引用の作品の著作権は、各作者に属します。学年等は発表時のものです。ことわりがないかぎり、上毛新聞の「ジュニア俳壇」に掲載された作品です。なお、鑑賞文は書き下ろしたもので、新聞掲載のものとは異なります。

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文・林  桂

ペダルふむせなかいっぱいはしる 小3 伊藤 博城
 シャツは帆のように風をいっぱいはらんでいそうだ。背中に動く風を感じながら、思い切り自転車を漕いでいる少年の姿が思い浮かぶ。自転車に乗ること自体が楽しく目的である、そんな少年の日が誰にもある。そんなことを思わせる。自転車が手段でなく、目的である。背中に走る風は、それゆえに感得されたものだろう。


このにもうすぐ雪が降りてくる 高2 竹渕 雄太
 句の発想は、案外雪の季節を迎える前の現実的な感慨にあるのかもしれない。しかし、青春の感傷は紛れもない。「この胸に」は、制服の胸であるとともに、「心」がイメージされた言葉だ。「降ってくる」ではなく「降りてくる」にも、同じような感傷の匂いがある。「もうすぐ」には耐える思いも滲む。俳句をこんなに感傷的で、甘い思いで書くことが出来る稀有な時期を、年少から始めた人間だけが持つことができる。殆ど俳句からのプレゼントのような作品である。


冬の風夜を歩いてを出す 高3 上原 一記
 「冬の風」で一旦切って読むべきだろう。冬の風が夜歩くという擬人の句ではないということである。だから、冬の風の中、夜を歩く存在を想定しなくてはならい。一般的な俳句的の文脈から言えば「我」であろう。「音を出す」ことで、またその音によって、自分の存在を確認する乾いた孤独がここにはある。「孤独」もまた、青春期の大切なテーマだ。「冬」「風」「夜」「音」どれも、孤独を確認する装置としてここに置かれている。


胡桃割りそろそろ空がくなる 高2 一倉 智美
 胡桃を割るという作業に集中していた思いが、一気に空に向かう。「割り」は「割り終えて」ということなのであろう。そして、空に向かった思いが「そろそろ」「高くなる」と自分の胸に落ちてきてつぶやきとなる。秋という季節の感傷が根底にはあるだろう。


おちばはすみっこがすき 小2 村上亜美加
 乾いた落ち葉は、風に吹き寄せられて、庭や道路、垣根の隅に寄る。それを「すみっこがすき」という発見を伴って見つけている。現象でも、受け身でもなく、落ち葉の好みとして見ている。落ち葉は自分の好みの場所として隅っこを見つけて移ったのである。そう感じている。恥ずかしがり屋で、隅っこが好きな子どもいるのだから。短律の自由律が巧まざる効果をもたらす。


永遠はひんやりしてゐる花ざくろ 高3 児島  豊
 「永遠」という概念を手に入れたとき、人は喜ぶとしたのだろうか、それとも叶わぬものの存在を知って悲しい思いに沈んだのだろうか。「永遠」という概念を「ひんやり」という感覚の内に捉える。それは、喜びや悲しみを超えて、自分の「永遠」を理解したことだろう。感覚化された概念だけが、自分のものになるのかもしれない。


部屋の中大きな日だまり友が来る 中2 今井 美希
 部屋の中に感じている大きな日だまり。暖かさは、友に対する思いそのものである。互いの部屋を訪れる友は、中学生の言う「親友」ということになろう。もちろん、この部屋は親友であるからこその話題のための空間となるはずである。親ではどうにもならない内面が向き合う場だ。


夜になり外でたちあそび出す 小2 加藤 悠介
 夜の風の音は、昼間の音より大きく感じられるものだ。その音の変化を、風達が遊び始めたからだと言う。外が夜の闇に閉ざされ、家の中の灯りにこもると、にわかに外は異界に変わる。そんな子どものころの、感受性も思い出させてくれる。夜の風はまだ知らない異界の風として渡る。その遊びもまた、謎に包まれたものとして想像されているに違いない。


昨日より今日より明日春の風 中1 重原 由佳
 「昨日より今日」と言う。「今日より明日」とも言う。しかし、「昨日より今日より明日」と先に送られる思いは、格別に重さを伴う。直接には春風を待ちわびる思い、あるいは春風の様子に重ねられているのだろうが、どこかで自分に期する思いに転じている。自分を励起する思いの言葉を、読者も恵まれるこことになる。


小春日の樹々や時計の針眩し 高3 阿部 清彦
 初冬の好日。樹々もその葉を落としているだろうか。待ち合わせの並木か公園を思わせる。小春日が樹をそのまますり抜けてきて、腕時計に眩しく光っている。その輝きに待つ人への思いが重なっている。貴重な青春俳句だ。「小春日」という季語も、新たな輝きを手に入れている。


昼顔や栃木の地図の色白く 高2  山野呆畦人
 作者が、「栃木にいろいろ雨のたましいもいたり」(阿部完市)の句を知っていたかどうかは不明。あるいは栃木の白地図は作者にとって、現実的なものに過ぎなかったのかもしれない。しかし、それでも「栃木」という地名の喚起する思いに導かれてこの句がなったことは間違いないだろう。「昼顔や」という配合がそれを物語っている。


秋終わるヤンバルクイナのピンバッヂ 高2 岩井   蘭
 ヤンバルクイナのピンバッヂ。沖縄方面の修学旅行の土産と考えるのが一番だろう。気に入って、自分のものとして手許に残した品であろう。旅行の思い出は、小さなピンバッヂとなって胸を飾り、やがて季節は冬に傾いてゆく。終わってしまったことがもたらす感傷は、秋が終わる感慨と結んで、大きな溜息のように「作者」の胸に落ちてくる。その胸をヤンバルクイナのピンバッヂが飾っている。


蝉の声健やかに育ちけり 高3 石川 由希
 夏の雲。おそらく積乱雲だ。見ている内に大きくなったゆく雲。それを、「健やかに育ちけり」と言う。それこそ伸びやかで健やかな精神に映る雲の様だ。雲の現象と、それを現象として肯定的に受けとめている精神がここにある。世界を祝福するように、世界から祝福される精神がる。青春期の精神のありようは様々だが、祝福されてあることがその一つにあろう。


むく犬の首元温き春霞 高3 石川 麻乃
 むく毛に覆われた犬。毛をさすったくらいでは犬の肌の温もりは伝わってこない。しかし、その首もとに触れれば、その犬の体温が伝わる。この首もとを許すのは、犬にとって特別な存在の人だけだ。首元で確認しているのは信頼関係。「温き」が犬との関係を示し、それが春霞のさまに転じてゆく。


とうこうはんどこもつめたい冬の 小2 一倉 勇太
 小学校は、登校班を作って通学する。上級生の班長、副班長に挟まれて列になって登校する。集合場所から、学校まで、ずっと寒い風の中をゆく冬の登校班。誰の無口で、はしゃいでいる者もいそうにない。当然、登校にはこういう日もあるのだ。班であることがどこかで心の支えになっている。


かたつむりフキの学校たべちゃった 小2 竹吉ゆき子
 カタツムリが集まる大きな蕗の葉は、さながら学校。フキを学校だと理解した思考回路はいかにも子どもらしい。しかも、大人の目にはそれなりのイメージの飛躍が感じられる。しかし、面白いのは「フキの学校」を発見した後で、それをカタツムリが食べていることに気がついたときだ。それは学校のイメージを否定する方向に向かうのではなく、「たべちゃった」という第二の発見。驚きに向かうのである。これはもう叶わない。


ブランコにのったらさくらおちてくる 小3 ふじまきみか
 満開に咲き誇る桜の花の校庭は、小学校の原風景だ。そして、咲ききって散り始める桜。ブランコを漕ぐ小さな風にも反応して、その花びらを散らす。ブランコの風の中に迷い込むように。ブランコと桜の取り合わせ。そして、「のったら」「おちてくる」。もうたくさん類句が作られているに違いないが、それでもこの句の伸びやかさはどこか特別で、懐かしさが漂う。誰の胸にも懐かしさを蘇らせる力がありそうだ。


校庭の遊具もしんと卒業式 小6 真塩 翔太
 卒業式の当日。校庭の遊具に取り付いて、遊んでいる子ともはいない。卒業式は特別な日なのである。6年間学んだ学校を去るという感慨と寂しい思いは、こうした遊具を目の当たりにしたときにこそ生まれるのに違いない。これからは遊ぶことのない遊具。そして、進学する中学校に遊具はない。小学校をおえるのだという思い知らせを遊具に見るのである。


深緑の大きな黒板雪が降る 中2 野村 大樹
 黒板といっても深い緑色である。それは白いチョークの色を浮き立たせるために考えられた色なのであろう。学校の教室。放課後の誰もいない場面を思ってみる。掃除の後の深い緑の黒板がその存在感を増して、無人であることを教える。教室の窓いっぱいに降りしきる雪。雪の白と黒板の深緑が、時間の中に広がってゆく。こんなにも身近なところにあった寂寥があったのだという思いに佇むのである。


喜んだ表情つくる日焼かな 中3 岩井 大地
 日焼けが、喜びの表情を作る。顔の表情を支配しているのは、日焼けした顔色である。そのくらい顔の中で日焼けが存在感を持っているのだ。部活動などで一夏戸外で過ごしたたくましい顔色なのでろう。もちろん、その顔色が一番似合う表情は、笑顔。この笑顔を輝かせるために日に焼けたような具合なのだ。その誇張表現はこの句になっているとも言える。


欠席の友のに日があたる 中3 佐藤  良
 欠席の友の不在感を、友の机の存在感によって確認している。遮るものなく、机の面いっぱいに日ざしが注ぎ暖かくなってさえいそうだ。そこに友の腕も手もない広さ。句は無季だが、季感は冬だ。日ざしに切実な思いが重なるのは冬だ。短い冬の日。窓硝子を通すことで、暖かく感じる陽光。その光が友の不在を照らし出しているのである。


噴水や戦火にふるえる遠い空 中3 清水 帆波
 命の源である水。噴水を美しいと思うのは、その根底に命の喜びと共鳴しあうものがあるからに違いない。命の賑わいと輝きを喚起する噴水を目に、現在遠くで行われているイラク戦争に思いが向かう。そこでは水ではなく、戦火によって空が震えている。戦火相望俳句に違いないが、精一杯胸を震わせている。2003年、中学生の句に戦争をテーマとしたものが多かった。


それ以上笑うと好きと言っちゃうぞ 高2 渡部  愛
 「春愁やあまりに素直に笑うから」という句も書いている。自分の好意を打ち明けられない異性がいる。自分の気持ちを抑える葛藤の中で、相手との距離をはかって毎日を送っているのである。それでも、時々告白の衝動が抑えがたいときが訪れる。相手の笑顔がそれだ。この笑顔は、自分の好意に気がついていない屈託のない笑顔なのだ。その屈託のなさに時には、愁う。そして、時には告白の衝動を抑えがたい魅力を伝える。冗談めかした言い方の中に、屈折は現れている。


すすきよりの匂いするが好き 高1 中島由季乃
 高校生の交流句会で知った作品。実は席題「猫じゃらし」の即吟句。作者は「君」を「猫じゃらし」として詠んだのである。もちろん、席題ならば「猫じゃらし」を詠み込まなくてはならないから、いかにも初の句会らしいミスと言えばミスであろう。しかし、「猫じゃらし」が「君」になったことで、句の中ではヒトに変身していて、ススキと比較される、どこか純朴で健康な青年の趣を獲得した。秋の陽に乾いて、陽の匂いをためているススキ。そのススキより強い陽の匂いをさせて現れる青年の姿は、「作者」ならずとも好もしい。。もちろん、作者は読者にこのように読まれることを、十分承知していたとも思われる。


黒板に音して書くや白い夏 中2 飯塚 仁美
 白熱した授業をしている教師の姿が浮かぶ。それが黒板を叩くように書く音となって、静かな教室に響き渡っているのであろう。「白い夏」には、真摯に学ぶ少年少女の清潔感が漂う。作者が、高屋窓秋の「頭の中で白い夏野となつてゐる」を知って踏まえて書いているとも思えないが、この句が読者の心には低唱となって響く。「黒」と「白」の色彩の対比もあるが、ここでは考えない方がいいように思う。


ばあちゃんのきゅうりまがってにじみたい 小1 中塚 白馬
 ばあちゃんのきゅうりは、自分達で食べるために作られたものであろう。家庭菜園か、農家ならば庭先近くにある小さな畑で作られているのだろう。店から買ってくるような真っ直ぐな形はしていない。どれもまがっている。いかにも素人作りのきゅうりだが、それでも美味しい。ばあちゃんの気持ちもこもっている。そうした気持ちのすべてを込めて「にじみたい」と言っているのだ。子どもはたとえ表現の天才。


さくらさき明るく光るランドセル 小4 清水 咲妃
 さくら明かりの中の、新入生のピカピカのランドセルという読みも可能であろう。しかし、桜明かりの中に新学期を迎えて、その輝きの中で、使い慣れたランドセルも輝いて感じられるというふうに読んだ方が面白いと思う。この輝きには新学期の心の輝きも、反映されているだろう。新学期の新しい心ごとにランドセルは光り輝くのである。
 


水仙がを出しかけの寒さかな 中1 佐藤 絵理
 「俳句になっているかどうか」について、俳句読解の前に季語の有無や季重なりの有無などのチェックの手続きが必要な人には、上五と下五に配された「水仙」「寒さ」の季重なりが気になるに違いない。確かに俳句を少しでも書き慣れてきた人は避ける表現であろう。しかし、水仙の芽が出始めの本格的な寒さに向かうころの体感の「寒さ」というものは、確かにある。そうした寒さを寒さとして感覚よく描きだすことが、俳句の手だれてとなってしまった私たちにはできなくなっていることを思うべきであろう。寒さを寒さとして、気持ちのよいものとして描き出している。


梅が香やほこらしそうな犬の 中2 朝比奈明子
 抜群の嗅覚を持つ動物である犬は、鼻からやってくる。鼻を向けて、匂いをかいで、世界を弁別しているのである。その様子を「ほこらしそうな犬の鼻」と言い止める。「梅が香や」という古風に振りかぶった言い方も、「こほらしそうな」様を讃える道具になっている。


春キャベツ白皿に盛り色楽しむ 高1 柄沢 一衣
 春キャベツの浅い緑の色を、美しいと思う。その色を楽しむキャンバスとして、白い皿を選ぶ。盛りつけられたキャベツは、皿の白をバックに、一層みずみずしく輝く。思わぬものに美しい色彩を見つけることがある。作者はそれをキャベツに見つけたのである。


直滑降風も景色もつきぬける 小4 高橋 敦也
 直滑降でスキーを滑り降りるときのスピード感を言い止める。風を切って滑る。突き抜ける。風よりも早いという体感だ。それが「景色も」とつづく。並列におかれたこの誇張表現にびっくりする。風を切るくらいではなく、景色そのものも切り裂いて、飛び出しそうだというのである。確かに誇張表現でなければ伝わらない、誇張表現だからこそ伝わる実感というものがある。子どもは、その名人で、やすやすとその橋を渡ってしまうことがある。


夏休み外に出るたびかげぼうし 小6 藤井 智仁
 夏休みの印象を、かげぼうしに凝集している。強い日差しの中に出るたびに、強く短く現れる自分のかげぼうし。そのかげぼうしを伴って、一夏を過ごしたのである。夏の強い日差しも、その日の下で遊んだ夏休みも、かげぼうしに刻印されている。


はかまいりこくごのほんをよみました 小1 おおなかきょうたろう
 墓前で「こくご」の本を朗読する。恐らく作者の成長を楽しみにしていた、身近な肉親の墓前であろう。小学校に入るのを楽しみにしていた人への、成長の報告のための朗読である。生きてある者ばかりが、人を育てるのではあるまい。生前の愛情や期待が、死後も人を励まし、育て続けることがあるだろう。墓参りは、生きてゆく者にこそ大切なことであった。(第35回全国学生俳句大会作品より)


春風に言葉およがせ少女達 中3 川満 智美
 少女達のおしゃべりは、たわいなくそしてきりもない。少女達を最も生き生きとさせ輝かせる春風の中で、少女達は、おしゃべりを続ける。「言葉およがせ」には、少女達の言葉の軽さや無意味性が感得されているようだ。大切なことを話しているのではない。話すことが大切なのである。そのように発せられる言葉の様を言っているように思われる。同じ少女であっても、少し離れたところから、少女達の様子を客観視できる視力の持ち主が作者であろう。(第35回全国学生俳句大会作品より)


空蝉やサンドバグに打つ 高3 馬越 喜己
 サンドバッグを叩く行為は、青春の出口を探す行為か、あるいは出口を見つけることができずにする代償行為の表現のように読める。それを示唆するのは、「空蝉や」である。ぽっかり空いた背中の割れ目。虚ろな体。そして必死にしがみついたままの姿を留める足。「空蝉」は、作者の心を形象化したものとして書かれていると読むべきだろう。(第35回全国学生俳句大会作品より)
  


ザラザラのぞうの鼻先夏休み 小4 猪上 浩矢
 夏休みの動物園での体験がもとになっての作品であろう。実際に象の鼻先に触れる体験をしたのか、鼻先をよく観察して感じ取った感覚なのか分からない。今は動物園も様々な展示の工夫をしているので、鼻先に触れることがあっても不思議ではない。しかし「ザラザラの」と感得するまで、よくよく見たのだという解釈の方が面白いかもしれない。夏休みの感覚と感情が生き生きと働いた楽しい一日として読めるからだ。(第36回全国学生俳句大会作品より)


眼の玉の輝いている蝉のから 中2 伊藤 彩子
 空蝉の眼は、確かに一番輝いている部位のように思われる。それは薄いからなのか、小さく突き出た部分が光を集めやすいからなのかは知らない。しかし、ここで眼の部分が一番輝いていることに気づくことは、深層のどこかで命の輝きに気づいたことに繋がっているように思う。おそらく地中では殆ど用をなすことのなかった眼。それは他の部位と同じように脱ぎ捨てられる部位であることでも伺える。しかし、成虫となって光の世界に出るときのために用意をされているのである。眼が不在となった今、光の世界で輝く空蝉の眼。その逆説的な表現に、作者は気づいている。(第36回全国学生俳句大会作品より)



終戦日パンにぎっしり干葡萄 高3 藤田 哲史
 パンの中に黒い点々となって現れる干葡萄。そこに終戦日の思いが重なってゆく。作者にその思いが何かは明確に整理されている訳ではないだろう。しかし、戦争を知らない世代が、知識として戦争を学ぶのではなく、自己の追体験として内面化しようとする姿勢がここにはあるだろう。このような思いから物事を理解しようとするベクトルを持つことは、大切であろう。そして、そこに文学表現の根本的な問題もあるように思う。(第36回全国学生俳句大会作品より)


登校班集合場所に落ち葉ふる 小5 高柳亜理沙
 登校班の集合場所になっているところには、大きな落葉樹があるのだろう。あるいは、その落葉樹が集合場所の拠り所になっているのかもしれない。夜の内に大量の落ち葉を敷き、また今も降りしきっているなかを、友達が集まってくる。「落ち葉ふる」は、待ち合わせの時間が見つけたものだろう。寒くなってきた朝の凛とした空気も感じられる。毎日の生活の中から見つけた季節である。


のぼりぼうのぼってに手がとどく 小6 清水 健司
 校庭に置かれた遊具ののぼり棒。校庭の中央は体育の授業のためのグランドなので、必然的に遊具は校庭の隅に置かれている。また、その校庭を囲むように桜が植えられているのが小学校の一般だ。したがって、桜と遊具の距離は、近いところにあることになる。桜の花の季節は、のぼり棒の先までのぼると花に手がとどくのだ。それがうれしくてのぼり棒にのぼる。すぐに遊びにしてしまうのが子ども。競争してのぼるようになっても不思議なないだろう。


風鈴や風はからやってくる 小6 清水 那帆
 軒下や窓辺に吊られた風鈴をならす風。どこからやってくるとも知れないその風の流れを、「空からやってくる」と判断したのだ。それはどこからやってきたのだか分からないという表現であるともに、風鈴から広がってゆく世界の表現ともなっている。晴れ上がった夏の世界の広がりを呼び込んでいる。
 


友だちと遊ぶあぶらぜみ 中3 佐藤 未菜
 おそらくお姉さんの後ばかり追いかけて遊んでいた妹。その妹が、友達を作り、自分の遊びの世界を作ってゆく。親離れという言葉があるが、ここでは姉離れ始めた妹を、姉の感慨として詠んでいるようだ。「あぶらぜみ」の鳴く季節。夏休みの日々の中で、それを一層実感したのだろう。


寒いだろポケットの中の単語帳 高1 小川 竜兵
 山口誓子に「学問のさびしさに堪へ炭をつぐ」があるが、この「寒いだろ」にも勉学に対する述懐がある。単語を覚えるためにいつもポケットに入れて持ち歩いている単語帳。英単語帳だろう。その単語帳に「ポケットの中も寒いだろ」と呼びかける。もちろん独語と同じである。ここでの単語帳の寒さは自身の寒さと釣り合っている。そして、それは、勉学に対する某かの閉塞感が根底にあるものだ。「学問のさびしさに堪へ」と書いた誓子の根底には、エリート意識が感じられるが、この「寒いだろ」には等身大の高校生がいる。「寒いだろう」とせずに「寒いだろ」と口語を意識してかいた書き方の巧みさによるものだろう。


午後の風ポプラをゆらす光琳忌 高1 中沢 瑞希
 光琳忌は陰暦の六月二日。校庭のポプラの木々も青々と茂る季節である。「午後の風ポプラをゆらす」は、校庭の一隅の描写と見てよいであろう。午後の授業に退屈した視線を遊ばせているのかもしれない。それでも、そこに輝かしい青春の匂いやかな時間が浮かびあがってくる。光琳忌で青春俳句が可能だなどと考えたこともなかった。この取り合わの意外さと、そして確かさ。オーバーに言えば、光琳の芸術に青春性を発見したような気がする句である。


おひさまはぼくのところであつくなる 小1 ふじたしんや
 夏の太陽に照らされた感覚は確かに「ぼくのとことであつくなる」というものだろう。肌を焼く熱さは、「ぼく」の肌で感じとるものだからだ。焼かれる熱さは、皮膚にあるのだ。遠い太陽にあるいのでない。ぼくのところにやって来て熱くなっているいるのだ。「ぼくのところであつくなる」は言い得て妙。 


おとうとはたまごのようにねむってる 小1 青木 亮子
 生まれて間もない幼い弟の印象である。「たまごのように」という比喩が面白い。まだ眠ってばかりの弟。姉として心を通い合わすには、弟はまだ反応が弱いのだ。でも、可愛いと思う気持ちは、しっかりと向いている。そんな中での印象が生んだたとえだろう。生まれてもまだ卵の中にいるような可愛い弟なのだ。


桜さく学校全員新学期 小6 須田 裕介
 新学期を迎えるのは、新入学の1年生ばかりではない。2年も3年も4年も5年も6年も新学期なのだ。もちろん、先生も新学期である。校庭に咲く桜の花を見ながら、作者はそのことに気が付いたのである。みんな一斉に始まることの中に、新学期の意味を発見したのだ。「学校全員新学期」は、作者の中では新たな気づきであり、発見の言葉なのである。


新しき消しゴムの花曇 中3 中澤 奈美
 まだ一度もかけていない、鉛筆の汚れのない消しゴムの白さ。繰り返される日常の中で、ささやかな変化、あるいは違和として発見したものであろう。対比的に掲示されている花曇は、暗く沈んでゆくというよりは、ぼんやりとした日常の明るさだ。遠くではない。消しゴムは近くの生活をほのと灯すような白さなのだ。無自覚ながら、私達は、一日の心の支えをこんな場面に持っているのかもしれない。


祖母が逝きはだんだん眠りだす 高1 山崎奈緒子
 祖母を亡くした後、季節が急速に冬に向かっていることを実感させられているのだ。もちろん、そこには作者の思いも投影されている。「山眠る」という季語に、亡くなった祖母への追悼の思いが重なって、「山はだんだん眠りだす」という感慨は生まれている。祖母を恋う寂しさの中で、作者は「山眠る」という意味を深く感じとることができたのである。


風花はの予感を連れてくる 高3 山口   渚
 風に乗って舞う風花は、どこかにこの句のような感情を隠しているように思える。一度は降った雪が、風に乗って違う地へ再び舞うからであろう。一度は降ったはずのまだ見ぬ地への思いを、まだ見ぬ人への思いに転用してもさほど不思議ではない。時には晴れた空に思い掛けず降ってくるのだから、尚更である。「恋」ではなく、「恋の予感」である。まだまだ淡い感覚である。手がかりのなさの中にいる。あるのは予感だけだ。それは日常の遠くを思う感情とあまり変わりがないのかもしれない。


かぜの中ちからのれんしゅうそとでやる 小1 あいざわはるか
 運動会の綱引きなのだろうか。いや、体を動かしてする練習全部をを「ちからのれんしゅう」と呼んでいるのだと思われる。縄跳び、うんてい、鉄棒、のぼり棒、それらに共通するものとして、「ちからのれんしゅう」を見つけたのであろう。しかも、その場所は風が吹く外(校庭)だということにも気づいている。当然この発見は「中」でする練習もあることに気づいているからである。


あつい日はお日さまいっしょにはだかんぼ 小2 並木 沙弥
 暑い日はお日様も裸ん坊になっているという発想の面白さ。もちろん「いっしょに」だから、暑くてみんな裸ん坊になっているのだ。みんなが裸ん坊ににっているのを見て、一番熱いお日様も裸ん坊だろうと考えたのだろうか。お日様が裸かどうかなど、大人には考えつかない。意識の中で、「お日様」に近いところで生活している子どもならではの見方だろう。


父の服ドイツの香りでいっぱいだ 小5 栗原 有加
 ドイツへの海外出張で、しばらく家をあけていた父親が、しばらくぶりで帰ってきたのだろう。しばらくの間だが、離れて暮らしていた父への違和感と懐かしさを、ドイツの香りとして感じとっている。まだ見たことがなく、父が踏んだドイツへのあこがれも籠もっているだろう。


妹を泣かせたあとの水遊び 小6 高橋  亮
 兄弟げんかの後の気まずい時間。自分の方が悪かったという思いがありながら、まだ、仲直りはできていないのだ。妹を泣かせてしまった自分を責める思いと向き合いながら、一人水遊びをしている。自分の心を冷やし、心を洗う思いがどこかに働いていそうである。水遊びは自省の時間なのだ。
 


青空が私の楽器に映ってる 小6 松村ひとみ
 マーチングバンドの練習か発表会。青空には晴れがましい思いが投影されているので、発表会の方がよいかもしれない。トランペットやトロンボーンなどの金管楽器を担当しているのだろう。屋外に持ち出された楽器の輝きが、そのまま輝かしい思いに転じている。


僕のせいあなたのせいだ花が散る 高2 丸岡 友美
 どうしようもなく散り急ぐ花々。もちろん、誰のせいでもないし、止めることもできない。しかし、花を惜しんで、誰かのせいにしないではいられない思いが、「僕のせいあなたのせいだ」という言葉になったのである。桜の花が散るのを惜しむのは昔から。また、詩歌の題材としても古くからある。それでも、まだ現在の高校生がうたう余地が残されている。


バスの窓の闇の深きをとす 高3 玉井 利明
 バスの窓の外には夜の闇が広がっている。遅い帰宅のバスの中にいるのだ。街灯りのする道を走っているバスではない。街灯もないような郊外を走るバスだ。深い夜の闇が、バスの窓ガラスを鏡に変えて、自分の姿を映し出している。まるで自省の時間を貰ったように、自分の姿をぼんやりと眺めながら一日の終わりの物思いに誘われているのだ。(第11回全国学生俳句大会作品より)


九月のうすむらさきの髪上げて 高1 高橋美智子
 夏の暑さを失った九月の陽。しかし、その輝きはまだ失われていない。その陽の中で髪を整える。ここでの「上げて」は、ポニーテールのように髪を結い上げることだろう。その髪のひとつひとつに陽が輝き、その輝きも結い上げているようなイメージだろう。九月の陽の輝きが絡んだ髪を「うすむらさき」と表現する。大胆な色彩表現が、魅力的な若い肖像を結んでいる。(第13回全国学生俳句大会作品より)


曼珠沙華暖かき少年よ 高2 新井久美子
 彼岸花という名もあるように秋の彼岸のころに咲くのが曼珠沙華である。陽の力も大分落ちてきているころである。その秋の陽の温もりを肩にためている少年は、曼珠沙華のようにしばらく佇んでいるのだろう。どこか孤独を感じさせる少年である。その少年を「肩暖かき」として表現できる作者は、少年のよき理解者である。想いを寄せているのかもしれない。そして、距離をおきながら注視する視線の持ち主なのだ。作者にも、どこか孤独で寂しそうな姿が見える。それは、紅の焔の形に咲きながら、どこか寂しい様子の曼珠沙華に通うものがある。(第14回全国学生俳句大会作品より)


エンピツを細くけずれば雪が降る 高3 青木 重治
 鉛筆を削るのも今はほとんど機械である。しかし「細くけずれば」という作者は、ナイフで鉛筆を削っているのだ。肥後守で鉛筆を削るのが一般だった私の子どものころ、鉛筆には持ち主の個性は現れていた。筆圧の高かった私は、先を鈍角に削りだして使っていた。しかし、中には鋭角に削りだし、その延長に芯を細く尖らせている者もいた。筆圧が低く、繊細な神経の持ち主だ。作者もそんな一人なのだろう。エンピツの片仮名書きにも、その細やかな神経は通っている。そして、降り出す雪にも同じ神経が通っている。青年期の鋭敏な神経だ。(第16回全国学生俳句大会作品より)


めだかまっすぐおよいできょうそうだ 小1 かんざわともき
 初句が「めだか」3音で、足りない音数だけ切れが強く感じられる。提示の力のように働く。ピンと背筋を伸ばして泳ぎ出す前の姿が浮かぶ。水槽に飼われているメダカは、何かに驚いたときの直線的な早い動きが印象的だ。この句は、そうしたメダカの一瞬の姿を競争に見立てて描く。当たり前に思える表現の「まっすぐおよいで」が、何よりメダカの姿として的確だ。 


おとうとにさわるとなぜかねむくなる 小2 しぶやゆうた
 弟はまだ眠ってばかりの赤ん坊なのだろう。「さわると」がそれを物語っている。眠っているところをそっとさわりに行く。すると弟の気持ちよさそうな寝顔に引き込まれて、自分も眠くなってしまいそうになるのだ。兄としての弟への関心と、ほのなか愛情が芽生えている。自覚しない赤ちゃん返りの願望も心のどこかに生まれているのかもしれない。


ねるまえにかならずママのさわる 小2 さわ田かがり
 幼いときからの癖が残っているのであろう。お話をしながら眠る仕草が癖として定着したのだろうか。それとも何かの代償行為がこのような形で定着したのだろうか。ともあれ、本人にもその理由は分からなくなっているだろう。小さな無意識の仕草を、思わずも俳句に書きとめることができている。深く自分を語る自画像となっているのかもしれない。


黄金の尾瀬がぼくらを輝かす 小6 阿部   嵐
 尾瀬の草紅葉を黄金と表現している。尾瀬というと水芭蕉の咲く初夏のイメージが強いが、一番美しいのは秋だと語ってくれたのは、高校時代の美術の先生。直後に病気で亡くなったので、印象深く残っている。黄金の草紅葉が、自分たちまで黄金色に染め上げて輝かせている。その眩しい感覚の中にいるのだ。  


春を待つ礼拝堂の硬き椅子 高1 上原  茜
 学校の礼拝堂だろう。きっと木製の椅子。春間近だが、座ればまだ冷たさが感覚として伝わってくる椅子なのだ。神に祈りを捧げる座として「硬き椅子」は、その本質を射抜いた言葉だろう。安楽な椅子で、私達は祈りを捧げない。それはどこか祈りの本質を突いている。私達の心の場所とも通じている。


たんぽぽの綿毛のような十六歳 高2 松崎沙也香
 自画像に違いない。タンポポの綿毛は、どこか夢見心地で、一陣の風に吹き飛ばされそうな危うさも持っている。飛び立つことが夢であると同時に不安である。そんな十六歳という現在を、タンポポの綿毛にたとえて表現している。タンポポでの例示はどこかに幼さも残している。よくありそうな比喩だ。それも含めて、危うい夢見心地を表現している句なのだ。 


つくしつくつくランドセルが集まって 小6 北川 健太
 「つくしつくつく」という歌うようなリズムが、そのまま心の中の弾みを表現している。ランドセルを背負ったままの道草。つくしに顔を寄せて集まっているのだ。春の道は、道草の材料がいっぱいだ。すみれ、タンポポ、アリなどの昆虫、小動物。どれにも歌うような気持ちで接しているに違いない。(第37回全国学生俳句大会入賞作品集より)


青空を押し上げている大銀杏 高2 小田桐 亮
 まっ青な秋の空に聳え立つ大銀杏。「押し上げている」で、空と銀杏の関係性が生まれる。銀杏の雄大さが生まれ、またそのことで秋の空の高さがイメージされる。銀杏の根元で振り仰いでいるような仰角が感じられる。空と銀杏だけを視界にいっぱいにしているようなのだ。(第37回全国学生俳句大会入賞作品集より)


秋空に一番近いキリンの目 小3 泉 美衣奈
 動物で一番の背高のっぽのキリンだから「秋空に一番近い」なのだが、高所にある身近なものではなく、、「秋空に」といったことで、キリンの大きさの印象が強く鮮明に表現されている。しかも、「目」に焦点を当てることで、キリンが持つ視界の像への興味関心も感じさせる。キリンの印象的な大きな黒い瞳が見ている高い世界はどんかだろう。(第38回全国学生俳句大会入賞作品集より)


夜に入りて団欒のごと囲む 高2 進士 貴大
 学校の実習だろう。窯焚きのために仲間と夜を徹するのである。夜を徹することで生まれる一体感を「団欒のごと」と表現しているのだ。窯の中には仲間の作品も自分の作品も赤くなって焼かれている。それを思っての作業は連帯感を生んでいるであろう。「夜に入りて」の時間の経過のみならず、気持ちの深化の措辞として効いている。(第38回全国学生俳句大会入賞作品集より)


あおむけのラッコ夏の大きい 小4 大指 澄華
 仰向けになって水に浮かぶラッコ。水族館での属目かもしれないが、作者の心には海に浮かんで、夏の大きな雲を見ているラッコの姿が見えている。その視点は、作者の視点にも重なっている。「夏の雲大きい」は、作者の言葉としても響くように書かれている。「5・6・6」の変則のリズム、中7の句跨りの表現。ともに小さな俳句の世界で思いっきり伸び伸びと書いている印象だ。(第39回全国学生俳句大会入賞作品集より)


卒業式までの時間が光りだす 高2 山口 隼人
 卒業を意識することで、退屈に繰り返されているとしか感じられなかった高校の毎日の生活が貴重な輝きに満ちてくるのである。3年の教室の後ろの黒板には、誰知れず「卒業まであと○日」というカウントダウンが始められることが常だ。終わりを意識することで、違って見えてくる毎日の生活がある。(第39回全国学生俳句大会入賞作品集より)


勝敗を分かつシュートや雲の峰 高1 高橋 苑恵
 サッカーの一場面。シュートにも、試合の流れの中で勝敗を決定づけるものとそうでないものがある。いましもその決定的なシュートがゴールネットを揺らしている。「雲の峰」の見えるグランドは、プロの試合のものではなく、やはり高校生のものだろう。雲も、選手、応援の感情の高まりと呼応するような力強い表現をしているのだ。(第1回群馬県高校生文学賞作品集より)


強面の恩師は去りぬ花の 高3 石原 沙綾
 離退任式での感慨であろう。強面で狎れることはなかったが、信頼を寄せていた先生が転勤したのである。咲きほこる桜の中、離任の挨拶に来た姿を見ての改めての感慨であろう。「教師」と言わず、「恩師」と言ったことで「強面」の表現が生きる。雲にたとえて表現した「花の雲」も、惜別の情を清くする。(第3回群馬県高校生文学賞作品集より)


秋蝶のゆくさきざに昼の月 中1 松本恵里奈
 「蝶墜ちて大音響の結氷期」(冨澤赤黄男)の世界には、緊張し張りつめた精神が張り付いている。凍りついた静寂の世界の中で、小さな蝶の墜落も大音響となって響く。一方、終末前の秋の蝶は、音をたてることなく力なく飛んでいる。飛翔によって獲得する蝶の視界の広がりのなかには、昼の月が常に入っている。秋の蝶の視界は遠く昼の月に塞がれているのだ。昼の月は、蝶の末期を照らしているようだ。秋の蝶の世界に張りついているいのは、緊張前の弛緩した孤独感のようなものだろう。(平成21年長谷川零余子記念桜山まつり俳句大会作品集より)


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