林     桂

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左手が滲んで見える帰り道          倉持 早希
 「帰り道」の意識は、何かしらの目的(地)を、どのようであれ結果として獲得した後のものである。「左手が滲んで見える」は、その意識か結果が獲得した事象である。 なぜ左手は滲んでしまっているのか。なぜ「右手」でなく、「左手」なのか。たとえば、「友よ我は片腕すでに鬼となりぬ」(高柳重信)の「片腕」は、「右」(利き腕)のように思う。しかし、「帰り」の意識は、利き腕でない「左」(たぶん)に集約されるのだ。また、「滲んで」いながら、「見える」という可能の認識に帰って表現されているのはなぜか。輪郭を朧にすることで、その存在を確かにする「左手」の不思議もここにはある。その不思議は、書かれざる目的(地)が持つ不思議でもある。「帰り道」が強いる獲得または欠落の結果としての「左手」だ。この作者の作品は「無季」である。既成の俳人たちの「大問題」を、何の覚悟も持たずに易々と越えてしまった軽やかさが、逆に「帰り道」という言葉を重くしたのだろう。「形式の恩寵」を思う。(「鬣」創刊号)


孵化もせず金の卵の神無月 鈴木 谷彦
 高柳重信に「密書ごつこ」(『バベルの塔』所収)という短い評論がある。昭和二三年に発表されたものだが、当時の俳壇の在り方を、幼い時の「密書ごっこ」に寓意させて批判したものである。「密書」を奪い合う遊びだが、目的はその奪い合いにあって「密書」の中身になかったことを、「ミッショ」とだけ書いてある「密書」を見て知るのである。一人「密書」の中身にこそ意味を見出していた幼い高柳は、結果として違う遊びをしていたことを覚るというものである。
 さて、「金の卵」である。ジャックと豆の木を始めとする多くの童話に金の卵が登場する。しかし、想えばこの「金の卵」の価値は何なのだろう。その使用価値についての記述にお目にかかっていないことを改めて想う。食用でも、養鶏用(どうも無精卵らしい)でもないとは漠然と想像するものの、これが鉱物の価値としてのものなら、なぜ「卵」なのかという疑問が残る。小学生の理科の実験で「銀の卵」を作ったが、それは蝋燭の煤で黒くなった卵が、水の中で銀色に見えるというもので、「銀の卵」は鉱物ではなかったのだ。(「鬣」第2号)


シルル紀を来て雨具屋のうすみどり 児島   豊
 雨具屋にやって来たのは、ひとつの生命体である。それは「ヒト」という形の生命体としてやって来たとしても、地球上に生命が発生して以来、何かしらの生命体の姿をしながら、連綿と今日まで受け継がれてきたものである。もちろん、かの「シルル紀」も例外ではない。「シルル紀」を、通り過ぎて来た「生命体」のみが、今日の私たちの「祖先」であることは間違いのない事実だ。今、自分の命の来し方を「シルル紀」以来のものとして感得している一つの生命体「ヒト」が、雨具屋を訪れている。そこに広がる「うすみどり」は、何だったのだろう。色としてのみ感得されている「モノ」は、また新たな発生史途上の生命体の「生命」そのもののような顔を帯びてくるから不思議である。
 生命体の故郷は海であるが、生命体の植物が陸に上がったのは、四億数千年前のこの「シルル紀」と言われる。「雨具」も、生命体が陸に上がってからの長い歴史を刻むことによって、「ヒト」に於いて必要となった現在的な道具である。つまり、「ヒト」とは雨具を使う動物なのである。(「鬣」第3号)


赦されて咳きをする機械かな 堀込 眞魚
 『人工脳炎』(田中春光・私家版)という本を図書館で見つけた。昭和三十七年二月に自費出版されたSF短編集である。ある日多くのロボットが発熱をする。やがてウイルス性の風邪であることが判明する。しかし、人工知能を発熱させるウイルスもまた人工的なもののはずだ。では、誰がこのウイルスを作ったのか、という謎落ちで終わるものである。作品の出来不出来を評する立場にないが、今日のコンピュータウイルスの出現をいち早く予知したものには間違いない。機械に組み込まれている本来不要の「咳き」機能は、ウイルスに起因するものかもしれない。しかし、今やこの機能は機械から切り離すことはできないモノになってしまっている。ヒトの身体にも元侵入者の痕跡を残しながら、いまや完全にヒトを構成する要素となっているモノがあると聞くから、このように獲得される機能は珍しいことではないだろう。しかしこの不要な機能は、機械をより人間に近づける結果となっている。不調であれば「故障」する機械と違って、「赦され」るまで我慢する機能も獲得してしまっているようだ。これは機械だろうか。機械と人間の線引きの問題がほの見える。ゆえに、揚句の機械は既に「奴隷」の様相を呈しているのだ。(「鬣」第4号)


むささびのねむりのなかの都かな 堀込 眞魚
 都は「宮処」で帝の宮殿のあるところをさすのであれば、入水する幼帝の水底にも、都があるのは当然かもしれない。都は帝を追いかけて入水することになる。この平家物語の「水」の都もさることながら、「いつせいに柱の燃ゆる都かな」(三橋敏雄)の「火」の都も忘れがたい。天災に発するのであれ、戦火によるものであれ、炎の中に滅びる都は、都そのものがもつ拭いがたいイメージの一つである。いつか都は廃墟とならざるを得ないというのは、私たちの心のどこかにある思いなのであろう。現在戦火を想像することが難しい東京では、それは直下型の地震となって現れている。アメリカの飛行機テロも、崩壊したものはビル以上に都のイメージだったろう。突然躍りでたその影に、私たちは怯えた。
 翳りのない、希求される都はどこにあるのだろう。最初に夢見られた都に影があったとは想われない。都の影は、もっぱら「鄙」に落ちていたはずである。その原初的な都の姿を、むささびの眠りの中に見るのが、この句だ。むささびの内面に閉じて、外部からは眠りの脳波としてしか伺うことはできない都。それは原初的な都でもあるが、現在の追いつめられた都の補償として想われている都でもある。むささびの夢の中に封印することで、保つことができる輝く都なのである。(「鬣」第5号)



黄落ややや脆弱な魚雷来る 振 り 子
 もろく弱いさまをいう「脆弱」に、対他的に程度の差が少ないことを示す「やや」を冠する。その「脆弱」さはほんの少しの差異性にしか過ぎないのである。この修飾の冠を被るのは「魚雷」である。さて、この魚雷はどの差異性において、「やや脆弱」なのであろうか。もちろん、「魚」との差異性においてではないであろう。名のとおり魚を模していても、その形において魚と比べては「大いに脆弱な魚」なのであるから。やはり対「魚雷」において、「やや脆弱」なのである。対魚雷において、脆弱な部分を持つ魚雷とは、その機能においての問題になるはずである。
 かつて「人間魚雷」なるものがあった。人間の操縦による魚雷だ。所有する技術の不足を人的な力によって補うものだが、操縦者はわが命を提供することなしには補完されない技術の席に座らされたのであった。「やや脆弱な」に、この席に座った若者の心の葛藤を読むのは深読みに過ぎるだろうか。技術がそこに止まるのであれば、その脆弱さを除く方法は、命を惜しまない更なる洗脳教育しないのだが。
 黄落を来る魚雷。それは「やや脆弱な」部分において、今も思いを遂げることができずに彷徨う幻の姿ではないか。(「鬣」第6号)


心臓が花になるまでねむりをり 杜沢 文月
 「をり」は「坐有り」の転で、人がじっと座り続けている意で、転じてある動作をしつづける意となったが、その低い姿勢から、自己の動作には卑下、他者の動作には蔑視の気持ちがこめられるようになったという。(『岩波古語辞典』)
 自己のこととして読むべきであろう、この句の「主体」は、「心臓が花になるまで」の歳月・時間の「我」の存在を卑下し忍従しつついるのである。言わば自己否定の歳月を生きている。では、いつ「心臓は花になる」のか。自己救済は訪れるのか。これは永遠の自己否定のようにも思われる。
 枕詞「群肝の」が「こころ」に掛かったように、五臓六腑に宿っていた「こころ」が、専ら「心臓」に宿るようなイメージを獲得したのはいつのことであろうか。その名のとおり「心臓」は他に優越する特別な心の臓器になったのである。
 その臓器が救済として待つ「花」への変化。「花」は歳時記的には「桜」だが、この句の「花」は最後まで実在の花としては具象化されないものの名のようだ。言えば救済の姿の名前というのが一番近いように感じられる。
 「心臓」は「花」になることで消滅し、救済される。もちろん、消滅するものの中に「こころ」は宿っている。消滅こそが救済なのである。ここでの「ねむり」は、その擬態であるに違いない。救済は先取りされてもいるのでる。(「鬣」第7号)



風薫る校長室の掃除番 阿部 清彦
 校長室に入るときには、何故か緊張したものである。こちらの心の持ち方の問題もあるだろうが、生徒に緊張を強いるような空間であることも確かだ。歴代の校長の写真や校訓の額が掛けてあったりする。学校では、生徒の出入りを考えずに作られた数少ない閉鎖的な空間だからだろう。
 それでも校長室の掃除当番に当たれば、一週間は通い続けなければならない。担当の先生も何故か付きっきりの熱心な指導をしたりする。校長は案外不在のことが多いのだが、いれば違う空気を身にまとう存在だ。サボる常連も意外に神妙に掃除するのが校長室当番だ。
 薫風を呼び込んでの掃除。日頃開放されることがない校長室の空気が一気に入れかわる。重苦しい校長室の空気が、少し軽やかになる感じだ。薫風を呼び込むだけでかわる校長室の印象の中で、確かに見届けようとし、そして持ち帰ったものがありそうである。
 閉じることで成立する権威の空間がある。薫風は、自分の帰属する世界の場所とその矮小性を吹くために入ってくる。校長室に薫風を呼び込むために通う一週間は、さながら巣立ちのための羽ばたきの儀式めいてくる。(「鬣」第8号)



よのはてのひやむぎゆでていましたの 外山 一機
 文体的には「じゃんけんに負けて螢に生まれたの」(池田澄子)を思い起こさせる。この句は、例えば「いろいろの伝説を生んでいるが、源三位頼政の怨霊とも」(山本健吉)言われるような螢が負っている文化的、歴史的コードによって成立している。これによって書かれざる勝者はこの世に人として生まれたことが暗黙の了解として読者にもたらされる。勝者、敗者を分ける血みどろの戦いを「じゃんけん」に置き換えてみせたのが池田の手柄であるが、一方ではこの句で本質的な価値転換が行われた訳ではないことがわかる。本意として「螢」を踏まえるという意味では伝統的な手法の句であり、この句が人口に膾炙する理由の一つとも言えよう。
 さて、外山の「ひやむぎ」はいかがであろう。「よのはて」の平仮名書きは、「世」と「夜」の韜晦のためであろう。「夜の果て」ならば、徹夜の自画像めいてくる。「世の果て」ならば、例えば「夢の世に葱を作りてさびしさよ」(永田耕衣)の世界に対置する「現の世」を呼んでくる。「夢の世」の「葱」、「現の世」の「冷や麦」。徹夜の空腹を凌ぐために冷や麦を茹でる姿と二重映しに、現の世の寂寥が冷や麦に降ってきている。この冷や麦の寂寥は、外山以前から降っていたものであろうか。(「鬣」第9号)



昼下がり皿の上にはただ虚空 神崎 由以
 皿は開いた器である。その開放性が多様な物を盛ることを可能にすると同時に、水などのような盛ることの不可能なものを受けつけない器である。では虚空はどうであろう。
 ここでの昼下がりはとりとめもない時間だろう。そして虚空もとりとめなく拡がっている。そしてここに皿という器が差し出されているのである。そして、この上に拡がっている虚空は、果たして皿に盛られてあるものなのか、ただ寄る辺なく拡がっているだけのものなのか。「ただ」という限定は、盛られてある物の限定とも読めるし、盛られることなく拡がる虚空の様とも読める。もちろん、虚空が虚空である以上茫洋と拡がっているべきものであるに違いないのだが、そこに器としての皿を差し出されてみると、虚空はその有り様を問われ始めるのである。そして俄にその姿を表すのである。
 「秋風や模様のちがふ皿二つ」(原石鼎)の、「模様のちがふ皿二つ」に人と人との齟齬を重ねて、その齟齬を「模様のちがふ」に求める読みがなされているようである。しかし、その前にそれが皿であることにもっと注目してよいのではないか。それが違う人格の喩になるとするならば、皿という器であることを抜きには考えられないからだ。違う模様の皿には違う人格が盛られることを、我々は了解するのだ。(「鬣」第10号)



机ぽつんごろんころがり無月 斎藤 諭江
 机をぽつねんと置かれたものとして発見する。机を孤独な存在として発見しているのである。それは机が持っている機能の再発見ともいうべきものだろう。机に向かった人は、多かれ少なかれ孤独な内面と向かい合う作業をする。やがてそれが机そのものに孤独な形を見させもそんなに不思議ではないだろう。だから、自身の孤独な作業の発見、自覚化が「机ぽつん」であったかもしれない。「無月」は、そんな内面の問題とどこかで呼応しているのである。
 しかし、それでおさまるならばまだどこか既知の世界、予定調和の世界をでてはいないだろう。この句の作者は「ごろんころがり」まで見届けなかれば気がすまない人なのである。机は「ぽつん」と置かれていることだけではおさまらないのだ。「ごろんころがり」と、駄々をこねるか身もだえでもしているかのように、その存在をアピールする。静的な孤独な世界へ沈潜してゆくのを体を張って阻止しようとしているかのような机なのである。
 これは机がそのように感じられて、はじめて納得ができる孤独の所有者が作者であるということだ。もちろん、それは机の上で展開する作者の内面の作業の質の問題とも関わっているだろう。 (「鬣」第11号) 



さらさら木漏れ日を君の掌に浮かべて 渡辺   薫
 「を」「浮かべて」の不思議な呼応に戸惑う。「が」「浮かんで」でも、「を」「君は」「浮かべて」でもないのである。「木漏れ日を」「君の掌に」と「浮かべ」たのは誰だろうか。「浮かべ」の省略された主体は誰か。「君」「木漏れ日」は他動詞「浮かべる」の対象だから、「主語」ではないはずだ。俳句の一般的な省略の「主語」の取り方、それに「て」という助詞の響きから考え併せても、ここでは〈私〉を「主語」に想定する以外になそうである。他に「神」を想定することも可能だが、「君」への視線が獲得している「恋」の思いを読むならば、「神」ではこの作品が違う主題を獲得してしまうことになってしまうだろう。
 これは「私」の「君」への視線は、すべて「私」の世界論理に支配されていることを語っている。先ほど「神」の可能性を示唆したが、言わば「君」への「私」の視線は、「神」の視線に一番近いとも言える。君の掌に注ぐ木漏れ日。それは「私」がそうしようとしたためにそうなったのである。そう世界が見えていると語っているのである。一見凡庸な措辞に思われる「さらさら」も、「私」の意志がきめた質感の謂いである。「君」は「私」の視線の力の中でしか、「君」としていることができないのである。(「鬣」第12号)



野を枯らし夜を遠ざける風の音 斎藤 諭江
 枯野の明るさを思う。枯野が喚起するイメージは、「生」よりも「死」であり、「明」よりも「暗」であろう。しかし、こと色彩の問題で考えれば、枯野は決して暗いものではなくむしろ明るいものだろう。麦秋の枯色の明るさを思ってみても分かるというものである。
 野を枯色に染める木枯らし。その枯色の明るさが、しばし夜の到来を遅らせている。そんな句意だろうか。この情景にはどのような深読みを持ってきても構わない、そんな句だ。
 ところで、「作者」が得ているは「風の音」という聴覚情報であって、視覚情報を得ている訳ではない。つまり、音を便りに、明るい枯野のイメージは膨らまされているのであり、暮れなずむ夜は思い描かれているのである。これでは益々深読みの誘惑は増す。ここではイメージというよりは、祈りといった方がよいものになってくるだろう。
「夜ふけて闇が自在の渡し船」は、枯野が闇に沈んだ世界だろう。「自在」を獲得した夜の闇は渡し船を出す。一面の闇は、海とも川とも枯野ともつかない世界だ。そして、それゆえにこそ船は走ることが可能だ。闇の波を立てて船は進む。此岸も彼岸も見えない闇で、「渡し船」であることが此岸と彼岸の存在を保証しているような世界を船は渡っている。(「鬣」第13号)



三日月に斑入りの蝶を透かし視る
皆に在る翼は暗い春に生まれて
滅びた洗面器に沈みかけた木星

神崎 由以
石川 由希
渡辺   薫

 三句とも共通するあるトーンを持っている。それは自分自身の内面に向かう視線が生んだものであろう。例えば、寺山修司の青春俳句は、ドラマ性によって彩られていたが、それは暗い内面を浮揚するためのものだったと言えるかもしれない。そして、この三句に共通するトーンとは、この浮揚性がないということから生まれるもののように思われる。もう寺山の青春俳句がリアリティを生まないところまで、私たちは来てしまったということだろうか。
 透かして視るのには、三日月の光は不十分な明度だが、そもそも蝶の羽は透かして視ることができるような透明性を持ってはいないのである。むしろ「斑入りの」という指定に蝶の固有性に向かおうとしない視線が浮かびあがってくる。
 誰もが持っている翼とは、飛翔、逃走の可能性の夢を語るものかと思いきや、暗い春に生まれたものとして提示される。翼は、ある追いつめられた状況が獲得したものなのであろう。
 洗面器、木星もそうだ。滅び、沈みかけたものだ。何事かに追いつめられているようなのである。
 もちろん、書くことが反転の方法なのである。(「鬣」第14号)



枕もとに置く夜の銃声 西躰 一欽
 「置く」という行為は西躰氏にとって、特別な意味とかかわりを表すもののようである。「月明かりそっと歯ブラシを置く」には、日常的な動作が「置く」と認識されることで、特別な意味をもたらしているようだ。「九十円の菓子パン置く二月」も同様だ。置かれる場所は、棚でもテーブルでもない。「月明かり」「二月」そのものである。ここには日常的な場所の指定が落ちて、氏の中の印象像に置かれている。月明かりの棚でも、二月のテーブルでもなく、「月明かり」「二月」なのである。すると歯ブラシと菓子パンの孤独なモノローグが聞こえてくるように感じられる。作者と日常雑貨の輪郭が溶け、重なりあいはじめるのである。
 掲句の「置く」場所は、「枕もと」という日常の具体的な場所である点で先の二句と異なっている。そして、置かれるものが「夜の銃声」という作者の内部の危機意識に出所を持つものであるだろうという点でも異なっている。前句と方向性が逆なのである。しかし「夜の銃声」がモノローグを始めるという点では同じものだろう。
 身体との接触から切り離されたものたちと、「置く」という認識で関係を維持する。その間接性と淡いかかわりの中でこそ見えてくるものが、確かにあるに違いない。(「鬣」第15号)



君だけが解ってくれなくちゃ夜光る眼とか 渡辺   薫
 君だけが理解することを求めらる。他の人には求めていないゆえに、それは他の人には了解不可能な事象レベルの中に込めて提示される。ここで「とか」として例題されているのは「夜光る眼」である。「作者」の眼なのか、夜行性動物などの眼なのかは解らない。しかし、ここで提示されている「夜光る眼」は、それが見えるかどうかのレベルではなく、その意味が解るかどうかを問われているのである。「夜光る眼」をとおして、君だけが理解するべき意味は一つしかないであろう。それは「私」の思いである。「夜光る眼」に貼り付け、君に向けた「私」の思いの理解が求めているのである。もちろん、それは君への直接的な思いの場合もあるだろうが、そればかりではないだろう。むしろ、「私」の心の動きやあり方そのものに対するシンパシーといったものと言った方がよいだろう。言葉による「共有」ではなく、微弱な感性のレベルでの「共有」が求められているのである。そして、もちろんそのことによってこの句は恋歌として機能する。(「鬣」第16号)


白髪に秋風通る草迷路  斎藤 諭江
 かつての瑞々しさを失い白く枯れてゆく髪を吹く秋風。「通る」は、白髪だからこその感覚を言い止めたものだろう。当然そこには寂寥感が漂う。
 しかし、作者の造語と思しい「草迷路」をどう読むかは難しい。丈高くなり道を覆い隠すほどになった秋草の野の様を表現したものと読むのが、作者の思いは別にして、この句の解釈としてはよいように思われる。この秋草にも白髪と同じような枯れが始まっていることだろう。景は流行りの中高年ハイカーの一場面が浮かぶ。読者は、その闊達ぶりと合わせ鏡のような寂しさを感得することとなる。しかし、こう解釈しながらある種の不安に襲われる。あるいは「草迷路」は、作者にとって、秋風の絡む「白髪」の比喩そのものではないかというものだ。この解釈を第一の解釈としないのは、意味が付きすぎ、また底割れしているからであるが、白髪の中の迷路を通る秋風もまた寂しく滑稽である。いま、作者という言葉を使って、その思いと別の思いと書いたが、本当は作者という言葉を立てる必要はないものである。単なる二つの読み方に過ぎない。そして、私たちは、常によりよい一方を選択しようとするのであるが、この句のように、時に二つともに立っていること自体がよいと思わされることがある。(「鬣」第17号)


月面でけんけんぱあの老嬢かな 蕁    麻
 これは未来図に違いない。しかし、今まで誰がこんな未来図を思い描いたか。月面で「けんけんぱ」に興じる老いた独身の女性の姿。これは未来の宇宙旅行の一場面であろう。高価な旅行、それでも宇宙旅行が今の世界一周旅行くらいの価格にはなっている未来。働き続けて退職し、時間とお金に余裕のできた女性が、月面旅行を楽しんでいる場面のようだ。彼女は、地球の六分の一の重力を体験するべく「けんけんぱ」をしてみる。案の定「けんけんぱ」は、「けんけんぱあ」となって、ゆっくりと大きな身体動作となるのだ。
 では、私たちが手に入れらない月旅行を手に入れた未来の彼女は、私たちよりどれだけ幸せになれたか。作者は、彼女を孤独な姿として思い描いているからだ。科学の進歩や世界の拡大は、生きる意味や幸せに何の関係もないのだという思いがここにはありそうだ。幼い頃の仲間との「けんけんぱ」遊びは、月面での「けんけんぱあ」という一人遊びになって蘇る。彼女はいったいどれだけ遠くへやって来られたのだろうか。それは私たちの現在とさえ隔たっていないことを、作者は透視しているようなのだ。
 座五の「老嬢かな」という字余りが、月の重力のようにゆっくりと読者の心に返ってくる。([鬣」第18号)


海に出る階段暗し暮れの春 上田 冥空
 「暮れの春」は暮春。晩春のことであろう。春の夕暮れと取ると、「暗し」が夕暮れの説明に仕えることとなって面白味がなくなってしまうからだ。夏の光が近づき、海も輝きを増す季節を思うべきだろう。あるいは、その輝きのために階段は一層暗く感じられているのかもしれない。
 ともあれ「階段暗し」には、生活のための家屋が似合うであろう。リゾート施設の階段ならば、海に出るためのエントランスは、明るく設えてあるに違いないからだ。「暗し」は、安アパートの裏口のイメージだ。輝く海を背に、アパートは生活のための道路、その先の街に向かって作られているのだ。だから、海に出る階段は、日常からエスケープして、非日常に向かうためのものである。しばしの息抜き。その背を、日常の閉塞感が押しているだろう。「暗し」は、そんな日常が後ろから照らす暗さでもあるだろう。
 住人は、学生か、若い独身者が似合うだろうか。いや、中年、初老の一人住まいの可能性もある。「階段暗し」は、やがて海に照り返された内面の暗さそのものになってくるだろう。海に向かう、海を見る。それが日常の出口の一つであることを、この句は改めて思い起こさせてくれるのであった。(「鬣」第19号)



午後三時長湯の老婆の幽霊見ゆ 神崎 由以
 死んで肉体が滅んでも、霊がこの世に止まるのにはそれ相応の因果関係が想定される。多くは怨みによって説明されるだろう。では、この「長湯の老婆」の「怨み」は何なのだろう。しかも、「午後三時」という幽霊には不似合いな長閑な時間帯に出没している。銭湯か温泉の長湯にはもってこいの時間だが、怨みを晴らすにはあまりにも不似合いだ。そもそも肉体を喪失した幽霊が、湯に浸かる必要があるものなのかも怪しい。考えられるのは、この時間帯に湯に浸かることこそ、この老婆の幽霊にとって怨みを晴らす行為なのだということだ。では、幽霊となってまでもの長湯に、思うべき老婆の生前の生活はどのようなものであろうか。どうしても、壮絶なドラマよりはコミカルなドラマが思い浮かんできてしまいそうだ。一般的には幽霊になってまでもの大事とは思われないのに、一重に老婆の資質によって幽霊になり湯に浸かっていそうに思える。ここでは幽霊が怖い存在というよりは愛するべき存在に変わってしまっている。
 ところで幽霊を見るには何か特別な資質がいるのであろうか。この句では「見ゆ」といいながら、自分を怨みを振り向けられる存在として自覚してはいないだろう。傍観者だが、共感者でもありそうなのである。(「鬣」第20号)


秋の暮ただ満ちてくる風の声 斎藤 諭江
 もちろんこの句は秋の暮の寂寥感を裏切っている訳ではない。「季語」が持つ本意を踏まえたものである。秋を感得するものとしての風もまた常道の範囲を超えるものではない。その意味では、この句には何ら事新しいものは見あたらない。
 それでも心惹かれるものがあるとすれば、「ただ満ちてくる」の措辞、もっと言えば「ただ」にあるのかもしれない。この「ただ」には、コントロール不能になった思いが込められているだろう。「満ちてくる」場所は、まず眼前の景色が最初であろう。揺れる草木を見ていると、草木が草木の輪郭を失って、その動きばかりが見えてくるような一瞬がある。言わば「風」が見えて来るような瞬間なのだが、このぼやけた現実感覚は、やがて心の中に移行してくる。いつの間にか、自分の心と対峙している自分に気づく。そして、この心で吹く風は、心で吹きながら、自分のコントロールの効かない風となっている。風は風の意志によってただ増え続ける。それが「風の声」となって心に響く。「音」でなく「声」として感得するところにも、コントロール不能の思いは隠されているだろう。もちろん、それが新しい「秋の暮」や「風」への感性を呼び覚ますというのではない。本意通り寂しいのである。しかし、体と心をその共鳴板して寂しんでいるのだ。(「鬣」第21号)



屋上より今日の深さへ砂落とす 永井 一時
 まず思い起こすのは「いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/握れば指のあひだより落つ」(石川啄木)である。もちろん詠われているのは、何ものをも掴み得ず指の間より逃してしまう命ある人の悲しさである。「握れば」はそれに抗う行為である。この歌がもの悲しいのは、そこに「私たち」もいるからだ。句の「砂」も啄木の砂の末裔と思われる。
 しかし、この句は「落とす」であって「落つ」ではない。「落つ」には人のままにならぬ結果が刻印されているが、「落とす」には、意志的行為の結果が刻印されている。ならば、句の主体は「われ」(人間)ではなく、超越的な存在なのであろうか。しかし一方、「今日の深さ」には、「われ」(人間)の世界とその悔悟のような響きがある。「屋上」は高層ではあるが、神の立ち位置ではなく、現代人の立ち位置でもある。啄木の歌に近代的な苦悩が刻印されているとするならば、この句はそのパロディーとして、現代の苦悩は身体的スケールを超えたビルの落差を必要とし、「落とす」ような自虐を必要とすることを表しているのであろうか。「深さ」とは、砂が霧散しその行方が知れなくなる距離感であろう。啄木の砂は手からこぼれても近くに止まっていただろうが、この句の砂は「深さ」に紛れてその結果さえ確認はできないのだ。(「鬣」第22号)



花曇り屋根に乳歯の育つ夢 永井貴美子
 抜けた乳歯は、下顎は屋根へ上顎は縁の下へ投げるというのが一般的な風習のようだ。私も祖母に教えられ、そのようにした記憶がある。乳歯に代わる生涯の歯が無事に生えて来ることを願ってのものである。これからの子どもの成長を願う思いからすれば、無用の乳歯など惜しいはずもないだろう。
  私はぼんやりした子どもだったから、歯の行方に何の興味も思いもなかったが、どの子もぼんやりしている訳ではない。作者は、多感な子どもだったのだ。生えてくる自分の歯ではなく、屋根に上がった歯の行くえに思いを馳せるのである。屋根に上がった歯は、その後どうなるのか。夢の中では、歯は種となってジャックの豆の木のように成長しそうなのである。花曇りの空に、その芽を伸ばしてゆきそうに思われる。春という芽吹きの季節が、その夢を後押しする。自分から他者へと変じた「乳歯」への不思議な感覚が根にありそうである。
  乳歯が生え代わり始めるのは、幼稚園の年長から小学校一年生くらいであろう。現実と夢の境界がまだ柔らかくて、自由に行き来できる年頃である。乳歯は、夢を育てるのに最もふさわしい頃に自分から自分でないものに変わるのである。(「鬣」第23号)



鉛筆の林立ここは月の死角 吉野わとすん
 「ここは」と書かれた鉛筆の林立する場所とはどこであろうか。真っ先に思い浮かぶのは教室。鉛筆を手にする生徒の数だけ鉛筆もまた林立している。場の主役の人を消し去って鉛筆に焦点をあててみることで、見慣れた教室も不思議な風景へと変わる。そして、それは疎外された人間存在を思わせる。人形を操る黒子が意識から消えるように、人間が消え鉛筆が人形のように存在感を主張している風景だ。
 月を意識する時間帯は夜間であろう。しかし、いま月光の届かないところで鉛筆は林立している。そして、その関係を認識する主体は鉛筆の林立の立場にあるのではなく、月の方にある。月光が届かないと鉛筆の林立の場から発想するのではなく、月から見て死角の位置にあると発想されているのだ。ここにも疎外感は描かれている。
 やがて、月光の届かない夜の教室で鉛筆だけが林立しているような不気味な風景が頭に広がる。そして、果たして「ここは」教室でよかったのだろうかという疑念が浮かぶ。教室が解体して、「ここ」としか言いようのない抽象的な空間になってゆくのを感じるからだ。「ここ」に込められた疎外の意味がイメージを浸食してゆく。果たして「ここ」はどこなのであろうかと、もう一度問うことになるのである。(「鬣」第24号)



空蝉に兄の記憶は入れておく 永井貴美子
 「うつせみ」は、目に見えない神に対して目に見える存在の「この世の人」を意味し、万葉仮名で「空蝉」の字を充てたために、蝉の抜け殻を連想させ、やがてそれも意味するようになったと言う。ならば、空蝉とはもともと人の魂の入れ物だったということになるだろう。この世の依り代としての身体を失った魂の依り代である。
 「兄の記憶」には二通りの解釈が可能だろう。「兄」と呼ぶ作品主体の「妹」(もちろん弟でもよい)が持つ兄との関係が生む「兄の記憶」と、兄の魂そのものを指すものとしての「記憶」である。「空蝉」の本来から言えば後者であろうが、「妹」(弟)の行為として描く「入れておく」は、前者の意味が強いようにも感じられる。むしろ、「妹」(弟)は、空蝉が魂の入れ物であることを利用して、自分の記憶を整理する小函に利用しているように読めるのだ。「は」は、そのような意識を反映しているように思える。
 なぜ「兄の記憶」だけ選ばれて「空蝉」に入れられるのか。それは兄の魂が、この世に宿るための身体を持たないことを意識されているからだ。さらに言えば、兄は亡くなったのでなく、もともと一度もこの世に身体を持たなかったのかもしれない。そのような兄も、空蝉はこの世に留めるだろう。(「鬣」第25号)



鏡あり秋は無限に増殖す 永井貴美子
 「鏡」があることよって、「秋は無限に増殖」するのである。「鏡」はそのような不思議な力を持つ。
 具体的なイメージでは、合わせ鏡の中で無限に増幅し映り続ける像が思い浮かぶ。或いは万華鏡の中の世界が思い浮かぶ。錦秋の像が増幅され続けるイメージである。
 しかし、それでは虚像にしか過ぎない。掲句は「増殖す」である。鏡の中の虚像が、実像に変わってゆくと考えるべきなのであろうか。あるいは、虚像は虚像のままでも虚像の拡がりの中にこそ「秋」はあって、「秋」が「増殖」し続けていると考えるのかもしれない。ともあれ、鏡という装置を得て、秋は自己増殖をしているのである。そして、これは茫々たる寂寞感の表現であろう。
 鏡は人間が火の次に手に入れた不思議な力を持つものだったろう。新たな世界を映し出しながら閉じている鏡の世界は、その世界の論理で動き出すことがあっても何ら不思議はなかったのではないか。鏡を持つことは違う世界を持つくらいの感覚はあったことだろう。
 いま「秋」に仕えている「鏡」は、異世界への恐怖に仕えるのではなく、この世界の「作者」の寂しい思いに仕える純粋な装置に進化しているのだ。(「鬣」第26号)



花曇り給水塔の締め具合 夷   一郎
 前橋市のシンボルの一つに敷島の給水塔がある。この水道局の施設は公園整備され、躑躅の花の季節には公開されている。また渋川市の佐久水力発電所のサージタンクもシンボル的な存在で、昭和三年に作られた当時は世界一の高さがあったという。こちらも公園整備され桜の名所となっている。
 給水塔は、前橋、渋川に限らず、ローカルな風景の中にはきっとあり、その生活の中で心を止める存在になっているだろう。ほんの少しだが高いという位置が心に響くのだ。花曇りの空を背景に給水塔はしばし私たちの視線を集めるのだ。
 しかし、この句の作者は、給水塔の見えざる「締め具合」にイメージを収斂させる。確かに「給水塔」である限り、そこに水は通っており、その水口は一定の割合で締められているはずである。「締め具合」は水を通すための弛め具合でもあるわけだ。「花曇り給水塔」の視線の世界から、いきなり給水塔の機能へ転じた落差にこの句のエネルギーがある。そしてこれは、この作者の複眼的な世界の見方でもあろう。
 私は何度か敷島の給水塔の公園に足を運び躑躅を堪能し、佐久発電所の桜を眺めてきたが、その給水塔の「締め具合」を併せて思うことはなかった。迂闊と言えばあまりにも迂闊。単眼の風景しか見てこなかったのである。([鬣」第27号)



我がために眠れぬ人よ百日紅 佐藤 裕子
 恋の勝利宣言のような句だろう。或いは「人よ」の後に「あれかし」の思いがあって、それが句を書く動機になっているのかもしれないが、書き上げられた句は確信に満ちている。
 「我」を恋しく思うことで眠れぬ夜を過ごす「人」は、眠れぬ時間をどこでどう過ごすのか。火照った体を夜風に吹かせているのではないか。百日紅は、「我」の眼前に咲く庭の花であるかもしれないが、「人」が見遣っている花として思われてもいるだろう。
 百日紅は、庭や公園、時には街路樹として植えられる。サルスベリの名のとおり木肌は白っぽくすべすべしていて女性的だ。そこに紅や白の小さな花がかたまって花期長く咲く。夏に相応しい情熱的な咲き方をする花と言えば言える。
 夜の公園の百日紅を「我」の依り代のように見つめて時を過ごす「人」。「恋人」とは言わない。「我」の思いを投影しない呼び方の中に恋の勝者はいる。「人」は虜か生贄の体である。それは「我」の作り出した幻想かもしれない。しかし、たとえ現実の姿は違っていても「我がために眠れぬ人」への確信が揺らぐものではないだろう。「春野よりわずかに甘き彼の舌」では、「彼」という二人称が使われているが、「わずかに」という批評をどう読んだらよいものか。(「鬣」第28号)



鳥追いて風のみなもとのひとり 大西   黎
 五・八・三の変則のリズム。もっと言えば、俳句を読み慣れた目は「鳥追いて風のみなもと」と五・七のリズムで読んで来て、字余りの「の」を発見して戸惑う。リズムが極端に悪くなるからで、違和感を伴う。その違和感を下五への架橋としながら「ひとり」と逢着する。これも断絶感の強い三音の字足らずである。それだけにインパクトが強い。そして、この「ひとり」を読ませるために生み出された変則のリズムであったことを知らされることになる。
 この句の「鳥追い」を季語とし、子どもの小正月行事としてよいのかは疑問だ。この鳥追いは、田畑を荒らす鳥を追い払うためのものではなく、鳥そのものを追い求めている姿だろう。鳥を追い払うことでよしとする仲間から逸脱して、また儀式から逸脱して、鳥そのものを追ってしまった少年の思わぬ逢着の地が「風のみなもと」であり、「ひとり」という孤独な境地であろう。「風のみなもと」は、少年の桃源郷であるとともに、それゆえの孤独の地でもある。
 少年の青い鳥は、日常卑近に居るのではない。それは遥か彼方「風のみなもと」にしか居ないのである。もちろん、青い鳥は幸福の喩などに還元できるものでもない。「ひとり」となることによって知る何かなのである。(「鬣」第29号)



塗装工帆船のごと枯野行く 河野  肇
 作業着の白いつなぎを寒風にはためかせながら枯野を行く塗装工。それを帆船が風に帆を張って海原を進む晴れやかな姿と重ねてイメージしている。「帆船のごと」が、「塗装工」「枯野」という言葉が喚起する一般的なイメージを大きく裏切る働きをしている。個人の顔を持たない労働者塗装工ではなく、ここには豊かな内面性を持つ個人がいる。枯野も海のような豊かな広がりを持っている。
 昭和三十年前後、寺山修司世代の高校生が俳句を書いた。高校生の俳句のレベルが最も高かった時代で、俳句の時代の表現に肉薄していたときだった。もちろん、戦後の「社会性俳句」とも遠く呼応していただろう。その流れの中で創刊された雑誌「歯車」の高校生の作品を読む機会があった。「台風過踏切番が黄を塗る午後」(池田青雲城)「土工らの捨てし焚き火を育ており」(酒井弘司)「わたしは裁ち師吹雪けば赤い布切りたくなる」(六川由紀子)などの句がある。「踏切番」「土工」「裁ち師」に投影された自己は柔軟で、現在から見ると同時代の「大人」の作品よりも長い寿命を保っているようにも想われる。
 「塗装工」の句との邂逅は、これらの句を思い出させた。初学の私の句のお手本は、こうした句であったことも。(「鬣」30号)



弁天のたけのこ色の腿の波 夷  一郎
 「弁天の固き乳房春の潮」(河野肇)には、水神にして官能性を備えた女神の姿が描かれている。美しき女神も美しさゆえに美女に写され官能の対象にされるのは世の常である。裸弁天の「固き乳房」にもそれは既に浸透している。
 もちろん夷一郎の掲句も官能の文脈にあるのだが、その文脈を逸脱しているのも確かである。
 「たけのこ色」は「弁天」の文脈の中で、俄に人肌の色を獲得するのに驚く。しかし、そればかりでなく官能性を異化する働きも持っている。我々が「たけのこ色」という言葉に情欲することは難しいだろう。「腿の波」は弁天の腿を被う薄衣の表現だ。加えて、水神の表現を担っているのかもしれない。また、女神の官能的な表現の眼目でもあろう。しかし、それは「たけのこ色」をしているのである。これを現実的などこそこの像と見なすならば材質の問題だが、もちろんここでは違うであろう。たとえ現実から発想したとしても、こここでは「弁天」として提示されているのである。
 作者は、弁天を女神像からも官能的な魅力の女性像からも引き下ろそうとしているのである。どこかうらぶれた中年女性のようである。もちろん、作者の弁天への悪意に満ちた視線が向けられている本当の先は別にあるはずである。(「鬣」31号)


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