渋谷川遊歩道の名前が「渋谷リバーストリート」に決定 NEW!

あるく渋谷川

 Let's Walk along
the Shibuya River

     
      




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かつて渋谷川は、玉川上水の余水と天龍寺の池からの流れを本流とし、宇田川、笄川、吉野川、玉名川などの支流を集めて東京湾に注いでいました。そして水車や輸送による産業を生み出し、地域の人々の生活を支えてきました。昭和に入ると流れの多くは地上から消えてしまいましたが、地底にはそのルートが今も豊かに息づいています。私たちは昔の渋谷川の岸辺を歩き、残された痕跡や川の物語を探すことにより、その歴史と記憶を今に再現し、未来へとつなげて行きたいと思います。なお、渋谷川とつながりが深い三田用水のホームページを作りましたので併せてご覧ください。

2018年    oo oo
12月16日 渋谷の新名所/
   渋谷川遊歩道の名前が「渋谷リバーストリート」に決定NEW!
   -渋谷ストリーム前に再生水による壁泉が登場-
11月27日  「代々木九十九谷」と「底なし田んぼ」を歩く(第2部)
   oo底なし田んぼの土地に刻まれた小川の跡をたどって
11月13日 「代々木九十九谷」と「底なし田んぼ」を歩く(第1部)
   oo -宇田川上流が作り出した地形と地層を考える-

8月3日 夏休み番外編:動くナウマンゾウとツーショット

5月9日 水と緑の会主催「あるく渋谷川探訪ツアー」
 渋谷川の水源を求めて新宿・千駄ヶ谷を歩く(後編)  
  
oo -渋谷川上流の二すじの流れ:天龍寺方面からの流れと玉川上水・余水の流れ-
2017年1月―2018年5月、バックナンバー9
渋谷川ツアーの報告:渋谷川の水源を求めて新宿・千駄ヶ谷を歩く(前編)新宿駅東南地域の発掘調査から、渋谷川2万年をイメージする
2016年1月―12月、バックナンバー8
渋谷川ツアーの報告:渋谷川上流の河骨川と宇田川を歩く(前編・後編)三田用水の流末を「文政十一年品川図」(1828)で歩く-猿町から北品川宿を通って目黒川へ-
TUCの講演会より: 都心の川・渋谷川の物語 -渋谷川の過去から未来へ-/その他
2015年5月―12月、バックナンバー7
The Yoshino River Walk:: Gama Pond & Juban-Inari Shrine/渋谷川ツアーの報告:宇田川上流と代々木九十九谷を歩く(編・後編)/鈴木錠三郎氏の「絵地図」に描かれた大山の池をさがす-大正11年頃の宇田川上流の風景から-/その他
2014年1月―12月、バックナンバー6
渋谷川稲荷橋付近でアーバンコアの建設工事始まる-渋谷川の起点が水と緑の空間に- /
The Hidden Kogai River & Legend of Aoyama area /渋谷川ツアーの報告:麻布・吉野川の流れを歩く(前編・後編)/A Tributary of the Shibuya River flowing by Konno Hachimangu Shrine /渋谷駅東口再開発のサプライズ-渋谷川暗渠が53年ぶりに姿を現した/その他      
2013年1月―12月、バックナンバー5
「渋谷川ツアーの報告:笄川の暗渠・東側の流れと地域の歴史/ 水と緑の会・渋谷リバース共催「あるく渋谷川ツアー」の報告:渋谷地下水脈の探訪渋谷川の起点が変わる、ルートが変わる/その他
2012年3月―11月、バックナンバー4
たこ公園の小さな池に自然がいっぱい/渋谷川ツアーの報告:ブラームスの小径とキャットストリート/『あるく渋谷川入門』が点訳本に」/その他
2011年5月―10月、バックナンバー3
「発見!古川物語~歴史編~」を港区のケーブルテレビで放映/古川探訪のツアー「天現寺橋から東京湾浜崎橋まで」/恵比寿たこ公園にコウホネの池が完成/その他
 2011年1月―4月、バックナンバー2
渋谷駅の地下にひそむ渋谷川(テレビ東京放映)/緑の中の蝦蟇(がま)池の姿(NHKブラタモリ)/『あるく渋谷川入門』の登場人物(当時5歳)からのお便り/その他
2010年6月―12月、バックナンバー1
白金上水と麻布御殿/幻の入間川を歩く箱根湿生花園のコウホネをたずねて/資料と証言から見る「蝦蟇(がま)池」の移り変わり/スイカを冷やした清水が麻布に/その他

2018.12.16ravel f


渋谷ストリーム前の「壁泉の水景」。金王橋から稲荷橋を見る。岸壁から再生水の噴水が噴き出している


20189月、渋谷駅南口に渋谷の新名所・渋谷ストリームが開業し、「壁泉の水景」と遊歩道が誕生しました。本ホームページの「渋谷川の起点が変わる、ルートが変わる」(2013.2.16付)でもお伝えしていましたが、渋谷川の並木橋(渋谷3丁目)の所で流し込まれていた落合水再生センターからの再生水(清流復活水)は、約400m上流にある渋谷駅南口の稲荷橋に移され、それに伴って渋谷川の起点がこれまでの宮益橋から稲荷橋に変わりました。稲荷橋付近は、以前は乾いた川底が露出していましたが、今では豊かに水が流れ、辺りの風景は様変わりです。2013年には東横線が地下に入り、渋谷川川岸にあった東横線高架が取り壊され、その跡地に複合ビル・渋谷ストリームが完成した訳で、新しい水辺空間の登場です。

1213日に新しい遊歩道の名称が「渋谷リバーストリート」に決まりました。この名前は公募によるもので、310件の応募から選ばれたものです。英語で書くと「Shibuya River Street」で、国際的に通用する名前です。これからの世界に向けた情報発信が楽しみです。


渋谷川と緑の遊歩道のイメージ。渋谷川沿い約600mにわたる緑の遊歩道と2つの「にぎわい広場」を描いている。左端は「稲荷橋広場」、その右側は「金王橋広場」になった(図中の印と橋名等は筆者)。東急電鉄その他4社『渋谷駅周辺地区における都市計画の決定について』(2013617日)より。



上の図は稲荷橋から並木橋に至る渋谷川の流れと、その脇の遊歩道、広場などを説明した工事の計画図です。稲荷橋から渋谷ブリッジにかけて600mの遊歩道と広場が作られ、渋谷川沿いは多くの人々が行き来する「渋谷リバーストリート」になりました。


渋谷川本流は2012年まで「東横のれん街」の下を流れていたが(青い点線)、この度の開発で新水路(右側の太線)に付け替えられた。なお青い点線の西側(左)の水路は明治時代の水車用の側流で、そこに架かる「三井の水車」を書き入れた。当時は稲荷橋の北に田中神社があった。

話は一気に100年以上前にさかのぼります。明治初期の稲荷橋付近(当時は中渋谷村)は周囲を高台に囲まれた低い土地で、田んぼが一面に広がっていました。稲荷橋のすぐ北には「田中稲荷」があったため、そこから「稲荷橋」の名前が付いたそうです。「田中稲荷」は川の脇にあったので、地元では「川端稲荷」や「堀の外稲荷」とも呼んでいました。また渋谷川の西側に水車用の側流が引かれていて、そこには「三井の水車」(宮益水車)が回っていました。その向かい側(渋谷川東岸)には渋谷で初めて開校した渋谷小学校があり、その運営の費用に「三井の水車」の利益が当てられたそうです。


表参道・参道橋近くの神宮前小学校にある水車の模型。水車が地元の産業を起こしてくれたことを次の世代に伝えている。水車は大正になると、電力の普及によって急速に姿を消していった。

当時は電力がまだなかったため、水車はいわば村おこしの代表的な存在で、最盛期は渋谷川に21の水車が掛けられていたと伝えられています(渋谷区全体では44個)。現在の渋谷駅南側には、稲荷橋から100m位下流の所に「深川水車」があり、また並木橋にももう一つありましたので、およそ600mの区間に3つが回っていました。

また明治18年に開業した日本鉄道(現在のJR山手線)の渋谷停車場(旧渋谷駅)は、稲荷橋から130m程南にありました。昭和に入ってからは、稲荷橋付近は近郊から野菜を売りに来る人々でにぎわっていたそうです。

社会学者の加藤秀俊先生から伺ったことですが、「稲荷橋と並木橋の中間あたりに公設市場があって八百屋、魚屋など軒をつらねていました。関東大震災のあと、その復興資金の一部でつくられた公設の市場のひとつでした。渋谷駅南口はドロンコ道で人力車が客待ちをしていました」とのこと。余談ですが、加藤先生は子供の頃に渋谷駅近くでハチ公を実際に撫でたことがあるそうです。子ども心にはかわいい感じというよりも「毛がごわごわしていて大きかった」という印象だそうです。

100
年以上前にそんな様子だった渋谷川沿いの土地が、渋谷ストリームの完成によってこのような近代的な水辺空間に生まれ変わったわけで、歴史の大きなうねりを感じます。当時の水車や小学校は今は駅ビルの工事現場になっていて、どこかはっきり分かりませんが、工事が終わったらぜひ「歴史の案内板」を建ててほしいですね。









Pre-open の日の渋谷川と壁泉。清流復活水がシャワーとなって夜の川に流れている。きらびやかなレストランからにぎやかな話し声や音楽が聞こえるようです。  稲荷橋(写真の手前にある)の南側に「稲荷橋広場」が作られ、その先から渋谷川が顔を出している。国道246(玉川通り)上のデッキから撮影。


それでは新設の遊歩道・
渋谷リバーストリートはどのような姿なのか、稲荷橋から並木橋の辺りまで実際に歩いて様子を見てみましょう。

新しくできた渋谷ストリームの前には、渋谷川をまたいで「稲荷橋広場」と「金王橋広場」の2つの広場があり、遊歩道に沿ってレストランやカフェが並んでいました。広場では様々なイベントが行われるそうです。


稲荷橋に続いて金王橋(手前)があり、川の上に金王橋広場が設けられている。渋谷川の奥に見えるのが渋谷ストリーム。左には遊歩道が川に沿って南に伸びている。

1つ先の八幡橋の南から金王橋方面を見た景色。渋谷ストリームのビルが大きく見える。遊歩道の左にある2本の太い鉄の線は旧東横線のレール。


「壁泉の風景」は金王橋まで続いていました。金王橋の先(南)には八幡橋があり、ここを右に曲がった所に渋谷駅新南口があります。ゆったりと広くなった遊歩道には旧東横線のレールがモニュメントで埋め込まれていました。この遊歩道には東横線のモニュメントが他にも幾つかあるそうで、これらを探しながら歩くのも散歩の楽しみの一つです。

その先には、渋谷区公園課が設置した植え込みと「渋谷駅南街区土地区画整理事業・竣工記念碑」と記した記念碑がありました。八幡橋には自転車がたくさん置いてありました。自転車置き場のガードマンの方のお話では、「宇田川(渋谷駅西側の東急ハンズの辺りか)の方よりもこの辺りの方が安全で、夜遅くなっても歩けるよ」ということでした。



渋谷区公園課が設けた植え込みと記念碑。  八幡橋の自転車置き場。


遊歩道には河津桜など色々な樹木が植え込まれていて歩く人の気を和ませます。川に何かが飛んできました。鳥が2羽仲良く遊んでいます。ちょうど徒歩橋のたもとで川面を見ながらロープを持って仕事をしている方がいらしたので、「川のお掃除をしていらっしゃるのですか」と声をかけたところ、渋谷区の保健所の方で、「川に湧いたユスリカ(虫)を薬で駆除して掃除している」とのことでした。「ユスリカは、水があれば日本中どこにでもいて、きれいな川にも汚い川にもいて、蚊柱になって群れて飛んでいる。別に人を刺したりしないけれど。工事のためしばらく掃除ができなかったから、川が汚れて臭気も出てしまった」と。いつもは2か月に一回ぐらい掃除するそうです。「鳥がいますね」と言った所、「川にいるのはセキレイだよ」と教えてくれました。










ユスリカ(ハエ目・糸角亜目・ユスリカ科)ウィキペディアより。


渋谷川でユスリカの駆除。

徒歩橋から下流を見る。

徒歩橋近くで遊んでいたセキレイ。


さらに南に歩くと並木橋に出ました。並木橋の北側の丘の上には有名な金王八幡宮があり、渋谷の英雄「金王丸」が祀られています。鎌倉時代は八幡宮の場所に渋谷城があり、その脇を鎌倉街道が通り、並木橋は鎌倉に向かう要所でした。今は並木橋と新並木橋の2本が架かっており、並木橋が昔の鎌倉街道です。橋の袂に「清流の復活-渋谷川・古川-」という看板があり、東京都環境局自然環境部による清流復活事業の説明がありました。稲荷橋の方を振り向くと、緑の河川敷の向こうに渋谷ストリームのモダンな姿があり、さらに後ろには建設中の渋谷駅ビル「渋谷スクランブルスクエア」が見えました。






金王八幡宮の場所には中世に渋谷城があったという。そこで生まれた金王丸は渋谷が生んだ英雄で、江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃の話になった。現代も「渋谷金王丸伝説」という題目で、渋谷伝承ホールで松本幸四郎(旧染五郎)が主役を演じ定期的に公演している。この地域は、渋谷川とその支流を堀に見立てて「堀之内」と呼ばれていた。

並木橋から上流(稲荷橋方向)を見る。奥は渋谷ストリームと建設中の「渋谷スクランブルスクエア」。

並木橋の70-80m先には新設の広い道路があり、その向こうに代官山に向かう「渋谷ブリッジ」とトンネルがありました。ここで「渋谷リバーストリート」はお終いですが、その先は代官山のにぎやかな通りへと続きます。


並木橋の先に新設の道路と渋谷ブリッジ(Shibuya Bridge)が見える。

渋谷ブリッジの入口。代官山に向かうトンネルがある。

薄暗いビルの谷間を流れていた渋谷川が、このように渋谷の未来を感じさせる緑と川の都市空間へと変わったことは、渋谷川のファンの一人として本当に喜ばしいことで、この地を再開発した関係者の方々に心から感謝致します。(終)



2018.11.27

<第2部 平地の流れ>

3.「底なし田んぼ」を歩く


1)西原児童遊園地と暗渠の道


昭和10年『東京市渋谷区地籍図』(以下『地籍図』)によると、「底なし田んぼ」の土地には3本の川が東西に流れていた。いちばん上の川は、今は住宅地で川跡はない。真ん中は私たちが歩くルートで、西原児童遊園地から800mほどの「暗渠の道」が続く。一番下は小田急線高架の下に一部が残る。


「大山の池」の様子を右手にイメージしながら、坂道を下って南に50mぐらい歩くと、珍しい六叉路の交差点に出ました。昔からあった道と造成時の新道が区画整備の関係でこの場所に集まったのでしょう。先の「橋」に向かう道も、この辺りを通っていました。六叉路の成り立ちも気になりましたが、先を急ぐため、そのまま南に真っ直ぐ歩いて小田急線の方に向かいました。JICANITEの流れ」は六叉路の場所を過ぎるとやや左に曲がり、駅前の西原児童遊園地の北側に届いていましたが、このルートは今は住宅地になっていて入ることができません。そこで道を迂回して、線路近くまで歩いてから左(東)に曲がり、駅前の小さなロータリーの北側にある西原児童遊園地に着きました。ブランコや鉄棒が並んでいる小さな公園です。その奥(北側)に住宅地の方からきた川跡があり、今は細長い「暗渠の道」となって公園の東の奥から富ヶ谷(東方面)に向かっています。

遊園地の辺りから富ヶ谷にかけては、昔は「底なし田んぼ」と呼ばれた低地で、泥深い田んぼが続いていました。地形的にはすり鉢の底のような場所で、北の高台から「JICA・NITEの流れ」が、南の高台から「上原の流れ」が来ており、他に西の大山町からの流れもあったようです。それが低地で横(東西)に流れる3本の水路になり、それらを縦(南北)に結ぶ流れも加わって、網目のように水路が作られていました。しかし、昭和初期の分譲地開発の頃から水路の整理が始まり、昭和36,7年頃、東京オリンピックの時に大部分が埋め立てられるか、暗渠になりました。今は遊園地の北側から富ヶ谷方面に向かう「暗渠の道」が残るのみです。

代々木上原駅前の西原児童遊園地。この右奥から細長い「暗渠の道」が始まる。 遊園地の脇の階段を数段降りた所が「暗渠の道」の出発点。


ところで、どうして同じような場所に3本もの川が並行して流れているのでしょうか。古地図には川筋が一本あるだけなのですが、『地籍図』には何本も描かれていたり、地元の方から複数の川が流れていたという証言をいただいたこともあります。その理由ですが、自然にそうなった場合もありますが、多くは自然の流れを灌漑用に使うために何本かに分けたか、自然の川の近くに灌漑用の水路(用水路)を作ったためです。灌漑をする場合、低い土地を流れる自然の川から水をくみ上げるのは大変なので、やや上流部から流れを分け、高い方の水路から低い方の水路に水を流すのです。

ここで「底なし田んぼ」の3本の川の成り立ちについて考えてみますと、いちばん上(北)の水路は大上谷を後ろに控えたやや小高い土地を流れていますから、「JICANITEの流れ」の上流部(六叉路辺り)から水路を引いてきた可能性があります。真ん中の水路(暗渠の道)は、この辺りでいちばん低い土地を流れていますから、自然の流れと考えられます。いちばん下(南)の水路は、「上原の流れ」がそのまま南側の崖を伝って流れているか、人工的に作ったものなのか迷います。これは仮説ですが、昔は「JICANITEの流れ」が小田急線の丘ギリギリの崖下まで流れ下り、そこで「上原の流れ」と合流して東に向かっていたとも考えられます。この3本の流れの他にも縦に横にと小さい水路がありますが、これは灌漑用に作った人工の水路のようです。川筋の成り立ちについては色々と考えられますが、少なくとも明治末から昭和30年代までは真ん中の流れが中心であり、それが「暗渠の道」として今も残っています。


西原児童遊園地から「暗渠の道」に入る。季節柄、塀の上から赤い柿の実が見える。  ドンドン橋の跡。地図などに橋の記録はないが、地元の方の証言で橋の存在を知った。


話はツアーに戻ります。「西原児童遊園地」の裏から入ると、幅2メートルあまりのコンクリートの暗渠の道が東の方に続いていました。道の両側はコンクリートやブロックの塀、駐車場、マンションの裏手など殺風景ですが、時折庭の赤い柿の実がのぞいたり緑の葉っぱが揺れ動いて気を和ませてくれます。先の徳川山の川跡は太い舗装道路で、川の面影のようなものは全くありませんでしたが、このマンホールが多い細道を歩いていると、川跡を散歩している!という実感があります。

「代々木村絵図」によると、この流れには富ヶ谷までに4本の橋がかかっており、大正時代の地図でも同じく4本でした。その中で『地籍図』に名前があるのは二原橋と南地蔵橋の2本です。昭和に入ると、分譲地の開発をきっかけに川を横切って南北に走る道が増え、これに伴って橋の数も増えました。ドンドン橋、東橋、二原橋、八幡上橋、上原橋、甲子橋、南地蔵橋など多くの橋がありましたが、残念ながら遺構は残っていません。当時は川を暗渠にして衛生的な町にすることが求められていて川跡を残したいと思う人が少なかったのでしょう。なおドンドン橋は地元の和田建治様に教えていただいた橋で、古地図や「渋谷文化財マップ」にはありません。遊園地のすぐ東側にあり、名前の由来は「どんどん水が流れていたせいか、歩くとドンドンと音がしたせいだ」というお話でした。毎日この橋を渡って学校に通ったそうです。


雲照寺から来る道と暗渠が交差する所。かつて二原橋があり、「代々木村絵図」にも描かれている。 ニ原橋の角を右に曲がると小田急線のガードに突き当たる。駅前は「暗渠の道」よりやや高い。

さて東橋を越えてしばらく歩くと、北の雲照寺やムジカーザの方から下ってくる古い道と交差しました。古い道と言っても外見は普通の道ですが、ここに掛かっていた二原橋は「代々木村絵図」に描かれ、大正時代までありました。この辺りは大正まで田んぼでしたので、のどかな田園の小道に木の橋が掛かっていたのでしょう。道は北の雲照寺の方から二原橋を抜けて南の「旭坂」に繋がっていましたが、小田急線が敷かれたため途切れてしまいました。

2)「底なし田んぼ」を生んだ地形と地質

ツアーの報告から少し離れますが、この土地の特徴とも言える「底なし田んぼ」について考えてみます。西原児童遊園地から富ヶ谷にかけての一帯は、「底なし」と形容されるような深い田んぼで、お百姓さんは直径60cmもある田下駄を履いて田植えをしたそうです(『ふるさと渋谷の昔がたり第1集』)。ここから数百メートル先にある田中地蔵には、江戸時代の話ですが、田んぼに落ちて亡くなった鳥刺しを祀ったという話が伝わっています。南から来る「上原の流れ」の下流にも「底抜け田んぼ」と呼ばれた場所があり、昭和に田んぼがなくなってからは沼地となりました。深田のような泥深い田んぼは関東でも珍しいそうですが、どうしてこの代々木上原にあるのでしょうか。

宇田川上流の浸食で生まれた「樹枝状」の地形。中央の横長の低地が「底なし田んぼ」だった。北の高台を玉川上水が、西の高台を三田用水が流れていた。A~Gは地質調査(ボーリング調査)の場所。『国土地理院・基盤地図情報数値標高モデル5mメッシュ』から作成(DEM段彩表示)。

上の図は、『国土地理院・基盤地図情報数値標高モデル5mメッシュ』から地形図を作成し、宇田川の上流部を描き入れたものです。<第1部>の「宇田川上流の誕生について」でも述べましたが、渋谷は13万年前に海から離水した「下末吉面」の一部である「淀橋台」の一角で、主に海の堆積物から成りたっています。地質が柔らかいため、雨水や谷頭の湧水によって地面が容易に浸食され、宇田川上流の原型となる小さな水系が生まれました。その後、何万年にも亘って川の浸食が続き、上の地形図のような「樹枝状」の谷間となりました。それが「代々木九十九谷」の起源です。

 

地形図のボーリング調査地点(A~G)に対応した地層。A:玉川上水(高台)、B:代々木大山公園の南西・縄文住居(高台)の近く、C:徳川山・縄文住居(高台)、D:井の頭通り(高台)、E:底なし田んぼ(低地)、F:代々木八幡前(初台川流路)、G:新富橋付近(宇田川流路)、H:明治神宮・神宮橋の下で、この地下21mの地点(星印)からナウマンゾウの骨が見つかった。渋谷区の地盤調査データより。出所は<第1部>注5参照

ところで、西原、上原、代々木の地質検査(ボーリング柱状図)を見ると、各地点の地層の特色が分かります。「淀橋台」のモデルは、表土や腐植土の下に富士山の火山灰や塵で出来た関東ローム層があり、その下に渋谷粘土層、上部東京層、そして東京礫層(岩盤層)と続く地層です。先の地形図によると、高台に属するABCDの各地点やH地点(代々木八幡)がこのモデルに該当する地層です。しかし「底なし田んぼ」が属するE地点(田中地蔵の近く)を見ると、表土の下に生物による腐植土が67mあり、そのすぐ下がオレンジ色の礫層(東京礫層)になっています。それらの間にあるはずの関東ローム層や渋谷粘土層、上部東京層がありません。F地点(初台川流路)も同じような地層になっています。

このように淀橋台のモデルと違う地層になった理由として、次のようなことが考えられます。昔は谷頭から幾筋もの川が流れ下っており、そうした川の浸食で土地が深く削り取られて硬い東京礫層にまで達し、空から降ってくる火山灰や塵も下流の方に流され、川底には水に溶けやすい腐植土が厚く積もったというものです。宇田川上流は淀橋台が離水してから13万年間、一度も海に没したことがありませんから、長い年月をかけて浸食が行われ、このような独特の地形と地層が生まれたと考えられます。

ところで、東京礫層は高層ビルを支えるためのパネルを打ち込む硬い地盤として知られていますが、水資源の分野では「被圧帯水層」と呼ばれ、この中に貯まった水に吸水パイプを入れると、清らかな冷たい水が地表に勢いよく噴き出します。地下40~50mの深い所にあり、また岩のように硬いため、昔はここまで井戸を掘り抜くことができませんでした。しかし江戸の中頃に技術革新が起きて比較的安価で掘ることができるようになり、大名や大商人が自前の上水井戸を持つようになったため(もちろん江戸城内でも)、玉川上水などに頼ってきた江戸の上水事情が大きく変わりました。江戸幕府による享保7年(1722)の青山・三田・千川上水の突然の廃止の裏には、掘り抜き井戸の普及があったと言われています。


これは地元の方のお話ですが、この辺りには「吹き井戸」という名の「2、3年に一回水を吹き出す井戸があった」そうです。民家の浅い井戸から噴き出すということは、この土地の東京礫層が地表近くまで来ているからでしょう。また「田んぼの底に冷たい水が沁みだして、いいお米が獲れなかった」とも述べていました。これも東京礫層が冷たい水であることと符合します。底が無いような泥深い田んぼと冷たい水。田んぼにはまって亡くなった鳥刺しの伝説の背景も何となく分かってきます。


4.小田急線下の「小川跡」から田中地蔵へ

話はツアーに戻ります。さて、二原橋を超えて少し歩いてから右にクランク型に曲がり、宇田川上流の「小川跡」を目指しました。きらぼし銀行(旧八千代銀行。右下の「住宅地図」の左上B)の裏の暗渠の道から駅前の地蔵通り商店街に出ると、突然車の通りが多い道路になりました。前後の車に気を付けながら50m位東(左)に歩いたところで、右側の小さな空き地に入りました。その先は「上原自転車集積場」がある小田急線高架の下ですが、昔はここに小田急線の手前(北側)の縁を線路に並行する形で「小川」が流れていました。左下の『地籍図』で説明すると、私たちが歩いてきた真ん中の流れがやや右に向かい、小田急線に沿って流れてきた南側の水路と合流する所です。

宇田川上流の「小川跡」。左から来る真ん中の流れと下の流れが交わる小田急線ガード下。今は60mほどのコンクリートのU字溝。昭和10年『東京都渋谷区地籍図』より作成。(文字は筆者)

渋谷区「住宅地図(境界確定図)」。図の中ほどにある0720号の赤い線が小田急線に並行した「小川跡」。渋谷区土木清掃部認定係の志村裕様提供。

右の渋谷区「住宅地図(境界確定図)」によると、「小川跡」は、「きらぼし銀行」の脇(左上のB点:渋谷区西原3丁目23−7 )から駐車場を抜けて小田急線の縁を通る細長い赤い線(0720号)です。この赤い線が川の土手で、左上の『地籍図』に記された宇田川の水路と一致していました。2015年に西原、上原地区のツアーを企画した際、この辺りに宇田川上流の水路跡がないかと思って渋谷区認定係の志村さんにご相談したところ、可能性がある場所を幾つかピックアップして下さって、それらの場所を探し歩いていて見つけました。昔の川の流れがコンクリートのU字溝に姿を変えて残っていたのです。

小田急線ガード下にはかつて水路の土手(0720号)があり、JICANITEの流れ」と「上原の流れ」が合流していた。  上原自転車集積所脇の水路跡(2015.5撮影)。今年は葉が茂っていて水路が見えなかった。

「土揚敷境界指示図」の一部。先の「住宅地図」の0720号の土揚敷の詳細。「土揚敷」とは水路が通った土手の敷地のことで、敷地の幅全体が4.5m前後あり、川幅も大きかったようだ。(文字は筆者)


今回はU字溝の水路が灌木や雑草で見えないため、80mほど先(下流)の熊谷ビルの裏手に回って奥の水路を眺めましたが、ここも草木などで良く見えませんでした。下の写真は今年夏のリベンジで、熊谷ビルの裏手を通るU字溝の様子です。街の片隅にあるドブのような水路ですが、かつての土手幅は0720号の「境界指示図」によると4.5m前後あり、川幅もそれなりに大きかったと考えられ、時代の移り変わりを感じます。





熊谷ビルの裏手を通るU字溝。昔は幅広い土手と川だった(2018.9.4 「小川跡」を見た後、商店街の田中ビル の角を左(北)に折れて再び「暗渠の道」へ。

これから歩く道ですが、この先で川の流れは二つに分かれます(第2部トップの地図参照)。小田急線に沿って富ヶ谷に向かう流れと、再び「底抜け田んぼ」の真ん中を通って田中地蔵に進む流れです。私たちは後者の真ん中の「暗渠の道」に入るため、地蔵通りの商店街を東に向かいました。80メートルほど歩くと、左側に田中ビル(「とりつぎ」の看板あり:元代々木町11-1)があり、その角に北から道が来ていました。この道は、「大正14年地図」と比べてみると「代々木村絵図」に描かれた古い道で、先の二原橋が掛かっていた道と並行して南に向かっていました。小田急線ができる前は線路の南の「弥之助坂」に通じていたようですが、今は地蔵通りで行き止まりになっています。田中ビルの角を左(北側)に曲がって古い道に入ると、すぐに「暗渠の道」が交差していました。ここを右に入ると、両側に家やビルの裏手が続くお馴染みの景色が始まりました。100メートルほど歩くと再び北からくる道が交差しており、應慶寺の標識が出ていました。この道も古い道で、角を左に曲がってすぐの所に田中地蔵があります。

提灯や旗で飾られた田中地蔵尊。延命・子育地蔵尊の旗が翻る。 元文3年に福泉寺領の田地に安置されたと伝えられる。

「暗渠の道」を一時離れて、角のすぐ左にある田中地蔵に行きました。お地蔵さまは石の立派な祠の中に祀られ、お花や水がお供えしてあり、脇には享保年間の庚申塔もありました。この辺りは江戸時代から明治にかけて人もまばらな静かな農村でした。一面の田んぼの真ん中に田中地蔵がポツンと立っていたのが目に浮かびます。そんなのんびりした土地も、大正2年に京王線ができる頃から住宅地として注目され、大正12年の関東大震災の後には移住者が増えて大きく発展しました。昭和2年にこの地に小田急電鉄が引かれ、やがて徳川山の住宅開発が始まって、田んぼも川の姿も急速に変わっていきました。

なお、「代々木村絵図」が描かれた時代から大正時代まで、先の三叉路の辺りから代々木八幡までの約1㎞の間に、川の流れ(暗渠の道)を南北に横切る道が3本ありました。二原橋の道、田中ビルの角の道、そして田中地蔵がある道で、当時は他に道がありませんでした。そして、流れと田中地蔵の道が交わる所に南地蔵橋が掛かっていました。お地蔵様がこうして今も大切に祀られているのですから、南地蔵橋の跡があっても良さそうなものですが、残念ながら痕跡はありませんでした。

お地蔵さまにお参りした後、再び「暗渠の道」を歩き始めました。水路は南地蔵橋を超えたところで右(南)に大きくカーブして商店街に向かっており、流れの跡がそのまま住宅に挟まれた細い道になっていました。50mほど歩くと、再び賑やかな商店街の道路に出ました。この道路を横切って10mぐらい進んだ所に小田急線の塀があり、ここで道が行き止まりになっていました。昔は川が小田急線の線路を潜って反対側にある富ヶ谷小学校の方へ流れていたのです。

「暗渠の道」は商店街の道路を横切り、少し先の小田急線の塀で消えていた。

跨線橋の上から撮った上原児童遊園地(手前)と富ヶ谷小学校の校舎(奥)。流れは小田急線を越えて公園を通り、富ヶ谷小学校の方へ向かっていた。


水路を追って道の脇にある跨線橋に上り、線路の向う側(南側)に渡りました。跨線橋を下りた所の正面は富ヶ谷小学校の敷地で、その校庭の左の脇を坂道が下りていました。跨線橋のすぐ左側は「上原児童遊園地」で、敷地は坂道に沿って高低差2mぐらいの2段の土地に分かれており、上と下が大きな滑り台で繋がっていました。この辺り一帯がまだ田んぼだった大正時代まで、線路の敷地を越えた流れは公園と富ヶ谷小学校の敷地を一気に通り抜けて、南の山手通りの方に下っていました。


5.山手通り下の宇田川合流点から新富橋へ


富ヶ谷周辺の流れの様子。周囲の高台から下った何条もの流れが「山手通り(高架)」の下(赤丸A)で合流し、北から来る河骨川の流れも加えて、宇田川本流として南に下った。代々木八幡宮の西側の低地には初台川(赤丸B)が流れていた。(図中のABは、次の地層縦断図ABに対応)


これから歩く富ヶ谷地区は、地形的に「底なし田んぼ」と共通する性質を持っています。山手通り高架下のA地点は標高21.4mの低地ですが、その低い場所に、これまで歩いてきた「宇田川上流」に加えて、南から「東海大の流れ」、北から「初台川」の流れが集まっていました。それらの流れは、今は皆暗渠になって山手通りの暗いガード下に身を潜めています。現在の賑やかな街の様子からは想像できないことですが、昔は泥深い田んぼが一面に広がり、そこに幾つもの川が流れ込んでいたのでしょう。

山手通りを建設した当時の富ヶ谷について、地元の方が書かれた面白い記事がありますので紹介します(『富ヶ谷1丁目通り商店会 案内MAP20152月)。「山手通りの工事が始まった時、代々木八幡の駅前は、大変な様子をしていた。宇田川が蛇行していたので現在の橋脚の下に川を流すため、深く掘り下げ、又小田急線の上に橋を架けるため盛り土をする。道はぐじゃぐじゃ、雨が降ると田んぼのようでした」。「川は池のように水がたまり(後略)」とありますから、水はけが良くなかったのでしょう。その水面にトンボが群れをなして飛び交ったため、子供たちの楽しい遊び場になったともありました。この『案内MAP』にあった余談ですが、有名な「忠犬ハチ公」は主人の上野英三郎教授の死後に数か所の家に預けられましたが、最後に引き取られた地が富ヶ谷で、「その頃から渋谷駅で、ハチ公がひんぱんに目撃されるようになった」とか。

「山手通り」の地層縦断図。図の中ほど代々木八幡の地層は、関東ローム層(Lm)、東京層(Tos)、東京礫層(Tog)、上総層群(Ks)の順で、淀橋台の一般的な層序と一致している。図のA(宇田川上流合流点)とB(初台川)の地層は、17mと15mの沖積層(紫色)が堆積しており、その下の川底は関東ローム層等を削り取って東京礫層(緑色)に達している。「工事概要」『首都高速中央環状新宿線・代々木シールドトンネル(内回り)』(首都高速道路公団、2004年)より作成。


ところで、首都高速道路公団が山手通りを建設した際に作成した「地層縦断図」を見ると、これらの川の流れが富ヶ谷の土地を深く浸食してきた経緯が分かります。高台に位置する代々木八幡宮の地層は、関東ローム層(Lm)、東京層(Tos)、東京礫層(Tog)、上総層群(Ks)の順になっており、先に紹介した「淀橋台」の一般的なモデルと同じです。一方、山手通り下のA点では、2万年以内に堆積した軟弱な沖積層(紫色)が17メートルぐらいあり、そのすぐ下に14万年ぐらい前に作られた堅固な東京礫層((Tog緑色)があります。厚い腐植土のすぐ下に東京礫層があった「底抜け田んぼ」の地層とよく似ています。B地点の初台川近くの地層もA地点と基本的に同じです。

この暗いトンネルの下に川が流れていた。トンネルの中にはカラフルな魚の絵が。 出口には「春の小川」の大きな文字と若者のカップルが。

富ヶ谷小学校の前の坂道を下り、小田急線の踏切(左側)の手前を右に曲がって薄暗い高架の下を30mほど歩くと、左側に暗いトンネルが現れました。『地籍図』によると、富ヶ谷小学校の敷地を流れてきた川はトンネルの辺りを通って東に向かっていました。長さは30-40mぐらいで、初めて入った時は怖かったですが、何回か訪れて慣れました。中を歩いていくと、両側の壁にカラーで川の流れや魚の絵がいっぱい描いてあって気持ちが和らぎます。ウエディングのシーンがあったり、出口(入口?)に若いカップルが描かれていて、これらの絵は地元の若者の作品でしょうか。






トンネルを抜けると穏やかな通りになる。この辺りは沖積層が堆積して河口部のような地層をしている。 

トンネルの先のゆるやかにカーブした「暗渠の道」。


トンネルの外に出ると日が暮れかかっていました。皆さんお疲れかと思い、「時間の都合でここから代々木八幡に直行しようと思いますが、いかがですか」と尋ねたところ、「宇田川遊歩道が始まる地点の新富橋を見たい」という元気な声が上がりました。私も気持ちを新たにして、緩やかに右にカーブした「暗渠の道」を歩き始めました。道の南側は小高い崖で、小さな階段が道に向かって降りてきて、いかにも川が流れていた低い土地を歩いている感じがしました。



新富橋跡に車止めがある。ここが「宇田川の起点」で、宇田川遊歩道の出発点でもある。 新富橋跡の30メートル程先に河骨川との合流点があった。

この流れは井の頭通りの手前で宇田川本流と合流していますが、120m位行った所で左(北)に曲がり、表通りに出て、代々木八幡商店会の東の端にある新富橋跡に行きました。新富橋跡は渋谷まで続く宇田川遊歩道の入口で、地元ではここを「宇田川の起点」としています。つまり、私たちが今まで歩いてきた水路は宇田川の支流であって、ここから宇田川の本流が始まるという解釈です。

入り口に幾つかの車止めが設置されていて、「この遊歩道は宇田川を暗渠にした際に整備されたもので、入口にはかつて新富橋がかかっておりました」とありました。皆さんと車止めを眺め、遊歩道に入ってさらに3040mほど先まで歩くと、左方向(北)から来たややカーブした道がありました。川の暗渠が好きな方ならばピンとくる小道で、これが河骨川と旧初台川合流後の暗渠です。ここから1.5㎞ほど北の代々木の旧山之内邸に発した河骨川の流れは、代々木八幡宮の南で初台川の流れを併せ、ここまで来て宇田川上流と交わり、宇田川本流の大きな流れ(今は宇田川遊歩道)になって渋谷に向かい、宮益橋で北から来た穏田川と合流して渋谷川本流になっていきました。宇田川上流と河骨川(初台川)の合流点と宇田川遊歩道をしっかり確かめて、いよいよ最後の目的地、代々木八幡宮です。


上:商店街の表通り。地元の方によると、写真右奥から来て、角を曲がり、南側の歩道を通って新富橋に向かう流れがあった。  

右:
新富橋付近のボーリング地点Gの柱状図。色が無いのはN値(硬度)がないため。上層は主にシルト(細砂と粘土の中間的な粗さの土粒子)と腐植土で、その下に砂層と東京礫層が続く。渋谷区の地盤調査データより(注1)。 


新富橋跡から商店街がある大通りを、代々木八幡駅の踏切の方に向かって歩きました。地元の方の話ですが、昔は表通りの南側の歩道を通って新富橋に向かう流れがあったそうです。『地籍図』を見ると、この辺りには幾つかの流れがあり、時代によって色々なルートがあったのでしょう。ここで新富橋付近のボーリング柱状図を調べると、上層はシルトなど沖積性の土砂や粘土で覆われており、色が無色になっているのはN(硬度)がないためです。代々木八幡宮の東側から代々木公園前の河骨川・宇田川に沿った一帯は、かつて代々木深町と呼ばれていましたが、このボーリング柱状図を見ると「深町」という町名の意味が納得できます。


6.初台川と代々木八幡宮

小田急線の踏切を渡り、山手通りのガード下を潜った先で、その西側の湾曲した道に入りました。この道は昔初台川が流れていたルートで、川の上流(北)に向かって山手通りより下の道を歩くことになります。先に山手通りの「地層縦断図」で見たように、この辺りの地下十数メートルの厚い沖積層で覆われています。この湾曲した道は「代々木村絵図」にも描かれている古い道で、舗装道路なのですが、沿道の家々の前には植木が置かれ、お蕎麦屋さんや、整骨院、ファミマなどが並んでおり、どこか下町のような雰囲気がありました。道は山手通りができる前の代々木八幡宮の南の縁に沿って右に大きくカーブしており、150m位先で山手通りの歩道と合流し、代々木八幡宮の高い階段に通じていました。





山手通りの西側を通る右にカーブした道。ここは昔からの古い道で、脇を初台川が流れていた。 山手通り沿いにある代々木八幡宮の階段と鳥居。この高台の上に縄文住居遺跡がある。


山手通りの代々木八幡前交差点を渡ると、神社の階段の下に出ました。こんもり茂った高台の森が広がり、いかにも神聖な場所という感じです。階段の下はかつて初台川が流れ、反対の東側には河骨川が流れ、さぞ景色が良かったのでしょう。そうした様子が『江戸名所図会』に描かれているのでご紹介します。





「代々木八幡宮」『江戸名所図会』。代々木八幡宮の丘の下に左右から宇田川上流の流れが見える。右側が河骨川、左側が初台川。図中の赤丸は河骨川に架かる八幡橋で、現在の代々木公園西門近く。参道と階段が福泉寺に向かっている。


代々木八幡宮には様々な文化財が残されていますが、中でも有名なのが古代住居跡を始めとする縄文時代の遺物です。本日のツアーで歩いた道の近くにも幾つかの縄文遺跡があり、水が豊かで日当たりが良い宇田川上流の高台が縄文人にとって暮らしやすい場所であることが分かりました。しかし、前に述べたように、実際に現地で発掘調査をして遺跡が確認されたのは、この周辺では代々木八幡宮だけとのことです。この日は、代々木八幡宮禰宜の平岩様が素晴らしい案内をして下さって、参加者の皆さんが縄文のロマンに浸ることができました。





「縄文復元住居」の中を見学。低い入口から中に入るのがなかなか大変です。 代々木八幡宮禰宜の平岩様の説明を熱心に聞き入る参加者。遺跡出土品展示館にて。

「縄文復元住居」の入り口は体を屈めて何とか通れるぐらいの高さで、また中は目が慣れるまでは真っ暗で、初めのうちは真ん中に掘られた「炉穴」に落ちたら大変とおっかなびっくりでした。しかし目が慣れてくると、カヤで葺いた建物の中には不可思議な温もりがあって、気持ちがとても安らぎました。平岩様から、縄文古代住居は夏は涼しく冬は暖かくて住みやすいと伺いましたが、「なるほど」という感じです。明治の頃にこの地から丸木舟が出土したが、代々木八幡の丘の下まで海がきていた時代があったのではないかという興味深いお話しもされていました。6500年前の「縄文海進」の時代には、海岸線が渋谷辺りまで来ていたと言われていますが、さらに上流まで来ていた可能性を感じさせます。出土した縄文土器には底が無いものがあり、煮炊きではなくクリなどを焼くのに使ったようだなど、面白いお話をたっぷり伺いました。

ツアーの締め括りとしては最高のひと時で、日はとっぷりと暮れていましたが、一日のツアーを楽しく終えることができました。平岩様には素晴らしいお話をお聞かせいただき、心から感謝申し上げます。また参加者の皆様には、夕刻まで長時間のツアーにご参加いただき、ありがとうございました。最後になりますが、<第1部><第2部>と続く長い原稿をお読みいただいた読者の方々にお礼申し上げます。


ツアーの集合写真。JICA前にて。「北沢川文化遺産保存の会」提供。 



<参考文献>

貝塚爽平他『日本の地形4 関東・伊豆小笠原』東大出版、2007年
久保純子「相模野台地・武蔵野台地を刻む谷の地形」『地理学評論』61、1988年

東京の地盤編集委員会『ジオテクノート7 東京の地盤』地盤工学会、平成10年

辻野京子『まちの記憶-代々木上原駅周辺』個人書店、2003年
松田磐余『江戸・東京地形学散歩』之潮、2008年
貝塚爽平『東京の自然史』講談社、2011年

田原光泰『「春の小川」はなぜ消えたのか』之潮、2011

粕谷崇「埋もれた渋谷」上山和雄編著『渋谷学叢書2 歴史の中の渋谷』第二章、雄山閣、平成23年

柳田誠他「駒澤大学構内にある下末吉面を刻む谷の歴史」『駒澤地理』No48 2012
松田磐余『対話で学ぶ江戸・東京・横浜の地形』之潮、2013年

山崎晴雄・久保純子『日本列島100万年史』講談社、2017年、他。

終り>




2018.11.13

<はじめに>

宇田川上流が流れていた西原、代々木、大山、上原、富ヶ谷は、山と谷が幾重にも重なった地形で、江戸時代は「代々木九十九谷」と呼ばれていました。多くの谷頭からは水が湧き出し、谷を削りながら低地(河谷)に流れ込み(現在の小田急線沿いの土地)、網の目のような水路や池を形成すると共に、関東では珍しい「底なし田んぼ」と呼ばれる「深田」を作り出しました。西原や徳川山などの台地は、江戸から明治、大正にかけては住む人もまばらでしたが、土地の地盤が安定していたこともあり、関東大震災の後は住宅地として脚光を浴び、その後は大いに発展して今日に至っています。その過程で、この土地を流れていた多くの川や池は埋め立てられ、あるいは暗渠となって姿を消していきました。今回のツアーは、この地に今も残る川や池の跡を確かめると共に、こうした土地を生み出した地形の生成についても考えます。この地域の台地のあちこちに縄文遺跡があることから、ツアーの最後には代々木八幡宮の高台に作られた復元住居を訪れたいと思います。お伝えしたいお話がたくさんあるため、<第一部 谷間の流れ>と<第二部 平地の流れ>に分けてご報告します。

なお、今回のツアーは「北沢川文化遺産保存の会」のきむらけん様から代々木上原周辺を探訪したいとのご依頼を受け、私が案内人を務めさせていただいて2017年12月16日に行いました。西原・上原・代々木の川の流れは、20155月に「渋谷川・水と緑の会」の定例ツアーで探訪していたため、前に参加された方が退屈されないよう、新たに地形や地層に関する資料を加えて企画しました。当日は二つの会のメンバーの方々が夕方まで熱心に参加され、盛況のうちに終わることができましたこと、改めて皆様にお礼申し上げます。

<第1部 谷間の流れ>

1.宇田川の水源地帯

1)代々木九十九谷の地形と川の流れ

2)宇田川上流の誕生について

3)森永邸の谷頭にできた池

4)消防学校西原寮の湧水跡

2.宇田川上流と徳川山

1)JICANITEの池と小川の流れ

2)「代々木村絵図」に描かれた川と橋

3)「大山の池」から西原児童遊園地へ

 

<第2部 平地の流れ>

3.「底なし田んぼ」を歩く

 1)西原児童遊園地と暗渠の道

 2)「底なし田んぼ」を生んだ地形と地質

4.小田急線下の「小川跡」から田中地蔵へ

5.山手通り下の宇田川合流点から新富橋へ

6.初台川と代々木八幡

 

<ツアーのルート>京王線幡ヶ谷駅(1300集合)―玉川上水・二字橋―JICANITEの池―代々木大山公園―旧徳川山分譲地―大山の池(仮称)―西原児童遊園地―「底なし田んぼ」と暗渠の道―小川跡―田中地蔵-山手通り下の支流の合流点―初台川―代々木八幡宮・縄文遺跡(16:30解散)



上の図は、『渋谷区文化財マップ』(渋谷区郷土博物館・文学館)と『東京市渋谷区地籍図下巻』(内山模型社、昭和10年)の川筋をGoogleマップに描き入れたもの。この土地は地形的に「すり鉢」の形をしており、小田急線代々木上原駅から代々木八幡駅に至る低地を周囲の高台が取り囲んでいる。かつて北の高台に玉川上水が、西の高台に三田用水が流れていた。低地に集まった宇田川上流の流れは、やや蛇行しながら東に向かい、図の右にある代々木八幡宮の麓で、北からの初台川や河骨川と合流していた。そこから宇田川本流となって南へ向かい、JR渋谷駅の先で渋谷川の本流と合流して東京湾に向かった。青色の線は川筋、こげ茶色の細い点線は歩くルート、緑の六角形は高台にある縄文遺跡、赤丸は案内のポイントを示す。


1.宇田川の水源地帯

1)代々木九十九谷の地形と川の流れ

2017年1216日午後1時、私たちは京王線幡ヶ谷駅に集まり、西原2丁目から代々木5丁目の代々木八幡宮まで、かつて宇田川上流が流れた代々木九十九谷と低地の水路跡を歩きました。直線距離では2.0キロぐらいですが、曲がった道をあちこち歩くため約3.5キロぐらいになるのでしょうか。当日は12月とは思えない暖かい日和でした。先ず玉川上水の二字橋の脇で立ち止まり、江戸末期に描かれた「代々木村絵図」などを示しながら、この地域の地形やツアーのルートを説明して、いよいよ出発です。


京王線幡ヶ谷駅の南側にある旧玉川上水・二字橋。玉川上水は暗渠の緑道となって東西に伸びている。

二字橋の脇でツアーの打ち合わせ。(木村孝様撮影)


この地域は山と谷が織りなす起伏豊かな地形で、それぞれの谷を低地に向かって川が流れていました。その様子を示しているのが次の2枚の地図です。地図が描かれた時代は江戸末期と明治末期で異なりますが、地形や川の流れ、道筋、土地の利用状況などはほぼ同じで、この間にこの地域に大きな変化がなかったことを示しています。



江戸時代の代々木村・堀江家文書「代々木村絵図」(首都大学東京図書館所蔵・無断転載禁)。枝状に分かれた紺色の三つの土地が水田で、その中を宇田川上流が下(南)に向かって流れている。

「渋谷区土地利用図・明治42年」(昭和54年、渋谷区立白根記念郷土文化館)。黄色い枝状の三つの土地が田んぼで、それらの中を宇田川上流が流れている。

先ず左の絵図ですが、江戸時代の史料『堀江家文書』の「代々木村絵図」です。この図を見ると「代々木九十九谷」と呼ばれていた西原から代々木にかけての地域の様子が分かります。上部には甲州街道と玉川上水があり、中央には3本指のような形の水田が紺色で描かれ、その中に白線で川が記されています。川の名前ですが、いちばん左は名前がないのですが、仮に「JICANITEの流れ」としておきます、真ん中が初台川、いちばん右が河骨川です。私たちは左の「JICANITEの流れ」の跡を歩きます。これらの3本の川は代々木八幡宮の南で合流し、宇田川の本流となって渋谷駅方面に向かっていました。右の図は、明治42年の「渋谷区土地利用図」で、元は「明治42年測図1万分の1地形図」に土地利用を示す彩色を施したものです。緑は樹林、赤い色は集落、白は畑です。樹林や田畑が多く見られますが、甲州街道沿いと山谷(図の右上、現在の代々木)に集落(赤い色)が現れます。山谷の集落は山手線の代々木駅が開通してから発展したのでしょう。

二字橋の広場を出発し、玉川上水跡の緑道を山下橋、代々幡橋と過ぎて相生橋まで来ました。ここは明治の末に「阪川乳牛場」があった所です。当時、この辺りは「ガスはもちろん電燈も無く、大正の初めごろは、まだランプを使っていた」(注1)そうで、他にも牧場がいくつか並んでいました。明治初めに広尾や青山などで実験的に始められた牧場が、明治の半ばにこの場所に移って来たのでしょう。

玉川上水の相生橋近くにあった牧場・羽衣舎。渋谷区広報誌『しぶや』(昭和54年)より。(渋谷区所蔵・無断転載禁)



 2)宇田川上流の誕生について

ところで、当日のツアーで「宇田川上流の水は玉川上水の水が田んぼに流れたものですか」とか、「この辺りの湧水は玉川上水からの水が沁み出していたのですか」という質問を受けました。宇田川上流の水源が高台を流れる玉川上水だと考えている方は意外に多いのです。玉川上水が承応3年(1654)に完成して以来、分水や吐水という形で渋谷川に上水を流してきましたが、渋谷川の元々の水源は自然の湧水でした。とくに宇田川上流は玉川上水の補水を受けていません。かつて西原、代々木、上原などの高台の谷頭(谷の頂上部)で水が湧き出ており、その流れが集まって宇田川上流を形作りました。

ところで、なぜこの土地に湧水が多いのでしょう。そもそも宇田川上流はいつ頃生まれ、なぜ谷が寄せ集まったような枝状の形をしているのでしょう。ここで、地形学の文献や資料を参考にしながら、拙い想像力も交えて、宇田川上流の成り立ちについて考えてみたいと思います。

地球のこの100万年ぐらいの間の話ですが、東京湾の海岸線は気候変動によって810万年ぐらいの周期で大きな前進と後退を繰り返してきました。地形学によると、現在の関東平野は13万年前には海の下にありました。現在の新宿区、渋谷区、港区などの地域は「淀橋台」と呼ばれ、12~13万年前から始まった海岸線の後退期に海の中から現れた(離水した)「下末吉面」の一部です。この「淀橋台」の離水期に、火山灰や黄砂などの塵が浅い海に積もってできたのが「渋谷粘土層」で、今では標高30mぐらいの所に集中していますが、これは海の後退と共に土地の隆起があったからです。有名な関東ローム層は、渋谷粘土層の上に何万年もかけて降り積もった火山灰の厚い層です。「渋谷粘土層」が水を通しにくい土質を持つのに対し、関東ローム層は水捌けが良いため、雨水は関東ローム層を透過して渋谷粘土層で止まり、所々で溜まって崖や斜面から地表に湧き出してきました。それが宇田川上流の水源です。


図は過去14万年間の海面変動で、縦軸は海面高度(単位m)、横軸は年代(単位千年)。海面高度は最終間氷期(ステージ5e)から最終氷期極相期(ステージ2)まで上昇と下降を繰り返しながら低下し、2万年前から急上昇した。下末吉面が海上に現れたのが「5e」、東京湾が全て陸化したのが「2」、「縄文海進」が見られたのが「1」の少し前(6500年前)。田磐余『対話で学ぶ江戸・東京・横浜の地形』之潮、2013年、180頁より。

「下末吉面」が海から離水した時期です。湧水や雨水によって「淀橋台」の浸食が始まり、やがて西部に「小さな水系」が生まれました。詳しい年代は分かりませんが、こうした水系の起源はかなり古く、おそらく10万年ぐらい前まで遡ることができそうです。その次の大きな変化は、2万年前の「ヴュルム氷期」です。この時は海岸線が三浦半島の久里浜沖まで後退し、東京湾が全て陸化しました。発掘調査によると、この時代の南新宿に「古渋谷川」の水源があったことが確かめられていますが、近くの宇田川上流も同じような状態にあったと考えられます。「ヴュルム氷期」には陸化した東京湾の真ん中を「古東京川」が深い谷を刻んで流れ、そこに「古渋谷川」が勢いよく流れ込んでいました。宇田川上流は「古渋谷川」の支流で、当時は流れが速く、川底を深く削り、地表に降り積もる火山灰や塵を下流に押し流していたと推測されます。最後に来た変化は6500年前の「縄文海進」と呼ばれる海岸線の前進です。この時は海が渋谷駅近くまで来ましたが、宇田川上流までは届きませんでした。この時期の宇田川上流は比較的緩やかに流れ、西原、上原、富ヶ谷の低地に堆積物を溜めていったと思われます。

武蔵野台地東部の地形。淀橋台は武蔵野台地の東端にあり、今から1213万年前に海から離水した。その時期が最も早かったため、淀橋台を流れる渋谷川は武蔵野台地を開削した古多摩川の影響を受けずに独自の流れを作った。図は山崎晴雄・久保純子『日本列島100万年史』131頁より。図中の渋谷川の谷の茶色は筆者。


宇田川上流が「代々木絵図」にもあるように枝分かれの形をしている理由についても考えてみます。渋谷川の近くを流れる神田川、石神井川、目黒川の上流部を見ると、谷の蛇行の波長と振幅が谷を流れている河川のそれとは釣り合わないほど大きいそうです。これらの川が流れる武蔵野台地の中心部は、約10万年前から離水が始まった「武蔵野面」等で、「古多摩川」の扇状地です。研究者によると、こうした川は、台地を独自に浸食して出来たものではなく、「古多摩川」が縦横に開析した谷の中を流れている、言わばヤドガリのような川だそうで、これを「名残川」と呼んでいます。これに対し淀橋台は、約13万年前ぐらいから離水を始め、その後は土地の隆起もあったため、「古多摩川」の開析を受けず、渋谷川は独自に生成しました。淀橋台の地層は海成層(海の堆積物による柔らかい地層)であるため、地表が湧水や雨水によって深く削り取られ、細かく枝分かれした「樹枝状」の谷と川筋を作り出したと考えられます(注2)。宇田川上流の「創世期」を想像していると興味は尽きませんが、とりあえずツアーの話に戻ります。


3)森永邸の谷頭にできた池

相生橋まで歩いてきて左手(南側)に入り、玉川上水の緑道を離れて、最初の目的地であるJICA(国際協力機構)に向かいました。この辺り一帯は昔は大上谷(狼谷)と呼ばれていましたが、私たちはその谷の上の尾根を歩いていることになります。今は住宅街で遠くまでは見渡せませんが、昔はさぞ眺めが良かったのでしょう。


相生橋の橋の欄干と親柱(大正13年)この先にJICANITEの池がある。 

昭和初期の玉川上水。西原1丁目34付近。渋谷区広報誌『しぶや』(昭和54年)より。(渋谷区所蔵・無断転載禁)


大正の初めに、この辺りには森永製菓の創始者森永太一郎氏の7000坪ともいわれる屋敷がありました。ちょうど京王線が笹塚まで開通した頃のことで、当時は「山あり谷あり林あり」の自然豊かな土地であったと伝えられます(注3)。その後、この土地は陸軍の偕行舎分室(青年将校の合宿所として使用)となり、次に東京医療少年院として使われ、昭和604月にJICA(国際協力機構)とNITE(製品評価技術基盤機構)の庁舎になりました。NITEは当時「通商産業検査所」と呼ばれており、建物の竣工時に『通商産業検査所・本所庁舎竣工案内』という資料を作成しています。その「地形」の項によると、「当検査所と国際協力事業団の建物を新築するため整地されましたが、西側と北側は台地、中央部と南側は谷地となっており、台地と谷との高低差は約10m、そして南側の低地には自然の湧水による大小3つの池があり、これが渋谷川の水源といわれています」とあります(注4)。

JICAのエントランスに入ると、いかにも国際機関という感じで、ホールに外国の色々な人形や置物が飾ってありました。このホールは建物の2階にあり、庭の地面が南の方にどんどん下がっていて、谷頭に建っていることを実感させます。下の階に降り、そこから庭に出て左手の急な階段を降りると、奥の崖下に仄かに光る水面が見えました。特別に許可をいただいて建物からは10mぐらい下の池の縁まで行きました。JICAの池は昼でも薄暗い林の中にひそんでいました。長径15m位のひょうたん型で、池の周りにはふかふかの落ち葉が敷き詰められています。古くから清水が湧き出ていたのでしょう。私たちのざわめきと落ち葉を踏む音以外は静まり返っていました。


林の中に佇むJICAの池。右は南隣のNITEの池に向かう水路。周りには分厚い絨毯のような落ち葉が。

奥はJICAの池の下にあるNITEの丸い池。手前の水路はNITEの四角い池に向かう流れ。


JICAのホールに戻り、再び建物の前の道に出て隣のNITEの池に向かいました。NITEの前の大きな並木道を歩き、エントランスを通って右脇の階段を下りると、先ほどのJICAの池より一段低い所に丸い池が現れました。JICAの池の水が流れ込んでこの池に溜まり、そこからやや幅広い水路を通って四角い池へと向かっています。水路には錦鯉がたくさん泳いでいました。




三つ目の小さな四角い池。たくさんの錦

鯉が泳いでいた。

NITEの別館を建てる時に生物を避難させている様子。四角い池は当時は丸い大きな池だった。NITEの原和朗様撮影(H12.2.

四角い池から流れ出た水は、昔は宇田川上流へ、今は宇田川下水道幹線へつながっています。この池はかつて大きなひょうたん型の池で、NITEの別館を建てる時に改変されました。NITE の原様のお話では「2007年(平成19年)に一度池の水を抜いたことがあるが、一晩で水位が回復した」そうで、当時は湧水がたっぷりあったようです。今も谷頭の湧水が浸みだしているのでしょう。原様のお話ですが、この四角い池が2016年の3月に映画の撮影に使われたそうです。『彼らが本気で編むときは、』 (荻上直子監督、生田斗真主演)という映画で、ベルリン映画祭で2つの賞を獲得しました。地味なNITEの池ですが、ベルリンまで知られているとは。

映画『彼らが本気で編むときは、』がNITEの四角い池の脇で撮影された。


四角い池からJICAの方を振り返えると、土地がゆるやかに上がっていて、谷頭の下にいることが分かりました。ここで、明治42年「渋谷区土地利用図」でJICAの池の標高を確かめると、だいたい3032mで、これは「渋谷粘土層」が分布しているとされる標高の範囲に含まれていました。次に、JICANITEの少し西の高台にある玉川上水の近くで行ったボーリング調査の柱状図(地面に穴を掘って地層を調べた図。右下の柱状図A)を見ると(注5)、地表面から7m(標高33m)~10m(同30m)ぐらいの所にかけて「渋谷粘土層」が分布していました。先に述べましたが、渋谷粘土層は水を通しにくいため、渋谷ではその辺りに地下水が貯まって湧水になることが多く、ボーリング柱状図からもこの辺りの土地に湧水がある事が推測されます。昔は大上谷のあちこちから水が湧き出ていて住み易い場所だったようで、高台には縄文遺跡があります。

 


明治42年「渋谷区土地利用図」。JICAの池の標高は約30-32mで、渋谷粘土層が分布する標高とほぼ一致している。


JICANITE西の高台にある玉川上水近くで行ったボーリングの柱状図A。地表面40.00mの下7m~10mぐらいの所に「渋谷粘土層」があり、この地層の上部から湧水が流れ出ることが考えられる。渋谷区の地盤調査データより(注5)。

四角い池から流れ出る水路に沿って歩きたかったのですが、住宅が立ち塞がっていて前に進むことができません。そこでNITEの池からJICAの前の道路までいったん戻り、時計の針を逆に回転させるようにJICAの南側にある代々木大山公園を一回りして、再び四角い池の流れの先に行くことにしました。


4)消防学校西原寮の湧水跡


上:消防学校西原寮敷地に残る湧水跡の石組み。

右:
代々木大山公園南西の高台のボーリング柱状図B。地表面40.88mの下2m~4mに「関東ローム層」があり、その下は4m~9mぐらいまで関東ローム層が変質した「ローム質粘土層」になっている。この地層の上部から湧水が流れ出ることが考えられる。渋谷区の地盤調査データより。(注6) 
 

JICAの南隣にある消防学校西原寮の敷地まで歩くと、左の崖の下に噴水跡のような丸い石組みが見えました。この地にお父様の時代からお住いの藤森様に伺ったのですが、以前は湧水が出ていたそうです。大きな立派な石組ですから、さぞ豊かに湧き出ていたのでしょう。湧水は地表から3-4mと浅い場所にあることから、「渋谷粘土層」からというよりその上の関東ローム層が粘土化した「ローム質粘土層」から出ていると考えられます(注6)。

これから通る代々木大山公園の南西にはとても日当たりの良い高台がありますが、ここから縄文人の遺跡が見つかっています。渋谷区の「遺跡地図」によると、西原や上原には代々木八幡宮の古代住居を筆頭に8カ所の縄文遺跡があります。小高い場所で日当たりや見晴らしが良く、近くに湧水があったことが縄文人に好まれた理由でしょう。渋谷区郷土博物館・文学館の粕谷先生に発掘調査について伺ったところ、「試掘調査はしているが、本調査はまだ行っていないので、遺跡として指定されてはいるが詳細はわからない」とのお話でした。ここから何が出てくるのか、詳しい調査が待たれますね。縄文人たちは宇田川上流の水源近くに暮らし、栗の実を拾ったり、動物を捕まえたり、農耕もある程度は行っていたのでしょう。NITEの池に水を汲みに来ていたかもしれません。




この辺りの土地は起伏が激しい。写真は代々木大山公園に向かう上り坂。 代々木大山公園入口。北側の奥にJICANITEの池があるが、今は見えない。

消防学校の前を通り抜けたところを左折すると、代々木大山公園に向かう坂道がありました。大きく下がったり登ったりとダイナミックで、「大上谷」と呼ばれた理由が分かります。公園の門まで来て休憩をしている時、皆さんが北の方を指して「あちらの森がNITE ですね」と述べました。広々した公園の奥の下の方がNITE の敷地です。昔は公園の土地からNITEに向けて地面が下りていましたから、山あり谷ありの見事な眺めだったと思います。しかし、巨大なコンクリートの構造物を建設して公園を平らに広げたため、公園の北側が空中に大きく突き出ており、谷の景色が見えなくなりました。公園を作るときは大工事だったと思います。


手前の右は代々木大山公園の南の角。この写真のの左奥の南面の土地で縄文人の遺跡が見つかった。日当たりや眺めがとくに良い場所だ。

代々木大山公園の南の角から北に向かって急坂を下ると、NITEの四角い池の水が流れ出ていた地点に着く。

公園の近くに住む奥様に伺った話なのですが、「大山公園の工事の時に砂が出て来て、しかも塩の匂いがしたの。本当ですよ」と述べていました。この巨大なコンクリートの構造物を地下で支えるためには、硬い岩盤層まで掘り下げて基礎工事をする必要があるでしょう。その時に渋谷粘土層」やその下の海底堆積物を豊かに含む「上部東京層」が外気に晒されて、周りに塩分の匂いを漂わせたのかもしれません。


2.宇田川上流と徳川山

1)JICANITEの池と小川の流れ

代々木大山公園の東側の急な坂道を下り、NITEの「四角い池」の水が外に流れ出していた所に向かいました。坂道のいちばん下に降りると、そこは公園の北東の隅にある渋谷区の資材置き場でした。いかにも湧水や雨水が集まってきそうな窪んだ土地で、JICANITEの池からの流れが住宅の下を通り抜けて出てきた所です。この窪地には、NITEの東にある代々幡斎場からの小さな流れも下りてきて合流していました。この後、小川「JICANITEの流れ」は緩やかな坂道に沿って南にまっすぐに下っていくことになります。



代々木大山公園の北東の隅にある渋谷区の資材置き場。NITEの四角い池からの流れが出てきた所。

NITEと代々幡斎場の二つの流れが合流する地点から徳川山の尾根の方を見る。この辺りにも縄文遺跡があった。

この坂道の西側は大正時代までは細長い田んぼで、NITEの池からの流れが田んぼを潤しながら南の低地に向かっていました。『東京市渋谷区地籍図』(以下『地籍図』)を見ると、その土地の周りを切れ目なく水路が取り巻いており、さらに両側の水路を繋ぐルートもあり、この流れが田んぼの灌漑用に使われていたことを伝えています。昔の地図や地形図を見ると、たいていは斜面や低地の中を一本の川が流れていますが、後に「底抜け田んぼ」のところでも出てきますが、実際は何本かの水路が並んでいて、網の目のように縦横に走っています。なお、『地籍図』ではこの田んぼの土地にテニスコートと書いてありました。大正時代までは田んぼでしたから、その後テニスコートに使われた時期があったのでしょう。分譲地に住む方々が使っていたとすると、相当モダンな生活をしていたようですね。

坂道が始まった辺りにお住いの奥様は、「昭和50年ごろにはもう小川は暗渠になっていて、家の前に流れはありませんでしたが、ちょっと雨が降ると家の前の道はどろどろして、長靴を履かなければ歩けませんでした」と述べていました。昭和15年頃、徳川山が分譲地されたときは日本でも最先端の住宅地で、敷地は整然と区画され、道路はきちんと整備され、川も暗渠になって地下に埋設されたはずでした。しかし、この土地は大昔から自然の「水の道」であったようで、雨が降るとどこからともなく水が集まってきてぬかるみになったのでしょう。今は舗装道路になっているので、こうしたことは全く想像できませんが(注7)。


2)「代々木村絵図」に描かれた川と橋



坂の途中にある三叉路。右脇はJICA・NITEの池からの暗渠の道。真ん中は常盤橋から、左は四条橋からの道。この交差点の南に「代々木村絵図」に描かれた「橋」があったらしい。右図の説明と併せて参照。

「代々木村絵図」部分。図中央の紺色は水田。中の白線がJICANITEの池からの流れ。水田のすぐ上を斜めに通る茶線が「旧道」。流れと「旧道」が交わる所(図の左上)に「橋」が記されている。

NITEと代々幡斎場の流れの合流点から駅に向かう暗渠の道を250mほど歩くと、道が鋭角に交わる三叉路に出ました。私たちが歩いてきたJICANITEの池からの道、常盤橋から代々木大山公園を通って下ってきた道、西の四条橋からきた道の3つが交差しています。後の二つの道は、北西の高台を流れる玉川上水の橋の方向から来ています。参加者の方が、この二つの道の角にある「石敢當(いしがんどう)」と彫られた小さな石柱を見つけ、「これは沖縄の方の魔除けだ」「そういえば沖縄の陶器の店が近くにあったな」「道しるべの意味もある」などと話していました。関東では珍しいですが、皆さんとてもお詳しいのです。沖縄や鹿児島には多いそうで、中国南部から伝わった習慣だそうです。


関東では珍しい「石敢當」


ところで、「代々木村絵図」には、図の左上から右下にかけて紺色の細長い水田が描かれており、その中にJICAの池の方から富ヶ谷に向かう川の流れ(白線)と、水田のすぐ上を通る「旧道」が記されています。そして、川の流れと「旧道」が交わる所に「橋」があります。川筋は分かっていますので、この「旧道」のルートが分かれば絵図の「橋」の場所も推測できるのですが、昭和の初めに道路が整備されたため、「旧道」のルートが分からなくなり、ツアー当日も議論になりました。後で「渋谷区土地利用図・明治42年」と
大日本帝国陸地測量部「大正14年修正」を調べたところ、「明治42年」地図には下の右の図に示した赤い直線的な道はなく、黄色い蛇行した道だけが東西を通っており、先の三叉路のやや南で川と交差していました。その辺りに「橋」が架かっていたようです。この土地は江戸から大正までは静かな農村で、道のルートが大きく変わることはなかったと思われるので、「代々木村絵図」の旧道と黄色い線の道が同じだった可能性があります。おそらく絵図の「橋」もこの辺りにあったのでしょう。「橋」がいつまで架かっていたかは分かりませんが、「大正14年修正」で「橋」の近くの川が途切れた形で描かれていることから、大正末期にはなかったのかもしれません。

大日本帝国陸地測量部「大正14年修正」『東京一万分の一地形図』。「大山の池」の場所が「中野」と「世田谷」の境界にあるため、両方の地図を連結して作成した。

左の「大山の池」の拡大図。黄色の線は明治末期からある道で、現在の三叉路のやや南の所で川の流れと交差しており、そこに「橋」があったようだ。茶色の直線的な道は大正時代に作られた。

3)「大山の池」から西原児童遊園地へ

三叉路に入り、道なりに代々木上原駅の方に向かって歩き始めました。ところで、明治の終りから昭和10年頃まで、この道の右側に大きな池がありました。正式な名前はないようなので仮に「大山の池」と呼びます。この池は、「大正14年修正」の地図に記されていると共に、この土地で育った鈴木錠三郎氏が描いた「大正11年頃の上原。西原の絵地図」に出てきます。鈴木氏の絵図によると、「大山の池」の水源は「JICANITEの流れ」で、池に貯まった水は東に流れ出し、南から来た「上原の流れ」と合流して「底なしたんぼ」の水路を形作っています。先の「大正14年修正」地図とはかなり違いますが、公式の地図は主な水路のみを記していますので、鈴木氏が描いたような流れが実際には存在し、地元の方は池と流れの関係をそのように捉えていたということでしょう。同氏は昭和の上原、西原周辺の貴重な風景写真を数多く撮った方で、その中には、雪の日の写真ですが、埋め立てられた池の跡や近くを流れる「JICANITEの流れ」を記録したものもあります(注8


「大正11年頃の上原。西原の絵地図」。鈴木錠三郎氏描く。(辻野京子氏所蔵。無断転載禁)。川と池の青色と右下の方位は筆者。

昭和10年に鈴木氏が撮影した池の跡(右側中央の低い塀の後ろ)。(鈴木信弘氏所蔵。無断転載禁)。写真奥(南)は小田急線と上原。赤丸は駅方向に向かう流れ。


「大山の池」が存在していた期間ですが、先の「渋谷区土地利用図・明治42年」に池の姿はなく、「大正14年修正」には出ており、さらに鈴木氏が昭和10年に撮影した写真では埋め立てられていることから、15~25年間ぐらいだったようです。高台からくる自然の流れや雨水が窪地に溜まってできた池なのか、農家が灌漑用に作ったのかは分かりませんが、分譲地の開発と共に姿を消していきました。

『大山町誌』に大正7年に「大山園」に遠足に出かけた穏原小学校(今の神宮前小学校)の生徒さんの「思い出」が載っています。当時の富ヶ谷から大山の様子が生き生きと描かれており、「大山の池」のことも僅かですが出ていますので紹介します。「徳川山に沿った小道は、途中、“おおやまみち”の名称もあった古い道路で、私たち遠足の一行は、この道を歩いて「大山園」に向かった。やがて右側に広い竹やぶがあり、すかして見ると池があるようだ。少し歩くと大山園の入口に到着した」。ほんの一言ですが、子供の観察眼は鋭いですね(注9)。

最後にボーリング柱状図の読み方などについて親切にご指導をいただいた粕谷先生に改めてお礼申し上げます。

<注釈>

(注1)西原小学校の記念誌『創立50周年「私たちの西原」改定版』(11頁)より。写真は昭和初期のもので、二字橋の東300mの所にあった牧場・羽衣舎。
(注2)松田磐余氏は、渋谷川上流の形について「S面上の谷(下末吉面のことで淀橋台はその一部…筆者)は「樹枝状」に発達し、谷密度が大きい(分岐する谷の数が多い)M面上の谷(武蔵野面…筆者)は、かなり直線的に流れ、支流とは鋭角に合流することが多く、谷密度が小さい(分岐する谷の数が少ない)」とし、その理由について久保純子氏の説を紹介している。S面は、①東京湾が陸化したものであるので、海生の砂やシルトとそれを覆う関東ローム層からなるため浸食されやすい。②台地面の勾配が小さいので支谷が色々な方向に入りやすい、③浅海底や三角州を起源とするので澪すじ(干潮時に干潟に見られる水路)などの水系が存在していた。これらの理由のために最終氷期に入って、海面高度が低下するにつれて、離水した浅海底や三角州が浸食され谷頭浸食が進んで谷が形成された」。松田磐余『江戸・東京地形学散歩』之潮、2008年、66
(注3)通商産業検査所『通商産業検査所・本所庁舎竣工案内』3頁、昭和605月(NITE原和朗様提供)には、この土地が森永太一郎氏の屋敷であった頃の様子が詳しく紹介されている。「大正12、13年ころは、森永製菓(株)の初代社長であった故森永の所有地であり、その土地を代々幡ガーデンと称して一般に公開されていたそうです。同会社の元社員(故人)が書かれた「森永翁の思い出」の一節に次のように記されています。…社長が住んでおられた幡ヶ谷の敷地七千坪もあり、なかには山あり谷あり林ありで恰かも自然の公園の如く高台の一部二千坪の芝生には広大な温室や猿、孔雀等も飼い、四季とりどりの花の眺めが美しく殊に春には吉野八重桜、数千株のつつじ、皐月が研を競うて実に見事であったが、社長はこの大庭苑を「代々幡ガーデン」と命名して無料開放され、更に池に二千尾の金魚や鯉を放ちベンチから児童の運動用具まで完備されて、無邪気な子供達が終日嬉々として遊びたわむれる有様を見ては白髭をしごきながら童顔を綻ばせおられた。そして社長自身は粗末な小さい住宅をその一隅に建てて満足して居られた。…」。
(注4)前掲書2
(注5)東京都「建物における液状化対策ポータルサイト」、地盤調査データ・渋谷区、東京の地盤(WEB版)ボーリング資料(平成25年3月時点)
(注6)この柱状図において渋谷粘土層はどこからどこまでなのか。渋谷区郷土博物館・文学館の粕谷先生にお聞きしたところ「一般に関東ローム層の厚さは10mぐらいあるが、この柱状図で約2mと短いのは、この場所に何か水の流れがあったため関東ローム層が粘土化したとも考えられる」とのこと。柱状図の地下24mのピンク色が関東ローム層であるが、その下の49ⅿまでの水色が関東ローム層が粘土化したものとすると、渋谷粘土層のゾーンは、緑色の地下9mから黄色の上の地下12mまでと見ることができる。なお先生のお話では、こうした関東ローム層が粘土化したものを「ローム質粘土層」と呼び、そこから崖に水が出ることがあるという。消防学校西原寮の湧水は尾根から3-4m位の所から出ているが、これは関東ローム層が粘土化した「ローム質粘土層」からの可能性が高い。宇田川上流の湧水は渋谷粘土層からの流れが一般的であるが、他にローム質粘土層からの流れも考える必要がある。
(注7)大山町は昭和初期に山下汽船と箱根土地が「代々木大山園」を造成して近代的な分譲地になり、道はすっきりと直線に変わった。大山分譲地が出来上がった時にこの地に移り住んだ藤森謙一氏は、「丘陵地に整然と区画された宅地は、道路は1メートルほど掘り下げられ、大谷石で土止めされ、両側に側溝が完備、電線は地下埋設なので電柱が無い。そして各戸にはコンクリート製の浄化槽が付くなど非常に進んだ設計なので(後略)すぐに決めました」と述べている。『渋谷区大山町誌』29頁。
(注8)鈴木錠三郎氏が描いた「大正11年頃の上原。西原の絵地図」や写真について、詳しくは本「トピックス」2015815日参照。

(注9)大山町会『渋谷区大山町誌』、平成16年、117頁。

<参考文献>

貝塚爽平他『日本の地形4 関東・伊豆小笠原』東大出版、2007年
久保純子「相模野台地・武蔵野台地を刻む谷の地形」『地理学評論』61、1988年

東京の地盤編集委員会『ジオテクノート7 東京の地盤』地盤工学会、平成10年

辻野京子『まちの記憶-代々木上原駅周辺』個人書店、2003年
松田磐余『江戸・東京地形学散歩』之潮、2008年
貝塚爽平『東京の自然史』講談社、2011年

田原光泰『「春の小川」はなぜ消えたのか』之潮、2011

粕谷崇「埋もれた渋谷」上山和雄編著『渋谷学叢書2 歴史の中の渋谷』第二章、雄山閣、平成23年

柳田誠他「駒澤大学構内にある下末吉面を刻む谷の歴史」『駒澤地理』No48 2012
松田磐余『対話で学ぶ江戸・東京・横浜の地形』之潮、2013年

山崎晴雄・久保純子『日本列島100万年史』講談社、2017年、他。

<第1部 終り>


2018.8.3


ナウマンゾウはおよそ40万年前に大陸から日本に来たと言われています。渋谷にも23万年前にナウマンゾウが生息していて、この地の旧石器人と出会った可能性があるという話を「あるく渋谷川」のホームページで書いたことがあります。このたび、幸運にもそのナウマンゾウと一緒に写真を撮る機会がありましたので、渋谷川の話から少しそれますが夏のトピックスでご報告します。

信州・屋代の長野県立歴史館(同館HPより。)
先日軽井沢に行った時、しなの鉄道で足を延ばして屋代(やしろ)の長野県立歴史館を訪ねてきました。歴史館には、長野県の野尻湖の湖底から発見されたナウマンゾウの実物大の模型が展示されており、それが何と「動く」のです。どこが動くかというと、長い湾曲した牙を持った頭の部分で、私が近づくとセンサーが気配を察するようで、巨大な頭と長い牙が、上下、左右に揺するように動きました。ゾウさんがウエルカムとご挨拶してくれているようで、とてもうれしくなりました。


















長野県立歴史館に展示されているナウマンゾウの模型。額にはベレー帽のような大きなこぶが。人が近づくと長い牙を持った頭が動きます。 野尻湖の湖底で発見されたナウマンゾウの臼歯。(同歴史館) ゾウさんは大きくて可愛いです。


『信濃の風土と歴史①』(長野県立歴史館、1994.12)には、ナウマンゾウは「背丈が2.7メートルくらい、曲がった大きなきばと、ひたいにはベレー帽をかぶせたような大きなこぶを持ち、前足が太くしっかりしている象」と説明されています。『信州で最初に暮らした人びと』(長野県旧石器文化普及実行委員会、平成20年)によると、1948年のこと、水が引いた野尻湖の湖底で臼歯が発見されたのが始まりで、その後ナウマンゾウの化石が「約4万年をさかのぼる湖底の地層からオオツノジカの化石と共に発見されました」。「一緒に出土した石器や骨器は、長野県最古の人類が残した道具」だそうです。この「骨器」とは、ナウマンゾウやオオツノジカの牙や角、骨で作られた道具で、日本大百科全書(ニッポニカ)には、陸上では残りにくい骨器等が野尻湖の水面下に残っているとありました。

渋谷区で見つかったナウマンゾウは、1971410日に明治神宮入口にある神宮橋の真下21メートル、地下鉄9号線の工事現場から出土しました。ほぼ同じ場所の1967年のボーリング調査(東京都 土木技術支援・人材教育センター)を見ると、ナウマンゾウが出てきた地層は、「上部東京層」と呼ばれる海成層(海の中の堆積物による地層)に当り、関東ローム層(約1.2万年前-8万年前)やその下の渋谷粘土層/下末吉ローム層(約812万年前)よりもさらに下に位置しており、主に細砂や粘土質細砂で作られています。ボーリング調査の際の孔内水位は-4.5メートルでしたが、それよりずっと下にある水を含んだ砂や粘土の中で、10万年以上も保存されていたのでしょう。歴史館の学芸員の方によると、瀬戸内海でも地引網などでナウマンゾウの化石が海から引き上げられたそうで、水は化石にとって最高の環境のようです。陸に住むゾウの化石が湖底や海から出てくるのはそのためでしょう。

野尻湖の湖底から石器や骨器が出てきたことで、ナウマンゾウと旧石器人が同じ時代に生きていたことが分かりました。展示場の「説明板」には、ナウマンゾウは「約24千年前の氷河期の最寒冷化と、人類の狩猟により絶滅したと考えられる」とありました。ナウマンゾウの絶滅に人間も関わっていたとは。この時代はヴュルム氷期と呼ばれる地球規模の極寒期に当たり、旧石器人も生きていくのに必死だったのでしょう。

かながわ考古学財団 畠中俊明氏の「第5回 ようこそ考古学 ナウマン象に出会った石器たち」(http://kaf.or.jp/wordpress/wp-content/ uploads/2012/ 02/H195youkoso.pdf)によると、日本列島において最も新しいとされているナウマンゾウ化石は、岐阜県郡上市八幡町で発見されたもので、そ の年代は17000年前後(化石の放射性炭素 年代測定値は 16,720±880B.P)だそうです。2万年前に渋谷の地に旧石器人が暮らしていたことを考えると、両者が渋谷の神宮橋近くで出会う機会も充分あったと思われます。

















葺石で覆われた「森将軍塚古墳」。円墳の下には竪穴式石室がある。 沢山の埴輪が並べられて古墳を飾っている。 古墳の形。古墳の看板より。

「屋代」には貴重な遺跡がもう一つありましたので、ナウマンゾウのお話に加えてご紹介します。それは「森将軍塚古墳」という名の前方後円墳で、全長が100メートルほどあり、中に日本最大級の竪穴式の石室が置かれています。この「森」とは人名ではなく地名で、4世紀ごろ、今から1600年位前にこの地を治めていた豪族の古墳です。前方後円墳というと、緑の森に覆われた小山を連想しがちですが、建造された当時は全面が石と砂利で覆われた幾何学的な建造物だったようです。「森将軍塚古墳」はそうした古墳の原型をそのまま再現した全国でも珍しいもので、丘の上にそそり立つ葺石の塊には圧倒的な質量感がありました。小学6年生の社会科の教科書にも紹介されているそうです。この日はトレッキングシューズを履いていたので、熱中症のことが頭をかすめたのですが、古墳に登ることにしました。歩き出すと坂の脇に「近道」と書かれた急な階段があり、入り口に「マムシ、イノシシに注意」というサインがありました。出てきたらどうしたらいいの?

古墳がある丘の麓から高度差120メートルの尾根まで、急な近道をなんとか登り切りました。さらにその10メートル位上にある石の古墳に日傘をさして上ると、広い「前方」部分に砂利が敷かれ、その周りを何十という茶色い容器型の埴輪が取り巻いていました。次に「円墳」の方に上ると、目の前に屋代の町の田んぼが広がり、その奥に善光寺平(長野盆地)が遠くまで開けて、それはそれは壮大な景色でした。この古墳を築いた豪族の王は、この高みから下界を眺めて何を思ったことでしょう。

古墳の上は地面の照り返しもあり、4550℃ぐらいはあったと思います。途中人影を全く見かけませんでした。古墳から降りてきた所でバスの看板を見つけて、麓の森将軍塚古墳館から送迎バスが出ている事を知り、さっそく迎えに来てもらいました。古墳館の方は「この暑いのによく登りましたね。約1キロで130メートルの勾配ですよ」と驚いた様子。「今は小学生も暑いから来ないけれど、普段は沢山見学に来ます」とも話してくれました。暑い話はともかく、長野県立歴史館も森将軍塚古墳やふもとの古墳館も内容が充実して素晴らしいもので、長野県が「科野(しなの)」の歴史を大切にしていることがよく分かりました。皆さん、この地をぜひ一度訪れてみて下さい。

最後に、長野県立歴史館の学芸員の方には、野尻湖のナウマンゾウの発掘について貴重なお話を伺い、信州の旧石器時代に関する資料もいただきました。この場を借りてお礼申し上げます。(終)

 

(参考資料)明治神宮・神宮橋近くのボーリング図(1967年)


東京の地盤(GIS版)・ボーリング番号38220049(東京都土木技術支援・人材育成センター)より。柱状図の内、紫色の部分(地下1.27.30m)は関東ローム層。青色の部分(7.30 10.50 m)は粘土で渋谷粘土層/下末吉ローム層。黄色の部分(地下10.5022.70m)は砂層と粘土質細砂で上部東京層。オレンジ色の部分(24.9029.55m)は礫で東京礫層。ナウマンゾウが発掘された地下21メートルの地質(黄色)は被圧された地下水を含む粘土質細砂で、年代的には12万年より前、地層の分類では海中で形成された上部東京層と考えられます。





2018.5.9


「前編」では、新宿駅東南口の広場から天龍寺を経て新宿御苑「上の池」まで歩き、約2万年にわたる渋谷川の歴史をたどりました。「後編」では、渋谷川を用いて作られた「上の池」「中の池」「下の池」を順に歩き、また新宿御苑の前身となった高遠藩内藤家下屋敷の庭園を今に伝える玉藻池を訪れます。次にお隣の内藤町に入って、玉川上水の余水から生まれたもう一すじの渋谷川と水車の跡を探ります。その後、JR線路脇の大番児童遊園に出て、渋谷川上流の二すじの流れが合流する所を確かめ、新たに親水空間が予定されている新国立競技場の前まで歩いてツアーを終えます。下の図は歩くルートを地図に書き入れたものです。話題満載ですので楽しんでお読みください。

渋谷川上流の地域。茶色の線は「後編」の歩くルートで、道程は約3㎞。かつてこの地域には、西の天龍寺方面からと北の玉川上水から二すじの渋谷川が流れていた。これらの川は大番児童遊園の近くで合流し、JR中央線の土手を潜り抜け、国立競技場の前を通って渋谷へと向かっていた。図の上を東西に流れるのは玉川上水。地図はGoogleマップ。


<「後編」のルート>新宿御苑内「上の池」(鴨池)-「中の池」(新井白石宅近傍)-「下の池」-模擬橋(天龍寺方面からの渋谷川出口)-玉藻池(内藤家下屋敷の庭園)-水道局新宿営業所と「水道碑記」-内藤町の渋谷川跡(玉川上水の余水)-多武峯内藤神社-水車エリアと「鉛筆の碑」-池尻橋(外苑西通り)-大番児童遊園・JR中央線土手(二つの流れの合流点)-外苑橋-新国立競技場前(13:00解散)

 

<池上典「高遠藩四谷下屋敷再現図」に描かれた渋谷川の流れ>


新宿御苑の「上の池」。奥にかかる橋は「太鼓橋」。水面に映る木々の緑が美しい。

新宿御苑の「上の池」に着いた私たちは、池に架かる太鼓橋を渡り、左右に大きく広がる池やこんもりと茂った林の緑を眺めて楽しみました。池の周りには丸く刈りこまれたサツキが植えられ、所々で赤い花が咲いています。こんなに優雅な「上の池」が、明治39年(1906)に新宿御苑になるまでは鴨の飼育場であり、その前は池ではなくて渋谷川であったと話したところ、「ここが渋谷川だったなんて」と驚きの声が上がりました。そこで、この土地の幕末の様子を描いた「高遠藩四谷下屋敷再現図」(以下「再現図」)を皆さんにお見せしました。この絵図は高遠出身のデザイナー池上典氏の作品で、新宿御苑の前身である信州高遠藩・内藤家下屋敷とその周りの景色を描いています。新宿歴史博物館の許可を得て電子データから大型のA3用紙に印刷し、皆さんにお見せしました。伊那市立高遠町歴史博物館には何畳分もある作品が壁に飾られており、高遠町を訪れて実際に拝見しましたが、その大きさと細密な描写に圧倒されました。



池上典氏「高遠藩四谷下屋敷再現図」。新宿歴史博物館所蔵(無断転載禁)。図は東から眺めた内藤家下屋敷の鳥瞰図。西の彼方に(図の上)天龍寺らしき屋根が見える。その辺りから渋谷川の流れが始まり、屋敷の南の縁(左)を通って東南(左下)の千駄ヶ谷に向かっている。屋敷の北(右)を東西(上下)に走るのが玉川上水と甲州街道で、東北の角(右下)が四谷大木戸の関所。屋敷の東(下)には渋谷川(玉川上水の余水)が北から南(右から左)に流れている。


「再現図」は幕末(8代藩主内藤頼直の頃)の下屋敷と周辺の様子を描いたもので、藩主や隠居の住む
御殿、武家屋敷、庭園、泉水、長屋、馬場、農家、田畑、樹木畑、周辺の川や街並みなどが実に細かく描かれています。天龍寺方面からの渋谷川の流れは、屋敷の南側に広がる田畑の中を緩やかにカーブしながら千駄ヶ谷の方へと向かっています。また屋敷の北側には玉川上水の流れが、その外側には甲州街道の町並があります。図の東北の角は四谷大木戸の関所で、すぐ手前の玉川上水・水番屋からの上水の余水(吐き水)を水源とする渋谷川が神社の森を通り抜けて千駄ヶ谷へ向かっています。この二すじの流れは、図の左端近くで合流しますが、「再現図」はその手前で切れています。ツアーの皆さんは、図に目を凝らしながら「どこに天龍寺が描いてあるのかな」とか「今は池が連なっているが、元はこんな川だったんだ」などと話していました。

ところで、「これは想像図なんでしょう?」という質問もありましたが、単なる想像図ではありません。池上氏は「再現図は問題提起の一つであると思って制作しています」と謙遜して述べておられますが、作成には多くの古文書や図録が用いられています。屋敷の配置は嘉永4年の大火後の「江戸藩邸図」等に基づいており、町並みは明治初期に外国人カメラマンが撮った愛宕山からの俯瞰写真を参考にしています。内藤家下屋敷の土地の用途は「新宿下屋敷図絵」(高遠町歴史博物館所蔵)を基本にしていると思われます。この図は敷地内を用途別に色分けしたものですが、細かいことがよく分かりませんでした。ツアーの準備をしていた時に偶然、高遠町歴史博物館に「再現図」が展示されていることを知って見学したのですが、イマジネーションが豊かで、しかもきちんと資料に基づいて再現されていることに感服しました。再現の方法については、池上典「再現図の制作にあたり」『信州高遠藩・歴史と文化』を参照して下さい(注1)。


<新宿御苑と渋谷川の歴史①―高遠藩・内藤家下屋敷の時代>

「上の池」から歩き始める前に、新宿御苑と渋谷川の歴史的な繋がりについて述べます。現在の新宿御苑のある一帯は、江戸から明治中頃にかけて土地の改造が繰り返されたため、その過程でこの地を流れていた渋谷川も大きく姿を変えて行きました。渋谷川の変化の跡を、江戸時代から現代に至るまで簡単にたどります。

まず江戸時代ですが、この地には後の新宿御苑の前身となる高遠藩内藤家の下屋敷がありました。天正18年に徳川家康が豊臣秀吉の命で関東に移封された時、家臣の内藤清成は、旧北条氏の残党に備えるため国府路(甲州街道)と鎌倉街道の交わる土地(現在の新宿御苑周辺)に布陣し、尾根に遠見やぐらを築いて警護しました。家康の入府後は、江戸城の西方を固める役割があったようで、布陣していた広大な土地をそのまま屋敷地として拝領しました。「馬で一息に回れる土地を与えよう」という家康の言葉に従って、清成は駿馬に跨り、北は大久保、西は代々木、南は千駄ヶ谷、東は四谷と走り回ったところが、馬が疲れ果てて死んでしまい、今の多武峯内藤神社に祀られているという伝承が残されています。家康の家臣で清成の同僚でもあった青山忠成(屋敷は現在の港区青山)にも似たような話があります。この二人には家康の信頼がとても厚かったのでしょう。

世の中が平和になり、江戸の町が発展して武家の屋敷地が足りなくなると、内藤家は数回に渡って幕府に土地を返納し、現在の新宿御苑と東隣りの内藤町の土地が残りました。玉川上水や甲州街道の土地も元は内藤家の敷地でした。この時代に渋谷川は、内藤家下屋敷の中にある田畑の灌漑に使われていました。その水源は天龍寺方面の湧水や雨水、そして内藤新宿から石樋で玉川上水を渡ってくる下水の流れでした。下水とはいっても当時はし尿を川に捨てる習慣がありませんので、主に雨水です。なお『江戸切絵図』(1862)の中の「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」には渋谷川の水源として天龍寺の池が描かれていますが、「前編」で述べたように、この池の存在は確かめられていません。


内藤宿「當時之形」。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり・四谷編』より。図の左端には、内藤新宿から南下して渋谷川に流れ込んだと考えられる下水溝が描かれている。流れの最上部(左上)に玉川上水に架けられた石樋が見える。(詳しくは「前編」の説明を参照)



<新宿御苑と渋谷川の歴史②-明治の「内藤新宿試験場」の時代>

明治時代になると、時の政府は内藤家下屋敷を隣接した農地と共に買い入れました。金井利彦『新宿御苑』によると、土地の面積は内藤家の邸宅が98千坪、周りの土地が8万坪の合計178千坪(59ヘクタール弱)で、ここに明治5年に牧畜や園芸のための「内藤新宿試験場」を設けました(注2)。そして、渋谷川の流域に作られた田畑で植物の研究や品種改良を行いました。試験場にはヒマラヤシダ、ラクウショウなどの造園樹木が日本で初めて植えられ、リンゴやオリーブも試作されました。政府は内務卿大久保利通の下で殖産興業政策を推し進め、植物試験場や農業博物館を作り、ここで育てた西洋や日本の品種を地方に送って普及させました。今は有名な青森のリンゴや小豆島のオリーブもこの試験場で作られました。渋谷川が明治の農業の近代化と関わりがあったなんて意外ですね。


明治時代の殖産興業政策を進めた大久保利通。(Wikipediaより)

小豆島のオリーブ。
http://www.setouchi-olive.com より)




<新宿御苑と渋谷川の歴史③―皇室の「新宿植物御苑」の時代>






福羽逸人(ふくば はやと)。明治時代の農学者、造園家彼は新宿試験場、新宿植物御苑、新宿御苑の時代を通して植物の改良に生涯を捧げた。 明治41年当時の温室。温室は明治半ばの植物御苑の時代に完成し、洋ランから果樹にいたるまでが栽培されていた。環境省HP『新宿御苑』より。左の写真も同じ。無断転載禁


明治12年(1879)になると、内藤新宿試験場の土地は皇室に献上され、皇室に食材や草花を供する「新宿植物御苑」になりました。この時に活躍したのが農学者の福羽逸人(ふくば・はやと)です。果樹、野菜、花の栽培、温室ブドウ園の創設、メロンの試作など、日本の果樹や園芸の改良、作出に大きく貢献しました。高級促成イチゴ「福羽苺」は日本で最初のイチゴで、現在の改良品種のほとんどがそのDNAを受け継いでいるそうです。福羽はシクラメン、フリージアなどの栽培も手掛け、それらを民間に普及させました。渋谷川はこの時代も植物の栽培に役立っていました。明治13年には川の流れを用いて「鴨池」が作られましたが、これが今日の「上の池」の始まりです。「鴨池」については後に触れます。

 

<新宿御苑と渋谷川の歴史④-皇室庭園「新宿御苑」と戦後の「国民公園」>

明治35年(1902)になると「新宿植物御苑」の改装工事が始まり、39年(1906)に現在の新宿御苑が完成しました。近代日本の国家行事を行うための皇室庭園が初めて誕生したのです。デザインはベルサイユ園芸学校の教授アンリ・マルチネに頼み、5年をかけて豪華な近代庭園に生まれ変わりました。その過程で、この地を流れていた渋谷川は庭園の池となって姿を消しました。時は流れて戦後のことですが、新宿御苑は一時的に都立農業科学講習所の用地となりましたが、昭和25年(1950)に正式に「国民公園」として復活しました。新宿御苑の使い方を巡っては、その後も遊園地化などさまざまな試みがあったようですが、桜などの庭木や温室栽培もだんだん増えて、昭和33年頃から国民の庭として今の姿になりました。新宿御苑が作られる時に渋谷川が消えていったのは残念ですが、数珠玉のように連なる美しい池に姿を変えて生き残ったとも言えます。もし植物御苑のままであったならば、近代化のうねりの中で官庁か軍用施設、あるいは民間に払い下げられ、暗渠になったり埋められていたかもしれません。

牧大次郎「新宿御苑の庭園デザインと設計者アンリ・マルチネ」日本庭園学会誌2007 (2007) 17 より。1908年の地図に新宿御苑のデザイン構成を描きこんだもの。アンリ・マルチネの設計図には2階建てルネッサンス風宮殿が予定されていたが、財政的理由で実現しなかったという。設計図は戦災で焼失した。青色は渋谷川を用いて作られた新宿御苑の池(彩色と文字は筆者)。「F区埋没谷」と「上の池」の間にある細長い池は後に埋められて現在はない。



<「上の池」から旧御涼亭へ

新宿御苑と渋谷川の歴史はこれぐらいにして、「上の池」に話を戻します。「上の池」の始まりは、先ほども述べたように皇室の「新宿植物御苑」の時代に造られた「鴨池」です。前掲『新宿御苑』には、「鴨池は、新宿千駄ヶ谷の境の谷筋の西部に地形を利用して造成され、現在の日本庭園の元となった」とあります。ここで「谷筋」とは渋谷川が流れていた谷間で、その西方に窪地を造成して池を作ったということでしょう。この池は鴨の飼育場に使われました。野村敏雄『新宿うら町おもてまち』(1993)によると、当時内藤新宿の周辺には鴨場が4つありました。「(前略)新宿にも鴨の群れがつぎつぎと飛んできた時代があった。明治のころである。(中略)、新宿御苑の鴨池だけでも毎日56千羽、時には1万羽を越える鴨が下りたり飛び立ったりするので、鴨は新宿の秋の名物とされていた」。鴨が大挙して飛び立つ時の鳴き声が聞こえて来るようです。明治時代になってから鴨が押し寄せるようになったとは考えられません。この辺りは昔から湿地帯でしたから、たくさんの鴨が集まるような土地柄だったのでしょう。

明治20年「東京実測図」には、人の顔のような奇妙な形をした「鴨池」が描かれています。池の中に目玉のような二つの島があり、池の周りには髭のような16本の水路が外に伸びています。この形には訳があって、同書によると「この鴨池から引き掘りと称する水路へ鴨を誘い出し、飛び立ったところを網ですくい取ったり鷹を放ってとらえる」とのことです。ちょっとかわいそうですが、鴨を捕まえる伝統的な方法なのでしょう。







明治20年「東京実測図」の部分図。図の左が鴨池。水色が玉川上水と渋谷川。緑が新宿植物御苑敷地。 鴨池の拡大図。人の顔のような形は鴨を捕まえるための仕掛け。

さて、私たちは太鼓橋を渡った後、「上の池」の南側の道を水辺に沿って歩き出しました。「上の池」を過ぎると水面が川のように細くなりましたが、水が下手(東)に流れている様子はありません。しばらく歩いて小池の手前を左(北側)に回って進むと、やや大きな池の前に出て、対岸にエキゾチックな建物が見えました。新宿御苑でいちばん眺めが良いと言われる場所に建つ旧御涼邸で、昭和2年に昭和天皇のご成婚を祝って台湾在住の日本人有志から贈られたものです。屋根が尖っているのは中国南方(福建省)の様式だそうですが、周りの日本庭園と違和感なく調和していました。





台湾在住の日本人から昭和天皇に贈られた旧御涼邸。赤い尖った屋根が緑に映えて美しい。 旧御涼邸から眺めた池と周りの景色。御苑の中の見どころだ。

旧御涼邸の所で再び池の南側の道に入って「中の池」に向かいました。すぐ先に十字路がありましたが、ここを右に曲がって道なりに南に歩くと千駄ヶ谷門があります。この日は時間の都合で行きませんでしたが、千駄ヶ谷門を出て右(西)に300mぐらい行った所に江戸時代の儒学者新井白石の「終焉の地」があります。享保2年(1717)頃の話ですが、幕府の実力者新井白石は新将軍吉宗に遠ざけられて失脚し、小川町の屋敷も取り上げられて千駄ヶ谷に移り住みました。白石がこの地について述べた下りがあります。「千駄ヶ谷の新居のあたりは「武蔵野」の田園で近くには家はほとんどない。皆麦畑だ。庭に花でも植えて晴天には富士山でも眺めよう」(注3)。文面からのどかな情景が伝わってきますが、白石が田園生活に心癒されて綴ったとは思えません。白石の屋敷は内藤家が元禄10年に幕府に返納した土地で(注4)、当時は建つ家もまばらでしたから、小川町の町並を懐かしんで記したのではないでしょうか。

新井白石終焉の地(千駄ヶ谷門近く)

ここで、白石の家の北側にあった内藤家下屋敷の様子を見てみましょう。下は先程の「再現図」の部分図で、現在の千駄ヶ谷門近くの様子です。屋敷の南の縁には渋谷川がゆったりと流れ、この辺りで川幅が膨らんでいて自然の流れを感じさせます。川の南には畑と武家屋敷が、北の屋敷内に馬場や田畑が見えます。屋敷の中は田んぼや樹木畑(桑園)が整然と並んでおり、馬場には馬を走らせる武士の姿が見えます。この図は幕末とのことですが、当時の高遠藩は開明君主(頼寧、頼直)の下で藩政改革を進めていましたので、農園の経営や藩士の訓練の様子を描いたものかもしれません。屋敷の周りには武家屋敷がびっしり並んでいますが、白石が住んでいた享保の頃はもっと閑散としていたのでしょう。

「内藤家下屋敷再現図」の中ほどより少し上(西)の部分図。現在の「中の池」の辺りか。屋敷内には田畑や馬場が整然と配置されている。




<「中の池」から「下の池」へ>

「中の池」の岸辺を歩く人々。池の景色をスケッチ
している人を見かけた。 
池の脇で記念撮影。この日は天気に恵まれました。

旧御涼邸の先の十字路を過ぎると、左手に「中の池」が広がりました。太陽の光を浴びて水面がキラキラ輝き、右手には芝生広場が開け、何とも言えない開放的な気持ちになります。「御苑の中でこんなところ歩いたことないよ」とおっしゃる方も。休憩所や施設がある池の北側を歩く人が多いのでしょう。「中の池」を見ながらツツジ山の横を通り抜け、「下の池」の脇を通って池尻に着きました。道の周りは灌木から木立に変わり、うっそうとした木々の間から池の水面が見えました。池尻には日本で初めて設置されたフランス製の「模擬橋」が架かっていました。木を模してコンクリートと石で作った橋で、これを輸入した時には橋の組み立てのために3人の技師が付いてきたとか。当時「下の池」の水は、この池尻でしばし渋谷川の姿を取り戻し御苑の外に流れ出ていました。そして、200mぐらい先にある大番児童遊園の手前で、北から流れてきたもう一すじの渋谷川(玉川上水の余水)と合流していました。この合流点には後程行きます。





池尻の木立の間から「下の池」を望む。かつてここに渋谷川が流れていた。  「下の池」の水は日本初の模擬橋の下を流れて御苑の外へ。


<江戸時代の「玉川園」の面影を残す玉藻池>



玉藻池の池尻には欄干の付いた橋がない。 

玉藻池の排水路。池の水は新宿御苑の東側を流れる渋谷川(玉川上水の余水)へ向かう。



さて、私たちは天龍寺方面からの流れといったん別れて、新宿御苑の北にある玉藻池に向かいました。「模擬橋」を渡り、大きなフランス式庭園の横を300mほど北に歩いて小暗い森の中に入ると、左の奥に玉藻池の池尻が見えました。水が流れ出す場所には下の池のような欄干の付いた橋はありません。「ここが玉藻池の池尻で、こちらから池の水が外に流れ出ています」と言ったところが、中学生のK君から「こっちですよ!」と言われ、そちらの方を見ると、道路の下を斜めに流れて数メートル離れた所に池の排水路が見えていました。「その通り。そちらです」とあわてて訂正。K君は今から頼もしいですね。皆で排水路を確かめた後、玉藻池の方に向かいました。この排水路の水は渋谷川(玉川上水の余水)が暗渠になる前は東南に150mぐらい流れてから御苑の外に出て、外苑西通りの池尻橋近くで渋谷川と合流していました。この場所にも後で行きます。

池の左側の道を少し歩くと、「大木戸休憩所へ」と書かれた看板が立っていました。そこの階段を降りると、緑の木々を水面に映した玉藻池が目の前に広がりました。内藤家下屋敷の時代はこの庭は「玉川園」と呼ばれ、江戸の名園の一つに数えられていました。その中心となる玉藻池(魚藻池)は、屋敷の北側を通る玉川上水本流と東側の渋谷川(玉川上水の余水)の両方から水を引いて作られており、「玉川園」という名も玉川上水に因んだものです。明治になると「玉川園」を管理する人がいなくなり、池の水が枯れるほど荒れ果てていたそうですが、後に再現されて昔の面影を今に伝えています。私たちは、池に架かる小橋を渡り、緩やかなスロープを歩いて大木戸休憩所に着きました。休憩所から池の方を見渡すと、森に囲まれた庭園の中に池と灯篭、そして松やツツジが見事に配置され、昔の大名屋敷にタイムスリップしたような気持になりました。

初春の玉藻池。池の小橋を渡ると、その先の高台に大木戸休憩所がある。 大木戸休憩所から見た玉藻池の景色(岡本敏之様撮影。)

「玉川園」については、内藤家の3代目当主頼由(よりゆき・1735-1776)が儒臣の中根経世に作らせた『玉川園記』があります。漢文ですのでパスしますが、その大意が前掲『新宿御苑』に述べられていますので、少し長くなりますがご紹介します。「広大だった四谷荘の土地も江戸の家々が隙間もなくなってくるにつれて次第に土地を割愛して以前の3分の1位になっている。それでもなお広い荘は、北にこんこんと玉川上水が流れ、諸門には橋を渡って入る。玉川上水の両脇には松や杉の並木が茂り、あたかも砦のような状況である。その中に美しく大きな玉川園があり、その他は建物と林と肥沃な土地だけだ。」「この庭は一つ一つの木や石に細工を凝らして景色を作り上げた庭ではない。(中略)御先祖が功によって賜ったこの荘園を百余年もかけて次第に修景したもので、政務の余暇に遊び、宴を開いても節度があり、(中略)わが主君がこの庭に遊ばれる時には、荘内の田畑も見回られ、豊凶の様子や農民の苦労を聞かれるので、江戸在府中も高遠の領地を治めておられる時と変わりがない。住民も庭園に入園させてともに楽しませる」(注2) 。「玉川園」は大名家の権勢や富を誇るような庭ではなく、藩主が政務の疲れを癒したり、政道を顧みるための場であったようです。幕末の頃は藩主と領民との繋がりも深かったようで、私が高遠町を訪れた時には、内藤家の当主が今も町を訪れて人々と交流しているという話を聞きました。


「内藤家下屋敷再現図」の東側。玉藻池は屋敷の北側(右)を流れる玉川上水本流と、玉川上水・水番屋の吐き口から発した渋谷川の流れを引いて作られた。玉藻池の水は屋敷の森の間を抜けて当時の池尻橋(図の左下)の南で渋谷川と合流し、千駄ヶ谷へと向かっていた。


ここで、先の「再現図」から玉藻池とその周りの土地の様子を確かめましょう。「玉川園」ができた年代は正確には分かりませんが、前掲『信州高遠藩・歴史と文化』によると安永元年(1772)の大火の頃なので(注6)、「再現図」はその90年ぐらい後の姿と考えられます。図の中央に玉藻池を中心とした「玉川園」があり、その北側に藩主の御殿が、南側に馬場か農園が描かれています。屋敷の北側には玉川上水が流れ、その終点に水番屋と吐き口があります。渋谷川(玉川上水の余水)は、ここから発して南に流れ、池尻橋の近くで玉藻池からの流れを併せ、さらに南の千駄ヶ谷へと向かっていました。屋敷の東側には多武峯内藤神社と境内の森が広がっていますが、この地域が現在の内藤町で、後に歩くルートです。



<「水道碑記」と玉川上水・吐き水門からの渋谷川の流れ>

話はツアーに戻ります。大木戸休憩所は涼しい風がそよいで清々しく、しばらくここに留まっていたい気持ちもありましたが、時間も押しているので出発しました。そして、休憩所の北の大木戸門を出て、御苑の北隣にある「水道局新宿営業所」に行きました。大木戸門の前を通る道路には、明治31年(1898)に淀橋浄水場が完成するまでは玉川上水の本流が流れていましたが、その後淀橋浄水場の余水のみとなり、道路が舗装された大正14年(1925)に暗渠となりました。



水道局新宿営業所の裏手にある白いかまぼこ型のフェンス。この中に水門のバルブがある。 玉川上水の歴史を説明する新宿区教育委員会の看板。

私たちは水道局の裏手に入りました。江戸時代はこの地に玉川上水の水番屋があり、そこから玉川上水が地下に入り、石樋・木樋を使って江戸城や大名屋敷、町屋、社寺に上水を配っていました。水番屋の役人は水番屋で上水のゴミや石・泥を取り除き(芥留め)、また水量を調節して地下に流し込み、余分な水は吐き口を通して渋谷川に捨てていました。江戸時代の水番屋の場所に現代の水道局新宿営業所があるのは、この土地の歴史を感じさせますね。ところで、水道局の裏手には左上の写真のような「かまぼこ型」の白いフェンスが立っていて、そこに新宿区教育委員会による玉川上水の説明板が掛かっていました。何も知らないと、この看板を読んだだけで通り過ぎてしまいそうですが、実はこのフェンスの内側に貴重な“お宝”が鎮座しているのです。



フェンスの中にあった2つの青いバルブ。中に入れないので、フェンスの上から撮影した。  玉川上水跡の吐き水門(昭和36年)。新宿歴史博物館 所蔵。左の写真と同型の2つのバルブ(赤い丸)が見える。

フェンスの脇の植え込みから中をのぞくと、丸いハンドルが付いた2つの青いバルブのようなものが見えました。左の写真がそれです。実はこの写真を撮る時に苦心談がありました。下見の時ですが、フェンスの中に入って写真を撮ろうとしたところが、どこからか大声がして叱られたのです。辺りを見渡しても誰もいません。やむを得ずフェンスの外から高くカメラをかざして適当にシャッターを押し、運よくファインダーに収まったのがこの写真です。それはともかく、このバルブはレトロないい形をしていますね。おそらく玉川上水の水門の開閉に使われていたものでしょう。右は玉川上水跡の「吐き水門」の写真ですが、よく見ると2つのバルブが写っています(赤い丸)。2つのバルブの間は左の写真より離れていますが、同じ物のようです。玉川上水は昭和39年に暗渠になりましたが、水道局がその時に記念に保管したのでしょう。こんな面白い遺物をなぜ見えないようにフェンスで囲っているのでしょうか。



江戸の上水について漢文で記した「水道碑記」  水道局新宿営業所は江戸時代に玉川上水の水番屋があった場所。灰色の線は等高線で、図の下(南)に向かって高度が下がる。


次に表通りにある水道局の正面に行きました。そこには江戸の上水の開設の由来と先人たちの功績を記した「水道碑記」がありました。上の左の写真ですが、明治28年に建てられて漢文で書かれており、高さ4.6メートルに及ぶ堂々としたものです。

ところで、渋谷川(玉川上水の余水)は水道局の敷地から始まり、現在の高速道路(御苑トンネルの出口付近)を横切る形で南に流れていました。もしここに高速道路がなければ、川跡は水道局裏の玉川上水からつながっていたことでしょう。私たちは、川跡に入るため水道局の裏手から新宿御苑の駐車場の小道に入り、高速道路を挟んでちょうど反対側(南側)に出ました。この場所には歩行者が道から外に出ないように両側にネット(金網)が張ってありました。道の右側(南)は渋谷川の川跡で、ここから緩やかな下り坂の空き地が南に向かって伸びていました。


水道局裏の通路にある植え込みの辺りが玉川上水の水路。植え込みの先にかまぼこ型の白いフェンスが。   水道局から高速道路を挟んで南に伸びる渋谷川の跡。紫の花大根が咲き乱れて美しかった。(4月下見の時)。



<渋谷川の川跡を歩く>

高速道路の南側から始まる渋谷川の水路は、人が歩くような暗渠の道ではなく、謂わば雑草に覆われた細長い空地でした (注7)。しかし、川跡をネット越しに眺めただけで引き下がる訳にはいきません。ネット沿いにいったん内藤町に入り、住宅街の道を再び戻る形で川跡の土手の上まで来ました。そして、苔むした小さな階段を5段ほど降りて草むらに立ちました。地面にはフキの葉や雑草が茂り、緑の匂いがムンムンしていました。水路の真ん中には「けもの道」のように一すじの草の分け目があり、右は新宿御苑の高い柵が、左は川の石垣が続いていて、人の気配はありません。4月の下見の時は紫の花大根が咲いていましたが、5月のツアーの時はドクダミの花がいっぱいで、頭上には新宿御苑の木の枝が覆いかぶさり、ここが都心とは到底思えませんでした。


川跡の草むらの両脇に川の水を貯める「堰」の跡と思
われる石柱の頭が見える(岡本様撮影)。


川跡を数十メートルほど南に歩くと、草むらの両側に石柱が立っていました。その先は道が急に下がっており、この辺りから川の高度が急に下がっていることが分かりました。後に内藤町の水車の場所を描いた地図を紹介しますが、この石柱は水車を回すために水を貯めて流す「堰」の跡と考えられます。水車を回す仕組みですが、渋谷川の流れをそのまま使って水車を回すのではなく、この石柱に板を渡していったん水を堰き止め、貯まった水をほぼ水平に内藤町の方に導き、この水路と元の川との高度差を十分につけたところで、元の川の方に水を流して水車を回すのです。渋谷川に水車を掛けるよりもこの方が水の勢いがつけられます。大雨で玉川上水が増水した時などは、水車が壊れない様に「堰」を開けて水をドッと下流に流したのでしょう。

私たちは、石柱の「堰」を確かめたところで前進するのを止め、先の階段まで戻りました。引き返すことになって皆さんとても残念がっていましたが、これには訳があります。この「堰」のしばらく先の左側に水路から住宅街に抜け出す扉があったのですが、その扉にカギがかけられていたのです。不審者を入れないためでしょう。下見の日は、この先で出られるだろうと思って川跡を下ったのですが、出る場所がどこにも見つからず、とうとう「堰」から400mぐらい先の外苑西通りの行き止まりまで来て、右脇の高い崖をよじ登って脱出しました。皆さんにそんな冒険をさせられないので、しぶしぶ引き上げた訳です。

 

<内藤町の余水の流れと水車>


賀善次郎『新宿御苑の散歩道』、194頁。

内藤町の渋谷川の流れと分水路、水車。灰色の線は等高線。「堰」の先から川が急に下がる。左図は芳賀善次郎『新宿御苑の散歩道』194頁と「文明開化期」「明治のおわり」『東京時層地図』 の内藤新宿1丁目周辺から作成。地図はGoogleマップ。



私たちは元の階段の場所に戻って川跡の外に出た後、内藤町の住宅街を南に歩き始めました。先程の「堰」のちょうど横(東側)辺りにある朝日マンションの前を通り、左にクランク状に曲がって「けやき公園」に出ました。左上の地図の中ほどにある小さな公園(緑の丸)です。そこには、「新宿区みどりの文化財 保護樹林」という看板の付いた大きなケヤキが立っていました。かつて切り倒されるところを町の方の保存運動で残されたそうです。

この土地を流れる渋谷川は、玉川上水の余水によって一定の水量を保っていたため、流域に幾つかの水車が設けられました。右上の図は、芳賀善次郎『新宿の散歩道』(注8)にある3つの水車(新キ水車、在来水車、新水車)で、いずれも内藤家が設けた米つき用のものです。左の縦(南北)の太線が渋谷川で、「新規分水口」とは先程の「堰」から水を引き込んだ所か、その先のさらに水を分けた所でしょう。いずれにしても高度差をかなりつけてから水を落として水車を回しました。後に述べますが、日本で最初に鉛筆を製造した真崎鉛筆製造所(後の三菱鉛筆)の住宅兼工場は多武峯内藤神社の西側にありましたから、神社から近い「新キ水車」(八号地)が工場の水車と思われます。現在の「けやき公園」の辺りでしょうか。

なお、水車は内藤町だけではなく、西側の新宿御苑の中にも設けられていました。前掲『新宿御苑』によると、明治7年には殖産興業政策を担当する勧業寮出張所に対し、渋谷川から玉藻池まで水を引いて水車を設ける「水車用水についての願書添付図面」が出されています。この本によると、明治20年代にも御苑内製糸場の動力に水車が使われており、渋谷川が単に玉川上水の余分な水を捨てるための川ではなく、日本の近代工業を支える重要な動力源であったことが分かります。

前掲『新宿御苑の散歩道』には、当時の工場の土台だったらしい赤レンガが小山家(八号地)や小川家(十号地)に残っていると書いてありました。下見の時ですが、今も当時の小山家や小川家があれば何か関連のお話が聞けるのではないかと思って歩いていると、偶然「けやき公園」の近くに「小山」という表札を見つけました。玄関ベルを鳴らして良いものかどうか迷っていると、タイミングよく町内会の方が家に来られて御主人が外に出てこられました。私が訪問の理由を告げると「2人もお客がいて驚いたなー」と言いながら、町内会の用件が終わった後に話をして下さいました。工場のレンガについて伺うと、「まだうちの庭に置いてあるよ」と。案内されたお庭には空まで伸びるような大きなケヤキの木が立っており、その足元にレンガが1列に並んでいました。「この地域はケヤキが多くて、この木も何十年も経っているんだ。このレンガは明治初期のもので大きいんだよ。後から作られたものは小さいけど。」当時の工場は土台に赤レンガを使っていたため、工場が他に移った後も庭や床下にゴロゴロと転がっていたそうです。



三菱鉛筆の看板(後出)に描かれた真崎鉛筆製造所のスケッチ。工場の脇には水車を回す分水路があった。  
小山家のケヤキの巨木と下に並んだ工場跡のレンガ。

渋谷川(玉川上水の余水)についてもお話を伺うことができました。「昭和39年に渋谷川は暗渠になり、周りの家は皆水洗便所になった。それまで川は浅いが良く流れていて、釣りをして遊んだ。雨の時コイがたくさん流れてきた。水門があるので、1回渋谷川に来てしまうと帰れない。金魚も流れて来た。ある時鴨の親子が川をさかのぼってきた。お母さん鴨の後ろに45羽の小さな子鴨が付いて泳いでいたよ。あまり可愛いので2階の窓から写真を撮ったんだが、その写真は今はどこにいったかね。家の裏には御苑の玉藻池から水が流れ出していて、そこは川も深くて幅も広くなっていて、魚がたくさんいた。子どもたちがその辺りによく入って怒られていた。他の所は浅かったが。この辺りには宮内庁の人や軍人がたくさん住んでいた。陸軍大将で陸軍大臣まで務めた宇垣一成もいた。うちの前辺りが水車の水路だっただろう。あそこもうちの土地だった。自分では水車は見たことがないけれど。工場の跡のレンガは大きかった。この辺りでは工場ではなくても、レンガがいいとなって使った家もある。」小山様のお話は本当に面白くて、また私が研究している宇田川や河骨川についても良くご存じで驚きました。小山様、貴重なお話を本当にありがとうございました。


多武峯内藤神社(野沢有様撮影) 神社隣りの内藤児童遊園にある「鉛筆の碑」 

ツアーの話に戻ります。「けやき公園」を過ぎて南の多武峯内藤神社に向かいました。伝説にあった内藤清成の愛馬の塚がある多武峯内藤神社でお参りをしてから、隣の内藤児童遊園に立てられた「鉛筆の碑」と三菱鉛筆の「看板」を見学しました。明治20年、パリの万国博覧会で鉛筆の便利さを初めて知った真崎仁六は、日本で最初の鉛筆を10年かけて独力で考案しました。真崎は内藤家の水車を借り、渋谷川の水を動力に用いて鉛筆工場を始めました。「何しろ動力は水車で、その水も玉川上水の余水だから、流れたり流れなかったりした。水が来ると真崎夫婦は夜中でも飛び起きて十人ほどの職工を起こして徹夜でも機械を回した」(前掲『新宿の散歩道』、193頁)。もし鉛筆が高価な外国製しかなかったら、当時の学校教育にも大きく影響していたでしょう。



真崎鉛筆製造所の看板を眺める参加者の方々。
 真崎鉛筆製造所(後の三菱鉛筆)の歴史の看板。

次に内藤町の住宅街を離れ、東側を通る外苑西通りに出て南に向かって歩きました。「大京町交番前」の信号を超えると、道路の右下に先程の川跡が見えました。「あっ、ここが余水の流れだ」との声が。ここは下見の時に崖をよじ登って脱出した場所です。

紫の花大根が咲く川跡。外苑西通り「大京町交番前」信号の先で4月に撮影。奥が渋谷川上流。  川跡は外苑西通りで右に曲がり、道路沿いに南に進んだ。今は板で塞がれて入れない。左は外苑西通り。


渋谷川の川跡は外苑西通りで突き当り、ほぼ直角に右に曲がって4050メートルほど道路と並行して進み、池尻橋の下で道路の反対側に潜り抜けていました。突き当たって右に曲がるところをのぞき込むと、何枚もの板でしっかり塞がれており、その上は行き止まりの短い道で、下は通れないようになっていました。私たちは、道路沿いに南に向かう川跡(細長い空き地)を右下に見ながら外苑西通りを歩き、大京町交番を通り過ぎて池尻橋まで来ました。橋とはいっても、道路の両脇に欄干の遺物があるだけですが、これが御影石でできたなかなか立派なもので、歩測すると15mぐらいでした。『東京時層地図』(日本地理センター/後出の地図を参照)で明治、大正の様子を見ると、まだ外苑西通りはなく、御苑の境に沿った細い道があるだけでした。当然橋も小さく、場所も今の欄干の所より北寄りであったと思われます。これは推測ですが、現在の欄干は昭和初めに外苑西通りができた頃のもので、戦後に道幅を広げた時に今の所に保存したのではないでしょうか。なお玉藻池からの流れが渋谷川に合流していた場所ですが、大京町交番の裏にあるマンションの敷地内と考えられます。現在の玉藻池の水は、排水路を通った後に下水道幹線に流れ込んでいるのでしょう。


川跡の崖の上に「沖田総司の逝去の地」と書かれた看板がある。右側の崖下が川跡。 大京町交番の先にある池尻橋の欄干(黒いフェンスの奥)。4月は欄干の脇にある桜が満開だった。

池尻橋の近くには昔から池尻水車がありました。その場所は、池上典氏の「再現図」では橋のすぐ北にあり、渋谷川に直接掛かる形で描かれています。前掲『東京時層地図』の「文明開化期(140年前)」を見ると、同じような場所に水車のマークがありますが、池尻橋より南にも水車のマークがあり、これは玉藻池からの流れに掛かっているようです。池尻水車の用途ですが、一般に農業用と考えられますが、すぐ近く(国立競技場の土地)に江戸幕府や明治陸軍の火薬庫がありましたので、火薬の製造に使われたのかもしれません。


内藤町から千駄ヶ谷にかけての渋谷川の流れ。「明治のおわり」『東京時層地図』より。渋谷川は北(中央上)から南(下)に流れており、途中で玉藻池(左上)からの流れを併せ、中央線の手前(中央下)で新宿御苑「下の池」(左)からの流れと合流していた。渋谷川が玉藻池からの流れと交わる所(中央付近)の少し北側を見ると、細い道が川を東西に横切っているが、池尻橋はこの辺りか。当時、外苑西通りはまだない。


この土地は新選組の沖田総司が最後の時を過ごした場所としても有名で、川跡が外苑西通りに突き当った所の真上に「伝 沖田総司逝去の地」という小さな看板がありました。彼が亡くなった場所には諸説があるようで、『渋谷昔口語り』(渋谷区教育委員会)の「角田哲司さんが語る」によると「池尻橋の水車のある植木屋の納屋」で、この土地の古老の間では「現在の地番で大京町29のビルの所」とされています。以前にこの辺りを歩いていた時に、ご近所にお住いの方からテレビ局が取材にきたという話を聞きましたが、沖田総司のファンにとって外せない場所なのでしょう。

 

<大番児童遊園 二すじの渋谷川の合流点>


外苑西通りの反対側にある池尻橋の欄干。橋の下には細長い川跡がある。右手が沖田総司の終焉の地と言われる大京町29の建物。


私たちは、渋谷川の流れに従って外苑西通りを横断しました。広い道路の反対側にも同じ形の御影石の欄干がありましたが、こちらは長さ9mぐらいと短めでした。橋の下には細長い木陰の緑地があり、階段上のドアに「もりっこひろば」というかわいい看板が付いていました。子供たちが作ったのでしょうか。渋谷川は、やや右に弧を描きながら広場の先にある四谷第六小学校を通り抜けて、JR中央線の方へ延びています。川跡に沿って歩けないので、「大京町」の信号を左に入り、四谷第六小学校の正門前を過ぎた所で道路を横断し、「大番児童遊園」の前に出ました。この公園も低い細長い土地で、川跡であることがすぐに分かりました。入口の階段を降りて動物のオブジェが並ぶ敷地を歩いていくと、JR中央線の土手に突き当たりました。線路を挟んで反対側は新国立競技場の工事現場で、ツアーの終点はもうすぐです。


川の跡地に作られた大番児童遊園の階段。細長い低い土地なので川跡とすぐに分かる。 公園には動物のかわいいオブジェが。流れはJR中央線の土手に向かっていた。

玉川上水から南下してきた渋谷川は、この辺りで天龍寺方面からの渋谷川と合流し、1本の大きな川となって南に向かっていました。明治28年(1895)になると、甲武鉄道(後のJR中央線)がこの地に開通して線路の土手が築かれ、川の流れを通すためのトンネルが作られました。大番児童遊園の先には高さ数メートルの線路の土手がありますが、その土手の雑草の間に高さ2m強、横幅10mほどの赤レンガの壁が見えました。これがトンネルを塞いだ跡で、いかにも時代を感じさせます。



JR中央線の土手の赤レンガは渋谷川が流れていた土手のトンネル跡(2枚の写真は野沢様撮影)。
北と西からの渋谷川の二つの流れは大番児童遊園の手前で合流し、線路の土手のトンネルを通って南に向かった。

私たちは線路の土手に沿って歩いて再び外苑西通りに入り、JR中央線のガードを潜って建設中の新国立競技場に行きました。工事現場は塀で囲まれているので中の様子は分かりません。そこで、競技場の向かいにある東京体育館の高台に上って競技場の中を見ることにしました。時間は正午を過ぎて日は高くなり、帽子をかぶっていても暑いです。皆さんが疲れていないか心配になり「大丈夫ですか?」と声をかけたところ、「軽い軽い」「最後まで頑張る!」などの元気なお返事をいただいて一安心。皆で東京体育館正面の階段を登りました。高台から新国立競技場の工事現場を眺めると、広大な土地にたくさんの背の高いクレーンがそそり立って、そこは別世界でした。


<子供たちの水泳場だった昭和初めの渋谷川>


線路の土手下のトンネルを潜り抜けた渋谷川は、新国立競技場の前を渋谷に向かって流れていた。赤い点線は、新国立競技場建設のために渋谷川暗渠から移設された千駄ヶ谷下水道幹線。


渋谷川は、1964年の東京オリンピックまで国立競技場の前の土地を流れていました。鳩森八幡神社宮司の矢島輝様が著した『千駄ヶ谷の歴史』には、昭和の初め頃の渋谷川に関する興味深い証言が残されています(注9)。「母親に、芝の川(玉川上水原宿村分水…筆者)に行って泳いでくるのはいいけれど、下の川に行ってはいけないと、よく注意されました。下の川というのは今の渋谷川です。こちらの方は子供の背が立たないほど水深があり危険を伴いますが、芝の川は一㍍位だからおぼれる心配もなかった訳です」。「千駄ヶ谷駅の所は、今の中央線(現在の総武線)ですが、あの土手から川へ飛び込み、達者な者は流れを利用して、丁度観音坂の下あたりまで泳ぎました」。観音坂の下とはJR中央線の土手から450mぐらい南の地点ですから、当時の子供たちの元気な様子が伝わってきます。しかし水の事故も時々あったようです。内藤町の小山様は渋谷川(玉川上水の余水)の流れは浅かったと述べていましたが、線路の土手の手前で合流した後は、かなりの水量と速さになったのでしょう。


千駄ヶ谷を南に流れる渋谷川(大正末期~昭和初期)。北東の角地は徳川家達邸。その裏に当時の要人宅が並ぶ。図中の方位と彩色、一部の文字は筆者。『千駄ヶ谷昔話』渋谷区教育委員会、20頁。

『千駄ヶ谷昔話』(渋谷区教育委員会)にも面白い話が出てきます(注10)。「徳川邸の裏手(現外苑西通り)には、渋谷川の支流(余水川)が流れ、鮒や川海老が泳いでいました。またプールのない時代のこと子ども達にとっては恰好の水泳場でした。外苑橋近くの大橋染物店では、この川で染め物を晒したそうです。その後、慶応病院から出る汚水が川を濁したため、水泳は禁止となり悔しい思いをしたことを思い出します」。徳川邸とは下の図の右上の徳川家16代当主・徳川家達の屋敷です。「観音坂下には渋谷川の支流が流れていましたが、夏には水泳の恰好の場所となりました。その折でしょう、身の丈三尺もあろうかという鰻が捕れ、近所の人に一円で売ったといいます」など。さぞ清らかな流れだったのでしょう。良い話ばかりではなかったようで「大雨が降ると、この川は溢れ、どの家庭も浸水し、大変困ったとのことです。」とありました。なお、文中の「余水川」とは渋谷川の地元の呼び名の一つで、水源が玉川上水の余水であることに因んでいます。


目の前に広がる新国立競技場の工事現場東京体育館の高台より。


私たちは、東京体育館の高台から工事現場と外苑西通りを見下ろして、当時の渋谷川の様子を色々とイメージしました。外苑西通りは今より細い道で、その奥に道と並んで川が流れていました。先程の矢島様よると、渋谷川は護岸工事が十分でなかったようで、土手がくずれ、竹が川の両側からかぶさるような有様だったとか。川と岸辺の景色は時代によってもかなり違っていたようです。時は流れ、「渋谷川」は1964年の東京オリンピック大会に向けて暗渠化され、下水道幹線となりました。当時の日本は高度成長期の最中で、アジア大会や東京オリンピックを成功させて国際舞台に躍り出ることが国の目標でした。清潔な国として水洗トイレを整備することも。当時もこの同じ場所で、今日のように大工事が行われていたのでしょう。それから50年を経て、2020年に再び東京オリンピックが開かれることになり、新国立競技場の建設が急ピッチで進められています。東京都によると、新国立競技場の西側には「渋谷川の記憶の継承と親しみのある里庭の景観」が創られるそうで、どのような川の流れが見られるのか今から楽しみです。

 

<終わりに>

東京体育館の高台に立って本日のツアーの予定を終えました。新宿から千駄ヶ谷にかけての渋谷川上流の姿を追い求めて、ヴュルム氷期、縄文時代、江戸時代、明治時代から2020年東京オリンピックまで、約2万年の時を半日で駆け抜けました。予定の時間を大分オーバーしてしまいましたが、見どころや説明したいことがたくさんあって、中味を省くことがなかなかできませんでした。参加者の皆さんに喜んでいただいたようで良かったです。最後に、今回のツアーに参加下さった皆様方、そして「前編」「後編」の長い原稿をお読みいただいた方々に心からお礼申し上げます。内藤町の小山様には渋谷川に関する興味深いお話を聞かせていただき、ありがとうございました。新宿歴史博物館の今野慶信様、伊那市立高遠町歴史博物館の笠原千俊様には貴重な情報をご提供いただき感謝致します。(終)

 <注釈>
(注1)池上典「再現図の制作にあたり」『信州高遠藩・歴史と文化』新宿歴史博物館、平成28年9月、65-66頁
(注2)金井利彦『新宿御苑』東京都公園協会、1980年、17頁
(注3)『新修渋谷区史・中巻』(昭和41年)1086頁
(注4)内藤家下屋敷は天和3年(1683)から数回にわたり一部が幕府に返納され、旗本屋敷が多数設けられた。白石がこの地を賜ったのは享保2年(1717)で、当時は畑や空き地が多かった。詳しくは『新修渋谷区史・上巻』(昭和41年)713、790頁参照。
(注5)前掲『新宿御苑』、13-14頁
(注6)前掲『信州高遠藩・歴史と文化』、43頁
(注7)渋谷川(玉川上水の余水)の跡には千駄ヶ谷下水道幹線が敷設されているので、東京都下水道局『下水道台帳』には「水路敷」、「千駄ヶ谷下水道幹線」と記載されている。
(注8)芳賀善次郎『新宿の散歩道』三交社、昭和48年、194頁
(注9)矢島輝編著『千駄ヶ谷の歴史』鳩森八幡神社、昭和60年、35-36頁(注10)『千駄ヶ谷昔話』東京都渋谷区教育委員会、平成4年、20、24、64頁


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