夜明け前」を楽しむくらいの気持ちでよいのでは、とも感じる今日このごろである。まあ、今の国会議員の動きを見ていると「夜明け」がいつ来るのか想像もつかないが...。

ただ、相変わらず解決されることなく日本に蔓延している「危惧すべき問題」が二つある。一つは「道義的責任」と「法的責任」の区別が曖昧なこと、もう一つは「夢」が語られないことである。

先週の金曜日に発表された長銀のリストラ案で示された「長銀の歴代経営陣の退職金返還請求」を受けた、自民党幹部のコメントが象徴的である。幹部曰く、

「長銀経営者の退職金弁済は当然だ」
「こんな法外な金額を受け取っていて...」
「金を貸してくれず、職を失ったり亡くなったりした方もいるのに」
「金融機関は何もしてくれない」

ちょっと待ってほしい。何か変である。

退職金弁済は「道義的責任」として国民感情からも当然と思うし同感である。でも、取締役の退職金は株主総会の決定事項であり、ちゃんと承認されて支払われているのなら金額を含め法的には問題はないはず。

それを「法外」というなら特別公務員である国会議員が「民事不介入」の原則に反するばかりでなく、株式会社という形態自体を否定する発言である。あえて言うなら、企業に重大な過失を与えた経営者が多額な退職金を受け取る事に対し、何もチェックしなかった株主やその総会に疑問を投げかけるべきであろう。

しかも、金融機関が「職を失ったり亡くなった方」の責任まで取らされる理由はどこにあるのだろうか。景気回復前に増税をするような「とんでもない」経済運営をした自民党には全く責任がないとでもいうのか。

極めつけは「金融機関は何もしてくれない」。甘えるな。じゃあ、あなた達は何をしたのか。長銀からすら直近まで政治献金を受け取って、しかも参議院選挙に惨敗しながら恋々と政権の座に居座りながらよく言うよ。何かしたくても自分のことすらどうにもならない状態に追い込まれている金融機関に、今更何ができると言うのか。

そもそも政治家たるもの、国民感情を汲み取りながらも、国民の代表・指導者として国民を「良い方向」へ導くのが役割であろう。長銀経営者はけしからん、「でも」こうやってリストラ案を出し自ら生まれ変わろうとしている努力を少しは評価し、日本の金融機関が再び国際舞台で復権することを目指して、ここは金融安定に全神経を集中しようではないか...ぐらい言えないものだろうか。

そう、夢がないのである。バブル時代は日本人が「アメリカに追いついた」と感じ、実際に「数字的」にはアメリカ経済を凌駕した部分もあり、その「祝宴」的時代だったと言える。その宴会が「お開き」になり、アメリカに追いつき物質的に豊かになるという「目的を失った」事実だけが残された後、日本人は次なる目的や夢を求めてさまよいだした。

でも、未だに国民共通の夢は見つからない。戦争を起こしたことの責任を感じるがごとく、バブル時代の「つけ」に苦しみ、自己否定や現実逃避、利己主義・快楽主義だけが蔓延する社会が形成されただけ。こんな状態は誰も心底楽しいわけじゃないだろうし、どこかおかしい。

この風潮を断ち切るのは再び「夢」を唱えることが不可欠だと思う。長銀問題にしても、規模拡大しか考えてこなかった邦銀が行き詰った時、次なる「展開=夢」を描き切れなかったことに対する「典型的な結果」である。「日本列島総不況」から一転して、日本列島総「開花」宣言が飛び出すような、わくわくするような夢を語れるリーダーが今こそ望まれる。

そして早く語ってほしい。「長銀問題」の解決が「前進する日本経済」の糸口になり、そして上昇気流が巻き起こるような時代がすぐそこまで来ている。なぜなら「夜明け前」が一番暗い時間帯なのだから、と。



<ホーカー物語〜一線>(第二十六話)

海は穏やかで、いつもの晴天である。タナメラにあるフェリー乗場に朝8時集合。約40分で隣国インドネシアのビンタン島に到着する。出国も入国もすごく簡単な手続でリゾート・アイランドが目の前に広がる。

これから始まる二日間、特に今夜のことを思うと高鳴る心を押えることができないが、あくまでも冷静に、皆と楽しく談笑しながら、ホテルのお迎えバスを待つ。チェックインををして貴重品を預けたらすぐに大海原に飛び出して行くことになっている。

今夜の「ルームメート」はドイツ人の兄ちゃん。まだ25歳前後で長身・金髪のハンサム・ガイであるが、技術系の仕事をしていて、時たま神経質というより気難しそうな素振りを見せる。性格は至って素直で真面目。そんな自分を意識してかジョークやおどけた表情で周りを和ませる術も心得ている。

その彼が心惹かれている女性はノルウエー人。ショートヘアーですらっとした体型は北欧特有である。まだ太り始めていないところを見ると若いのだろう。気さくで社交性に富んだ笑顔の素敵なレディー。その彼女の職場友達がアメリカ人女性で、今回黒人系アメリカ人の旦那を引き連れて参加である。

今回参加できなかったオーストラリア人の彼が選んだだけあってアングロサクソン系の人たちが多いが、小春と自分というアジア人が加わることで国際的にもバランスが取れたグループとなった。端から見れば間違いなく3組のカップルである。

打ち合わせ通りに集合した6名は、チャーターした船で沖合いのスポットまで出発。改めて決めるまでもなく各男女がバディーとなり、南海の暖かい海中へと旅立つ。熱帯魚のきらびやかな群れと戯れながら、あっという間のひとときが過ぎて行く。ピーターパン・ドリームじゃないが、自分の呼吸や操作一つで自由に飛び回るような錯覚は忘れることができない感触である。

海中散策を十分に堪能して、一行は宿へと向かう。シャワーを浴びて着替えを済ませたら、薪の明かりの元、海岸でのムード溢れるディナータイムである。シックでソフトな着こなしの男女6人が歩く姿は、周りの注目を集めている。この中では短足腹ボテの自分一人浮いている気もしたが、そんなこと気にするまでもなく自分の横を歩いている淑女の方にのみ視線は釘付けになっている。

丸テーブルで6人が男女交互に座る。どこかで見た光景...あのホーカーと同じではないか。このテーブルが固定椅子で片づけおばちゃんがいれば「そのもの」である。そんな連想をするのは自分だけかと思っていたら、左横に座っている小春が「あの時みたいね」といいながらペーパーナプキンを自分に差し出してくる。

「今日は汗をかいてないよ」
「顔にソースが付いているわよ」

何とも引き締まらない。皆に気づかれて笑いを誘う。日本ではこういうのを「お弁当つけて」などと言うけど、ドイツではどういうのか、なんて話題で盛り上がる。

楽しい時間は空になったワインボトルの数だけ過ぎていき、それぞれアベック状態で海岸へ夕涼みとなる。こうなるとアングロサクソンのムードづくりにはとても敵わない。セクシーでいて、いやらしくなく、自然に二人だけの世界へ旅立って行ってしまう。

小春の腰に手を回すわけにもいかず、手をつなごうかと考えながら並んで歩く姿は、中学生同士が初めてデートするようなぎこちなさが漂っている。でも、こういう雰囲気もすごく久しぶりで、自分の中の初々しさに喜びに似た感動を感じているのも事実である。小春も何とも言えない「いい雰囲気」で歩調を合わせてくれている。

真っ黒な海の上にぽっかり浮んだお月様。昼の日差しで暖められた砂浜は夜になっても冷めきらず、二人の足元をほのかに包み込む。これだけロマンチックなムードなら、自分でも小春の唇を奪うくらい簡単である。でも、そうしたいのかしたくないのか自分でよくわからない。小春が望んでいるかどうかもわからない。「一線」という言葉が頭を過る。

(次回へ続く)





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