日本キリスト教会 大森教会


大森教報




大森教報 208号(2019年9月15日) 
ほかのだれによっても、救いは得られません。       佐藤 泰將
 使徒言行録4・1〜22
 人は極端を嫌います。いにしえからの知恵によっても、正しいことは物事の中庸あたりにあると教えられ、事実そういうことが多いというのも実感としてあるでしょう。また、物事はあまり突き詰めて考えないほうがいいとは、社会生活において円滑な人間関係を保つための生活の知恵であるともいわれます。
かといって、簡単に諦め、妥協の連続がいいということでもありません。正しいことにとことんこだわり、それを徹底させてはじめてよき方向へと動き始めることが多いこともわたしたちは知っています。はじめからどうでもいいといっていたのでは進まないのです。
使徒ペトロとヨハネは、神殿の門のそばにいた一人の足の不自由な人に出会います。神礼拝がなされる場所に限りなく近くいながら、疎外され、生活の糧を求めて物乞いをするだけの人でした。その状態にとらえられ、神を讃美することから文字通り身も心も遠ざけられていたのです。この彼を、神を讃美する者へと取り戻し、またキリストを信じる者たちの輪の中へと迎えることによって、人としての回復がもたらされました。そこにこそ、まことのいのちがあり、救いが実現していたのです。それは弟子たちに宿った神の力のなせる業というより、ただ復活したイエス・キリストの業でした。使徒たちがしたことは、まさに主イエスが彼らを通してなさったこと、主イエスが彼らに現れていたとさえいえるほどの姿がそこにはあります。主の心を自らのものとしながら、イエスの名によって回復の業がもたらされたのです。彼らは主イエスの生き写しであったというのは決して過言ではありません。キリストが彼らを用い、働かれるとき、主の姿に合わせられるからです。
弟子たちは、自らの経験としても、信仰の絶望からの回復を新たないのちへの復活としてうけとめていたでしょう。ここに主イエスとの一致があり、主イエスの復活のいのちが与えられているとの確信が彼らを突き動かしていました。
この最初のときの確信は、単に周りがまだ見えていないときのたわごとなのでしょうか。議会で尋問されるという特殊な状況が生み出した虚言に過ぎないと思う向きもありましょう。しかし、聖書は、それは単に最初のときの勢いではなく、聖霊に励まされての証言として伝えます(8節)。それはまた、彼らの信仰の応答でもありました。どうしても否定できない自らの経験とそれに続く救いの出来事をあなたがたはどうするのか、そう問われていることを自覚した使徒たちは、主イエス・キリストによる救いを証しすることにひるまず、貫き通したのです。歴史の大変革へと道筋がつけられた瞬間でした。