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昭和15年秋、天津移住。住まいは公大第七廠(鐘紡)社宅。三笠国民学校に通う。 右の写真は、戦時中、天津で撮影したもので、私は帽子をかぶった男児二人の右側です。母の手の妹、宏子は4歳の8月15日死亡。辛い思いが残っています晴元 長女,千晴は8月15日出生で宏子の生まれ変わりと母は喜んでいました。8月15日終戦日は幸,不幸の出発点です 鐘紡公大七廠社員昭和17年正月父前列左より3番目 |
幼少の頃を訪ねて 1993年、中国北京より鉄道で天津駅へ、幼少の頃の思い出を訪ねました。 『少年時代の思い出』。天津北站付近には北寧公園、 公大第七廠(鐘紡)が有り三笠国民学校も近く。。少し郊外に出ますと土饅頭のお墓や高梁畑で地平線が見渡せました。今では町並みも高層ビルが立ち並び近代化の1途を歩み発展が観られます。 日本租界には中原公司(百貨店)は7階建て?と思います
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1993年訪津天津印染廠は元公大第七廠(鐘紡)の入り口です。 工場内に入れて頂き、親切に案内して頂きました。
赤丸は全て元鐘紡
印染廠正門前の通りです |
1993年訪津時、池も減り小さくなったようです。この他にも、古い社宅の回りに池(蓮池堀)が有りましたが埋め立てられて消滅。蓮の実を食べたのを覚えています。 学校行事 学校の裏庭に撒水してスケートリンクを作った低学年時代??。 夏休み期間中。学校で合宿が有り米等を持参して教室で寝たような?記憶有り 航空用の潤滑油?ヒマと云う植物を育成した。種を採取したような記憶も有り(臭い) 柔道部に入り大会で準優勝した。この時初めて先生に褒められた?勉強も一生懸命頑張れよ。 体育の時間に初めて蹴球(サッカー)をした、みんなはボールを転がすが、 理科でヘチマを栽培して秋、幹を切り、ビンにヘチマの樹液を採取した。化粧水(ヘチマコロン) 敗戦後、(5年生)夏休みが終わり授業再開したが。帰路、華人少年の嫌がらせが有ったと。
引き揚げ準備 9月頃と思いますが。父の勤めていた鐘紡メリヤス工場が火事になり。その熱が遠くにいても感じた。全焼 本土引き揚げの際、写真、書類は一切持ち出し禁止で、消却。毛皮製品は没収。貴金属も没収。されると聞いて父は金銭をダイヤモンドに変え。検査の間際に飲み込んで通過しようと云う事で中原コンス(デパート)。 この頃は母は鐘紡社宅外に出る事も出来ず、雇っていたボーイに買い物や料理を造ってもらっていた。
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煙突は発電所と思います、今は裏道ですが用水堀が有りました。
住んでいた家がありました、だいぶ増築されて変わっていました。
社宅がありました地区の守衛所ですこの場所より集団登校しました。 守衛所を通ると ると直ぐにクラブ(集会所)です。
天津北駅近くの、北寧公園、公園内にプールが出来、父に連れられ泳ぎましたが足が立たず怖い思いをしました。1993年時、プールは残っていました。 2008年3月追記 仕事も引退時間にも余裕になると天津の想いも強く鐘紡や天津日本租界に居留された方々に接し交流をと思いHPを立ち上げるとその輪は広がり今では100数十名の消息が判明しました。
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