シンガポール滞在日誌

毎週日曜日更新 (SINCE 30 MARCH 1997)


9月5日

<視点>

同じ所でずっと暮らしていたり、同じ仕事を続けていたり、年齢がだんだん上がってくると、物事を見る「アングル」が硬直的になってくるものである。

例えば「地域振興券」なんてもう随分前に終わった話題という気がするが、それは個人消費者レベルの話し。先日日本に帰った時には誰も手元に持っていなかったが、小売商店主と話しをしていると、実はまだ「換金できていない」という。理由は、お客から振興券で支払いを受けても、換金できるのは「お役所仕事」の影響で早くて半年・ひどいところは一年かかるとのこと。

売り上げも結局普段と変わらなかった上に、お店の運転資金もお役所に「凍結」されてはたまったものではない。「地域振興券」で資金繰りが苦しくなったと感じている個人商店主も多いはずだが、そんなこと口に出すと「あいつのところは経営が苦しいらしい」と噂になってしまい「売り掛け・買い掛け」での仕事ができなくなってしまう。それを恐れて声をひそめていることをいいことに「振興券減税は成功だった」などと言われるとたまったものではない、と商店主の弁。

近頃「円高」傾向が強くなってきて、久しぶりに100円を意識する水準になっている。去年の今ごろは円安に振れていて140円台を付けており、日銀が介入などというと「ドル売り円買い」だったのである。それを溯る事もう数年も前に80円を割れるところまで円高が進み、その時自分ですら真剣に日本の輸出産業の将来を危惧したものである。

あの時の悲鳴は今迄経験したことがない事態に対する恐怖感であり、自国の通貨が強くなったなどと喜んでいられる心境ではなかった。ところがその後訪れた円安局面では「日本売り」などと嘆き、また今108円近辺まで円高になると「景気の越しが折れる」と嘆いている。確かに為替水準が安定しないと「商売がしづらい」人がいるのは良く分かる。でも為替が動かないと「商売にならない」人もいるのである。

それをコントロールする立場の日銀担当者も同じ事。一定の為替水準を念頭に置いて為替政策を行っているわけではない、というのは毎度繰り返される台詞である。確かに急激な変動が回避されるなら「ある程度の動き」があってしかるべきなのだろうが、「国益」を考えるとそうとばかりも言ってられない。

日銀介入と言っても所詮「円をドルに」換えたり「ドルを円に」する作業である。安くドルを買って高くドルを売る、という意味では、80円台の「日銀介入(ドル買い)」も「140円台の「日銀介入(ドル売り)」も、ものすごく上手いものである。その時の米国債の水準まで考慮に入れると、大した儲けなのである。それはすべて日銀の決算を通して国民の富となる。

いろいろ批判されていたころの日銀為替担当者が「我々もきちんと仕事しているのになー」と嘆いていたと伝え聞いて気が付いた。通貨の番人の究極の役割は「国民の富」を守り増やすことである。その点日銀は立派に役割を果たしている。それでもアメリカとの関係上大きな声では言えないのである。

シンガポール人と話しをしていても時々視点の違いを感じる。異文化なら違いがあって然るべきなのだが、どうも他国の人にはない「偏り」がある。それはいつも「夏」しかないこの国の気候のせいかもしれない。

言葉にしてもシンガポールでは「意志疎通」できるかどうかに重点が置かれており、それはそれで重要なことであるのには間違えないが、ひとつの会話で英語や幾つかの中国語方言が出てくるのは何とも言えないものがある。彼らに「ポエム」を書かせたらどんなものができるのやら。シングリッシュの「叙情詩」などすごく興味ある。

いろいろ観たり読んだり話しをして、いろいろ感じる。視点が増えるほど世の中面白くなるもの。芸術の秋。ちょっとコンサートや読書に励んでみたい。もちろんここの気候に「秋」はないけど。



<ホーカー物語2〜男性>(第三十五話)

「そんなもんかなー?」
「例えば、バイキングで食べ放題の時なんて、結構性格出るわよね」
「それは否めない。俺なんか全種類食べてやろうと意気込んじゃうもん。みっともないけどね。」
「男の人ならそれも珍しくないし、女性も男性並みの胃袋があればいいなーと思っている人も多いと思うわ」

それは確かによく言われる。

「まあ、そんな時でも盛り付けた物はきちんと平らげるよ。」
「そう、そこなのよね。いろいろ試してから好きなものに集中して食べるならともかく、最初から食べるものを限定しちゃったり、自分の口にはこんなもの合わないって取って来たもの少しだけ口つけて、後はコーヒー飲んでいる人。」
「どれがいい悪いなんて一概には言えないけどね。」

ただ、そういう人たちは自分とは違うと感じる。

「もちろんそうなのよ。でも好きなものを好きなだけ食べれるというバイキングのメリットを少しもエンジョイしない、いやメリットととも感じていない男性って、どうも私は苦手なの。」
「ギラギラしているやつの方がいいってこと?」
「というか、生命力の強さを感じさせてくれる人の方がいいっていう感じかな。」
「それなら、僕は合格かもね」

小春からこの手の発言が出てくるとは少々意外感があった。それでも何となくわかる気がする。「何か食べることができればいい」といった感覚で食べているシンガポール人の食事風景からはあまり「生命力」は感じない。それは暑い国の処世術なのかもしれない。汗をできるだけかかずに、ゆっくり食べる。

その点我々日本人、特に出張者は「背広の上着」を着て「早足」で歩き「急いで」食事して、その結果「無駄な」汗を流し続ける。日本に比べて気温が暑いのは紛れもない事実かもしれないが、それを助長していることに気がつかない。

こういう姿をとらえて、「生命力に溢れる」と小春的に理解してくれると、それで非常に「救われる」男性陣がどれだけいることか。

「小春は男性ってものを好意的に解釈してくれるね。」
「そうかしら。」
「僕にはうれしいけど。」
「お父さんのせいかも知れないー」
「小春のお父さん?」
「そう、私の大好きなお父さん」

(次回へ続く)



8月29日

<方言>

先日のリークアンユー上級相の演説はシンガポール人に「耳障り」だったに違いない。英国留学経験があり、アジア一、二と言われる英語力とその指導力でシンガポールを現在の国際的地位まで押し上げた中興の祖であるリー氏に、「シンガポール人は正統派の英語を使うように」と言われてしまったから。シンガポール人英語、シングリッシュ「禁止令」である。

毎年8月の建国記念日を過ぎたころに、リー氏が「先輩としての助言」スピーチを行うのが恒例らしく、そこで取り上げられたテーマは「鶴の一声」的にその後のシンガポール政治へ取り入れられて行く。今回取り上げたテーマは「外国人の積極登用」と「シングリッシュ禁止」である。

シンガポールにも人材が十分いるから今更外国人を受け入れなくてもいい、という「国粋主義的な発想の台頭」を戒める「外国人積極登用」の方は、バランス感覚に優れシンガポールの「立場」を理解している彼らしい「老婆心」である。だが、地元テレビの人気コメディー番組でシングリッシュを使うのは「けしからん」という発言は、少々残念な気がする。

彼の演説を聞くまでシンガポール人が以前使っていた中国語は「マレーシア訛り」だったとは知らなかった。それを台湾や中国本土から招いた中国語の先生のおかげで現在は「まとも」なチャイニーズを話すようになれたのだから英語もそのように指導すべき、とリー氏。

ごもっともだが、ニか国語をまともに操れる能力の持ち主など、そうそういるはずもない。それを全国民に求めようものなら、「二兎追うもの」が続出しかねない。いや、厳しい言い方をすれば、現実にはほとんどの国民がまともな「母国語」を持ち合わせていないのである。

中国語は自分にはよくわからないが、先日少しだけお世話になった中国語スクールでの先生の言葉を借りれば、シンガポール人の中国語は「でたらめ」だそうである。その先生はつい最近までシンガポール最高学府の国立大学で中国語の教鞭を取っていたそうだが、学内の「初級中国語」講座は今でも満員の盛況らしい。国内選り抜きのエリートでも、それだけ「正統な中国語」を求める学生が多い証拠である。

英語の方はと言えば、これは自分にも日常お馴染みである。これは明らかに「おかしい」と言い切れる。発音やイントネーションの違いも然る事ながら、英単語の用法や文法も少しずれている。日常生活で母国語が英語の人物から学んだものではなく「勉強」を通して吸収した英語だから、辞書の片隅にあるような意味合いやニュアンスを取り違えた言葉づかいも多いのである。

例えば「SPOIL」という単語はそのものの価値や有効性をだめにする、という意味で「こわす・台無しにする」と日本語へは訳されるが、シングリッシュでは例えば電球が切れたとかネジ山が駄目に(ばかに)なったという時も「スポイル」と言うのである。家探しをしている時にも「電気が壊れている(broken)から直してくれ」と言っても通じなく、覚えたての「電球がスポイルしているから...」というとすぐ理解してくれた。最初は自分の英語が「broken」過ぎると悩んだのだが...。

まあ、そんな難癖を付けはじめたらお互い切りがないし、大卒シンガポール人の「英語力」は誰も抜群であるからその点は評価すべき。問題は彼らが自分たちが「ネーティブ・スピーカー」と信じていることである。第二外国語としては世界随一の英語力であることはTOEFLの国別結果を見ても明らかでも、所詮「母国語」ではない。その点をはっきり認識している日本人は、逆に言えば日本語のような母国語とは何たるか、を知っているのである。

あやふやな中国語にシングリッシュ。正統な英語を提唱するリー氏の気持ちは分かるが、シングリッシュを一つの文化、あるいは「方言」と捉えれば、それまで否定してしまうと行き過ぎであり寂しい。シンガポール人に聞いても、やっぱり海外から戻ってシングリッシュを耳にすると「帰ってきた」と感じるそうである。自分たち外国人でもそういう感情が沸き上がることがある。

シングリッシュはもう既に立派な「方言」であって、それは貴重な文化として温存しながら、正統派ブリティッシュ・イングリッシュを学ぶべきだと思う。文化がなければコメディーも有り得ない。コメディー番組で「面白い」と感じるのは、その言葉が自分に身近だからである。ニュースキャスターや英語の先生が流暢な英語で「面白い」ことを言おうと思っても自ずと限界がある。

リー上級相の発言でシンガポールのテレビ番組からシングリッシュは消え去るらしいが、そんなことになったらますます無味乾燥した面白味のない国になってしまう。今、シンガポールで一番ホットなナイトスポットは、おかまがシングリッシュでコメディーをやる店らしいが、「当局指導」が入る前に是非一度は足を運んでおきたいものである。



<ホーカー物語2〜動物>(第三十四話)

一口二口進む内に、急速に空腹感を覚え、夢中になって食事を進める。ニンニクエキスが体に染み渡り、熱い汗となって滴る段になって初めて顔を上げると、そこにはポケット・ティッシュが差し出されている。綺麗なカバーがついたティッシュ。その奥には小春の笑顔。いつか見た光景である。

「相変わらず汗かきね」
「おー助かるよ」

鼻をかんで落ち着いてから小春の顔を見る。肩肘張らずに食事をしていても、周りのシンガポーリアンとは一味も二味も違う「上品さ」が漂っている。

「あの時のこと覚えている?」
「もちろん。印象的だったもの」
「どうして?」
「動物的な食べ方が」

そうかも知れない。体育会系の自分は、早飯早糞を美徳として生きてきた感がある。出されたものは集中して残さず食べる。がつがつ食べる姿は「動物」といわれてもしょうがない。

ただ、シンガポール人の食事方法も、お世辞にも上品とは言えない。大体のケースは右手にスプーン・左手にフォークを持ち、足を組んで両肘ついて口を閉じず咀嚼して、だらだらしゃべりながら食べる。もちろん小春は例外であるが、そんな中で「体育会系」がいれば「印象的」であるのは理解できる。

「小春に動物的と言われちゃ、返す言葉もないなー」
「誤解しないでね。私にはとても新鮮で驚きだったんだから」
「つまり、今迄見たことがないタイプだったということ?」
「そう。そうやってエネルギッシュに食べてくれたら、料理した人はうれしいだろうなーって」

物は言い様である。

「ああ、その点だけは自信ある。好き嫌いないし、出されたものは何でも綺麗に平らげる。」
「やっぱりね。そういうのって、マナーうんぬん以前にその人の人間性が出ている気がするの」
「どういう人間性?」
「嘘がつけない、というか、表裏がない、という感じ」

そうまで言われてしまうと、本気で「おだててて」くれているのか「失言」を取り繕っているのか疑問が湧いてくるが、でも悪い気はしない。

(次回へ続く)



8月22日

<銀行大合同>

そろそろ金融再編の第二幕が始まったようである。木曜日に噂が流れ、翌日の20日にはその「噂」にほとんど沿った内容の「共同記者会見」が、日本興業銀行(IBJ)・第一勧業銀行(DKB)・富士銀行の各頭取により行われた。第一幕のように市場に追い詰められたものではなく、あくまでも各行の自主的判断で、新法に基づく新手法の再編である。歓迎したい。

噂、というより「憶測」は以前から流れていた。この三行の組み合わせも「選択」という雑誌の最新号でも取り上げられたばかりであり、「残り」の他の銀行の組み合わせも同時に論じられている。そういう意味では「予想された範囲だった」のだが、3つの点が印象に残る。

一つは、現在の外資との提携は「虎の子の顧客基盤が奪われ、やがては買収されるのが落ち」という首脳陣の発言。これほど素直で誰もが本心と感じる「明瞭な発言」を、失礼だが「銀行経営陣」しかも日本の金融界をリードしてきた銀行経営者の口から聞けるとは思いもしなかった。

その言葉は逆に、ストレートに現状を見つめ、冷静に判断していることを我々に強く語りかけている。発表された「構想」にしても、リストラとしては先に金融再生委員会へ提出した各行の再建構想を合わせたものに比べて大したことはない、という辛口のアナリスト評もある。しかし、大風呂敷を広げるだけがいいわけではない。不確定な日本の「経済成長」という問題がそこに横たわっている限り、決して易しいハードルとは思わない。

もう一つ印象に残った点は、システム投資額を気にしていた点である。「各行500億円では足らないが、合計1500億円のシステム投資なら欧米トップと渡り合える」というのは偽りない事実である。今のオフィスは最新設備を構築するのに多大なお金がかかる。特にディーリング器材や関連のソフトウエアーなどは、一台数千万〜数億円するのは当たり前で、もちろん日進月歩の最新バージョンへのアップグレードへも追加投資が必要である。

ちょっと話しは脱線するが、以前から「銀行業務」は軍隊の構成に似ていると思っていて、ARMY(陸軍)・NAVY(海軍)・MARINE(海兵隊)・AIR FORCE(空軍) と分けるとすると、ARMYは「個人営業」、NAVYは「法人営業」という感じ。MARINEが「調査・研究開発」部門とすれば、AIR FORCEは資金運用(ディーリング)部門である。

それぞれ軍隊にとって重要な役割を担っていることには変りないのだが、日本の銀行の場合、自衛隊と同じく「敵地」での交戦を前提としていなかったので、MARINE(調査・研究開発)とAIR FORCE(ディーリング)には資金が行き渡らなかったという印象。その結果邦銀はどこもそれらの部門が欧米トップ銀行と比べ「貧弱」である。

もちろんNAVY(法人営業)も空母(海外のディーリング部隊)や戦艦(海外の投融資判断部隊)が「専守防衛(=国内融資取引優先)」の建前によりほとんど「建造」されてこなかった点も見逃せない。

世界最強を誇るアメリカを見ればわかるように、軍事力へ惜しみない投資を行い、最新器材での武装に余念がない。いざ戦いとなれば、偵察衛星やステルス偵察機の正確かつ詳細な情報に基づき、弾道ミサイルと戦闘機による空爆、というのが「お決まり」のパターンである。

そこには軍人個人の運動能力など関係なく、如何に手を汚さず戦果を挙げるか、が考えられている。その姿は例えばCITI BANKのようなアメリカの銀行の姿と非常に似ている。悔しいかな、我が自衛隊(邦銀)は、他国侵略能力はおろか自国の「制空権」さえ怪しい状況である。その上ARMY(個人営業)の分野さえ外資系に侵略されつつある。その現状を見れば「国益」の為に三行が立ち上がった、といっても過言ではない気がする。

最後にもうひとつ印象に残った点を挙げると、三行の株価がほぼ同じ水準で推移していたこと、である。

山一証券の倒産以来、芙蓉グループ企業への市場の風当たりが強かったことは記憶に新しいが、その総本山といえる富士銀行の株価が一時期200円台まで低迷していたのは、つい1年ほど前の話しである。それが奇跡的な回復を見せ、以前から同水準で行き来していたIBJとDKBの株価とほぼ肩を並べた時点での「合併発表」。意図的なものを感じざるを得ない。

いや、むしろ話しが出来上がってから、三行肩を並べるまでじっと待っていたというのが正解だろう。そういう見方をすれば、「東海・あさひ」の組み合わせはスムーズに行っても「大和」を加えるのは現状難しい。三和・さくら、三菱信託・住友信託ももう少し時間がかかる気がする。

いづれにせよ、第二幕は切って落された。日本の構造改革も、「後ろ向き」から「前進ギア」へ入れ換えられつつある。このまま行けば日本の将来はまだまだ捨てたものではない。楽しみである。



<ホーカー物語2〜茶式>(第三十三話)

「何を食べる?」
「いつもは?」
「バクテー(豚骨煮込みスープ)が多いわ。」
「それじゃそれでいこう。」
「それならこっちよ」

小春に手を引かれながらコンドミニアムの裏手のHDB群へ足を踏み入れる。普段表通りからは気が付かないが、どこ比べても変り映えしない建物のそこら中に、数々のホーカーが並んでいる。特にウエット・マーケットと呼ばれる生鮮市場の周りには、歩道まではみ出して所狭しとテーブルが並べられている。

その中の一件へ導かれ、小春が親しげに店主へ一声かけると、混んだ中にも特等と思われるテーブルへ案内される。メニューがない上に英語も通じないのがこの手のホーカーのお決まり。オーダーは、日本人の自分には、普段食べていて覚えているもの以外なかなか難しい。しかし、言葉の通じる小春がいれば何も問題無い。

飲み物はまだ昼下がりだから、二人とも中国茶をたのむ。一般のレストランでは中国風湯飲み茶碗やグラスに温かいお茶が注がれるだけだが、ここは庶民のホーカーだけに昔ながらの方法である。

まず、移動式のガスコンロにお湯が満たされた「やかん」が登場し、小さいお猪口サイズの湯飲みが6つに、小さ目の急須とお茶の葉、ちょっと深めのアルミ製のトレイと同じくアルミ製のお皿が2枚渡される。

小春は慣れた手つきで、少し大目のお茶葉を急須に入れ「やかん」からお湯を注ぐ。次に少し小さ目のトレイの上へお猪口サイズの湯飲みを全部乗せてから、大胆にお茶をついで行く。すべての湯飲みからお茶が溢れ、トレイの上にも流れ出したところで、深めのトレイへお猪口のお茶を次々に捨てるのである。

「あれ、一番茶を捨てちゃうの?」
「こうやってお茶葉を含めて最初に洗うのが中国式よ」

少し大き目のトレイでお茶を捨てたトレイを覆い、その上に小さ目のトレイを重ねて乗せて、洗浄した湯飲みをもう一度並べる。再びお湯を満たした急須からお茶を注いで、今度は自分たちが飲む番である。外側まで温まった「ぐい飲み」で中国茶をきゅっと飲むのも、意外と乙なものである。

そんな「儀式」をしている間に、次々に注文の品がテーブルに並べられ、遅めの昼食が始まる。注文したバクテーは、よく煮込まれた骨付きの豚肉にニンニクの固まりが浮かんでいる。透明なスープを啜ると、ぴりっと黒胡椒の辛みとニンニクや豚肉の煮汁が合わさった大人好みの美味しい味わいが口中に広がる。

冷房の効いた一流レストランでの食事もいいが、日陰で風通しもよく、意外と涼しい通路で汗を流しながら食べるホーカーもいいものである。テーブルを汚しても気にせず、むしろ骨をテーブルに直接出しながら食べるのがマナー。皆で一つのお皿を自家箸でつつきあいながら食べるのが中国流なのである。

(次回へ続く)



8月15日

<コーヒー戦争>

スターバックス(Starbucks)にコーヒービーン(Coffee Bean)。日本では「ドトール・コーヒー」に次いで、徐々に店舗を増やしているようだが、シンガポールではこの二つが急送な広まりを見せている。

もちろん、自分の生活圏がシンガポール一般の人と一致しているのかどうかはよくわからないので、シンガポール全土に広がりがあるのか少々疑問である。それでも、自分が日常的に行き来する行動範囲内に両系列合わせて10は店舗があり、しかもその大半がこの2年以内の出店なのである。

シンガポール人にアメリカン・コーヒーを飲む習慣があったのかというと、チャイニーズティーやローカルコーヒーと呼ばれる独特のコーヒーの方が一般的だし、この二つは「ホット」で飲むのが普通である。だから昔ながらのレストランみたいなところに行くと、「コーヒー」と言えば受皿にこぼれるくらいなみなみ注がれたローカルコーヒーが登場する。

そんなお店で「アイス・コーヒー」をオーダーしようとしても、そもそも「ICE」などという文字がメニューボードに見つからない。「駄目元」で店員に頼んでみると、年配の人はそういう発想がないのか「しかめっ面」されるのが落ちだが、若い店員なら氷代として20セントぐらい上乗せして、ホットのローカルコーヒーを冷やしてくれる。

日本でも昔は冷たいものばかり口にしていると「お腹こわす」と言われて、夏に氷菓子はほとんど買ってもらえなかった記憶があるし、確かに麦茶やジュースをがぶ飲みすると体がだるくなる。シンガポールでも昔の中国人の知恵で、チャイニーズティーのようなものを飲んで暑くても体調を崩さずに生活してきたのだろう。

そう言えばシンガポールへ来た当初、ファーストフードで疑問に思ったことが幾つかあり、以前このホームページの中でも取り上げたことがある。その一つがアイスコーヒーがほとんど存在していなかったこと。未だにマクドナルドやバーガーキング、モスバーガーでも「シェーク」を見かけないし、甘くないアイスティーにも巡り会えないが、ようやくコーヒーはこの二つの系列の出店競争によって「アイスで飲む事」も一般的になってきたのである。

それにしても、コーヒービーンとスターバックスの広がりはすごいものがある。自分のオフィスでも、先日まで向かえのビルにあるコーヒービーンに毎昼通っていたのだが、今は自分のビルの一階にできたスターバックスにも通っている。値段はビーンの方が若干高い上にアイスコーヒーはそれより少し高い。スターバックスはホットでビーンより安い上にアイスにしても値段は同じ。味はビーンの方が上と感じるだけに、なかなか微妙な判断で両店を使い分けている。

コーヒーで戦う分には思う存分やってもらって、消費者の選択肢を増やすことに貢献してもらいたいものである。日本は、今日「終戦記念日」。シンガポールのコーヒー戦争に「終戦」はあるのだろうか。



<銀行のサービス>

一時期の金融不安も喉元を過ぎた感がある。「銀行」という業種に対するイメージや信頼感がどれだけ回復したか甚だ疑わしい気もするが、銀行から引き出したお金をタンス預金にしたり、貸金庫にしまっている人はほとんどいなくなったと思う。

古くはロッキード事件やリクルート事件のような政治家不信、薬害エイズ問題や官官接待で公務員全般に不信感が広がったり、その絡みで大手ゼネコンが叩かれた時期もあった。証券会社の不祥事は頻繁にあった気がするし、佐川などの運送会社、NECなどのメーカー等々、日本中の主立った業界はほとんどがここ10年くらいのうちに一度はイメージを落している。

その中でも、公務員並みに「お堅い」職業といわれ、信用力が抜群だった「銀行」が、今やただの会社員、いや、ろくなことをしていないくせに高給をもらっているやつ、というネガティブな印象を持つ人も少なくなくなってきた。

もちろん従来通り信じている人もいるが、以前のように「銀行ならどこでも」というわけでなく、「株価が高い」とか「格付けが高い」「不良債権が少ない」ということを基準に「選んで」信頼するケースが一般的になってきた。

かつては「官僚一流・政治家三流」といわれ、政治不信が高まった時でも日本にはしっかりした「官僚機構」がついているから大丈夫と思っていたし、実際そうであった。それがどちらも「国民の負託」を受けたりや「公僕たる」に足らなくなったくらいなのだから、銀行のイメージ失墜も当然の成り行きだったのかもしれない。

最後の「聖域」と思われたマスコミ業界ですら「コマーシャルの間引き放送」や「破廉恥事件」が度重なるうちに、お互いを批判しあいながら自らも規律を求めるざるを得ない風潮が出てきそうである。

言うまでもなく、政治家にも立派な若手がどんどん台頭してきているし、謙虚さを取り戻した公務員には、やはり優秀な人材が揃っている事実に変りはない。叩かれた業界も、それを教訓に再起を図ればいつでも再び社会に受け入れられるはずである。

ただ、心配なのはその時「どう変革するか」である。犯罪性のあった行為を改めたりその再発防止策を考えるのは当然として、それ以外の「何か」を犠牲にして「何か」を伸ばして行かなければ企業や業界の「体質」は改善されないし、生き残っていけない。それはコスト削減や人員整理といった表面的な「数字」の世界ではなく、「本質」の変革でもある。

「銀行」というと、冷房の効いた店舗のカウンターに女性が並んでいててきぱき仕事を裁いているイメージや、ATMの前の行列を思い浮かべる人も多いだろう。ところが「サービス」と言われると、公務員の窓口サービスと同じで、送金したりするのは戸籍謄本の写しをもらう事と同様「手数料」を払うから「サービス」と意識することはあるだろうが、「行政サービス」同様「銀行のサービス」と言われてもピンと来る人は少ないかもしれない。

「行政」の世界では税収入が減ったり財政が危機に瀕して、例えば「ゴミの有料化」などの問題が浮上して初めて「そういうのが行政サービスなんだ」と意識する。実は 「銀行のサービス」もその手のものかもしれない。その一つだった「安全な資産の保管場所」という「サービス」に揺さ振りが起きて、その結果「信用創造の収縮」(なぜか「貸し渋り」というネーミングになってしまったが...)や「タンス預金の増加」につながった。

それ以外にも、結構気が付かない「サービス」がある。その一つは「正確な手続」。日本では銀行の預金通帳の記載や利息計算、代金引落としといった「事務」にミスが起きることをほとんど想定してない。いやそんなことに気を配らなくても「当たり前」であった。銀行が「倒産する時代」になっても、銀行が「頻繁にミスする時代」にはなっていない。

ところが、海外で生活したことがある人なら身に染みてわかっていると思うが、銀行と言えども手続を100%信頼できないのである。いや、どんな「取引」でも自分の身を守る上でも自分で常に「チェック」し、「必要な手続」をするのが当たり前である。ところが日本の風土がそれでは許さなかった為に、100%と言えなくとも「99.99999%」正確な事務を銀行は追求してきたし、そこに莫大なコストがかかったのである。

例えば、まだ「営業時間中」なのに「現金の残高不足」で引落としができないATMなど日本では「許されない」が、海外では24時間開いているATMがある代わりに「残高不足によるサービス停止」もあり得るのが「当たり前」なのである。そこが「当たり前」かどうかで「事務コスト」が大きく変化するのである。逆にそこを了承するかどうかで「24時間サービス」が身近なものになるかどうかの分かれ目なのである。

「銀行口座を開く」というサービスも日本では「当たり前」だが、例えばシンガポールで口座を開く場合はシンガポール人の身分証明か外国人本人のパスポートの提出が必要であり、最低10万円程度のお金を用意した上で、既に口座を持っている人の「同意サイン」が必要なのである。「口座維持手数料」という概念も海外では一般的で、シンガポールの場合「口座残高」の多い少ないで金利に差を付けている。

しかも、「少額ほど金利が低い」のみならず、「高額でも金利は低くなっていく」場合があるのである。それは出し入れがいつでもできる口座に残高が多いのは「銀行の安全経営」に悪影響を及ぼすという発想だと思われる。口座を「維持する」というのは銀行にとって多大な神経を使う問題なのに、その「サービス」は日本では長年「無料」であった。もちろん「低金利」という「代償」で知らぬ間に徴収されていたのだろうが。

だが、「護送船団行政」の終焉と、今回の「金融不安」により、銀行は厳し世間の眼で「選別」されるようになった。銀行も「費用対効果」つまり「サービスに見合う手数料の徴求」という意識が着実に芽生えている。言い換えれば、「銀行のサービス」すべてにお金を要求される時代が来たのである。そういう認識が国民全般に浸透するのには多少時間がかかるだろうが、それが今の世の流れである。「銀行」のイメージもまだまだ変化する余地が大きい。

「銀行のサービス」の変化は、日本が国際的に見て「一般的」になりつつあることを示す尺度となり得るし、その反面日本の「良い面」がアメリカナイズされていくようで寂しさ交じりの感情がなきにしもない。日本の銀行のよさが少しでもうまく残る事を望んでいる。



8月8日

<女性の髪型>

この話題に触れていいものか悪いものか。日本でもシンガポールでも迷うもの。女性の髪型の話題。特に如何にも「イメージチェンジ」した時の声のかけかたは、多分歌舞伎の「合いの手」並みの難しさがある。

女性の髪型の変化は大きく分けて二つ。すっぱりと長い髪を切った時と、パーマやソバージュ、ストレートパーマなどをかけた時。日本だと「季節の変わり目」とか「流行」など想像しやすいものもあるが、「季節のない」シンガポールの場合、「出産準備」とか「うっとうしくなってきた」とか実利的な理由が多いようである。

日本女性の場合「失恋」なんかも大きな理由かもしれないが、頻繁に彼氏を入れ替えると言われているシンガポール女性にはそんな理由があるかどうか。職場で聞くには日本以上に「セクハラ」を意識しなければならないし、「微妙な英語表現」が必要とされるだけになかなかの勇気がいる。

それでも万国共通「女性は女性」。気が付いていながら何もコメントしないのも失礼だと思うし、本人も周りの視線を意識していたり話題にしてほしくてうずうずしている時には、尚更である。「その髪型似合うじゃん」の一言で一日中気分良く仕事をしてくれるなら、これほど安いものはない。

イメージチェンジが、自他共に「成功」しているといえる状況なら問題はない。周りの女性に嫌みにならないよう、本人と二人だけになった時にでも「誉め言葉」を「しっかり」告げればいい。自分は「前の方がよかった」と内心思っていても、本人が機嫌よさそうなら、それにわざわざ水を差す必要もない。これも「賛辞」を「さりげなく」述べるのみ。

「ちょっと切りすぎちゃったのー」「うまくまとまらなくて」などなど彼女の弁明が付け加わることがだいたいだが、そこで「議論」を掘り下げることなく適当に相槌うっていれば勝手に納得してくれる。そして彼女の心では「冒険」が「成功」として刻まれることとなる。

問題は自他共に「失敗」と感じているケース。「長髪は七難隠す」とか「おばさんパーマー」という単語が喉元まで出掛かっても、その「一線」を超えてはいけない。王様の耳よろしく地面に穴掘ってでも「閃いた言葉」を噛み殺し、その場の「平穏」を装うか、違う話題を即座に考えるべきであろう。

不覚にも「驚きの表情」を浮かべてしまったり、「笑いが込み上げる」事態になっても、まずは目線を彼女の髪型から外して、とにかく白を切るのみ。どうしても「コメント」せざるを得なくても、口にしていいのは「イメージチェンジしたの?」と事実確認をすべき。間違っても「今日もエレガントだねー」などと「嘘」をついてはいけない。運良く「どこどこの美容院に行ってみたの」という話題になったらもう窮地脱出成功。みんなで楽しく朝の一時を迎えることができる。

社会参加がほとんど男女半々。社会的地位も平等に与えられているシンガポール。それでも女性と楽しく職場を過ごす術には別段差がないと思う。仕事のできる女性ほど着こなしもスマートで理知的な表情をしているのも、日本とシンガポールで差はないと感じる今日このごろである。



<東芝クレーム騒動>

福岡発「一個人」のクレームが、大企業の副社長まで頭を下げさした。インターネット上での「告発」が大新聞やマスコミ各社を巻き込んだ大騒動に。「時代の変化」と「インターネットの威力」を見せ付ける衝撃的な事件である。

事の発端や経緯はクレームを付けた本人のホームページに詳しく述べられているし、東芝のホームページ上でも「事件の概要」と「東芝のコメント」を読むことができる。インターネットで交わされた論争が朝日や日経という全国紙でも大きく取り上げられ、夕刊フジでは長い間、その会社員と東芝双方のホームページにリンクが張られていた。

ここでも双方のページにリンクしたいところだが、どちらも共にこれ以上騒がれて楽しくないだろうから止めておきたい。事件の内容を知りたい方は、7月上旬の新聞をめくってほしい。ここでは、「インターネット新時代の教訓」として今の考えをまとめておきたい。インターネット上にホームページを持つ一個人として、すごく身近でかつ他人事ではないから。

福岡在住の「会社員」がホームページ上に貼り付けた「音声ファイル」は、やはりすごい武器である。ピーク時には一日で500万件以上もアクセスがあったと言われているが、自分もその一人。その日に「会社員」がリンクしていたページから「RealPlayer2」なるものをダウンロードして、彼の「問答」を再生して聞いてみたのである。

5分前後に繰り広げられる「東芝職員」と「会社員」のやり取りは、確かに他人が聞いていても「怒り」を感じさせる内容である。これを聞く限り「会社員」に同情する人が大多数である。経緯を読んでも、その「録音」と同様なことが繰り返されたことが容易に想像つく。ここまで白黒がついては、天下の東芝と言えども頭を下げなくてはなるまい。

だが、問題はそれで終わるほど単純なものではない気がする。現に企業の「お客様センター」には「インターネット上で暴露するぞ」という「脅し」が横行しているらしいし、この問題に「特設コーナー」を設置したヤッフーや夕刊フジのような「公共ホームページ」の「社会的責任」についても考えなければいけない。

そして、「会社員」が頻繁に登場したとされる「NIFTY」のチャットコーナーも、その著作権や発言者責任を含めて論議されるべき問題もある。「会社員」が指摘しているように、東芝側は裁判所への仮処分申請にこの「会話」のコピーを用いたそうである。ハンドルネームで登場しているとはいえ、東芝は特定のハンドル名をもって「会社員」と認知しているのなら、そこで登場する他の人たちも個人を特定できる可能性がある。

実は、日本にいた時にNIFTYへ加入し今も会員なので、ここシンガポールからインターネット上の「NIFTYホームページ」を通じてNIFTYの伝言板やチャットルームを覗くことがある。日本の「雰囲気・現状」を知るには有益だし、何よりシンガポールにいるというハンディーが全くないのがいい。メールアドレスを変更する必要もないし、この巨大な「ホームページ」は情報の宝庫である。

確かにここの伝言板等に登場するホームページアドレスには時たまアクセスしてみるし、有益なページに辿り着くこともよくある。ヤフーは検索して情報抽出するのにいいし、何か面白そうな情報がないか探すのには夕刊フジや昔のFOCUSのようなページは楽しい。

しかし、いざこういった「検索ページ」や「娯楽紙」ページで、一個人や一企業が攻撃される事態が起きたら、それは非常に恐ろしいことである。ネットという個人がほとんど特定されない「特殊な」媒体で、情報が大増殖するのである。これに立ち向かう事ができるものはどこにもない。ウイルス以上に質が悪いかもしれない。

東芝の今回のケースは、明らかに「東芝に非あり」であるが、どこの企業でも「招かざる客」に苦慮しているのは周知のことであり、たまたま何らかの手違いや誤解で「レッテル」を張ってしまった「東芝の過失」と「会社員の不幸」があったかもしれない。もちろん「東芝の体質」が問題かもしれない。そこには「背景」があることを付け加えたり調べたりするのが、今迄のマスメディアの役割でもあり「責任」であった。

それがどこにも存在しない「ネット社会」。そう、満足な言葉や道具を持たない原始人間の「社会創成期」と同じである。電脳世界の「社会創世」。「アダムとイブ」から始まらない社会が産声をあげ、両足で歩けるようになった状態が現状だろうか。それなら、早く躾を考える時期である。「社会」というものを教えてあげなければいけない。

なぜなら、我々すべてが「人間」として先人であるのだから。我々以外にこのネット社会をコントロールできるものはいないのだから。



8月1日

<宇多田ヒカル>

今更の話題のようで、初のライブ・コンサートが今一番ホットなトピックス。「宇多田ヒカル」の「FIRST LOVE」なるCDを手に入れたのである。これが彼女にとって600万枚台の売り上げなのか、既に700万枚を数えているのかわからない。それでも、CDショップにはまだ「HIKARU」コーナーが常設されており、しかも品薄気味なのである。

CDを買ったのは愛知県内「TSUTAYA」だが、シンガポールの家の近所のCD店を見たら、当然のごとく並べられていた。しかも小室ファミリーやチャゲ飛鳥といったアジア・ミュージックシーンの大所と「肩を並べる」ディスプレーであった。そして何と価格は「18ドル(1200円強)」。日本で買った半額以下なのである。少々後悔。

それでも「中味」はすばらしい。とても16歳の少女の作品・ボイスとは思えない。内容が充実しており隙がない。マライアキャリーとかのベストアルバムを聞いた後でも何の違和感もない。ナチュラルな響きとサウンドは、何回聞いても飽きがこない。よく聞いていないと日本語か英語か分からないところも多いが、トータル的な完成度が抜群に高いと思う。

考えてみれば、日本語でも英語の曲でも「歌詞」を細かく聞いているケースなどほとんどない。「サビ」の部分や繰り返しのフレーズが頭に残るが、歌詞の構成や内容を深く理解している場合など希で、頭にガツガツ・ゴツゴツ突き刺さるより「浸透」してくる曲の方が後々まで繰り返し聞いている気がする。UTADAはまさしく息の長い歌手となる要素を持っている。

アルバムの歌詞カードの最後のページには「HIKARU」が書いたレターが載っている。しゃべるようにすらすら流れる英文には、アメリカンスクールで養ったと思われる「感性」と大人の「片鱗」が伺われる。「音作り」に携わったスタッフ・関係者に謝辞を述べたり、特別一人だけにメッセージを付け加えてから、家族にじっくり感謝するなど、アカデミー賞の授賞式でも聞いている気がしてくるし、「アメリカン」な雰囲気が漂っている。

そんな中でも「Mom, Dad, I guess I'm followin' your footsteps and carryin' on the family business after all.」と言っているのには驚いた。歌手、いや「ミュージシャン」となることが「家業」と意識しているのである。その上、「I know few famillies are lucky enough to have what we have.」とまで付け加えている。きちんと自分の立場や環境をしっかり認識して、自分の足で「一歩」を踏出していることがよくわかる。

しかも、この文面を「日本語」で書いたら冷やかされたり、敵対心を持つマスコミに「揚げ足取り」されるのが落ちである。(もちろん最初から注目を浴びるアルバムになるとは本人も思ってなかっただろうが...)アルバムの中の歌詞を見れば、彼女の日本語に対する感性もハイレベルであることがよくわかるから、多分彼女にとっても日本語より英語で表現する方が「マッチ」する内容なのだろう。

いやーとんでもない逸材が登場したものである。「何百万枚もCDが売れた」と騒がれても、マスコミに躍らされたりイメージ先行していることも多い。それが実力に見合う扱いだったのかどうかは「中古CDショップ」に行けばよくわかる。

大々的なリリースから1ヶ月も経たない内に在庫が山積みになり「値崩れ」が始まっているものもあれば、なかなか入手できないものもある。もちろん「FIRST LOVE」も何件か探してみたが、7月時点で一枚も在庫がなかった。入荷してもすぐ売れるそうである。それだけどんなファン層にも「認められつつ」あるのだろう。将来が楽しみである。



<TOTO>

初めて売り場に並んで買ってしまった。無駄と分かっていても、確率が低くとも、可能性が0でない限り、ついつい小銭を「捨ててしまう」もの。そう、宝くじ。ここシンガポールでは「TOTO」と呼ばれて親しまれている。方法は日本の「ナンバーズ」に近く、1ドル以上50セント単位で買える。

シンガポールに住んで長くなるし、シンガポール人と会話すると5回に1回は話題に上る「国民的ギャンブル」なのに、どうも足が向かわなかったのは、売り場の前の長蛇の列とルールが複雑なこと。

「複雑」と言っても、慣れれば当然明快なルールなのだろうが、「買いたい」と同僚のシンガポール人に言うと、誰でも即座にマークシート方式の用紙を差し出してくる。言われるままにその中の何個所も塗りつぶしていくうちに、だんだん嫌気が差してきて、ついぞ今迄買うまで至らなかった。

今回たまたまある売り場を通りかかったら、全く行列もなかったのでふと窓口のおばちゃんに「どうやって買うの?」と聞いたら、そこの「ゲーム・ガイド」を読むようにと促される。表が英語、裏が中国語のパンフレットを読むと「TOTOゲームへの参加方法」が書かれている。「ゲーム」と称しているのは「ギャンブルじゃない」と強調したいのと、別途「ルール」の詳細があるからと分かってくる。

その参加方法は、自分で「01」から「42」までの番号を6つ選ぶなどして登録する方法と、機械がランダムに選んでくれる方法があるらしい。マークシートに記入するのは、「この番号を含めたい」という時だけで、単純に購入したければ「クイック・ピック」と言って買いたい金額だけ伝えればいいのである。

当選番号の決めかたや、配当の分配方法など木目細やかな説明があるが、要は選んだ番号全部が一致すれば「一等賞金」を参加者数(金額)に応じてもらえ、最低でも30万ドル(約2100万円)が保証されているのである。2等以下はそれぞれその半分以下になっていく。

当選者の該当がないときは、次回持ち越し。その金額が膨れ上がると、数億円単位の当選金となり、売り場には長蛇の列ができることになる。普段でも混んでいる売り場には100名を超える人が並ぶことも珍しくない。掛け金も、多ければ多いほど「確率」が高くなるような「ゲーム設定」になっているので、職場や親族でお金を集めて買うシンガポール人も多い。

例えば、結婚式に呼ばれた席で、その日付や新郎新婦の誕生日、年齢等々なんでも材料にして数字を選んで「共同購入」するのである。シンガポール人(中国人?)らしいのは、交通事故にあった車のナンバープレートでも「この番号でTOTOを購入しよう」という発想になること。吉凶関係なし。印象に残った番号なら何でもいいのである。

気合を入れて購入して外れる人あり、偶然買って大当たりする人ありなのはいづこも同じ。先日の「大型当選金」の当選者は、スリランカからの出稼ぎ労働者だったということで話題になっていた。過酷な肉体労働にも関わらず日当数十ドル(数千円)で働いていた彼が、窓口で「クイック・ピック」1ドルを購入し、その数日後には億万長者になっていたのである。

「彼には誰かお金の使い方を教える人が必要よ。何なら私が教えてあげる。もちろん顧問料は取るわよ。」「それだけの当選金があれば、私なら...」と、またシンガポール人の格好の話題ネタとなる。「夢と金」、シンガポール人ならずとも一度は手にしたくなるものである。「TOTO」にはその両方がある。もちろん多少の「寄付」は必要だが...。











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