日本キリスト教会 大森教会


大森教報 過去履歴




大森教報 201号(2017年5月21日) あなたの罪は赦された      佐藤 泰將
 ルカによる福音書 7:36〜50
 宗教改革500年を世界の教会が祝っている今年、わたしたちもあらためてその意義をとらえ直したいと願っているところですが、改革の大きなうねりの始まりは聖書に立ち返ること、さらにはその中で伝えられている一つひとつの出来事にあると知ることが大事です。そして、歴史を大きく変えた改革は、どこか遠い出来事ではなく、主なる神と今の自分のあいだに起こされた恵みの数々につながっていると知る幸いがあります。
 わたしたちはこの時期、「罪の赦し」のみ業に支えられ、生かされていることを深く覚えたく思います。遠い過去に起こった出来事を思い起こして、その恵みが今に至るまで語り継がれる中で、そこに繋がっていることを確認して恵みをいただくことはあっても、それは過去の想い出に細々とふけることから来る慰めではありません。むしろ今も繰り返し神がここに生きるわたしたちと現実に出会い、「あなたの罪は赦された」との宣言の中に生かしてくださることです。救い主である御子イエス・キリストがわたしたちに向き合い、わたしたちのすべてを受けとめてくださる大きな愛をもって、苦しみ悩み悲しむわたしたちを平安の中に立ち上がらせ、「安心して行きなさい」といわれるのです。恵みをいただき慰められながら、もう過去に縛られることなく新しい歩みをしなさいと押し出してくださる主の言葉です。それはご自身につなぎとめることではなく、むしろ主の恵みに生かされていることを証ししつつ、力強く喜びのうちに生きるようにと送り出すお言葉です。それが今もわたしたちに告げられているのです。
 それにしても、主は一人の罪深い人のために大きな犠牲を払い、試練を引き受けることを良しとされたと聖書は伝えます。罪の赦しの宣言は、当時祭司が神殿で定められた犠牲がささげられたと告げることのできるものでした。あくまでも神殿体制のなかで、その脈絡で発せられてはじめて意味を持つものだったのです。それを主がそこから離れて、御自身からの恵みの言葉として告げてくださいました。神殿批判でした。自らにふりかかる危険を承知の上で、いわば自らを投げ打っての宣言でした。それがこの一人の人のために、その人が新しい歩みを始められるよう発せられたのです。自らの命と引きかえにという十字架の出来事、神学的な言葉でいえば罪の贖いが、一人の人を平安のなかで生きるようにさせる出来事に始まり持っていたといえましょう。この主の宣言は今もわたしたちに、個人的に告げられています。この主の覚悟と決意のなかにわたしたちは生かされているのです。


大森教報 200号(2016年12月25日) 出会いはすでに起こっている  佐藤 泰將
 ルカによる福音書 2:1〜7
 主イエスの誕生の出来事は、権力者が出産間際の身重の女性にも過酷な帰郷を強いたという場面の中で生じました。有無を言わせない強制のもとで、それに抗うこともできないヨセフとマリアは、自分たちの存在の小ささをあらためて感じていたことと思います。心配と不安で滅入ってしまうようなこともあったことでしょう。けれどもヨセフとマリアは進んでいきました。その時点でどれほどの信仰的熱心があったかを聖書は語りません。一つのいのちが与えられるとの喜びの知らせには、それがどのような場所で起こるかの具体的情報はありませんでした。成り行きに任せるしかないようなとき、そして自分たちが安心できるようなところでは決してないところで、神の御子が生まれました。自らの弱さを痛感しながらとぼとぼと歩むその行き着いた先を神の一筋の光が照らしたのです。
 それにしても、神の御子は、生まれ出る前にすでにわたしたちの地平におられました。ヨセフとマリアがお腹の子をいたわり支えるなかにいたのです。そのような姿で人々と出会っておられたといえないでしょうか。人が神と出会うのは、それと意識した中でひれ伏しながらのことではなく、人と人とが出会い、いたわりとぬくもりで包まれるよう、お互いがとりもつなかで起こされる出来事です。身重の女性を引き連れての旅路で出会った人々の中には、共に励ましあって目的地への道のりを進んできた者たちもいたことでしょう。彼らはそれと知らずに救いのみ業のはじめに加わる者とされ、神と共に歩むようにされていました。神によってとらえられ、神と共に生きる者となっていたのです。
 降誕劇によく登場する宿屋の主人はどうでしょうか。満員だからと冷たくあしらったのかもしれませんが、妊婦を見て残念だがあそこしか空いていないと家畜小屋に案内したとすれば、彼は自分に出来る精一杯のことをしたといえるでしょう。先約の客に部屋を譲るよう交渉する勇気がなかったのかもしれませんし、単に面倒を避けたかったからかもしれません。自分の置かれているそのときの状況に縛られていました。けれども、なおそこで自分に出来ることをした先に、神の大いなる出来事が起こされたのです。その場を与えるという光栄にあずかりました。ヨセフとマリアと出会うなかで自分の内に芽生えたかすかな憐れみの心に神が宿ってくださったのです。
 神はどこにおられるのか、わたしたちに出会ってくださらないのかと悩む際に繰り返し思い起こされる出来事がクリスマスなのです。


大森教報 199号(2016年9月18日) 罪人の中で最たる者      佐藤 泰將

 テモテへの手紙1 1:12〜17
 使徒パウロは自分の罪を深く自覚する人でした。復活の主との出会いによって、それまで神に正しく仕えているとの自負が一瞬にして打ち砕かれ、むしろ自分は神の業を台無しにせんがため奔走していたにすぎないことに気づかされたのです。パウロは自分のことを「罪人の中で最たる者」(14節)と呼びました。以前の訳では「罪人のかしら」とされているところです。ここに彼の深い悔いが表されています。それは神に対してのものでありながら、思い起こされるのは、自分がひどい目にあわせた一人ひとりの姿だったのではないでしょうか。どれほどの苦痛を与え、それに苦しむ者たちを目の前にして薄ら笑いを浮かべ、いいきみだと思っていた自分がそこにいました。悪を退治して意気揚々としていたのです。自分の基準に合わない者たちを徹底的に排斥し、亡きものとしようとしていました。こうして神に仕えていると思っていたのです。
 しかし、罪は目の前で、自分の認識とはまったく違う形であらわにされ、思い知らされました。自分のしてきたことで神ご自身が苦しんでおられたのです。使徒言行録が伝えるところによれば、パウロが出会った主は「なぜ、わたしを迫害するのか」と言われました(9章4節)。迫害される者たちとどこまでも一つになっておられるキリストでした。ここに「キリストのからだ」といわれる教会の姿が明らかにされています。パウロの罪を通して、教会の本質が示された不思議を思います。また、パウロがもたらした苦しみ、そして罪は、その面が明らかにされたとき大きな悔いと悲しみを生じさせましたが、同時に「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(15節)という福音の真髄をパウロが身をもって明らかにすることとなったのです。
 罪の絶頂にあったとき、神は御子を通してパウロを捕らえてくださった、この恵みと憐れみが彼のすべてを変えました。神によってもたらされる回復の業の「見本」として、彼の全体が用いられることとなったのです。罪人を救うために世に来られたキリストを証しし、その罪がどんなものであっても、神の意志はくじかれないことを示しています。神の恵みは罪よりも強いのです。
 教会は罪人の集まりです。けれども、キリストによってなお捕らえられている、そのことを身をもって証し続ける群れであるところに、パウロの経験と使命とに連なり、キリストを世に映し出す教会が形造られているのです。


大森教報 198号(2016年5月15日) 遣わされる「弁護者」      佐藤 泰將

 ヨハネによる福音書 15:26〜16:4
 生ける神が生ける信仰を与え、生ける教会を建てたもう、それが私たちの信仰です。生ける神とは、現実のわたしたちに真正面から向き合い、現実の只中に人格的に働き、いのちの輝きをもたらすために介入してくださるお方としての姿です。この神が与えてくださる信仰は私たちを生かし、神ご自身へとつなげるものです。そして神は、この信仰を共有する者たちのあいだに御自身を中心とした絆を固いものとしてくださり、そこに生きる者たちがお互いを知り、支え合いを深めるなかで、現実の出来事がすなわち神との出会いとなり、神によって支えられている恵みの表出となるのです。
 これらすべてに聖霊がかかわっています。聖霊はヨハネによる福音書では「弁護者」と呼ばれています。ギリシア語では「パラクレートス」という語で、「傍らに呼ばれた者」を意味します。「助け主」や「味方」、「執り成し手」と訳すことも可能です。だれもいないと思えるとき、実はそこに神からの助け主である聖霊がいてくださることを主イエスは約束してくださいました。何もないところに神の恵みをもたらしてくださるのが聖霊です。神が生ける神とはいっても、神は見えません。しかし、その神を知ることができるようにしてくださるのが聖霊なのです。信仰がないところに信仰をもたらし、とても教会ができそうもないところに、神を礼拝する群れを起こし、守ってくださるのも聖霊です。そのようにして不可能を可能とし、何も起こらないし、起こってもいないと思えるところが実は神の力強いみ業の場へとすでに変えられているのです。
 自分ではとてもキリストの証しなどできないと思えるとき、証ししてくださるのは聖霊だとのキリストの言葉は、生活のよりどころであった「会堂」(16:2)からの追放や敵対者からの迫害を経験していた者にとっては、見えない聖霊がより確かな現実の業として神の業を引き起こしてくださるとの約束でした。困難な状況にあっても聖霊の業が進められ、それが言葉となって伝えられるなかで福音宣教と教会形成が見えるところとなって行ったのです。
 迫害によって同胞やさらには同信からも引き離される悲哀は私たちの共感するところです。教会から離れた日常生活において、またさまざまな事情によって、私たちも信仰者として孤立してしまうことがしばしばだからです。しかし、聖書の時代と同じ出来事が今も起こっています。ここにも同じ聖霊がいてくださるのです。神のみ業が確かに進められている場に私たちは置かれているのです。


大森教報 197号(2015年12月20日) いのち分け与える教会の誕生 佐藤 泰將

 コリントの信徒への手紙一 12:12〜27
 クリスマスにいのちの輝きが生じました。深い交わりがもたらされ、人を引き寄せ、心ばかりでなく自分のすべてがそのままでうけとめられ、新しい息吹が与えられて行く経験です。それがだれにも与えられ、共々に喜ぶいのちの輪があることに目が開かれていきます。小さな教会のはじまりです。それは御子キリストにおいて始まり、キリストのからだなる教会といわれるものが、この世の実体として存在し始めた瞬間です。
 その知らせは、自分の務めで忙しい羊飼いたちにもたらされ、また遠く東のかなたの、聖書の伝統からすればいかがわしいとされていた占星術の専門家にも、真理へと導く光りと道が備えられていました。しかし、ある人は言うかもしれません。キリストの誕生が多くの幼子の死をもたらしたのではないかと(マタイ1・16以下)。それはひどい排斥ではなかったかといぶかります。自己保身の極みとして起きた悲惨な出来事は、おそらくキリストの誕生が引き金にならなくても、いつかはこの悪王の犠牲となったいのちであろうとも考えられます。しかし、多くの命がキリストのせいで失われたといわれるまでに汚名を着せられることをも良しとされた神が、失われたかに見える多くの命をキリストにおいて確かに受けとめてくださっているといえないでしょうか。また、キリストの地上でのご生涯はどれほど分け隔てなく人を招き、交わりを共にするものであったかは、キリストが人々に「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタイ11・18)と言われていたことからも分かります。
 御子キリストは、聖なる神としての特権に固執することなく人となり、それも実際に衣食を共にして、多くの人との連帯のなかに生きられました。ご自身の内と外の間にある壁、聖と俗の壁をご自身で打ち破り、人が投げかける心無い批判や数々の揶揄にもたじろがず、この地上での命を生き抜いてくださったのです。
 教会は「キリストの体」であるといわれます。教会が教会となっているか、教会のいのちは御子のいのちとして本当に輝いているのか、どうしたらキリストの体となれるのか、御子キリストの誕生からはじまる一連の出来事の中にその答えは与えられています。キリストの思いがこの自分のいるところで表され、体現され、出来事となっていく、そのとき「キリストの体」である教会が教会となり、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(26節)という神の和と輪が現実として立ち現われるのです。




大森教報 196号 (2015年9月20日) 神に向かってまっすぐに    佐藤 泰將

 コリントの信徒への手紙二 1:11,2:5〜11
 伝道の困難さに直面し、自らの死も覚悟しなければならない情況にあって、伝道者パウロは自分との間に解決を待つ問題を抱えていたコリントの信徒らにも「あなたがたも祈りで援助してください」(11節)と要請しました。神の国の伝道の業はどこまでも教会の業であり、神が伝道者を立てて進めてくださるその業に欠け多き者らも招き入れられ、背後の支えとして祈りが神によって聞かれ、「多くの人々が感謝をささげてくれるようになる」ことにつながって行きます。祈りは伝道なのです。
 それは、神によってなされる一つの業であり、前も後ろもなく、共々同じ恵みと幸いにあずかることです。パウロはこのときの光景として、文字通りには多くの顔が神にまっすぐ向かっていくさまを描きます。伝道の進展が、多くの者らに感謝の気持ちを起こさせ、伝道の実として新たに与えられた者らも一緒になって、神に向かって顔をまっすぐに向けて礼拝する群れが形成されます。それはまたパウロらとコリントの教会だけにとどまらず、時と場所を越えて存在する一つの教会、一致して伝道に邁進する教会が生み出されていくということであり、自分が見えるところを超えて働く神の恵みを証しするものです。
 この恵みの働きを教会形成に見るとは、まず何よりも最初に自らのもとでこの神の業を見ることであるといえましょう。自分の知るところ、いや知らないところのすべてを神は受けとめ、その上で御業を進めてくださるのです。
 パウロは神の前に何も隠すことのできないことを、回心の際思い知らされました。まったく間違っていたとは露知らずに、罪の中を突き進んでいたときのキリストとの出会いは彼を変え、欠けと罪に満ちた自分のすべてを知った上で用いてくださる神にどこまでも従っていく決意に生きていました。絶対者の前で、自分を飾り立てる必要がなく、ありのままの今の自分をささげていくとき、表も裏も生じません。
 すべてをご存知のお方が用いてくださるのです。これは自分が神に向くようになることに終りません。このお方との歩みにおいて、今度は自分がその御顔によって見つめられ、あなたはどうするのかと問われます。2章10節の「キリストの前で」とは、文字通りには「キリストの御顔において」です。キリストがじっと見ておられます。罪人であるこの自分をも救い出してお用いくださっている神は、同じように人を赦しの中で受け入れ、一つの群れを形成しようとされています。神はあなたをその赦しを運ぶ者とされるのです。




大森教報 195号 (2015年5月17日) 今も遣わしたもう復活の主   佐藤 泰將

 ヨハネによる福音書 20:19〜29
 世々の教会は自らを復活の主によって遣わされているとの自覚のもと歩んできました。それは委託を受けた教会が自力で何とか使命を果たそうとするけな気な努力が実を結ぶのではなく、神と共に進める業として担い行き、神によって力づけられ、励まされて、何よりも主にある喜びによって突き動かされてのものでありましょう。私たちの業ではなく、神のもとでの業なのです。
「聖霊を受けなさい」(22節)
と言われて遣わされている私たちは、この聖霊によって信仰を告白する者が生み出されていく神の業を目の当たりにしてきたのではないでしょうか。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(一コリント12・3)。聖霊は、信仰者を聖なる者として整えていきます。そうして信仰者としての育成がなされ、聖なる教会が形成されるのです。神によって与えられた信仰を告白する者たちによって教会が堅く建てられていく過程すべてが神の業であり、そのためにわたしたちは召されているのです。
 復活の主は、弟子たちがユダヤ人を恐れて、鍵をしっかりとかけ今後のことを不安に話し合っているようなところに現われてくださいました。これからの展望を大きな期待の内に語り合っていたのではありません。けれども、そのような不安を希望へと作り変え、恐れる彼らに喜びと平安を与えつつ、遣わしてくださったのです。それでもなお彼らが行く先は主イエスをもはや見ることもできない世界であることに変わりはありません。弟子たちはすぐに喜び勇んで出て行ったのではなく、さらに「八日の後」にもまだ戸にはみな鍵をかけて閉じこもっていました(26節)。しかし、復活の主は繰り返し彼らに平和があるようにとの挨拶をもって出会い、特に弟子のトマスの信仰を引き出してくださいました。信仰のないところに信仰を引き起こし、告白する者へと変えてくださったのです。復活の主に対する告白であり、それが今のように多くの人々に覚えられる出来事とされたことは、彼もまた復活の証人として立たせられたということです。信仰の告白は証言であり、この世への宣言でもあるからです。救いと派遣は一つであり、イースターとペンテコステは不可分な恵みなのです。
 もはや復活の主をこの目で見ることはできません。それを語る者の言葉を信じるかどうかです。人への信頼をも深められながら、復活の主を信じる信仰共同体である教会が強められて行きます。人を信じることができる群れ、それが教会です。復活の主はそこにおられ、新たな出会いと派遣がこれからもずっと続きます。




大森教報 194号 (2014年12月21日) ふところを明かす神      佐藤 泰將

 ヨハネによる福音書 1:18
 イエス・キリストは「父のふところにいる独り子である神」だと聖書は告げます。神の深みにおいて、神の根源を知り、共有し、そのところで共にいるお方というのは、神のすべてを知るお方、神が神であるそのすべてを同じくするお方だということです。「この方が神を示された」のですから、神がご自身の大切なところを隠すことなく私たちに明かされたということです。もちろん私たちは神のすべてを知り尽くすことはできません。しかし、神は私たちに分かるように、受肉した御子キリストによって、神ご自身の大切なところを包み隠さず明かしてくださいました。だからこそ、キリストは「わたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」(十四・七)と言われたのです。私たちの救いに必要なことは、もはや奥義として隠されてはおらず、神の恵みとして明らかにされています。
 今は神の聖さを思う時期です。聖いとは聖書ではもともと「特別の用途のために取り分けられている」ことを意味しました。聖別するという表現もあります。人や物に使われると、何か特別に取り分けられているからこそ、近づきがたく、また簡単には触れられないとの思いが生じます。神に畏怖の念が生じるのも同じです。その意味で神は私たちとは異なり、隔絶されているからこそ、絶対者としての威厳を保っておられます。
 しかし、神はこの聖さを放棄されたと言えないでしょうか。ふところにある御子が、その深みを明かされたのです。それは御子キリストによって映し出された神ご自身の偽らざる姿であり、御心の成就でした。神の秘義は今やキリストにおいて実現し、現れたのです。
 潔癖な人は裏のない人ともいえます。自分の表に出した顔がすべてであり、隠すべきことはなく、良心の咎めを心の奥で、隠された背後の自分が感じることもありません。不正や不潔を隠す必要がないからです。人で言えばこの潔癖さを神はお持ちでした。人に寄り添う神からして、人のあり方から考えることを神は許してくださるはずです。神は裏のないお方です。たとい私たちに表したものが私たちの限界のゆえに、神のすべてではないにせよ、その表されたものは神のすべてをよく映し出すものだと言えましょう。神はどこまでも本音で人と向き合い、ふところ深くにあるものを明かしながら、ご自身の存在の深みにおいてすべてを受け止めてくださるお方なのです。少しも隠し立てをせず、まっすぐなお方です。この神に私たちもまっすぐに、本音を打ち明ける祈りをささげてまいりましょう。




大森教報 193号 (2014年9月21日) 神のみに栄光あれ        佐藤 泰將

 ヨハネの黙示録 3:7〜13
 「神のみに栄光あれ」(ラテン語で「ソリ・デオ・グロリア」)との思いは、キリスト者であれば誰もが抱いているものでしょう。人の誉れではなく、神のみ栄えをたたえ、すべてのことは神の栄光のためになされるとの決意のもと、自らの生活を律していくのが人として最も自然なことであるとの表明でもあります。
 しかし、当然で自然なことは容易に意識から薄れてしまうのも事実です。教会の歴史では、いつしか偉大な聖人や聖母マリアへの崇拝が前面に出てきてしまい、聖人信仰が生まれます。教会はどんな偉い人に捧げられているのか、あるいはどんな聖人の名を冠しているのかが気になる信仰です。また、自分は神からどれだけの報いが得られるのかが常に意識の中心を占める功績主義に傾いていきました。「神のみに」をあらためて信仰の基として据えなおす宗教改革が起こった所以です。実際「ソリ・デオ・グロリア」は、宗教改革の他の「のみ」と並べて改革の信仰と志を表すものとして用いられています(「聖書のみ」、「信仰のみ」、「恵みのみ」、「キリストのみ」)。
 地上の教会は天上の礼拝にならい、自らのあり方を考え、整えてきました。その天上の礼拝を伝えるのが、終末時の完成されたときを語る黙示録です。地上の教会の実際の構造にも影響を与え、たとえば六・九に殉教者の魂が祭壇の下にあると記されていることにならって、教会の墓地が祭壇下に造られたりしました。
 主なるキリストは「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう」と約束されました(十二節)。命の書に書き記され、白い衣が着せられ、自分の新しい名の刻まれた白い石が与えられるとも記されていますが、神殿の柱にされる恵みには、そこに自分の名が刻まれているとは言われていません。ただ神の名と都の名、そしてキリストの新しい名が記され、神の所有となり都の一員であることが刻印されているというのです。自分の名や功績がこれ見よがしに神殿の柱としての自分に刻み込まれていることはなく、ただ神のみが覚えられることを描いています。
 神の玉座の周りにいた者たちも、自分たちの冠をすべて玉座の前に投げ出して主なる神をたたえています(四・一〇以下)。わたしたちには聖人信仰や功績主義はないと断言できるでしょうか。著名な人が通っていた教会ということで教会を宣伝したり、あるいは自分の名を教会に残したいとの思いがいつしか生まれてはいないでしょうか。「ただ神のみに栄光あれ」、地上に生かされている間も、このことのみが刻まれている信仰者でありたいものです。




大森教報 192号 (2014年5月18日) イエス・キリストのみが土台   佐藤 泰將

 コリントの信徒への手紙 一 3:10〜17
 今年は大森教会教会の伝道開始から110年、また現礼拝堂献堂から55年にあたります。そして今年の一月から始まった改修工事は無事三月末で終了し、あらためて献堂の思いが与えられているのは、この工事のために祈り捧げてくださった多くの方々に共通でありましょう。これまで刻まれた歴史からバトンを渡された私たちは、神に託された福音宣教と教会形成の業にいよいよ邁進すべく、自らを整え検診を新たにしたいのです。それが神によってご委託を受けたわたしたちのなすべき応答であり責務ともいえましょう。ここに新しい歴史が生まれます。

 55年前の1959年10月11日、献堂式において読まれたのがコリントの信徒への手紙一、3:10〜17でした。そこで語られるのは、据えられるべき土台はイエス・キリストのみであり、土台はすでに据えられているとの教えです。(11節)。この生ける神の子キリストに生ける石としてわたしたちがどう組み合わされ、教会を形成していくかが問われています(一ペトロ2:5)。教会は私たちであり、このわたしたちの内い神の霊が住み、わたしたちが神の神殿となっていることをよく認識するようにとのパウロの勧告は、生きているがゆえの静かにきっちりと組み合わせることの困難な私達の間に神がおられ、仲立ちとなり、つなぎ合わせてくださっていることに目を向けさせます。。私達にはどうしてもできないことも神はそのところで共に生き、寄り添い、助けてくださっているのです。一方でわたしたちがどう建て上げ神を迎えるにふさわしく整えるのかという責任がとわれながら(12節以下)、他方その形成途上にあってもすでにそのところに神がおられることをパウロは示します(16節)。十全に建てあがってからではなく、神は建てようと奮闘する私たちと常に共にいてくださるのです。

 神が寄り添って歩んでくださる歴史は今もなお進められています。神の神殿としての教会が、わたしたちの内に、そして私たちの間に、完成に向かって作り上げら得ているのです。私たちは教会建設を祝いますが、それが教会「堂」建設を意味せず、助け合い、支えあう私たちが、そのところで神に出会う経験を重ねながら、キリストの実を土台とする共同体が形成されたのを祝うのです。敗れの中にも忍耐と憐みをもって臨んでくださるこの神は、愛に生き、キリストを証しする場、そして礼拝の場をも備えて、好き礼拝者としての群れを支えてくださっているのです。




大森教報 191号 (2013年12月22日) 傍らにおられる神        佐藤 泰將

 創世記15:1〜21
 創世記15章は、アブラム(のちにアブラハムに改名)が神からの約束をいただき、主を信じた彼は「義と認められた」と語ります。新約時代に生きる私たちにも、主の約束を信じることが神との正しい関係の始まりであると教える大切な場面です。目に見える現実がどうであれ、神の約束の実現が確かであることを告げています。実際、そのときアブラムが目にしていたのは、弱い自分であり、この先どうなるかわからない家族の者たちでした。しかし神は、何か神秘的な幻を見させるのではなく、おそらくそれまで何度も見たことのある星空に目を転じるようアブラハムを促しました。

 アブラムが実際に目にすることのできるもので、そこに新しい意味を見出すようにと導かれ、そしてそこから神の約束の確かさを信じる心が与えられたのです。それは現実のこのところで神の約束が実現するとの信仰でした。神の業が起こるとは思えない者をも用い、神の業の生起する場として下さり、それが確かに起こることを信じるようにさせてくださるのも、一切が神の側の先行する働きがあったからこそでした。

 そして、神がアブラムとの契約関係に入るというのも、神が約束を違えれば、そこに並べてある引き裂かれた動物たちと同じようになってもよいとする儀式によりました。それは神の側が水かkらに制約と限界づけを課すという「神の自己限定」のなすところでしたが、この契約締結式でも、神の側が人間と同じ地平に立ち、そのような関係に自ら入ってくださったと聖書は告げています。

 人は時間と場所に繋がれている存在であり、そこからしか問いを発することができないよう限界づけられているにもかかわらず、神はその問いを真剣に受け止め、応えてくださるのです。それは人の現実を否定することでもなく、またそこから引き揚げての答えでもなく、その現実の中へと突き刺さり、そのところで響く神の答えでした。創世記の15章のアブラムの問いは素朴な「何を」であり、それが「どのように」起こるのかというものでしたが(2節)、その問いに対する神の答えも、大変具体的であったことは(13節以下)、神の答えがいかに人に寄り添い、傍らで告げる声であったかがわかります。神をどこか上へ上へ、あるいは奥へ奥へと求めているとき、傍らにいてくださる神に気づくことはありません。神は人となってわたしたちの間に宿られた(ヨハネ1:14)というのはまさしく、傍らにいてくださる神を証言しているのです。




大森教報 190号 (2013年9月15日)  最も大切なこと         佐藤 泰將

 コリントの信徒への手紙 一 15:1〜11
 使徒パウロは教会に起こったさまざまな諸問題に対処し、勧告を与えたのち、そのような問題に振り回されて信仰の本道からそれてしまう危険を知って、常に立ち返る先を改めて述べています。それを「もっとも大切なこと」として記すパウロは、キリストの十字架と復活を福音として、恥じることなく、臆することなく、提示するのです。すべての解決がここにあるとの確信に満ちたものでした。

 パウロのギリシア語圏での伝道は、ある一定の成果は得られたものの、その反面、大変屈辱的でありました。人々は嘲笑い、口汚くののしることもしばしばであったようです(使徒言行録17〜18章)。何かもっと気のきいた話をして済ますことでもいいのではないか。そう思ったとしても不思議ではありません。しかし、パウロはキリストの十字架と復活に徹底的にこだわりました。ここにこそ、神ととの関係を正しいものとし、詩を克服する力があるからです。キリストを知る前は、「神を知らずにもともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は、神をしっている、いやむしろ神から知られている」関係に置かれています(ガラテヤ4:8〜9)神が自分たちをそのような関係に置いてくださったのは、自分たちが罪と過ちの真っただ中にあるときだったのです。 

 パウロは福音を確認する際、」最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、私も受けたものです」(三節)と述べますが、ここには、こんな自分にも福音が伝えられたとの深い感謝の念が込められているのに気付きます。自分の信念でぐいぐい押してくるというより、感謝の思いに突き動かされたパウロがまさに恵みに押し出されながら、自分の受けた福音を身をもって証ししているのです。この自分を見よとの提示です。そこには、誰も神によって見捨てられることはないとの確信があります。だからこそパウロはどんなに馬鹿にされても、軽蔑されてもめげませんでした。

 「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。この街には、わたし民が大勢いるからだ」(使徒言行録18:10)。これはかつてパウロがコリントで聞いた神の励ましです。ずっと心に響いていたことでしょう。そして

与えられた者たちは、その後どんなに道を外したとしても神が「わたしの民」と言ってくださるものたちなのです。正しい道へと連れ戻す必要が生じようとも、神の民であり続けます。神は決して見捨てない。それは今も同じです。




大森教報 189号 ヨブ記の中の福音                佐藤 泰將

 ヨブ記 33章
 ヨブに忠告を与えた三人の友人たちがあきらめて、もう語ることをやめてしまったとき、一人の年若い青年エリフが語ります。彼は神が最後現れてくださるとき、ヨブやその友人たちとは違って、咎められたりしていません。その意味で、彼の語るところには多分に心理が含まれていたと読むことができます。

 エリフは、主権者なる「神はそのなさることをいちいち説明されない」(13節)と指摘します。かつて神に祝され豊かな歩みを続けていたヨブは、麗しい信頼関係には何も隠し事はありえないとの思いから、被造物の一線を越えて知らず知らずのうちに自分を神の位置に置き、高ぶりの罪に陥り、思いあがっていました。それも自分にその理由がわからない激痛が襲うと、神の不正だとわめきちらし、「神に向かってまくしたてている」(34:37)のです。それも自分の身にそれが降りかかってはじめて神を責め始めたヨブは、自分にとっていかにかつて人の苦しみが他人事だったかを露呈することになりました。そのような苦しみを通って人々がほかにも大勢いるときに、彼は自分の幸いの中で満悦し、必要な助けを授けながらも、幸福な人が不幸な人を見下ろす援助でした。

 しかし、自分ではどうにもならず理由もわからない肉体の激痛が襲うとき、人にまつわりつく苦しみから逃れるすべが人にはないことが告げられます。それは肉体的なものに限らず、人を苦しめそこに閉じ込めるものすべてにいえることでしょう。自分以外の執り成し手、神の側からのだれかが「大小を見つけてきました」(24節)と言ってくれなければ、そこから抜け出せないのです。自分がその中でもがき苦しんでいるとき、確かにそのような執り成し手が与えられる、そのときあなたは回復が与えられ、御顔をあおぐことがゆるされるだろう、主であり聖なる絶対者の前に立たせられるとき、あなたはその罪を認めながら、人々の前で彼らに向かってうたうようになる、自分の罪深さをあからさまにしながらも、その恥をもしのぐ喜びに満たされ、自分に与えられた恵みを証ししながら生きる者となるであろうとエリフは語ります(26〜28節)。そして、それを先に延ばすことなく、今そうすべきではないか、へりくだって、時を待たずして今できるはずだと強く促すのです。 

 恵みを待つのではなく、すでに与えられていると悟ることからはじまる歩みがヨブに備えられていました。わたしたちも同じです。
 




 大森教報 188号 大いなる神をたたえる                  佐藤 泰將

 ルカによる福音書 1:46〜55
 マリアが親類のエリサベトによって祝福を受けた時、マリアの口から讃美の言葉が溢れ出てきました。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(47節)。最初の「あがめる」と訳されている言葉は、もとのギリシア語では「拡大する」という言葉です。そのラテン語から、このマリアの讃歌全体が「マグニフィカート」と呼ばれているのです。神を大いなる方として受けとめることができるようにされたとの喜びと幸いの調べは、体全体が感謝に震えるさまをよく表わしています。

 エリサベトによって語られた幸いの言葉が、マリアの内にこの讃歌を生み出しました。それに続いて、喜びの共有がなされています。マリアの讃歌はひとりの言葉ではなく、そこに共にいたエリサベトをも包みこんで神へとささげられた賛美となっていました。讃美の中にお互いが包まれ神に至る幸いが描かれているのです。まさにこれが福音の祝福の連鎖であり、人をその中で生かす福音の力です。

 神の大いなることは変わりません。それを自分の方がどう見るのか、それがかえられた喜びにこの讃歌は溢れています。確かに、自分の側で神をどれだけ正しくかつ「大きく」見ることができているのかと問われれば、そこには罪人である限り限界があると言わざるを得ません。しかし、その限界の中にあっても、「より大きく」見ることができるよう神は変えてくださるのであり、その業が続くのです。それはこのマリアの場合のように、人を通して語られる喜びと祝福の言葉、福音の伝達によってなされ、またあるときは神の側からの言葉や啓示によって起こるといえましょう(2:10以下)

 神を自分の方から「より大きく」見ることが許されるとき、同時に神がどう自分たちを見ておられるのか、神の目に映る自分たちの姿を深く思わされることになります。ここでキリストを三度否定したペトロを思い起こします(2:54以下)彼は、すべてを見通していた主と目があった時、自分のふがいなさに大泣きしたのでした。それは主の眼差しの中で打ち砕かれる深刻な経験だったことは事実です。しかし、それを神は新しい自分が生まれる出発点としてくださったのです。マリアの賛歌でも、力ある御腕によってなされる正義の業が歌われているとおり(51節)、神は自分たちを常に顧み(54節)、その眼差しの中に置き続け、罪のただなかに救いの業を起こし続けてくださるのです。神の見ておられる中で生まれる新しい創造の連鎖でした。




大森教報 187号 仕える喜び                                                    佐藤 泰將
  ペトロの手紙 一 2:9〜10
 教会の一員であるとはどういうことかあらためて考える機会がありました。それはある書に「洗礼はキリスト者が王なる祭司職へ任職されることを意味する」とあったのがきっかけです。かつて16世紀に宗教改革が起こったとき、また現在でも、教会の中で聖なる司祭職に就くことは「叙階」と呼ばれ、段階を経て特別に受けることのできる儀式でした。日本語では「任職」とは違う言葉で訳し分けられていますが、もとは同じ言葉です。聖職に就くことですから、そのために、他の一般信徒とは本質的に異なるものに変えられることを必然的に意味していたのです。俗人とは異なる聖なる存在になったからこそ、聖い神に仕えることができるとの考えが背景にあります。神に仕える祭司職は人々から敬われる大切な職務であったことは確かですが、それができるのは一部の人々であったわけです。

 しかし、聖書は、聖なる祭司職にあずかるのは、キリスト者一人ひとりであり、また神の民が全体としてその務めを担うと教えています。その意味ではだれもがキリストと共に祭司職にあずかり神に仕えることができるのです。神の民が祭司であることは旧約聖書以来の伝統で、先の一ペトロの言葉も出エジプト記19:6からの引用です。さらにはアブラハムの召命の記事(創世記12:1以下)にも神との間で祝福の経路となって仕えることになる神の民の在り方が述べられています。

 このことが16世紀の宗教改革の際に確認され、「万人祭司」とか「全信徒祭司性」と呼ばれる教理が確立されて行きました。祭司の務めにあずかるのは、叙階を受ける時ではなく、洗礼を受ける時に起こるとの認識が最初に引用した言葉に込められているのです。

 その結果、以前は俗なるもので神から遠く、おまえなど神に近づく資格はないと追い払われていたところで神に仕えることができるとの使信が福音の喜びとして広まっていきました。だれもが神に仕え、神に向き合い、神に祈りをささげることができるとの喜びです。それは礼拝の中でみんなで讃美歌を歌うという、会衆讃美の回復という出来事にも表れています。さらには会員が礼拝の中でさまざまな務めを担うことに繋がっていきました。どれも神につながることができる喜びに裏打ちされた奉仕であって、重い義務では決してなかったのです。

 「あなたは祭司である」と言われると戸惑うかもしれませんが、このことを大事にすることが宗教改革を経て今に至る私たちの教会の伝道なのです。




大森教報 185号 (2011年12月25日) 福音は色あせない                  佐藤 泰將

 ヘブライ人への手紙 10章19〜25節
 私たちは自然の猛威の前にいかに小さな存在であるかを思い知らされ、自らが築き上げて見上げる楼閣がどれだけ崩れるのに早いかを痛感しました。自然の破れと人間の罪とかけが避けがたく存在しているなかに生きざるを得ないことから来る苦しみと信仰の疲れを感じることもしばしばな私たちです。それも時間が経つにつれて、このような苦しみが世界のいたるところで発生していることに改めて気づき、多くの人々がそれぞれの出来事の中で傷つき、呻き、どこへ向けたらいいのかわからない怒りを内にため込んでしまっていることに悲しみます。これまで自分たちがどれだけほかの人々の苦しみに寄り添うことができたのかと反省もし、いざ自分たちに起こった時に同情を求めるのはいささか虫がよすぎないか、と自ら問うたりもいたします。私たちの苦しみは多くの一つにすぎなくとも、身近なところで起こった苦しみは、決して他の人々にはわからないと思え、なぜ自分たちがこんな目に遭うのかと叫ぶのです。

 悩みと苦しみの錯綜するなかで、教会は何を新しく語るのか、その新しい言葉を求めてシンポジウムなども多く開かれています。しかし、このとき、絶望を希望と勝利の始まりとしてくださった御子キリストの十字架を指し示すことは、「聞き飽きた言葉」を繰り返すことではありません。主イエスは神殿の「垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道を私たちのために開いてくださったのです」(20節)と受肉の神を語る聖書の言葉にあらためて思いを馳せましょう。キリストの到来は、神とつながる道がこの世界から始まる道として備えられたことを意味しますが、それはこの世から逃れて神に至る道なのではなく、むしろこの世に在って神と繋がり、神の力によって強められる道、神の側から希望と勇気がやってくる道といえましょう。御子キリストは苦しみの満ちたこの世の中で最後まで従順であることができました(5:7〜8)。この世に在って神の御心に生きることが可能であることを示してくださった御子に倣うようにと聖書は私たちに告げているのです。

 この時代にあって、新しい言葉を求めてさまよい歩くのではなく、これまで歴史を通じて守られ伝えられてきた「福音の言葉」が現実の困難を乗り越えさせてきた事実を見なくてはなりません。そしてこの自分もその一人として、次の時代への「福音の証人」として今を生きるようにされたいものです。子の福音は決して色あせることはありません。




大森教報 184号 (2011年9月18日)あなたを見つめる神                佐藤 泰將
 ヨブ記3章1〜26節
 ヨブは大富豪といえるほど豊かな生活を営んでいました。そのすべてが神からの祝福であると感謝し、信仰深く歩んでいた彼に突然の不幸が襲います。

 最初は優等生の告白を口にした彼が、嘆きと苦しみの叫びを率直に口にするようになります(3章以下)それは彼の真実の叫びでした。幸福であったときには夢にも思わない言葉が口を突いて出てくるのです。激しい苦しみの中では、幸いを享受していたころの自分が決して口にしない言葉がでてくるものです。それをヨブは経験しました。

 失意の中に置かれた彼は、生まれたことを呪い、死者の世界である陰府にあこがれるほどになりました。いっそのことそこへ降る方がましだと激しく叫びます。今の自分になお新しい日が与え続けられる意味が何であるかと問い続けるのです(20節)。

 一般の考え方に倣えば、犯した罪のゆえにこのような目に合うことになったのですから、その自分を深く顧み、悔い改めることによって神を証しすることができたでしょう。かつての自分の子供たちのために心配したように(1・5)今度は自分の罪を心配することもできたはずです。しかし、彼の激しい苦悩はおさまりません。彼は自分の正しさをしんじていまし新しい生きたし、神の与え続ける光といのち(20節)がある一方で、苦しみも増し加わる現実の中で、そのすべての調和を問う問いかけが続きます。

 自分には見えなくなっている神にすべてをぶつけていくのは、神への反抗であり挑戦であると同時に、この神を信じ続けたい彼の願望の表れです。いってみれば、ヨブの叫びは神を信じるが故の叫びでした。彼は自己肯定に終始したこのように目ながらも、その中で彼がしたことは、神の正しさにどこまでもこだわることだったのです。醜い不信仰の叫びどころか、神の義を自分を賭して証しすることになっていました。

 彼のこのすべての問いかけを神は聞いてくださっています。神の答えはまだまだ与えられず、渦中にある呼ぶには、神は沈黙の神であり続けました。神が見えなくなっている自分の前に、さらに垣根が築かれ遮られていると感じるまでに彼は落ち込みます〈23節)。

 ですが、聖書はそのすべての叫びを聞き遂げていてくださっている神を、背後に提示するのです。神を見ることのできない彼を、神はずっと凝視しています。このようなヨブを描き、そのすべての背後でヨブを見つめる神の存在を確認することによって、規制観念への挑戦がなされているのです。




大森教報 183号 (2011年5月15日)信仰が揺さぶられる今こそ   佐藤 泰將

 マタイによる福音書 24: 3〜14

 信仰とは、それを選ばない選択肢が開かれていながらもなお選び取る道であるといわれています。その意味で常に信仰から逸れていく道が自分の目の前で大きく分かれて誘っているのです。信仰の分岐点において、そこに踏みとどまるよう傍らで支え励ましてくださる御声に従うかが問われています。

 キリスト者は歴史を通じて試練と誘惑に遭いながらも信仰の試練と誘惑に遭いながらも、信仰を選び取ってきました。信仰の試練と呼びうるものが、何か精神修行の領域でのことではなく、現実の出来事として今、私たちの世界の起こっています。それは未曽有の震災であり、その後の深刻な二次災害の広がりです。いずれも目に見えて起こった現実の出来事であり、後者については目に見えないものへの恐れが伴っています。目に見える敵と見えない敵とが同時に私たちに襲いかかっているともいえる事態が進行しています。

 しかし、それらの敵にさらされ深い傷を負った私たちは特別であるのかとあらためて問うてみますと、歴史を通じてキリスト者が戦ってきた相手はいずれも、目に見える敵と見えない敵の両者であったことに気づかされるのです。目に見えるかたちでの迫害とその背後にあって信仰を脅かしているものに対して、いかに勇敢に戦ってきたか、聖書のみならず教会の歴史が証言しています。人の目にはこの世の終わりかと思わせる状況が起こることが主イエスも預言されていました。主は弟子たちに「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や自信が起こる。しかし、これはすべて産みの苦しみの始まりである。」(7〜8節)と言われ、さらには残酷な迫害も起こることが述べられています。信仰をもち、神の御心に従う者も通らなければならない苦難があるという現実を見据えさせているのです。そのうえで主イエスは、そこにとどまってころ果たすべき使命があることを告げられました。「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる」(14節)。主イエスは、この置かれた状況の中で信仰が問われながらも、まず御国の福音が宣べ伝えられなければならないと言われたのです。希望と慰めと救いの福音は、常にいかなる状況下でも担い伝えるものが起こされてきました。今こそ伝えるべきことが委ねられていると自覚した者たちが立ち上がって来たのです。信仰を揺さぶる敵のすべてとキリスト者は常に戦ってきました。その同じ系譜に入れられ、先に戦い凱旋し先達たちの仲間に入ることができる恵みと幸いを覚える今この時でありたいものです。




大森教報 181号 (2010年9月19日)光の子として歩みなさい    佐藤 泰將

  エフェソの信徒への手紙 5章6〜20節

  ぬくもりのある柔らかな光が私たちを包んでいます。もしまばゆいばかりの強烈な光線が私たちを焼き尽くすのであれば、それは被爆者の語る恐怖の熱線に近いものです。罪を明らかにし、かつ醜さをさらすだけでなく、すべてを滅ぼしつくすのであれば、そこにあるのは恐怖だけでしょう。だれもそこへと入っていこうとは思いません。しかし、パウロは「あなたがたは以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています』(8節)と語ります。光にさらされて滅ぼされるのではなく、その光になっている、自分の存在がなくなってしまったのではなく、光の中で生かされるようになって、いるというのです。それはあなたがたがいまの自分を振り返ればわかるのではないかとパウロは迫ります。いまこのとき、キリストのいのちに生かされていることをあらためて思わせているのです。
 しかし、自分にある多くの罪と欠けを痛感し、常に悔い改めざるを得ないのが私たちではないでしょうか。わたしたちはとても「光となっている」とは思えないのです。そのとき、自分が知っている以上に私たちのことをよくご存じの主が、あなたがたは光となっていると宣言してくださっているのです。それは「神にかたどって造られた新しい人を身に着け」ているからであり(4:24)、私たちを覆うようにして守ってくださる基督を神が見ていてくださるからなのです。キリストと共なる歩みがあり、そこにおいてあなたは本当に生かされ、輝き出し、あなたのすばらしさが現れ出るようになっているとパウロは告げています。
 私たちは自信を持って歩んでいいのです。「光の子として歩みなさい」(8節)との勧告に、気負う必要もなければたじろくこともありません。私たちが神からいただいた恵みに感謝し、それによって生かされていること自体で、もうすでにその歩みがなされています。自分のありのままをまず受け入れてくださる主がおられ、そこで受ける恵みに応答する信仰が、光なる方を指し示し、証することになるのです。
 主イエス・キリストの福音の下で与えられる光は、人を生かすだけではなく、光の働きを共有する者へと人を変えていきます。「明るみに出しなさい」(11節)と言われている働きに加えてくださるのです。キリストが共にいてくださる光の歩みがその働きを担っています。それは人を滅ぼすのではなく生かす福音の働きなのです。




大森教報 179号 (2009年12月20日)真理について証しをする    佐藤 泰將

 ヨハネによる福音書 18章36〜38節

主イエスは、「わたしは真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た」(37節)と言われました。主のお言葉として、ご自身が何のために生まれたのかが語られたのですから、私たちがそれに注目しないわけにはいきません。飼い葉桶に眠る幼子イエスに見る聖さと純朴さに心打たれ、神聖な人間の原像の前にひれ伏し、神の受肉に感謝をささげるとき、その出来事がそれ自体で完結するものではなく、目的をもって起こった神の業であり、神の固いご決意がその背後にあったことを知らなくてはなりません。
 それは御子が真理を証しし、そこに招き、決断をもって応答する者たちにご自身も享受する神の祝福を分け与えるためでした。「この世に来た」のは、ご自身とまったく異質であり、敵対するものたちの中へと入って行くことでした。しかし、それをあえてご自身に託された使命とし、真理の証しに身をささげられたのです。
 「生まれる」という言葉は、ヨハネによる福音書ではここ以外ではキリストに従う者たちに用いられています。主イエスについて唯一用いられているこの個所で、この世の権力者に対峙しながらも、真理を証しし、その道を歩むようにと招く姿を描く聖書は、「神によって生まれた」(1:13)者たちにも主イエスと同じ使命が与えられていることを示します。「霊から生まれた者」(3:8)は聖霊によって新たにされた者であり、この世にいながらも来るべき御国の祝福にすでにあずかり、聖霊に押し出されて生きるのです。復活の主は言われました。「『父が私をお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(ヨハネ20:12-22)。主のこのお言葉は私たちにも向けられています。
 キリスト者に与えられた新生の恵みは、キリストと同じ姿にあやかることです。それはわたしたちが今置かれているこのところでキリストと同じように歩めるよう聖霊の支えを信じて生きることなのです。私たちの周りには私たちでないと福音を伝えることのできない者がすでに目の前にいるのではないでしょうか。だれかがではなくこの自分が神に期待されていること、この自分にしかできないことがあるはずです。神が土の器にすぎない自分をも用いてみ業をなしてくださることに期待しましょう。そして、この背後に確かに神の御手による支えがあり、先行する神の働きに参与していると確認して、御国の祝福に生きたいと思います。



 
大森教報 第178号 (2009年9月20日)別の弁護者を遣わす      佐藤 泰將
  ヨハネによる福音書 14:15〜31
 主イエスはこの地上での生涯が終わりに近づいたとき、弟子たちに「別の弁護者」が与えられると語られました。「弁護者」とは、原語では「そばに・呼ぶ」というつくりをしていますから、傍らに助けのために呼び寄せられて来ている者のことです。それは、肩を持ってくれる者であり、助け手であり、慰め、励まし、また弁護してくれる者のことを言います。それは父なる神が主イエスの名によって遣わされる聖霊のことです(26節)。また、「別の」弁護者と語られているのは、主イエスが最初の弁護者であったことを意味しています。復活し、昇天した主イエスのお働きについて、ヨハネ2・1〜2節で、罪のとりなしをしてくださる「弁護者」として述べられているとおりです。
 聖霊は私たちの目には見えませんが、神によって確かに与えられ、遣わされています(16、26節)主イエスの教えられたことを思い起こさせてくださるとありますが(26節)、それは今は亡き主イエスの想い出にゆっくり浸る生活を
させてくれるということではありません。主イエスの教えに生きることができるよう、傍らで励まし、支え、導いてくださるのです。それも、苦悩と危険に満ちた世に生きざるを得ない者に対して、力となる教えを与え、主イエスを映し出す
群れとして建て上げてくださるということです。それは共にいてくださる神の働きであり、神の現臨をもたらす聖霊が、主イエスとの一体性の中で遣わされ、主イエスの現臨としていてくださるなかで起こる恵みの出来事です。すべてを統べ治めたもう三位一体なる神が、個別な一個人の状況にも、その存在の全体をもって共にいてくださり、その中で生かし、克服の力を与えてくださるという約束の言葉でもあります。今は無い神の臨在を懐かしむのではなく、神の現臨をもたらす聖霊と共に、豊かに、また勇敢に今の世を生き抜く力を与えられる経験です。
 これから逮捕・十字架へと向かう途上にあってこれらのことを主はお語りになりました。やがて弟子たちは主イエスを見捨てて逃げ、自分たちの勇気のなさに愕然とすることになります。そのようなときにも、お互い愛し合い、受け入れ合い、支え合うときに、まさに同じようにしてくださる聖霊と一つとなり、主イエスへの信仰に生きる群れとして、主イエスを映し出すようになるのです。弟子たちの弱さをご存じの主はあらかじめこのことを語り、信仰の挫折を感じるときにもなお愛され、支え導かれていることを教えてくださったのです。



 
大森教報 第177号 (2009年5月17日)共にいてくださる神       佐藤 泰將
  ヨハネによる福音書 20:19〜23
 私たちは主イエスの復活そして聖霊降臨という一連の時期を、神の力と恵みとを覚え過ごします。聖書は、私たちのいかなる罪と過ち、不完全さにもかかわらず愛をもって臨んでくださる神を証言しています。それはクリスマスからイースター、そしてペンテコステを通じて一貫した神の恵みです。神共にいまし給うインマヌエルの神を明らかにする御子の誕生、そして失望と落胆で自らを閉ざす弟子たちの「真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』」言われた復活の主との出会い(19節)、その復活の主が「聖霊を受けなさい」(22節)と言われ、神の常に変わることのない臨在の中に生かされる恵みの提供、これらすべては私たちのあり方にかかわりなく、神がその聖なるあり方とは異なる私たちと共にあろうとしたご決断を表しています。それは決して神の周辺部で起こった事柄ではなく、神の御子が来られ、聖霊が与えられることに示される通り、三位一体の神がすべてを注ぎ込むようにしてなされた恵みの業なのです。死ぬことのない神が、御子の死によってご自身の内に死を取り込まれながら、それを復活によって覆し、聖霊による新しいいのちの根拠を据えられました。
 復活の朝、墓の出入り口の石がころがされていたとあります。石が地震によってころがされたと記すマタイによる福音書も、石がころがされるのを待ってイエスがそこから出てきたとは記していません(28:2)。石がころがされたというのは、主の復活はすでに起こっていることを見せるためでした。すでに神の力ある業はなされていたのです。石がころがされてたとは、人間の側で神のみ業を見えなくしている障害が神によって取り除かれた事を意味しています。復活の主の顕現の際も、弟子たちは「自分たちのいる家の戸に鍵をかけ」(19節)、自分たちだけで閉じこもっていました。自分たちで壁をつくり、自分たちにしか目を向けていない姿です。不安と恐れが彼らの心を支配していました。しかし、その壁がないかのごとく主は彼らの真ん中にたち、平和を語ってくださったのです。主は彼らのところに来てくださり、共にいてくださることを恵みをもってお示しくださいました。主のことが見えなくなっていた彼らは目が開かれ、臨在の主を喜ぶことができたのです(20節)。
 聖霊を受けることに関しても、毎年のペンテコステで聖霊降臨を祈り求めるのが大切なのではなく、今すでに与えられている聖霊に目が開かれることこそ大事です。ここに神の啓示の業があるからです。



 
大森教報 第176号 (2008年12月21日)御子を差し出す愛       佐藤 泰將
  ヨハネによる福音書 3:14〜16
  「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と聖書は記します(ヨハネ3・16)。神はこの世に愛する独り子をお送りくださったのです。この「世」というのは、神に敵対しているものすべての総称です。ご自身に反抗しているにもかかわらず、神はそれを愛してくださいました。罪の中にある時に神のほうから近づいてくださった恵みが言い表されているのです。
 この世というと漠然とした感じがしますが、いわゆるこの世界というときのような無機質なものではなく、むしろ抗しがたい力をもって縛りつけられ、うごめき、わめき、喧騒と争いのなかに生きざるを得ないわたしたち人間すべてのことです。この世の中にあって叫び、苦しみもがいている者の声を神はお聞きになっていたに違いありません。
 実際、先の聖書の言葉は、ある一人の人が主イエスと向き合い、求道の対話を交わした場面で記されています。まさにこの世に縛られ、囚われていることを象徴する一人の人に、神が向き合ってくださった恵みでありました。神がこの世に注がれたを愛を、主イエスがその一人のところに運び、真理へ招いてくださったのです。この世のすべてを大きく包み込むように注がれている愛は、一人の人の目の前にまで運ばれて来たのです。
 この愛は決してセンチメンタルで壊れやすいものではありません。独り子を十字架上でささげ、すべてを解決させる神の強い意志の現れでありました。神は、その独り子を「この世に」与えてくださっただけでなく、「十字架に」引き渡してくださったほどに世を愛されたとの意味も、先の言葉には込められています。父なる神は御子を愛しておられたその愛を、御子に代わってこの世に注いでくださったのです。御子を死に引渡し、それと引き換えに、この世を救おうとされたという驚くべき神の恵みと愛を伝えています。
 神は罪ある者一人一人と向き合い、そのすべてを受けとめてくださるお方であると同時に、その解決のために、人の力ではできない罪の贖いを自らの手で十字架上で成し遂げてくださいました。神が自らの独り子を犠牲にするまでこの世を愛し抜かれたのは、ただこの世を救うためであったと告げる聖書は、淡々とその事実のみを記していきますが、この背後で神がどれほど痛まれたか思わざるを得ません。この世の中に縛られ囚われているこの一人の自分にも、神が自らを裂くようにして犠牲を払い、愛を注いでくださったことを知るのがクリスマスなのです。



 
大森教報 第175号 (2008年9月21日)床を担いで歩け         佐藤 泰將
  ヨハネによる福音書 5:1〜9
 主イエスは祭りのためエルサレムへと上られました。そこには犠牲としてささげる羊を運び込むための門があり、その傍らの池のまわりに多くの病人や体の不自由さに苦しむ者がいました。祭りで楽しむ大勢の者たちの背後で、その楽しみに加われずに苦しみに閉じ込められていたのです。祭りの賑わいとは正反対の状況です。そのところに、主イエスはあえて訪ねて行かれました。神の子羊である主イエスが、やがて自らの命をささげることになる都エルサレムで、苦しむ者のところへと来られたのです。
 そこで38年間も病気で苦しんでいる人を御覧になり、問われました。「良くなりたいか」(6節)。
 あたりまえのことをあえて問うたというより、よくなるという希望も意志もすでに失せていたこの人に、もう一度自分の口からその希望を語らせ、生きる意欲を起こさせるための問いであったと考えられます。しかし、この人は力強く「はい、よくなりたいです」と応えることができませんでした。自分には助けてくれる人がいないという絶望の言葉をつぶやくことしかできなかったのです。そのようにしか応えられないこの人の現実を受け止められた主は、もうそれ以上のことを求めることはされず、ただ力強く命じられました。「起き上がりなさい」(8節)。
 福音書では、「起き上がる」とは主イエスの復活を指し示す言葉であり、死から命へと移されることです。主はその言葉をもって、新しい命を生きよと命じられたのです。自分の小さな信仰の枠の中でうめき、倒れているとき、そのところに来て引き上げてくださるお方こそ主イエス・キリストです。
 主に命じられて、横たわっていた彼は、起き上がり、立ち上がって、歩み始めました。命じられたことが自分でできることなら、この人はとっくにそうしていたでしょう。しかし、自分にはできなかった。主のお言葉が必要だったのです。主のみ声によって立ち上げていただくということでしか起こらなかったのです。
 主イエスは「床を担いで歩きなさい」とも言われました。床とは、倒れている自分の居場所を表すものであり、彼がそこに縛りつけられている現実を象徴しています。しかし、彼は主のお言葉によってそこから解放されました。そして、自分を虜にしていた現実を、逆に担って歩み出すことが可能とされたのです。自分を蝕んでいた現実は、新たな命に生きる者が、新しい歩みをはじめる出発点に変えられていました。そして自分はどこから解放されたのかを証ししながら歩む者となっていたのです。



 
大森教報 第174号 (2008年5月18日)すべての民を弟子にしなさい  佐藤 泰將
  マタイによる福音書 28:16〜20
 主イエスが復活されたことを婦人たちに告げた天使は、弟子たちがガリラヤに戻るようにとの伝言を託します。弟子たちはそこで「主イエスが指示しておかれた山に上った」とありますから、主ご自身からも前もって命じられていたようです。イエスが処刑されたところではなく、共に豊かな日々を過ごし、力ある業を目の当たりにしたガリラヤへと帰るように言われたのです。そこで復活の主との出会いがあったと聖書は語ります。
 そこは初心に帰ることのできる場でしたが、同時にそこからの再出発は、ガリラヤにとどまらずエルサレムへと向かいながらも、さらにそこを越えて全世界に目を向けられていた主イエスの足跡を、もう一度たどり直すことになるはずです。弟子たちは今度は復活の主と共にその歩みを進めることになったのです。
 弟子たちは復活の主にお会いし、ひれ伏して礼拝します。ここで聖書は「しかし、疑う者もいた」と記すのです。一部の弟子たちは疑いを持っていたという理解ですが、このところは、「しかし、彼らは(皆)疑った」とも訳せます。たとえ復活の主を目の前にしても弟子たちは皆疑ったということはありそうなことです。礼拝する群れに疑いの心を持つ者がいることも、あるいは自分を振り返れば、だれもが疑う心を拭いきれていないことを告白せざるを得ないこともまた事実でしょう。それが人間の現実であり限界です。
 しかし、主はそのような群れに主ご自身の方から「近寄って来て」宣教を託す言葉を告げられたのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、全ての民をわたしの弟子としなさい」(19節)。信じ切った群れであり信頼が置けるがゆえに命じられたのではありません。むしろ、依然として欠け多く、信仰の足りない群れであるにもかかわらず、宣教を託されたのです。それも、啓示と神顕現の生起する象徴的な場としての山へと招きながらそうされたのでした。復活の主は不完全な弟子たちをも信頼し、励まし、ご自身の宣教の業を担う担い手として整えることも同時になさりながら、宣教を進めてくださるお方です。
 自分たちのつき従っていた方を置き去りにして逃げ去るという失態を演じてしまった自らを嘆き、悔やんでいたに違いない彼らを立ち上がらせ、もう一度自らの殻をも破って外に出て行き、宣教の務めを担うよう促されたのです。この弟子たちの一人がまさにあなたではないかと聖書は問いかけているのです。