自分の好きな作品をいつか集めてみたいというのは、誰もが持つ根底的な欲求だろう。どんなに優れた詞華集でも、まるまる好きな作品で埋まっていることはない。むしろ、そうした詞華集に出会うときほど、自分が加えるべき作品が思われ、削りたい作品が思われる。

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 林    桂

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花火終へ倉庫のうらを帰りけり 和田耕三郎
 「花火終り」ではなく、「花火終へ」だから、自分たちで花火をして遊んだのである。打ち上げ花火のような花火大会を見て楽しんだのではない。倉庫街の人通りが少なく、空間の広い場所にやってきて、自分たちでひとしきり花火を揚げて楽しんだのだ。線香花火のような小さな花火ではなく、手花火としては大きなものだったろう。そのための倉庫街だ。そして、花火を終えての帰り道。倉庫のうらを通る。近道なのかもしれない。帰り道は、自分の身体を運べるだけの広さがあれば十分なのだ。ただ、その時に作者は、帰り道を悟ったのであろう。それは大きく言ってしまえば、人生の帰り道のような感覚だったろう。
 句集『青空』の「あとがき」に、和田は次のように書いている。「第四句集となる本書には、『燃』以降一九九六(平成八)年〜二〇〇六年(平成一八)年の作品を収めた。もちろんその十年間にはさまざまな出来事や生活の変化があった。その中で、二〇〇四年秋に脳腫瘍のため手術、翌年再発のため再手術を受けた結果、右半身に麻痺が残る状態となった。野澤節子、きくちつねこ両主宰にはとくにお世話になった『蘭』を退会、職場からも退き、現在は『OPUS』句会の仲間と共に、作品を作り続けている」これで全文である。
 花火の句は平成8年の句で、昭和29年生まれの和田もまだ四十代前半であり、「あとがき」に言うようなあらゆる災厄の前の日を生きていたことだろう。しかし、この句を見るかぎりそれでも人生の帰途感はあったろう。「獏を見に白き日傘をさしてゆく」も同年の作だ。花火が獏になり、倉庫のうらが白き日傘になり、帰りが行きになっているが、どこか淡い徒労感が滲む。
 かつて「夜のさくらわれは全裸となり眠る」と書いた青年・和田の眠りは輝かしい明日を待つためのものだったが、「空であり海でもありし朝寝かな」(平成15年)「裸にて飲みたるねむりぐすりかな」(同)「炎昼やねむりの底の水の音」(平成18年)には、その輝かしさはない。人生の帰り道の眠りだ。
 しかし、
 道はみな山へかへれり秋の暮
 海光の椿を食べに来る鴉
 六月の太陽腹へ落ちにけり
 耳の中大きな枯野のありにけり
のような捉えどころのない終末感を、それこそ捉えどころのない大きな世界で表現する方法を獲得している。和田耕三郎は、これから化けるのかもしれない。(『青空』(2007・9 ふらんす堂)
 

夏やなぎ湯を出て肩の匂ひけり 田中 裕明
 どこぞの温泉、しかも露天風呂上がりの趣である。「肩の匂ひけり」から、火照った体と精神的なくつろぎの時間が立ち上ってくる。夏柳を吹く微風に風呂上がりの裸の体を預けていると、湯の香りが自分の肩から立ち上がってくるのだ。湯上がりの香りを「肩」と断定したところに、田中の感覚の冴えがあろう。虚実の淡いに、「肩」を得て、湯上がりの開放感は完成する。この香りは、自足、自祝の嗅覚が捉えたものであろう。一時の、刹那の、自足の句読点を打ちながらの生活でなければ、私たちはどれほども生き得ないであろう。
 田中の俳句は、まさにこうした句読点の美しさのような世界である。「読んでゐるときは我なし浮寝鳥」(『先生からの手紙』)には、本の世界に没入して「我」という存在さえ意識にのぼらない時間が描かれている。感受するだけの器官としての自分。それはもちろん至福の感覚である。「今年竹指につめたし雲流る」(『山信』)という句もある。指の感覚をとおして伝わる竹の冷感。それがそのまま竹の新たな命として感得されている。雲に送った視線は、この命の世界への祝意に満ちている。「峰雲や櫻のはだのつめたさに」(『櫻姫譚』)という句も同じ構造であろう。
 山本健吉は、村上鬼城の句を「小乗的」であると見て、必ずしも高い評価を与えはしなかった。この視点に倣えば、田中こそ俳句における「大乗的」世界の具現者であろう。俳句表現を進めるという思いも野心もなかたったろうが、俳句表現が獲得している現在を体現するところに、田中の力があったであろう。
 その田中が、「たたずめる我と別れて秋の風」(「ゆう」1月号)と自分自身にお別れを言わなければならなかったのは、なんとも悲しい。12月30日、45歳の若さで、夭折してしまったのである。俳句は一つの中心を失ってしまった。湯上がりの後の肩の匂いそのままの印象ばかり残る見事な生き方であった。哀悼。
(『花間一壺』(1985・6 牧羊社)所収

弟半泣き ネムって冷たい木だな、おい 坪内 稔典
 「弟半泣き」は、読者への状況提示の言葉として書かれている。一字空きで続く「ネムって冷たい木だな、おい」は、その弟に掛ける兄の言葉だ。作者が稔典という男性だから、兄といっているのでない。「だな、おい」という男言葉を模した言い方が、「弟半泣き」と相俟って、この言葉を兄にしているのである。モデルは幼い兄弟である。「弟半泣き」の理由は分からない。しかし、この「半泣き」は、深い悲しみの逆説的な表現のようだ。幼いながらに、泣くことをこらえようとしての結果の半泣きだろう。子どもらしい悲しみではく、もっと普遍的な悲しみに遭遇しての必死の表現が、「半泣き」なのだろう。
 「ネムって冷たい木だな、おい」は、兄の慰めの言葉だ。現実的にこのような慰めの言葉を掛けることがあるとは思われない。詩的なフィクションがここには働いている。ただ、この言葉が表現しているのは、迂回であり、そのことで深い悲しみを共有していることのメッセージである。悲しみの対象に触れたり、直接慰めたりすることでは、弟の思いは癒されないことを知っており、また同じようにそれを共有する存在として自分がいることを、知らせる言葉がこの言葉だ。しかし、迂回の意味も、ここまでフィクション化されなければ表現できなかっただろう。詩的な言葉と相俟って、読者の胸に悲しみとなって落ちてくるように造型されているのである。
 空き字の方法、口語の方法など、その可能性を考えるときに、大切な場所にいた作品だったようにも思われる。『朝の岸』(1973・3 青銅社)所収


空高く殺しわすれし春の鳥 沢   好摩
  人は不完全な死体として生まれ、完全な死体になるのだと言ったのは、寺山修司だ。人を誕生を起点に考えるのではなく、死を起点に考える。たしかにその方が、「生」を生き生きさせる力となるだろう。私たちの「生」の時間は僅かだ。神であるか何者であるかは知らないが、他者に殺し忘れられたように瞬時存在する。そして、いつかは発見され、殺される。吉野弘の詩では、受け身である「誕生」をどう能動的な「生」に繰り込むかということがテーマだが、「死」もまた受け身であり、それをどう能動に転化するかは、生きる上で「誕生」よりも切実な問題だ。寺山の転倒の意味がここにある。
  空の高みに発見される春の鳥。具体的には雲雀か何かを思うのが一番いいのかもしれない。ともあれ、鳥も恋の季節を生き、誕生の時期を生きている。瞬時、殺し忘れられた「生」を精一杯生きて。沢の句で「殺し忘れ」たのは誰だろうか。「作者」(作品上での一人称)であると考えるのが一番自然だろう。言い方がまどろっこしいという向きには「沢」であると言ってもいい。しかし、沢は自分が「神」だと言っているのでも、尊大に振る舞っているのでもないだろう。寺山に「目つむりゐても吾を統ぶ五月の鷹」の一句があるが、この世はこの世に開く意識によって意識の数だけ統べられている。たとえそれが、鷹であれ何であれ。「沢」にとって、沢の意識の窓は、全てを統べる原理であり、唯一の存在である。我々は殺し忘れられた「我」によってまた、この世に殺し忘れた他者を持つ。「沢」はまた、春の鳥によって殺し忘れられた存在でもあるのだ。殺し忘れられた者同士のみが、この世に「生」の関係を結ぶのである。『印象』(1982・4 南方社)所収)