もちろん温泉文学などというジャンルはない。群馬篇以外に存在するはずもない。群馬の温泉を扱った「文学」を対象にゴタクを並べるだけだ。尤も「文学」なので、必ずしも観光協会が喜ぶような内容でないことの方が多い。でも、これも間違いなくひとつのイメージに違いない。しかし「文学」なので、必ずしもそれがマイナスイメージとなるとは限らないだろう。そんな感じこそ好きという人も必ずやいるだろう。いわば奥行きの深い温泉像を掘ろうという試みのつもりなのである。
文・林   桂
 引用の文の著作権は作者に帰属します。



伊香保 伊香保とはどんなところか 山村暮鳥
 伊香保は自分に様々のことを思ひ出させる。山腹の急勾配に、遠くからみれば積重ねたやうな家々、高く敷石を段々にした町、濛々と至るところに上がる艶かしい湯気、ぷんと鼻を衝くその香り、大きな山を南で背にした陰湿さ、けれど一と風呂浴びて宿の階上の欄干からみわたせば沼田、吾妻の山々、その間の村々、白い壁、こんもりした杉森、帯のやうな川のながれ、そして遠く越後境界の切つ立てたやうな山々までその折々の色をしてはつきりと蓋し掌上の景色である。(『山村暮鳥全集』第4巻による)
 初出は『伊香保みやげ』(大正8年8月)である。暮鳥の「伊香保はどんなところか」が名文かどうか贔屓目に見ても怪しい。しっかりとした構想もなく、筆にまかせて思いつくことを、うだうだと書き連ねた感が強い。しかし、そのうだうだ感の中に、暮鳥にとって伊香保が特別な温泉なのだということは伝わってくる。暮鳥にとって、伊香保は旅上の温泉ではなく、生まれ育ったエリアにある温泉なのだ。暮鳥は群馬町棟高(現・高崎市)の生まれである。伊香保の麓なのだ。子どもの頃から遊びのフィールドに伊香保は入っていたのである。
 私の子どもの頃にも、まだ山遊びという言葉があった。学校をさぼることを、山学校に行くと言ったりしたものだ。それにしても、徒歩での遊びの範囲としては、現在の子どもには考えられない広さであろう。
 暮鳥は、群馬町の堤ヶ岡小学校の準訓導であった十七歳のとき、夜な夜な当直を抜け出して、前橋のマッテア教会に英語を学びに歩いて通っていた。どう考えても8`以上の道のりはあるだろう。しかし、遊びで行く伊香保に比べれば近いものだ。向学の志は山遊びで鍛えた健脚が支えていたのかもしれない。




法師 法師温泉 田中冬二
隣りといつても一里 夜はランプのあかりだけが何よりのたよりだ
うす暗いがそれは人情のやうになつかしい
軒端にせまる山の上は星がいつぱいだ
氷水屋の硝子玉の簾のやうだ
三国街道は其処を通つてゐる
何となくそこまで行つたら夜でもうす明るいやうに思はれる
しろい桔梗の花がつめたく咲いてゐるだろう
夜露が雨のやうだろう
とほく越後の方の村に祭があつてその囃子の笛や太鼓でもきこえやしないか

ランプの芯をほそくする
誰か出て行つたやうだ
見なれぬ客人ーー
渓川の水の精である

私は夜冷えを感じて障子をたてる
(『群馬文学全集』第16巻による) *原文には「簾」に「すだれ」、「桔梗」に「ききやう」、囃子」に「はやし」、「渓川」に「たにがは」、「夜冷」に「よび」のルビあり。
 田中冬二には「法師温泉」という同一タイトルの詩が三編ある。『青い夜道』(昭和4年12月)所収の作品、『海の見える石段』(昭和5年12月)所収の作品、そして『山鴫』(昭和10年7月)所収の作品である。引用の作品は、『鴫』所収の作品。この詩が、法師温泉の佇まいを一番よく知らせていると感じられる。
 『海の見える石段』の詩には、「山の向うは越後である/この山の湯に 味噌も醤油も魚も越後からくるのである」とある。この時代、法師は越後の交通圏、文化圏にあったことが知られる。現在の交通網とは違い、従って文化圏も違っていたということであろう。
 たとえば、かつて奧多野の交通網は秩父に抜けていて、秩父の文化圏に属していた。藤岡に抜ける交通網は、新しい文化なのである。私が赴任した奧多野の生徒は、「せんせいくせるん」と聞きにきた。「くせる」は「叱る」の方言だと後で豈聞いた。さっそく引いた「日本国語大辞典」によれば、これを方言とするのは秩父地方とこの地方だけであった。そう言えば、私達は仕事の後車を連ねて秩父夜祭に繰り出したこともあったのだった。
 田中の美しい越後の村への想像も、これによっているだろう。峠一つ向こうの村の方が心理的に近かったのである。
 



川古 上州川古「さくさん」風景 高村光太郎
どこもかしこも酸つぱいな
なま木の束を釜に入れて
一年三百六十五日
じわじわじわじわ乾溜するので
それでこんな山の奥の淋しい工場が
蒼ずんで、黒ずんで、又白つちやけて
君たちまでそんなに水気が無くなつたのか
第一、声が出ないぢやないか
声を出すのはあの自動鉞だけぢやないか
高利のやうに因業なあの刃物だけぢやないか
ひつそりとした川古のぬるい湯ぶねに非番の親爺
ーーお前さんは藝人かね、浪花節だろ
ーー何でもいいから泊つてけよ
声がそんなにこひしいか
石炭、硫酸、木醋酸
こんな酸つぱい山の奥で
やくざな里の声がそんなにめつためつた聞きたいか
あいにくながら今は誰でも口に蓋する里のならひだ
(『群馬文学全集』第16巻による)*原文には「鉞」に「まさかり」のルビあり。
 尾崎喜八と旅した高村光太郎の作品がこれになる。『学校詩集』(昭和四年十二月)初出。尾崎喜八の「高村さんとの旅」によれば、昭和四年と翌年の旅だから、初出から考えると、最初の旅の所産となるはずだ。尾崎の詩からも、季節は秋のはずである。「最初の年には上越国境法師の湯と赤谷川ぞいの温泉へ」の記述に該当する。「赤谷川ぞいの温泉」に「川古温泉」が含まれることになろう。しかし、伊藤信吉が「編註」として引用する「高村光太郎年譜」(北川太一編)では、昭和四年五月九日から十九日の旅としている。季節は春たけたころ(初夏)だから、季節的には二度目の旅となるはずである。では、尾崎は一年思い違いしているということであろうか。昭和三年、そして翌年の旅だったのか。
 いま川古に木酢酸を生産する工場があるとは聞いていない。むしろ、詩によってあったことを知って驚く。
 尾崎の詩の子どもも、人懐っこく、人恋しい姿だが、高村の詩で、大人もまた同じであったことが知れる。一日殆ど人と話すこともない暮らしの寂しさを、高村は見つけている。そして「今は誰でも口に蓋する里のならひ」には、時代を敏感に感じとる姿もあるのだろうか。
 それにしても、昔の人の健脚には驚く。法師もそうだが、川古は相当に山深い。東京方面から、十七号を猿ヶ京に向かって手前を右に折れる。法師は猿ヶ京を過ぎて、左に折れる。折れてからの深さは相当なものだ。現在の人は、こんな歩き方をしようとも思わないだろう。



法師 一年後 尾崎喜八
京を出はずれて、
路は吹路への降りにかかる。
秋よ、
秋はきらびやかに、爽やかに、
もう漆の葉をまっかに染めている。

「小父さん、どけえ行くだ」
四つか五つ、男の子が一人、
小さい腰に手をあてて立っている。
私はたちどまる、
あまり小さい子どもの、あまり大人びた其の様子に
私は思わずにっと笑う。
「法師へ行くんだよ」
「法師か。法師ならまっすぐだ」
あくまでもまじめに道を教える其の子供に
「知ってるよ」とは私は言うまい。
思わず帽子に片手をかけて言う、「ありがとう」
その時私は見た、
大人のように両手をあてた子供の腰に、
ちいさい守札のさがっているのを……
    *
翌年の春もたけて山藤の頃、
また同じ路を私はとおった。
はるか姉山の部落の鯉幟に、
私は去年の子供を思い出した。

私は歩きながら眼で探した。
有難い! 子供はいた、路の傍、畑の隅に。
あの子だ。私はすこし興奮して近づいた。
「君にあげるよ」
子供はたじろいだが手に握った、
私の出したキャラメルの一函を。

すこし行って私は振り返った。
子供のそばには母親が立っていた。
二人してこっちを見ながら、
母親は頭の手拭をはずして御辞儀をした。

私も遠くから首をかしげて挨拶しながら、
其処に、彼らの畑のまんなかに、
上州の小梨の大木が一本、
さかんな初夏の光に酔って、
まっしろな花をつけているのに気がついた。
(『群馬文学全集』第16巻による)*註・原文には「吹路」に「ふくろ」、「有難い」に「モン・デユウ」のルビあり。
 初出は、『旅と滞在』(昭和八年六月)とある。『群馬文学全集』第16巻の編者伊藤信吉は、尾崎喜八の「高村さんとの旅」(『私の衆讃歌』昭和四十二年二月所収)を併載する。そこには「私は高村さんと二度小さな旅をした。たしか昭和四年とその翌年とだった。最初の年には上越国境法師の湯と赤谷川ぞいの温泉へ、次の年には法師から長駆榛名山の北の麓の中之条を経て吾妻川の渓谷沿いにとおく草津の温泉まで。二人とも丈夫な足を持っていたので全行程の大半を歩いた」とある。詩が書かれたのは昭和五年。高村光太郎との二人旅の所産だということになる。
 昭和五年当時五歳の少年は、現在では85歳前後になる。私の父の世代。昭和二十年で二十歳。徴兵されたかもしれない世代だ。健在だろうか。
 畑の真ん中にあった小梨の大木が現在もあれば、モデルも特定できそうだ。しかし、戦後、農機を使っての耕作は、機械の取り回しを悪くするものを排除してきたので、もはや伐られてしまっているかもしれない。少年のおやつ代わりにもなっただろう小梨も、いまや食べる時代でもなくなっている。以前の農家は、柿などの生り物を自家用に植えていたものだが、段々なくなってきているのが現実だ。
 幼稚園も保育園もない時代、子どもは日がな一日働く親の傍らで過ごした。子どもの大人びた仕草、対応もそんな中で培われたものだろう。農作業の親に、法師への路を聞く人も多かっただろう。子どもはそれを真似てみせたのである。尾崎は、親の愛情を守札の中に見つけた。それで十分だったのである。
 人慣れしない田舎の子どもは、シャイだがもの怖じしない。人への警戒心を持たない人懐こさを持っている。尾崎の心を動かしたのも、そんな子どもの姿だろう。当時の田舎の子どもが、キャラメルを手にすることができたか疑わしい。初めてのものだったと考える方が自然だ。母親の御辞儀の意味もそれを物語っている。
 最後の三行は胸に染みる。「初夏の光に酔って」も美しい言葉だが、「上州の」が特に胸に響く。情景描写としては、この言葉はなくても成立する。この「上州の」は、尾崎のこの地への愛情表現として挿入されているのだ。それが心に響く。




沢渡 みなかみ紀行 若山牧水
 昨日の通りに路を急いでやがてひろびろとした枯芒の原、立枯の楢の打続いた暮坂峠の大きな沢に出た。峠を越えて約三里、正午近く沢渡温泉に着き、正栄館といふのの三階に上った。此処は珍しくも雙方に窪地を持つ様な、小高い峠に湯が湧いてゐるのであつた。無色無臭、温度もよく、いい湯であつた。(『群馬文学全集』第20巻による)
 若山牧水の「みなかみ紀行」は、大正十一年十月に、長野から群馬、そして栃木に抜けた折りのものである。十四日から二十八日までの二週間の記録である。主な移動手段は徒歩。佐久新聞社主催の短歌会に出席した後、気ままな旅は始まる。松原湖へ行く予定が大勢ということで小諸へ変更。そこから六人となって星野温泉へ。朝食の酒で時間を費やすうちに、高崎経由で沼田へ一人でゆく予定の旅の計画がまた変更される。軽井沢に出てから別れることとし、そこの蕎麦屋で別れの盃を交わす内に心細くなってK君を誘っての旅となる。嬬恋に一泊の後、草津温泉へ。一泊の後、十九日朝、目指すはいよいよ沢渡(さわたり)である。ところが気ままな旅は簡単に目的地には行かない。生須村、小雨村と過ぎ、沢渡を目ざす路に「右沢渡温泉道、左花敷温泉道」の岐路を迎える。なんと牧水は花敷温泉を選択するのである。「昨日の通りに路を急いで」とは、花敷から再び沢渡に取って返す道なのである。ひとつの目的地であったはずの沢渡だが、ここに泊まるか四万(しま)か伊香保かの思案の三択の内で、牧水は四万を選択。泊まらずに旅立つのである。ちなみに、牧水にとってこの選択は外れ籤で、四万ではひどい扱いを受ける羽目となる。現在も老舗として名のある旅館は、牧水の旅の中に汚点を残すこととなってしまった。この旅全体を通じて、牧水が非難がましい書き方をしているのは、ここだけである。どのような宿でも牧水はそれとして受け入れている。それができなければ、このような旅は不可能だ。牧水が非難するのは、施設ではなく人の振る舞いなのである。紀行文としては、一つのアクセントになっていて面白いのだが。
 牧水の旅は群馬の地名の美しさを世に宣伝したという意味も大きいだろう。「小雨」(こさめ)という地名を塚本邦雄も賞賛していたはずである。「おもはぬに村ありて名のやさしかる小雨の里といふにぞありける」(若山牧水)と詠む。「嬬恋」(つまごい)「花敷」(はなしき)「暮坂峠」(くれさかとうげ)もその美しさを牧水に教わったと言ってもいいだろう。
 ゴールデンウィークの計画を立てずにいて慌てて探し回った挙げ句、まるほん旅館の予約がとれた。嵐山光三郎『温泉旅行記』の「牧水『みなかみ紀行』でいろいろと考えた・・・」で紹介されている沢渡の旅館である。「沢渡温泉には、まえまえから、どうしても行きたかったまるほん旅館がある。まるほん旅館の評判は、ドイツ文学者の池内紀さんより聞き及んでいる」と書いている。
 牧水の「正栄館」はどこか訪ねると、昭和二十年の沢渡の大火で焼失してしまったとのこと。現在の共同浴場がその跡地に当たるという。何のことはないまるほん旅館の隣である。ここは源泉地らしく、まるほん旅館は三メートル隣から湯を引いていると書かれていた。
 沢渡の大火と聞いて思い出したことがある。沢渡には代々医を嗣ぐ福田家という名家があって、福田みゑというアララギ派の歌人がいたのである。土屋文明は福田家に疎開の予定で、東京から蔵書を送っていたが、この大火で焼失してしまったのであった。東京に残った書籍も戦火で焼いて、文明の貴重な資料は失われたのである。福田みゑが亡くなり、文明は吾妻の川戸に疎開して、そこで戦中、戦後の約六年を過ごすこととなったのである。
 あの福田家はどこだろう。聞くと、道路を隔てたまるほん旅館の駐車場がその跡地であるという。なんと数歩の移動でみなことが足りてしまう濃厚さである。
                 
共同浴場(正栄館跡
まるほん旅館駐車場(福田家跡)



法師 早春の山 関口 泰
 しかし早春の山といふと、私には五月末から六月初めにかけての山の景色が浮ぶのである。その方が季節的には山の早春だともいへようが、とにかく樹々が花咲き、若芽を出す頃である。
 数年前法師温泉へいつたのがちやうどその頃であつた。法師の湯の温さも心を落ちつかせるが、法師から三国峠の方へ歩いていつた道の上、谷の向ふに真白な辛夷(コブシ)の花が、何といつてよいか、乱れ咲いたといふと散漫のやうだし、結局見た人でなければわからないのだが、瀧のやうに咲いてゐるとでもいひたいやうな、或るつながりをもち、勢をなして峰から谷へと咲きつづいてゐるのである。
 三国峠へ登つてゆくと上の方はまだ道傍に雪が残り、時には雪の上を水晶をとかしたやうな水が流れてゐる所を登つてゆくのであるから、その辺になると消えた雪の下にもう芽をもたげてゐる羊歯類が新鮮な緑の色をし、猩々袴などがやつと花咲いてゐるのであるが、法師の湯の宿の欄干から見る向ふの山の新緑は、色様々で実に美しい。(『山湖随筆』那珂書店・昭和16年10月10日)
 恥ずかしい話だが、関口泰という名を知ったのは数年前である。「日本近代文学大事典」によれば、ジャーナリストとして朝日新聞の論説委員、横浜市立大学長などを勤めた人である。山の随筆家として知られ、群馬、取り分け赤城山はそのフィールドだったのだ。書名『山湖随筆』も赤城に因むものだ。「山といつても、湖といつても、一番先に頭に浮ぶのは赤城山である」という文章でこの本を始めている。この本の刊行時で既に赤城山に通い始めて三十年と述べている。猪谷六合雄(冬季オリンピックアルペン種目の日本最初のメダリスト猪谷千春の父である)と親交を持ち、日本最初期のスキーヤーの一人でもある。志賀直哉が赤城で過ごした山小屋は、六合雄が建てたものだったという。六合雄を介して、「赤城山文化」とでも言うべきものが興った時期があったが、関口もそのメンバーの一人だったのである。因みに、『山湖随筆』の口絵には、六合雄撮影の赤城風景写真が使われている。
 これだけ枕をふっておいて、引用の文章は、赤城でなく法師温泉である。文章の最後の方は文脈が怪しいが、それも法師の風物に魅せられてのもののようで、読んでいて気持ちが伝わってくる。これはこれで名文なのだと思う。
 今日、群馬で関口泰の随筆が取りあげられることは殆どなく、忘れられた存在になっている。もっと大切にしてもよい文学的な遺産のように思われるのであるが。



万座 俳句日記 種田山頭火
白根山の頂上は何ともいへないさびしさだつた、湯烟、岩石(枯木、熊笹は頂上近くまであつたが)、残雪、太陽!
落葉松の老木は尊い姿である。
やうやく一里あまり下ると、ぷんと谷底から湯の匂ひ、温泉宿らしい屋根が見える、着いたのは三時だつた、何と手間取つたことだらう、それだけ愉快だつた。
とりつきの宿ーー日進館といふ、私にはよすぎる宿に泊る、一泊二飯で一円。
すべてが古風であることがうれしい。コタツ、ランプ、樋から落ちる湯(膳部がいかにも貧弱ななのはやつぱり佗しかつたが)、何より熱い湯の湧出量が豊富なのはうれしい。(『新版山頭火全集』第七巻・春陽堂書店・1987・5)
 種田山頭火が万座温泉日進館を訪れたのは、昭和十一年五月二十五日。草津から白根山を越えてきている。朝七時半に出発して、午後の三時に着いた。信州には友人がいた山頭火だが、上州には頼る人はいなかったらしい。それが信州の感じをよくし、上州の感じを悪くした一因のようだ。上州から信州に戻って「青く明るく信濃の国はなつかしきかな」と詠んでいる。「あまり草津はよいところではありません、一度で沢山ですよ」とは友人への手紙。その山頭火の評価が一番いいのが、万座温泉。湯がたっぷりで、飾らない田舎で、のんびりと侘びしいのがよかったらしい。「水音がねむらせないおもひでがそれからそれへ」の句もある。たっぷり思索の時間を堪能できたのだろう。
 日進館は「万座温泉ホテル 日進館」として、現在もある。ホームページを見る限りでは、山頭火のことはどこにも出てこない。これは今行っても山頭火の気分が分かる宿ということかもしれない。一度若葉の季節に行きたいと思いながら、いまだ果たせていない。


湯平 上州湯平温泉 つげ義春
 何もすることもなく、十時頃床につくと、宿の家族も寝たのか静かで、裏山の湯の流れ落ちる音だけが聴こえていた。私は、無口でひかえめな人柄の主人に親しみを覚え、こんな粗末な宿で、家族ぐるみ住込んでいる境遇を想ってみたりした。質素で慎ましい埋もれたような人生は、不遇にみえることもあるけれど、こういう辺鄙な片隅ではあっても、平穏無事に過ごせるなら悪くないのではないか、不遇なら災厄も張合をなくして相手にしなくなるのではないかと、自分の不調のことも思い巡らせていると、何かしら癒しに似た心持ちも兆し、いつか眠りに落ちた。(『つげ義春の温泉』カタログハウス・2003・2・10)
 「上州湯宿温泉の旅」の姉妹編とも言うべきもので、昭和五十七年作ながら、未発表のままとなっていたものであることが「あとがき」で知れる。わざわざ別に書き改めたというだけあって、しみじみとした味わいの紀行文だ。当時の写真も掲載されているが、何年前のものかと思うほど別世界の懐かしい趣である。
 湯平(ゆびら)は、「奥平(おくだいら)」と呼称されるのが一般的で、現在はその湯を一qほど離れたところに引いた村営日帰り温泉「神遊館(ゆうしんかん)」の名で知られる。湯元にも「奥平温泉」として一軒宿が残っている。つげ氏が訪れたのは、この湯元の方である。
 なお、『つげ義春の温泉』の巻末には、「本書に登場した温泉一覧」があるが、湯平温泉の記載がない。「一部不明な温泉があったことをご了承ください」とあるので、湯平温泉はこの「一部不明な温泉」になってしまったらしい。恐らく編集部が「奥平温泉」で探せなかったからであろう。
 インターネットの検索で「湯めぐり紀行/奥平温泉」を見つけたが、つげ氏と子息が並んだ写真と同じアングルで宿の写真が載っていた。十分に当時の面影が残っている。


湯宿 上州湯宿温泉の旅 つげ義春
もう何度も来ているのだ。何を好んでといわれても答えようがない。ふと思い出すと来てしまうのだ。その都度寂寥とした思いになるわけではないが、妙に馴染めるのだ。ふらりとやって来て、何をするでもなく、宿にごろりと横になっているだけでいいのだ。みすぼらしくて侘しげな部屋にいる自分が何故かふさわしいように思え、自分は「本当はここにこうしていたのかもしれない」というような、そんな気分になるのだ。(『つげ義春全集・別巻』筑摩書房・1994・6、引用は『つげ義春の温泉』による) 
 つげさん向きの温泉を見つけたと友人に紹介されて半信半疑で出かけたのが湯宿温泉。しかし「古びて傾きかかったような家も多く、全体に貧しいなァといった感じだ。人の姿もなく路地は陽も射さず暗くひっそりしている。すべてが沈滞しているといった雰囲気だ。本当になにもない。これがどうしてぼく向きなのだ」というのが第一印象だった。
 『つげ義春の温泉』「解説」の高野慎三氏によれば、一九六八年二月に泊まったのが大滝屋(高野氏は大多喜屋と表記。誤記というよりは配慮か)で、「ゲンセンカン主人」(昭和四十三年「ガロ」)のモデルとなった宿である。この紀行文執筆の昭和五十七年(初出は「小説現代」昭和五十七年七月号)より十四年前のことである。
 詩人のS(正津勉)氏と来たのは、この紀行文の執筆の六年前。このときは常盤屋に泊まっている。そのあまりの安さに「貧乏自慢」のS氏は「ぼく向き」だ、ここで暮らすことにするとまで言ったという。
 さて「上州湯宿温泉の旅」を書くためにやってきた宿は湯本館。しかし、取材旅行の金銭的余裕と「立派な宿」で、「寂寥としない」結果となったという。
 数ある群馬の温泉の中で湯宿。しかもその中でも小さな宿。つげ氏の選択は、いかにもつげ義春的である。つげ氏の紀行文当時のままでありようもないが、湯宿のポジションは今も変わっていないだろう。
 


ガラメキ ガラメキ温泉探検記 池内 紀
うす暗がりの中に石柱が一つ。その下にまん丸いコンクリートの穴があって、鉄の蓋がのっている。駆けよって蓋の把っ手に両手をかけて横にずらし、すきまから手を差し入れた。あたたかい!(『ガラメキ温泉探検記』リクルート出版・1990・10・15)
 ガラメキ温泉は幻の温泉である。「昭和二十一年四月、アメリカ軍の進駐にともない、相馬が原が演習場に指定され」「ガラメキ温泉は短期間のうちに強制立退きを命じられた」からである。その幻の温泉を見つけようというのが、「ガラメキ温泉探検記」である。こちらは温泉風俗ではなく、ひたすら温泉そのものを愛する温泉(ゆぜん)会の探検記だ。風俗も温泉宿もない湯壺にそぼ降る雨の中で浸かって歓喜する。その様に我々はとてつもない名湯を失ってしまったのではないかとさえ思う。ちなみに、歌人・土屋文明も高崎中学時代にここを訪れ紀行文を残していたはずである。


水上 きびしい冬の時代がやってきた 荒川洋治
 あのおじさん、水上のナポレオンをやめてからあと、第三の人生はどうなるのだろう。ナポレオンみたいにどこかの島に流されるような憂目にあいませぬように。(『マンスリー・ショック』気争社・1983・10・18)
 ナポレオンとは、第二の人生を似合わない派手な服装でホテルの呼び込みか駐車場管理の仕事で始めたらしいおじさんに、荒川がつけたあだ名である。
 『マンスリー・ショック』は、荒川洋治が「アサヒ芸能」に連載した「風俗ルポ」をまとめたものだ。この中で「水上」はどうみても狂言廻しの役所で、わびしい田舎温泉の佇まいである。
 「ナポレオン」「スター」「温泉芸者」どれも、荒川の旅の楽しみを盛り上げてくれはしない。ナポレオンには今後の人生の行く末の侘びしさが透けて見えるし、スターには生活の明日が侘びしく佇んでいる。五十歳を過ぎたとおぼしき芸者には、内面の貧しさが透けて見えてくる。どこまでいっても侘びしくなるばかりだ。荒川は侘びしい人を見にきたとでもいいたげである。それでも「窓をあけると、高原のつめたい風がはいってくる。上越在来線の列車があかりをひいて駈けぬけていた」と精一杯「文学」で結んでいる。
 荒川が風俗のルポライターをした80年代も既に遙か。