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目 次

タイトル 初 出
寺山修司俳句の〈母〉 「俳壇」(2006年5月号)
摂津幸彦の時代 「豈」43号・2006・9
高柳重信・俳句尽忠の精神 「月光」法光寺高柳重信句碑のしおり2005・夏
佐藤鬼房小論 「WEP俳句通信」14号・2003・6・14
【書評】金子兜太の現在 「吟遊」11号・2001・7・20
高屋窓秋の海 「WEP俳句通信」18号・2004・2・14
大橋嶺夫句集「異神」論 「鬣TATEGAMI」11号・2004・5・20
和田悟朗秀句鑑賞 「俳壇」(2005年9月号)

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寺山修司俳句の〈母〉


                                  林     桂

 『寺山修司俳句全集』(新書館・一九八六年)によれば、寺山修司が生涯に書き残した俳句は九百句である。この中で句中か、前書き(一句のみ)に母の言葉を持つのは百三十四句である。これには「少女の母」三句、「孤児の母」三句、「母兎」一句、「聖母」二句、「母子」二句、計十一句を含んでいるので、これを除いた百二十三句が、俳句表現の主体として想定されている〈寺山修司〉の母を詠んだものと考えてよいだろう。しかし一方、母という言葉を持たない「林檎の木ゆさぶりやまず逢いたきとき」について、寺山は母を詠んだものだと書き記しているので、母の言葉を持たない句にも、母の句はあると考えておくべきだろう。だが、これは簡単に句を数えることはできない。「林檎の木」にしても、寺山の文章に出会うまで、私は片思いの少女を詠んだものと信じていた。「浴衣着てゆえなく母に信ぜられ」「麦笛を吹けり少女に信ぜられ」の句が示すように、寺山の中で、母と少女の位相は思いの他近いので峻別が難しい。ともあれ、全句数の十五%ほどが、母を詠んだ句と考えて大過ないであろう。やはり、非常に多いと言わざるを得ない。

  空遠く眸に浮ぶ母の顔     中学二年

 寺山の第一作は、母を詠んだものだった。中学二年の作だから、昭和二十四年頃の作であるが、『全集』は、初出を明示していない。前年に、寺山は九州に赴いた母と別居し、叔父夫婦と青森市で同居生活を始めている。作品は、こうした生活の背景そのものから読むことができ、いかにも中学二年の作品であって、取り立てて寺山の才能を感じさせるものではない。ただ、寺山の俳句、そして創作活動は、母を詠むことから始まったことは銘記しておくべき大切なことであろう。

  暗室より水の音する母の情事 わが金枝篇

 ただ、寺山の描く母は、「咳の子のなぞなぞあそびきりもなや」(中村汀女)のような母性の母ではなかった。また、「肉附の匂ひ知らるな春の母」(三橋敏雄)のような近親相姦を誘うような母でもなかった。女としての母だったのである。寺山の母恋いの原点には、離れて暮らす母という物理的な条件ばかりではなく、性を介して母を男に奪われるかもしれないという不安があるだろう。だから、少年寺山には、「母の情事」は、軽々に口にすることができないものであったろう。この句は『わが金枝篇』(湯川書房・昭和四十八年)初出であり、他の句の発表状況から考え合わせると、句集刊行に近い時点で、寺山が創作し加えたと考えるのが妥当である。つまり、三十七歳の少年寺山修司の作と思われる。「まわれ独楽食卓に母かえらぬ日」(昭和二十七年)「納屋暗し麦でランプを拭く母よ」(昭和二十八年)「雁来紅母の妊まん日を怖る」(昭和二十八年)が、「情事」を言葉にできなかった少年寺山の真の作品である。

  花売車どこへ押せども母貧し 昭和二十八年

  貧しい母を詠む意味は母の理想化であり、フィクションの意識があったであったろう。加えて、祈り、火を創る母等も、寺山に繰り返し詠まれている。これも同じ意味を持つものであろう。「母は息もて竈火創るチェホフ忌」(昭和二十八年)「山鳩啼く祈りわれより母ながき」(昭和二十七年)「麦一粒かがめば祈るごとき母よ」(昭和二十八年)等がある。ステレオタイプ化された表現は、希求の強さと虚像を示すものに他ならない。

  燈火暗し鱈場の父を母と想ふ 昭和二十七年

 この句の母子は、鱈場で働く漁師の妻子として描かれている。寺山の戦死した父は、逢うことが叶わない漁師となっている。しかし、この句の一番のフィクションは、「母と想ふ」であろう。ここでも、母の理想化が一番の眼目であろう。「ちちははの墓寄りそひぬ合歓のなか」(昭和二十七年)「木の葉髪父が遺せし母と住む」(昭和二十七年)も、同じ意味のフィクションであったろう。

  冬の虹手紙の母に愛さるる  昭和二十七年

  手紙の中の母の愛の言葉だけが、寺山にとって最も確かな手応えのあるものだったに違いない。「貧はよしわが風邪息を母に触れ」(昭和二十八年)「寝し母の足袋ふんで辞書出しにゆく」(昭和二十八年)の貧しく、狭い部屋に暮らす母子の密着ぶりは、遠くの「手紙の母」の理想化された姿であろう。「鬼灯赤し母より近きものを恋ふ」(昭和二十八年)のように、実際は、物理的にも精神的にも最も近くてしかるべき母は遠かったのである。

  燕の喉赤し母恋ふことも倦む 昭和三十年

 『わが金枝篇』『花粉航海』(深夜叢書・昭和五十年)「わが高校時代の犯罪」(昭和五十五年)刊行時に書き加えられた作品を除けば、この作品が寺山の俳句の詠み納めである。前年、寺山は上京し、早稲田大学の学生になっていた。寺山は、母を詠むことを通して、フィクションを学び、フィクションである表現の主体者〈寺山修司〉を発見したのである。寺山の俳句は〈母〉に始まり、〈母〉に終わっていたのだ。
 
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摂津幸彦の時代


                                 林     桂

 摂津幸彦句集『鳥子』(ぬ書房)が刊行されたのは、昭和五十一年である。摂津には先行する句集『姉にアネモネ』(昭和四十八年 青銅社)があるが、高柳重信の序文「摂津幸彦の俳句は、或る意味で非常に俳句的である。それにしても、このような作品に現実に出会うまでは、これほど俳句的な俳句が、こんな非俳句的な環境と思われたところに存在し得るなどとは、よもや誰も想像しなかったに違いない」という推挽を得ての、この句集が俳壇にその存在を認知せしめた実質的な第一句集であろう。そして、高柳の言葉は、摂津の俳句の意味を示唆して深い。
 昭和五十年代の意味を分析的に読み解いた最初は、夏石番矢の「昭和五〇年代後半を迎えるための覚書」「戦後俳句史の転機」(『俳句のポエティック』所収)であろう。夏石は「昭和四〇年代の日本は、敗戦を契機とする第二の近代化を終えた。西欧近代の柱である自我の確立を目指し、観念や感性の普遍性を信じてきた文学は、一つの折り返し点にさしかかったのである。明確な目標のない時代を迎えた」(戦後俳句史の転機)との認識を示し、「人間近代の柱である自我の確立」の仕事を、昭和二十年代の高柳重信や鈴木六林男、金子兜太らの「人間主義」に、「一つの折り返し点」への架橋の仕事を、昭和三十年代の加藤郁乎の「人間主義」の相対化の仕事に重ねて見ている。そして、この「折り返し点」を担う表現者として、阿部完市、安井浩司、河原枇杷男、三橋敏雄を挙げている。
 俳壇は表層的な表現者として「伝統回帰」の作家を宣伝し続けたが、時代の俳句表現はこれらの作家が担ったと見るのである。阿部完市は、加藤郁乎の「近代的な自我の解体に直面し、不在としての人間」を描こうとした仕事を受けて、「希薄な人間存在」「深層としての無意識の世界」を描こうとし、河原枇杷男は、「シュール」な技法によって、「空洞としての人間」を描こうとしたとする。安井浩司は、「意識の深みを暴露」し、その「存在そのものを破壊」しようとする「言葉の乱反射」を試みたとする。三橋敏雄は、「人間にとって最も身近なものである生理や五感」を追求し「人間精神の能動性」を忘れさせ、「戦後日本の『主体』や『観念』の発動生を振り捨て」たとする。前三者が基本的に継承者であるとするならば、三橋は封印者の役割である。四者は横列びではなく、安井、阿部、河原、三橋の順で縦列を組んで、時代にせり出していると見るのが、夏石である。
 もちろん夏石は、この表現史を引き受け、自らを昭和五十年代以降の表現者として屹立させるために論じている。そして、夏石が継承し展開しようとするのは安井浩司の仕事であることは当然であろう。夏石は『真空律』(昭和六十一年)の後記「〇・五人称の詩学」で、「私は、渡しである。はちきれんばかりの実として、空間に常に突出した身ではない。ただ、うつりゆく舟を身にふりかぶることによって、ひそかな戴冠をおこない、ひととき可視の世界へ顔を出す渡しである」と書いている。夏石が仮構する「私」は、人間の肉体を持った「主体」ではない。一つの現象であり、ベクトルである。解体されながらも、ひとつの方向性と接合性を持つことで認知される。個人の肉体に拘束される「人間主義」を超えて、超人的な人格のもとに像を結ぶものとして想定されているだろう。言わば句集のベクトルごとに現れる変幻自在な姿の「私」でもある。
 そして、摂津幸彦も昭和五十年代以降の表現史を引き受けた一人である。では、摂津は何をどのように引き受けたのであろうか。摂津が三橋敏雄の系譜を引き受けたことは間違いないだろう。三橋の「俳諧的技法」(坪内稔典)が時代を獲得した時期と大きなタイムラグを持たずに、摂津は三橋の方法を換骨奪胎し、変容させることに成功してるように思う。三橋の「『主体』の観念の空転のあとの模索と人間の志向の変質の時代の反映」(昭和五〇年代後半を迎えるための覚書)としての俳句と、摂津の俳句はどのように違うのであろうか。
 しかし、それを問う前に、三橋は本当にそうだったのかを問う必要があるだろう。昭和四十年代に「再登場」した三橋は、三橋を時代の表現者として打ち上げた力学とは異なった三橋個人の問題を抱えていたと思われるからである。それは新興俳句の同時代人でもあった三橋の系譜の問題であり、むしろ三橋の自己認識はこちらの方にあったと思われる。

  海戦は跡無かりけり日懸れり        『鷓鴣』(昭和五四年)
  かの日夏逆立つふねを見尽しぬ
  大戦のかの日日を坐し白き祖母      『巡禮』(昭和五四年)
  敗戦の日の夏の皿いまも清し
  死に消えてひろごる君や夏の空      『畳の上』(昭和六三年)
  戦争にたかる無数の蝿しづか
  あやまちはくりかへします秋の暮

 三橋が「無季俳句」を最後まで放棄しなかったのは、表現者として体制への最後の橋を渡るまいとする良心に思われる。それは晩年の三橋の俳句形式の要請というよりは、新興俳句の出自にアイデンティティーを持つ証拠と考えていたからではなかろうか。そして、「戦争」を扱うとき、三橋には明確なメッセージ意識が立ち上る。三橋は、一方で「人間主義」を超克していなかったのであり、それゆえに俳壇は晩年の三橋を迎えやすかったとも言えよう。森澄雄と三橋敏雄を弁別するのに、夏石は「アナクロニズム」という言葉を用いているが、三橋も「アナクロニズム」の文体を保持しきれた訳ではなかったのである。
      
  皇国且つ柱時計に真昼来ぬ 『鳥子』
  南国に死して御恩のみなみかぜ
  弥栄の国の木高しすももももも

 同じ戦争を題材するとき、摂津幸彦の方が「アナクロニズム」という点で、三橋に勝っていよう。摂津の無季俳句こそ俳句形式の要請を受けてのものだったろうし、三橋が最後まで手放さなかった社会的メッセージからも切れている。もちろん摂津が戦争体験を持たないからというのではない。メッセージを封印する言葉として、なんと摂津は翼賛的な言葉を再発見することで切れているのである。それは翼賛的な言葉の意味を信じない人間にしか発見できなかったという意味では、摂津は戦争体験者でない必要があったかもしれないのではあるが。
 摂津が三橋に勝る封印者であったことは間違いないだろう。
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高柳重信・俳句尽忠の精神

                                  林     桂

  T

 次の一句は、俳句による高柳重信による高柳重信論と言ってもよいものである。
  *
 目覚め
 がちなる
 わが尽忠は
 俳句かな  高柳重信
 
  U

 近代以降の俳句は、少なくとも三回の革新期を持っている。最初は明治期の正岡子規の主導により、やがて新傾向俳句や大正期「ホトトギス」へと展開して収穫された果実である。二度目は昭和初期の新興俳句であり、明確な方法論の革新意識を伴っていて、現代俳句への礎となったものである。三度目は戦後俳句であり、俳句批判の時代を鞭に代えて、新たな俳句の可能性を模索、獲得し、「社会性俳句」「前衛俳句」などへと展開した。
 この戦後俳句にあって、最も突出した俳句の仕事を残した一人が高柳重信である。
高柳の採用した多行表記の俳句は、俳句に新しい文脈をもたらした。多行形式そのものは青年達の戦後の俳句革新の試みの中で誕生したものであった。群馬で創刊された第三次「群」(二十二年四五月号)で、多行形式の提議がなされ、それに基づいて青年同人の間で様々に試行されたのであった。しかがって、この期の多行形式は様々な問題を内包して一様ではなかった。高柳の第一句集『蕗子』にも、この問題の反映が見られる。
 やがて集団的な多行形式の試みが終焉を迎える中で、逆に高柳は多行形式に鉱脈を発見する。高柳の多行形式は基本的に四行による形式に収斂してゆく。これは「五・七・五」という俳句形式に内在する「切れ」の意識を「異化」する最小単位としての「切れ」というべきものの発見であった。定型に足元を掬われて詠まされてしまうというべき感覚を、ぎりぎりのところで踏みとどまり自身の表現として手許に残そうとする、言わば「書く」ことの獲得に繋がるものであった。
  *
 しづかに
  しずかに
 耳朶色の
 怒りの花よ
 
 たとえばこの句の獲得している文体を見れば、これが一行表記を前提としては決して発想することができないものであることが了解されるだろう。「しづかに/しづかに」が初句を切れによって「異化」したことがあわかる。その「異化」がまた、言葉の繰り返しを可能にしてもいる。ここで多行形式は、ゆたったりした読みのリズムをもたらす。そのリズムが結句の「怒りの花よ」を招き寄せている。所謂字余りの七音であるが、このゆったりした「異化」されたリズムの中で可能になった音数であろう。そして、それ故の「花よ」は多行形式だからこそ可能な、一行表記にないイメージとして出現している。
 俳句性を伴った深く屈折した現代的な文体の獲得。それは高柳重信の多行形式の仕事においてなされたものである。
 また、日常茶飯を日記のように詠むのを旨とする俳壇の主流の中にあって、高柳の仮想性の強い言語空間は屹立している。その根底には、常に「高柳重信論」ともいうべき自身の問題を揺曳しながら、そのアプローチの方法の独自性と深度は際だっている。俳句を新たなレベルとステージに立たせたのである。
  V
 最後に、高柳重信自らが「尽忠」という俳句への想いを述べるべきだろう。高柳が個人の仕事を徹底したならば、恐らく残された俳句の仕事の量と質は何倍にも達したであろう。しかし、高柳は個人の仕事ばかりしたのではなかった。まさに俳句「尽忠」のための仕事が膨大だ。恐らく、個人の仕事の何倍も時間を割いたのが、「俳句」のための仕事であったろう。新興俳句、俳人の検証と検証。次代の俳人の推挽等。「俳句研究」の編集長としての仕事が主だが、恐らく高柳は編集長でなくても同じことしただろう。個人の仕事に結実しなかった部分を、僕らは幾度となく惜しんだが、ここにも高柳がいるのである。

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佐藤鬼房小論
 
                                   林     桂
 
 
 平成十四年一月十九日に亡くなった佐藤鬼房は、戦後俳句の一典型だった。高柳重信、金子兜太、鈴木六林男、三橋敏雄、どの個性も戦後俳句に欠かすことができない存在だが、佐藤鬼房もその一人だったことは言うまでもない。
 では、俳句作家として、鬼房が堅持した個性とは何だったのか。これらの作家の中に置いて考えると、自ずと明瞭になってくるだろう。
   
  身をそらす虹の
  絶巓
      処刑台 
   *
  船焼き捨てし
  船長は
 
  泳ぐかな
                         高柳重信(『蕗子』昭和二十五年)
  墓地も焼跡蝉肉片のごと樹樹に
  暗闇の下山くちびるをぶ厚くし
                          金子兜太(『少年』昭和三十年)
  遺品あり岩波文庫「阿部一族」
  性病院に瑞瑞しきは鳩の糞
                       鈴木六林男(『荒天』昭和二十四年)
  少年ありピカソの青のなかに病む
  いつせいに柱の燃ゆる都かな
                三橋敏雄(『青の中』収録昭和十二・二十年作)
  
 これらの俳人の個性的な文体に比べると、鬼房の文体は一番灰汁が弱いように思われる。これは俳句形式を、最も信頼して出発した作家が鬼房だったということを物語るものであろう。いかに俳句形式を獲得するかというこれらの闘いに対して、俳句形式に何を獲得するかという闘いが鬼房だった
  
  毛皮はぐ日中桜満開に
  松の花何せんと手をひらきたる
                   佐藤鬼房(『名もなき日夜』昭和二十六年)
  
 「俳句少年」として、戦中に一度その存在を知られた三橋敏雄を除けば、戦後同世代で既成の俳壇にいち早く登ったのは、鬼房だったろう。昭和二十六年に『名もなき日夜』を刊行。二十九年には、現代俳句協会賞を受賞している。鈴木六林男の三十二年、金子兜太の三十一年、三橋敏雄の四十二年に比べても、同世代で最も早い受賞であった。それはもちろん鬼房が優れた存在であったことを語ってるが、新たな革新世代にあって、既成の俳壇に最も受け入れやすい俳句文体の持ち主であったということでもあろう。鬼房の展開は、無季の問題を除けば、第一義的には俳句形式そのものというより自身の内にある問題だったろう。それが俳句形式の問題に照り返るというような形で一貫してる。誤解を恐れずに言えば、他の同世代の誰よりも鬼房は「天性の俳人」なのである。
 
 
  むささびの夜がたりの父わが胸に    鬼房
 
 『名もなき日夜』に収められた昭和十二年、鬼房十八歳のときの作品である。鬼房は六歳になる年の大正十四年に父を失っている。また、その前年には弟を失ってもいた。小学校にあがる少年の喪失感がどのようなものであったか、容易に想像ができる。夜語りにむささびの話をした父の姿が、少年のわずかな父の記憶である。しかし、それを「わが胸に」と意識化することで、辛うじて父をわがものとして持ち続けることができたのである。むささびの話は少年の胸の中で、「未知」や「異界」を所有する父の「存在」の大きさへと変貌して、長く保持され続けたのである。逆に言えば、むささびの話に、そうした意味付けをすることなしには、少年は「喪失」に耐えることができなかったのである。後年の作に「まぼろしのまたぎは祖父や蕗の薹」(『朝の日』)もある。鬼房が、自分の「存在」をどこに繋いで生きようとしていたかが知れる一句だが、それは父の夜語りと無縁ではない。
 そして、鬼房にとっては、この「わが胸に」と意識化する装置こそが俳句だったのであろう。「むささびの夜がたりの父わが胸に」を書いた十八歳の昭和十二年は、鬼房が七月に上京した年である。この句は、都市生活で鬼房が自己の根がどこにあるかを確認ぜずには生きてゆくのが難しい状況の中で、見つけた存在場所でもあったわけだ。鬼房の青春の夢が一年ほどで破綻し、翌年九月には塩竃に帰郷したのだが、このときに帰郷は決まっていたとも言えるだろう。
 
  望郷の皎きこめかみ泣くごとし
  螺旋階段のぼりつめゐて耳目冷ゆ
  金借りて冬本郷の坂くだる      
  冬ざれのわが指ほどの遠き帆船     鬼房
 
これらが在京時代の悲しき自画像といえる作品である。
 しかし、一度「夢」と「現実」の摺り合わせをしたこの経験から鬼房が学んだものは、大きかったに違いない。以後、兵役の期間を除けば、鬼房が東北塩竃を離れることはなかった。しかも、昭和五十八年三月に六十四歳で退職するまで、地方の一労働者であり続けた。そして、主宰誌「小熊座」を立ち上げたのは、昭和六十年の六十六歳になってである。
 俳人鬼房としては、もっと違っ生き方や選択が可能だったはずである。戦後の鬼房は、既に「夢」と「現実」を摺り合わせたときの青年でなくなっていたのであるから。
 しかし、鬼房が最もよき選択をしたことを、鬼房も私たちも分かっている。戦後俳人の中で、最も既成の文体に距離が近く、またそのテーマも「日常詠」の手法に近いところにあった鬼房は、戦後の俳壇の潮流と摺り合わせてみれば、俳壇の寵児として生きることが十分可能だったはずである。しかし、傑出した「書き手」としてみたとき、その存在価値を失う危険性も高かっただろう。既成の文体の近くにありながら、常に距離を保つことが可能だったのは、意志的に自分にこのポジションを課し続けること以外に不可能である。
 鬼房は、戦後の「社会性俳句」の作家のひとりとして位置付けされる。では、「社会性俳句」の今日的評価はどのようなものか。たとえば、『現代俳句辞典』(第二版)(富士見書房・昭和六十三年)で執筆担当した香西照雄は、掻い摘むと次のように書いている。
 「俳句に社会を」という主張は、戦前の栗林一石路、橋本無道らの自由律のプロレタリア俳句運動、花鳥諷詠のホトトギスの反措定としての新興俳句運動に既に存在したとした上で、戦後の俳句批判の中で「十五年戦争の被害を青少年期に受けた三十年代作家には、特に反戦と世界平和への念願と、民主化推進への希求が強く、個々の生き方ないし人間性探求を、『社会的人間』としての生き方ないし人間性探求へ拡充することを志向しはじめ」「社会性俳句」を推進することとなったが、「昭和二十五年ごろのレッドパージに始まる逆コース時代の影響もあって、社会性俳句を批判する側も批判される側も徹底的に論じ合うことを避けるというプロセスもあって、社会性派作家たちも次第にその志向を薄め、風化していった」のであり、「この運動が俳人の人生観に与えた啓蒙的意義は認めるが、その成果は、一部の作家の一部の作品を除いては、総じて貧しく、むしろその真の成就は今後の課題であろう」と。
 もちろん、これは記述者の香西照雄の俳人としての立場を考慮して読まなければならないだろう。鵜呑みにはできない。しかし、多かれ少なかれ「社会性俳句」にかかわって世に出ながら、その俳人としての生涯を俯瞰するときに青年期の一過性の問題に過ぎなかったというよう俳人が大方だったのも事実だろう。「社会性俳句」以後を否定的に生きることで、俳人たりえた。これは「社会性」について作家としての問題の根がそれだけ浅薄だったいうことでもあろう。
 鬼房はどうであろうか。「社会性」が喧しかった当時、恐らく鬼房はそのトップランナーではなっかたろうが、その生涯を俯瞰するとき、もっともこの呼称に相応しい仕事をした俳人のひとりが鬼房であったように見える。
 「食へざれば戦ふ吾に母やさし」(『夜の崖』)の句がある。鬼房の「社会性」は、自身の「生活」に根ざしていた。まず、自分が労働者として戦った。母のやさしさは、子供の「思想」を理解したからではなく、「生活」を理解しているからのものである。鬼房が見抜いた母性もここにある。鬼房は、そこからあまねく戦後社会の「戦ふ」者たちへの共感を育む。愛情を生む。鬼房の俳句を書く根拠に「社会性」はあった。問題の根は誰よりも深かったである。
 
  切株があり愚直の斧があり       鬼房
  墓碑銘を市民酒場にかつぎこむ
  青年へ愛なき冬木日曇る
  縄とびの寒暮いたみし馬車通る
  やごを飼ふ少年の明日充実し
 
 鬼房の視線は、自己愛と他者への愛が一緒になって区別できなくなっているようだ。あるいは、博愛とはこういうものなのかもしれない。鬼房を最も息の長い「社会性」の作家にしたものは、これに違いない。
 
  陰に生(な)る麦尊けれ青山河        鬼房
  野ぶだうに声あり暗きより帰る
  青空は創の深みぞ夏ひばり
  雪はしづかに灰の音しておとうとよ
  行く春のまどろみにありたなごころ
  つくし恋しや真実は死のほかになし
 
 もちろん、鬼房の視座はそこに留まったのではない。神話に取材した「陰に生る」は、鬼房の生命讃歌である。鬼房の博愛が辿り着いたところを示すものであろう。鬼房の「貧しい一労働者としてヒューマニズムを基調とし、風土性に根ざす俳句」(川名大『現代俳句』ちくま学芸文庫)と言われる「風土性」は、東北が濃厚に投影されてはいるが、それは素材に基づくためのものではないし、「ヒューマニズム」と別のものでもない。晩年の作品になるほど濃厚に感じられるようになる「風土性」は、鬼房の人生の「帰り道」ゆえに顕在したものであろうが、それは見事にそれまでの鬼房に見合っている。たとえば、金子兜太の「秩父」には帰郷者の視線によって相対化されたものがあるとすれば、鬼房の「塩竃」は自分自身の内を流れる継続的な時間によって相対化されたものだと言えよう。鬼房の身体を依り代に現れる父や祖父や山河の声を鬼房が発語する。そこでは鬼房の貧しさは鬼房一代の貧しさではなく、父祖の貧しさを体現する貧しさともなっている。そして、それは自身の宿業を受けとめる装置でもあろう。そして、それは鬼房にとっては、俳句を書く行為と分かちがたいものであったろう。俳句を書くことで辛うじて受けとめることが可能な根の問題なのである。
 
  秘してこそ永久(とは)の純愛鳥渡る      鬼房
 
 最後の句集『愛痛きまで』に収録の句。秘しても、自ずと知れてしまう「純愛」の持ち主が鬼房だったろう。そして、そしてこの根も、鬼房に過去から連綿と押しかけてくる無名者の心の在り様に見つけたもののように思われる。もちろん、そこでは鬼房の愛は、鬼房一代のものではなくなっている。「永久」は、過去から鬼房に押しよせてきた無名の愛が、未来にもあることを信じる言葉だ。この「信」が鬼房であり、鬼房の俳句であった。
                    (付記)「鬣TATEGAMI」(第3号)の「無名の愛ー佐藤鬼房追悼」を元に大幅の加筆を行った。
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                                   林     桂
                    
 
 安西篤氏の『金子兜太』(海程新社)は、金子兜太の初の評伝的評論である。牧ひでを氏に先行する『金子兜太論』(昭和五十年 永田書房)があるが、評伝的なものではない。社会性俳句から前衛俳句へ抜ける同行者の熱を帯びたものではあるが、現在から見ると、兜太その人に沿ったものであるとは言い難いように思う。金子兜太が同行、同時代人にはどのように見えていたのかという意味では貴重な証言であろうが、金子兜太その人、またその作品を現在的な視点から見ると疑問も少なくない。安西氏の『金子兜太』をもって、初の評伝的評論という所以である。もちろん、この書が成立したのには、第一に安西氏の労の賜と言わざるを得ないが、金子兜太に彼の生涯の見取り図を書かせるだけの時間が流れたということが第二であろう。牧氏が金子兜太論を書いた時点は、今から見ると、金子兜太のまだまだ過程に過ぎなかったことが解る。もっとも、金子兜太は、その最新の第十三句集『東国抄』(花神社)で、「わたしはまだ過程にある」(あとがき)と書いているので、金子自身の尺度では生涯の見取り図が描ける時間が流れたという表現は承服しがたいものかもしれない。
 しかし、最初に立ち返れば、そもそもこのように金子兜太の生涯の見取り図が描けるような時間が流れたのだという印象そのものが、実は安西の丁寧な仕事によりもたらされたものであることが解る。そして、それがこの『金子兜太』で安西がした仕事の一番の意味であろう。
 金子兜太は、戦後俳壇の論争の中心にいつもいた。そして、戦後俳句の意味の一つである、そうした「場」に現れる「金子兜太」という現象の変遷は、俳壇的に判りづらかったり、変貌と映ったりしてきたことが、それが論争の幾ばくかの要素にあったことも確かであろう。安西が、『金子兜太』で目指しているものは、そうした兜太像の「現象」の揺らぎに、論理的に首尾一貫した像を与えることである。兜太の変遷を、兜太の内的、論理的必然の結果として摘出することである。先に評伝的評論と言ったが、この『金子兜太』が評伝的でなければらないのは、こうしたモチーフの要請にもとづくものである。言わば、生きて「過程」にある金子兜太の演繹的な評伝である。この視点で兜太像を結べるならば、それこそが兜太像なのだといった評論なのである。恐らく今までに書かれたどの兜太論よりも優れたオマージュである故に、安西の『金子兜太』は金子兜太を論ずるのに不可欠なテキストの位置を得たことは間違いない。兜太はよい人を得たのである。たとえば日銀に日付なしの退職願を提出させられ、それがいつまで有効とされたのかなど、細事に渡っての記述は、兜太の近くにいる人でなければ叶わないものだが、それ以上に対象の金子に対する愛情がないことには不可能なことを確認しておいてもよいだろう。組合活動からの転向をどう評価するかにかかわっては、こうした傍証は兜太のために不可欠になる可能性を考えているからなのである。
 もう一つ評論として興味深いのは、金子兜太が自己の内的モチーフを発展させてゆく中で、師や友人や「海程」の同志達と、次々と袂をわかってゆかざるを得なかった過程を、兜太に沿って丁寧に叙述していることであろう。師の一人であった中村草田男、「寒雷」の同門であった安東次男、森澄雄、「前衛俳句」を担った高柳重信、そして「海程」を担ってきた初期同人の人達。もちろん、それぞれの立場にあれば、安西の記述を十分とはしがたい問題を含んでいることは間違いないが、ここでの安西の視点は金子兜太に一貫した俳句的展開を与えることであり、それが果たせる記述であることで安西にとっては十分なのであり、それ以上の問題が安西にはないというべきなのであろう。ただ、ここでの捌きには「俳句」の問題を追う中に「俳壇」的視点も絡まって複眼的な論になっていることは指摘しておきたい。
 その金子兜太の現在の仕事を示すのが、句集『東国抄』といとうせいこうとの対談集『他流試合』(新潮社)である。
 『東国抄』は、前句集『両神』の延長線上にあって、金子兜太の秩父回帰を示すものである。もちろん、これは第一義的には金子個人の回帰に違いないが、金子の回帰は取りも直さず「戦後俳句」が日本の原郷へ回帰したがっているということでもある。安西の評論の意味は、金子兜太という個性はいかに「時代の表現」であったかという構造を一貫性を持って語ろうとするものであった。金子の現在はそのまま「戦後俳句」の帰結なのである。近代的な「主体」を超克しての「天人合一」の世界を引き連れての帰還である。現在只今のこの世界観をどう評価するのかは難しい問題だが、金子がここにいることで「戦後俳句」がどこに来たのかは間違いなく知ることができるのである。
 もう一つ、これは当方の勝手な「読み」だが、『東国抄』には「老い」の問題があるだろうと思う。身体的な「老い」と心的な「老い」の二重構造を、そのまま「二重構造」として提示しているように思える。身体的な「老い」に合わせるように人は「老い」てきたが、それが本当は必ずしもパラレルな関係ではないことを、兜太は提示しているように思うのである。(「詩学」七月号掲載の「俳壇時評」の参照を乞う)
 『他流試合』は、金子兜太がいうところの「新俳句」を扱ったものである。金子は、長く全国学生俳句大会の総括選者を勤めるばかりではかく、高校生俳句大賞(神奈川大学主催)や、『他流試合』で扱っている作品の伊藤園新俳句大賞の選者を勤めている。言わば、俳句表現者の周縁がどのようなものか見てきた一人である。ここでの「俳句表現者の周縁」とは、直接的に俳句表現のレベルを言うのでなく、俳句表現に俳壇的先入観を持たずにかかわりを持ち始めた者というほど意味である。そして、兜太は、これらの人々を「俳句初学者」で矯正する必要のある表現者として見るのではなく、そこに今後の新たな俳句表現の問題を見たのである。これは「俳句」の言葉を、「静態」ではなく「動態」として見る立場を一貫してきた兜太だからこその問題獲得であろう。この「動態」視力が、「俳句表現者の周縁」の文体に高い表現レベルを認めることにもつながってきている。「新俳句」の用語は、俳句史的には明治三十一年の『新俳句』による革新俳句を示すのが一般的だから問題がない訳ではないが、「新俳句」という切り口で提示することで見えてくる問題は、兜太の慧眼として俳人が真摯に受けとめてよい問題だろう。
 文語脈から俳句の「定型」が生まれたことと、そのことが口語脈を「定型」が生きられないという問題と短絡して考えることができないことは自明である。小生も、上毛新聞紙上で「ジュニア俳壇」の選をするようになって五年目になるが、「俳句表現者の周縁」である子供達の「定型」は、むしろ書き言葉以上の口語脈によって支えられていることに軽いショックを受けた経験がある。たとえば、「泣いている」でなくて「泣いてる」(助詞を伴って「が泣いてる」のように五音化)といった言葉が、「や」でなくて「ね」といった言葉が、彼らの背丈に見合った表現を支えているのである。しかも、往々にして、そうした文体を獲得している者にこそ深い表現が現れるのである。この問題をそのまま「俳句表現者」の問題に移しかえてよいとは思わないが、「定型」には相互交通の道があるとは「俳句表現者」の問題として考えておくべきであろう。「現代俳句」という言葉さえ時には差別的に使うことがある俳壇にあって、せめて兜太提示の「新俳句」を同じような文脈で使わない覚悟をするところから、見えてくる問題がきっとあるはずである。いまはそのことだけは言っておきたいと思う。 
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                                    林    桂

 高屋窓秋の次のような一節が一読印象に残っている。
 富沢赤黄男と話しあったのも、この頃(昭和十年・林注) だ。「君は、どうやって俳句を作っているのか」。ぼくは、ただひと言「イメージ」。「ぼくも同じだ」と赤黄男。その赤黄男は

   頭蓋のくらやみ手に寒燈をぶらさげて   富沢赤黄男

 というような句を作っていた。ぼくの素朴なイメージに対して、彼は、自己の肉体深くそれを掘り下げていった。赤黄男のかなしみは、このあたりからだんだん色濃くなり、生命の存在とその不安におののきながら、孤独な存在となっていった。 (「百句自註」・『高屋窓秋全句集」ぬ書房)
 昭和十年は、窓秋が俳句を中断する年で、窓秋自身は「海黒くひとつ影ゆく影の凍み」のような句を作っている。「虻とんで海のひかりにまぎれざる」(昭和七年)「ちるさくら海あをければ海にちる」(昭和八年)と青春のひかりがみなぎる窓秋の海も、このように変貌していたのである。「素朴なイメージ」と言っているが、時代に、窓秋も赤黄男と同趣の「イメージ」に追い詰められたことは間違いないだろう。
 なぜ印象に残ったかと言えば、俳句において「イメージ」を自覚的な手法としたのは、この時期この作家あたりからだという確信をもたらすものだったからだろう。窓秋は、「虻とんで」の自註に「外光派のスケッチのようなもの」と書き、同時代の虚子や素十の「客観写生の究極的な作品」とそれに対抗するべき「近代的な感覚」の秋桜子とその門下の作品についても、「映画のわずか数秒間の画面にも劣る描写俳句が、とくに貴重なものだとは、どうしても思えなかった」とも書いている。つまり「写生」という俳句の保革共通の「時代」の手法認識に対する明確な批判が「イメージ」という語には託されているのである。窓秋が「馬酔木」を超えて時代の表現者としてせり出した瞬間であり、それゆえその風圧の中で筆を折ることともなったのであろう。
 では、窓秋、赤黄男が「イメージ」(心象)によって俳句に獲得しようとしたものは何だったのか。正岡子規の「写生」は近代科学の視線を獲得する方法であり、それによって初めて「風景」は獲得されたといってよいだろう。如何なる神も寓意も宿ることのない「自然」として姿を現したのだ。しかし、昭和の時代に至って、その獲得の意味が希薄化し、その展開力は失しなわれてしまった。そして、窓秋の「イメージ」は、時代に見合った新たな展開力としてここに提示されているのである。俳句形式が持ち越した「前近代」があるとすれば、それは「季題」であろう。この「本性」に根ざす言葉の手垢こそ定型詩本来の方法と不可分なものであるだけに、「近代」でもそれをそぎ落とすことはできなかった。「季題」に頼る「寓意性」への岐路と、「イメージ」による「象徴性」への展開の岐路がここにある。ここで「無季」の問題が紡がれてくるのも、それなりの必然があったと見るべきであろう。
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                                 林     桂
 
 
     T
 畢竟、『異神』は孤独者の含羞の声なのであろう。「自序」で大橋嶺夫は次のように言う。
 
 わたしは、この句集を捧げるべき、いかなる友も読者も持たない。この句集を、わが心の秘処に住む人々に捧げるほどには、わたしは無知でも恥知らずでもない。
 この句集を、わたしは過去なるわたしの虚栄に供える。 いま、わたしは冷気にみちた虚空にこれを撒く。
 おまえはもはや一つの像をしか映さぬ死せる鏡である。決して蘇ることのない腐屍の石棺である。呪われたわたしの亡霊よ、永遠にさすらい人であれ。
 蒼白のあした、遠く出立しようとするわたしが、再びこの地に還り来るかどうかは疑わしい。わたしが、わたしの死屍たるおまえを抱擁する日があるとすれば、それはいかなる牙と鞭とに彩られた夜であろうか。
 
 如何なる読者も「心の秘処に住む人々」の閲覧も期待せずに、ひたすら過去の自己を葬送する儀式としての句集を編むというのである。しかし、読者に届く作者の声は文字どおりではなかろう。この文体からは青年の自負と含羞がないまぜになった文学的メッセージこそ届いていよう。もちろん、大橋もそのつもりで書いたはずである。そして、それはこの句集の方法を語るものともなっていよう。
 島津亮は「跋」で、次のように言う。
  
 彼は現在まだ肉体の冠の二十何才かである。彼のこと、正直にいって現在の僕にはよく判らない面が多い。ただ彼 とクロスするとき、彼にアプローチするとき、僅かに彼の全身を感受するにすぎない。
 一体に、詩人の内部世界というものは、かの素粒子と空 間に似て、容易に他の詩人達と連続したがらぬものである。大橋嶺夫がひそかに「異神」を書き溜めていて、あるとき僕の僕達の、詩の顔面を縦横に走りまわることがあった。そんなときその流動の振動のはげしさやしずかさに、僅かに彼とクロスしたかのように僕は思いこむのであった。
  
 島津亮は、基本的には大橋の世界が判らないと、素直に、素直でない文体で言っているのである。確かに大橋の世界は取り付きにくい。一読、何を書いているのか、何を書こうとしているのか、判じがたい思いに捕らわれる。しかし、そうでありながら、島津は「跋」を次のように結んでいる。
  
 詩の原型はロマネスクである。そしてすぐれたロマネスクというものは、いつも激しい異端であるにも拘わらず、必ずしずかな正統なのだと思う。
 耳をすますときこえる。大橋嶺夫の「異神」から、ひっそりとかの「胡桃割人形」のような組曲の風格が。彼は二十何才にしてすでにしずかなのである。
 「異神」という題は必ずや彼の内面の底のいわば羞恥ともいうべきものをうらがえしにした仮面の言葉でろう。
 ともあれ「異神」は現代俳句の世界を大きく変貌させうるであろう。
  
 作品のいちいちは判らないにしても、大づかみに大橋嶺夫の作品の意味するところを洞察できているのが島津亮である。そして、それは十分に的を射ているように思う。
     U
 大橋が俳句形式に発見したものがあるとすれば、それは隠匿の形式であろう。直截的な表現形式に思われる短詩型こそ韜晦的な形式であり、その力をこそ利用して書こうというのが大橋の方法であろう。大橋の句の難解さには、青年らしい意匠もあったであろうが、それをも含めて隠匿の表現である故のものである。逆にそれだからこそ、その出立点では明確に信じられている何かがあったはずである。それが俳句形式であったか、「自己」であったか俄には判じがたい。その両方ともであることを、私は疑っていいと思っている。ともあれ、難解への傾きは、ある信頼の表現として読むとき最も納得がいく。島津の評言の「羞恥」「しずかな」というタームは貴重である。大橋の言葉は、露悪的なものからは遠い。同じように健康的な感覚からも遠い。屋外的な感覚というよりは、室内的な感覚である。一気の開放感覚というよりは、持続的な救済への希求のようだ。それはその核にあるものを信じていることの表現であったろう。
 では、大橋は何を隠しつつ表現しようとしたのか。一つは時には死とも結ぶ身体的な違和感、不安といったものであり、もう一つは性的な畏怖や願望であり、そしてそれがない交ぜになった感覚であるとは推測がつく。ここで隠すとは日常的、現実的な文脈や意味から乖離させることで、より明確で個人的な表現意図に近づこうとすることであり、また近づいたと信じることである。
     V
 『異神』は「揺蕩」「回示」「邂逅」「蹄獣幻想」の四部からなる。その下に章立がなされている。「揺蕩」は「累卵」(六句)「喪失気流」(十四句)「俘囚」(十一句)「飢餓祭」(十三句)の四章、四十四句からなる。「回示」は「聖体」(七句)「雅歌」(七句)「自証」(十句)の三章、二十四句。「邂逅」は「祝歌」(五句)「秘蹟」(十二句)「難船」(十句)「廃市」(八句)の四章、三十五句。「蹄獣幻想」は「孤島」(十句)「蹄獣幻想」(二十七句)「北回帰線」(九句)の三章、四十六句からなる。収録は百四十九句である。
 明確な構成意識に基づいて編集されていることは明らかだが、その方法についての記述は本書の中には見あたらない。かつ、この構成と配置された句の関係から、その構成意識を的確に読みとることも容易ではない。ここでも「隠匿」が働いていると言っていいだろう。思うに、明確なテーマ設定があってそれに基づいて書きついだ作品でなくて、書きためたものをその世界にそって再構成したか、作品の世界に遅れてテーマや題を与える形で構成したものに違いないだろう。そして更に言えば、その作品も制作順をほぼ辿っているのではないかと思われる。それぞれの作品を自己過程として読み返す中で、それを区切りまとめる形で整理をつけていったと考えるのが一番自然である。明確な部立、章立ほどには、その世界が区別化、差別化されていない理由はそう考えるのが妥当だろう。むしろ、このように部立、章立されながら、そこに低唱として流れる身体的な違和感や、性的な葛藤を読むことの方がよさそうである。部立、章立は韜晦の装置の一つと考えられる。部立によって、彷徨、流離のドラマを想起させつつ、あるいはそこに時間の経過を仮構しながら、その底に沈殿するものこそ大橋によって信じられ、書こうとし、かつ隠されているものであろう。
     W
  凍る日輪壁画のように青年錆び 
  しびれる胸 石灰質の陰画都市
  やさしい餓死の最後の河口ちぎれた蛇   
  透明の棘 羽根を溺れるにがい種子     
  砲座に群れ耳尖る藻の寝棺        
  地平黄ばむ帝王聖病院の痣        
  暗黒の火の幌 鸚鵡が吐く野兵   
  異神の茂み 歯車(ギヤー)血ぬる五月
  死体置場の午後を曳き行く火色の街角 
  黒死舞踏の杖 花粉のカラス麦をめぐる
  鳥の血流れるポケットの空 弾痕の花弁挿し
      *
  はためく傷の街白濁のあまい皮膚      
  翼の傷垂らす母の闇 勃起するせむし  
  有袋の女を祈る黄色い歯の噴水
  相姦の司祭 綿花かざる火薬の井戸  
  星屑を調合(あ)わせる火薬くさい陰毛旅館
  褐色の蝙蝠となる細密猥画の磔刑(はりつけ)僧
  男根祭神 水死托鉢僧の脇毛の朝
  恥骨薄灯る 墓守に夜々の有翼粘膜
  苦い桑 内股擦る少年の多毛の雲   
  昏れる鉄塔に触角 メンスくさい茎、花も
 
 いま大雑把に、前者を身体的な隠匿、後者を性的な隠匿という視点で二群に分けて抄出してみた。もちろん二つの問題が画然と別れるものでもないので、読み方によっては前者にも後者にも移動の可能性があるという意味で、大雑把といったのである。その上で言えば、句集全体の流れは身体的な隠匿から性的な隠匿へと推移してることは確かなようだ。二重の仮定の危うさの上で言えば、これが制作年を或る程度辿るものであるならば、大橋自身の問題の推移をここに読むことも可能である。ならば、大橋は身体的な問題を超克して性的な問題に向かったということになるだろう。
  
  有袋の女を祈る黄色い歯の噴水
  苦い桑 内股擦る少年の多毛の雲   
  昏れる鉄塔に触角 メンスくさい茎、花も
 
 たとえば、これらの作品が何らかの性的メッセージであることは間違いない。しかし、これが官能的メッセージというのには躊躇を覚える。「有袋の女を祈る」には男の性的な欲望が感得できる。その上で「黄色い歯の噴水」に向かえば、その読みも自ずから判ってはくる。しかし、そう読んでしまっては、この句が陳腐で滑稽なものになってしまうことで、この句はその読みを拒否しているように思われる。「昏れる鉄塔に触角」にも同様の読みは可能だろう。しかし、「メンスくさい茎、花も」は異性に対する忌避的な叙述だ。「苦い桑」「内股擦る少年」には、恐らく桑の葉に触れたときざらついた皮膚感覚を援用しながら自慰行為を描いていると読める。「多毛の雲」はその延長の文脈で読める。しかし、ここでも前と同じ思いに行き暮れる。「隠匿」と呼ぶのは、こうした問題だ。文脈を精緻に辿ろうとすると、作者はメッセージを秘匿して遁走するのである。読者はせめてその後姿を「含羞」と呼んで見送るしかない。一方ではそのくらいには、読後の印象は悪くはないのである。
 当時でも多くの読者はこうした迂回の表現の回路に忍耐強く付き合うことが難しかっただろうが、それで大橋はその可能性を信じて書くことができる状況があった。今では難しいことだ。昭和三十年代のよき刻印がこの句集にはあると言えるかもしれない。ここでは、大橋は難解なのではなく、伸びやかに内に向かうことが可能な時代の言葉の使い手である。
   X
 大橋嶺夫は、昭和九年三月八日生まれで、西東三鬼に師事し、「断崖」「夜盗派」「縄」「花」「海程」などの同人を経た。平成十一年一月十五日、逝去。第一句集『異神』は、昭和三十七年五月、八木三日女を発行人に「縄の会」より刊行。発行部数は不明ながら番号入りである。私が手にしたのは九八番本。挨拶状が入っていたので献呈本。大橋嶺夫、二十八歳のときの第一句集であった。

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和田悟朗秀句鑑賞

                                  林     桂

 
  炎天へ遠き部屋にて水を煮る       『七十万年』
 
 句集名『七十万年』は人類が地球上に出現したことを確認できる最も古い化石ジャワ原人の地層年代に由来すると、和田悟朗は「あとがき」で述べている。つまり、人類が出現してからの歳月が句集名なのである。しかし、それだけではない。今後の人類の歴史を、長く一万年ととろうが、短く千年、百年ととろうが、言わば人類の歴史は七十万年といって過誤がないという思いも込めての『七十万年』なのである。では、これは和田の終末論かと言うと必ずしもそうではない。
 その当たりの気息を赤尾兜子は「かれの冷徹でイロニーをたたえた眼は、しばしば客観的位置から人間をながめ、そして人間を抽出する」(序)と述べているが、橋關ホはもう少し筆を費やして、「跋」で次のように述べている。
 
   
私は職業がら、研究者と称されるさまざまな人を知っている。しかしその中でも和田悟朗の感触はユニークである。明晰に澄んで輝やいて、その眼はまぎれもなく、物を観る透徹した自然科学者のものーーしばしば常人の思いつかぬ角度から、どうかするとまったくの逆手を使って、物事の実体を覗きこもうとする探求のまなざしである。しかもそれは非情で冷たいどころか、まるで幼児のうぶ毛のように柔らかく、人類のふるさとから流れる母乳の香りを湛える。彼の純粋な抒情、明徹な知性、諧謔と諷刺、すべてその人柄を反映する悟朗作品の性格でもある。

 言わば、運命論や終末論に傾いて行かない認識論の輝きととして屹立しながら、自己存在の抒情に向かう眼差しが和田悟朗なのである。俳人和田悟朗を語るとき、科学者和田悟朗についても語られるのが常である。赤尾も橋もそうであるし、『櫻守』に文章を寄せた塚本邦雄にしてもそうである。しかし、科学者であり俳人であるのは和田一人ではないであろうし、医学、薬学、工学などに視野を広げれば理系の俳人は多く、和田は珍しい存在ではなくなるであろう。しかし、それでも和田について強く同様の指摘がなされるのは、それが和田の俳句認識の世界に深く関わって見えるからに他ならないだろう。科学者の視覚が俳人の人格を構築しているという思いを、誰もが作品を通して感得できるからに他ならない。
 場所は「炎天へ遠き部屋」である。「炎天に遠き部屋」ではない。炎天から遠く隔たりながら、思いのベクトルは炎天へ向いていることを示すのが、この「へ」であろう。すると水を煮詰めるとは、炎天への思いの代償行為となろう。和田ならばさしずめフラスコで煮詰めている絵が浮かぶが、ここで煮つめられ蒸発し不在となる水は、和田の思いを乗せて炎天へゆくことになるはずである。そして、部屋の中での行為が炎天に続くという思いは、そのまま地球をフラスコにした蒸発作業のアナロジーを獲得する。地球は太陽によって煮つめられているのである。しかし、これは終末論ではない。そう思うことで、自分の思いの輝きに転じてくるものなのだ。和田の世界は、このようにして輝くらしいのである。
 
  死なくば遠き雪国なかるべし       『現』
 
 「死」は「遠き雪国」の存在前提であると言う。いや、「死」は「遠い雪国」そのもの、等しい存在であるというのが、この句の認識であろう。もちろん、現実の私たちは「死」を絶対的な存在として認識しているから、「死なくば」は反実仮想となる。よって、等号で結ばれた「遠き雪国」もまた絶対的な存在を獲得することになろう。しかし、一旦「死」と結ばれてしまったことで、「遠き雪国」は私たちのイメージの中で、現実との対応を失ってしまう。この句に、現実の新潟や北海道を対応させて思い描くことは、どうにも不可能だろう。かくて「死」は、まだ見ぬ「遠き雪国」にその存在場所を獲得するのだ。私たち既存の理解では、「遠き雪国」に死後世界を対応させるべきだろうが、それが和田の望みだとは思われない。和田は、「死」そのものを「存在」として繋ぎ止めることができれば、それで十分なのではないか。和田の「遠き雪国」は、安寧の地も豊饒の地も担保していないだろうからだ。和田が「死」に唯一付与しているものがあるとすれば、雪国が持つ「白」のイメージであろう。「死」は「暗黒」でも「闇」でもないというメッセージである。そして、和田の心はそれで十分慰撫されるのである。
 それにしても、二つの打ち消し表現を、反実の場で等号で結ぶという語法は、美しい数式や化学反応式を思わせる。これが、「死があるから遠い雪国がある」という表現であったならば、雪国が未知の死の場所の意味を付与されることはなくなることを考えあわせれば、一目瞭然としよう。
 なお、「死なくば」の読みについて、「死(しい)」と関西訛りで読むことが和田によって示唆され、塚本邦雄もそれに賛同しているが(前出)、東夷の私は「死(し)」と読んで、一音足らない唐突な感じを伴う提示をよしとしたい。「死」の問題は、まさにこんなふうにして突きつけられるのではあるまいか。
 
  白靴の音なき午後をペルシャまで   『山壊史』
 
 音のしない白靴。それは現実の世界に触れていないからに違いない。果たして、この「白靴」は夏の季語としてよいのだろうか。確かに、「白靴」の季語イメージによって、「午後」には夏の眩しい光りが散乱する。しかし一方、前句からも判るように、和田にとって「白」は「生」を照らし出す「死」のイメージを曳くものでもあろう。だからこそ「白靴」は現実との摩擦音を出すことがないと考えるべきだろう。かくてこの句は、死(者)のきままな散歩の風情を思わせる。「ペルシャ」もまた、気ままに選ばれた場所のようだ。むしろここで読むべきは、現実の地理感覚と時間感覚の対応を失った、あるいは超越した「死」の感覚であろう。「ペルシャ」も気ままな散歩の範疇として選択できることこそ「死」の意味なのでる。「諧謔と諷刺」(橋關ホ)の世界もまた和田のものであるが、「死」を「生」に超越する存在として提示することが、それであろう。
 
  寥寥と遠きもの来て駐車場       『櫻守』
 
 「遠きもの」は、「遠き雪国」から「白靴」をはいてやって来そうである。そう「遠きもの」もまた「死」の範疇にあるものだろう。しかし、「駐車場」にやって来たのでは気ままな散歩の趣はない。「寥寥と」せざるを得ないのだ。「死」は「生」を照らすだけではなく、時には我々の「場」に照らしをかけることもあるのだろう。
 白靴ひとつでどこにでも行くことができる訳ではなく、移動手段に車を必要とする私たちの社会では、副次的に駐車場というスペースを必要とする。どのような形態であれ、私たちは使われている車の数だけの駐車スペースを、この世に獲得している訳だ。
 「人間の精神はきわめて徐徐にしか進歩してこなかったが、部質的文明は、この長い年月の最後の千年、最後の百年、最後の二十年の間に見苦しいばかり急速に発展してしまった。このバランスを失った人間の世界を見ていると、人類が今後、一万年はおろか、千年百年すら自滅崩壊せずに存続できるかどうか危いと思う」(『七十万年』あとがき)という意識が、駐車場に出会ったのである。
 
  万緑や山もろともに渡来せる       『法隆寺伝承』
 
 「山もろともに渡来」したのは、もちろん「渡来人」と呼ばれる人々である。法隆寺は、朝鮮半島からの渡来人のもたらした文化、技術によって支えられていたのである。しかし、和田の法隆寺伝承によれば、渡来人たちが持ってきたものは何もそのようなものばかりではない。故郷の山もろとも持って渡ってきたのである。山を不動のものと考える現在の私たちの感覚からは想像もつかないことだが、山はご神体であり、人々を加護する存在であるならば、護るべき人々のために一緒に渡ってくることなど当たり前のことであったろう。いや神と一緒でなければ、人々は渡っては来るまい。そう和田は考えるのだ。神が生きていた時代、神である山々も様々に渡り歩いてその場所を変えていたに違いないのだ。
 和田のこのような発想の根底には、山河を不変なものとは考えない自然観があろう。和田の眼は人間社会のタイムスケールではない時間を見ることができるのである。地球時間の中では、大陸も移動する。山がその姿を変えても、移動しても何ら不思議ではない。そして、その視線が、渡来人とともにやって来た、今まで誰もが気がつかなかった山を直感させるのである。
  
  夏鴉地に蜿蜒と時間あり           『少 』

 地にたっぷり蓄えられた時間。地に時間は層となって重なり、時には褶曲する。夏鴉は某時の点景としてその地に降り立つ。そしてこのたっぷりある時間の中では、私たちも鴉と変わることはない点景であろう。和田は、常に私たちの存在を相対化して見ようとする。それは「死」からの視点であったり、膨大な地球時間のスケールからのものであったりする。人間社会の文化や宗教といったスケールに拠らないところに眼をもって私たちの存在を見つめるのである。しかし、和田は、人間の存在を卑小化して貶めたり嘆いたりするためにそうするのではない。地に流れる蜿蜒とした時間の中では、夏鴉さえ慈しむべき存在となるのである。
 また「新年は吉野に還る鴉かな」(『坐忘』)からすれば、この鴉は神の遣いなのかもしれない。そうならば、神も神の遣いも、この「蜿蜒」たる時間の中では相対化を免れない存在であると見ているのかもしれない。
  
  即興に生まれて以来三輪山よ       『即興の山』
 
 和田は無神論者であろう。人間の文化が生み出した神など信じなくても生きてゆけるだけの「明徹な知性」を持っている。だから、ご神体である三輪山を即興の山と喝破するのである。「三輪山は大和盆地の南東部に位置して大神神社の御神体であるが、トロイデ型の死火山で、あるとき突如として噴火してそのまま固まったものに違いない。ぼくは大地すら偶然や出来事で変容してゆくさまに、人間的な興味を覚える。」(「あとがき」)と言う。「三輪山」は人間の文化であり、その中で神でさえあるが、地球規模の活動の中では即興的な産物に過ぎないのである。もちろん、和田はこのことをもって山を神とする人間社会を嘲ろうとするのではない。むしろ、人間を慈しみながら社会のくびきから解放する視点を提示しているのである。

  ありあまる時間の中を西瓜冷ゆ       『即興の山』

 ありあまる時間は、人間社会の外を流れる地球時間であろう。そして、恐らく西瓜の中にも同じような時間が流れているだろう。その存在の長短にかかわりはない。ここでも和田は、人間が獲得した「時間」を相対化して見ている。確実に流れながら、誰によってもカウントされない絶対的な時間に身を任せて、西瓜はしばし存在する。そして人間も本来はしなのだと、和田は考えているのであろう。

  太陽へ行く途中なり枇杷の種        『坐忘』

 「太陽へ行きたし芥子の坂を登り」(『七十万年』)「太陽を娶るはるけき菜の花と」(『山壊史』)と、和田の太陽への希求は強い。「向陽性」という言葉があるが、和田の太陽への希求はそれとは違っている。むしろ、これが和田なりの終末論なのかもしれない。地球の最期は、肥大化した太陽に飲み込まれて終わるというのが現在のモデルである。つまり、地球は太陽へゆく過程として存在する。しかし、この終末観が人々の心を翳らすことがあろうか。和田はむしろ、そこから生きて在ることのエネルギーを紡いでくるのである。

  人間であること久し月見草         『坐忘』以後

 伸び縮みする和田の時間軸の中で、和田が人間の身の丈に近いタイムスケールに還ってくることもあるのだ。しかし「人間」「久し」には、私たちには見えない和田なりのスケールが当てられていそうでもある。

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