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天野 晴元 1935年生まれ

昭和15年秋、天津移住。住まいは公大第七廠(鐘紡)社宅。三笠国民学校に通う。
日本引き揚げは米軍の上陸用舟艇で21年1月21日佐世保です 。

右の写真は、戦時中、天津で撮影したもので、私は帽子をかぶった男児二人の右側です。母の手の妹、宏子は4歳の8月15日死亡。辛い思いが残っています晴元 長女,千晴は8月15日出生で宏子の生まれ変わりと母は喜んでいました。8月15日終戦日は幸,不幸の出発点です

        鐘紡公大七廠社員昭和17年正月父前列左より3番目

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幼少の頃を訪ねて

1993年、中国北京より鉄道で天津駅へ、幼少の頃の思い出を訪ねました。

『少年時代の思い出』。天津北站付近には北寧公園、 公大第七廠(鐘紡)が有り三笠国民学校も近く。。少し郊外に出ますと土饅頭のお墓や高梁畑で地平線が見渡せました。今では町並みも高層ビルが立ち並び近代化の1途を歩み発展が観られます。

日本租界には中原公司(百貨店)は7階建て?と思います
国民学校2年生頃、下の道路を見ると人が米粒程に見えた記憶が残っています。

 

1993年訪津天津印染廠は元公大第七廠(鐘紡)の入り口です。

工場内に入れて頂き、親切に案内して頂きました。
子供の頃の思い出が沢山残っています。

 

 

 

拡大 鐘紡旧正門昭和13年頃撮影の初代正門です

 


鐘紡付近の地図(赤丸)地図拡大

赤丸は全て元鐘紡

印染廠正門前の通りです

小学生(三笠国民学校)の頃、
エビ、ナマズ等を釣った池です池は運河に繋がって居るのか魚が沢山入り夏の夕方父に連れられ日本から送って貰った毛針で沢山釣れた事が有りました。
この池にはトビハゼもいましたね。池は3ッ有り発電用水の池は暖かいのか華人が良く水浴していたの見ました。
敗戦後兵隊さんが鐘紡に集結されて社宅の中の池は掻堀して魚を穫りました。

1993年訪津時、池も減り小さくなったようです。この他にも、古い社宅の回りに池(蓮池堀)が有りましたが埋め立てられて消滅。蓮の実を食べたのを覚えています。

学校行事
はるちゃん4年生になり、海洋少年団入隊。海軍の服装着用時.母も自慢気で見ていましたね。
全団員で市内行軍が有り、水も口にする事も禁止で行進しました。
日本租界〜ロシア租界などを通り初めてロシア人を見た記憶が残っています。
又喉の乾きの苦しさは今でも忘れる事ができません。モールス信号.手旗信号,カッター漕艇訓練も記憶しています.(帰国してから公園でボート乗りましたが上手に漕げましたよ)

学校の裏庭に撒水してスケートリンクを作った低学年時代??。

夏休み期間中。学校で合宿が有り米等を持参して教室で寝たような?記憶有り
その夜、度胸試をしをした。

航空用の潤滑油?ヒマと云う植物を育成した。種を採取したような記憶も有り(臭い)
校庭?何処か他で?。グライダーの滑空にゴム紐を引っ張った?見学した。

柔道部に入り大会で準優勝した。この時初めて先生に褒められた?勉強も一生懸命頑張れよ。

体育の時間に初めて蹴球(サッカー)をした、みんなはボールを転がすが、
転がさずに浮かして生徒の頭上を越すキックをしたら先生に巧いと褒められて。体育が大好きになる。

理科でヘチマを栽培して秋、幹を切り、ビンにヘチマの樹液を採取した。化粧水(ヘチマコロン)
福岡の同級生、本田さんも同じことを云っておられました敗戦翌日?学校に行き。みんなで泣いた。先生が石の上にも3年と云ってたが意味が解らなかったが、物心つく頃には意味が解った。

敗戦後、(5年生)夏休みが終わり授業再開したが。帰路、華人少年の嫌がらせが有ったと。
先生に嘘をついたら学校は休校となった。この頃より鐘紡の中に兵隊さんが集結して、戦車部隊。トラック部隊.将校〜歩兵、の階級を覚える。
間もなく階級の順位も崩れたのか、古参兵が将校に吊るし上げをしたようだ。

 

引き揚げ準備

9月頃と思いますが。父の勤めていた鐘紡メリヤス工場が火事になり。その熱が遠くにいても感じた。全焼
晩秋の頃、蒙古大同に出張していた父が無事に帰って、嬉しかったなー。
レンガ造りの社宅は米軍に引き渡しという事で
家族の多い我が家は、旧社宅の(今で云う公民館、大体使う時は葬儀場)に住む事になった。裏側には堀が有り11月半ば氷が張ったのでスケート靴の刃を外し橇を造って滑った。
日本に帰って来てから偶然兵隊さんに一度会い.子供がそりで遊んでいたよ。

本土引き揚げの際、写真、書類は一切持ち出し禁止で、消却。毛皮製品は没収。貴金属も没収。されると聞いて父は金銭をダイヤモンドに変え。検査の間際に飲み込んで通過しようと云う事で中原コンス(デパート)。
等に行き探したが買えずに、残った金銭は親しい中国人の友人に贈呈したようだ。

この頃は母は鐘紡社宅外に出る事も出来ず、雇っていたボーイに買い物や料理を造ってもらっていた。
何を食べても旨い年頃だったのか、華人の料理が旨かった!!特に白菜とエビの油炒め。モヤシとひき肉の炒め物.もやし炒めは今でも自分で料理します(モヤシは柔らかくなる迄炒めます)家内は半生炒めですので駄目
ボーイの名前は、チン ボーコウ、と云っていた 。
引き揚げ間際になる頃、持てない洋服、ガウン。などをボーイが着込んで嬉しそうに
帰って行くのを見かけた。続くまたね。

 

 

 

煙突は発電所と思います、今は裏道ですが用水堀が有りました。
敗戦も近い日。日本の戦闘機が用水堀に不時着墜落しました。
操縦室が破損してなかったので搭乗員は無事の様でした。

工場内にある社宅です。

住んでいた家がありました、だいぶ増築されて変わっていました。
家にあったポプラの木、柳やアカシア等は残っていました。

 

 

 

社宅がありました地区の守衛所ですこの場所より集団登校しました。
この正面にお稲荷様があり桃の実が熟す頃採って食べましたが美味しく有りませんでした。

守衛所を通ると ると直ぐにクラブ(集会所)です。

天津北駅近くの、北寧公園、公園内にプールが出来、父に連れられ泳ぎましたが足が立たず怖い思いをしました。1993年時、プールは残っていました。
冬になると池には氷が張りスケートが出来ました、学校入学前の6歳の冬、父に買って貰ったスケート靴を履き初めて滑ったのが北寧公園です。その後は会社の中にスケートリンクが出来.アイスホッケーのユニホームを着て練習や試合もしました。(ゴールキーパー)プロスケーター稲田悦子さんも、こられ華麗な演技に魅了しました。

2008年3月追記

仕事も引退時間にも余裕になると天津の想いも強く鐘紡や天津日本租界に居留された方々に接し交流をと思いHPを立ち上げるとその輪は広がり今では100数十名の消息が判明しました。
2005年5月ネットで交流出来た同期生芙蓉国民学校5年土井さん
三笠国民学校、本田さん。春日国民学校、野村さん。芙蓉国民学校、中辻さん、天野夫婦で天津探索にでかけました。