日本キリスト教会 大森教会


100周年を記念して


 
初めの頃の志に立ち返って
                        佐藤泰將

大森教会のはじまりは、1904年6月ごろの伝道開始にさかのぼる。それは日曜学校にせよ、婦人会にせよ、家庭集会としての出発であったが、その後、場所の移転や伝道そのものを中断する困難の中に置かれた。一連の経緯は井田襄司氏による「大森日本基督教会縁起」に詳しく、後日これをそのままに100周年記念誌に再録するのでぜひ参照してほしい。
さて、このころ起こったこととして、1901年に植村正久と海老名弾正の間で起こった「福音主義論争」および1904年11月の植村正久による東京神学社の創設がある。前者はあくまでも二人の間での論争でありながら、教会全体への影響は測りがたく、福音とは何かを考える際に、対立するものとの比較の中で十字架と復活の福音が明確にされた意義は大きかった。また、後者の出来事は、日本基督教会内における神学教育の内容の多様性を映し出すこととなり、かつ宣教師からの自主独立路線が神学教育でも一つのかたちを取ることとなった。それは、1894年と1905年の独立自主路線の強化が大会でなされた事ともつながっている(『日キ50年史』、61頁以下)。これらは大森伝道の背景として重要な側面である。

一、改革長老教会の伝統の確認と伝道の志

日本基督教会は、日本基督一致教会の1890年第6回大会において、信条と名称を変更して新たな出発をした。しかしそれは決して新しい教会の形成でないことは、その後の大会の回数も継続したものとして数えられたことに現われている。また、信条として、ハイデルベルク教理問答、ウェストミンスター信仰告白、同小教理問答、ドルトレヒト信仰規準を採用し明確に改革長老教会の伝統に生きていたことを表明していた一致教会から簡単信条の日本基督教会へと移行したことで、改革長老教会のありかたを捨てたのではなく、むしろ凝縮した形でその伝統を受け止めなおして行った。欧米の諸信条そのものをそのまま継承するのではなく、その信仰を受け継いで行ったことは、後述のカルヴァン生誕400年の記念行事推進にも現われることとなる。
さて、大森での伝道が一時中断するもその継続がはかられたのが1908年であったが、日本基督教会としての再出発からすでに18年が経とうとしていた。そのころの日本基督教会の様子を伝えるものに、翌1909年発行の『日本基督教会一覧』がある。同年開催された大会記録と諸一覧、憲法規則および教会略史、日本基督教会伝道地図を合わせたもので、充実したものである。前年の一年間の受洗者が2108名、前年末の総会員数1万9千5百有余名であったことが緒言冒頭で述べられ、教会としての進展が喜びの内に記されている。大森での伝道は困難を極めたが、全体教会の趨勢としては大いに伝道の進展が見られる中での大森伝道であり、全体教会の勢いを大森にも注がんとする意気込みがうかがえる。
また、何よりも1909年は、カルヴァン生誕400年にも当たる年で、それを記念として各地で記念会がもたれた。大会常置委員会からはその実施を奨励する書簡が送られ、日本基督教会の創立に最も密接な関係を有する宣教師は改革教会に属していることを覚えつつ、教会としてはいわゆるカルヴァン主義の、主義としたときの狭さに限定されることのない公共の信条を持っていることを確認しながら、カルヴァン主義から学ぶべき点として以下の四つを上げている(『一覧』、10頁)。大森での伝道継続がこのような大会の気概のもとなされたことは記憶すべきであり、それは今に至るまで脈々と受け継がれているといえよう。
第一、神の主権を重んじ、何事をなすにも神の栄光を彰はすをもって第一の目的となすこと
第二、キリストにおける個人の権利を尊び、教会の自治的代議政体の基礎を堅固にし、かつ国家公民の責任を明らかにすること
第三、教会の規律を厳重にし、質素剛健の気風を養い、世の光たり地の塩たるの天職を全うすること
第四、あくまで世の罪悪と奮闘して神の国の拡張に努力すべきこと
 ちなみに、この年の伝道局理事長は植村正久、また理事の一人として千屋和(ちや・のどか)がいた。千屋先生はこのとき新栄教会(旧・東京公会)の牧師かつ東京中会の書記であったが、大森において祈祷会を兼ねた聖書研究会を開いて指導にあたり、それはのちに日曜午後の礼拝へと発展する。集会として軌道に乗ってきたのがこの時期で、その後1912年、伝道教会の建設に当たって石川四郎牧師に引き継ぎ、石川牧師はその後約一年の間、教会に仕えた。
 千屋牧師については、青山教会牧師川添万寿得による葬儀の辞が次のように伝えている。「君は同教会〔新栄教会〕牧会の傍ら、植村先生補導の下に郊外大森伝道の開拓に従事し、数年間の苦心大いにその功を奏して、終に今日の大森教会の基礎を築きました」(『日本基督新榮教會六十年史』、129頁および『百年の恵み 日本基督教団新榮教会史』、75頁)。先方でこのように覚えられた牧師につき、わたしたちも忘れることなく、ただし功績として讃えるのではなく、神の主権を重んじ、神の栄光を顕すことを旨とした一伝道者が、神の国の拡張のためにどれほどの犠牲を払って尽力したか、その伝道の志を覚える者でありたく思う。

二、天の御国はどこからでも

伝道は共有であり、分かち合いのなかでの出会いが神中心の御国をそのところにもたらし、天と地はそこでつながることとなる。また、伝道は提供であり、時に特権と思われるものの放棄ともなることを教える出来事があった。
アメリカ改革教会からの宣教師であるバラが最初に洗礼を授けたのは、病気のためもう長くはない、自分の日本語の先生であった。そして彼の葬儀に際し、バラ夫人は次のように思ったという。「先生がお亡くなりになるまで、私は天国がアメリカと同じように日本にも近いことを本当に理解してはいませんでした。以前は故郷に帰って死ななければならないように思っていましたが、いまは先生が天国の門を開いてくださいましたから、日本であっても、その門が私のために少し扉を開いて立っているように感じています」(マーガレット・バラ著『古き日本の瞥見』、145〜6頁)。なお、このエピソードは植村正久の心をも動かし、メモにも残している(『植村正久と其の時代』、第一巻、372頁以下)。
大森の伝道初期には、自らの安定した教会生活を放棄して開拓地に赴くキリスト者たちが多くいた。また、自宅を開放して伝道の用に喜んで供する者たちによって、神の国の福音が伝えられて行ったことを私たちは記憶する。この志を受け継いだ者たちによって、後に鶴見教会や大和教会が形成され、そして港南台礼拝へとつながって行った。伝道の困難さは常に変わらない。そして、結果がいつもついてくるわけでもない。しかし、動くはずもない大きな山が動き出す信仰の経験を大森教会はこれまで重ねてきた。その志が今あらたに受け継がれ、次に伝えて行く100周年であるよう願っている。