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目 次

タイトル 初 出
1 俳句の詩語 「WEP俳句通信」第32号・2006・6掲載
2 定型と伝統と引用 「WEP俳句通信」第26号・2005・6掲載
3 追悼・伊藤信吉氏ー上州横浜市民 「鬣TATEGAMI」5号・2002・10掲載
4 大岡頌司氏を悼むー偲ぶ会報告記 「鬣TATEGAMI」7号・2003・4掲載
5 還暦の澤好摩氏へ 「俳句研究」4月号・2004・4掲載
6 「風の國」へ 「合歓」24号・2003・12掲載
7 河原枇杷男『烏宙論』との邂逅 「俳句四季」平成17(2005)年6月号掲載
8 俳句の危機とは何か 「WEP俳句通信」第24号・2005・2掲載
9 季語 「俳句界」平成17(2005)年8月号掲載
10 『百句燦々』という読みの自立 「鬣TATEGAMI」17号・2005・11掲載


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俳句の詩語

                             林     桂



 川本皓嗣は『日本詩歌の伝統』(岩波書店)で、定型詩である俳句(俳諧)の言葉の特殊性について、つぎのように述べている。

 ある詩語やテーマが、ほとんど自動的・排他的にある一定の感情や連想をよびさまし、しかもそれが一種のたてまえとして通用するというのは、かなり特異な現象といわねばならない。むろん言葉であるからには、ひと通りの意味以外にも何かの付随的な意味を伴うのが普通であって、数学の記号のように、ただ一方的にある特定の情報を伝え、読者のなかにいかなる余分の反応をもよび起こさない言葉などというのは、倫理学者の見る夢にすぎない。しかし、誰が用いても、また誰が読んでも、つねに同じような言外の意味、つねに同じ余情を伴う言葉というのも、やはりきわめて特殊な例外である。文学、ことに詩のなかでこそ、そうしたきまりきった意味の拘束が破られるのが通常であることを考えてみれば、このような事態がいかに窮屈であるか、だが時と場合によってはいかに豊かな可能性を提供しているかがわかる。(略)実はこのような詩語(あるいは テーマ)と一定の情趣との間の短絡があってはじめて、わずか十七文字の間にあれだけの叙情的インパクトを盛り込んだ俳諧というものが成立しえたともいえるのである。
 
 この特殊な言葉の機能は、一般的に「本意(ほい)」と呼ばれる。川本は「本意」について、「これを『本来の意味』ととることはできない。秋の夕暮はたんに秋の夕暮であって、寂しさは本来そこに含まれていないからである。しかしもちろん、作者や読者が勝手に付け加える個人的な意味と解することもできない。『秋夕』の寂しさは、わが国では一個の通念であり、常識であったからである」と述べている。
 川本は、世界で最も短いと言われる日本の定型詩を詩歌として成立させているのは、世界基準から見れば極めて異例の「詩語」である「本意」の機能にあると指摘しているのである。詩語とは、このようなきまりきった意味の拘束を破り、言葉を励起がするところに成立するものであるとすれば、日本の詩歌の「詩語」は、その範疇に入れるべき言葉ではないと言える。詩人個人の優れた感性に根ざした言葉ではなく、日本文化の共同体の幻想に根ざした言葉なのである。そして、俳句にあっては、「季語」として幻想されているものに、その多くが集約されている。
 もちろん、「本意」によって成立する詩的世界は、また本意によって限りなくステレオタイプ化されてゆく。それは詩的世界とは呼びがたいものに近づいてゆくことでもある。詩人による主体的な「書く」行為というよりは、「本意」によって「書かされる」受動的な行為となる。だから、五七五の言語空間がいまだ誰も書いていない文脈で満たされていたとしても、「本意」の世界からみれば、既に十分書かれてきた世界であるということはあるのである。
 俳句を詩的表現とするならば、俳人に課せられた表現とは、「本意」の力を借りつつ、一句としては「本意」を超えた世界を顕現させることである。高柳重信は、俳句を「詠む」ではなく「書く」と表現したが、これを自覚する行為の言い方であったろう。また、乾裕幸は『俳句の現在と古典』(平凡社)で、芭蕉の「鶯や餅に糞する椽の先」「古池や蛙とぶこむ水の音」について、「花に鳴く鶯、水にすむかはずの声きけば、生きとし生けるものいづれか歌を詠まざりける」(『古今和歌集』仮名序)の和歌美学への反措定であり、定立された和歌の《実》に対して、《作者感ずるや句と成る所》(三冊子)の《虚》、すなわち俳諧の《誠》の句であると述べている。鶯、蛙の本意の共同の幻想を読者と共有しながら、鶯は花に鳴くことをしないで糞をし、蛙も鳴くことをしないで水音を立て、「本意」の外に世界を形成しようとする。これがここでの芭蕉の詩学であると述べているのだ。「本意」によりながら、「本意」を超越しようとする言葉の構築を目指すダイナミズムの中で、俳句の言葉は成立するのである。
 秋尾敏は『子規の近代』(新曜社)で、正岡子規が排撃した月並み俳句を紹介し、論じている。たとえば、蕉風に連なる「雲の下筑波は晴て夏の雨」「水切れし糸瓜のつるや後の月」の二句について、その類型性と「寂の世界をつくりだそうとする作為」を指摘して、「なぜそうなるかといえば、これが芭蕉がいった『侘び』とか『細み』とかの概念がまずあって、それに当てはめようとトップダウンに句を作っているからである。そこに月並の類型が生まれる理由がある」と述べている。「本意」を超えるダイナミズムによって実現するべき世界が、概念化されて先在し、それをなぞる行為に変容してしまったのである。それは「本意」の身の丈を超えることのない方法論である。享受史の中では、「本意」も少しずつ変容し続けるだろう。蛙の立てる水音が、「侘び」の「本意」であったかのような世界はすぐに誕生する。しかし、そには、すでに芭蕉の作句の場での方法論が失われている。
 秋尾は、子規の革新俳句や今日の俳句から隔たったところにあると私たちが漠然と考えている月並俳句が、実は大きくは隔たった姿でないことを、明治期の旧派俳句の検証から提示している。子規に始まる明治の革新俳句が、いつの間にか伝統俳句になるような享受史を私たちは生きている。それは、百年を超える大きな時間が流れて伝統化したというよりは、享受史の宿命としてそうなのである。精神的な核心部分を受け継ぐことは難しいが、誰の目にも見える形の部分は、受け継ぎやすいからであり、それは俳句に限ったことではないだろう。
 定型詩を継承するには、表現精神の定型化から逃げ続けることが求められるだろう。定型、そしてそれを支える「本意」を背負った特殊な詩語を所与のものとして恵まれることと引き替えに、私たちは定型化する表現から常に自由であろうとすることを求め続けられているのである。もちろん、自由であろうとする方法は所与のものではない。私たちが、創作にかかわるのは、何よりもこの所与なざらる部分である。近代の俳句表現史における自由律の問題も、有季、無季、キーワードの問題も、一行表記、分かち書き表記、多行表記の問題も、定型のフォルムの再構築の問題として考えるよりも、表現の自由を獲得するためのダイナミズムの照り返しの問題として、同一つの視座から見ることで明らかになることがあるだろう。形ではなく、表現精神を撃つ視点が必要だ。




定型と伝統と引用

                                  林    桂
 


 「定型」とは、作者の創作に先駆けて存在する意識であり、その存在を意識し引き受けながら、作者は自分の言葉の世界を切り開き出現させるものである。そして、これはいかなるジャンルでも多かれ少なかれ存在する問題なのであるから、「定型」はその問題をより顕在化させるものであるといった方が正しいだろう。この作者に先駆けて存在し、作者を導き、やがて作品によって「作者」そのものを出現させる意識をなんと名付けるかで、「作者」そのものの姿もまた違ってくるであろう。なぜならば、名付けるとは、そのまま先駆けるものを同定するという意味も含まれているからである。
 「俳句」という「定型」にあっては、これを「伝統」という意識で引き受けることが一般であろうか。そして、この伝統のカテゴリーに何を含めるかによって、その作家の立ち姿は様々なものになってゆくであろう。
 したがって、俳句における「伝統」とは、本当に過去から連綿と続く何かというよりは、現在の作家が先験性として認知する意識の名前であるというべきものであり、それは江戸後期の俳人が自らの正当性を認識するという意味において、「蕉風」という意識を持ったのと大きな違いはないといってもよいものであろう。自らのよって立つところを「伝統」と呼んだとき、俄に正当性の意識が立ち現れるのに反して、真摯な作者の顔は希薄になるようにも思われるのだ。
 私は、先験する「定型」を「伝統」という意識で名付けるよりは、広義の意味での「引用」として認識することの方がよいと思っている。「文化」とは、煎じ詰めれば先人からの引用である。私たちの現在は膨大な引用の表現の中にある。私たちが引用なしに一から始められるものなど、なにひとつとしてないのである。「定型詩」においても、「引用」なしの表現など不可能である。もちろん、「引用」とは先人の知恵を自らの表現の場に生かすことであり、「剽窃」とは自ずから異なっている。むしろ、「引用」の意識は、自らの表現を先人の場に晒す意識を伴うであろう。つまり、自分のオリジナリティーの認識とは何かという問の先立てなしには、「引用」は成立しないのである。そして、それは自己を誇大妄想する危険からも救うものだろう。「俳句史」とは、表現史であるべきだが、それを作家個人個人が必要とするのは、それがそのまま「引用」の入り口であるからに他ならない。「伝統」の認識には、時間を解体させ、表現の変遷と豊かさを封印する罠が潜んでいるように思われる。
 例えば、「花鳥諷詠」は高浜虚子に始まる百年に満たない俳句認識だが、それを「伝統」と認識すると、それ以前それ以後の表現史が見えにくいだろう。虚子の方法を「引用」し、表現の問題として自分の中で開くと考える方が、虚子に対する敬意も含めて、厳しい表現者の場が現れるはずである。

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追悼・伊藤信吉氏ーー上州横浜市民
 
                                   林    桂
 
 
 
 
 「横浜の伊藤です」電話の声はいつもそう始まった。どんな場所でも、どんな立場で受けても、そうだったと思う。その名乗り方でさえ、伊藤さんのリベラルな姿は彷彿としていて愉快だった。文学館の館長として仕え、群馬文学全集の監修者として指示を仰いだときも変わらなかった。「伊藤さん」と呼ばせていただいたが、それは伊藤さんの対人的な姿勢から来ているもので、「伊藤さん」という呼び方に敬意を込めるのが、最もそれに適っていたからに他ならない。
 しかし、電話の向こうの「横浜」は、どこか現実との対応を欠いて聞こえた。ある時、あの「横浜」は、神奈川ではなく「上州」にあるのではないかと考えて、自分の中では落ち着いた。「上州横浜市」きっとそんなところに、伊藤さんは住んでいたのだと思う。「上州」を離れて「上州」がよく見え、「上州」を離れて「上州」をより愛する精神が伊藤信吉だ。その「上州」は、ちゃんと「日本」の中に位置を得、通路をもったくきやかな「上州」だ。
 天の配材ということを思う。上州は近代詩揺籃の地だ。湯浅半月にはじまって、山村暮鳥、萩原朔太郎、大手拓次、萩原恭次郎と続く流れは、時代の前衛を走り、時代を創造してきた。これに秋尾敏に倣って「往還の文学」としての「上州」を考え合わせるならば、草野心平、室生犀星などの来訪も意味を持ってくるだろう。伊藤さんはこの系譜の最終ランナーだった。そして、最終ランナーに相応しい仕事をした人だった。また、伊藤さんでなければ最終ランナーは務まらなかった、そう思わせる仕事をした人だった。言葉に対して詩人の感性を核に持ちながら、先人の仕事を編集し、批評し、大系づける仕事を大切な仕事とした人だ。詩人達の今日の評価を創造する仕事を背負ってきたのだ。それこそ最終ランナーの仕事だ。たくさんの詩人はいても、この仕事のできる資質を持った詩人は幾人もいるものではない。優れた文学上の作品を残すのは第一義だ。しかし、その仕事を残そうとする仕事なしには、文学の評価は自立し得ない。伊藤さんは、この第二義の仕事を大切にした人だ。上州を近代詩の揺籃地たらしめたのは、先の詩人の仕事ばかりではない。最終ランナーとして伊藤信吉が待っていたらかでもある。「私までが近代詩。以後が現代詩」伊藤さんはそう語ったことがある。なるほど、伊藤さんはそういう所にいる詩人だったと、改めて思う。
 「群馬文学全集」(これも初案は、「上州文学館」だったと記憶する)の監修は、伊藤さんの残すための総仕上げの仕事だった。伊藤さんの仕事がなければ、無名のまま消えてゆくはずの作家たちに光があたり、テキストとして残ることとなった。一般的には無名と言ってよい人たちまで読み込み、文学として評価し愛するという姿勢の中に伊藤信吉の仕事の真骨頂があった。思えば、二十世紀の「群馬の文学」は幸せであった。伊藤信吉という回路で文学の普遍性に道を拓かれ、伊藤信吉という批評に遭遇して自立できたのであるから。「伊藤信吉」の存在を持っている地方など、そうあるものではないのだから。
 伊藤さんの中に流れる文学の血は、父・美太郎に由来している。伊藤さんはそう考えている。渓雪と号する明治・大正期の旧派の俳人だったのである。文学の血を大事にすることは、父を大事に思うことであり、俳句を大事に思うことでもあった。伊藤さんが俳句を愛したのには、伊藤さんのこうした思いが根底にあったからだと思う。
 『回想の上州』(あさを社・一九七七年)の自序ともいうべき章を、「草緑色の歳時記ー村の詩的家系」としている。「昭和二年に四十八歳で父が没し、村の俳句仲間が葬列の先頭に幟を押し立ててくれたとき、私は『街』というモダニズムめいた詩雑誌を出していた。村の俳人。その子の村の詩人。私の家系は俳句から詩へつながっている」こう伊藤さんは結んでいるのである。
 伊藤家の句集を作りたいとおっしゃったこともある。弟の秀久さんも俳句を作り、句集『俘虜記』(一九九三年)『終戦兵長』(一九九四年)を持っている。父、弟との合同句集をまとめたいというのであった。これも、きっと伊藤さんの同じ根っこから出ているのだろうと思う。
 伊藤さんにとって、俳句は、父のように、血のように、懐かしい「存在」だった。そして、それゆえ伊藤さんの書く俳句も、そういう懐かしさを懐深くに抱えていた。
 そもそも「鬣TATEGAMI」の発足の言い出しっぺは、伊藤さんその人だった。その中には、若い世代への励ましもあったろう。もっと仕事をしなさいという督促もあったろう。そして、何より伊藤さん自身の俳句への思いもあったはずだ。今はどれも、有り難くいただくばかりである。
 伊藤さんにお別れにゆくという前夜、編集の水野さんに電話した。そこで、伊藤さんの原稿が入っていることを聞かされ絶句してしまった。締切には随分日にちがあって、伊藤さんの入稿など思いの外のことだった。龍沢さんに、それが伊藤さんの絶筆に当たるものだと告げられ、声が出ない。伊藤さんの絶筆が俳句だったのは、偶然ではなかったかもしれない。伊藤さんの血には、それが一番自然だったのかもしれない。そう思うしかない。
 思えば、尊敬する文学の先達の「恩」に何一つ報いることがなかった私は、伊藤さんにお返しするつもりでいたが、思い上がりも甚だしい結果となった。伊藤さんの白い「鬣」ももう見ることはない。
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大岡頌司氏を悼むー偲ぶ会報告記    

                      
                                  林    桂
 
 
 
 大岡頌司氏が亡くなられた。高橋龍氏からいただいた葉書によれば、腎不全で二月十五日午前七時七分に逝去。享年六十五歳。葬儀は近親者のみで、二十一日に行われるとのことであった。
 高橋龍、酒巻英一郎、岩片仁次、寺田澄史氏の、秋田在の安井浩司氏を除く『大岡頌司全句集』刊行会のメンバーが世話人となった弔問と偲ぶ会が行われたのは、二月二十三日だった。総勢十六名。阿部鬼九男、澤好摩、山本紫黄、安井浩司、桑原三郎、福田葉子、高柳蕗子、大井恒行、豊口陽子氏ほかが参集した。
 二時集合の春日部駅に少し余裕をもって着くと、酒巻氏と高橋氏が並んで出迎えにたっている。指示された時間待ちの喫茶室に入ると、既に岩片、澤、山本、福田、大井、豊口氏らがコーヒーと煙草の煙の中にいた。少し遅れて阿部氏が入ってくる。寺田氏が現れないまま、二時二〇分ころにタクシーで大岡家へ。大岡頌司夫人の応対をいただいて弔問の後、再びタクシーで春日部駅に戻り、駅前の「ヤマヤ」で偲ぶ会が行われた。予定の三時半より少し前に偲ぶ会の席に着く。乗り継ぎを間違えたという寺田氏は、一人遅れての弔問を済ませ、ここで合流をした。
 高橋龍氏から、大岡氏が亡くなる前後の報告があって、山本紫黄氏の発声で献杯。安井浩司氏が挨拶に立った。酒巻氏によって、床の間に大岡氏の句幅がかけられ、最後の句稿などが回覧された。特徴のある大きな字が一層大きい。
 高橋氏によれば、大岡氏は糖尿病の悪化から腎臓の透析を続けていたが、更に悪化。膝からの切断を予定していたが、そのための検査で手術に耐えられる体力にないことが判明し中止、直後の逝去となった。実際は、医師の死亡診断時間の早朝ではなく深夜の逝去であったろうとのことであった。
 安井氏は、大岡氏から受けた最後の電話の話。俳句形式に賭けた自負とともに、それに引きかえてお互いに世渡りが拙かったことがその話であったという。澤好摩氏の言うように商業誌はあっても総合誌が不在の現在、大岡氏の特集とは言わなくても追悼文が掲載されることも難しいだろう。俳句形式の可能性に賭ける「存在」を排除しても、敬意を払うことを忘れてしまった状況での最期は、なんとしても無念であったろう。五人の友情によって刊行された全句集が、未来へのプレゼントとして残ったことがせめてもの慰めである。
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                               林     桂

 
 平成十六年は申年である。今年は、申年生まれの「昭和十九年の会」のアンソロジー『モンキートレインに乗って』(短歌新聞社)に参加した澤好摩氏が還暦を迎える年なのである。ちなみに歌人中心のこのアンソロジーに参加した俳人は他に坪内稔典氏がいる。
 澤氏の還暦に感慨を持つのは、当時澤氏は「俳句研究」に勤めていて、編集長高柳重信は還暦の作家の特集を盛んに組んでいたからである。私も佐藤鬼房氏について書いたのであった。その鬼房氏と澤氏が同齢に達するのである。坪内氏と並んで若い世代のリーダー役が澤氏であったのだから、私も若いままでいられる訳もない。当時の高柳編集長の還暦特集の意図は、還暦を祝うことで、その世代を棚上げして老残の醜を庇い、世代交代を図って次世代の奮起を促そうとするものであった。しかしいま、私たちは澤氏を棚上げすることができるだろうか。そう自問すると、私たちが如何にくすんだ時代を生きているかが判ってくる。
 澤氏を発行人に、夏石番矢氏を編集人にして、同人誌「未定」が創刊されたのは、昭和五十三年十二月であった。私も創刊同人に名を連ねさせてもらった。この「未定」創刊も、既に俳壇史の範疇となってしまった。創立五十周年を記念して刊行された『資料・現代の詩2001』(日本現代詩人会編・角川書店)の年表は、「詩的事項」にこの「未定」創刊を記載し、俳句誌としては異例の扱いをしているが、残念ながら挙げている俳人に澤氏をはじめとする創刊同人がいない。作成者は現在「未定」に創刊同人が一人もいないことを知らなかったのであろう。そして、誰がそこで仕事をした故の「未定」であったかも。「未定」の創刊号から三〇号までが、関西の古書店のカタログに三万円の売値で出ているのを最近見つけたが、売値さえ付かないのが俳句誌であれば、これも異例の扱いと言えるだろう。
   *
 澤さんとの初会は昭和五十三年の夏だと思う。「五〇句競作」の入選者を集めた会が「俳句研究」の主催で行われた。私は、郷里の山間の学校に職を得た年で、初めて参加できたのだった。その会の後に「未定」創刊の話し合いの場があって、澤さんに声を掛けていただいた。
 その後、俳句関係で上京する折りは、大体が澤さんのアパートにお世話になることとなった。このアパートで、小林恭二氏、米元元作氏をはじめとする「未定」初期のメンバーと逢う機会を得たのではなかったかと思う。
 澤さんは、稀有な人格だと今でも思う。舌鋒鋭く同人の誰とも論争するのを好むかと思えば、無類の世話好きでもある。リーダーの資質と言えばそうに違いないのだが、やんちゃ坊主たちの大将と言った方がイメージに近い。正岡子規が、高浜虚子や河東碧梧桐の俳句の師であると共に、ベースボールの師であったことを思う。多分、いくつかのリーダー役の一つに俳句があったに過ぎないというような人格が子規なのだ。澤氏もそういう人格なのである。
 俳句に止まらず、ゲームから旅行まで企画する。果ては荻窪のラーメン店巡りの先達まで務める。折笠美秋氏のお見舞いにまで声を掛けて貰った。「俳句評論」の系譜に連なっていなかった私には、澤さんの誘いがなければ、「未定」の同人総会のゲストで遠望した元気な頃の折笠氏の姿が全てで終わっていただろう。
 大学の恩師A先生は、コーヒーが切れたら買ってくるという条件で自分の研究室を学生に開放していた。先生の授業は私のような不勉強な者には面白いものではなかったが、研究室でのコーヒーブレイクの雑談で学んだことは今でも財産になっている。澤さんにも同じようなことを感じる。沢さんのアパートでの雑談から学んだ俳句の理解や方向性は、はかり知れない財産である。思えば、私が多行形式の俳句を書く切っ掛けとなったのは「未定」の特集であり、その作品を澤さんに認めて貰ったことが継続的な仕事に繋がったのである。これもあのアパートでの雑談でだったろう。
 
  木枯しの橋を最後の走者過ぐ  『最後の走者』
  空たかく殺しわすれし春の鳥     『印象』
 
 最初の走者になるのが大変なことは誰にも解る。しかし、石田波郷を出すまでもなく、最後の走者たらんとするにも同じよな覚悟が必要であろう。その眼が見つめるものは殺し忘れたものとしての空の鳥。ずっと前から澤さんは孤高だったのだ。私たちは、澤さんを忘れようとしているのか、澤さんに忘れられようとしているのか。澤さんの還暦のお祝いは、そんなふうに澤さんを思うことで、自分を問う以外になくなっているのを知ることだろう。
   
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「風の國」へ

                                 林     桂



海に遠く
海に
向く坂
風しぐれ               林    桂
 
 多行形式の句集としては三冊目の第四句集『風の國』の刊行準備をしている。掲句はその句集に収録予定の作品である。初出は「鬣TATEGAMI」第五号(二〇〇二年一〇月)になる。
 私達の俳句同人誌「鬣TATEGAMI」創刊について助言をし、かつ参加までしてくださった詩人伊藤信吉氏の追悼句として書いたものである。
 八月初旬、私は暑い横浜の坂を伊藤氏の葬儀に向かっていた。元より土地勘はない。方向を決めて一心不乱に歩くという歩き方で、場所を失うと方向を訊いてその先を行くというまさに田舎者の歩き方で斎場を探った。蝉の声が降っていた。横浜でも、こんなに蝉が鳴くのかと変な感心をしたのを覚えている。自分の方向感覚では坂は海に向いているはずであったが、街並みの先は淀んだ空気が濁っていて何も見えなかった。遠眼差しのための顔に風を感じた。その瞬間に伊藤氏が亡くなったのが胸に来て、危うく落涙しそうになったのだった。
 それが直ぐに俳句の言葉となって、その場でこの追悼句ができた訳ではない。数日を要して「風しぐれ」という言葉を得て初めて形になったのである。「風しぐれ」という言葉が既にあるのかどうか知らない。ともあれ、私の意識の中では、この句のために得た私の造語であった。この言葉を得て、追悼の思いを結ぶことができたのであるから。
 七、八年前から『風の國』をテーマに、多行形式の作品を書き続けてきていた。もちろん、『風の國』には、在住の群馬をモデルにする意識が働いてはいるが、群馬そのものを詠んだものではない。あくまでも仮構の國である。言葉の中の國である。ところが、鈍足もあって書き終わる地点が、作者本人にもなかなか見えてこなかった。だから、七、八年も書き継いだとも言えるのであるが。泥沼を徘徊する思いが長く続いていた。
 しかし、この句を得たときに、自分はどうやら『風の國』を書き終えたらしいという思いが俄に湧いてきたのである。終息感は、こんなに呆気なく思いもかけない方向からやってくるものだったのかと不思議に思った。
 縁をいただいて、伊藤氏の晩年の仕事ぶりを見せていただけたことは幸せであった。継続的で、筋の通った仕事を何本もし、その累積として膨大な仕事が残った。文壇の長老として、評価と栄誉に浴さなかった訳ではないが、その真骨頂は何にもおもねらずに自身のしたい仕事をしたいように継続したことにあろう。金になる仕事も、ならない仕事も、同人費を払ってする仕事も、同じように最後までやり通した。そこに一義的な価値があるのではなく、自身のやりたいことが第一義にあったからの結果に違いない。
 変な言い方だが、伊藤氏には埋没する勇気を貰った気がするのである。したい仕事をする。他に何があろうか。
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河原枇杷男『烏宙論』との邂逅

                                   林    桂



 「俳句研究」に「河原枇杷男掌論」を執筆掲載したのは、昭和五十三年九月号である。この春、私は山間地の学校に職を得ていた。職場と官舎は三分と離れていなかった。俳句に向かう時間だけがたっぷりあるという、今から考えれば贅沢な時期であった。前年昭和五十二年秋の「五十句競作」に一席に入って、「俳句研究」に執筆の機会を与えられることが多くなってもいた。その中で執筆した一編がこの論であった。
 当時は怖いもの知らずで、依頼のあったものは何でも書いていた。編集長の高柳重信が若手を起用するときは、どれだけ対象を知っているかというよりも、これを機会に対象にどれだけ真剣に向き合えるかを問うというふうだったので、こうした書き方に臆することがなかったのは、私一人ではなかったはずである。依頼状に書かれた横に寝た独特の「高柳重信」のサインが、それを促していたのだった。
 執筆を引き受けてから、当時大塚にあった文献書院に河原枇杷男の句集を買いに出た。高価なのは覚悟していたが、三冊で五万円くらいはした。今から思えば、川原枇杷男の句集が最も高価な時代であった。(いま、確認したら『烏宙論』はコピー製本版である。これは大学時代にいくつか作ったもののひとつだろう。この正本を誰から借りたものか、今となっては不明だ。大学時代の身近に河原枇杷男を持っていそうな人物など思い当たらないからだ。)
 さて件の論であるが、さすがに今読むとかたい。河原の句中の「母」を巡っての論は穿ち過ぎていて、作家の思いから離れたものになっていただろう。それでも、当時はこのあたりを一番得意な思いで書いていたのだろうとも思う。
 そのとき読み、書いたことが、今でも私の中で生きているものは、「存在」をテーマに「書く」という行為からぶれてゆかない屹立した作家であるという像である。自己模倣、自家撞着という視点からの批判はたやすいが、俳句においてかく一穴を掘ることを厭わない作家がかつていたかどうか。そして、河原が選んだのは「存在」という最も深い穴である。生涯を使い切るのに十分な深さを選んだのである。そして、この書き方を堅持する限り、河原にとって世の毀誉褒貶は問題ではなかっただろうことも知れた。

   野菊まで行くに四五人斃れけり             枇杷男

 右の句を引き、論を「斃れた四五人は、すべて枇杷男であったかもしれない。そして、野菊とは〈存在〉の花姿であったかもしれない。野菊に辿り着いた枇杷男の数は、枇杷男自身も数えぬ困難な道行きである」と結んでいる。敬意を込めた餞の言葉のつもりであったのだろう。この思いは今も変わらない。
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俳句の危機とは何か

                                   林    桂


 最短の定型詩である俳句にとって、存亡の危機はいつも身近に感じる思いであろう。逆に言えば、危機意識のバネによってのみ延命することが可能な形式が俳句であるとも思われる。俳句に危機意識が不在になったときは、既に俳句は滅びているのかもしれないのである。だから本当の危機は、俳人、俳壇が危機を感じる能力を失ったときでもあろう。
 では、現在只今、俳句にとって危機は存在するのであろうか。俳句にかかわる個人の思いに軽重もあり、様々であろう。しかし、尋ねれば、誰も危機の思いの一つや二つは口にするであろう。すると、逆説的に俳句は安泰であることになるが、これもまた疑ってみる必要があろう。俳人は既に俳句の危機のあり方を学習していて、ステレオタイプ的にそれを口にしているに過ぎないという穿った見方も可能だからである。
 やはり危機の意識が表層的なものであるか、深層的なものであるか弁別する必要があろう。また、俳句形式そのものへの危機意識なのか、俳壇的な危機意識なのかも、見極める必要があろう。その上で、真に危機意識が発見されなかったならば、そのときは俳句の危機と言ってよいであろう。
 先に「危機意識のバネ」と言ったが、これは定型詩ゆえに典型的な表現を求めて安定したいという形式が持つ欲求と、一方でそれゆえに短い表現が陥るマンネリズムを、どう脱却するかという葛藤を要求されているということである。「所与の定型詩」をどのように、新たに所有し直すかという問いに答えることなしには、定型詩の表現者にはなりえないという反語的な場所に身を置くことを求められているのである。
 俳句という定型詩は日本の「文化」が揺籃したものであり、その根の前には個人的な想像の領域は限られているように思われる。つまり、定型詩とは宿命的に文化からの形式「引用」の文学なのである。「引用」という概念を「伝統」と呼びたいという思いは、俳人ならば誰も一度は持つ誘惑であろう。かつ、それに「守る」という思いを加えれば、形式も自身も正当化してくれるに違いないという幻想からも免れがたいものがあるからだ。
 しかし、「俳句」という形式はその出自から言っても、常に自己内変革を続けなければたちまちに行き詰まってしまうような存在なのである。短いとはそういう意味なのである。「引用者」として、何を自己の表現とするかという問いを自らに課すことを手放したとき、俳句も俳人も危機に直面する。定型という安定したがる表現に、常に革新の気を盛るという不安定な位置にどれだけ耐えていられるかが、俳句と俳人に求められる。磯田光一は、かつて高柳重信の多行形式をさして、「様式の破壊者だったであろか」と問い、「高柳重信もまた保守派なのである」と結んだ。高柳の多行形式も、見事な俳句「引用」の仕事だったというのである。保守に革新を盛るような矛盾に耐え、数少ない恩寵をいつまで待てるか。そういう俳人を同時代に見いだせるかどうかである。
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季語

                                   林    桂


 俳友に加えたい季語があるか聞いたところ、即座に「ひばり忌」と返ってきた。加えて「林さんは治虫忌?」と言う。なるほど昭和の終焉と軌を一にして逝き、私たちが生きた時代をひとつに纏めて振り返らせてくれる力がある。しかし、これは季節の言葉ではない。なるほど、これらの言葉は少年時代の思いに向かわせてはくれるが、思いを季節に向けてはくれない。手塚治虫記念館にまで足を運んだ私だが、残念なことに忌日は覚えていない。私にとって明確なのは重信忌の七月八日くらいであるが、これとても私の治虫忌と同じく季節感を持たない人が多いだろう。
 かつて『歳時記の宇宙』(雄山閣・平成九年四月)で、新季語の作品を募集し、選者を務めたことがある。そのときに提案したのは、「花粉症」「白線流し」「海の日」「おばけ屋敷」「怪談」「モロヘイヤ」など。これは季節の言葉だが、どれだけ「普遍化したコノテーション(共示義)」(川本皓嗣)を、つまり季節の「本性」を持つ言葉か検証された後でなければならないだろう。
 これは既存の歳時記に登録された季語についても、同様のことが言える。本当に「季語」たり得るかという厳密な検証なしに、俳句に「有季」の免罪符を与えるがごとくに、その数を増やし続けてきたのが現状であろう。その集大成を今『日本大歳時記』(講談社)とすれば、その数は凡そ五千語にのぼるようである。一方、近代的な歳時記の嚆矢は、明治九年に刊行された横山見左編『俳諧新選四季部類』(『日本近代文学大事典』は『俳諧題鏡』としているが、松本夜詩夫氏によって、前記題が確認されている)であり、明治五年に始まる太陽暦に即した最初の近代的な歳時記とされるものである。そして、その掲載するところは、約三千である。単純に見ても二千の季語を増やしてきた計算だが、もちろんそれぞれの季語には消長があるから、二千に勝る数を補っている計算になるであろう。
 こうした増加の動向の中でも、消えゆく「季語」とは「共示義」を担いきれずに、書き、読まれない言葉ということになる。担いきれないという問題の中には、言葉そのものの問題も、社会生活の変化により言葉が疎外された結果であることもあろう。ならば、それは流れに任せておけばよいように思う。『日本大歳時記』は、山本健吉選で基本季語を五百設定している。本当は、このくらいの「本性」を美学に据えて季語を考える方が、俳句のためによいのではないかと思う。しかし一方、『日本大歳時記』に落集し、『俳諧新選四季部類』が拾う「星唄ふ」(一月)「玉兎」(九月)を見ると、美しい言葉を失ってきたとも思う。残すとは、自分の書く行為を通して実現する以外に方法がないのであれば、いずれ私の作品で、星が唄い、月が玉兎になって現れる日がくるかもしれない。

   白線を流して肩に風通す                     林   桂
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『百句燦々』という読みの自立

                                  林     桂


 後藤貴子は「中学生は俳句をどう読むか」(「鬣TATEGAMI」第十六号)で、中学生の俳句鑑賞句選択の面白い傾向を紹介している。「じゃんげんで負けて螢に生まれたの」(池田澄子)「いくたびも雪の深さを尋ねけり」(正岡子規)「鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる」(加藤楸邨)の句から、中学生に自由に選択させて鑑賞文を書く問題を出すと、学校の成績のよい生徒は正岡子規の句を選ぶ傾向があるというのだ。もちろん正岡子規の病床にある境遇と句の解釈を結びつける指導がなされていて、事前に学習をしていた者には書きやすく、点が取りやすいという判断があるからに他ならない。しかし、翻って虚心にこれらの句を読むならば、子規の句の世界は一番断片的である。自由にその場を想像することが許されるならば、様々な場面を想定した鑑賞が可能であり、簡単な鑑賞にはなりえないであろう。しかし、「正岡子規」の句として出題され、その前提で教師は採点するだろうくらいは生徒は分かっているから、その「前提」学習の深浅の自省によって判断が別れるのである。そして、これは句の世界が提示することを専ら鑑賞の根拠とする自立した鑑賞とはかけ離れたものである。鑑賞が句以外の状況に従属したところで成立することを、無批判に受け入れている態度に他ならない。
 俳句の近代化及び現代化のベクトルとは、一句を独立し自立した世界として成立させようとすることであると言える。困難や不可能性を超えて、正岡子規が俳諧の発句から「俳句」を切り出したときから始まる必然の命題であると言ってもよいものであろう。この命題のもとに優れた俳人の仕事がさなれてきたのである。その困難性を、私たちは専ら俳句を書く営為の困難として引き受けてきたように思われる。しかし、一句を一句として立たせるのはまた何より自立した鑑賞であることを、同じ重さで思わなければならなかったのである。鑑賞とは、作者から奪いとった鑑賞者の胸に咲く言葉の花束なのであり、何より鑑賞者と鑑賞の読者の間に咲くものなのである。この自明のことに、長い間自覚できなかったのが俳句であったろう。また、それが可能であることを実践できる鑑賞者も長く不在であっただろう。
 塚本邦雄の『百句燦々』は、それを見事に「形」にして見せた最初の存在であろう。これは俳句の読み、鑑賞にとって画期的な一書である。恐らく俳句の鑑賞のあり方の問題を史的に整理する時が来たならば、この一書の前後でその風景が一変することが分かることとなろう。一九七四年十一月の刊行だから、既に三十一年前のことになる。迷妄な俳句鑑賞の海の中で、自信をなくすばかりで、その出口すら考えられなかった未熟な年少者にとって、これは突然射す光であった。俳句の幸運は、また私の幸運でもあったのだった。



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