シンガポール滞在日誌

毎週日曜日更新 (SINCE 30 MARCH 1997)


11月2日

<日韓対抗>

それはソウル・オリンピックスタジアムでもなく、神宮の国立競技場でもなく、マレーシアで繰り広げられた国際的スポーツ「の」イベント。ほとんど知る人がない「日韓対抗戦」が、「1998年ワールドカップサッカー最終予選・日本対韓国」の同日生放送「裏番組」として取り上げられることも「なく」、静かに繰り広げられていた。

国際ルールに乗取って「第三国」からの審判員は、二人のマレーシア人青年。赤色のつなぎを着てなぜかカートを押している。「審判員」にしては気さくな感じで、「キャディー」とか言って呼び付ける韓国人サイドのメンバーのいう事をすんなり受け入れている。顔なじみらしく、試合前からちょっとアンフェアな予感がする。

そもそもメンバーが3対1。40代半ばの韓国人3人に日本代表(?)は自分一人である。「カムサムニダ...」「ホーイチョレー...」などとわけのわからぬ言葉が飛び交う横で、「審判員」までもが「マレー語」でごそごそしゃべっている。ところが、突然頭に「こんなこと話しているんじゃないかなー」と浮かんできて「俺の言語能力も進化したものだなー」と関心していると、何のことはない、中の一人が「英語」で語り掛けてきただけである。

まあ、こんな状況はシングリッシュで「慣らされている」から一向に気にならないが、もう一つの「ハンディー」は朝から気を重くしている。「相手」は全員アベレージ90台前半で、こちらは 100を切ったことがない(偉そうに言うな!)。そうその通り。日韓対抗ゴルフのティーオフである。

もちろん「先制攻撃」は仕掛けてある、「皆さんよろしくご指導下さい」と。ついでに日本にいた時は年1、2回とはいえ5年以上やっていながら「ビギナーです」とまで宣伝しておいた。これくらい言っておけばいいだろうと思いながらも、「ご謙遜を...」という笑顔で流されているのが、ちと気にかかる。

一発め。どんなに上手な人でも「朝一」から「かっ飛ばせる」人は少ないので、なんとなく、なんとなく...。でも3ホールも回れば「馬脚」が現れる。OB、池ポチャなんでもありの展開に、対抗パートナー達は「最悪シナリオ」との表情ありあり。だから言ったでしょ!

でも、流れは6ホール目に変わった。急に態度が「ビギナー扱い」になったのは致し方ないとしても、前のホールのティーショットOB打ち直しにも「ああまだ打つの?ボールもったいないから止めたら?」との表情に、さすがに「ムカッ」ときていた。こうなりゃ「ゴルフの借りはゴルフで反す」との闘志を燃え上がらせて、4番目のティーショットに臨んだのである。

結果はミドルホール2オン2パットのパー。もちろん「ビギナーズラックだよ」と口では言いながら今日初めてのオナーとなり、「韓国人のおやじに舐められるほど落ちぶれてはいないぜ」とますます集中力が高まってくる。その後も確実にフェアウエーでオーバードライブして他と大差ないスコアーにまとめ出すと、「なんだ、期待した以上にうまいじゃない」と素直なお言葉。

ここで気を抜いては元も子も無い。9番ホールから先はOB三発分(いつもながらOUT・IN合計7発はやっぱり多すぎる)を除けばパーとボギーですべてまとめ、後半ハーフ40台。前半から10打の改善である。もちろん飛距離では「おじさん」には負けない。4番アイアンでオーバードライブ(?)してやった時には頭を抱えていた。

終わってみれば実力の差がスコアーに現れているものの、十分「日本男児」をアピールできたと思う。その証拠にこんな「下手くそゴルファー」を捕まえて「次回も是非とも同じメンバーでやろう」と繰り返し言ってくれる。もちろんOUTの前半とは明らかに違う表情である。

仕事上で知り合った仲(つまりディーラー仲間)とはいえ、こうやって「親善対抗」ができるのは有意義である。しかも、マレーシアからの列車で降り立ったシンガポールの駅で「日本が韓国を2−0で下した」ことをケーブルテレビで観戦していた家族から電話で聞き出して教えてくれた。「2002年の日韓共同開催の前に一緒にフランスに行けるといいね」との言葉を添えて...。



<ディーパバリ>

シンガポールにはいったい幾つの正月があるのだろうか。今年の1月1日に「あなたの正月」おめでとう、とローカルスタッフに言われた言葉が今も頭の片隅に残っている。チャイニーズニューイヤー(いわゆる旧正月)があり、「ハリラヤ」と呼ばれる断食明のマレーシア新年がある。そしてこの「ディーパバリ」。3番目のシンガポーリアン勢力である「インド人」の正月である。

今年に限らず「太陰暦」でカウントされる「正月」はよく変更される。月の満ち欠けを正確に計算し直したりしていると一日二日は「誤差」らしい。今回のディーパバリはどのカレンダーにも10月31日の金曜日が「その日」と印されていたのだが、今年の2月に「30日の木曜日」らしいと騒がれだし、9月に入ってようやく正式な通達が政府から発表された模様である。

なぜ「騒ぎ」かと言えば、数少ないシンガポールの祝日でも土日の休みとつながる「金曜日」が当初予定されていた「貴重な日」であり、インド人やマレーシア人の中には「帰省」するつもりで電車や飛行機の予約をしていた人が多かったからである。

しかも「木曜日」に変更されたら「学校」も休みでなくなる。地元の小中学校では丁度テストシーズンらしく、親が会社を休んでも子供を休ませるわけにはいかず、結局苦労して年初に押えた「金曜日」の予約をキャンセルせざるを得なかったみたいである。木曜日に「ふて寝」を決め込んだシンガポーリアンがうじゃうじゃいたとか、いないとか。

ところでその肝心の「ディーパバリ」であるが、いわゆる「インド人街」と呼ばれる一角で「盛大な飾り付け(?)」とともに祝われている。夜もその一角にある「通り」を覆うようにライトアップがほどこされ、どこからともなく集まったインド人が老若男女入り乱れて車道まで人が溢れている。

ただ休みの当日はどこのお店もほとんど「お休み」らしい。休日に働く発想はインド人にはない。「お祭り」も例外ではないということであろうか。周りにインド人がほとんどいないのでいろいろなことを確かめられないが、それは中国系やマレー系のシンガポール人にも共通しているみたいである。「インド人」のことはあまり知ろうともしない気がする。

インドネシアでは未だに「カースト制度」が生きずいているが、もちろん「インド」も同じ。同一国民同士で差別し合う民族は、国際社会でも「差別」されやすいのかもしれない。少なくとも「自由と平等」の盟主アメリカが世界中に影響力を見せ付けている間は。「ディーパバリ」はシンガポール最初の「新年」なのにどことなく「冷めた祝日」である。



10月26日

<屋台飯>

シンガポール食生活の行き着く先はやはり「ホーカーズ・センター」つまり「屋台村」である。庶民の胃袋を支え、明日への活力を生み出す場所でもある。 もともと中国人はあまり「生(なま)物」を好まないから、衛生上どうしても「火がよく通ったもの」に偏ってしまう「屋台」でも、一向に気にならないのも幸いしている。

代表的なメニューをざーっと思い浮かべると、麺類系・ぶっ掛け飯系、お好み焼き系、そして、おかゆ系にチャーハン系があげられる。「おかゆ」のドライ版が「チャーハン」だとすれば、それぞれに「ドライ」と「ウエット」の選択がある。

麺類は「スープ」に麺を浮かべる普通のラーメンタイプもあるが、「ドライ」と称して「スープ」を別の器に盛り付けてくれるパターンもある。日本でいう「冷麺」の感覚だが、別段冷やしているわけでもなく、どちらかと言えば「熱い汁」で「汗を大量に掻く」のを防ぐための「生活の知恵」的食べ方である。

「ぶっ掛け飯系」は「カレー」が「ウエット」の代表なら、チキンライスやご飯のまわりにいろいろな惣菜を選んでのせるバナナリーフなどが「ドライ」に分類できる。「お好み焼き」も「キャロットアップル」と呼ばれる「大根お好み焼き」が「ドライ」で、名前はよく知らないがとにかくいろいろな物をぶち込んで卵でとじる「ウエット」なものもある。

その他にも、「焼き鳥」に似た「サテー」がドライなら、「バクテイ」と呼ばれる豚肉の煮込み料理はウエットと、似たような素材でも「焼く」か「煮込む」かで全然印象が違う。味付けも「店」によって当然違うが、日々庶民の舌に試されているせいか「こなれた」「飽きの来ない」ものが多い。つまり、主婦(おふくろ)の味である。

どうしても「油っぽい」ものが多いと嘆く人には、フイッシュボールの愛称で知られるうす味スープに魚介類を煮込んだものを、白飯と一緒に食べるとすっきり喉を通る。肉類を避けたい人は「ベジタリアン」の店も所々にある。ただ、生物はフルーツとジュース、そして生ビール(?)以外全くといっていいほど見かけない。仮にあっても食べる勇気はない...??

欧米にはない食生活の魅力がアジアの「屋台」。この先アジアを旅する機会があれば、「衛生状態」が許す限りどこでもトライしてみたい。そこに「生活」があるのだから。



<通行区分>

エスカレーターの上りと下りは左右どちらにあるか。地下鉄の進行方向はホームから見て左右どちらか?

普段何気なく乗っていて日本人に違和感がないのが、車の車線と同じ「左側通行」のはず。日本ではよほどのことがない限り守られているこの原則が、きっちりした計画都市のはずのシンガポールでは結構「ちぐはぐ」である。ボーっとエスカレーターを乗り継いでいると、突然逆に設置されていて転びそうになったりする。

その反対に、歩道はほとんど片側しか人々の往来がないケースもよく見かける。道路のほとんどが一方通行であることの影響で、横断歩道が片側の歩道のみ設置されていることが多く、まっすぐ目的地にたどり着けないサイドがあるからである。そういった歩道に面した店もそのことを心得ているらしく、反対側は所狭しと行き交う人々で溢れているのに、道を挟んだ反対側ではゆうゆうとテーブルや椅子を歩道まで並べて屋台経営していたりする。

交差点にしてもイギリス式とも言える「サーカス」を採用しているところがある。イメージ的には首都高速環状線のミニチュア版で、4〜5つの方向から「時計周り」にその「サーカス」に合流し、円を描いて車を走らせ、どこの方向に抜けても構わないという方式である。交通量が多い時には信号が稼動している場合もあるが、ほとんどの時間帯はいつでもそのサーカスに進入可能で、サーカス内の車が途切れるのを待って飛び込もうと待ち構えている車がサーカス近辺でエンジンを蒸かしている。

もちろん、そんな「交差点」にまともな「横断歩道」など期待できるはずもなく、ほとんど「歩行者無視」の状態である。ただ面白いのは、そのサーカス内に限らず普通の道でも中央の車線を走る車が圧倒的に多くて、ちょっと左右に分かれればスムーズに行けるのにそれをしない車がほとんどなことである。日本みたいに「右折車線」や「左折車」で流れが止まる可能性がほとんど無いのにもかかわらずその傾向が強い。

ところがこれが地下鉄やバスの乗降になると、全く事情が変わる。「整列乗車」など掛け声ばかりで「降りる人が途切れる前」に乗り込む人が出入り口に殺到する。しかも、座席確保を目的としている人ばかりでなく、はたまた日本の通勤電車みたいに慌てないと「積み残される」心配があるわけでもない。要は「降りる人」のことなどちっとも構っていないのである。

地下鉄では乗降をスムーズにするために「立ち入り禁止エリア」を指定していたが、だれも従う人がないので「消される」始末。その代わりに描かれた「整列乗車待機用」ラインも、そこに立つのは日本人ぐらいである。そこら中に「罰金条項」が記載されていても、さすがに「整列乗車」まで取り締まる分けにいかないらしい。

何かとルールにうるさいシンガポール政府。こういった「通行区分」には庶民にも「自由裁量」を認めてあげているのだとすれば、このまま「そーっと」しておくのがいいかもしれない。人間「ちょっとした息抜き」の場も必要である。



10月19日

<エリート>

「エリート」という響きには複雑なものがある。人によって「心地よく」もあり、人によっては「虫ず」が走ることもあろう。いずれにせよ、優越感や劣等感を煽る言葉なので、普段の日常生活にはあまり登場しない。でも、どんな社会にも「エリート」は存在し、その意識が社会組織にうまく織り込まれていれば、有能な人材を「最大限生かす」方法として有効なはずである。

日本のお役人には登竜門の段階でいくつもの序列ができており、そういった制度により世界的にも有名な「官僚組織」が存在する。バブル時代には「強い日本」が誕生した理由の一つに「優秀な官僚」が常に取り上げられ、「日本の政治家は三流でも、官僚が一流」だから大丈夫という風潮があった。

もちろん今は、政治家三流・官僚二流程度まで評価は落ちているが、ここシンガポールの官僚たちの評価は依然として高い。もともとこの国の「建国の父」ともいえるリー上級相が日本をモデルにシンガポールを導いていた面があり、官僚にも優秀な人物が集まる制度が作ってある。

例えば、公務員の給料は民間よりもはるかに高い。特に「特別公務員」である首相をはじめとする閣僚の給料はこの前の国会でも議論された程高い。ちなみに新聞に載っていたゴー首相の所得は、アメリカ大統領やイギリス・日本の首相の3倍以上で、年収1億円以上。そこから始まる官僚の給与体系は「言わずもがな」らしい。

しかも、国会で批判された時の答弁では「それに見合う仕事をしているのにどこがおかしい」という内容。近隣諸国が通貨危機に見まわれている時に、シンガポールだけ安定していられるのは「有能な官僚」のおかげであり、その人々にGDPの0.01%にも満たない金額を給与支給しているに過ぎないのに、感謝こそされ批判されるのは全くのお門違い、とまで言い切っている。

まあ、自信があるからここまで言えるのだろうし、確かに今のところよく「統治」している。そのことはシンガポリアンもよく知っていて、政府関係者が一番、次に政府系の銀行や会社、その次は欧米の外資系といったところが「金銭面の憧れ」の職業らしい。聞くところによると、国民のほとんどが所有しているHDB(政府分譲住宅)の購入に関しても政府関係者には特典があり、どの分譲でも優先的に「40%引き」で購入できるらしい。しかも、一般には認められていない「複数所有」や「賃貸し」までできると言う。

もっともHDBの貸し出しは「一部屋を自分の使用とし、他の部屋を賃貸しする」場合に限り一般人にも認められている。しかし、このところのミニバブルで値段が上がり、3〜4千万円ぐらいする家を普通のシンガポーリアンが「複数」所有出来るはずもなく、政府関係者と民間人で「資産格差」が生まれ、それが官僚を目指す「インセンティブ」になるのもうなずける。

思えば日本の官僚も「安定した生活」を保証され、都心の一等地に「官舎」が用意されている。ただ時代と共に「民間大企業よりは低い給料」と「立地はよくても老朽化した官舎」に「魅力」があせ、上級官僚ほど「接待」と言う名の「賄賂」にどっぷり漬かるだけの「搾取」集団に落ちぶれてきている。一部の「志ある者」ですら、「行革」による「揺さ振り」で地に足が付かない状況である。

「エリート集団」がこんな姿に陥ったのはなぜか。それは「エリート」が生かされていないからである。民間より「劣った待遇」で「官僚組織」に「エリート」を向かいいれようとすること自体、今の時代では間違っているのである。社会資本がかなり整った国には「官僚」が「増殖」する余地はなく、「増殖本能」を失った組織には「腐敗」がつきまとう。そんな中に「エリート」を生かせる場所などどこにもない。それならいっそうのこと「エリート不要」の組織にすればよい。

つまり、一種二種などと区分せずに官僚を採用するようにすれば、組織ももっと活性化するだろうし、「エリート」は自らのアイデンティテー確保の為に民間のどこかでその才能を見せ付けるだろう。「エリート」を既存の枠に閉じ込めておく必要があるのは、シンガポールのような「開発途上国」のケースであり、日本の民間には既にどこでも「受け皿」がある。こんな時代だからこそ「真のエリート」に思う存分活躍してもらい、夢や希望を与えて欲しいものである。



<謀反ノ勧メ?>

話は少々「下世話」になるが、世の中に「残業代がほとんど付かない」とか「有給休暇をほとんど取れない」といった「会社への不満」を持っている人はけっこう多いと思う。特に「右肩上がり」の給料でなくなってきて以来、会社の待遇が悪くなっても「自分の権利」は十分に認められないとの思いを強くしている人も多いのではないか?

ところがそうは思えど「言い出せない」。なぜならこの不景気で自分が休めば、ただでさえ人手が減っているから周りに迷惑がかかる。それを押してまで休む「理由」もない。休めば家族サービスや外出で出費が増えかえって自分の懐が「寒くなる」。うーん、実に「暗い」連想である。

もちろん日本は世界でも指折りの「祝日」大国であることを忘れてはならない。今年こそ「香港」が「返還」の関連で一番祝日の多い地域になったが、先進国のみならずこれほど「公休」が多い国はめずらしい。祝日の少ないシンガポールとは10日近く違いがある。だから、労働日数で見れば仮に有給休暇を消化しなくてもそれほど多くないはずである。もちろんデパートなどの「休日サービス業」は反比例しているのだろうが...

しかし、シンガポールでローカル職員と向き合うと有給休暇を消化しないことが「バカらしく」思えてくる。単純にカルチャーが違うと言われればそれまでだが、彼らにとって有給休暇を無駄にすることは、振り込まれた給料の一部を会社に戻すような感覚みたいである。もちろん「休暇」以外の福利厚生面も同様である。

では、なぜ自分が入社以来「有給休暇」を数多く無駄に放棄してきたのであろうか。そう考えても「すっきりした回答」が浮かばない。多分周りが「しっかり消化する」人たちばかりなら、自然とそうしていただろう。しかし、現実には年間10日以上「無駄」にしている。

仮に、従業員1万人の企業で平均10日の有給休暇が消化されなければ、「10万人日」分の「労働力」が会社に与えられることになる。土日と祝日を除いた「平均労働実数」を250日と考えると、実に400人の労働力に相当する。つまり、全従業員が有給休暇を完全取得すると4%(400人/10,000人)の「無償」労働力が失われることになるのである。

例えば「深夜労働」や「休日出勤」に特別手当てが付くという発想で考えれば、「責務を全うするために」必要に迫られて有給休暇が取得できない場合、給与が4%上乗せされてもいいはずである。1日当たり幾らで会社が買い取る、というのも考え方かもしれない。もっと突き詰めれば、年棒交渉する際に「必要な日数」を考慮して給与決定するのも方法である。

まあ、そこまで考え出すと「組合」の「お仕事」を侵食しそうなので「ほどほど」にしたいが、日本人全般に言えるのが「会社に遠慮しすぎ」な態度である。しかもその「会社」の顔がよく見えない。このところ連日の様に「検察のお世話」になっている一部の金融機関のトップみたいな人たちが「会社」なら、何の為に「自己犠牲」する必要があるのであろうか。

「権利を主張する」分「責任を持った仕事」をする。それだけのことをすれば、従業員の「精神衛生」もよくなるし、もっと日本の会社も「透明」な経営ができると思う。「権利と責任」がクリアーであることが、国際社会で通用する企業の「標準」であるのなら、「権利」を曖昧にするかわりに「責任」も曖昧にする「日本式」を早く克服した企業がいち早く「脱皮」できるのではなかろうか。それにはまず「権利」を「正当に」主張するのも一つの方法であると思うのだが...



10月12日

<Baby Shower>

新生児誕生を祝う気持ちは世の東西を問わず同じだが、その「祝い方」は結構違いがある。ここシンガポールでは「ベイビーシャワー」と銘打って親族のみならず、友人や会社の同僚を招待して「赤ちゃんお披露目パーティー」を行うのが一般的である。

今回招待されたパーティーは「ホテルニューオータニ」を会場として開催。パーティーというと日本人感覚では「パーティードレス」とまではいかなくとも正装で集うイメージがあるが、そこら辺はシンガポーリアン感覚。いたってラフである。ほとんどの参加者がTシャツにジーパン、主催者自らジーパン姿だからそれが当たり前みたいである。

そもそも服装をどうするか尋ねたら、「普段ホテルのレストランとかで食事するような服装でいいよ」と言われて「ジーパン」。近所の食事にはどんなかっこで出歩いているか「言わずもがな」である。しかも60人も招待したと言うから当然一室借りていると思ったら「バイキングコーナーの一角」。確かに合理的ではある。

ただ、困ったことはどこからどこまでが「招待者」かわからないこと。見慣れた顔ならともかく、主催者と挨拶を交わしプレゼントや「アンパン(=祝金)」を渡したらバラバラに着席するので、いつから始まり終わるのかもよく分からない。予定時間を過ぎて集まっても、会の途中で帰っても一向に構わない。もちろん主催者の性格にもよりけりだろうが、数人のシンガポーリアンに聞いたら「極めて一般的なスタイル」とのこと。やはり「国民性」である。ネバーマインド。

さて今回の主役である「女の子」は一ヶ月程前に3500グラムぐらいの健康体でこの世にデビュー。日本の基準では2500〜4000グラムは正常で、2500以下が「未熟児」、4000以上を「巨大児」と呼ぶそうである。もちろん1000グラム以下で生まれても生命を維持できる技術が世の中存在するし、どれだけ大きく生まれようとも「母体」が少し大変なだけである。親にとっては健康に生まれてくればそれだけで十分である。

ついでに言えば「主役の両親」は30代半ばのシンガポーリアン。文明が進化したり平均学歴が高くなると結婚・出産が遅くなるもので、この年齢で初めて親になるのも「シンガポール標準(?)」となりつつあるみたいである。日本でも女性が結婚を意識する年齢が「クリスマス」から「大晦日」ときて「シングルレディー」なんて言葉も一般的になってきた。男も30歳を意識する人が特にその親に多いが、このごろは年齢はともかく「見た目」が若ければOKという女性も多いと聞く。今回のパーティー参加者でも「主役の両親」より年上の独身者が男女ともごろごろしていた。

そう考えると、パーティーの「主役ちゃん」はシンガポールの「ごく一般的な家庭」に幸せをもたらし、両親も「自然体」で世間にお披露目したわけである。両おばあちゃんの「とろける」表情がなんとも微笑ましく、とにかく「おめでたい」話。すくすく育って欲しいものである。



<政治判断>

日本の将来の事を本当に考えている政治家や官僚がいるのか、と常に疑問を抱かせる日本の政治。シンガポールに住んでいても、伝わるニュースは暗く後ろ向きで否定的な内容ばかり。この時期日本国外に脱出していてよかったと思うことしきりである。

仕事柄ニュースをよく見るのだが、どうしても附に落ちないことがある。政治や財政の話はよくは知らないが、単純に考えて「なぜODA(政府開発援助)を日本は中止できないのか」という点である。「聖域は設けない」との掛け声のもと、多少は削減する方向で考えているみたいだが、それでは甘すぎる。ODAを一時全面凍結し、その分を所得税減税すべきである。なんか政治声明みたいだが、こんな時代だからこそ政治家、特に上に立つ「首相」が、そう宣言すべきである。

もちろん、ODAの予算のもと、海外でそれこそ「技術指導」などを通し「草の根」的な活動をしている日本人がたくさんいるだろうし、どうしても続けなければいけない援助もあるだろう。でも、そんなことを言い出したら何もできないのである。常識的な判断でできることは、一部の官僚や多くの民間人が努力して日々行っているのである。それでもここまで行き詰まってしまった日本の経済に、再び輝きを取り戻させることができるのは政治判断による「ショック療法」しかないのである。

その宣言は、例えば国会の場で世界に向け行うべきである。その目的は、直接的には「所得税減税」の財源確保であるが、間接的には日本の「ばらまき援助」を見直す絶好のチャンスだからである。日本の景気が悪い事は、今や世界的な「認知」事項である。その国が自国の活力復活のために、一時的に「国内」それも「国民」に直接「支援」を行うと宣言して、真っ向から反対できる国があるのであろうか。

「国際公約」を持ち出す国があれば「モラトリアム宣言」であり、景気回復した折りにはもちろん再開すると説明すればいい。あれほど景気がいいとサミットやG7で自慢していながら「国連拠出金」の支払いを中断しているアメリカに、道義的責任を問われるいわれはない。直接支援に関係しない各先進国は、口では批判しても具体的な抗議行動をとるとは思えない。もちろん被援助国からは不満が噴出するが、そんなの「誰の金と思っているんだ!」の一言で解決する。

少々過激かもしれないが、そういう判断や行動が国際活動で「金はだしても口は出さない」日本のイメージを払拭する方法なのである。ここシンガポールも、この周辺国も日本から援助を受けていただろうし未だに援助を受けている国もあるはずである。なのに、そのことを感謝する人はおろか知っている人すら、こちらの国で出会ったことがない。なんで「足ながおじさん」みたいに「顔」のない援助を続ける必要があるのであろうか。

先日のガルーダ航空機の事故で亡くなられた邦人の中にも、海外協力活動の為に乗り合わせていた方がいたみたいだが、そのことに関心を寄せその「貴重な生命」に対し「感謝と哀悼の意」を表した被援助国の人がいたとは全く聞かない。

あるいは少し前、小泉厚生大臣が外遊でアフリカのある国に出向き、そこの大統領と会う予定をすっぽかされたことに腹を立て「そんな国への援助は凍結すべきだ」と発言したそうだが、その通りなのである。一国を代表して訪問した「要人」に対し「非礼」をしたらどうなるか、当然知らしめてやるべきなのである。それを「大人げない」と冷笑を向けるのは簡単だが、実はそのことは自分自身を知らぬ間に「国際的お人よし」にしているだけなのである。犬や猫ですら「えさ」をくれる人を覚えているのに「それ以下」の行動と批判して当たり前である。

つまり、今は「価値あるところにお金を使う」為に「内容を徹底的に見直し」、同時に「援助大国日本」を強烈に再認識させるチャンスなのである。しかも大型減税があれば国民も喜ぶ。そんな「政治判断」があってもいいと思う



10月5日

<マッサージ>

あーそこそこ、あーもう少し強く、んー気持ちいー、もうちょっとやってよ。

シンガポールはマッサージ天国。街のあちこちからこんな声が聞こえてきそうである。観光客はもとより地元住民にも愛好されているが、いずれにせよ日本人の割合が多いらしく利用した日本人に寄せ書きしてもらったポスターが窓一面に張りつけてある店も多い。

昨年あたりから東京でもちょっとしたマッサージ・ブームが起きていたが、急速に店舗を増やしていた「こりとれーる」といった店は、どちらかというと女性を対象に肩や首筋を15分〜45分揉むのが主流であった。でも、日本のマッサージの王道は、服を着替え、サウナの合間などに全身をゆっくり揉んでもらうパターンである。

ところがここシンガポールの主流は「フットマッサージ」。足の裏を30分ほど「ぐいぐい」やられる。初めての人や内臓などに疾患がある人は飛び跳ねるくらい痛がっているが、常連や健康体の人は気持ちよさそうにうとうとしている。歩き疲れた旅行者や買い物客でも、男女問わず気軽にやってもらえるのがいい点だが、デスクワークやOA機器の使い過ぎで肩や首を重点に揉んでもらいたい人にはほとんど意味をなさない。

そんな人にお勧めのが「タイ式マッサージ」。1〜2時間かけてヨガみたいなポーズを取らされながら全身を揉みくしゃにされる。ここでも黙っていると足や足の裏中心となってしまうので、はじめにどこを重点にやって欲しいとリクエストして時間配分してもらうのがいい。

どうしてこうも足の裏にアクセントを置いた店が多いのかわからないが、いろいろなツボや神経が集中しているという点では合理的である。足の裏に限らず「痛い」のがいやな人には日本式がいいのだが、サウナとか組み合わさったパターンはほとんど見かけない。まあ、あったとしても「熱い風呂」や「ジャグジー風呂」といった日本人に「気の利いたもの」は期待できないし、どこでも日本式を求め歩くのも考えものである。

値段は内容によりけりだろうが、やっぱりシンガポールの方が安い。日本は1分100円ぐらいが「通り相場」だったが、ここではだいたいその三分の二ぐらい。安いところを探せば半値以下でじっくりやってくれるところもある。もちろん、観光客の目に止まり易いところや見た目がきれいなところは高い。「地球の歩き方」とかに紹介されている店に最初は行ってみたが、人気が出るとサービスが落ちるのは世の常である。

暑い国にいるとそれだけでも「夏ばて」状態になる。こんなにいろいろ試してみたくなるのは「年のせい」かななどと思いつつも、やっぱり止められまへん。



<タクシー予約>

都心部に住んでいる限り、自家用車がなくてもあまり不便を感じないシンガポール。その便利さの中心的役割を果たしているのが「タクシー」。普段は街中「うじゃうじゃ」走っている印象を持つが、長らく利用していると突然「捕まらない」時間帯があるのに気づく。

もともと利用者が多いと思われる時間には「ピークアワー料金」が設定されており、その時間帯に利用すると100円前後余分に要求される。市内にある「車両流入制限地域」に入ると、タクシーによってはその料金を取られるし、今度その料金徴収が「センサー化」されるとタクシーメーターに自動加算されるされるみたい。日本で言うと高速料金を自動的にメーター加算されるイメージである。

通行料はともかく、ピーク料金は余分な出費で「利用者を制限しよう」というより、タクシー運転手にインセンティブを与えている意味合いが強い。道路が混雑している時間帯など誰も運転したくないし、渋滞で客効率が落ちるのも目に見えている。そんな中でもタクシーを利用したい人が多い時間帯にタクシー稼働率を高めるために公定の「チップ」を与えるような感覚である。

日本でも「深夜割増し」制度があり確か3割増しとなるが、こちらは5割増し。もともとの料金体系が安いので「目が飛び出るような思い」をする可能性はないが、料金感覚がこちらに慣れてきているので、えー?と思うこともある。逆に言えばこちらのタクシーの深夜労働は、すごく魅力的に写るはずである。

それと忘れていかないのが「迎車」制度。「初乗り料金」のほぼ同額を払えば、電話で予約した場所までタクシーが来てくれる。タクシー会社が「衛星システム」を駆使して随時「空車状況」を把握し、一番近いところを走っている車を見つけてくれるので、ほとんど待たなくて済む。予約時にプレートナンバーを教えてくれるのでどこでも確実に見つけれるのも安心である。

それでは、タクシーが「捕まらない」時間とは「いつ」なのであろうか。

答えはインセンティブ料金がある時間の「直前30分間」である。ピーク料金が取れる時間帯や深夜割増しが始まる深夜12時の前の時間がそれにあたる。ドライバーたちはその時間に向けて腹ごしらえでもしているのであろう。「空車」で走らせているくせに、場合によっては乗車拒否されることまである。

ところがこのごろは、もうひとつ「雨やイベントでタクシースタンドが混んでいる時」もそれに当てはまるようになってきた。もともと雨が降り出すとすぐにタクシーを拾って帰宅する人が多いのでタクシーが急にいなくなるのだが、どうもそれだけではないみたいなのである。

その原因は「一ドルコイン予約機」の登場である。メジャーなタクシースタンドの横や公衆電話に並べて「タクシー予約専用の電話機」が設置されだし、その予約を期待してタクシースタンドに直行しないタクシーが増えたみたいなのである。

「予約電話」の利用方法はいたって簡単。1ドルコインをその電話機に投入すれば、自動的に配車確認をして「タクシー番号」と「予想待ち時間」をプリントアウトしてくれる。あとはその用紙を持って記載されたタクシーを待つだけ。なかなか来ないタクシーを、スタンドで待ち続ける長い列を尻目に、5分もしないでタクシーに乗れる。もちろんタクシー運転手はそのままスタンドに横付けするより余分に「迎車」料金を取れるという寸法である。

この制度「知ると知らぬ」では雲泥の差。下手するとタクシーに乗るまでに1時間ぐらいの差がつく。たかだか300円ぐらいの違いでこの差は大きい。でも、この予約機に「行列」ができる日も近い気がする。



9月28日

<お誕生日会>

お国によっていろいろ文化・風習が違うのは当たり前だが、中でも冠婚葬祭は地元の人に聞かないとわからない典型である。特に「冠婚葬祭」に呼ばれたり関わったりする「関係」は、ある程度親密でお互いを知る仲にならないと起きないので、相手に失礼が無いようにと心がければ尚の事である。

そんな中でも「お誕生日会」というのが意外と重要な位置を占めてきた気がする。どこの国でも、結婚式やお葬式はある意味で「定型化」されたものになりつつあり、呼ぶにしても呼ばれるにしてもある程度予測できるし理解してもらえる。でも、たかが自分の子供のお誕生日と言えども、経済発展が進んだ国はどこも子供が少なくなり、親が「お誕生日会」に力を入れだした分、事情が複雑に絡んでくるからである。

シンガポールにはいろいろな人種が同居しており、各人の宗教・風習・文化から経済事情まで様々である。いざ自分の子供が突然ある友達の「お誕生日会」に呼ばれても、子供は「その子」のことをよくわかっていないケースがほとんどである。もともと「お誕生日会」をやる年齢はせいぜい小学校低学年ぐらいまで。当然親が同伴したり、少なくともプレゼントの用意などをしなければならない。

それなのに、例えば「その子」はどこの国の出身で、他にどんな子供を招待してどういう会にしたいと思っているのか、子供の口から聞き出すのは至難である。あまり親しくもないのに「同じクラス」ということで呼ばれた場合など男女どちらなのかもわからないこともあるし、名前から推測出来ないこともしばしばである。

「子供のことだから子供に任せてしまおう」と思っても、連れて行った会場で自分の子供だけ浮いてしまうのも考えものである。例えば「日本の文化」を意識して「浴衣」をパーティードレスとして着せるとかしても、注目を集めすぎて主役の座を奪うのはまずいし、周りと違いすぎるプレゼントを渡たすのもよくない。

招待する立場でも気をつかう。牛肉や豚肉を食べない宗教の家の子供に、それが含まれた食べ物を出してしまう可能性もある。招待する子供も多ければ大変だし、絞り込み過ぎても差別するみたいで難しいのはどんなパーティーでも同じだが、ある国の子供だけ呼ばないというのには違った問題が生じる可能性がある。「韓国の人はこういうパーティーにほとんど参加しないのよね」とアメリカ人に言われると、個人の問題ではなくなってくる。

シンガポール人のお誕生日会は例年すごくなっているみたいである。もともと中国人は子供を大切にするが、自分の子供の誕生日に学校へケーキとプレゼントを持たせてクラスメートに配らせたり、子供用スポーツジムを借り切って友達を招待したりする。日本でも子供のことに熱を入れすぎる親が増えてきたが、いづこも同じ感じがする。

「子供自身の問題」でも「子供だけの問題」ではない「お誕生日会」。小さな小さな外交の場がここにもある。



<日本人の誇り>

本というのは「ありがたい」ものである。時に、漠然としか思い巡らせていなかったことを明確な言葉に置き換えてくれる。福田和也著「なぜ日本人はかくも幼稚になったか」を読み、ある種気分の高揚を感じた。

「プライド」と「誇り」は違うもの、「戦争は悪だ」と言う前に「戦争は嫌だ」という議論が無い、「国民」より「国家」が大切、他人の価値観との衝突を恐れてはならない、愛国心なきところに倫理なし、等々。今まで自分が経験してきたことを通して、感じたり考えたことがすごく明確に言葉にされている。

日本人が海外で生活する時、日本人であることに「プライド」を持つ人は多いと思うが、「誇り」を感じる場面は少ない気がする。なぜなら「誇り」を抱く対象がはっきりしていないからである。日本人であることに「誇り」を持ち、「愛国心」をもつ日本人がどれだけいるか、はなはだ疑問である。

個人的な感覚として、「プライド」が高い人間とは付き合いたくないが、「誇り高い」人とは是非ともお近づきになりたい。「プライド」は相手を差別し、その人の視野を狭くする。付き合ったところで聞きたくも無い「家柄」や「経歴」・「学歴」などを自慢されるのが落ちである。もちろんある程度の「プライド」はあった方がいい。その場合どちらかというと「自尊心」という言葉の方が馴染むと思う。

でも「誇り高い」人は違う。見習うべき点が多いし、第一そういう付き合いを持てる事自体「誇り」を感じることができる。「誇り」には普遍性があり、その人の行動や考え方に深く根差したものでもある。しかもその行動に対する責任もわきまえている。

そう考えると国際舞台で「日本人」には「友達」ができにくいのは当たり前である。やたらと「お金」があることに「プライド」があるくせに自分の国に「誇り」さえ満足に抱けない。「愛国心をもたない」ということと「自己否定する」ということは同意語である。どこに「価値観の根元」があるのかわからなくなるし、そういう相手は不気味なはずである。

もっと身近な話では、家族の中の両親の役割でも感じることである。個人的に「お金」を稼いでくる「主人」は偉いと思っているし、「主人」は家族を養う事に「誇り」を抱くべきである。口座振替で給料をもらう家庭が増えて「誰がお金を稼いだか」が明確に感じられならなくなり、自然に振り込まれるものと勘違いする「家族」も多いみたいだが、それは間違えである。これが野原を駆け巡り射止めてきた「獲物」だったら、だれもが「主人」の役割を称え感謝するはずである。形が変わっても役割は同じである。

それと同様においしい食事を用意する「主婦」も偉いし、家族の腹を満足させることに「誇り」をもつべきである。そうやって家族個々人が役割を果たし、そのことに「誇り」を持つことが「家族愛」につながると思う。そしてその「家族愛」に支えられている子供には「誇り高い」人物になる資質が備わる気がする。

結局国家も同じ「成り立ち」のはずである。日本人としてある役割を果たした時、そのことに「誇り」を持てるようになれば、日本はよくなっていく。この本を読みながら、そんな「明かり」を灯された気がする。



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