日本キリスト教会 大森教会


大森教報




大森教報 206号(2018年12月23日) 
忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。     佐藤 泰將
 ルカによる福音書  21・5〜19
 神(カミ)がここにおられる、そう強く思わざるを得ない経験をすることがわたしたちにはあります。特に宗教的な人やいわゆる霊感が強いという人に限らず、自分を超えた何かを感じた人たちが造った祠(ほこら)をわたしたちの周りにいくつも目にします。そのようにして自分を超えた存在を大事にし、永遠への思いを育んでもいるからです。区別したそこに、自分たちとは違う何かがいるという感覚でもあるでしょう。
 と同時に、そういったものがいとも簡単に崩壊するのをわたしたちはしばしば経験するのです。自然災害によってどれだけわたしたちの思いのこもったものが失われてきたでしょうか。人間同士の悪意の渦に巻き込まれ、大事にしてきたものを後にしなければならないこともありますし、また目の前で踏みにじられるという耐え難い屈辱すら味わわされるのです。そこから生まれる憎悪と復讐の連鎖を断ち切る必要を説く前にそういったこと自体が起こるのを防ぐべきだと大上段に構えて訴え続けるものの、残念ながら人類は大して進歩していません。
 神が人となられたということは、この人間の現実の場面をご自身が生きる場としてくださったことです。限界の中に生きざるを得ない人間、しかしそこで神と出会い、神と共に生き、それにしても不完全なことしかできないにもかかわらず、そして後の世から見ればどれほど中途半端なことしかできないでいたかと非難されるような中にあっても、確かに神ご自身がそこにおられる歩みとして、神ご自身が受け止めてくださるのです。
 これはなにもわたしたちがするすべてのことを手放しで認めて礼賛することではなく、むしろへりくだって神に向かせるものでしょう。神が共にいてくださるという、ここに、そしてわたしに、ということが、他と切り離したここと自分を高めるというより、ここにも、わたしにも、というように「も」をつけて覚えるのです。そのとき周りを排除しての自分ではなく、目の前にあるものを伴いながらわたしのところにも与えられている恵みの豊かさを分かち合う信仰となるでしょう。「わたしにも」の信仰は「あなたにも」の信仰となり、共有されていくのです。そしてそれが文化となり、社会を大きく神に向けて形成することになるに違いありません。
 ただ、わたしたちは「わたしにも」の信仰をまず自分のところで深めなければなりません。そこからすべてがはじまるからです。あなたはこの神と出会い、命に至る道を進んでいますか。