林     桂

  タイトル   初  出
『高柳重信全句集』 「鬣TATEGAMI」第5号・2002年10月
『古典俳句鑑賞』乾裕幸著 「鬣TATEGAMI」第6号・2003年01月
『高屋窓秋俳句集成』 「鬣TATEGAMI」第7号・2003年04月
『青春の光芒』 「鬣TATEGAMI」第9号・2003年11月
和田悟朗句集『人間律』 「俳句」(角川書店)2月号・2006年02月
『ぼつぼつぼちら』暮尾淳著 「鬣TATEGAMI」第18号・2006年02月
『戦火想望集』岩片仁次著 「鬣TATEGAMI」第17号・2005年11月
小檜山繁子句集『流氷』 「鬣TATEGAMI」第19号・2006年05月
『闘う俳句』谷山花猿著 「鬣TATEGAMI」第23号・2007年05月
10 『雨よ、雪よ、風よ』高柳蕗子著 「鬣TATEGAMI」第26号・2008年02月
11 和田耕三郎句集『青空 「鬣TATEGAMI」第28号・2008年08月
12 『俳秀加舎白雄ー江戸後期にみる俳句黎明ー』金子晋著 「鬣TATEGAMI」第29号・2008年11月
13 『鈴木六林男全句集』 「現代俳句」2009年10月号

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【書評】 『高柳重信全句集』 林      桂


 私たちが拠るべき最良の高柳重信の俳句テキストは、『高柳重信全集T』(昭和六〇年七月・立風書房)であったから、十七年の長きにわたってテキスト更新がなされないで来たことになる。このたび刊行された『高柳重信全句集』(平成一四年六月・沖積舎)は、これを更新する新たなテキストである。今後の高柳重信論のテキストは、基本的にはこの全句集に拠るものでなければならないであろう。
 まず特筆するべきは、初期作品集『前略十年』(全集は初版本をテキストとしているが、全句集は増補再版本をテキストとしている。高柳の句集を編む方法を考えれば、増補版とするべきだという考えは評者も同じである)の補遺として、自筆句集の「金魚玉」(全)と「蓬髪」(抄出)を掲載したことである。活字となって一般の眼に触れることのなかった作品群である。「金魚玉」は、昭和十一年から十四年までの中学時代の自選作品集であり、「蓬髪」は戦後に刊行を目論んで自選したが未刊に終わったもののノートである。ともに『前略十年』の元稿となったものである。言わば『前略十年』のバックヤードを知る資料が、ここに公開されたと言ってよいであろう。
 同じことは、『山川蝉夫句集』の補遺にも言える。全集は補遺(全集名では「山川蝉夫句集以後」)を、「昭和五十五年五月以降」と規定したのに対し、全句集では「昭和五十四年六月以降」(全句集名「句集以後・抄」)としている。『山川蝉夫句集』の高柳自身の「あとがき」の日付が、「昭和五十五年三月二十日」となっており、全集ではこれをもとに同年の五月以降を句集以後作品のはじめとしたものであろうと思われる。しかし、これも厳密に言えば、三、四月の作品が欠落するのだが、その間の作品発表がなかったと解釈はできた。しかし、今回の「昭和五十四年六月以降」を句集以後とすることは、句集収録期間を新たに特定したことを意味する。ゆえに、全句集は併せて明確な「句集以前・抄」「句集補遺・抄」を掲載することがてきたのである。
 それでも、増補されたのは一行表記の作品ばかりである。それに対して編者は「あとがき」で「多行形式による多くの棄却作品については、いかなるかたちでも補遺とすることは考えなかった。それは、かかる全句集の中に包含すべきものではなく、個々の秘かなる研究の対象となすべきものであるからである」と述べている。これには当然賛否はあるだろう。ただ、ここに編者の高柳重信の多行形式に対する敬意と、多行形式の困難性への洞察を見ておかなくてはならだろう。
 編者は、岩片仁次、高橋龍、高柳蕗子、寺田澄史。『高柳重信散文集成』全十七巻を完成させた岩片の高柳研究の成熟を知る「資料篇」とあわせて、ようやく辿り着いた貴重なテキストである。(沖積舎 限定三五〇部 本体一万三千円)
 

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【書評】 『古典俳句鑑賞』乾裕幸著 林     桂


 『古典俳句鑑賞』(富士見書房)は、平成十二年九月に亡くなられた乾裕幸氏の遺著である。俳誌「海門」に七十回にわたり連載したものをまとめたと、乾安世夫人があとがきに書いている。七十五人の五百八十一句の「鑑賞」である。
 一句に対する鑑賞文は決して長くない。しかし、面白い。たとえば、芭蕉の「あさがほに我は食くふおとこ哉」には、「門人其角の〈草の戸に我は蓼くふほたる哉〉(虚栗)に対した句。其角の句は露骨に俳諧者としての反俗的生活を詠む。芭蕉はそれに対し、私は早起きをして朝顔を眺めながら飯を食う普通の男だと言ったのである。其角の気負いを少しからかった気味合が感じられる」と書く。遅くまで夜遊びをしている螢には眺められない花が朝顔なのである。もちろん、其角へのからかいも同じ土俵に上がっている同志ゆえのものである。また「野ざらしを心に風のしむ身哉」には、「旅の途中路傍に倒れて髑髏になり果てることも覚悟の上だが、そうした心に秋風が吹き通り、身にしむ思いがすることである。『心に』は『野ざらし』を受け『風のしむ』に掛かる語法。『身』は肉体であると同時に、境涯を示す。一句悲愴感が漂うが、ゼスチュアが大きい」と書く。これは芭蕉が其角に突っ込みを入れたように、逆に誰かに突っ込みを入れて欲しかった句なのである。誰も突っ込まないままなので、乾氏が鑑賞の場で突っ込んでいるのだ。「古池や蛙飛こむ水のをと」には、「森閑と静まり返った古池。蛙が一匹、ぽちゃんと飛び込む音が聞こえて、あとはまた静寂。のどかな春の昼下がりである。古来蛙(実はカジカ)はその鳴声を詠むのが常識であったが、芭蕉は伝統を破って『飛こむ水のをと』を詠んだのである。そこにこの句の革新性がある」と書く。蛙の本意くずしが、この句の名句たる所以だというのだ。芭蕉の同時代人は、鳴き声の代わりの水の音に、思わず笑い出したかもしれない名句がこの句の正体なのであった。
 乾氏の読みを面白くしているのは、当時の俳諧コードで句を読むことに徹底しているからである。翻ってそれは、無自覚的な現代俳句の読みと制作を相対化し、活性化するはずのもであると、乾氏は考えているからである。「古典俳句にも佳句は多い。今日の眼から見ての佳句も多いが、その俳句の読まれた時代の標準からみて佳句とすべきものが数多くある。そうした俳句を鑑賞することは、現代俳句の制作に資するところが少なくないであろう」(はじめに)と述べる。
 乾氏には『俳句の現在と古典』(平凡社・一九八八年)がある。氏が提示している問題をより知ることができるだろう。俳人必読の書と評者は思っている一冊である。今日、古典・比較文学の研究の成果として、現代俳句に提供されている財産は多い。乾氏の仕事もその一つである。

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【書評】 『高屋窓秋俳句集成』 林     桂


 企画が明らかにされてから久しかった『高屋窓秋俳句集成』がようやく刊行された。三度目の、そして基本的には最後の高屋窓秋のテキストとなるものである。
 最初は『高屋窓秋全句集』(昭和五十一年・ぬ書房)であり、二度目は『富澤赤黄男 高屋窓秋 渡邊白泉』(昭和六十年・朝日文庫)であった。どちらも窓秋生前のものであるから、三度目の『俳句集成』が、平成十一年に亡くなった窓秋の生涯の作品を俯瞰することのできる最初のテキストとなる。窓秋は、創作期と休止期を間歇泉のように繰り返してきた寡作の作家である。その生涯の句数は多くない。それを序数句集として纏めれば、ほぼ次のようになろう。『白い夏野』昭和十一年・龍星閣)、『河』(昭和十二年・龍星閣)、『石の門』(昭和二十八年・酩酊社)、『ひかりの地』(昭和五十一年・全句集収録)、『緑星』(昭和六十年・朝日文庫収録)、『星月夜』(昭和六十年・朝日文庫収録)、『花の悲歌』(平成五年・弘栄堂書店)。
 ところが今回の『俳句集成』では、この内『緑星』『星月夜』が序数句集扱いではなく「補遺」扱いとなっている。完全にねぐられているのである。どうしてこんなことになってしまったのだろう。不思議と思う前に怒りがこみ上げてくる。なぜこのように扱ったかについて、この『俳句集成』を見る限りどこにも明示されてはいない。窓秋の作品について、このようなテキスト論が通説となったというのを管見にしてしらない。むしろ思い浮かぶのは、窓秋にとっての『緑星』『星月夜』の重要性を指摘した沢好摩の論である。成立状況から「補遺」扱いが如何に不当であるか、窓秋を知らなくても、その状況を俯瞰できる者ならば誰でも見当がつく範囲のもののように思われる。これは編集過程で亡くなった三橋敏雄の指示によるものであろうか、それともそれを継いだ伊丹啓子の批評によるものであろうか。ともあれ、この新解釈によるテキストの根拠は読者に示されてしかるべきだろう。
 『緑星』の一部、『星月夜』の全ては、窓秋が「朝日文庫」のために書き下ろしたものである。補遺作品ではない。それは句数の少ない窓秋にとって、当時の全句集を纏めるものだ。「それにしても、ぼくの句は少ない。いま、休止期間だけに触れておけば、『白い夏野』から『河』」までの二年間、『石の門』と『ひかりの地』のあいだの十八年間、そして『ひかりの地』から『緑星』にいたる六年間」(「あとがき」・朝日文庫)と、久々に訪れた創作期として自ら記しているものだ。これをねぐるということは、窓秋の創作期の山ひとつをねぐるということでもある。初期作品の収集、校合など丁寧な作業をしており、その意味では優れた作品集だけに一層惜しまれるのだ。(沖積舎 本体一万円)

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【書評】 『青春の光芒』 林     桂


 『青春の光芒』(テラヤマ・ワールド)は、寺山修司の序文または跋文を持つ三人の合同復刻句集である。
 すなわち、山形健次郎句集『銅像』(牧羊神俳句会・昭和二十九年刊、寺山修司跋)、林俊博句集『遠い雪』(的場書房・昭和三十三年刊、寺山修司序・山形健次郎跋)、吉野かず子句集『木馬だけの公園』(的場書房・昭和三十三年刊、寺山修司序・山形健次郎跋)の三句集である。
 復刻版ではあるが「頁数の関係で、三人とも作品を半数ほどに削ることとした」(山形健次郎「あとがき」)とあり、厳密には抄出版である。資料性という視点からは、やや残念な編集というべきであるが、ともあれ、昭和三十年前後の「牧羊神」に拠った若き作家の作品が甦り、読むことが可能になったのは貴重である。十代から二十代にかけての世代が、俳句における時代の表現を担ったのは、戦後俳句の中でもわずかにこの時期だけである。もちろん、ここに寺山修司という卓越したオルガナイザーの存在を考えない訳にはゆかないが、一方その寺山も、こうした時代に打ち上げられてリーダーになったということも可能であろうと思う。
 しかし、この時代を生き、作家として抜けてきた大岡頌司、安井浩司などの例外を除けば、今日その検証をしようとすると、一般には殆ど拠るべき一次資料がないのが現状である。それはこの時代を寺山修司の仕事として自足する視点からは、不満を述べるに値しないことであろうが、この世代が時代表現を担ったとみれば、何とも心許ない状況なのである。これは結社を中心とする俳壇的潮流からは、大過に値しないことであろうが、俳句を表現史として検証しようとすれば、残念な現状というべきである。真に待たれるのは雑誌「牧羊神」の復刻であるが、その前提には群像として扱われ、埋もれたままになっている作家の継続的な発掘が欠かすことができないことでもあろう。その第一歩となる貴重な仕事として、ここに銘記しておきたいと思う。

 誘蛾灯の濃き朱や凶作かも知れぬ   山形健次郎
 花に蜂遊べり少女の胸ゆたか
 工夫等に梨の花風快し           林   俊博
 海霧濃くて石投げる者みな若し
 教師と踊るトロイカ胸まで春陽あび    吉野かず子
 ぶどう垂る重さや未来の遠いこと

 「社会性」と「青春性」が一つの時代を語る作品群は、どれも寺山修司の作品を思わせるが、それが寺山の影響なのか時代のエコールなのかは判然としない。しかし、そのことを知る資料を、今私たちは得たのでが現在なのである。

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【書評】 和田悟朗句集『人間律』 林     桂


 和田悟朗氏の第九句集『人間律』は、平成十二年から十六年の三百句を収めている。書名について、和田氏は、その短い「あとがき」で「なんとなく心に浮かんだことばであって、意味不明だ」と述べている。「人間律」という言葉は、あるとき突如和田氏を訪れたのだが、その意味は伴っていなかったというのだ。つまり、和田氏の「造語」というより、心中思わず出会ってしまった言葉なのであった。しかし、和田氏が句集に『人間律』と名付ける行為は、その言葉に意味を与えようというのに等しい。それは和田氏の句の総体として、句集の「テーマ」として浮かびあがるべき意味である。「あとがき」には、「自然のあらゆる立場が迫ってくるのだ。人間だけが持っている空間と時間の概念は不思議という他はない」ともあって、これが和田氏が感じているらしい「人間律」についての、作品以外の唯一のヒントである。
 作品から得た結論を先に言えば、和田氏は、人間が人間であることで獲得している視覚世界を相対化して見る視座を獲得し、人間の視覚を相対化しながら世界を見ることを、「人間律」と呼んでいるようである。「自然のあらゆる立場」とは、人間の視座を相対化することで出入りすることが可能になった多種の視座感覚をさしているのであろう。

  春の水汲めばとどまる輪廻かな           「日輪」
  黒蝶に古き地霊の蹤いて来し
  秋風裡道はときどき曲がるなり
  暗がりに歳末の水残りたる
  炎昼や一日ごとに死を越ゆる              「立像」
  土星から黒蝶火星から黄蝶              「他力」
  人間であること久し月見草               「独楽」
  死者のみの痛快あらん秋の天  
  重力も浮力もなくて寒の鯉               「源流」
  星までのはるかな虚空松の芯
  蝶一頭一頭ほどの山河かな
  火の星と水の星あり河鹿鳴く
  物言えば耳に聞こえて秋の暮
  話し声地球を出でず冬銀河

 和田氏の「人間律」は、日常の細部の裏側に潜んで、突然姿を現すのである。それは和田悟朗氏に人間であることを自覚させるとともに、人間でないモノの世界と表裏であることをも感得させる。「輪廻」も「地霊」も、「人間律」の内部にあると同時に、外部の人間を越えた絶対的なモノとして感得されている。「歳末の水」も人間社会の水であるとともに、宇宙的存在としての水だろう。蝶一頭には蝶一頭の山河がある。私たちが見ているのは、「人間律」の山河に過ぎない。唇から出て耳に届く音。「聞こえて」は「人間律」に届いた音だろうが、一方で人間を解体した音の移動の視点もあろう。地球に捕らえられて、外にでることのない人間の話し声の中に「人間律」の領域は見据えられている。多重の世界の中のひとつを人間は生きている。(ふらんす堂)

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【書評】 『ぼつぼつぼちら』暮尾淳著 林      桂


 「元来、この詩人は魂の緒がしっかり固定されていない性のようだ」「魂の緒がしっかり固まっていないこの詩人は、どうも死の世界へ引っ張られやすいようだ」と、「編集後記」に堀切直人は書いている。暮尾淳の詩と俳句とエッセイを集めたこの一冊は、堀切直人の編集によるものである。といっても、暮尾淳のあとがき「まだまだ」によれば、堀切は編集のために暮尾が渡した詩稿をすべて載せ、俳句稿もすべて載せてしまったのだという。かくて堀切を頼りの「こざっぱりした詩集」の暮尾の企図は「クレオ・ジュンの遺稿文集のようなもの」に変容してしまったのだった。
 そして、編集を放棄し、批評を放棄したかに見える堀切の編集方針こそ暮尾淳の言葉の魅力を如実に表している。暮尾の言葉はどうしてこんなに悲しく胸に響くのだろう。それは作品の出来不出来を越えて、一度は全部読んで見なくては安心できない、落ち着かない思いを抱かせるものだ。冒頭の堀切の批評も、一度その収集の思いを満たし、心を鎮めた後にようやく批評の言葉を回復したもののように読める。
 死んで行くのは他人ばかりだったと寺山修司は書いていたが、暮尾はその他人の死に肌をひりひりさせて、自分の生をそこから峻別させない詩人である。高校三年生の姉が自ら命を絶つために家を出る最後の姿を、それと知らずにたまたま目撃してしまった中学生の暮尾少年は、それを原罪のように持ち続けているのだった。(エッセイ「走れメロス」)

 「藤の花が匂ったからだろうか/酒場でおれは饒舌だった」(春の夜の風)「茶色い血を吐いて息絶えたニーニは/閻魔蟋蟀をくわえてくるだけの/殺生だったのに/苦しかったろう虫の息/目を開けたままにして/足をそろえ」(五月の夜のいたみうた)「母親から貰った十坪の土地を/姉と争っている/ブーツの似合うタイピストがいた/その土地に六坪の家を建てて/誰にも気兼ねせずに/夜も洗濯機を回したいのだと」(イヤリング)「先に水めしを食べに行くからね/と夢のなかで/弟の声は淋しそうだったが」(水めし)「さんまんだーばーざらん/そんな呪文を山奥で聞いた旅の/ホテルのフロントの/ソファに座った三人が/鏡に映ってこちらを向いている」(鏡の三人)「知恵遅れの子を背負い/少女のような声で/かぜかぜ吹くなと歌っている/若い母親と擦れ違い/ふと涙ぐみそうになり/かすかに梅の匂う細い道を曲がり」(風の黄昏)

  蝉時雨幾匹果てて明日の空
  男にも羊水欲しき夕まぐれ

 なぜ暮尾の詩は悲しみを誘うのか。死の側に強く引っ張られながら、それと同じ強さで生の側に重心を預けてバランスをとろうとしているからだろう。(右文書院)

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【書評】 『戦火想望集』岩片仁次著 林     桂

   
 『戦火想望集』(夢幻航海社)は、岩片仁次の番外句集である。既刊の句集八冊及び未刊句集『冥球儀』より四十二句を抄出し編集した。編集意図を岩片は次のように語っている。「本年は、戦後還暦にあたるようである。それは、ある意味では、戦没怨霊諸氏が回生への道に立つ、言い換えれば甦りの旅を辿り始める年であろう。(改行)往年、新興俳句運動の晩期に悪名高き〈戦火想望俳句〉なるものがあったが、思えば、敗戦直後から始まった私の俳句遍歴の底流には、常に此の〈戦火想望〉の思いが漂っていたようである。よって、本年の戦後還暦にちなんで、積年の既作品より抄して此の句集を編むこととした。願わくば、戦没怨霊諸氏の益々の跳梁跋扈あらんことを。」(「あとがき」全文)戦没怨霊自身でさえ「回生」に向かう還暦にあたって、その「回生」を願うのではなく、益々の「跳梁跋扈」をこそ願って編んだというのである。もちろん、ここには世に「悪名高き」戦火想望俳句こそが、岩片の表現を支えてきた大切な表現の問題であったことを問う姿勢が重ねられている。
 この「悪名」は、戦火の現場に立ち会わずに安全な内地に身を置いて前線を描くことが、倫理面からも作品の虚構面からも指弾されたことを指している。しかし、当事者の一人であった三橋敏雄は、戦火はいずれ自分が赴く地として受け止めていたと語っていた。そして、これは批判者こそが翼賛的で安全な位置にいたことを炙りだす言葉ともなっていた。まして、虚構を排して言葉の表現の可能性を信じるのは、歪曲化された「写生」のコップの中の論理だったろう。
 終戦時十代だった岩片も、戦火の現場を自分の内に抱えていたはずである。そして戦後であっても〈戦火想望俳句〉という方法なしには癒しがたい思いを残していたであろう。岩片の中でその火は容易には消えない。そして、いつしか岩片の中で消してはいけないものへと変容したのである。戦後、〈戦火想望俳句〉にかかわって書き続けているのは、岩片の他にいないだろう。私たちが、その頑迷ぶりを笑うことは簡単だ。しかし、その頑迷ぶりによって白日化される私たちの頑迷の存在こそ思い知るべきことであろう。

 
  *  
いつせいに
蝋燭となる

子供かな

  *
沈まざれば
海底はなし

春の海
  *
異界歳時記に
知覧晴あり

妹よ
  *
夕焼けや    
みな殺されて 
            
歩き出す

                                               (限定二十九部 非売品)

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【書評】 小檜山繁子句集『流水』 林      桂


    献体の体養ひ桃の酒                        小檜山繁子
   
 小檜山繁子さんが献体登録をされていることを、この句で知った。人間探求派と言われた加藤楸邨の薫陶を受けた繁子さんは、現在では最も師・楸邨の句の匂いが感じられる作家となった。それはフィクションを書く意識を持たない作家であるという側面を持つ。
 小檜山さんにお会いしなくなってから久しい。当時、私は二十代だったし、小檜山さんは闊達な職業人であり、「寒雷」編集部の一人だった。若いときに重い病気をされたとは思えない様子だった。まして、私の母と年齢が大きく違わないなどとは思いもできなかった。
 『流水』(角川書店)は、小檜山さんの第六句集で、平成十一年から十六年までの四四五句を収めている。小檜山さんの六十八歳から七十三歳までの作品である。

    一月の鈴ふれば来る母の忌よ                  小檜山繁子
    母はなし朽葉日和の夢のごと
    年々や母を思へば枇杷の花

 小檜山さんが死の覚悟と準備を進めている様子が、静かに行間から漂ってくる句集が『流水』だ。永田耕衣の句を引くまでもなく、多くの母恋句が彼岸から此岸へ母を呼び戻したい衝動の上に成り立っているとすれば、繁子さんの母恋は彼岸への希求であるかのように響く。逢いに来て欲しいのではなく、逢いに行きたいのだ。

    墓よりも机はひろし桃を置く                    小檜山繁子

 ここでの墓は、自分が入るスペースとして意識されている。「書く」日常が集約されている机が広いのは、生の活動の場だからである。その広さをいつくしみながらの日々がある。「いつ死ぬと知れぬ死に向き五月晴」には、献体登録と同じ覚悟が輝く。「寿命より句命ながかれ罌粟坊主」の、寿命より句命を取る思いに日々の机は輝く。

    綿虫の祭りは坂の途中なる                    小檜山繁子
    抽斗の隅にあつまり罌粟の種
    木々は影のびやかに投げ五月来る
    合掌は炎のかたち小鳥来る

小檜山の覚悟が「末期の眼」の輝いた世界をいち早く見る視力を導いているようだ。  (二、六六七円+税)

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【書評】 『闘う俳句』谷山花猿著 林      桂


 谷山花猿の『闘う俳句』(現代俳句協会)は、栗林一石路と橋本夢道の二人の作家を軸としてプロレタリア俳句を論じたものである。「あとがき」によれば、十年ほど前出版を企図しながら出版社の倒産で頓挫したままになっていたものである。谷山のプロレタリア俳句を論ずる視点ははっきりしていて、現在の俳句状況を糺す処方箋を過去のプロレタリア俳句が提示する問題の中に見つけることである。過去の活動を記述することが、現在の俳句状況に向けられている。たとえば「脱境涯性、脱社会性の俳句が流行している現状は、裏返し的ではあるが社会状況の一定の反映である。一定の生活水準があり、未来の展望が見えにくくなったとき、保守化する心情が生まれる。現在の多くの俳句作家は、保守的な心情に流れ、芸のみを目標とするようになっているのではないか。民衆の詩としての俳句の危機がそこに芽生えているといってよい」(「俳句の社会性ー橋本夢道によせてー」一九八二年)という現在へのあるべき指針が、一石路や夢道の仕事に中に示されていると考えるのである。 
 「プロレタリア俳句概説」を始めとする谷山の記述に学ぶところは多い。たとえば、プロレタリア俳句の表現がどのように切り出されたかを俳壇史、俳句史的な視点から整理している。自由律俳句誌「層雲」(荻原井泉水主宰)に台頭した一石路等のプロレタリア俳句は、論争の果てに井泉水によって「俳句即ちスローガンだとは考へない」と排斥される。推進派の林二は、プロ俳句=スローガンという考えに異議を唱えつつも「スローガンの中にひそむポエジー」を俳句に引き出すのだ反駁していることからも、当時の方法論は推察される。また、プロレタリア詩人から俳句、短歌を「封建的韻文芸術」として提出された「短歌・俳句の詩への解消論」にも挟撃される。対外的にも定型律との関係を絶つことが必要だったのだ。プロレタリア俳句は、炙りだされるような形で生成しながら、弾圧される道行きを辿るのである。様々な側面を抱えながらも、俳壇的な俳句の方法論から切れてゆく力を支えていたものは、プロレタリア俳句の方こそが広く文芸表現の潮流を感じていたからに違いない。あわせて、同時期の高浜虚子による「花鳥諷詠」の本質は、時代の潮流を立ち、俳壇固有の時間を創造することだったのだと、谷山の論を読みながら思う。その固有時は一つの理念のもとに永遠に時間を停止することが理想として描かれていると言っていいだろう。谷山が闘っているのもその時間の末裔であろう。
 戦後、俳句の展開力を失った一石路に対して、夢道が歩を進めることができたのは、スローガンではなく、身近な家族や生活を見つめながら、それをユーモアや反語的な表現として結実させる方法を得たからであった。遠い反措定である。

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【書評】 『雨よ、雪よ、風よ』高柳蕗子著  林     桂

  
 高柳氏は「評論の参考にするために、短歌のデータベースを持っている」という。その数二万四千首。その中には「雨」九五二首、「風」一〇〇九首、「雪」七〇一首があると言う。本著の分析的な読みは、この膨大なデータベースが支え、演繹と帰納を併用するような論の進め方を可能にしている。
 さらに「どんな言葉でも、実物と言葉は別のものであって、言葉の周囲には、多くの用例を通して獲得したイメージの広い裾野が形成されている。作者が実際に雨に降られて詠んだ歌でも、『雨』と書かれたら、それはもう言葉の『雨』だ。私たちは個々に、詩歌や散文、映像などの用例から培ってきた言葉のイメージのデータベースを頭の中に持っていて、それが『雨』という一語に事実を超えた大きな喚起力を持たずにはいない」という言葉そのものに向かう意識がある。
 高柳が本書で行おうとしているのは、現代短歌の歌語としての「雨」「雪」「風」の本性を探り同定しようとする作業なのである。「短歌の中の言葉が読者の言葉の経験を喚起する現象に注目しながら短歌を読解しょうと思う。私は短歌を『言葉の味覚』段階にとどめす、意識化してアタマでも味わいたいのである」と述べているように、具体的な短歌の鑑賞をとおして、その歌の向こう側にある「雨」「雪」「風」の本性のデータを解読してゆこうとするものでる。テーマは「コトダマ力がたっぷりしみこんでいる」「雨」「雪」「風」の三題に絞り込まれているが、目ざすものは大きい。
 最後にその解読の中から、いくつか抜き出しておく。
 
・心を投影し、客観化の助けになり、場合によっては「雨」に問題をシフトして対処することもできる。これが言葉の「雨」の力だ。
・雪はみんなに降り注ぐものだが、叙述上、雪が降っていると書かれた人物には、何かしら、保護されるべき、救われるべき、鎮魂さるべき要素があるのだ。
・鎮魂といえば普通は死者に対するものだが、「雪」という 言葉は、死だけでなく、生むことや生まれることも「さびしい」と感じる視点を提供し、生きることさえ鎮魂の効果を持つ。
・最近の歌において「風の中にいる」という状況設定は、「私たちがつねにあえかな命を消耗しつつ、存在の不確かさに 耐えて、一瞬一瞬の時を担ってなにげに生き続ける生き物なんだ」ということを、それとなく表すようになってきた。
・「雨」や「雪」を見て呼び起こされる個人の内省的な気分とはずいぶん違う。個人の思い出はむしろ「風」に吹き散らされ、すべてはいずれ風化させられる。そのかわり、個を離れた記憶、失われてゆく万象の記憶は「風」だけが覚えており、ある意味では公のものとなるのだ。 (北冬舎 二〇〇〇円+税)


【書評】 和田耕三郎句集『青空  林      桂


 『青空』は和田耕三郎の第四句集である。平成八年から十八年の作品を収める。「あとがき」はわずかに七行。作品期間の十年間を回顧して、「その中で、二〇〇四年秋に脳腫瘍のため手術、翌年再発のため再手術を受けた結果、右半身に麻痺が残る状態となった。野澤節子、きくちつねこ両主宰にはとくにお世話になった『蘭』を退会、職場からも退き、現在は『OPUS』句会の仲間と共に、作品を作り続けている」と述べる部分が内容らしい内容の全てである。
 俳壇の動向にはまったく疎い私には、「蘭」の編集長を務め、副主宰まで務めた和田が、何故「蘭」を退き、小さな同人誌に仲間と共に拠るようになったのか知る由もない。しかし、結社誌で育った和田にとっては、私などの想像の及ばない決意であっただろうことは想像がつく。このことどういう関係にあるのか定かでないが、和田は二度の手術と半身麻痺、そして職を退くという生涯の災厄と向き合っている。
 では、かつて匂いやかな青春俳句を書いた和田耕三郎が、現在は「境涯」の俳人になってしまったのかというとそうではない。和田は七行で「あとがき」を済ませた人である。前書き句も「入院」「再手術」と父の死を詠んだ「十一月十九日」のみである。

  春疾風夜風は鯨を連れてきし     平成8年
  道はみな山へかへれり秋の暮     平成9年
  六月の太陽腹へ落ちにけり        平成11年
   耳の中大きな枯野のありにけり
  空であり海でもありし朝寝かな     平成15年
  山が山押して夜の来る年の暮
   炎昼やねむりの底の水の音       平成18年
  通り抜けできさうに空澄んでをり

 むしろ茫洋とらえどころのない作品が際立つ。悟ったとは言わない。諦観したとも言わない。しかし、世界が違って見えてしまっていることを、和田は、いつかどこかで自覚したに違いない。そんな眼差しが見つける世界の色がある。「獏を見に白き日傘をさしてゆく」「花火終へ倉庫のうらを帰りけり」では、「白き日傘」「倉庫のうら」が世界を見る自分の立ち位置であろう。「紙袋春のしぐれに濡らしけり」の「紙袋」には、自愛があろう。「ひとりゐることが好きなり冬の雷」も自愛の形だ。和田にとって青空は、彼方の世界への抜け道を思わせる透明感に満ちている。「裸にて飲みたるねむりぐすりかな」は、自身の青春俳句「夜のさくらわれは全裸となり眠る」を意識しての現在の自画像であろうが、『青空』の眠りの句は、彼方への通りに抜けのトレーニングのようである。「空であり海でもありし」はそういうことだろう。(ふらんす堂 2476円税別)

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【書評】 『俳秀加舎白雄ー江戸後期にみる俳句黎明ー』金子晋著 林      桂


 村上鬼城が俳句を始めたのは弟平次郎の影響からである。旧派俳人として活躍していた弟に勧められて、明治二十五年東京の偉い宗匠春秋庵幹雄(鬼城は三木雄と表記)に俳句を見て貰ったのが最初である。鬼城の句に旧派の面持ちがあるとすればそのためである。春秋庵の号は幹雄が白雄の系譜に連なることを示している。明治期の群馬の旧派地図は白雄の系譜に連なっていたらしいのである。
 また、金子晋は「加舎白雄は青春時代の一時期(二十歳前後)所在不明の時期がある。(略)白雄の交遊の中には幾人かの僧侶が居るので、そのことから考えて、白雄はその時期、どこかの寺院で寄食の生活を送ったのではないかと推定されている」と書いている。これについては現在の研究状況においても所在不明とされているのかどうか知るよしもないが、白雄は群馬の館林のお寺に寄宿していたという文献を読んだ記憶がある。お寺の名前まで書いてあったと思うが、今となっては文献の名も思い浮かばない。ともあれ、群馬の郷土資料のいずれかだったのではなかったか。
 以降、私の頭の中では白雄は群馬ゆかりの俳人である。事実、群馬の古書店には白雄の短冊は、江戸期の地元俳人の短冊に混じって比較的多く見られる。さすがに他の俳人の倍の値段はするが、驚くほど高くはない。贋作を作るにしても白雄の贋作では利も薄いだろうから真筆とは思うが、白雄の筆跡を知らないので手が出せないでいる。
 こんなことを書いたのは、金子が「読者諸賢には無縁のことながら、二百年前の加舎白雄と少年期の私とが或る地理的関係に於て接点があった」と書いているからである。白雄が参詣して句を残した大阪の生玉神社は金子少年のホームグランドだったという。金子のここでの書き方には一種のファン心理が働いているように思う。私にも俄ファン心理による対抗意識が働いて、このような書き方をさせたのである。
 そのくらい白雄は、江戸期の俳人にあっては輝いて魅力的な存在である。その魅力がどこから来るものか。詳細は『俳秀加舎白雄ー江戸後期にみる俳句黎明ー』の一読に譲るが、金子も述べるとおり、俳句を書く者にとっては、「俳句」の近代は既に白雄から始まっているのではないかという思いにしきりに誘われる俳人なのである。
 最後に金子の白雄秀句三十句より、その魅力を紹介しておく。

  あかつきや人はしらずも桃の露
   人恋し灯ともしころをさくらちる
  まぎれよや五月の鏡寒くとも
  さうぶ湯やさうぶ寄りくる乳のあたり
  沢蟹のあゆみさしけり秋の暮                        (田工房 三千円)

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【書評】 鈴木六林男全句集 林       桂


 六林男生前の牧神社版『鈴木六林男全句集』(昭和53年刊)を更新する形で、鈴木六林男全句集刊行委員会版の『鈴木六林男全句集』(平成20年)が刊行された。牧神社版が第六句集『王國』までの収録であったことを考えれば、真の全句集の刊行と言える。『王國』以降の五句集に未刊句集「五七四句」及び「拾遺集」「荒天英訳」(高澤晶子訳)を付す。巻末に「年譜」(塚原哲、出口善子編)を、また各句集の扉に書影及び書誌を付している。久保純夫を代表とする六林男門十一人による刊行委員会の丁寧な作りには、師恩に報いようとする思いが知られる。
 「栞」の宗田安正「鈴木六林男とその俳句」が、鈴木六林男の仕事の意味を梗概的に的確に描いている。「人間はどんな非日常でも不条理な環境でもそれを身心で受け止め、確認し、日常化しなくては生きてゆけない。六林男の戦場俳句は、圧倒的な戦場の不条理(非日常・体験)を確認して書き記録することで超克(日常化・経験化)する、生きるための営為であった。戦後は、『従来の価値観』の崩壊を体験、混迷の中でこれまた〈われ〉の存在の確認から始めなくてはならなかった。(略)やがてニヒリズムはヒューマニズムに通じるという命題に至り、〈戦争〉と〈愛〉の問題もテーマになってくる。(略)伝承的な俳句の型を解体し、状況の中でみずからの思いや論理・志向(思想)・批評を五七五の定型律で展開する独自の形(方法)を生み出す」
 一方、鈴木六林男の戦中戦後の苦悩し、戦う俳句を読みながら、このような俳句を読む環境そのものが俳壇から急速に失われつつあることも感じざるを得なかった。宇多喜代子は、『全句集』を「うしろの誰かに『あれが鈴木六林男だ』と言うこと」(「栞」)と述べている。そのとおりなのだが、後ろを歩いてくる足音が強く響いてこない俳壇状況が生まれつつあることを、読後感として待たざるを得ないのも悲しい事実である。

  蛇を知らぬ天才とゐて風の中
  遺品あり岩波文庫「阿部一族」
  性病院に瑞瑞しきは鳩の糞
  暗闇の眼玉濡さず泳ぐなり
  夜の芍薬男ばかりが衰えて
  五月の夜未来ある身の髪匂う
  天上も淋しからんに燕子花
  乳足り子にとどまり春の大太陽
  法皇と上皇のあと斑猫
  すかんぽのあじあまてらすおおみかみ
  ふたたびを俺達は死ぬ虎落笛

 掲句は、宗田安正の言葉に従えば、「時代の状況の中にあって時代を突き抜ける」名作群とでもいうべきものであろう。しかし、これらは鈴木六林男の戦う俳句群の中に見いだしてこそ意味がある。全句集を読む意味もそこにあろう。


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