林    桂

目 次

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初 出
坪内稔典句集〈全〉 「鬣TATEGAMI」11号 2004・5
著作権と俳句 「鬣TATEGAMI」12号 2004・8
大岡頌司の中の川尻 「鬣TATEGAMI」13号 2004・11
沖縄の視界ー平敷武蕉の「花鳥諷詠」批評 「鬣TATEGAMI」14号 2005・2
復本一郎「俳句とエロス」 「鬣TATEGAMI」15号 2005・5
田中裕明と「ゆう歳時記」 「鬣TATEGAMI」16号 2005・8
「伯爵領」の最後の一句 「鬣TATEGAMI」17号 2005・11
黒田杏子の三冊 「鬣TATEGAMI」18号 2006・2
喪失と拾遺 「鬣TATEGAMI」19号 2006・5
10 「林田紀音夫全句集」 「鬣TATEGAMI」20号 2006・8
11 「寺山修司の俳句入門」 「鬣TATEGAMI」21号 2006・11
12 「津沢マサ子俳句集成」 「鬣TATEGAMI」23号 2007・5
13 「田中裕明全句集」 「鬣TATEGAMI」24号 2007・8
14 「桂信子全句集」 「鬣TATEGAMI」25号 2007・11
15 「櫻井博道全句集」 「鬣TATEGAMI」30号 2009・2
16 安井浩司「海辺のアポリア」 「鬣TATEGAMI」31号 2009・5

16

安井浩司「海辺のアポリア」 林     桂





 「俳句を書く」には、「俳句とは何か」を問うとともに、自分が書くのは「何故俳句でなければならないのか」を問うことなしには不可能なはずである。しかし、これを自身の問題として誠実に問い続けることもまた困難な課題である。私達は、どこかで俳句を自明の存在とし、どこかで自分の書く根拠を韜晦させて、中くらいの目出度さの俳句を書いて生きているのが実情だろう。
 だが、安井浩司はこの問題を回避しない。いや回避したくないと思い続けている稀有な俳人である。あくまでも個人の俳句への拘りを問い続けて、それはやがて俳句の普遍的な問題に突き抜けて行く。そういう思惟を粘り強く持続しているのが安井浩司である。いわば俳句の哲学者なのである。安井の洞察は、結論らしきものを導いたり、ある方向性を示唆したりする。それは俳句に拘わろうとする者にとって、深い教示であり俳句の問題の顕在化として恵まれる。しかし、そのことによって、読者の抱え持つ問題が何一つ解決するわかではない。読者自身も同じ問題を立てて個人で考えなければ解決はしないのである。ただ、重い問題を手渡された読後感が残るばかりである。
 安井の文体は読みやすいものではない。太い幹を立てるために張り巡らされた根のようにつく様々な条件や保留や所感を透過しなければならないからだ。それは読書のスピードを上げさせない装置ともなっている。私達は、腰を据えてじっくり読むことを求められるのである。
 安井浩司はいつでも「安井浩司」であろうとする。それは真正な俳句の読者であり、俳句の批評であろうとする姿勢を保持しようとすることである。そこに殆どぶれはない。俳句に拘わり続けることが、ぶれ続けることになるのが過半の俳人であってみれば、安井は明確な俳句の指標たり得る存在だ。
 と言って、安井を超人化するつもりはない。殆どぶれがないにしても、全くぶれがない訳ではない。「傘寿の永田耕衣」を「永田耕衣先生」と書き起こし、敬称略に帰りながらも敬体が取れない論を指して言うのではない。ここでも根本に於いて、安井浩司は「安井浩司」である。
 「安井浩司」が破綻しているのは、「テキストとしての寺山修司ーーを時代の同じトンネルの中で生きて来た私には書き難く、従ってこれは論にあらず私感としての叙述にすぎないことを断っておきたい」と附記しなければならなかった「詩歌、俳句における寺山修司」に於いてである。そして、それゆえにこの裂け目からこそ「安井浩司」とは何かが始まるように思われる。テキストとして寺山修司に出会うしかなかった私にとって、初出の「俳句空間」(昭和六十三年)でこの論を読んだときの違和感が記憶に残っている。それは安井浩司への違和感であり、寺山修司への違和感でもあった。しかし、いま『海辺のアポリア』(邑書林)の中に置いてみると、寺山も安井もよく見えてくる。この論が書かれてから二十年を経過し、その間に私たちは、例えば「寺山修司の青春時代展」(世田谷文学館・二〇〇三年)のような新たな寺山のテキストを手にしてもいる。
 安井の寺山私感は冷徹である。それは同世代人として寺山が世に出る以前から寺山の本質を見定めていた安井ならではのものである。安井は、先行する世代が易々と寺山の術中に嵌る様の目撃者なのである。同世代でいまだ無名である者同士の出会いゆえに嗅ぎ分けた寺山の本質に対する確信のようなものが、安井にはあるのだ。「私達は寺山修司を”向日性”という形容のもとに語った。それは今にして思えば少し出来すぎの装飾詞だったが、ともかく彼は手に取るものを相対化してのし上がりたかった。人生の『巻頭』や『特選』が欲しかった。それはまた加留多の札のようなものであることを利巧にも見抜いていたから、彼はその『策』と『技』でよしとし、そこを磨いた。俳句、短歌、現代詩、文化批評、演劇と《術》を弄して転化したコースは、寺山の人生論において全くの道理である。このように書き綴るといささか俗っぽく響くかもしれないが、それは私自身のせいではなく、寺山の中に含まれていた俗だから致し方ない」と述べる。寺山にとって俳句は目的ではなくて成り上がりの手段であり、他の表現もまたそうであったのだと喝破する。「寺山修司の青春時代展」のテキストを手にした現在の私達は、安井の言がよく分かるところにいる。しかし、私達はそれでも寺山が残した作品をテキストとする以外に「寺山修司」はないのだが、安井にはそのテキストの安っぽさが透けて見えてしまうのだ。
 安井は同時代同世代の作家として寺山が「仲間のうちで私が最もキライな俳人」と評した大岡頌司を反措定としているようだ(『遠船脚』と大岡頌司)。しかし、本当は安井浩司こそ寺山修司の反措定として生きてきたことは明らかだ。「『牧羊神』なんかは、かなりの同人の殖えように、同人誌の純粋性が失われるとして、解散することなく同人の馘首を行った」(同)とき、実は馘首した寺山は俳句形式の純粋性から風船のように遊離し、馘首されたのだろう安井は俳句形式の純粋性についた瞬間だった。安井が「俳句を書く」ことを問い続けるのは、寺山の反措定としてあり続けることである。安井が寺山を超える方法は、俳句を書き続けることなのである。俳句の井戸を深く掘り続けることこそ、寺山の俗から離れて「安井浩司」になる唯一の方法だったのである。安井がぶれないのは、ここを出自とするからであり、唯一寺山修司を私感で論じるゆえんであろう。

15

「櫻井博道全句集」 林     桂





 『櫻井博道全句集』(ふらんす堂)が、博道の誕生日一月二日付けで刊行された。季語別に編集するとともに、編年体句集を併載、各句に初出句集名を付し、季語別索引、初句索引を付している。『海上』(昭和四十八年)『文鎮』(昭和六十二年)『椅子』(平成元年)の三句集、及び以降のまとめられていない作品は「『椅子』以後」として、中拓夫の選で所収している。手厚い編集である。編者は平林孝子氏。博道の実妹である。恥ずかしながら、「寒雷」同人の氏を存じ上げてはいても、博道の実妹とは知らず、この全句集によって初めて知った次第である。平成三年に博道は逝去しているので、没後十八年目の全句集となる。妹の兄への愛を思う。
 十代のころ、加藤楸邨に憧れ「寒雷」に入会した。尤も、金子兜太、森澄雄、古沢太穂が同人だと知ってびっくりするくらいだったから、櫻井博道の名前すら知らなかった。だから、博道は作品を読んで覚えた名前だった。『海上』から『文鎮』の始め頃の作品に当たるだろう。「寒雷」の好きな作家のひとりになったことは間違いない。しかし、そのときなぜ櫻井博道が気になったのか、明確な自覚はないままであった。
 いま改めて読むとその理由が分かる。作品にはどこか清潔感が漂っていて、青春性を湛えているからである。櫻井博道は、十代の自分にとって、大人の作品が並ぶ中で、共感できる数少ない作家だったのだと思う。作品には寂しさと孤独が基底にあって、句材も自分の身の丈にあっていた。作品に自己投影できたのである。自分のことのように読むことができる作家だったのである。
 それを今拾えば次のような系譜の作品になろう。

  海上に朝の道あり桑解かれ              『海上』
  太陽も恋猫ふとるにまかせたり            『海上』
  海に出て春の疾風も没日なか            『海上』
  山を見て山遠くなる春の暮               『文鎮』
  桜蘂つめたき顔のヨーヨー売り             『文鎮』
  ノート放り上げし記憶や花こぶし           『文鎮』
  星の出て真の青空ねこやなぎ            『文鎮』
  どの果も雲海みちて心とほし             『海上』
  水中花たちまち雲の光りくる             『海上』
  青葉夜の怒濤となりて友は遠し           『海上』
  ひぐらしは水脈のひかりの中に入る         『海上』
  まぶしくて問へば豆蒔く男なり            『文鎮』
  蟻の出てかつとはれたる雲の影          『文鎮』
  薔薇の門もつとも雨をためゐたり          『文鎮』
  冬青空マッチの軸が水に浮き            『海上』
  雪国やしづくのごとき夜と対す            『海上』
  屋根の雪にスコップのあと鴉の昼          『海上』
  氷上の肩青空をもてあます             『海上』
  焚火の音土のにほひが夜空より          『海上』
  青空のすみずみ濡れて雪の街           『文鎮』

 「海上に朝の道」「太陽も恋猫」「春の疾風も没日なか」「桜蘂つめたき顔」「星の出て真の青空」「どの果も雲海」「たちまち雲の光りくる」「青葉夜の怒濤」「水脈のひかり」「まぶしくて問へば」「かつとはれたる雲の影」「しづくのごとき夜」「氷上の肩青空」「土のにほひが夜空」「青空のすみずみ濡れ」など、どれもマジックのように思わぬところから青春の匂いを紡ぎ出す言葉となっているのだ。
 『海上』に併載された火村卓造の解説評言「自然の対象に肉迫を強めながら、その即物性の匂いを振り撒きながら、博道の貌は作品の情念の核となる」「方法的自覚が次第に体感の声を抑えてゆく」「立原や中原の詩情がほの見える」「実に饒舌である。だが、奇妙な魅力に充ちている」「不可視の自然の照応に耳をそば立てている。それが象徴詩人のごとく、透視力を越えたひびきを読者に聴かせてくれるだろう」は、博道の句の魅力をよく伝えている。博道も「後記」に「わが身をとりまく現実の混沌に深く錘を垂れながら、内心の声を言葉にのせ高く飛翔させてゆきたい」と書く。
 高柳重信の摂津幸彦評に倣えば、博道は「内心の声」を身近で既知の俳句文体と思われるようなところに「象徴詩」のようにして潜ませる方法を探ったのである。あるいは、人間探求派と呼ばれた加藤楸邨の方法を正面から超える方法は博道のこんな方法だったのかもしれないと思う。

  あかざの花いくさの匂ひわが身より        『文鎮』
  敗戦日かの空のいろ中学生            『文鎮』
  不意に戦後来る紺碧のひと日冴え        『文鎮』
  葱坊主学徒出陣送りし眼              『椅子』
  竹皮を脱ぐ少年の日の軍靴            『椅子』

 一方、博道が学徒出陣を見送った中学生の眼を生涯原罪のように持っていたことに改めて驚く。博道の表現が持つ清潔感は、こうした心の持ち方と無関係ではないだろう。

  渓に浸す拳ぐんぐん遠のく父母          『海上』
  角欲しくなる草原の風にうもれ           『海上』

 平林氏が無季に分類した句だ。博道にはこんな一面もあったのだ。季語別に分類されなければ見落としていただろう。


14


「桂信子全句集」 林     桂




                                     
 『桂信子全句集』(ふらんす堂)が刊行された。信子の第一句集『月光抄』(昭和二四年)の序文で、生島遼一は「信子さんを古典主義者と評してゐる人があつたが、古書や古美術が好きといふほかに、肱をはつて礼儀正しいお辞儀をするところや暑いのに和服に帯をしめて涼しい顔をしてゐるところがある。フランスの古典文学のえらい作家はみな元来内にあらあらしい激情をもつてゐた人で、それを抑へるために端正な規矩や文体を必要としたのだといふ。だからこの内の情熱が文体からちらちらのぞいてゐる。(略)いつだつたか信子さんは『今度はきつと大きい恋愛をして結婚します』と思ひつめたやうに真顔でいつたことがあつた」と書く。これは初期の桂信子の俳句を最も端的に言い止めたものだろう。
 『月光抄』は、結婚そして早く寡婦となった信子の激情が端正に和服を着たような句集である。夫恋、追慕そして存在することのなかった子どもへの思いが、抑制の効いた文体で丁寧に描かれている。恐らく桂信子は、女性として期待される家庭人としての終焉の時代を、寡婦となった故に最も典型的に生きた人だったのだと思う。
  
  朝光に紅薔薇愛し妻となりぬ                  昭和一四年
  春ふかく芋金色に煮上がりぬ                  昭和一五年
  ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ
  秋天に雲あり夫を焼く焼場                    昭和一六年
  炭つぎつ昼はそのまま夜となりぬ
  夫とゐて子を欲りし日よ遠き日よ                昭和一七年
  梅の昼はるかな水を汲みにゆく                 昭和二三年
  ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜
  
 第二句集『女身』(昭和三〇年)も寡婦の思いの揺曳が続く。何事かを展開するというよりは、深く思いを掘り続けているのだ。
  
  ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき           昭和二三〜二四年
  女体の香われにもありや梅雨晴れ間               昭和二七年
  
 第三句集『晩春』(昭和四二年)はこのような思いを歌い治める時期である。そして、転換期でもあるが信子に明瞭な道が見えいる訳ではない。師・日野草城との死別など俳句環境の変化に背をおされている趣でもある。
  
  手袋に五指を分かちて意を決す                  昭和三一年
  
 昭和三十六年から現代仮名遣いを採用し、三十七年には分かち書きを施すようにもなっている。信子は、「今後の俳句は、やはりそのような表現方法をとるようになるであろうと思い至ったからである」(あとがき)と述べている。ただ、信子の分かち書き俳句は成功しているとは言い難い。抑制の効いた表現こそ信子の句の魅力だが、そのバランスが崩れているのが原因だろう。後日分かち書きを止めたのを見ても、信子自身が一番知っていたことだろう。
 第四句集『新緑』(昭和四九年)、第五句集『初夏』(昭和五二年)、第六句集『緑夜』(昭和五六年)、第七句集『草樹』(昭和六一年)、第八句集『樹影』(平成三年)において、今日の桂信子像を結ぶ仕事が成されているといってよいだろう。一句一句丁寧に書き込まれた作品は、現在の俳句の美意識が結ぶ典型的な俳句表現の精華と言ってもよいものだ。ただ、若き日の過剰とも言えた「人間桂信子」の自意識は、句の裏からさえも消されているようだ。かつて読んでいた桂信子の世界を期待してもここにはない。この反転した表現意識中に、桂信子を論じる課題が残っていそうである。

  少年来て脚ねばりだす水すまし                 昭和四二年
  遠山へ喪服を垂らす花の昼                   昭和四八年
  竹の皮落ちてしばらく日の中に
  水番の片手しばらく樹をたたく
  竹一本水に映りて寒に入る                   昭和六一年

 第九句集『花影』(平成八年)、第十句集『草影』(平成一三年)で、桂信子はまた趣を変える。文体がやや饒舌になり、人事を積極的に詠むようになっている。これは信子の回りで逝去する人々が多くなって、人生の別れの季節に多忙になったこともあろうが、あの端正で完成度の高い表現の破れを厭わないようになったことが大きいようだ。自在と呼べば自在な老境のたまものなのであろう。

  梅雨真昼楸邨やあーと呼ばんかな                平成五年
  龍太の句見たし読みたし春の暮                  平成六年
  いま誰にも逢ひたくはなし冬の山
  赤芋の地中に太り耕衣の死                    平成九年

 「草苑」(平成一六年一二月)発表最後の句は、
  
  冬真昼わが影不意に生まれたり                 平成一六年

 彼岸に生まれた影を垣間見たものと確信する。

                                                                      目次に戻る


13

「田中裕明全句集」 林    桂




                                
 『田中裕明全句集』(ふらんす堂)が刊行された。この瀟洒な本に田中の句業がまとまってしまったことに複雑な思いだ。摂津幸彦もそうだが、田中裕明も夭折が最も似合わない同世代の作家だと思っていたからだ。その作風から、長命を保ち老境に至ってからの佳作に期待できる作家だと思っていたからである。
 それでも摂津幸彦は私より年長者であったので、その全句集刊行にはどこか堪えることができるものがあったが、田中は年少である。こんなに早々と句業が見渡せるような存在になってしまってよいものか。堪えるのは相当に辛い。

  大花野わが老齢の澄みあるや      

 『先生から手紙』に所収された一九九五年の作である。句集刊行時に読んでは印象に残らなかった、こんな作品が胸を打つ。田中はこの時点で、自分の老齢期の不在を疑ってはいない。課題は、それが澄んでいるかどうかであったのだ。そして、それは私たちが当然田中にその清澄を期待していたものであった。年譜によれば、二〇〇〇年二月に「慢性骨髄性白血病のため京都大学医学部付属病院に入院」とある。これは入院五年前の作ということになる。
 ただ、全句集を通読して救われる思いがあるとすれば、作品世界には死による途絶感がないことである。若くして老成していたかに思える田中には、目に見えるような作風の変化がない。安定した表現は最初から最後まで続いていて、実に完結している。若く仕事半ばの夭折といった無念の作品世界ではないのである。
 夭折が最も似合わない作家だと思っていた田中は、いつ夭折しても完結した世界を示せる作家だったという逆説にここで気づかされるのである。

  今年竹指につめたし雲流る                 昭和五十二年
  水澄むや梯子の影が草の中                昭和五十三年

 『山信』所収の初期作品である。田中が十八歳、十九歳のときの作である。強いて言えば、「つめたし」や「水澄む」の言葉の斡旋に若い感性が感じられるが、しかしそれ以上に田中という完成された感性の安定した表現になっているというべきものであろう。

  菜の花をたくさん剪つて潮の香す               『花間一壺』
  朝刊に雪の匂ひす近江かな
  夏やなぎ湯を出て肩の匂ひけり
  京へつくまでに暮れけりあやめぐさ               『櫻姫譚』
  母の耳父の耳よりあたたかし
  読んでゐるときは我なし浮寝鳥             『先生から手紙』
  重くれの句のよろしけれ干大根
  よき友はものくるる友草紅葉
  つきかげのもつともくらき泉かな
  目の前の菜の花だけに雪降れり
    発病
  爽やかに俳句の神に愛されて                 『夜の客人』
  教会のつめたき梯子を拭く仕事
  水澄みて傷つきやすき銀の匙
  草の花その全量をもて眠る               『夜の客人』以後
  たたずめる我と別れて秋の風
  柿の冬年譜のなかの波郷の死
 
 それでも静かにせり出してくる「死」の意識は紛れもない。「指につめたし」に青春の匂いが宿っているとすれば、「つめたき梯子」には死の匂いが感じられる。「水澄む」の句では、草の中に落ちた梯子の影は明るい世界の表現であったのに対し、傷つきやすい銀の匙は自己存在の危うさに向けられた目が見つけたものであろう。清澄な老齢期への思いを馳せた「大花野」は、いま「草の花」となって「全量をもて眠る」以外にはない。年譜の中に見つけた波郷の死は、もちろん自身の死に重なる。そして、ここでの田中は、悟っているのでも諦念しているのでもない。ただ向き合っているのだ。
 こうして見てくると、「重くれの句のよろしけれ干大根」は不思議な一句だ。いわゆる有季定型の伝統派と言われる俳人は、もちろんその起源を芭蕉に求めるのであるが、山本健吉の論の影響下にあって「軽み」を是としても、「重くれ」を是とはしないのが一般であろう。まして田中の句の印象は「重くれ」には遠いように思われるからだ。
 しかし、田中の簡潔で清澄な文体の印象から、私たちが見誤っている問題がここにあるのではないかと思えてくる。それは何もテーマに「死」がせり出してくるからといった表面的な問題ではない。これは根本的な田中の俳句のスタンスの問題を言い得ているのかもしれないのだ。
 「彼はいつも、ただとても個人的なものを詠んでいたのだと思う」(全句集栞・「秋燕」)と、田中の日常を知る妻の森賀まりは述べている。もちろん俳人の過半はべたな日常を書いているのだが、当然その作品も日常の断片を書きとめたものに止まってもいる。田中は表現でそれを突き抜けているゆえに必要な森賀の言葉なのである。「重くれ」とは、田中のぶれないスタンスの構造の自覚だったかもしれない。
 
                                                                     目次に戻る


12


「津沢マサ子俳句集成」 林     桂


                                    


 二人の女性俳人の全句集が相次いで刊行された。『八木三日女全句集』(沖積舎)と『津沢マサ子俳句集成』(深夜叢書)である。
 大正十三年生まれの八木三日女は、戦後第一世代に属し、平畑静塔、西東三鬼門を出自とし、戦後の代表的な同人誌「雷光」「梟」「野盗派」「縄」を活動の場としてきた。現在「花」発行人であり、「海程」同人である。八木は、前衛的な立場から一貫して俳句活動を行ってきた数少ない女性作家である。俳壇的処遇は違っているかもしれないが、現在活動する女性俳人としては最後のビッグネームだろう。その軌跡が全句集となってまとめられた意義は深い。戦後第一世代の仕事を俯瞰できるように残すことは、現在行われなければならない大切な仕事の一つだ。本号では書評欄で取り上げるので、重複を避けるが、出版の意味は確認しておきたい。
 一方の津沢マサ子は昭和二年生まれ。八木とは三歳差で、ほぼ同世代である。年譜によると、八木が昭和二十年に俳句とかかわり始めたのに対し、津沢は昭和二十一年である。これもほぼ同時期と言ってよい。しかし、両者の作家としての印象は大きく異なる。俳句開始がそのまま戦後俳句の潮流の中に身を置くことに繋がった八木に対して、津沢が作家として知られるようになったのは昭和四十年代から五十年代にかけてであり、作家としては第三世代の印象である。
 八木が昭和三十一年に第一句集『紅茸』を出版したのに対し、津沢の第一句集『楕円の昼』は昭和五十年の出版である。また、『津沢マサ子俳句集成』は一九六九年(昭和四十四年)以降の作品を収録し、それ以前の作品は捨て去っている。四十二歳以降の作品のみを残しているのだ。一方の八木は俳句と出会った昭和二十年、二十一歳の作品から収録している。作品収録という視点で見れば、両者には二十四年の幅の違いがあるのである。
 「津沢マサ子」以前として津沢自身が遺棄した二十三年はどのようなものだったのか。ある時点で前半生の作品を惜しげもなく捨て去ることがてきるとすれば、その時点で俳句的な再出立を意識するような俳句観の転換や創出などの大きな内的変化があったと考えるのが一般であろう。津沢にもそうした転機があったのだろうか。
 「自筆年譜」によれば、津沢は、昭和二十一年から上京する二十五年まで「東火」(後藤是山主宰)に参加し、上京後は「四季」(古川克己主宰)「東虹」(大野我羊主宰)「断崖」(西東三鬼主宰)に所属し、継続して活動している。この間、三橋鷹女にまみえ、三鬼の指導を受け、三橋敏雄、小高弘達等と見知っている。津沢も、現代俳句の潮流に身を置く一人になったように思われる。しかし、三鬼他界の昭和三十七年には、創作活動を休止している。「東虹」の最後の投稿は三鬼の死よりも早い時期なので、三鬼の死が切っ掛けの休止というよりは津沢の活動そのものが先細ったようである。これからすると、劇的な何事かがあって前半生の作品を捨てさったというより、ついに今とは違う「津沢マサ子」に出会うこともなかったらしいという方がよさそうである。
 では、なぜ後半期に津沢の中に「津沢マサ子」は訪れたのだろうか。昭和四十二年に、「俳句評論」十周年の記念号を偶然読んだのが切っ掛けで、高柳重信の「産経銀座教室」に入り、翌四十三年には「俳句評論」に参加している。そして、句集に作品を収録する最初の年である昭和四十四年を迎えることとなる。この年、津沢は、「毎日俳壇賞」を受賞するとともに、様々な俳句コンクールに応募するようになっている。「俳句研究全国大会」「六人の会賞」「五十句競作」などで、これは現代俳句協会賞を受賞する昭和五十二年に止めるまで続くが、これも主体的な判断ではなく「高柳重信の言葉に従い」止めたものだと記している。津沢は、この時期に一投稿作家からやり直していたのである。思えば、確かに津沢の平明な文体は投稿作家のものであろう。飯田龍太や森澄雄の選に入る文体の幅を獲得しているのである。

  灰色の象の形を見にゆかん
  青空と荒野を愛し子を抱かず
  日向水かの渤海をさまよわん
  生まれきて夕べ父親の顔を剃る
  兄のあと追えばゆたかに青大将
  やさしい父の雑木林も秋となりぬ
  赤茶けしわが子の夏や鐘を撞き
  板の間にわれもわが子も居らぬ夏
  夏了るだいこんが煮えははが煮え
  一人二人と死んでは家を出る九月
  美しき日の白桃を腐らせる
  人体は渋紙色の昼下がり

 文体を標準化させながらも、津沢の描く世界はどこか虚無的である。死の側から生を見るような、感情のさざ波を収めてから世界を見るような透徹した視線だ。動物の象を見ないで「灰色」を見る視線には、象は「形」として見えてくる。社会的な認知の枠組みを組み直して感得するのが津沢の俳句だろう。そして、再構成の視点を、日々の個人的な感情から遠いところに持っているのだ。晩年意識とは違う、自分自身を含んだ失われゆく世界への挽歌の意識に突き動かされているように見える。後半生の作句エネルギーも同じ根にあろう。

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「寺山修司の俳句入門」 林     桂
                                  




 『寺山修司の俳句入門』(光文社文庫)が刊行された。編者は明記されていないが、解説を担当した齋藤愼爾氏が編集のみならず企画にまで関与したものと考えてよさそうである。寺山修司の俳論集であり、収集可能なものは網羅した本格的なものである。したがって、本来的には寺山自身の俳論による「寺山修司の俳句」入門書なのであるが、文庫本として広く読者を求める編集意図から、「寺山修司の」「俳句入門」の意味を掛けてのネーミングだと言う。また、「俳句入門」書の体裁を整えるために、齋藤氏による俳句ガイドの短文「俳句航海記」が各章の冒頭に挿入されて、「定型、季題、季語」から「同人誌、句集」まで八項目に渡って解説されている。文庫本で出すための偽装工作の感は免れないが、これも一人でも多くの人に寺山の俳句の本を手にしてもらうための方途と言えよう。実際、世に溢れている「俳句入門」書ではなく、この寺山の本を入門書代わりにして俳句にかかわる人が、一人でも二人でもいたなら、その意味は大きいだろう。本当に俳句を始めるときに必要なのは、手引き書ではなく、強い動機付けであろう。その意味でも、確かにこの書は「俳句入門」となる資格を持っているに違いない。かつ、この門から俳人が百人入れば、俳壇の風景は変わるかもしてないという思いまで浮かぶのである。
 いままでは寺山の俳文を纏めて読めるということがなかった。また、あるいは従ってというべきか、その作品に感化された人は知っていても、その俳論に影響を受けたという人は知らなかった。むしろ、寺山は俳論家ではないといった印象の方が強かったのである。言わば、寺山は俳句作品があれば、十分という思いが、私などにもあったように思う。
 いま、寺山の俳文を通読してみると、彼の作品は強い信念のもとに書かれるべくして書かれたものであったことを改めて痛感する。若ければ若いなりの稚気はあっても、俳句観がぶれていないという意味では、寺山は最初から作家と呼べる存在であったことは間違いない。
 第一章「俳句と何か」に置かれた「光への意志」は二頁あまりの短いものだが、俳句作家としての寺山、同世代のリーダーとしての寺山がともに見えてくる美しい一編だ。昭和二十九年十月の「牧羊神」第六号掲載のものである。時に寺山十八歳、「チエホフ祭」で歌壇へデビューした年でもある。
  
ふと名前は忘れたがーー狂って死んだフランスの詩人が こんなことを言っていた。「私は見たことを書くのだ。それが現実であろうがなかろうが、私が見たということにまちがいはない」
  ところで見たことを書く俳句は決して私小説ではないし、石田波郷氏によって固定づけられた俳句の「私性」的な宿命に追いつめられたものでもないーーと小さな断定を私が胸の中へ火のように育みはじめたのはつい最近のことである。見たことは在ったことと決して同じではない、ということは、考えてみるとひどく私らの力となりそうな気がしたからである。(略)
 (略)私らは在ったことではなく、見たことを俳句とし、つねにそれを私ら人生の「前」avanに置こうとたくらんだ訳である。つまり私小説は実生活のあとにあるが、私らの俳句は実生活の前にあろうという訳で、私らが美しい日々を送るために俳句は美しかるべきであろうし、尚思索的であるべきだろう。

 十代で示された寺山の石田波郷の俳句私小説論批判のスタンスは、波郷を敬愛しながら変わることはなかったのである。寺山自身の十代の俳句の方法を語りながら、同時代の俳壇の方向性への批判としても卓越したものであろう。かつ、「私ら」での語りは、それを同世代へ新たな方向性として示すという意図も明確である。更に言えば、高柳重信の代表的な論とされる「『書き』つつ『見る』行為」(昭和四十五年)の先駆けとしての意味を考えてよいかもしれない。
 「元来が定型詩は無名の文学である。それを私性という宿命を信じこむことによって何かとりわけ有名な文学であると思ってきた日本文学の保管人が、ここまで短歌俳句を追い込んでしまった。韻律をもったこの短詩は、なるほど対立の同時的表現ができない。また対立をもたない詩型では、どうしてもイメージも作者の限界を超え得ない。しかしそのことで『作者の限界を超え得ぬから、これは作者の個性的な皮膚製品である』と思いこむことはやはり傲慢なのだ。もともと個人的なジャンルにあってこそ、逆説的に作者が問題にならなくなる。作者はえらばれているのである」(「定型の喪失」)は、昭和五十一年の寺山四十歳の年の発言である。また、作中人物に仮託して書いた「ロミイの代弁」(昭和三十年)では「ぼくの誕生はぼくの作者の世界観とロマネスクが次元を超えて握手しあったところを馬小舎としている。歌人は、ぼくの歌をすべてぼくの作者の行為とうけとるから、それら作品の中で美しい行為をすることは自己に誠実でないーーとおしゃるのである。しかし断じてぼくの生活行為はぼくの作者のそれと同じではない。ただ共通しているのは世界観でありロマネスクである」と作品世界と作者の関係を述べている。寺山俳句に現出した翳りのない少年世界の希有さは、批評の確かさに裏打ちされたものであった。寺山俳句中の屹立した凛々しい少年は、ロミイであって寺山ではない。しかし寺山は「そこには私のアリバイがあったような気がする」(「螢火抄」昭和四十九年)と言う。やがてロミイだけが残るのだ。
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「林田紀音夫全句集」 林     桂




                                 
 『林田紀音夫全句集』(富士見書房)が、福田基の編纂によって刊行された。林田が生前認めた唯一の門弟・福田基の「俳人最後の仕事」(編纂後記)の覚悟をもってなされたものである。「編纂後記」によれば、林田紀音夫の全句集の刊行を最初に望んだのは、林田と日野草城の同門であった桂信子であり、その遺志を継いだ桂信子門の宇多喜代子の働きかけと協力によって、福田は先述の覚悟を決めたのだった。
 意外なことに、林田は生前に二冊の句集しか持っていない。しかも多作の作家であった。作品は殆どが未整理の状態のままといってよいものだったのだ。福田の「俳人最後の仕事」という悲壮感もあながちオーバーではない。宇多が持った、福田を失えば、遂に『林田紀音夫全句集』は存在しなくなるという危機意識もまたオーバーなものではなかったろう。
 福田は、二冊の句集『風触』(昭和三十六年)『幻燈』(昭和五十年)を巻頭に据えたあと、雑誌発表句を原則的に編年体で編み、続いて未発表句を同様に編年体で編む。発表句では、重複を厭わずに、二冊の句集に採録された作品を、*で『風触』収録、**で『幻燈』収録を示して再録している。また、未発表作品は林田の句帳から起し、福田の選に基づいて収録している。その選について、「『風触』以後の未発表作品は一万余句に及んでいたが、彼の俳人としてのプライドを擁護するために、できる限り、その類型を避けたつもりである。従来、すべてを掲載すべきであったが、筆者(福田・林注)が取捨選択した」「昭和六十年代以降の未発表作品の約七〇%は有季定型『花鳥諷詠』の作品であったが、出来る限り無季俳句を探し抽出した」と述べている。言わば、林田の俳人としての名誉を傷つけないための選である。未発表作品は基本的に作者林田の選外作品な訳で、それを作品の質を見ることなしに網羅するのは意味のないことだろう。「未発表作品の選をするとき、その責任感に昼夜、嘖まれた」という福田の誠実さを信用してよいのだと思う。「約一万句収録」と帯にある。労作と言える全句集であろう。
 その上で、気が付いたことを幾つか述べたい。発表作品については、同人誌等を網羅しているが、「俳句研究」などの総合誌発表作品への目配りと言及がないのどうしてなのであろうか。林田は総合誌には、初出となるべき作品を発表していないというのであれば(林田は重複発表の嗜好があることは福田が指摘している)、その旨の記述が欲しいところである。また、『幻燈』の最終章「綾とり」は、昭和四十五年から四十七年の作品となっているが、初出の雑誌発表作品を見る限り、昭和四十八年までの作品である。林田の「あとがき」が昭和四十九年十一月付であり、刊行は昭和五十年であるから、昭和四十八年までの作品収録に矛盾はない。四十七年までとあるのは、林田の過誤か誤植であろう。これは福田の丁寧な仕事が炙りだした事実である。指摘して訂正するべき発見であろう。しかし、その指摘をしないで、未発表作品において、昭和四十八年以降を「『幻燈』以後の時代」の未発表作品として纏めてしまっている。正しくは昭和四十九年以降からとするべきではなかったか。また、「年譜」の平成八年の項に「この年をもって句作を中止する」と書かれているが、「花曜」には、平成九年まで発表作品がある。作品から見ても、平成八年作のものを翌年に発表したもののように思われるが、これも誤解のないように一言欲しい気がする。また、福田が「ともかく句帳の中から既発表作品を探し出すことは、まるでパズルであった」と述べる如くこれは至難の業である。私も同様な作業をして誤りを指摘された経験がある。だから重複してはいけない発表句と未発表句の昭和五十二年に「いちにちの暗い切手を舐めて貼る」が目に止まったときは、福田の無念が我が事のように思われてならなかった。
 さて、林田の全容が示されるに及んで、私たちには何が見えてくるのだろうか。それは林田がペシミストであったかナルシストであったかを超えて、第一に戦後の社会をネガティブにしかイメージできない小市民の低唱であったことではなかろうか。金子兜太ら多くの戦後派が、後の挫折の有無は別にして、戦後をポジティブに捉えて出立したのであるとすれば、林田にはその声がない。この出口の見つからない思考回路は救いがないが、回路の存在自体が救済なのであろう。そして、長く戦後の思いの多くは、林田の声にこそあったのではなかったかとも思う。
 昭和六十年に、林田は福田に俳句が作れなくなったと告白したと言う。本当は作れなくなったのではなく、戦後が林田の声を必要としなくなったのだろう。そして、そのまま声を失った林田は誠実というべきであろう。このころから林田の俳句には明るさがさすようになるが、それを林田自身が受け入れられる自身の姿かどうかは別である。
  
  日の匂う髪しばらくは遊ばせる (未発表 昭和六〇年)
  樹の下を出て水音の方へ行く  (未発表 昭和六一年)
  サーカスに昼のさびしさ年の暮 (未発表 昭和六二年)
  樹々はみどり風にふくらむシャツを着て (海程  平成 三年)
  
 林田が「センチメンタリズム」(自作ノート『現代俳句全集』6)と評した若き日の自身の姿に近いと思う。この資質が戦後の簑を着て唄ったからこそ、その声が響いたのであろう。この全句集の後、林田は誰にも近しい存在だ。
 
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喪失と拾遺 林     桂

                                   


 「夢幻航海」(第五十九号)の裏表紙に、「高柳重信全集成目録」が載っている。全三十冊。遂に完結したのである。最初の『編集後記集(上)』が平成七年七月八日、最後の『研究資料高柳重信対談・座談会集(第九冊)』が、平成十八年三月三十一日付であるから、およそ十年半の歳月を要したこととなる。年平均三冊のペースで刊行を続けたのである。『編集後記集』上・下、『前略集成』上・下、『散文集成』十七冊、『資料対談・座談会集』九冊である。これは三十巻の構想があって、三十巻となったのではなく、継続の結果として成ったものであろう。編集の岩片仁次も三十巻の大部になることは、予想していなかったボリュームであろう。
 これらはすべて岩片仁次の手作りの印刷、製本の少部数発行であり、多くの人の目に触れることがないのが残念である。資料の収集はもとより、ワープロによる印字、印刷、製本まで岩片の独力で行ってきた。製作部数に限りのあるのはやむを得ないといえばやむを得ないのだが。ともあれ、最初から幻の資料集の様相ではあるが、高柳重信は戦後の俳人で最もテキストの整った俳人となったことはたしかである。この「全集成」こそ、真に高柳重信の死を悼み、その霊を鎮めるための墓碑であろう。限定部数は、それぞれ二十冊前後である。この二十冊からどのような高柳重信論が生まれてくるかが、次の課題であろう。岩片からテキストを渡された人たちの今後の責任になるだろう。
 岩片は、「本号、頁調整の都合でやむなく雑記二頁を書いたが、実のところ、昨年来、心身ともに急激に衰亡、一向に仕事がはかどらないし、原稿を書こうという気力、体力、思考力喪失。高柳重信関係の仕事もおおむね終わるにつけて、すべてが終末期を迎え、いわば、編者に残ったのは廃墟だけのようである」(編集後記)と書いている。大きな仕事を終えたときの、達成感というよりは虚脱感の中にいるのが分かる。もともと高柳重信の集成を始める時点において、岩片は病を抱えていて、悲壮な覚悟の出発と思われたので、完成以後の月日を思う余裕があったとは思われない。岩片の身を案ずるゆえんだが、「頁調整の都合でやむなく」書いた「雑記」には、次のような構想が語られている。
 ホリエモンの逮捕事件を枕に、彼の「金で買えないものはない」という哲学に対する世論の批判に対して、本当に金で買えないものは不幸であり、その不幸を買う志がない限り、誰彼の胸の内に「金で買えないものはない」という思いが眠っていることを自覚するべきだと言う。そして、自身、五千万円あれば、「紙飛行機屋俳句文庫」五〇冊を出したいという。これは戦中戦後に、俳句にとって本質的な仕事をしながら、巷間流布する出来の悪い雨漏りの激しい「俳句史」に落集されてゆく俳人を顕彰するための雨漏り工事の構想であるり、「隠された俳句史さえは、金があれば買えるのである」という思いである。岩片にすれば、俳句正史ともいうべきものだが、それは金で買うしかなくなっているとう現状認識がある。五千万円で買える岩片の幸せは、俳句史の不幸を物語るものでもあるが、岩片の幸せの在りどころが見えて切ない。高柳重信のために、無償の十年を送った人間の精神の在りどころと同じものであろう。
 ともあれ、五千万円に縁はなくても、次の課題が見えてきている以上、関係の資料整理くらいは始めるのが岩片であろう。課題喪失の虚無感の中に長居をする心配を、私たちはしなくてもよさそうである。岩片のような視点から、俳句を見ることができる存在は、本当に希有になってしまったのが現状である。思い切り岩片らしい人選で、それゆえに俳句史の雨漏りを補修する根元的な仕事になるはずである。
 同号に、坂戸淳夫が小川双々子の追悼を書いている。私たちは、「戦後俳句」の喪失期に立ち会っているのだという実感は、時評集『俳句・彼方への現在』を纏めるときに強く時実感したことだが、喪失はまだまだ続いているのである。坂戸は、終刊号である「地表」(第四十三巻七号)の「この命のふしぎ秋茜宙に」(小川双々子)を引いて結んでいる。
 この一月には「青玄」(伊丹三樹彦主宰)も終刊した。これによって、戦後俳句を牽引してきた代表的な雑誌が、関西では殆ど姿を消すという事態となったのである。思いつくままに挙げても、「天浪」(山口誓子)、「環礁」(加藤かけい)、「琴座」(永田耕衣)、「草苑」(桂信子)、「花曜」(鈴木六林男)、「地表」(小川双々子)、「青玄」(伊丹三樹彦)といった、山口誓子、日野草城の系譜の雑誌が見事に消えることを選択した。また、若き「ゆう」(田中裕明)も終刊を選んだ。思えば、田中の師・波多野爽波の「青」も、「ホトトギス」系にあって終刊を選択している。俳壇的有力誌となった場合、誰彼が継承し発行を続けるのが俳壇の趨勢であってみれば、関西の俳誌の発行者及び継承者の選択は際立って見える。有力な同人たちは、無所属の単独者として活動を続けたり、少人数の同人誌を興して活動を続ける道を選らんでいる。表現者個人として、関西人は自立と覚悟がそれだけできているとでもいうのであろうか。
 ともあれ、その潔さに敬服しつつも、寂しい風景を思わずにはいられない。単なる更地になってしまったのでは、あまりにも寂しい。岩片の仕事のように、その存在の意義と意味を顕彰し、語り継ぎ、資料に留める仕事が今後不可欠であろう。潔く消えた存在の方が、俳句にとって本質であったということは逆説でも何でもなくあり得ることなのである。

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黒田杏子の三冊 林     桂


                                  


 黒田杏子が一ヶ月ほどの間に三冊の著作を刊行し、旺盛な活動ぶりを見せている。刊行順に『金子兜太養生訓』(白水社・十月十日刊)『花下草上』(角川書店・十月三十一日刊)『俳句列島日本すみずみ吟遊』(飯塚書店・十一月十日刊)の三冊である。そして、それぞれ方向性が違う。
 『花下草上』は黒田の第四句集で、平成六年から十七年の八百句を収める。各年より一句引く。

夢深く山火の音を曳き寄せて          平成 六年
雉子の巣のいくつもありて火の匂い      平成 七年
櫻鯛彗星の尾のつめたけれ           平成 八年
身の奥の鈴鳴りいづるさくらかな         平成 九年
一匹の蝉全島の石乾き              平成 十年
ほうたるの香のまつはれる草を刈る      平成十一年
献杯や山芍薬に夜の影              平成十二年
なほ残る花浴びて坐す草の上          平成十三年
みちのくの風の名残の花筏            平成十四年
瀧落ちて月光那智にあふれしむ         平成十五年
花冷や父に一献母に一燭             平成十六年
涅槃図をあふるる月のひかりかな        平成十七年
 「花下草上」は、花鳥風月を自分の世界と思い定めた黒田の心の立ち位置を示した言葉に他ならない。この一書は「花冷」の句にも示されているように、亡き父母に捧げられたものである。そして時には「月祀る師あり父母亡し子孫なし」とも自身の境涯を詠む。しかし黒田の思い定めは「父母亡し子孫なし」にあるというよりは、「師あり」の方にあろう。「花に紛れ闇に紛れ我に逢はむ」こそ黒田の思い定める世界である。この句集には生活者の匂いはない。あるのは「花下草上」にすべてを捧げる精神の匂いである。ここで男女を云々はしたくないが、ここまで生活者をうっちゃって精神を徹底させた同時代の男性俳人は残念ながら思い当たらない。
 「あとがき」によれば、「西國吟行」(西國三十三観音札所)「西國遍路吟行」(西國八十八所)「坂東吟行」(坂東三十三観音札所)「日本列島櫻花巡礼」「日本列島残花巡礼」と自身で名付けたプログラムを、最長のもので二十七年間も継続している。現代において風狂であろうとするならば、長期的な計画と粘り強い実行力こそが不可欠であることを知っていた最初の俳人が黒田杏子だったのかもしれない。現代で破綻することなく生活者をうっちゃることは、それだけで相当な力業である。軽々な瞬発力のなせる業ではないのだ。
 『日本列島すみずみ吟遊』は、その「あとがき」に「この二冊は私の行動と活動を示す表裏一体の著作」と述べるように、俳句と旅にまつわる随筆と、黒田が聞き手を務めた「達人」十一人との対談をまとめたものである。この中では「達人対談」はやや異色である。「家庭画報」の企画対談をまとめたものだ。そのため深く踏み込んだ内容になるには、やや分量的に不足している感が否めない。それでも黒田と交流の深い「達人」たちのものには、聞き手として『証言・昭和の俳句』をまとめた黒田の資質のよさが伺える。しかし、人選に黒田の意志がどれだけ反映されているか不明だが、養老孟司、小柴昌俊の対談には息苦しい感じは残る。
 中では、澤地久枝の「私、やっぱり女の人たちは聡明である必要があると思うのよ。皆、美しくなることに一所懸命で、それはそれで大事なことだけど、でも考えることを身につけないと、子どもたちは賢くならない」「今、私たちが生きているこの時間は、死んでいった人たちが触れられなかった未来なんですよね。そして今、次なる未来を用意する人間として私たちがあると考えると、責任重大だなと思うんです」の言葉が印象的だ。発言は、イラク戦争を支持した政府の選挙民としての自己批判だ。今回の衆議院選挙以前の発言である。はからずも、都市部を中心としたバランスシートとしての無党派層が、それほど「聡明」ではなく十全に機能しなかったことを知った後でこの発言に出会ってみると、暗澹たる思いは深い。何者かが確実に壊れたのを思い知るのである。
 『金子兜太養生訓』は、黒田の著作というよりは、金子の著作といってもよいもので、黒田は聞き手に徹している。『証言・昭和の俳句』の手法が援用されており、金子兜太に学ぶ養生訓仕立てになっていながら、金子による金子兜太論となっている。黒田は金子の日常をよく引き出しているが、それは金子も日常において長期的なプログラムと粘り強い実行力を持っているという意味で黒田に共通するものがあるからなのかもしれない。いや、黒田の資質あってこそ金子の「養生」に引きつけられたのかもしれない。今まで誰も金子のこのような日常に興味を示した者はいなかったのであるから。
 金子は「荒凡夫で生きる、長生きすることだけしか私には能はないと割り切っているのです。長生きしたいのではなく、私の生存している価値は長生きをすることだけだ」という価値実現のために様々なプログラムを自身に課し、ストイックなまでにそれを実行している。一日二回の点眼とトイレ、きちんとした服薬。惚け防止の日記、立禅(身体に負担をかけないために立ったままでする瞑想)。電車に乗り遅れても走らない、深夜トイレに立たない(溲瓶を用意)等々。傍目には臆病に思えるほどの用心深さと実行力を兼ね備えたのが金子なのである。また、この「養生」ぶりを、金子兜太論に終わらせないで、「養生訓」にできる資質が黒田杏子なのである。うっちゃるための日常にも長期プログラムは必要だ。

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「伯爵領」の最後の一句 林     桂


                                  


 この夏、高柳重信ゆかりの二寺に句碑が建立された。一つは法光寺で、「月光旅館/あけても/あけても/ドアがある」の句を刻んだ。寺に伝わる高柳重信の短冊より起こしたものである。もう一つは福寿院で、「船焼き捨てし/船長は//泳ぐかな」を刻んでいる。こちらは岩片仁次氏所蔵の高柳重信筆より起こしたと聞く。ともに群馬県伊勢崎市にあるお寺である。福寿院は高柳家の菩提寺で、高柳重信の母の生家でもあるから、周知の方も多いことであろう。法光寺は、建立者の住職松本寧至氏(二松学舎大学名誉教授)に依れば、松本氏の父が王土と号する「薔薇」同人であり、その関係で高柳は法光寺を訪ねていたのである。しかもその地は、多行形式の俳句の「提議」と実践を行った「群」(第三次)の復刊の発行所となった高柳の疎開先のごく近くであった。松本氏も若き日の高柳の散歩姿を目撃したという。
 正直に告白してしまえば、碑に句を刻む意味について、私はよき理解者であるとは思えない。人類が、時の彼方にまで何事かを残したいという強い思いに動かされたとき、長い時間に耐えうる身近で堅強な対象は石以外になかったことは間違いないだろう。そしてその願いを聞き届けるべく多くの碑が残っているのも事実である。今、高柳の二句もその強い思いを受けてここに刻まれたのである。その思いに共感しながらも、碑という形式の余命には懐疑的にならざるを得ない。現在の私たちは、碑の未来が碑の過去と同じであると思うことができないところまで来てしまっているからである。
 しかし、こうした思いのエネルギーの展開は思わぬことを掘り起こしてくれる。その意味では意義は大きい。今回は「高柳重信と法光寺重信句碑のしおり」と副題のある小冊子「月光」(高柳蕗子編集・松本寧至発行)がそれである。先の松本氏と法光寺の紹介もここから引いたものである。
 重信の弟・高柳年雄氏は「掠れゆく思い」で、次のように述べている。

僕にとっては忘れられない兄の作品があります。『伯爵 領』の最後にのっている次の作品です。
     ●●○●
     ●○●●○
     ★?
     ○●●
     ―○○●
じつはこれは、僕が校正のときに思いつきで勝手に入れたものです。叱られるかなと思ったのですが、兄は何も言わず、そのまま黙って印刷に回してくれたのです。兄の僕に対する思いやりであり、最上のプレゼントです。

 年雄氏は「兄の作品」と言っているが、「作者」は年雄氏であり、重信が自分の作品として句集掲載を黙認したことで、「重信の作品」となったという知られざる経緯を述べているのである。重信によって書かれ、重信の意図によって掲載されたことを前提に読んできた者にとっては、衝撃的な告白である。
 さらに「あの時代の句集は、今、どこにいってしまったのか。お互いに黙って認め合った時代‥‥‥、二度と帰ってはきません」とも述べている。「あの時代」は『伯爵領』が刊行された昭和二十七年前後の雰囲気を指していっているのであろう。これは、先鋭的に俳句の表現を切り開いてゆこうとする試みが、「作者」の個人意識を超えた「創造の場」の共有意識に支えられていたことを証言するものでもある。多行形式の俳句は、重信という書き手の成長をまってその姿を俳句の歴史に刻するのであるが、「群」による多行形式の「提議」や同人達の試行からも明らかなように、戦後時代の青年達が参画した俳句革新のひとつであった。そこには個人の創作を先立てながら、「場」の共有意識が濃厚に漂っていたようである。そして、それは『伯爵領』の時代まで濃密に残っていたことを証言するものなのである。いや、『伯爵領』こそ、その時代を反映してなった一巻というべきであろうか。
 菱山修三は既にその序で「一精神の真剣なメタモルフォーズは一見だじゃれや出鱈目を介せずには実現されない」と述べていた。口絵に「伯爵領案内絵図」まで付すこの一巻は、前句集『蕗子』と作品重複が見られることからも明らかなように、句集として『伯爵領』構想が先行してあったのではなく、書き継いだ作品が自ずからその構想をもたらしたというべきものであったろう。ゆえにその過程に発行人であった年雄氏が参画する余地もあったのである。掲句は、唯一絵図化されていない「領内古謡より」とされる巻末八句の最後の一句として置かれている。この「領内古謡」の作品群は、「やまもとあつこ」を折り句とした作品や「さようなら/私は/十貫目に痩せて/さようなら」からも判るように、領主大宮伯爵(高柳重信)の内面や身体にかかわる問題が古謡となって伝わっていると構想されているものである。ゆえに掲句は句集の文脈としては、「古謡」の一つとして読まれることを期待されている。そして、他の句が大宮伯爵の存在を古謡化して伝える文脈を獲得するなかで、この句はその意味が失われた唯一の「古謡」として存在する。それは大宮伯爵の真に秘すべき伝ゆえかもしれず、または他の「古謡」が紛れたものかもしれず、あるいは大宮伯爵より古層の「古謡」かもしれないのだ。ただ、大宮伯爵の伝を絶対化せず、相対化する大切な役割を負っていることは間違いないだろう。

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田中裕明と「ゆう歳時記」 林     桂


                                  

 昨年十二月に亡くなった田中裕明主宰の「ゆう」が、四月付発行の通巻六十四号をもって、五年の活動を終えた。この終刊号は至ってシンプルである。「ゆう歳時記」と「ゆうの言葉」からなり、間に田中裕明の一頁エッセイ四編をはさんだものである。「ゆうの言葉」は田中の会員句の選評であり、「ゆう歳時記」は「ゆう」に発表された田中の句と「ゆうの言葉」に田中がとりあげた会員句を歳時記に編集している。
 山口昭男の編集後記の「樫の木だより」によれば、「ゆう」が終刊することで失われる「場」を止め、確認するための方法であるという。その方法がこのようなシンプルな姿になったことは興味深い。確かに、今後田中の全集や全句集が発行されたとして、「ゆうの言葉」が収録される可能性は低いだろうし、まして会員の作品がこの「場」を於いて今後集められることはないだろう。しかし、その方法がこのようなシンプルな姿になるには、「ゆう」という雑誌の性格が預かって大きいだろう。「ゆう」は同人の自選欄を持たずに、すべて田中の選による掲載の形をとっていた。田中の作品と、田中による選句作品、そしてその選評。言わば、「ゆう」そのものが、最近まれなシンプルな雑誌だったのである。
 したがって、「ゆう歳時記」は、田中裕明の俳句世界を見るのに好適なテキストでもある。田中の句と田中が佳作とした句で構成されているのだ。そして、歳時記の編集は、田中の嗜好とその作品の偏在をあぶりだすことともなっている。
 たとえば、田中が最も好んで使った季語は「時雨」(初時雨を含む)で十二句ある。
   一輪の火を焚きてある時雨かな    裕明
   しぐるるやおどろきやすき兎耳
   大学と病院つなぐ時雨みち
   しぐるるや京に黒谷鹿ヶ谷
会員の作品は五句。「火のいろの澄んできたりし時雨かな」(麻)など。田中の「一輪の火」の句に触発された作品とも思われるが、裕明の作品と言われれば信じてしまうだろう。
 次ぎに「春」と「桜」が十一句ある。
   とりどりに幼なの編める春の紐    裕明
   春の影硝子の部屋を出てゆけり 
幼子の包帯頭桜散る
会員作品は「春」が四句「桜」が七句。因みに「桜」は別に「花」として四句あり、会員作品は十四句で裕明の作品数に勝る。「桜」派の裕明、「花」派の会員という構図である。
 続いて八句が「雪解」(会員六句)「秋」(同五句)、七句が「八十八夜」(同一句)「雛」(同九句)「夏」(同一句)「蟲干」(同五句)「墓参」(同四句)「燕帰る」(同七句)。
   大いなる闇ある國の雪解かな     裕明
   秋すでにをとめとなりし水遊び    
   ランドセル八十八夜のぬくみあり
   黒髪の根よりつめたき雛かな
   みづうみのみなとのなつのみじかけれ
   我よりも古き本なし曝しけり
   湖國とや墓を洗ふに水鳴らし
   顔に日の當つてをりぬ秋燕
「夏」「秋」はともかく、「八十八夜」「蟲干」「墓参」「燕帰る」などに、田中の嗜好の方向性は見えてくるだろう。尤も「冬」を除いて「春」「夏」「秋」が上位にあるということは、それはそれで注目すべきかもしれない。因みに「冬」は四句(会員なし)である。会員との比較で見ると、会員は「春夏秋冬」の表現が多くないのが目を引く。作句数はあっても田中が佳句と認めなかった可能性もあるのだが、むしろ「ゆう」中での田中の表現の方法の特徴が見えよう。
逆に田中に作品はないのに選句作品は多いのが、「涅槃」(六句)、「花野」(四句)、「菊」(七句)、「小春」(六句)、「綿蟲」(九句)など。どれも大きな季語だが、田中は選んでも自身は作句しない季語である。これにからめて見ると、『日本大歳時記』で山本健吉によって「基本季語」とされたような大季語の作例が比較的少ないのも、田中と「ゆう」の特徴のように思われる。たとえば春では、「春浅し」一句、「冴え返る」〇句、「春暁」一句、「春の日」一句、「春一番」一句、「風光る」〇句という具合である。「夏野」「秋の暮」もない。では、現代生活が生み出した季語の用例は多いかというとこれも少ないのである。「バレンタインの日」一句、「大試験」一句、「入学」一句、「クリスマス」一句などで、後は押して知ることができるだろう。
 田中は掲載のエッセイで、「日本語というのは、使えてあたりまえ、空気のような存在かもしれません。しかしながら、無意識に並べて美しい日本語になることは、まれです」と言い、虚子の「ぢつと眺め入る事」「ぢつと案じ入る事」を評価して「客観写生や花鳥諷詠といったスローガンをかかげる前の虚子の素のすがたがあらわれています」と述べている。「ゆう歳時記」の作句例の偏在は、日常茶飯の記録性の中にも、古典的な季題趣味の中にも、田中と「ゆう」の俳句はなかったことを裏付けるものかもしれない。誤解を恐れずに言えば、田中と「ゆう」は、貴重な現代の高踏派だったのだろう。「田中は『古典』を教養としてではなく、自己の俳句技法として取り込み、従順に俳句作法に従い、『現在』の俳句を提示した」(堀込学)という評は的を射ているだろう。田中の書架には、「我よりも古き本」はなかったのである。
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復本一郎「俳句とエロス」 林     桂

                        



 復本一郎の『俳句とエロス』(講談社現代新書)の読者への視線は、俳句に関わる人の外に向けられたものである。明確に一般書を意識して書かれたものであり、文体もそのように選択されている。「相変わらず、一部の人々からは、俳句という文芸は、敬遠される傾向にあるのではないでしょうか」(はじめに)と書き起こす。俳句に対して固定観念を持っている人々に、固定観念を払拭するために書き下ろしたもであると言うのだ。人々の固定観念の例として、俳句は「わび」「さび」「花鳥風月」を詠む文芸だといったものを挙げているので、復本が想定する読者も想像がつくであろう。その固定観念を払拭するテーマとして、復本が選択したのが「エロス」である。確かに、例示の固定観念を払拭するには、このくらいの距離感が必要であろう。
 そして、この距離感の取り方によって、この一般書が単なる俳句入門書とはならずに、俳句や俳句史の問題にとっても貴重な提言を持つものになっている。俳句の問題で言えば、日野草城の再発見と再評価の書という側面を持つものとなっているのである。
 復本は最初に「エロティシズム俳句」とは何かを、提示するところから始める。類似概念の「艶笑俳句」「恋愛俳句」「破礼句」(川柳)との違いを述べるのである。
 「エロティシズムとは、『人をひきつける性的魅力』としての、日本語の『色気』に近い言葉ということになりましょう。ただし、あくまでも「色気」であり、恋愛、情事としての「色」とは区別されるべきでしょう。『色』(恋)の対象が特定されているのに対して、『色気』(エロティシズム)の対象は、不特定の人々に開放され、限りなく美的様相を帯びているわけで、これが『色』(恋)と『色気』(エロティシズム)との大きな違いでありましょう」と述べた上で、「恋」については、江戸期の俳諧に於いてもすでに大きな関心を持たれており、『百羽がき』(蓼太編・天明三年刊)という「恋」の発句集があることを指摘している。また、また明治期には『恋愛俳句集』(安藤和風編・明示三十七年刊)があるとも言う。
 しかし、これらは和歌の部立の「恋」を意識するところから始まり、フィクション、ノンフィクションを問わず(和歌からの伝統意識が、フィクションの数を増やしていたようだ)、「必ず特定の相手が想定されて」いるもので、「恋愛」美はあっても、エロティシズムを感じさせるものではなかったことを、復本は実際の句を検証しながら述べている。
 一方、大正期に熊谷無漏によって編まれた『艶色句選』(大正四年)は、「エロティシズム俳句」を企図する最初のアンソロジーと考えられるが、「恋愛俳句」「艶笑俳句」(川柳「破礼句」の俳句版)が殆どで、作品的に成熟していないものであることを、これも作品を通して検証する。
 かくて、「エロティシズム俳句」を自覚し、作品のレベルで具現したのが、日野草城であったと、復本は言う。そして、これは俳句が「エロティシズム」というテーマを獲得するとともに、それを日野草城が可能にしたという俳句史的な整理に他ならない。「女人を中心とする広汎肥沃の詩野を、芭蕉以来の作家は殆ど全然といってもよい位閑却してゐた。これは実に不思議といふほかはない」という創始者草城の言葉を引いて、これの裏付けとしている。
 日野草城は、俳壇的な評価では必ずしも恵まれている作家ではない。飯田龍太は「俳人として、生得の天分ということになれば、草城氏は、近代俳句史の中の五指に入る存在」としながらも、「総じて詩歌の世界では、評論の対象となり易いひとと、なり難いひととある」と言いう(『日野草城全句集』栞)。もちろん、草城は後者である。確かに、新興俳句の作家としては最初期に位置しながら、俳壇的な評価が最も遅れている感は否めない。
 では、なぜ、草城は「なり難いひと」となってしまったのか。龍太は「生得天分を持ったひとは、その初期から完璧な表現をとる。かつまた、発想のプロセスを見せない。凡百にはつけ入る隙がないのだ。このようなひとは、一見大衆に迎えられるように見えて、いつか別座敷に置かれる不幸を持つ」と述べている。草城が俳壇的に世に出たのは、新興俳句の起点にかかわった水原秋桜子や山口誓子よりも早かったというのも、後世が俳壇的に展開を整理する中で、草城の扱いを難しくしている要素としてあろう。また、第一句集『草城句集(花氷)』は、昭和二年に刊行され、秋桜子の『葛飾』(昭和五年)に先んじている。かつ、二千句を越える膨大な数であり、新興俳句が編年体、テーマ句集へと進む中で、季題別編集をとてっており従前の句集編集の方向性を残したままとなっている。『葛飾』を一つのエポックとするとき、それに先んじていることは、ここでは旧世代の句集として扱われ、俳句史的にはマイナスに働くこともあろう。かつ、「ミヤコ・ホテル」連作俳句の論争を通して、草城の素材主義的な側面が印象的になり、作家への視点を持ちにくくさせてきたろう。
 ともあれ、明確な評価軸の提示をともなった草城像こそ、今日の草城に必要なものであったことは間違いない。草城は、多くの引き出しを持った作家であることは確かであろう。その引き出しを引く作業の最初の意味を、今回の復本の仕事は持っていそうだ。入門書にとどまらない意味を持つといったゆえんである。
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沖縄の視界ーー平敷武蕉の「花鳥諷詠」批評 林     桂


                                   



 沖縄から発行されている俳句同人誌「天荒」(野ざらし延男代表)連載の平敷武蕉「文学雑感」は読み応えがあり、以前から注目してきたが、二十号に「俳句批評は成立するか」を書いて、「有季定型」の問題に深く切り込んでいる。
 地元の文芸誌「うらそえ文芸」の「俳句と短歌」の特集を手がかりに、その座談会の出席者の一人である久田幽明の発言(それはオリジナルというより高浜虚子の最後期の俳句観のコピーなのだが)の根拠を問おうとするものである。ここで平敷が問題にしているのは、高浜虚子の「花鳥諷詠」は勿論であるが、それが例えば久田の発言のようにコピーされ流布するのは何故かということである。
 平敷は、虚子の『俳句読本』の昭和四年の文章によって「花鳥諷詠」を確認しながら、それが師の正岡子規の俳句観とずれて虚子によってなったものであることを、「俳諧大要」(明治二十八年)を引きながら確認している。また、虚子が「季語といふことは、かへすがへすも俳句に於いては大切なことでありまして、季題を借りて、季題を通して、感情を詠ふものが俳句であると云ふことが、根本の出発点であります。俳句といふものが初まつてから、四百年になりまして、其間種種の変遷が有りはしますが、要するに季題を詠ずるといふ事は、終始一貫した事であります」と、四百年の伝統として大風呂敷を広げて見せた「季題」「季語」の概念成立を、「季題」語の初出を明治三十六年の森無黄、「季語」の初出を明治四十六年の大須賀乙字であると押さえることで喝破する。その上で、「花鳥諷詠」の成立要件を、松井利彦の論を援用しながら、次のようにまとめている。  
さて、ここで、松井氏は重要なことを指摘している。その一つは、虚子の花鳥諷詠が、昭和初年頃に唱えられたものであるということであり、二つ目は、それが、西洋近代文学の潮流とその影響を受けて台頭しつつあった新傾向俳句運動に対抗して打ち出された一つの俳論に過ぎないという事実である、三つ目は、それゆえに、俳句の内容を、純日本的で日本の季節の現象を詠うことに限定し、人間を扱うことを排除していったということである。
 四百年ではなくて、実は七十数年の伝統しかない虚子個人の俳論が、それでも俳句形式の必須条件であるかのように流布するのは何故か。
 平敷は、宇多喜代子の「無季俳句という季語のない俳句をつくってみるとわかることは、季語という特別な分身を持つ言葉をつかう俳句は、なんと多くを季語に助けられているかということである」「私の季語に対する愛着は執拗で、使用に関しては保守的で、かなりリゴリズムである」「季語は旬の思想であり、その季語を集めた歳時記はこの国のミニ百科事典なのである。簡単に捨てられるものではない」(「季語の行方」・「国文学」二〇〇一年七月号)を引き、ここに「今日の季語信仰者の大かたの意見」を見る。そして、「特別な分身を持つ言葉」こそ根底的に疑うべきものでありながら、かつ「季語にまつわる様々な矛盾や疑問について、重々承知している」のに「季語に呪縛され季語にしがみついている」のは何故かと問う。
 平敷は「特別な分身」の正体を「天皇の住む王権の地の季節感と伝統的な美意識」であるとして、「季語崇拝が今日では既に虚構であり、ないのをあるかのように思う感覚は、実は、万世一系の神話を前提として象徴天皇を支える秩序感覚と根っこのところでつながっている」「つまり、幻想的な共同性を求める意識においてつながっている」「従って、季語幻想の呪縛を断ち切るには、国家論を視野に入れなければかなわないことであり、季語信仰はそれだけ国家意思に根深くからみ取られている」と述べる。
 その上で、竹田青嗣の「人間的自由の条件」(「群像」八月号)の「国家とは、単に『政治的統治』の権力とそれに対抗する勢力を抑圧する実力(暴力)の装置によって支えられるだけではない、もっと重要なのは、国家が、その権力と制度の『自由性』と『正当性』の幻想をたえず作り出す、教育をはじめとする全体的なイデオロギー装置によって支えられているということである」を引いて、「国家が『幻想』を作り出すイデオロギー装置によって支えられていて、その真っ先に『教育』が上げられていることについては、注目する必要がある」と述べ、「一つの俳句観に過ぎない虚子の花鳥諷詠が、今日なお、俳句界に跋扈しているのは、教育を通したイデオロギー操作によって、季語幻想がたえず作り出されていることが大きな要素の一つとなっていると思える」とする。
 篠原鳳作が無季俳句に歩を進めるのに預かって大きかった、歳時記が準拠する「京」の季節感と大きく隔たった沖縄の風土もさることながら、琉球王朝の地ゆえによりよく見える季語の問題があるのだろう。大城立裕氏が、テレビ時代劇「水戸黄門」の沖縄漫遊の企画があったが、沖縄は「葵の御紋」の統治下になかったので、印籠が通用しないために頓挫したと語るの聞いた。真偽のほどは確かめようもないが、沖縄の文化と位置を解りやすく語ったものとして心にとめた。平敷の論に接すると、今も沖縄文化は俳句を照らす前衛の地であるという思いを強くするのでる。
 折しも、『層雲自由律90年作品史』(層雲自由律の会)が、伊藤完吾編で刊行された。新傾向俳句の潮流を汲む「層雲」(荻原井泉水創刊)の明治四十四年からの九十年に及ぶ作品史である。
 
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大岡頌司の中の川尻 林    桂

                                
 
 
 『郷土出身の俳人大岡頌司、故郷かわじりを詠む』(大岡頌司君をしのぶ会)が刊行された。非売品で「郷土史料」とあるので、俳人で手にした人は限られるであろう。
 筆者は、幸いにも大岡晶子夫人を経由して一本を恵まれた。
そして、大岡夫人の添え書きには、「このたび同郷の竹馬の友である山田喜七氏が、このような小冊子を編みましたのでご参考に供したいと存じます。大岡頌司の処女句集『遠船脚』は、四十数年前、氏の篤志により日の目をみました。そしてこの八月大岡頌司の句碑が建つなど、亡きあとも種々の労をとって頂いており、まことに因縁浅からぬものを感じております」とあった。
 ここに添え書きを採録したのには二つの意味がある。一つは、『遠船脚』刊行者の山田喜七という未知の人物が大岡頌司の「竹馬の友」であったことが、これよって筆者には知れたのであり、大方の俳人にとっても事情は大きく変わらないだろうと思われるからである。二つ目は刊行された書物には著者名として個人の名が載っていないからである。この添え書きがなければ山田喜七氏の著作であることは分からないのである。是非とも書き留めて置かなければならないと思った所以である。
 「私は俳句は一句も作ったことがなく、歳時記を一度も読んだことがない」(あとがき)山田氏ゆえに、大岡作品へのスタンスは逆にしっかりしている。大岡頌司の句碑をその故郷(呉市)川尻町に建立するに際して、川尻町に関係のある句を生涯作品千八百余句から探し、百十三句を得た。結果としてその中から「遠船脚母は浅蜊を掻きをらむ」を句碑としたのであるが、残されたこれらの句から「大岡頌司の句の特長や、故郷への思いが読みとるのではないか。分類した句を一表にして川尻の人々に何らかの方法で示すことができれば、大岡頌司のことを知らない人々にも理解してもらいやすくなるのではないか」と思うようになり、やがて「それらを分類して眺めるうちに、東京周辺の彼の俳友は勿論、晶子未亡人でさえ、川尻特有の地名や方言などについては、理解できないでいるのではなかろうかと思った」(あとがき)ことで、この著作の企画は立ち上がったのである。ゆえに抄出句百十三句について、山田氏には川尻町との対応関係で大岡作品を読み解くことができるという揺るぎない前提がある。当然この前提は時に山田氏を苦しめることになる。時に「作者に兄はいないから、恐らく従兄のことを指すと思われる」(「鯔を釣る兄には見えず晝の月」)と解釈したり、「理解できない句」と述べたりしなければならなくなる場合が出てくる。大岡の虚構に苦しめられているのだ。しかし、この誠実な姿勢と限界の明示がこの著作では大切な情報となっている。それは基本的には、一読手に負えないと思う句の幾つかが、山田氏の指摘によって鮮やかに解き明かされているからだ。これは川尻町を知っていなければどうにも辿り着けそうもない解釈であり貴重なものばかりである。しかしそれゆえに、山田氏のテリトリーで解釈可能な領域がどこまでなのか確定する必要があり、この誠実な姿勢と限界の明示が自ずからその領域を示すこととなっているからである。
 その指摘を幾つか引こう。「『たうけん寺』とは、稲恵(とうけい)神社が訛って『とうけんじ』と呼ばれている川尻町のほぼ中央にある祠の名」(「たうけん寺の五つの穴に挿す尾花」)。「川尻町から野呂山への登山道は枝道を除くと昔は東の尾根道、中央の尾根道、西の谷を登る道の三道があった。今登山道といして整備されているのは、西の谷から中央の尾根道へ登る道のみで、他の道は今は殆ど人が通らなくなって藪道になっていると聞く。『重箱』とは中央の尾根道にあり、一般に重箱尾根と呼ばれている地名」(「尾根径の重箱をゆく馬酔木かな」)。「づのはロープのこと。こまを廻すロープの先が太いと針(しん)に巻きつけにくいので、そこを細くし少し湿気を帯びさせると巻きやすい。子供の頃はそこをなめて湿気を持たせた」(「もう独楽は飾らじづのもなめざりし」)。
 山田氏の領域の外にあると思われるものも幾つか引こう。「五歳まではかの春蘭に育てらる」について、「春蘭」は「祖母」のことだと言う。それは「生母は彼が一歳四か月のときに死亡。それから学齢期まで祖母の手で育てられた」という大岡の出自を知っての指摘である。なぜ春蘭が祖母なのか。山田氏は「祖母と表現すると必ずもう一語、季語が必要となる」ため「祖母が四月二十一日に死亡したことに関係」し「春蘭は、春咲く花の中で、生前祖母が愛していた花か、あるいは生前の祖母のイメージに似ているものとして選んだもの」と推測する。「有季」のみを俳句としない大岡氏の方法を考えれば、前提から山田氏は間違っているだろう。「春蘭」は第一義に大岡の表現欲求の問題として選択されたと考えるべだ。しかし、山田氏の祖母との関係の指摘は、大岡の作句工房を垣間見る貴重なものであることは間違いない。春蘭の異名は「爺婆」である。祖父母に育てられた経験が、この句の裏事情にあることを我々は知ったのである。「九枚笹はちまき屈原に兄あり」の「屈原」を「野呂山」と解釈するのはいかにも苦しい。屈原は人名で屈平と見る以外にないだろう。屈原には粽に纏わる伝承があることからも明らかだ。ただ九枚笹はその山麓に自生しているという指摘は貴重だろう。「もがりぶね沈めし父の螢かな」「天網をつくろふ膓ぐり針」の「もがりぶね」「天網」も誤解だと思われるが、すでに紙数が尽きた。今は敬意を持って指摘するに留めたい。
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著作権と俳句 林     桂
  
                                    
 
 
 ある著作権の講習の場で、よく見聞する「無断引用」という言葉は概念矛盾でありえない言葉だというのを印象深く心に止めた。「引用」とは、一定の範囲で著作権者に断ることなしに行えるものとして認められたものであり、言わば「無断」が原則だからだという。「引用」の範囲では著作権者の権利が制限され、著作権者にいちいち許諾を求める必要がないのである。一般に「無断引用」と言われるのは、「盗用」のことであり、これは著作権者に断っても許されるものではない。つまり、他者の著作を自分の著作であるかのように、または自他の区別がつかない状態で公表することである。「引用」は、引用したものが、誰のどのような著作かを明示するとともに、それが引用者の記述の分量を越えることがない範囲で、直接著者の許諾を求めることなしに「無断」で行うことが許される行為である。逆に言えば「引用」を越える範囲では、著作権者の許諾が必要であるということになろう。
 著作権は、思想、信条等の創作がなされた時点で全ての作者が獲得する権利である。それが三歳の子どもの「お絵かき」であっても著作権は発生する。さらに「創造」の著作の範囲も、現在では相当に広く捉えられていて、単に五十音順に編集された名簿などはともかく、「タウンページ」のようなある意図を持った編集物にも著作権はあると考えられている。もちろん、その著作をなすにあたってどこから資金が提供されたかも問題ではない。依頼されて創作し、資金は依頼主から提供されていても、予め著作権にかかわる取り決めがない限り、著作権は著者のものである。だから、高額を支払って図書データの作成を依頼した公共図書館が、さらにその利用において著作権料の支払いを求められる場合もあるし、高名な建築家による公共施設の改築がままならなず、高額な随意契約を必要とする改修のような場合も起こってくるだろう。もちろん、何億円も支払って絵画を購入しても、展示権(所有権にかかわる権利)はあっても、複製権(著作権にかかわる権利)はなく、権利が消滅していないがぎり無断でコピーすることは許されない。
 著作権が保護する目的物は主に二つ。財産権と、著作物が持つ人格権の保護である。複製の禁止は主に財産権を守るためのものであり、盗用や改竄の禁止などは主に人格権を守るためのものである。この人格権は、たとえ著作権継承者によっても侵すことはできない。つまり、同名を名乗って創作したり、著作物の変更を行ったりすることはもちろん、許可を与えることもできない。著作者に最後まで帰属するものである。また、不適切な場面への引用もこれを侵害すると考えられている。たとえば、「詩句」を風俗の広告媒体に使ったりすることなどがこれである。
 さて翻って、俳壇において問題になる「著作権」とは何であろう。まず想起されるのは、「添削」の名において行われる改竄である。これは著作人格権の侵害が疑われる。しかし、これには原句を添削されて掲載された人が侵害を訴えて争って敗訴したという報道が何年か前にあったはずである。確か「選」を受けようとした時点で、選者の判断を受け入れるという暗黙の了解があったと判断されたのだと思う。言わば「慣例」を斟酌した判断が下ったというべきものだった。しかし、これをもって添削の名の下に改竄してよいということになるとは思われない。基本的には、「指導」とそれを「受ける」という関係が前提でのみ許されることであろうし、「指導」による「添削」が本当に「慣例」なのか疑ってみてもよさそうである。「詩学」(一九九七年七月号)の「時評」でも取りあげたが、有馬朗人氏はインタビュー記事(「俳壇」同年四月号)で、高浜虚子の「ホトトギス」また師事した山口青屯において、「添削」は行われていないと証言している。むしろ、なんとか掲載したい「指導者」の現代的な事情が「添削」指導を生み出したというのが実状のようで、長く「慣習」として行われてきたことではないようだ。「本来俳人というものは選で手を入れたりしなかったんですよ」と述べているのを心に止めるべきだろう。どうしても「添削」掲載したいのであれば、予め選者が手を入れて掲載する場合がある旨、断っておくのが同じ創作者としての礼儀であろう。
 引用はどうか。アンソロジー、鑑賞、評論の中で、多くの引用が行われている。引用を明示し、引用部分が過半を越えないというのはもちろん前提でありクリアされなければならないが、詩歌の引用はそれ自体「全文」に及ぶことが避けられない。俳句を引用すれば一句「全文」の引用にならざるをえないのだ。これを不可とすると、評論行為が成立しないばかりか、俳壇ジャーナリズムもなりたたないだろう。これこそ中世歌論からの「慣例」で許されるべきものだろうが、アンソロジーなどでは丁寧に許諾を取る編者もいることは、知っておいてもいいことだろう。
 さて、私達の文化は広義の〈引用〉によって成立している。「定型」の文学を「伝統」の文学とするが、むしろ〈引用〉と呼んだ方がいいものだろう。そして、この自覚化は何をもたらすか。この〈引用〉の上に立って、「創造」として何が可能かという問いとなって自らの心に落ちてくるものだろう。「本歌取り」は〈引用〉であって剽窃ではない。私達は芭蕉の文学的成果を〈引用〉できても、芭蕉の作品を自分の自らの「創造」とすることはできない。〈引用〉の自覚化は、厳しい「創造」(創造の現場では容易ではないが)へ向かう力のはずである
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坪内稔典句集〈全〉 林     桂
 


                               
 
 赤い表紙が印象的な句集である。書名を「坪内稔典全句集」としなかったのは、一つの自負であろう。いまだ句業の課程にある現時点での「全」であるという思いが、生涯の全句業をイメージさせる「全句集」の言葉を慎重に避けさせていると思われるからだ。しかし一方、ここに「全」の文字を入れることの意味も大きい。
 坪内は「あとがき」において、第一句集『朝の岸』に序文を寄せた高柳重信に言及している。未刊の第十句集を含む「全句集」を編む行為がが、自身の出立と向き合う思いを生んている。その思いと、集名そして赤い表紙の装幀は無関係ではないだろう。
 高柳重信は、全句集に相当するもの、また「全句集」の名前の付くものを何度か刊行している。それは高柳の強い晩年意識に支えられている。「全句集」の編集の時点で、言わば辞世を覚悟してのものであった。そして、還暦の年に逝去しているのである。
 坪内稔典は還暦を迎える。高柳没年の歳に達したのである。「還暦」ついて高柳には特別の思いがあったことは、「俳句研究」の編集長として還暦の特集を組んだでも分かる。還暦者は晩節を汚さないための、後塵は引退を促し自らの仕事の展開に賭けるための、思い知らせの儀式をそこに見ていたのであった。赤い表紙を着たこの句集は、自らの還暦を祝うものに違いない。しかし、「坪内稔典句集〈全〉」の集名は、引退どころか、自らの今後に期待するための里程とする思いによってのものだろう。坪内稔典はまだ過程であり、この句集は取り敢えずの中仕切りに過ぎないのである。
 坪内稔典、澤好摩、そして少し意味もタイプも違うが亡くなった摂津幸彦は、戦後世代のリーダー的存在であった。筆者もまたその動向の影響と仕事の恩恵を受け続けてきたひとりである。その意味では、私たちはこれらの俳人の作家論を獲得し、次を切り開いて行かなければならい立場にあろう。亡くなったことで書かれる機会も多い摂津幸彦はともかく、坪内論は、人気の割には必ずしも多くはない。坪内の句業の全貌を知る句集刊行を、坪内論の呼び水としなければならないだろう。
 例えば、句集の「あとがき」によってその変遷を一瞥しただけでも、興味と感慨はつきない。『朝の岸』(沖積舎版)には、「俳句を書きながら、一人で立つ場所へ行こうと思ったのは、この時期のことであった」とある。今読み返してみても、こうした孤独な面持ちの青年の姿に鼓舞された勇気が甦ってくる。坪内が私たちのオルガナイザーであった故は、組織者としてでなく、表現者として胸に染み入るような青年の覚悟を開陳していたからに違いない。
 「〈歌の目的は仕事を心軽く、我々の合同を容易ならしめただけでは無い。飽かず万人が永く之をくり返して、所謂世の常を組み立てて行く効果も有つたのである。ところが社会は新たに其秩序を改訂しつつ、しかも一方には昔の仕事唄の面白さだけは忘れることが出来なかった。仕事と歌とは袂を別つ時が来た。鼻歌は乃ち此間に於いて生まれたのである。(略)文学も通例は亦此部類に属して居たやうである。〉(定本・柳田国男集第十七巻)。柳田は、近代文学の生成を右のように述べているが、過渡の詩という思いを持つに至ったとき、ぼくはこの「鼻唄考」に強くとらわれるようになった。鼻唄に依りながら、鼻唄が生まれた過程を逆にさかのぼることーーつまり鼻唄をこの現実において激しく逆倒させる試みーーがぼくの過渡の詩の思いを形成しているのである。それは、俳句形式が自らの思想をはらみ、その思想によって形式の極北へと進む課程を、ぼくのことばの過程として選ぶこと意味している。」は、第二句集『春の家』の「覚書」である。青年の覚悟が俳句形式を獲得してゆくその過程に、私たちは立ち会っているのだという喜びがあった。
 「今日、俳句を書くことは、伝達の不可能性を、そして作品として成立することの不可能性を、なんの躊躇もなく率直にさらすことだ、と私は考えている。こいう考えは、世上の俳句や俳句観とは折り合わない。しかし、短く、そのうえに定型詩であるがゆえにあらわになるそれらの不可能性は、私たちの近代を根底から問うものかもしれないのだ」は、第三句集『わが町』である。坪内にとって、一つの命題が終わり、新たな命題が生まれた時期であろう。その接点、屈折がここにあるだろう。「俳句は日本近代の文学概念をはみ出している何かであり、その意味では、俳句にliteratureの要素をもちこんだ正岡子規が、まずまっさきに批判の対象となる。(略)俳句が〈座〉に息づく表現であることは、これはもうまぎれもない」は、第四句集『落花落日』の「あとがき」である。坪内はここで一つの橋を渡った。「読者が思いがけない読みとりをするのは、どんなに厳密に書かれていても、俳句はついに一種の片言にすぎないからである。とすると、俳人としては、片言としての力を最大に発揮する工夫に心を砕くことになる」は、第五句集『猫の木』。「この句集の時期、私の関心は俳句の特性にもっぱら向けられていた。俳句は五七五という極端に短い、いわば片言に近い表現形式だが、その俳句の力をいかに引き出すかに興味が集中したのである」が、第六句集『百年の家』。「現実とは別の五七五の言葉の世界がどんなリアリティー(真実性)をもち得るか。そのことが俳人としての私の最大の関心事なのだ」が、第七句集『人麻呂の手紙』。「民俗学の柳田国男は、諺(ことわざ)は言技(ことわざ)だと述べた。簡単に覚えることができ、そして気軽に口ずさめる俳句は、諺にきわめて近い。とすれば、俳人である私は言葉の技の発揮に腐心するほかはない。言技師(ことわざし)こそ俳人である」が、第八句集『ぽぽのあたり』。「ひとつの決意のようなものが胸中に固まった。共同の創作に集中しようということ」が、第九句集『月光の音』の「あとがき」である。
 ある意味では、坪内の道程はぶれのない明確な方向性を持っていて見事である。また、この道程は、坪内固有の方向性というよりは、大方の先達俳人が辿ったものと同じであり、逆にこの方向性から逃れるのが如何に困難かも承知できる。坪内が迎え入れ、坪内を迎え入れた「規範」について、とやかく言うつもりもないし、言祝ぐことさえできる。しかし、私たちの牽引役だった坪内は私たちにとって特別な意味を持っていた。それを惜しむのは、個人的な感懐に過ぎないのか、もっと大きな喪失の痛みによるものなのか、俄には判じがたいのである。

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