目 次
タイトル 初 出
高柳重信ーー戦後俳句の出立 「俳句朝日」増刊・戦後俳句を検証する1998・6掲載
浅香甲陽小論ーー癩文学を負うわれら 「鬣TATEGAMI」創刊号2001・10掲載
岡本癖三酔小論ーー個人句集の行方 「鬣TATEGAMI」第2号・2002・1掲載
竹内雲人論ーー無名の新興俳句 「鬣TATEGAMI」第4号・2002・7掲載
大岡頌司ーーもう一つの多行形式 『大岡頌司全句集』栞・2002・10掲載
「記号の国」俳句逍遙 「WEP俳句通信」第33号2006・8掲載

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高柳重信ーー戦後俳句の出立 林    桂

                               



     T
 雑誌「世界」の昭和二十一年十一月号に、桑原武夫の「第二芸術ーー現代俳句について」が発表された。「戦後俳句」を起点として出立するということは、短歌を含めて、この論文が象徴する、伝統的な短詩形の存在そのものの批判の中から、あえて身を起こそうとすることであった。
 この批判を本質的な俳句の問題として抱えて出立できたのは、戦前の俳壇において既に作家として認知されていた世代ではなく、俳句にかかわりつつも、戦後に俳壇の新人として頭角をあらわす人々をおいてなかった。そして、高柳重信もそのひとりであった。
 だから、たとえば「近代芸術は全人格をかけての、つまり一つの作品をつくることが、その作家を成長させるか、堕落させるか、いずれかとなるごとき、厳しい仕事であるとう観念のないところに、芸術的な何も生まれない」(前出)という桑原の放った俳句の現状へ向けての批判の矢は、高柳の次のような俳句観に突き刺さっているとも言える。

 この時誕生した俳句形式は、むしろ、その数々の断念によって、未知なる前途へ旅立とうとしていたのであった。だから、厳密に言えば、このときき、いまだ俳句は一句も存在せず、いわば既知なる発句に取り囲まれつつあったのである。したがって、俳句形式は、その作品が出現しないうちに、はやばやと予見的に名づけられてしまった不思議な一ジャンルであった。そのことを深く思うならば、この時の子規には、まことの前衛にふさわしい勇気と、まことの正統にふさわしい洞察とが、まさに二つながら兼ね備わっていたと言うべきであろう。          (「俳句形式における前衛と正統」)

 ここで、高柳は、子規による俳句革新を語っているのだが、それは戦後俳句の高柳重信自身の出立を語る言葉としても読めよう。そして、いまだ書かれざる一句にこそ、真の「俳句」は存在するとし、その出現のための営為を自らの課題とした高柳の方法論の中に、桑原の批判の矢を見ることができる。

   *  
 目覚め
 がちなる
 わが尽忠は
 俳句かな                『山海集』

 高柳の俳句尽忠には、その戦後の出立の日が刻印されていると言ってよいだろう。
 高柳重信が初めて多行形式を試みたのは、桑原の「第二芸術」論から半年後の、昭和二十二年四・五月号の「群」においてであった。「従来の一行詩形式が絶対化してゐるところにからみついてゐる硬化的残滓的なものの排除と、空白圧力を効用した有機的構成によっての表白内容の拡張」(同号提議)を意図しての試行であった。しかし、これは高柳ひとりの試行ではなく、野原正作や岡田利作とともに行われたものである。これは、多行形式の誕生が、戦後がまだ俳句革新の時代であった状況を反映していたことを語っていよう。多行形式は高柳固有の方法として出発したのではなく、俳句の時代状況が誕生させた形式のひとつでっあったというべきである。
 しかし、子規が「俳句」という概念を提示しならが、作品としての「俳句」には容易に邂逅できなっかったように、多行形式もまた、具体的な方法と作品を伴って出現したのではなかった。『蕗子』は、昭和二十五年に刊行されるが、これは多行の問題が様々に試行され、未整理のまま持ち込まれていることで記念すべき句集であった。
 
  *
 身をそらす虹の
 絶巓
     処刑台
   *
 船焼き捨てし
 船長は

 泳ぐかな                『蕗子』

      U
 戦後の時代を反映しながら、『蕗子』において提起された様々な多行の試行を、俳句形式の一つの可能性として整理することで、やがて高柳重信は。「作家」として時代にせりだしてゆく。多行形式は、高柳の創始による固有の方法として、新たな俳句形式として再提示されたのである。『伯爵領』(昭和二十七年)の揺籃期を経て、『罪囚植民地』(昭和三十一年『黒彌撒』所収)において、ほぼ確立されたと言えよう。

  *
 海へ
 夜へ
 河がほろびる
 河口のピストル
  *
 明日は
 胸に咲く
 血の華の
 よひどれし
 蕾かな 『伯爵領』
  *
 しづかに
 しづかに
 耳朶色の
 怒りの花よ
  *
 杭のごとく
 墓
 たちならび
 打ち込まれ               『罪囚植民地』

 それは様々な試行の中から、四行形式の表記へ絞り込むことに他ならなかった。様々な試行の中から、高柳が掘り当てた四行形式の鉱脈は、恐らく次のように言うことができるに違いない。「五七五」の三句の「切れ」構造を内に抱え込みながら、異化し、止揚しようとする方法の創造であり、発見であったと。「高柳重信と多行形式」(「俳句研究」昭和五十九年七月号)で、林は次のように書いた。

 三つの「切れ」の存在を一つの「俳句性」として自覚し、かつその「切れ」を多行によって顕在化し、また従来の「五七五」の内在的な「切れ」からずらすことによって、その齟齬の中に新たな文脈を誕生させるという方法意識の獲得が行く着くところは、四行表記であった。それは「俳句性」に内在する三つの「切れ」を異化する最小単位であるからにほかならない。

 これは明治以降様々になされてきた、とたえば定型性を遠心力とする自由律俳句の試みなどとは明らかに違うベクトルを持つものであった。高柳の四行は、創造的な定型への希求、つまり、定型性に対する求心力に支えられたものであったからだ。定型性の問題に、「書く」行為をとおして、正面から取り組んだ最初の作家が高柳重信であったのだ。

  *
 飛騨の
 美し朝霧
 朴葉焦がしの
 みことかな
  *
 飛騨
 大嘴の啼き鴉
 風花淡の
 みことかな               『山海集』

 『山海集』(昭和五十一年)の「飛騨」の一連十句は、高柳重信の絶唱とされる。これはまた、多行形式の円熟の記念碑的作品でもある。「切れ」を顕在化させ、イメージの展開を喚起する多行形式でありながら、最初の行と最終行を「飛騨」「みことかな」に固定ししなら、イメージを膨らませるという、明確な多行形式からの発想の作品であるからだ。多行形式への方法論からは、逆向きの作品行為がなされているのである。

     V
 戦後の俳句批判の中で、高柳が意図したことは、以前の俳句と断絶するのではなくて、「新興俳句」の成果への評価とその延長上に、自らの俳句を展開することであっただろう。
 「近代的自我とは自意識のダイナミズムをくぐり抜けたものを言うが、俳句は新興俳句において、はじめて自意識のダイナミズムを形式との相関においてくぐりぬけた」(川名大「昭和俳句史」『昭和俳句選集』所収)と評価されるからだ。
 俳句形式の自立の方法として、高柳重信は、「日常」を書くことを拒否した。詩的喩の力によって獲得する作品の世界こそを「俳句」と信じていたのである。そのために、多行形式の採用と併せて、高柳の作品は、俳壇的に大きく異端の様相を呈していた。俳壇は、高柳に「芸術派」の名を与えたが、これは「俳句」の問題を封印しようとする、意識的、無意識的な反応であったかもしれない。そして、その世界について、明確な評価も批判も提示することをしなかったのである。
 明治以降の近代詩歌の主題の系譜を、「自我」を表現の中心とする「人間主義」であるとするならば、高柳重信はその系譜の最後の作家のひとりであろう。高柳の「自我」は、「自己慰撫」のために取り出され、知覚世界との関係を創造するために働く「装置」となっている。「人間主義」に基づく、「自我」と「感覚」のドラマ性の獲得は、高柳重信の俳句形式をまって達成されたと言ってよいものであろう。
 高柳の作品は「難解」と言われるが、その作品を「自我」の表白として感得するならば、その評言はあたらないことがわかるだろう。高柳は、「高柳重信」という人間のドラマを書きつづけようとしたのであり、その作品は最も高い位置での結実であったからだ。それは、先の桑原と文学的価値観の基盤を同じくしてもいたということであろう。ゆえに、桑原の批判は、高柳の作品行為の中で止揚されたのである。
 高柳以降の表現者である加藤郁乎、阿部完市の俳句には、近代的「自我」に根ざす「作家」像が、希薄化し、失われている。一方は、俳諧的技法のうちに、他方は精神活動の現象の中に、「自我」は韜晦をはじめてしまっているからだ。

  *
 まなこ荒れ
 たちまち
 朝の
 終わりかな            『蒙塵』
  *
 暗かりし
 母を
 泳ぎて
 盲ひのまま           『遠耳父母』

 青年期から宿痾となった胸の病を抱え、永く晩年の意識を生きた高柳の「自我」は、「自死」を見つめる作業主であった。

  *
 壱岐も
 対馬も
 鰐鮫の背も
 淡雪せり            『山海集』
  *
 一夜
 二夜と
 三笠やさしき
 魂しづめ
  *
 夜をこめて
 啼く
 言霊の
 金剛よ             『日本海軍』

 高柳重信は、昭和四十年代以降、「自我」の深層に眠る、「個人」を越えた「無意識」の世界へ赴くようになる。そこには、古代的、民族的、普遍的「自我」とでも呼ぶべきものが思われていたのではなかったか。それは、「自我」の救済の方向性を見いだしたのだとも言える。もちろん、これには身体の危機が遠ざかることで、『死」が「自我」にとっての、個人的な問題として遠ざかったことと、まったく無縁ではないだろう。

     W
 晩年期、高柳重信は、山川蝉夫の名で、一行表記の作品を書いている。

  軍隊が近づき春は来たりけり
  いまはむかし夜景とあらば桜咲き
  この夢如何に青き唖蝉と日本海
  友よ我は片腕すでに鬼となりぬ     『山川蝉夫句集』

 これは、俳句を書くという習慣を持ち続けるために、高柳にとっての既知の俳句形式の技術を、「計量カップ」のように使用して、短時間内に書き上げたものである。俳句形式を疑うことを知らなかった、『蕗子』に先行する初学の『前略十年』と遠く響き合う意図的ね方法であり、懐古であった。

  人恋ひてかなしきときを昼寝かな
  夏痩せや私小説めく二日酔        『前略十年』

 ただし一方で、「これほど口あたりのよく仕上がった一句は、それが既成の技術だけを動員して書かれたものだけに、いままでの俳句形式の歴史の中で、いまだに目こぼしの状態になっているはずはないという不安が、絶えずつきもとうのである。そして、おそらく、いわゆる伝統俳句を固く信奉するような俳人たちの覚悟は、あくまで潔癖に、この不安と対きあう姿勢に耐えつづけるか、あるいは、また、そんな不安を早々と忘れてしまうことであろうと思う」(「自作ノート」『現代俳句全集』三)と述べていることも見ておかなければならないだろう。
 高柳は、この「不安」を「不安」としつつ、また多行形式の作家高柳重信の含羞をもちつつ、俳句形式の「典型性」の美しさに惹かれていたのではなかろうか。ただし、「山川蝉夫」は、これによって「俳句史」に何事かをも加えようとはしない表明の名であったろう。馬場あき子が、『高柳重信全集』Vの栞に山川蝉夫という名が嫌いだと書いているが、逆に言えば、山川蝉夫はそういうための名であるとも考えられる。
 *「澤」(創刊五周年号 特集大正十年前後生まれの俳人・2005年6月)に改稿掲載
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   T
  喉管を白き狐が夜夜覆ふ          浅香 甲陽
                            
 この句は、甲陽を知る人々の間で、早くから彼の絶唱と目されていたようである。草津の栗生楽泉園俳句会の句集『火山翳』(昭和三〇年・近藤書店)を編んだ大野林火は、その「あとがき」に、この句を引いて「喉管は顎から吊した白布で蔽はれてゐる。『白き狐』はそれからくる死の幻想か。凄惨、胸の芯の痛くなる思ひだ。怖ろしい自己凝視である」と書いている。「喉管」は、同じく林火に次の解説がある。
  癩者の三大受難と云はれるものは発病の宣告と失明と気管切開である。最後の気管切開は病菌に冒され呼吸困難になるために行ふ手術で、喉頭の下の気管を切開して金属性(ママ)の呼吸管をはめ、辛うじて呼吸をつづけるのである。咽頭(のど)切り三年の語のあるとほり末期症状である。
 「咽頭切り三年」は、この切開手術を受けてからの余命のことである。生きるための気管切開手術は、また遠くない死の覚悟をも迫るものだったのである。甲陽もまたその一人だった。その遺志に従って村越化石が編んだ甲陽句集『白夢』(昭和二五年・栗生楽泉園文芸部)には、前掲の句以前に「気管切開手術六句」と前書きのある次の句が並んでいる。
  
  がれゆく担架の上の冬日かな      浅香 甲陽
  今生の夕日をわたる四十雀
  こほろぎと気管の音と夜もすがら
  咽頭さいて身のゆるみけり菊枕
  喉管に寝がてぬ暁のみそさざい
  喉管にリンゴの匂ふあさぼらけ
  
 甲陽は、「三大受難」の最後の受難にたどりついてしまったのである。この連作は、その感慨が甲陽をなかなか眠らせなかったことを知らせてくれる。既に視力は失っていた。「花冷の障子伝ひにゆく盲」の句が見える。そして、甲陽は前掲の「白き狐」の句に赴いたのである。しかし、「白き狐」は、「死の幻想」以上に現実的な「存在」だったのではなかろうか。内面が横溢して外部と対応を失った世界観の中で、夜な夜な訪れては喉管を覆って息苦しい思いをもたらす現実的な「存在」だったように思える。
 浅香甲陽とは誰か。社会の「存在証明」の多くを伏せるのは、世の偏見から家族、親族を守ろうとしたハンセン病患者の常であった。
甲陽もその例外ではない。師の本田一杉の句集『白夢』跋文等を要約すれば、知れるプロフィールは、おおよそ次のようなものである。
 
 明治四〇年一月、兵庫県生まれ。農家の長男。神戸の育英中学を経て農学校に転校。ハンセン病により三年で中退。明石の病院を経て、昭和二年、群馬県草津の湯之沢に転地療養。昭和一一年、草津の栗生楽泉園に入る。昭和一三年、失明。本田一杉(「ホトトギス」同人・「鴫野」主宰)に師事し、「鴫野」により句作。楽泉園に栗の花俳句会(現・高原俳句会)を興す。昭和二二年、気管切開。昭和二四年二月、逝去。昭和二五年一〇月、遺句集『白夢』(村越化石編)が刊行される。

   U
 「俳句」(角川書店)は、昭和三〇年三月に「癩園俳句集」の特集を組み、その編纂を村越化石の栗生楽泉園高原俳句会が担当した。村越化石は、こうした仕事を通じてその流れを一瞥できる立場にあった。言わば「村越化石以前」を引き寄せる仕事である。その一端を、「癩園と俳句」(「浜」昭和二七年二月)、「癩俳人の先達たち」(「浜」昭和三四年一〇月)に知ることができる。それに拠れば、昭和一二年に創刊された「鴫野」が「癩園」俳句の組織化の起点であり、「癩俳人」の数も全国で五百人を越える活況を呈したが、その作品の多くは「慰安娯楽の具」であって、自身の境涯に及ぶこともタブーとするものが多かったようである。しかし、自身の境涯に赴く作家の出現に時間は要しなかった。特筆するべきその最初の作家は、長島愛生園の太田あさしである。化石の引くあさしの作品を紹介しよう。
  
  墓に寝たりかかる朧の夜の旅に        太田あさし
  蝿あげてヨブのごと病む盲たり
  秋の江に溲瓶洗ふと提げゆけり
  雁啼けり死病ながらも口養生
 
 昭和一五年に句集『公孫樹』を刊行し、翌年二月に逝去したという。あさしは、「癩園俳句」を「慰安の具」から「生命の詩」に進めたが、その歩はまた「諦観」への道行きでもあったというのが、化石の評である。
   V
 甲陽は、このあさしに次ぐ作家として登場する。そして、甲陽は、諦めざる者として「生命の詩」を書いた最初の「癩俳人」だったのである。
  
  蝿打つて奇跡を今もうたがはず       浅香 甲陽
  子規は眼を失はざりき火取虫
  金魚玉子規の号泣うらやまし
  子規まつり癩文学を負ふわれら
  喉管の壽(いのちなが)しと甘茶汲む
  喉管を白き狐が夜夜覆ふ
  三伏や喉管のせて咽喉仏
  寒雀抱き起こされて白衣着る
  冴ゆる夜の喉管笙のごとく鳴る
  
 子規をまつり、子規の文学に連なる自負は、「癩文学」の担い手としての自を生む。しかし一方、病床六尺を世界として病苦に号泣しながら文学に命を燃やしたという世間一般の壮絶な子規像に対しては、子規は読み書きのための視力を失ってはいなかったし、号泣するための咽喉も失ってはいなかったではないかと異議申し立てをする。子規は十分な身体的能力を保持していたのだ。一方に自 する「癩文学」は、視力、音声を失った、子規の遙か後方の「場」から出立せざるを得ないものなのだという自覚は、どこにも向けられない憤怒の様相を帯びてさえいる。子規の病床六尺の世界を、このようなアングルから見ることができたのは、甲陽が最初であろう。そして、ここで思わず「憤怒」と言ってしまったものこそ、甲陽の生きようとする意志の形だったに違いない。「奇跡を今もうたがは」ない生きる力が、「咽喉切り三年」と言われる切開手術後の自己の姿を冷静に見つめる視力になっているようである。「抱き起こされて白衣着る」は、死に装束に着替える自身の姿を投影したものであろうが、この身体から遊離したかに思われる視力も、生きる意志が取り出したもののようだ。自身の死後を見ながら、その一方でそれを少しも信じていないような冷静な眼がここにはある。
 甲陽の「視力」は、もちろんこうした声高な「境涯」を扱った作品にばかりに現れるのではない。むしろ、次のような作品にこそその資質の豊かさは顕著であろう。
  
  橇過ぎて煙草の匂ひふと親し       浅香 甲陽
  繭を抱くさくら落葉の真紅
  霧深し白樺の皮はぎて焚く
  瀧の道蜻蛉りりと肩を越す
  部屋よりも庭あたたかし黄水仙
  探りあてし蕾の菖蒲矢のごとし
  露の中瞼にぬくき日の光
  
 労働の馬橇だろう。橇が過ぎて残る馬方の煙草の匂いに、一瞬惹かれるのだ。橇を視力で押さえたのか聴力で押さえたのか不明だが、それが嗅覚に煙草の匂いとなったときに、馬方との関係は成立し、生き働く者としての共感を自分のものとする。山繭を抱き込んだ桜の落葉。桜の紅葉が時に赤くなっても、その落葉が「真紅」(まくれない)であることはなかなかない。くすんだ茶系の色が普通だ。この句の鮮やかな「真紅」は、青い山繭に対する対比的なイメージの産物だろうか。それでいてこの句が持つリアリティーは、甲陽の「視力」が見たものだからだろう。「霧深し」は、皮膚感覚からの言葉のように思われる。「蜻蛉りり」は聴力の産物だろう。瀧の音が響く道に、耳の近くをそれ以上の音を感じさせて越えてゆく蜻蛉。蜻蛉に感じる凛々しさは、その刹那性のためであろう。「部屋よりも庭あたたかし」という全身の皮膚感覚も、また「瞼」という眼を覆う器官を寒暖を知る皮膚器官として使っているもの、甲陽ならではであろう。甲陽が、「癩文学」を支える身体的な「場」を子規の遙か後方に自覚するということは、作句の「場」で何をどのように書くことが必要なのかという自覚に繋がってもいたのである。甲陽が信頼できる作家であるとするならば、自覚がこうした作品を書く力に繋がっていたからに他ならない。
   W
 ハンセン病の特効薬としてプロミンの効果がアメリカで発表されたのは、昭和一八年一一月である。日本でプロミン治療がはじまったのは、昭和二三年になってからとされている。甲陽が亡くなった昭和二四年二月はわずかにそれに遅れているが、これは甲陽がプロミン治療に間に合わなかった最後のハンセン病患者の一人であったことを意味していた。甲陽が疑わなかった「奇跡」は、遂に甲陽の身の上には訪れなかったが、甲陽以後の人々には訪れたのである。 この甲陽の影響を受けて育った次代の作家が、村越化石である。化石の俳人としての成功は、今更ここで言うまでもないことである。
  
  除夜の湯に肌触れあへり生くるべし     村越 化石
  
 村越化石の第一句集『独眼』(昭和三七年・琅かん洞)に所収された昭和二六年の作品で、化石の初期代表作である。「生くるべし」は、まさに「プロミン以後」の生き延び得た喜びと生きる決意の言葉なのである。もちろん、生死を分かつ危機から遠のいたとしても、社会的、身体的な問題の厳しさに大きな変わりはなかったから、「プロミン以後」は「如何に生きるべきか」こそが切実な問題となったに違いない。そして、化石は、この「如何に生きるべきか」の時代の「癩文学」の作家なのである。しかし、それは単にプロミンによってのみもたらされた訳ではない。大野林火は「作家と『場』(一)村越化石」(昭和三五年二〜三月・「浜」)で、「如何に生きるべきか」の困難性について、次のように述べている。
 生命の危機感に病者ほど敏感なもののないのはいうまでもない。また、その危機感が幾多の名作を生ましめたことも事実だ。 しかしその多くは死と直面した声、死を凝視した声である。そこから離れたときのよろこびや、今日一日 を生き得たよろこびから詠ったものは乏しい。病者の句は前者に終わることが多い。したがって死から遠ざかるとともに虚脱感に陥入り、精神の空白状態をつづけるのが常だ。死から離れてゆくよろこび、今日一日を生き得たよろこびへの転換が示されないのだ。化石の句をすがすがしくしているのは多くの病者の句に欠けているそれがく経糸となって貫いているからであろう。生命への尊厳への認識がその底に清冽に流れているからであろう。
 浅香甲陽は、生命の危機に生き、そこに死んだ作家ではあったが、危機に終わった俳人ではなかった。生きる意志において、また自己認識と自覚において、例えば太田あさしと峻別されるべき存在であった。もちろん、これは化石の甲陽観でもある。そして、これが化石が甲陽に学んだ最初のものだったに違いない。化石が、「如何に生きるべきか」の長い闘いに矜持を崩さなかったその最初に甲陽の存在を考えない訳にはゆかないだろう。甲陽の言葉の「癩文学を負ふ」主体は「われら」であった。これは主体を韜晦させる表現ではなくて、信頼に足る存在の確信によるものであろう。その第一が化石であったことは、甲陽が遺句集の編者に化石を指名したことでも明らかだ。甲陽にとってもまた、化石はわが志しを託すべき存在だったのである。そして、甲陽から託された「文学」を遠く運んでゆこうとする意志こそ、化石の立ち姿を美しくしている正体なのだと思う。
 
  一羽づつひよどり渡る焚火かな       浅香 甲陽
 
ひよどりの姿に「負ふわれら」のあり方を見ていたのだろう。
 
                                  (「鬣TATEAMI」創刊号・2001・10掲載
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 岡本癖三酔の句集『癖三酔句集』が俳書堂から刊行されたのは、明治四〇年六月のことである。これは近代的な個人句集としては、松瀬青々の『妻木』(全四冊)(明治三七年から三九年・宝船発行所、「冬」のみ春俎堂)に次ぎ二番目に刊行されたものである。
 近代的な個人の作品集の刊行という点において、俳句は詩歌のどのジャンルに比べても立ち遅れてしまったことは周知のとおりである。例えば、短歌(一部新体詩を含む)では、明治二九年の与謝野鉄幹の『東西南北』を初めとして、三四年の金子薫園『かたわれ月』、同年の与謝野晶子の『みだれ髪』、三五年の太田水穂の『つゆ艸』、三六年佐佐木信綱『思草』、三七年尾上柴舟『銀鈴』、三八年窪田空穂『まひる野』、同年相馬御風『睡蓮』、三九年青山霞村『池塘集』と続く。新体詩に至っては、主なものだけでも、明治一八年の湯浅半月の『十二の石塚』を最初として、二二年北村透谷『楚囚之歌』、二六年宮崎湖処子『湖処子詩集』、三〇年島崎藤村『若菜集』、三二年土井晩翠『天地有情』、同年薄田泣菫『暮笛集』、同年横瀬夜雨『夕月』、三四年河井酔茗『無弦弓』、同年岩野泡鳴『露じも』、三五年蒲原有明『草わかば』、三八年石川啄木『あこがれ』、三九年伊良子清白『孔雀船』と続く。これを見ても、如何に俳句が立ち遅れていたか一目瞭然である。
 なぜかくも俳句は立ち遅れてしまったのか。『癖三酔句集』の高浜虚子の序文にその理由の一端を見ることができる。虚子は次のように言う。「今迄の俳句界の習慣が、新体詩や和歌やその他の多くの文学と違つて、生前にさう軽々しく句集といふものを出さぬ事になつて居る。獺祭書屋俳句帖抄も、子規の病が余程重くなつて後に病床の慰籍として作つたといふ位に過ぎぬ、其後青々が、妻木を出した時にも兎角の世評があつた様な次第である」これを虚子が本気で書いたのであれば、「一代一家集」の伝統的な考えから自由になれていなかったいとうことになる。あるいは、これは俳句に限らず、正岡子規に発する流れでは短歌も同じだったのかもしれない。先に紹介した歌集に根岸短歌会系のものはない。こちらは単独の個人歌集としは大正二年の斎藤茂吉の『赤光』まで待たねばならない。夭折した子規が個人句集、個人歌集を刊行する余裕がなかったことが影を落としていると言えるのかもしれない。ともあれ、これは現在の句集作りにまで尾を引く最初の問題である。
 では、虚子の言う「俳句界の習慣」に反してまで、癖三酔が個人句集を刊行しようとしたのはなぜであろうか。これは明確に他のジャンルの詩歌と同じような出版状況に俳句として参加しようとする意図があってのものと考えるのが一番自然であろう。言えば、「慣習」そのものを無効たらしめようとするものであった。もちろん、これにはその最初がなぜ癖三酔でなければならないかという問題を含んでいる問題である。
 その前に最初の個人句集を刊行した松瀬青々について、簡単に触れておく必要があろう。明治三一年一〇月に、松山から東京に移り柳原極堂から虚子編集となった「ホトトギス」の「課題句欄」(雑詠欄はまだない時代である)で、最初に一番の活躍をしたのが青々であった。その活躍があっての故であろう、翌三二年一〇月には、虚子の勧めにしたがって「ホトトギス編集員」として上京し、課題句選者となりながら、翌三三年五月には帰阪してしまっている。この間に何かしらの葛藤がなかった訳はなかろう。かくて、三四年三月に大阪で創刊主宰したのが「宝船」であり、先の『妻木』の刊行版元である。つまり『妻木』は私家版であり、青々の個人的な判断に基づいて刊行できる状況下にあってのものであった。しかし、それでも「自家の集を編して世に公にすること古来人の殆ど為さざる所。一は名利に近づくことを鄙しみ。一は嚢底暴露して眼前毀誉の到らんことを怯るるに因る。我それ般の事は遮莫。唯我句を集めて我見たき計り。数星霜の拈り捨をここに掻き集めたる爪木」(「冬之部」序)と書かなければならなかった。他の詩歌の出版のような「野心」のないことを表明する必要があったのだ。言わば、不参戦表明である。それでも、前述の虚子の「兎角の世評」のごとき批判を受ける状況が俳壇にはまだあったのである。
 癖三酔の句集刊行は、この青々とは状況が大きく違っている。版元の俳書堂は、「ホトトギス」の版元であり、しかもこれは版元主導の企画出版であったのだ。先に引いた序で、虚子が「俳書堂主人が自分からすすめて出さぬかと云つたもの」と述べているので明らかである。これは何を意味するのかといえば、活発化してきた詩歌の出版状況に最初に癖三酔を選んで参戦しようと考えたいとうことであろう。ここに再び、なぜ癖三酔なのかという問題が浮上する。
 では、癖三酔に白羽の矢を立てた「俳書堂主人」とは誰か。籾山梓月である。江戸庵と号して自ら句作もしたが、明治三八年に虚子から俳書堂を譲渡されて「主人」となっていた。まず俳句事情に精通した版元ということになろう。最初に癖三酔と梓月の関係から言えば、同じ慶應義塾出身であり、一緒に「三田俳句会」を興した仲である。その意味では、梓月には「ホトトギス」で最も近しい関係にあった一人が癖三酔であったことは間違いないであろう。しかし、だから最初に声を掛けたというのでは、問題を小さく考えすぎることになろう。それが切っ掛けであったとしても、出版に結びつくためには、それを進めるためのさらに大きな力が必要だからだ。そこに、なぜ癖三酔かという問題も隠されている。秋尾敏の『子規の近代』(新曜社)が、子規の小説「月の都」が出版されなかった経緯を追う記述の中で、興味深い指摘をしている。露伴の『風流仏』のように書くことでプロ作家たろうとした子規に対して、既に時代は『風流仏』の時代ではなく、露伴でさえ自己変革を求められる厳しい出版状況があったことを指摘している。そのために当時強い位置にあった書肆は、作家に様々な要求を行ってきたことを、露伴の言葉として伝えている。秋尾はこれを次のようにまとめている。
 出版社の要求は、それまでの自分の文体で書こうとする作家に、その変更を求める。それは出版社の経営上の理由なのであるが、その背後には出版社の言うような文体を欲しているあまたの読者が存在している。出版社は、多数の読者の声を代弁しているにす ぎない。いや、文体だけではない。さまざまな文学的な故実をふまえていなければ理解できない内容を書くことは、既に作家のひとりよがりでしかなくなってきたのである。

 小説とは事情が違え、書肆の企画として個人句集を出版しようとする以上、そこに厳しい人選がなされないはずはない。その書肆の人選に叶った作家が癖三酔であったことは間違いないであろう。当然書肆の視界に他の詩歌ジャンルで刊行されている個人作品集があったであろう。その上での癖三酔の句集刊行の企画であったはずである。それは、その力を癖三酔の俳句が持っているという判断がなされたという意味であったろう。企画どおり順調に行けば、明治三九年には刊行されていたはずだったから、三年に俳書堂主人となった梓月の最初期に企画ということになろう。梓月もまた出版人としての意欲をもっての仕事だったに違いないのである。
 結果としてその企画が頓挫したのには虚子の存在をおいて考えられない。第一段階は、癖三酔の句集の企画が知れた段階での虚子の反対である。「癖三酔は青々に比ぶれば未だ年もよけいに若い前途多望の俳人だ。其れが句集出版といふやうな、些細な事柄の為に不利益などと考へたから、余は無遠慮ながらも癖三酔に手紙をやつて句集出版だけは暫く見合したらどふかと云つてやつた」(序)のがそれである。これに従えば、虚子は、句集出版を、従来の「一代一家集」的な考えを是とする見方から野心的で癖三酔のマイナス評価に繋がるものとして中止を求めたのである。癖三酔は、この言葉を入れて出版を断念する以外になく、組み版が書肆の手許に残ったままの状態が一年程続くのである。これは書肆と虚子の話し合いが持たれて出版に向かうのであるが、その経緯を書くことを書肆に求められた虚子の「序文」が、その第二段階になってしまった。その経緯を語る中で、虚子は『癖三酔句集』出版意図を故意に歪曲して小さいものとしているとしか思えないからである。「句集出版といふ事に重きを置いて考へれば際限もなく重大なことである。併し反対に些細な事として考て見れば、又些細な事にも考へられる。もとより癖三酔が句集を出すと云ふ考は些細な方の考に基づいたに相違ない。また余ももとより然かあるべき事と考へた、唯其些細な事の為に兎角の世評を招くのが癖三酔の為に不利益と考へただけの事であった。若し癖三酔にして楽み半分に出す位の考であるならば、仮令世評が如何あろうとも癖三酔自身にとつて別にやましい処はない訳だ、其れが癖三酔の為に子供らしい楽みになつて俳句を作る上の一誘因ともなるならば、敢てやかましく云つて止め立てする程の事でもなかつたらう」青々が自ら書いたのと同じスタンスに、癖三酔の句集の出版も封じ込めてしまった訳である。癖三酔の出版が「子供らしい楽み」のためのものでなかったことは、虚子が一番よく知っていたことだろう。だから反対したのではなかったか。出版となった今では、その意義を韜晦させることが虚子のできることである。自らの出版意義を否定する序文を持つ句集も珍しい。俳書堂主人が書いて欲しかった経緯とはかけ離れたものであったことは間違いなかろう。実は、この句集は虚子の序文の後に中野三允の序文を持っている。わざわざ虚子の序文の翌日の日付を持ったものである。ここで三允は、「彼の概括的に所謂『自家句集出版』其のものを排斥する説に雷同を敢てする見識がない」「随分世間には得手勝手な人物が居て、俳句の評釈であるとか、俳句に関する随筆であるとか、若くは俳文俳論などの著作を出版して居ながら、句集となると妙に改まる。成程句集とそれ等のものとは多少の相違もあらう。併しながら自己を重んずるといふ点彼等の筆法から云へば、即ち同一でなければならない」と書いている。明らかに虚子を意識しての反駁である。出版社からすれば、虚子の序文の補償として付けざるを得なかったものであろう。しかし、この虚子の序文の痛手はこの位のことで収まるものでないことは明らかである。第二段階という所以だ。
 ところで、虚子は本当に「一代一家集」という考えをしていたのであろうか。約半年後の明治四一年二月に虚子は『稿本虚子句集』を出版している。これは今村一声編の形を借りた、「一代一家集」を模倣したものと言える。没後、その生前の業績を讃えて関係者が編むのが「家集」であるとするならば、既に生前にしてその業績を認めて句集を編む者が現れたという理屈である。大正三年には、「ホトトギス」誌上で「自選類題虚子句集」を纏めている。自選の句集刊行まで長い道程ながら、虚子も句集を出す野心を既にこの時に持っていたと考えるのが自然であろう。ここから虚子が反対した本当の理由もあぶりだされてくるだろう。虚子、癖三酔ともに子規の同門であり、このとき癖三酔は二十代後半の若さだったし、虚子も三十代前半の若さだった。共に野心があって当然の青年だったのである。
 では、なぜ最初の個人句集の企画が、虚子でなくて癖三酔だったのだろうか。

  十反帆浜に敷き縫ふ春日かな         岡本癖三酔
  水の虫孵り尽くしぬ春暮るる
  山焼く火鞍馬の杉の夜見ゆる
  桃色の布巾かけたり蓬餅
  弓会の幕に風吹く春野かな
  地の花を天に告げ来の雲雀かな
  干潟より都は遠き桜かな
  草萌やバケツの中の牛の乳
  藻の花の淋しき恋にさすらひぬ
  風晴れの月の海見ゆ夏の草
  冬の夜の四方の山や風明り

 答えは、癖三酔の作品の中にあるはずである。明治の俳句革新を担った俳人は、その殆どが青年であったが、その作品に青春の香気や憂愁が刻印されていることはがない。今日の眼からは、年齢不詳の老成した作品が殆どである。その中に癖三酔の作品を置いてみると、その「青春性」において特異な作家であることが分かる。芝不器男の『不器男句集』(昭和九年)、高屋窓秋の『白い夏野』(昭和一一年)、寺山修司の『花粉航海』(昭和五〇年)などに指摘される「青春俳句」の系譜の最初に位置する作家と考えることもできよう。俳書堂に企画出版が、新体詩や短歌の出版状況に呼応するものだったとするならば、癖三酔の作品はこれに相応しいものだと判断してもおかしくはないであろう。出版人としての梓月の眼は、それなりに確かなものだったように思われる。
 句集出版のトラブルは、癖三酔から俳句への情熱を奪ってしまったようだ。やがて作句を中断してしまう。再び大正俳壇に復帰したときには、自由律の俳人となっていた。かつ、再び句集を編むこともなかった。結果として唯一の句集となった『癖三酔句集』は、また「一代一家集」の趣ともなった。虚子が自らの言葉を裏切って句集を刊行する中で、結果として「子供らしい楽み」などではなかったことを一生をかけて主張し続けたようにも見えるのである。
                              (「鬣TATEGAMI」第2号・2002・1掲載)
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                              林    桂
 
 
 
 
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  東風吹くや朝の玻璃戸に曇りなき    竹内 雲人
  揚雲雀農学校の昼の鐘
  汽車の煙青麦畑に沈み消ゆ
  舗道初夏どこのラジオも同じ唄
  時雨ては汽車の煙の這ふ檜原
 
 『療園断片』(昭和十八年四月・富士見高原療養所)所収の昭和十二年から十五年の作品から引いた。「曇りなき」「昼の鐘」「沈み消ゆ」「同じ唄」「煙の這ふ檜原」などに感じられる憂愁と青春の香気に一読惹かれた。どのようにしても内側に向いてしまう心を、時に研ぎ澄まし、時にもてあまし、時に苛立ちながら抱え込んでいる者の視線を感じさせるのだ。しかし、『療園断片』は、その筆者である竹内雲人とは何者なのかが分かるような情報を何一つも載せてはいない不思議な句集である。これが雲人の遺句集であり、結核に冒されて若くして長野県の富士見高原療養所でなくなったこと、島田青峰の序句からその門であるらしいことが判断できる程度のものである。
 掲句を引いたのは、雲人の初期作品らしいという勝手な判断からである。同じ療養者であり俳句仲間と思われる富田与士が編纂にあたっているが、昭和十二年から十五年の作品は、「製作年別を知ることが出来ないので、四季別に適宜私が配列」(後記)したと述べている。(後述する著作物で、「理論的に無季俳句を是認し(略)実践的にも完全な無季俳句作家であった」・富田与士「竹内雲人論」としているのであるから随分乱暴な編纂ではあるが)ともあれ、療養生活を書いておらず、かつ四季別の前の方に置かれていることなどから、初期作品であろうと判断したのである。今となっては大きく間違ってはいないはずだくらいの精度のもの言いである。
  
 静臥椅子鳥近く来ぬみじろがじ     竹内 雲人
 灯を点けて窓を新樹の闇とする
 五月雨の明るさに郭公きて啼ける
 この丘の彼方に海を錯覚す
 血を喀きぬ夏天かがやかにまさびしき
 逝くひとあり午鐘冬天へ刻たがへず
 北風落ちて暮色が統べる空と岳
  
 これらは療養生活に入ってからの作品であろう。内向の資質は変わるはずもないが、暗く灯ってはいない。むしろ、身体が病にとらえられたことで、過剰な内向から自由になったかのような明るささえ感じさせる。内と外が調和的な色彩を帯びている。静臥椅子に横たえた身体を、なお一層近づく鳥に合わせて「みじろがじ」とする意志。灯すことによって、窓枠の中に閉じこめられる「闇」に「新樹」を取り出し見る視力。「五月闇」といわれる時空に「明るさ」を見つけだしたからこその郭公の清澄な声。「受容」することで見えてきた世界の息づかいに「内向の場所」を得ているのだ。
   U
 『雲人竹内徹二』(昭和十八年三月・田中稔編)の書の存在を知ったのはしばらく経ってからである。なんと六百頁を越える大冊である。これとても雲人を略歴として整理していないので、ここから知れることを整理し、他の文献からも補ってみると、おおよそ次のようになる。
 大正三年四月十七日、前橋市に生まれる。本名・徹二。父・勝蔵は大正十四年から六年間前橋市長を務め、文人市長を謳われた人だった。桃井小学校で、三年間大澤雅休の担任指導を受け、早くその才を見出された。大澤雅休は、短歌と書で一家をなした人だが、いまや橋田東声系のこの歌人も、地元を除けば、歌壇で論じられることはなく、書家の業績のみ名を残しているのが現状だろうか。

  宿題をみんなしきったうれしさに夜店の町を歩いて見にけり
  木にもたれ一人文をばつくる時我が木の上で鳥がうたへり
  色づきし草木の名前を教はりて秋の文をばつくりたりけり

 「桃井校時代の徹二君」(『雲人竹内雲人』所収)で、大澤雅休が引く雲人五年生の時の短歌である。「数多い優れた私の教へ子のうちでも最も将来事を成してくれるであろうと思つてゐた子供」というリーダーの資質を持った秀才だったようである。付記すれば、これを機縁にして、母・茂登子、同じく結核で夭折することとなった姉・浜子は雅休門に学ぶようになり、地元歌壇に名を残すこととなった。
 昭和二年より成城学園に学び、成城学園高等学校から、昭和十二年に京都帝国大学に入学。この年から俳句をはじめ、最初「馬酔木」に句を投じ、すぐ「土上」に転じて、島田青峰に師事した。この間、昭和十一年四月に富士見高原療養所に入所したが、昭和十三年七月に再び入所。十四年五月には病気を理由に大学を退学。専攻は建築学だった。昭和十七年四月三日、同所にて、二十八歳の誕生日を待たずに逝去。俳句にかかわった年月は、五年にも満たなかった。
   V
 『雲人竹内徹二』には、二編の雲人論が所収されている。そして、この二編が雲人論のすべてであろうとも思われる。どちらも没後に、『雲人竹内徹二』のために書き下ろされたものである。
 一編は、島田青峰の「雲人君の俳句について」で、原稿用紙にして十二三枚相当の短編である。この時の青峰は、昭和十六年二月の新興俳句弾圧事件により検挙され、主宰誌「土上」は廃刊となり、抑留中に悪化した病のために療養中の身である。執筆のほぼ一年後の十九年五月には逝去することとなる。長編は望むべくもない身体情況での執筆であったろう。作家論というより作品論だが、評価するところは面白い。

  寮舎の午後醜聞ささやかれつつ肥る   竹内 雲人
  病廊をしづかに流れゆく醜聞

を佳しとして「一見詩材が、何かしら新聞雑報みたいな感じがしないではないが、直ちにさうみてしまふのは皮相の見解に過ぎない。作者の眼は、もつと深いところに現実の姿を捉へようとしてゐるのである。長期にわたる多くの病人を収容してゐる療養所といふものを、ある角度から、よく眺めて、その立体感が多少カリケチュアライズ(後の句は必ずしもさうではない)されて、巧みに描き出されてあると考へる」と述べる。今日の私たちの目からは、あまりにも新興俳句然としていて評価するには躊躇を覚えるが、すぐに、それはまさに今日的視点であることを思う。竹内雲人は、新興俳句の同時代人なのである。新興俳句なのである。私たちは、その句を今日只今知ったというだけであり、雲人が現在無名であるというのに過ぎない。同時代人の島田青峰は、長期の閉鎖的生活が続く療養所という場の人間模様をテーマとした俳句の可能性を、雲人に見ていたのである。もちろん、これは偶然の産物ではない。雲人は自覚的に行っていたのである。
 もう一編の富田与士の「竹内雲人論」は、四十頁を越える(原稿用紙にして八十枚相当)力作だが、熱心な分類分析に作品の読解力が伴わない一人相撲の典型のような論である。しかし、そこに紹介される雲人の姿や言葉は、貴重な証言であり、また追悼文集のために書く論を「雲人俳句の批判」で結ぶ健気さは涙ぐましい。恐らく、雲人と同年代だろう与士の論は、雲人らと持っていた「俳句サロン」の健全で健気な空気を伝えるものなのであろう。
 「療院風俗と云ふ大きな連作を作つてみたい」「喀血俳句の決定版を作りたい」という雲人の言葉を伝えている。「如何に優れた俳句であつても、生活感情の詠はれてゐない作品は、所詮、僕の興味を一〇〇%占有することはない」という雲人の言葉も伝えている。後者の言葉は、雲人が「馬酔木」から「土上」に転じた理由も伺うことができる。また、与士の言葉では「自らの作品に於いては主観的には、療養生活の心理描写に、客観的には、療養生活の批判的描写に、その素材の選択範囲を限定してしまつた」というやや批判的なもの言いになるのだが、青峰の言うところの雲人の意図が自覚的な方法であったことを裏付ける。短文ながら青峰が雲人の作品からその意図を呼び出しているのに対し、与士の論は雲人の言葉をちりばめながらもその作品と切り結ぶところがないのは残念だ。乱暴ともいえる、そして「其の殆ど凡てを採録してしまつた」(富田与士「後記」)句集編纂にもかかわらず、また成功している作品ばかりとも言い難いが、それでも句集全体として立ち上がってくる香気のようなものは、雲人の俳句に向かう姿勢が一貫していたからに違いない。雲人が療養者であったから、この作品集が療養者の句集となったのではない。雲人が、作品のテーマをそのように意図していたから、自ずから療養者の句集一巻がなったと見るべきである。
 
  夜の薔薇黙ふかきとき匂ひ出づ     竹内 雲人
  梅雨明くる夕映金色の含
  血を喀きし記憶よダリヤの前に佇てば
  ひそかにも雪ふれるらし熱はかる
  雪屑のなべてわが眼をめがけ降る

 療園生活の中に流れる一人の時間。内向の瞬間。「薔薇」「含水」「ダリヤ」「雪」「雪屑」が、「内向」を引き出すとともに、「内面」を「世界」に開く装置になっている。孤独の内にありながら、自足する。さびしくはあっても、暗くはなってゆかない強い自己凝視の心地よさがある。
 
  血を喀きて人体の精妙を疑はず     竹内 雲人
  湿布交換看護婦の体臭に息とむる
  蝉し激しく異性を欲り得ざる

 血を喀く中で確信する人体の「精妙」とは何か。人体の精妙さがもたらした喀血は、確実に蝕まれてゆく身体を証明するものだ。「精妙」さは、「看護婦の体臭」に息をとまる「性欲」をも人体に埋め込んでいる。それは「精妙」ゆえに療養者であることで失われるものではない。しかし一方その「精妙」ゆえに、「激しく異性を欲り得ざる」としても自覚させられるものだ。身体への視線を研ぎ澄ましてゆく中で育まれるものは、「覚悟」ではあっても「諦念」ではなかったろう。
 
  日だまりや才薄ければ癒ゆるべし   竹内 雲人

 自する「才」を擲ってでも「癒ゆる」ことを選択する。反語的であり、自嘲的でもある。もとより「才」とは別の問題の「癒えざる身」を、このような命題のもとに設定せずにはいられない無念さを思うべきであろう。「十人の患者の快癒によっても、雲人の死が償はれることはない」と療友の間で畏敬の念を払われ「人間として『英雄の卵』」だったと評される雲人の悲しき祈りのための「才薄ければ」である。
 
  黍の上美ぐしき星を一つ撰ぶ      竹内 雲人

 なぜ一つの星を選んだのか。秘かな内面の儀式であったことは間違いない。もちろん、生を繋ぐ最後の選択である。
                               (「鬣TATEGAMI」第4号・2002・7掲載)
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                            林    桂
 
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 昭和二十二年の「群」(第三次)四・五月号に多行形式の提議と作品が発表された。戦後の多行形式の誕生である。野原正作、高柳重信、岡田利作によるものだった。多行形式は、戦後の新たな俳句形式を志向する俳句状況が産んだ一つの方法の出発であった。前年の十一月には、桑原武夫の「第二芸術論」が発表されていたのだった。
 今日でも、それは俳壇の隅の小さな出来事にしか過ぎないと考える人が過半であろう。この試行がどれだけの拡がりを持ったかも、今日では明らかである。やがてこの試行は、高柳重信の方法として収束し、継続されることとなったからである。
 しかし、多行形式はその出立において、戦後の空気を胸一杯に吸い込んだ形式であることを忘れてはならないであろう。この試行の初期には、三好行雄、楠本憲吉、富沢赤黄男らが加わっていたことも忘れてはならない。そして、多行形式において試みられ、夢見られたものも、一様ではなかった。今日私たちは、その夢の跡を高柳重信の句集『蕗子』(昭和二十五年)『伯爵領』(昭和二十七年)に見ることができる。ここに展開される様々な多行形式の方法は、高柳重信の方法であるとともに、初期の多行形式の可能性への夢を反映しているものでもあろう。
 やがて多行形式は高柳重信とその四行形式に収斂する。高柳重信の「罪囚植民地」(『黒彌撒』所収・昭和三十一年)の仕事がそれである。
 では、なぜその他の形式の可能性は高柳の方法の中でやがて遺棄されることになったのだろうか。『蕗子』の三行形式、二行形式を見てみよう。
 
  「月光」旅館
  開けても開けてもドアがある
   *
  わが來し満月
  わが見し満月
  わが失脚

 十七音を「五・七・五」と認識する俳句形式とは、その内部に二つの「切れ」を認知することに他ならない。しかし、その「切れ」は等質ではなく強弱を伴う。これを近代以降の俳句認識で見れば、大須賀乙字の「二句一章」論からはじまって川本皓嗣の「干渉部」「基底部」構造の認識として結実しているものである。二行形式は、俳句形式に内在するこの強弱をより顕在化させる方法であり、装置である。ならば、三行形式は、この二つの「切れ」を顕在化し、均質化する装置である。俳句形式の内部に「切れ」の強弱が内在するものであるならば、均質化しようとする三行形式は二行形式よりも先鋭的な方法であり、新しい文体の獲得が必要である。「わが來し満月」は、この方法が獲得しなければならない文体の例をよく示している。しかし、二行、三行ともに既存の俳句形式の磁場の中の営為であることに違いはない。これを遺棄して、高柳が赴いた四行形式は、内部の二つの「切れ」を「異化」し、幻の三つ目の「切れ」を招来しようとするものであった。このとき、「切れ」は、また均質を失い強弱が生じる。幻の「十七音」(今は仮にこう呼んでおく)が統ぶ世界を求めながら、「異化」した「切れ」を跳躍台としてイメージを展開する方法を、高柳は四行形式の中に見出したのである。それは、既存の俳句形式の磁場の外に場を持とうとすることであり、方法の安定化を呼び込もうとするものでもあった。
    U
 昭和三十年を前後して、青少年俳句の黄金期とでもいうべきものが出現する。その核は「牧羊神」を発刊した寺山修司だが、今日の俳人では、安井浩司や宗田安正らがこの流れに出立する。そして、大岡頌司もその一人である。
 大岡頌司の十代句集『遠船脚』は、その記念碑の一つといえるだろう。

  野の傷は野で癒ゆ麥の熟れし中
  蝉の尿潔し樹間に光りたち
  麥に吹く風のかたまり同志來る
  遠船脚母は浅蜊を掻きをらむ
  陰膳は父梟になかれゐて
  手拭の真水の匂い汽車に乗る

 その大岡が第二句集『臼處』(昭和三十七年)では、三行形式に転ずる。

  かがまりて           そよいでは
  竈火の母よ          静もる笹の葉に
  狐來る             臼處

 なぜ三行形式なのか。高柳が遺棄し、すでに四行形式をその方法していた時期に、遅参の大岡が敢えて三行形式を選ぶからには、それなりの方法意識がなければならないはずである。しかし、『臼處』からはそれが明確に見えてこない。「かがまりて」は高柳の方法を出ていないだろう。「そよいでは」は、「切れ」の場所をずらして表記しているが、それは文脈の要求に添ったゆえのものである。そして句集『臼處』の方法は、この二句の表記意識の中に収まるとも言えるのである。
 その大岡の方法が『花見干潟』(昭和三十八年)に至って、俄然突出する。

  朝がおよぼす戸袋に
  おさめてはみる
  今朝のこぎつね
    *
  うなじあるきか枳殻の
  とげのとがめの
  傘はつぼみに
    *
  現は夢のけむりぐさ
  すてた山椒に
  乳母ら捨てらる
    *
  今は花なき花いちじくの
  日は龍宮の
  杖のつりざを

 成功句かどうかを措いて、その方法論が解りやすく突出したものを引いた。高柳の見届けた形式を超えて見える、この三行形式はどう考えたらよいのだろうか。
 これは内部に抱えた二つの「切れ」を、「俳句性」の第一義として方法を先鋭化させたのだとしか思えない。大岡は、「俳句性」を改行を伴う二つの「切れ」で感じつつ、「書く」行為を継続させたのだ。ここでは高柳が導かれた幻の「十七音」の姿が消えている。逆に言えば、高柳に「十七音」の「俳句性」の幻があることで展開することができなっかた三行形式の姿がここにはある。二つの「切れ」を異化するのでなく、それを「俳句性」として固定することで、幻の「十七音」から自由になろうとする試みがここにはある。「朝がおよぼす/戸袋に」「うなじあるきか/枳殻の」「現は夢の/けむりぐさ」「今は花なき/花いちじくの」のように、一行目に折りたたまれているかに見える幻の「切れ」は、恐らく「道行き」の文体の予告のようなものであろう。すなわち、幻の「十七音」ではなく、幻の「道行き文」のリズムによって読者は導かれるのである。「俳句性」の保証は、二つの「切れ」のみである。この先鋭化は、高柳にはなかったもので、詩的アナーキズムにおいて、大岡は高柳に勝っている。
 この大岡の遁走は、『抱艫長女』(昭和四十八年)の「らふまにの抄」の前あたりまで続く。

  しばのとを            みみきゃうだい
  たたきつづけて         なるほどわれも
  われとなる           すまげんじ

 三行形式によって既存の俳句形式の磁場を出た大岡だが、それは二つの「切れ」を安定させならが、総体としては安定的な表現を排除しなければならないという方法でもある。高柳が四行形式の安定した方法で磁場を抜けようとしたのに対して、大岡にはそれがない。安定したときは、既存の磁場に引き寄せられたときである。その格闘の終着がここの当たりにある。『利根川志圖』は、三行形式の名誉ある後退戦とでもいうべきものであろう。それはそのまま一行形式の『寶珠花街道』への道ゆきでもある。そして、以降は自ずと違った大岡頌司の可能性との闘いの展開である。
 俳句史は、大岡頌司の三行形式を銘記するべきであろう。高柳ら先行世代に遺棄されたかに見える三行形式の可能性に果敢に挑み、独自の方法の方法を垣間見たのである。それはそれ以後の誠実な撤退とも一つのものであろう。
                           (『大岡頌司全句集』栞・2002・10)
 
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「記号の国」俳句逍遙



                                林      桂



 ロラン・バルト著作集7『記号の国』(みすず書房)の訳者あとがき「俳句に誘われてーー断章と写真と小説」で、石川美子氏は、次のように述べている。長くなるが引用する。

  
バルトの理解した「俳句」は、当然ながら、日本人が考 える俳句とは異なっている。べつの言語に訳されて、べつ の文学的土壌に植えなおされた「俳句」は、べつの美しい 花をひらかせるからである。俳句がフランス語に訳される ことによって、変化してしまう点は少なくない。そのなか のひとつが、「わたし」の語がふえることであろう。フラ ンス語では動詞には主語が必要であるから、もとの俳句に なかった主語をつけくわえざるをえない。たとえば、蕪村 の「父母のことのみ思ふ秋のくれ」をフランス語に訳すと、 「夕方、秋/わたしは思う/両親のことを」というような 文になる」芭蕉の「九たび起きても月の七ツかな」は、「す でに四時だ…/わたしは九回も起きた/月に見とれるため に」となる。これらの「わたし」の語はややわずらわしい が、しかし、意味作用はあまり重くない。「わたし」のか わりに「彼」や「あなた」であったとしても、大きな違い はないように思われる。きわめて私的なことを語っていな がら、この「わたし」は、俳句の世界に共通の何かを、そ れぞれの読み手とかさなりあうような何かをおびている。 それは、西欧の文学における「わたし」が語り手の自我や 主体としっかり結びついているのとは、まったく異なって いた。そのような「わたし」を俳句のなかに感じたからこ そ、バルトは、「俳句の時間に主体がない。俳句を詠むと きには、俳句の総体以外の自我をもたない」と言い、俳句 の世界とは「個我のない記憶」であると語ったのだった。

   
 石川氏はバルトの理解した俳句が「日本人が考えている俳句とは異なっている」と述べているが、もちろんそれは現在の日本人が考えている俳句の方が正しいという意味でないだろう。むしろ、このバルトの洞察を踏まえることで、日本の俳句が負った近代の問題が見えてくるだろう。バルトの俳句のテキストは、フランス語によるものであり、それも限られたものであったと石川氏は述べている。しかし、三度の来日経験と相まっての俳句理解は本質的な問題に届いているものがある。提示の理解がその一つであろう。たとえば、バルトのテキストがフランス語のものであったということは、バルトの俳句のテキストには主語が存在したとうことであり、それにもかかわらず俳句の文脈から「個我のない記憶」を感得したということを意味している。卓越した洞察力がなくてはできない業であろう。
 そして、それがバルトにとって未知の表現の可能性を感得させるものだったという意味は大きいだろう。なぜなら、近代以降の俳句にとって、これは必ずしも表現の可能性を意味するのではなく、超克するべき課題として受けとめられてきたものだからだ。もちろん、俳句形式の問題として明確に意識化できていたのかと言えば、そうではいないだろう。むしろ潜在的であったからこそ、克服するべき自明の問題としてあり続けたと言えるかもしれない。
 正岡子規の「写生」論の根底には、近代西洋の眼の獲得が企図されていただろう。子規が俳諧を否定し、月並を否定し、発句を俳句として独立させた革新の問題は、西洋の眼をとおして表現者の自我や主体の獲得がセットされた問題だったと考えることができるかもしれない。俳句形式に欠落している自我の表現の補完こそ俳句の近代化のベクトルであったと考えられはしないか。桑原武夫の「第二芸術」論において問われた根本の問題もそうではなかったか。表現として獲得されたかどうは別にして、「句日記」のような日常詠の志向においても、石田波郷の「私小説」のような方向においても、社会性俳句や前衛俳句の問題においても、個我の表現を志向するという意味では、同じベクトルであったろう。句集の編纂においても、近代から現代への句集は、季題別編集から編年体編集へと移行してきている。さらに表現テーマに基づく編集がなされるようになった。これは個我表現として俳句を編む問題として考えられるべきであろう。季題に解体された個人の時間を、編年体は呼び戻そうとしたのである。さらにテーマ編集は作者像の構築を目指した言えるだろう。
 バルトが俳句表現に発見し評価したものは、日本の近代俳句のベクトルと相反するもののように思われる。そして、日本近代においては、それを評価するべき特長と考えられなかったのは、明治という時代を考えれば当然ではあったろう。そして、それは現在では容易に修正のきかないとことろまで来てしまっている。あるいは、修正するべきだという問題を獲得できないところまで来てしまっているといった方がよいのかもしれない。
 尤も、企図は企図として、バルトの洞察のとおり、現在も俳句形式は表現として個我を獲得できていないという見方も可能であろう。近代俳句の歴史は企図と形式の乖離を深めるものだったと言えなくもない。
 ともあれ、新たな、そして本質的な表現の可能性を、バルトの視点から今後に開こうとするのであれば、この無自覚的な乖離の現状から生まれることはないであろう。いずれかに自覚的な認識と方法の出発を持たなければならないでろう。
 日本人は定型詩の主体の特異性について、もともとは十分知っていたと考えられる。歌謡を記紀に取り入れたとき、歌謡の中には神の主体が流れ込むことを知っていただろうし、歌物語に引用された歌には物語人物の主体が流れ込むことを知っていた。連歌、俳諧は、連続する主体転換のダイナミズムこそが遊びの意味だったかもしれない。紀行文「奥の細道」は、引用の俳句(発句)に「芭蕉」という主体を流し込むための装置であるとも言えよう。
 近代における俳句の自立は、定型の中に作者以外の主体が流れ込むのを断ち、作者の主体のみを充填しようとするものであった。その成功不成功はともかく、今後流れを戻し変えることは不可能であろう。しかし、現在はバルトの理解に基づくような違う選択肢もあったことを考えることができるはずである。その可能性を考えるには、かつての詩歌にかかわる表現方法を、再点検することが必要かもしれない。現代においてどのような装置が必要で可能かを問うために。
                       (「ウエップ俳句通信」第33号・2006年8月)
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