シンガポール滞在日誌

毎週日曜日更新 (SINCE 30 MARCH 1997)


3月8日

<パラリンピック>

今日の「朝日新聞衛星版」を手にして、金3個・銀6個・銅6個を正に「量産」した笑顔の「面々」が、にぎやかに一面を飾っているのに驚いた。長野パラリンピックにおける日本人選手の活躍である。

「驚き」には3つの意味があった。一つはメダル「量産」に対するもの。もうひとつは、笑顔に自信と喜びが交じり、障害者とはとても思えない「雰囲気と貫禄」があること。そして、これだけ数多くの「身体障害者」が日本の「大新聞」の一面を飾った事が、自分の記憶する限り今までほとんどなかったことである。

競技人口が少ないし、そういった競技ができる恵まれた境遇にいる障害者も少ないとはいえ、大観衆の前で実力を示すことができたのは「賞賛」に値する。何より「身体障害者」というどうしようもない境遇をただ悲しんだり人目から遠ざかることなく、堂々と人前に登場するだけでも、今のオリンピック以上に「参加することに意義がある」大会である。そんな中で頂点を極めた姿は、本人のみならず周りに対する「プラスの影響」が計り知れない。

オリンピックとは違って競技場での「勇姿」を、シンガポールでもしっかり見る事ができる。そんな中で、すごく印象的だったのがアイスホッケーである。スピード感といい「あたり」の激しさといい、健常者以上の迫力である。相手を突き飛ばしたり打ちのめす姿は、身の回りで見かける身障者のイメージとはかけ離れたものがある。そこには「ハンディー」のかけらも見当たらない。

実は以前、自分もいわゆる「障害者」とスポーツをしたことがある。東京は多摩市に住んでいた時、地元スキー連盟主催のスキーツアーに度々参加したのだが、その中に8人程「聾唖者」が参加していたことがあった。もちろん「耳が聞こえない」こと以外全く普通の人とは違いがないので、身障者と呼ぶべきか迷うところであるが、それでも「平衡感覚」とか「危険認識」には支障があるそうで、人一倍の努力が要るみたいである。

そのスキーツアー参加者全員が交流を深める為に、簡単な「手話の手引き」が配布されたり、ボランティア参加の手話通訳者がいて、グループに一人は「ろうあ」の人が入る形でいろいろな話しができたのを今でも覚えている。その時印象的だったのは、スキーが無ければ障害からくる「自閉症」のままだったかもしれない、という言葉。改めてスポーツの「偉大さ」を感じたものである。

「気力・精神力」と「プラス思考」。それがスポーツの原点なのかもしれない。「等身大の自分」しかない世界で、競い合うことの「楽しさ、すばらしさ」は、人類共通の喜びである。パラリンピックの競技種目がなぜ「オリンピック」の種目とならないか不思議である。同じ競技でも「男女」の区別をしているのなら、「健常者・身障者」の区別でオリンピックに統一してもよさそうなものである。いや、そうすべきであると感じさせる「表情」が今日の新聞には溢れていた。



<日本人価格>

旅行客ならともかく、ここシンガポールの住民となっても日本人への「価格差別」がそこらじゅうにある。もちろん「得する」ことはありえず、後で気づいたりその場で抗議しても取り合ってもらえなかったりするケースがほとんどである。

よくあるのが「医療機関」。「日本語を話せる医者がいる」というだけで治療費は「1.5〜2倍」以上に跳ね上がる。もちろん「日本会話能力」も技能のうちだから付加価値がある、と言われればそれまでだし、わかっていながら利用してしまう日本人も「医療用語」が不安だからという面もある。

しかし、日本でもそう大した会話が必要でもない「歯医者」で、「ここ虫歯、痛くない?」程度の会話にそんな価値があるのだろうか。「保険」がないシンガポールでは、とにかく医療費が高い。いや「個人負担が大きい」というべきだろうか。例えば虫歯をちょっと削ってかぶせただけで下手すれば10万円。安いところでも3万円はくだらない。風邪で病院に通えば「請求書」に目を通しただけで「更に熱があがる」なんて日常茶飯事(?)である。

そんな「高い医療費」に「日本語サービス」で「5割増し」なんて言われたら、やっぱりいい「カモ」にされているとしか言いようがない。

教育関係でも同じ。日本人学校はともかく、せっかくシンガポールにいるんだから子供に「遊び」を通して国際交流させるべくローカルの幼稚園や学校に問い合わせると、日本人というだけで料金が大幅アップされる。幼稚園児レベルならたとえ言葉が違ってもそれほど先生や他の生徒の負担にはならないはずであるし、なぜ「バス代」にも2倍近く差があるのか理解できない。しかもシンガポール人とは「英語の発音が違う」ことで瞬時に日本人と見抜いてもっともらしく吹っかけるから質が悪い。

床屋にしてもローカルの店では日本人というだけで料金が違うし、レストランでもそういうケースがある。

日本人いるところに「日本人専用」の価格体系あり。これ「シンガポールの常識」ならぬ「世界の常識」?なのだろう。この「常識」に対する理解を深めるのに、世の中一般の「常識」を考えてみたい。どんな「お客」が商売人にとって「ありがたい」存在か。

まず一番は「口うるさくない」こと。値切れとか、何かサービスしろとか言わない客は「上客」なのは当たり前。その次は「だまされ易い」こと。そりゃーそうでしょう。言った事100%信じてくれるなら、面倒な駆け引きも必要ない。口からでまかせでその場をしのげばいい。

3番めは「足元」が見える事。要は「どうしても手に入れたい」とわかれば、後は時間の問題で相手が勝手に落ちてくれる。これは「ゆっくり選ぶ時間がない」というのも当てはまる。

そう、その通り。海外での日本人が「かも」になる要素はすべてそろっている。「英語が苦手」な日本人が「口うるさい」わけがない。ちょっとの説明で「勝手に」理解してくれる。それにまだまだ「性善説」を地で行くような国民は日本人ぐらい、ということで「信じ易く、だまされ易い」のも当然。

そして「団体観光客」は言うに及ばず、「慌ただしい」国民性も周知のことである。ごちゃごちゃ言われて不愉快な想いをしてまで「値下げ」させるのに「空しさ」を感じやすい国民なのかもしれない。「契約」や「駆け引き」を好む西洋人にはない「淡白さ」があり、「金離れ」の良さを「美徳」とする国民性も大いに影響している。でも、忘れてはならないのが、そういった感情を「誰も理解してくれない」という事実である。

つまり、ただ「お金がある」というだけで相手にしてもらっている面が多々ある。「金の切れ目が縁の切れ目」となり易い典型である。

このところの不景気で、シンガポールでも日本人相手の店には「閑古鳥」がないており、つぶれてしまった店もある。聞くところによると日本人駐在員の1割がこの一年間で減少する見込みだそうである。単純計算で三千人近い日本人がシンガポールを離れ、ついでに「カモ」も減少したら、ますます景気が悪化しそうである。

これから先が、実は日本人に対する評価が見えてきそうで面白い。「単なるカモ」だったのか、何かをもたらした「愛しいカモ」だったのか。過ぎ去って初めてわかる「価値」がどのようなものか、その「評価」をじっくり見届けて、今後の参考にしてみたい。



3月1日

<ケーブルテレビ>

「シンガポールのテレビはつまらない」。そう簡単に言い切れなくなるのが「SCV」の存在。シンガポール・ケーブル・ビジョンである。NHKを含む60近いチャンネルを有し、きれいな画像と音声で「地上波」テレビでは想像出来なかった内容が、ほぼ24時間放送されている。

SCVはシンガポールの周辺部から敷設工事が開始され、HDB(政府供給団地)優先だったせいもあり、比較的中心部に「賃貸」で住んでいる我が家のような家庭では、ようやく今ごろ観れるようになってきた。「周辺部」に少しでも魅力を持たせ、国民を誘導しようといういかにもシンガポール政府が考えそうな政策である。

「せっかく」テレビが面白くないから、読書や水泳に日夜励んでいた休日が「うそ」のように「テレビづけ」生活へ。「易きに流れる」のは実に早い。100%内容が理解できるNHKニュースは言うまでもなく、タイムリーに世界中のニュースを放送する米CNNや英BBC、米CNBCまで観れる。「シングリッシュ」であまり関心のない「シンガポール政府の宣伝」的ニュースに終始するローカルテレビ局とは雲泥の差がある。

MTV(ミュージックテレビ)も2局あり、一方は欧米中心、もう一方はアジアの中国語圏中心の構成になっている。たまにドリカムやチャゲ&飛鳥のような日本の曲も流れる。その上、ESPNやSTAR Sportsのようなスポーツ専門チャンネルも幾つかあり、英語と中国語でそれぞれ解説されている。

もちろん、映画やアニメのチャンネルも沢山あり、最新のものから古典的なものまで幅広く取り揃えてある。アニメは日本製を英語か中国語で葺き替えているものが多く、結構「違和感がない」のがおもしろい。ドラゴンボールなど中国の話と錯覚しているシンガポール人も多いだろう。

日本にいる時はNHKの教育放送的な番組をほとんど観たことがなかったが、これがどうして、意外に興味深い。日本の伝統的な情景を捉えている番組が多いし、「のど自慢」や民謡といった日本的な音に「引き付けられる」のは、海外生活特有の感覚なのかもしれない。「徳川慶喜」のような時代劇も立派な「文化」として認識を改めてしまう。やっぱりたかだか30年余りの国とは文化の「厚み」がちがう。

どうもまた「運動不足」の生活に逆戻りしそうだが、日本を離れてかれこれ1年2ヵ月余り。年中暑くて「ボーっと」過ごしがちなシンガポール生活に新たな「リズム」が生まれてもいいかな、と感じていた時に格好の「刺激」である。



<銀行員の給与>

本当に「銀行員の給与は高い」のであろうか。何を基準に「高い・低い」が決定されるべきか、それを議論せずしてこの問題に結論が出せるのであろうか。実に不思議な「論争」や「固定観念」が国会やマスコミに横行している気がしてならない。

まず最初に考えなければならないのは、「誰が給与金額を決定すべきか」である。社長・取締役会・人事部・直属の部長や上司、あるいは組合...表面的にはそうだが、直接的にはその会社の「経営状況」であり、その人やその会社が所属する「市場」、本質的には「株主」である。簡単に言えば「経営状況」や「個人の能力」によって自ずと決まってくるし、そこに「株主」が口うるさく介入してくるのが本来の姿である。

でも、現在の「銀行員高給批判」の「中心地」は国会やマスコミという、本来関係のない人たちである。「大株主」が「銀行経営陣」に「給与水準引き下げを要求した」とか言うならわかるが、公務員でもないのに「民間経営に関する事項」を当事者不在で論議される現状は、実に「異常」に感じる。公的資金導入を「御旗」に大手19行の「給与水準」と「リストラ策」を一覧掲載し「比較」するに至っては、本当にばかげている。みんな一列に居直らせて「お上」の裁断を仰がせているがごとくの「演出」だが、そんな必要があるのだろうか。銀行経営の「横並び」を批判しているマスコミが、リストラ策を「横並び」させて「自己矛盾」を感じないのだろうか。

もちろん「株式市場」からの「厳しい評価」を前に、「生き残り策」として「給与水準を下げる」ということの「有効性」は理解できるし、「経営がピンチ」なら「リストラ」を行うのは「正常な判断」である。しかし、それは民間企業の「個別事情」であり、あくまでも主体者は「株主」と「経営者」「組合」である。誰が頼んだわけでもない「公的資金」の為に、政治家や有識者(?)が「民事介入」することは、「政治の失敗」から目をそらし、不景気の「悪人」を仕立て上げているだけである。それで本当に問題が解決すると思っているのだろうか。

ちょっと考えてみて欲しい。「30兆円の公的資金を銀行に導入する」ことの目的は「貸し渋り」対策である。でも「貸し渋り」は各銀行の「リストラ策」の一環であり、今までしのぎを削って増やしてきた「資金貸出業務」という「収益源」を縮小してまで、事業を立て直そうとしていることの「結果」である。

ところが、身の程をわきまえて「業務縮小」しますと宣言している銀行たちに、「資本を充足してあげるから、経済活動に支障を来たさないように配慮してくれ」と「依頼」してきた。「公的資金」という性格から「優良銀行」に「依頼」するのが「筋」であり、実際「審査基準」なるものを用意するまでは話がわかる。だがその「優良銀行」になぜ「リストラ」を要求するのであろうか。「更なるリストラが必要な銀行」が「優良銀行」なのだろうか。

話の「角度」を変えると、「業務縮小・人員整理」を目指す邦銀に「業務拡大」を要求しながら「人員整理・給与水準引き下げ」を突きつけて、うまく機能すると考えているのであろうか。「貸し渋り」を止めさせる為に「業務拡大」を依頼する「優良銀行」と言えども「人間の集団」である。今までもさんざん「リストラ」されてきて「手一杯」のところへ、「不良資産を増やさない」ように「貸出業務拡大」し、その上給与まで下げられるというのなら、モラルダウンや「物理的限界」からくる「業務縮小」に陥ってもおかしくない。

しかも「貸し渋り」を受けている企業は、銀行から見て「優先順位」が劣後する企業である。平たく言えば「不良資産化」する可能性が高いか、薄利で「採算が合わない」かどちらかである。そんな企業に「手を貸す」為に自分の給与を「更に」下げられて、矛盾を感じない銀行員はいないだろう。

そもそも「雇用機会均等」で選んだ自分の企業の給与が「低い」のなら、「高い」企業に移ればいいだけで、「金融機関並みに給与を引き上げてくれ」というならともかく、「高すぎる」というのは「妬み・ひがみ」以外の何者でもない「低俗な議論」である。

業績のいい企業は「給与水準UP」・悪い企業は「DOWN」、有能な人材には「高給」・「社畜」には「低給」、これが競争社会の原則である。その人の給与水準が高いかどうかは、「市場」が決めることであり「絶対的」なものなどありえない。「公的資金」に絡めて考えると、あくまで「優良・不良」は相対的基準なのだから、「邦銀・外銀」「大手・中小」の区別なく考えて判断すべきである。「優良銀行」は「給与UP」、「非優良銀行」は「給与DOWN」になってもおかしくないと思う。仮に邦銀に「優良銀行」がないのなら「政府系金融機関」なり「外銀」にでも形を変えて「公的資金導入」すればよい。

「競争原則」を口にしながら「横並びの給与カット」を求める国会やマスコミのに姿勢は、どこか「視野の狭さ」を感じてならない。



2月22日

<長野冬季オリンピック>

「感動をありがとう」と素直に言える。こんな気持ちは「W杯サッカー最終予選」のフランス行きを決めた日本代表の試合以来。もう当分そんな気分に浸れることはないと、心のどこかで思っていた。

長野オリンピック。直前まで「ピン!」ときていた人は少なかっただろう。またどうせ、期待されている選手でも「プレッシャー負け」して、日本人選手の活躍なんてあんまり見れないはず、というのが共通した「潜在意識」だったと思う。それがこの「うれしい誤算」である。

日本選手団の「メダル目標」は、「金3個」に「総数7個」だったと聞く。ある有名な海外の雑誌では「金5個」との予測。国外の方が「高く評価」している選手が多かったのであろう。ここにも日本全体に蔓延している「自信喪失」が見え隠れしている。

それにしても日本が獲得した「金5個・銀1個・銅4個」のすべてにすばらしい「ドラマ」があった。もちろん、普段の実力を出し切れずに「悔しい想い」をした選手も多々いただろうし、そこにも「ドラマ」が存在するだろう。でも、やはり「メダル」の「重み」はオリンピックの「重み」の「根元」である。

日本のメダリストは9人。金2個・銀1個の「最美飛行形ジャンパー」舟木をはじめ、金・銅各1個の「失速」原田、斉藤・岡部もジャンプ団体の金メダリスト。もう一人「金・銅」獲得した「161cm の巨人」清水、「日本オリンピック史上最年少金メダリスト」19歳の西谷、モーグル「弾丸娘」の里谷も金。笑顔が眩しいスピードスケートの銅メダリスト岡崎、そしてショートトラック銅の植松。

今回のメダリストたちに関連する「キーワード」を挙げるとすれば、「父」「ライバル」「持ち味」そして「失速」となるだろう。

「厳しかった父」を失い、その悲しみを乗り越えて「金」を獲得した清水・里谷両選手。「父親」の端くれとしての自分に、その「存在」と「喜び・責任」を感じさせてくれた。仕事にかまけて、自ら家族の中における「存在」を「放棄」しがちな日本の「おやじ族」に「新鮮なショック」を与えたと思う。

ジャンプ陣の「斉藤・岡部」という同期「ライバル」に、「距離」の原田と「飛形」の舟木という「持ち味」ライバル対決も面白かったし、「HOTな原田」に「COOLな舟木」という対照も多くの話題をもたらした。原田「失速」は、もう「マイナスイメージ」から彼の「人間味」という「プラス要素」になっているのも不思議なものである。まさに「乗り越えた」のであろう。

スピードだけは負けないという里谷選手、スタートダッシュで一番になることだけを考えた西谷選手、初々しい笑顔を振りまいてくれた岡崎選手、どれもすばらしい「持ち味」である。

堀井というライバルがいた清水選手、寺尾のいた西谷・植松選手、橋本聖子の背中を見つめた岡崎選手、そして上村のいた里谷選手。もちろんハイレベルのライバル関係が団体金に結びついたジャンプの面々。身近に「ライバル」がいることの「ありがたさ」が際立った気がする。

しかも、もう一つ忘れていけないのが「報道陣」のライバル関係。新聞各社みごとな「ストーリー展開」で「泣かせる」記事を書いていたし、朝刊が届く前にインターネットのホームページで「そのままの文章」を読めたのも興味深かった。ホームページ「有料化」へのステップで、「遜色無い」内容と「スピード感」をアピールしたのだろうが、どこも「持ち味」を出して成功していた。ただ、シンガポールでは、せっかくNHKを見れてもオリンピックの映像は「動いている姿」を見れなかったのは「重ね重ね」残念である。

この夏にはW杯サッカー本選も始まる。今度こそ「生中継」を見たいものだが、そのためには岡田監督の目標「一勝一敗一引き分け」で「一次予選突破」をしてもらわないと、まずシンガポールでは見る事ができないだろう。

フランスでまた感動を!日本人ならだれでも願っていること。心の躍動の為に、そして日本人の自信回復の為に...この「オリンピックの感動」がいつまでも輝き続けていて欲しい。



<検索エンジン>

「あなたのホームページアドレスを教えて下さい。」

この「単純」でかつ何の「悪気もない」質問。でも答えられない自分...

この何度となく遭遇した「異常事態」に耐え兼ねて、ついに「ホームページ登録」に走る事に相成った。

この「インターネットアドレス」というやつは、実に覚えにくい。いくら普段見ていると言っても、それは「ブックマーク」から「選択」しているだけで「http://www.singnet...」などと、初回ならともかく、一々入力する人などまずいないはず。それでも
「自分のホームアドレスぐらい覚えてないのー?」と念を押され、
「はあ、すみません、実はシンガポールの自宅住所もまだあやふやなぐらいですから...」と、わけのわからない返答。

でも、今度からは大丈夫!「Yahoo!とかに登録されていますから、検索して見てください」と言える。キーワードは「シンガポール、滞在日誌、J-KUMA」などにしたのでお試しあれ!

登録の方法はいたって簡単。「さぶみっと!-JAPAN-は、あなたのホームページをいろいろなサーチエンジンに一度の手続きで登録するためのサービスです。」という宣伝文句を信じさぶみっと!-JAPAN-にアクセスして、必要事項を入力。後は指示に従っていくだけで、日本の主な「検索ページ」に登録できてしまう。

自分が登録したのは下の「無料登録」できる20社で、所要時間は2時間程度。日本に これほどの数の「検索ページ」があるとは知らなかった。もちろんこれらは「ほんの一部」なのだろうが。

まずは、「検索エンジン」の大御所
@Yahoo!
このページには「Yahoo!ファミリー」と称して「アメリカ - アメリカ主要都市 - Yahooligans! イギリス - カナダ - ドイツ - フランス - オーストラリア - 韓国 - デンマーク - ノルウェー - スウェーデン」に「兄弟姉妹ページ」がある。
A『気分次第でWebサーフィン』Webの達人たちが気分気ままにあなたの未知のホームページへとお連れする…これぞ、史上最強のサーチエンジン『気分次第でWebサーフィン』なのだ〜!!との触込み。以下ずらーといくと...

BAlcarna Search Engine Cgoo Dhole-in-one Einfoseek Fexcite Ginfonavi H「欲しいものがどこにあるのかわからない!!」「いったいどこにあるんだー」と叫ぶ前に... dokoda

IGUIDEBOOK JNETPLAZA KCSJインデックス LWelcome to Net Office Nakai Link Page MNIPPON SEARCH ENGINE NDRAGON ONTT DIRECTORY P日本の新着情報

QYahoo!と間違え易いがyappoというのもある。R「ATLASへのリンクはご自由におこなっていただいて構いません」というATLAS。そして、SNAKAGAWA ONLINE ACCES HELPER

「スターポートは全員日本人スタッフによるシンガポール在住の邦人向けインターネットプロバイダーです」というstarportには、以前から紹介してもらっている。

うむ、これだけ登録すればどこかで「発見」してもらえるだろう。それにしても、疲れたよー。



2月15日

<TITANIC>

話題の映画の登場は、日本より常に一ヶ月以上早い。「TAITANIC」を自分が観たのは先週だが、既に「一番大きな映写場」から「小劇場」へ移されて「ロングラン上映中」である。「映画」がシンガポール「娯楽の王様」たる証拠である。

「なぜ早いか」には、いくつか理由が考えられる。まず「宣伝」が必要ないこと。日本のように「プレビュー」をTVコマーシャル等でたくさん流さなくても、観客が途絶える心配が少ない。外に目立った娯楽が無い以上、新聞にでも簡単に紹介すれば観客から「食らいついて」くる。

それから、「英語」が公用語なのでほとんどの映画に「翻訳」の手間が少ないこと。「中国語」の字幕スーパーが通常付いているが、大抵のシンガポーリアンがバイリンガルだから「中国語訳」に時間がかかるとは思えない。「入場券」をその劇場でしか発券しないことも「無駄な時間」を短縮させていると思われる。

国土が小さいからできる「技」なのだろうが、いつも行く劇場は常に「全席指定席」で翌日以降の予約も同じ売り場で「コンピュータ画面」に映し出される「座席図」の希望シートを「指差すだけ」ですぐ発券してくれる。値段も新旧関係なく 7ドル(500円)前後である。

しかも、夜6時半〜7時と9時前後からの上映も日常的にあり、会社帰りのニーズにも的確に応えている。昨年末に日本で「もののけ姫」でも観ようかと有楽町あたりを8時ぐらいにうろついたら、どこの劇場の入場券売場もシャッターを閉めはじめていて「ショック」を受けた。デパートでも夜9〜10時まで営業しているシンガポールとは違って「夜が早い」気がしたものである。

でも、この「タイタニック」は別物。とにかく「長い」ので毎日11時・4時・8時の三回上映でおしまい。三時間を裕に超す大作は、その「長さ」を感じさせない程「魅力溢れる」内容だが、途中で「トイレ休憩」する人が跡を絶たないめずらしい映画でもある。

ストーリー構成は「よくあるパターン」だし、近頃お決まりの「コンピュータグラフィック画像」を駆使しているのだが、「沈没」と「ラブストーリー」、「過去」と「現在」が見事にコントラストされており、ハイテクの「嫌味」が微塵もないのもいい。劇場内のクーラーがよく効いていたので「Tシャツに短パン」姿では非常に寒かったのが、逆にそれが「臨場感」を生んだのかもしれない。今「真冬」で「暖房が効いている」日本では味わえない?醍醐味である。

「ヘイズ」に続いて「雨季」特有の「連日豪雨」がようやく終わりを告げたシンガポール。アウトドア・スポーツもいいが、たまには「映画」もいいかもしれない。久しぶりの「感動」で映画館に行く回数が増えそうである。



<チキンライス自作編>

在星一年を過ぎると、そろそろ「外食」も一巡して「シンガポールの味」にも飽きはじめるころである。それなら「自分で作ってみよう」と単純に考えて、即実行。

シンガポール代表メニュー「チキンライス」の「作り方」はシンガポーリアン曰く、鶏をまるごと茹でた「出し汁」に「しょうが・にんにく・米」を入れて炊けば「ライス」のできあがり。肝心の「チキン」は適当に味を付けて「ライス」の上に載せるだけ、といとも簡単に「のたまう」。

でもシンガポール人に「料理」はどうしても結びつかないので、「心の支え」を探せば身近に「ころがって」いた。日本人滞在者「必読の書」であるシンガポール生活情報誌「ハローシンガポール」には、ご丁寧に「写真入りレシピ」が記載されているではないか。

マニュアルがあるわかると、なーんとなく「やる気」が無くなってしまったのだが、「成功した人は少ないらしい」の一言で、材料購入の為にスーパーマーケット「COLD STORAGE」へ足が向いた。買うものは「鶏一羽、インディカ米(細長いタイ米)、しょうが、にんにく」など。実は「万が一」の為に「インスタントラーメン」も余分に購入したが、家族には「伏せて」おいた。

一度茹でられて「羽」もむしられていても、やっぱり「首・足付き」の「丸ごと」は魚の時みたいに「平気」では処理できない。手を合わせてから「ギロチン」したが、今度からはやはり「切り身」にしようと心に誓った。後で考えても「骨付き」ならば「丸ごと」の必要はない。ただ「一羽丸ごと」なら3ドル(250円)強と意外に割安なのは魅力である。

付け合わせ用に「きゅうり・トマト・長ねぎ・香菜」もあった方がいいのだが、特に必要でもない。「チキンライスの命」は、やはり「ライス」である。寿司の「しゃり」のように「いくら口にしても飽きが来ない」味にしなければ、茹でチキンをご飯に載せただけの「手抜き飯」になってしまう。「寿司職人」レベルに認定されるか「手抜き主婦」レベルに甘んじるかは「天地の差」。腕の見せ所であろう。

まあ、そんな「戯言」を思い浮かべていても現実は進まない。「カンニングペーパー」片手に、まず時間のかかる「鶏」の茹で作業を開始。表面に「塩」を適当に塗り込み、「お腹」に「臭味取り」のしょうがを4〜5枚入れて、40分ぐらい「初め強火で後弱火」というお決まりパターンの煮込み。茹で上がり後は「冷水」に15分程浸して身を引き締め、適当に切るだけ。

「鶏茹」の間は「ライス」の仕込みを行う。玉ねぎ・しょうが・にんにくを好きな量だけ微塵切りにして、「たっぷり油」でよく炒める。今回にんにくを黒く焦がしてしまったが、できあがりの「ライス」に「黒い物」が点々としているのは頂けないので、「焦がさない」ように注意が必要。

火が通ったら水を加え、塩・しょうゆ・ごま油を適当に入れ、「チキンコンソメ(これが秘伝の技!=偶然成功)一個」を溶かし込めば「出し汁」の出来上がり。水洗いしてから「水切り」したタイ米にこの「出し汁」を流し込めば、後は炊飯器が勝手に作ってくれる。

おっと、肝心の「水加減」だが、「タイ米1」に対して「水1.1」をカップで正確に計量すること。別に「炊きはじめ」まで「水に浸けておく」必要はないようである。もちろん「炊飯器」の性能で多少の違いがあると思うが...。

最後に用意するのが「チキンソース」。「鶏の茹で汁」300ccに塩・砂糖・しょうゆ・ごま油・こしょう・チキンコンソメ(!)を適当に入れて、ちょっと「濃い」ぐらいに味付けすればOK。これを冷やした「チキン」の切り身に、熱々のままぶっかければ、よく味も染みて美味しくなる。

好きに盛り付けて「スプーンとフォーク」でほおばれば、それは正真正銘の「シンガポール・テイスト」。騙されたと思ってお試しあれ。もちろん「備え」もお忘れなく...。



2月8日

<YU SHENG>

「ローヘイ」「ローヘイ」「FOR THE HELTH」「FOR THE HAPPINESS」「A LOT OF MONEY」「ローヘイ!」等々騒ぎながら、箸で大皿のサラダをぐちゃぐちゃに掻き回したり、持ち上げている集団。いつも話し声がやかましいとは言え、こんな「異様な光景」にシンガポールで出くわすのはこの旧正月だけである。

アルファベット表記「YU SHENG」、漢字表記「労(本当は手偏に労)起」、通称「ローヘイ」。これがシンガポールの旧正月を飾るメインディッシュであり、数少ない「オリジナル文化儀式」でもある。旧正月を迎えてから15日間に渡り、どこの家庭でもレストランに出向いて昼夜かまわずこの「ローヘイ」を行い、みんなの繁栄を祈念しながら新年を祝う。

ディッシュの内容は一言で表せば「刺身入り生サラダ」。味付けは「オイルとみりん」のようなものに塩コショウとゴマを混ぜているが、なんとも「甘い」。普段「生物」を口にしないのが中国人だが、日本食文化の影響を受けて特に「さかな」は生でも抵抗無く口にできるシンガポーリアンが増えた事もあり、すっかり定着した「旧正月メニュー」である。

中国文化と思いきや、本土や台湾・香港にもない「シンガポール発」の「正月行事」らしく、このごろは香港でも「真似」しだしたみたいだ、と得意げにシンガポール人は語る。ただ香港ではここみたいに「新鮮な生魚」が手に入らないけどねーと言いながら、そう言えば今年は「魚」「鳥肉」「牛肉」「豚肉」どれも安心して口にできない香港人はかわいそうだねーと続けた。

幸い「衛生管理」が行き届いているシンガポールでは、どこの中華レストランでも「生魚」とともに用意されいる。「縁起物」なので「ローヘイしますか?」と聞かれて「いいえ」とは言いづらいらしく、結構なお値段でもほとんどみんながやっている。ポイントは「活力・生命」を意味する「生魚」で、例えばサーモンを使ったローヘイなら「SALMON YU SHENG」と書かれてメニューに載っている。

この「魚」、白身魚は特に旧正月の「必須アイテム」だそうで、通常1kg10〜20ドルぐらいのものでもこの期間中だけ50〜100ドルぐらいまで跳ね上がる。調理法は簡単で丸ごと蒸して醤油などで軽く味付けして食べるだけ。それでも家族・親戚が集まる時の「大皿料理」としては見栄えがよさそうである。

さて、「ローヘイ」に話を戻すと、材料は大根やにんじんなどを細くスライスしたものと細かめのクラッカー、サーモンなどの生魚に調味料である。レストランではまずウエイトレスがサーモンの皿に「柚」を絞りオイルとみりんもかけてサラダの上にばらまく。赤と緑の袋に入った塩とコショウをその上に振り掛けて、クラッカーをどさっとまいて、残りのオイルとみりんにゴマをかけたら準備完了。その間、中国語で「健康の為に」「繁栄の為に」とか「お金が入りますように」とかウエイトレスが「願懸け」しながら「サラダづくり」を行う。

それから先は各テーブルで勝手に騒ぐ。高く持ち上げれば「運も高まり」、「金」を意味するクラッカーをかき集めれば「リッチ」になれる。一通り騒いで、自分の皿に「金と運」をかき集めてほおばる。お世辞にも「うまい代物」ではないが、脂っこい中華の旧正月料理を食べすぎない為にも「健康的な前菜」である。

ただ、この「甘い」のだけはどうにかならないものか、とシンガポーリアンに聞いたら、これからの人生「甘い生活」になるように甘くするんだよ、と言われて妙に納得した。辛かったり「つーん」とした人生なんか、どの国の人でも御免であろう。「スイートライフ IN シンガポール」で今年も行こう!



<シンガポール流倹約>

昨日、日本では「長野冬季オリンピック」が開幕したようである。でも、常夏の国シンガポールには関係のない話題。地元のメディアはもとよりケーブルテレビで視聴可能になったNHKでもほとんど観る事はできない。理由は簡単、そんなスポーツの「映像を買う」お金などシンガポールのテレビ局にはないのである。

よくニュースとかでアメリカやヨーロッパ発のメジャースポーツ試合結果を報道しても、映像も一緒に観れるケースは限られている。日本では当たり前に思っていたことも、有力なスポンサーが数えるほどしか見当たらないシンガポールでは致し方ないのかもしれない。

こういった自分たちにとっての「無駄」を「倹約する」事例には事欠かない。

例えば工事現場で海外からの出稼ぎ労働者に住宅を用意することなどしない。労働者は工事現場で寝泊まりするのが原則らしく、年中暑いので風邪ひく心配はないものの、雨風をしのぎたければ早く「屋根」を作らなければならない。つまり、10階建てのビル建設でも2階まで一生懸命早く完成させて、その下で生活する。虫や動物が徘徊する「地べた生活」が嫌なら3階まで「すばやく」作る。「インセンティブを保つ」という意味では合理的かもしれない。

デパートとかの売り場でも同じ。この商品の「在庫はありますか」と聞いても、ろくにチェックもせずに「ここにあるだけ」とくる。取り寄せてもらおうにも「私は担当じゃないからよくわからない」と平然と答えさっさっと行ってしまう。客にも店員にも「目に入る範囲」がすべて。「アフターサービス」など言うに及ばない。「聞くだけ無駄」とあらかじめ諦めさせるのも上手な接客術かも。

自動車の免許証も「紙ぺら一枚」だけ。顔写真もなく登録番号に住所・氏名・有効期限が記入された簡単なもの。どこの郵便局でも更新手続ができ、一年有効で20ドル、三年有効で60ドルを支払うだけで便利なのだが、「すぐに破れそうな紙」をビニール加工してもらうと「1ドル余分」に取られる。

クレジットカードの扱いでも「いい時ニコニコ、面倒なことは無視」スタンスが貫かれており、勧誘時とは打って変わって退会手続は冷たい。まあ日本でもそういう面があるが、こちらが電話して「退会用紙」を送ってくれと頼んでも、そんなものはないから今から言う住所にカードを切って文言勝手に書いて送れ、と言われる。しかもちゃんと「係り」に届かないと終了手続できないかもしれないよ、と脅されれば辺鄙な場所の先方オフィスまで出向かざるを得なくなる。

「一時が万事」同じ調子。つくづく思うのは、世界的企業でもその国民の従業員によって全く雰囲気が変わってしまうということ。マクドナルド・ピザハット・AMEX・高島屋などなどたくさんの「外資系企業」が進出しているが、この国では「イメージダウン」も致し方がない。「冬季オリンピック」のように「エントリー」できないよりは、いいのかもしれないが...。



2月1日

<旧正月>

年間を通じてシンガポール人最大のイベントが「旧正月」。中国人の「新年」が始まり、イスラム教徒が多いマレー・インド系住民にとって一ヶ月間に渡る「断食」が明ける「意味ある祝日」でもある。

この期間中、街のほとんどの機能が停止する。民間一般企業や公共機関のほとんどはもちろん、デパートやレストラン、タクシーや病院ですらほとんどが「休業状態」。道路には親戚や友人の家を行き交う車以外ほとんど走っておらず、多くの家庭は海外旅行に出かけているせいもあり、街は「ゴースト」化する。

そんな中でも働いてくれる人たちや、いつもお世話になっている人、子供や独身の社会人にも「アンパオ」という赤い袋に入れた「お年玉」を手渡す。金額は少額でも構わない。むしろ、袋の「数」を気前よくたくさん配り、沢山もらうのを好むようである。

この「旧正月」前は、一般企業では「ボーナス」が出るし、年間通じて本当に「安くいい品物」が手に入る時期でもある。クリスマスが子供や恋人たちの為にあり、旧正月は「家族・親戚」の為にある感じがする。その点日本の「正月」感覚とはほとんど変わりがない。違うのは「暑い」ことと、大々的な「参拝」がないことぐらいである。

今年の干支は「寅」。寅の性質が「男の子」にはいいが「女の子」には敬遠されるらしく、中国人には一般的に子供を産むのを控える年だそうだ。日本の「丙午」と相通ずるものらしい。そう言えば自分の周りでも、昨年中に子供を出産した職員が多かった気がする。

何となく気分が晴れない「年明け」。西暦の新年は、この地域や日本にとって「経済問題の悪化」の幕開けとなってしまった。ここでもう一度「新年」の「仕切り直し」をして、今度こそ「好転」するように願いたいものである。



<義務教育>

「旧正月」の恩恵は先週水曜日からの「五連休」。シンガポールの近隣国は経済的混乱から治安が悪化しているので、寝正月的に読書や水泳などをして過ごしながら、いろいろなことに想いを巡らせてみた。

日本の暦上の「正月」、日経や朝日で一面に登場した記事は今でも印象に残っている。各紙がその年を「展望する」がごとく、時間をかけて力を入れてまとめた文章であり「いい視点」で「日本の問題点」を捉えている。

昨年の元日には「日本滅亡」といった内容の文章が掲載され、「日本人は悲観的過ぎる」と英米の新聞に取り上げられたことも記憶に新しい。年前半は日本からも「悲観的過ぎるよー」という声も聞かれたが、昨年冬からの日本を見ていると「悲観主義」どころか「的確な分析」であると言いたくなる。

今年の1月1日には「個人の時代」や「新しい感覚の教育現場」が写真入りで登場していた。細かい内容はともかく、「個人」「教育」「自由」といった言葉が今年の「キーワード」であり、最優先で考えなければいけない「課題」として取り上げられている。その点に関しては同感である。

特に「教育」、中でも「義務教育」は「未成年の殺人を含む犯罪」が決して「非日常」ではなくなって来ている点で「日本経済」以上に深刻かもしれない。栃木で先日発生した「中学生による女性教師刺殺事件」を受けて書かれた1月30日付「天声人語」のような「教育現場」が本当に「日常」なら、学校へ送り出す以前の「親によるしつけ・教育」から直ぐにでも考え直さなければいけない。

そうは言うものの、自分「個人」としてはいろいろ考えがありそれを実践しているつもりでも、それが「正しい」かどうか不安であるし、ましてや「周り」まで自分の考えを強要することはできない。本当はその「個人の自由」的態度から論議し改めなければならないのだろうが、現在日本の教育では未だに「個人的自由」の御旗が大きく振りかざされているので、それこそ「個人の力」で太刀打ちするのは難しい。

ただ、この点については変わっていく「兆し」がある。「教育」に対する「マスコミの論評」が明らかに変化してきているからである。闇雲に「個別」の「学校・教師・両親」を批判するマスコミが減り、客観的状況や事実を伝えると共に「事件発生の理由」に主眼を置く報道が増えていることである。これは非常によい方向である。「批判・評論」は誰にでもできるし、論じている本人があたかも「偉人」であるかの印象を与えるが、哲学や科学などの「学術的批判」や「建設的意見」上で出されるもの以外は、「酒席の愚痴」程度の価値しかない。マスコミもそのことにようやく気が付きはじめたのである。

しかも、今回の事件はどう見ても「教師の側」に非があったとは思えない。安易な「体制批判」を繰り返しているうちに、今までの「常識」ではどうにも説明できない「現象」が起き、マスコミの記者自身も「真剣に危惧」している印象を持つ。まさに本来の「報道の姿」が蘇りつつある気がする。

その「マスコミ報道」を読むといくつか附に落ちないことが浮かんでくる。一つは「栃木県教育委員会」が「県警の協力」を断り、事件が起きた中学校を含む学校での「持ち物検査」を、今後も「人権侵害を恐れて」行わない方針であること。二つ目は、近所の「刃物販売店」に犯行に使われたナイフ販売自粛を要請したこと。それから、生徒に対する「体罰」はいかなる場合でも認めないとしていること、などである。

昔「オウム事件」が発生した時「警察の捜査能力が低下している」という指摘があり、その理由として「犯罪摘発」から「犯罪防止」へ警察の「力点」が変化していたからだ、という説明があった。学校も「人格形成の場」から「学問取得の場」ないし「学歴取得の場」になってから、その役割が大きく「歪みだした」のではないだろうか。

「防犯」も「勉強」も重要だが、本来の目的である「犯罪者を捕まえて処罰することにより社会の規律・治安を維持する」ことや「社会の一員として適切に生活できるだけの基礎知識や常識を取得する」ことを忘れている気がしてならない。しかも現実にはその「勉強」すら「塾」任せにしている「学校」がどれだけ多いことか。

ナイフなどの危険物を日常的に所持することにはどんな社会でもそれ相応の理由が必要なはずである。しかも実際に「犯罪」が発生したのなら、その「携帯」が少なくとも校内では禁止され、それがチェックされてしかるべきである。だからといってナイフが販売されていることを問題視するのは「お門違い」もはなはだしく、それこそ人権侵害である。教師が理不尽な理由で暴力を使うのは排除されるべきでも、真に教育目的で体罰をしたり、ましてや自衛や犯罪抑制の為に腕力を行使することはむしろ「正常」である。

こういう考え方は全く間違っているのでろうか。自分の知る限りこういった意見の方が「大勢」を占めると思うのだが、現実にまかり通っている「ルール」や「常識」は違うのである。少々「学校・体制批判」になってしまったが、とにかく教育に「関心を持ち」、会社や学校以外の地域社会と接しながら「考え・実行する」ことがまず大切である。

ではどうすれば現状を変えることができるのであろうか。ひとつの方法として、小中学校を「生活態度・論理的思考・道徳・倫理・歴史・日本文化・生活知識・ボランティア・福祉・老人介護」などの認識・普及・教育及び「基礎体力づくり」の場に「特化」させてはどうだろうか。

「勉強」は専門の「塾」に任せればいいではないか。「学歴だけ欲しい」人や「学問を修めたい」人、「技術や資格を取得したい」人、それぞれに目的があり選択肢があるのだから、そういう「個人的目的」を達成するための「学校」は「義務教育」の趣旨とは相反している。言い換えれば、「権利」の教育と「義務」の教育は本質的に違うはずである。

国が国民に課す「義務」には一般的なものとして「納税」「兵役」「憲法遵守」などがある。どれも国民・地域社会の参加者として最低限必要な「役割分担」であり、その趣旨で考えれば「義務教育」はその「役割分担」を正しく理解し、実践する場であっても何等おかしくない。そうなれば自分の子供の「しつけ・教育」にも大い参考にできるし、補完関係にもなりうる。いわゆる「読み・書き・そろばん」を教わるチャンスさえあれば、あとは「社会常識・自発意識」育成の場で全く構わないと思うし、そうあるべきだと思うのだが、こういう考えはどうだろうか。





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