バックナンバー7
9.恵比寿「たこ公園」   にコウホネの池が   完成 9.恵比寿「たこ公園」   にコウホネの池が   完成 9.恵比寿「たこ公園」   にコウホネの池が   完成 9.恵比寿「たこ公園」   にコウホネの池が   完成
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かつて渋谷川は、玉川上水の余水と天龍寺の池からの流れを本流とし、宇田川、笄川、吉野川、玉名川などの支流を集めて東京湾に注いでいました。そして水車や輸送による産業を生み出し、地域の人々の生活を支えてきました。昭和に入ると流れの多くは地上から消えてしまいましたが、地底にはそのルートが今も豊かに息づいています。私たちは昔の渋谷川の岸辺を歩き、残された痕跡や川の物語を探すことにより、その歴史と記憶を今に再現し、未来へとつなげて行きたいと思います。(2015年・バックナンバー7)



2015年
 11月5日 The Yoshino River Walk
         Gama Pond & Juban-Inari Shrine 
 9月20日 水と緑の会主催「あるく渋谷川探訪ツアー」
         宇田川上流と代々木九十九谷を歩く(後編)
        -西原児童遊園地から代々木八幡宮へ-
 8月15日 水と緑の会主催「あるく渋谷川探訪ツアー」
         宇田川上流と代々木九十九谷を歩く(前編)
        -宇田川上流の水源の池から「底抜け田んぼ」へ-
 5月20日 鈴木錠三郎氏の「絵地図」に描かれた大山の池をさがす  
         -大正11年頃の宇田川上流の風景から-
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バックナンバー(6)2014年1月―12月
渋谷川稲荷橋付近でアーバンコアの建設工事始まる-渋谷川の起点が水と緑の空間に- /The Hidden Kogai River & Legend of Aoyama area /渋谷川ツアーの報告:麻布・吉野川の流れを歩く(前編・後編)/A Tributary of the Shibuya River flowing by Konno Hachimangu Shrine /渋谷駅東口再開発のサプライズ-渋谷川暗渠が53年ぶりに姿を現した!        
バックナンバー(5)2013年1月―12月
「渋谷川ツアーの報告:笄川の暗渠・東側の流れと地域の歴史/ 水と緑の会・渋谷リバース共催「あるく渋谷川ツアー」の報告:渋谷地下水脈の探訪/渋谷川の起点が変わる、ルートが変わる/その他
バックナンバー(4)2012年3月―11月
たこ公園の小さな池に自然がいっぱい/渋谷川ツアーの報告:ブラームスの小径とキャットストリート/『あるく渋谷川入門』が点訳本に」/その他
バックナンバー(3)2011年5月―10月
「発見!古川物語~歴史編~」を港区のケーブルテレビで放映/古川探訪のツアー「天現寺橋から東京湾浜崎橋まで」/恵比寿たこ公園にコウホネの池が完成/その他
バックナンバー(2) 2011年1月―4月
渋谷駅の地下にひそむ渋谷川(テレビ東京放映)/緑の中の蝦蟇(がま)池の姿(NHKブラタモリ)/『あるく渋谷川入門』の登場人物(当時5歳)からのお便り/その他
バックナンバー(1)2010年6月―12月箱根湿生花園のコウホネをたずねて/資料と証言から見る「蝦蟇(がま)池」の移り変わり/スイカを冷やした清水が麻布に/その他

2015
2015年9月20日


(後編)

6.「底なし田んぼ」とドンドン橋

7.小田急線沿いの「小川跡」

8.宇田川上流と山手通りの沖積層

9.『江戸名所図会』に見る3つの流れ

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6.「底なし田んぼ」とドンドン橋



Googleマップに『東京市渋谷区地籍図下巻』(昭和10年)を参考にして川跡を書き加えた。橋の名前は
昭和初期のもの。
 

西原児童遊園地から再び出発!

西原児童遊園地は、JICANITEの池から発して「大山の池」の脇を通った流れと、南からの「上原の流れ」が集まっていた場所です。私たちは西原児童遊園地で少し休憩した後、遊園地の東の奥から始まる暗渠の道を代々木八幡駅の方に向けて歩き始めました。



西原児童遊園地の奥から始まる暗渠の道。


渠の両脇には住宅やマンションの塀が面している。

地図で示したように、昭和10年頃には小田急線に沿って幾すじもの小川が流れていました。その中心となるのが遊園地の奥からの流れです。細い暗渠の両脇には住宅やマンションの塀が面していて、緑の葉やピンクの花が道を彩っていました。時折り冷やりとした風が感じられて、「暗渠になっているのに川風を感じるわね!」との声も。ジグザグした暗渠の道を7080メートルほど辿ると、少しにぎやかな所に出ました。地図を見ると「徳川山」の東の端を下る道と暗渠の道が交差する場所で、かつてドンドン橋と呼ばれた板橋 (後出)が架かっていました。斜め前にはお寿司屋さんがあり、奥(北側)を見ると80メートル位平らになっており、その先に徳川山の坂が上がっていました。山のすぐ手前には暗渠の道と平行して東西に走る道がありますが、これもかつては川の流れで、この辺りに「底なし田んぼ」が広がっていました。

『ふるさと渋谷の昔がたり第1集』(渋谷区教育委員会発行、昭和62年刊)には大正時代のこの辺りの様子が記されています。「▽今の代々木上原駅の下から田中地蔵(注、元代々木町24番にある)の辺りまでは底なし田んぼと呼んでいました。水も冷たくてコメはあまりよくできませんでした。▽田植えの時には、直径60センチぐらいのまるい下駄を作って履きました。後にはそれがやっかいだというので、足が届く深さに青竹でスノコを組み、それに足を届かせるようにして植えたものです。▽「底なし田んぼ」について聞いた話ですが、昔徳川の将軍が鷹狩りをされた時に、鷹匠が誤ってそこに落ちたのだそうです。だんだん深みに沈んでしまって命を落としたのです。その鷹匠を祭ったのが田中地蔵だと聞いています。」

また同書『第2集』にも「底なし田んぼ」という見出しがあり、詳しい記述がありました。一部を引用しますと、「▽代々木八幡神社の傍らから、今の道玄坂下の西武デパートの所(注、宇田川町20番辺りの一帯)にまで田んぼがありました。(後略)」「▽底から水が湧きだしていたために、田んぼに入ると、私の親などは、腰のあたりまで水にもぐってしまいました。(後略)」“底なし田んぼ”という名前は、宇田川上流の代々木上原から代々木八幡宮の下までの土地だけではなく、宇田川本流の渋谷駅近くまで指していたようです。

以前に小田急沿線の西原3丁目で青果店を営む水野様から「吹き井戸」の話を伺ったことがあります。「この辺りは地下水が豊富で、吹き井戸が多かった。僕も子供の頃はその井戸の水をよく飲んでいた。2,3年前にも勢いよく噴き出した。この駐車場のコンクリートは茶色く変色しているけど、吹き井戸の水の鉄分の色だと思うよ」(拙著『あるく渋谷川入門』3章3節参照)。「底なし田んぼ」の底に湧いていた水が最近まで「吹き井戸」の形で残っていたのですね。




徳川山東の端を下ってきた道。80メートル位先にもう一つの流れがあった。

ドンドン橋跡地にて。奥に伸びる暗渠の道。

もう一つ、ツアーにも参加した和田建治様が話して下さった戦後の様子を紹介します。「中学のころ(昭和223年頃)は徳川山の東側に祖父と一緒に住んでいて、毎日、通学で急坂を下って代々木上原駅に行きました。徳川山の一角には広壮な徳川邸があり、駅に行く手前に小川が流れていて(私たちが歩いている暗渠の道…筆者)、ドンドン橋と言われていた板橋が架かっていました。どんどん水が流れていたせいか、歩くとドンドンと音がしたせいか。当時の駅はもっと新宿寄りにあって、レールに沿った弓形でした。駅は土手の上にあり、その前の道路の横を幅1メートル半ぐらいの澄んだ水の川が流れていて水草も生えていました。その川はいつの間にか消えていましたが。」

私たちは次に、かつて東橋が架かっていた丸正食品の近くを通り、雲照寺の南にある二原橋の場所を越えました。それらの橋が架かっていた道は今では立派な車道で、代々木上原駅前の商店街に続いています。二原橋の所から80mほど暗渠の道を歩き、八千代銀行の脇から駅前商店街に出ました。暗渠の道はここで消えていました。



暗渠の道は八千代銀行の脇から駅前商店街に出て消えていた。

7.小田急線沿いの「小川跡」

昭和10年の『渋谷区地籍図』を見ると、川の流れは八千代銀行がある所で商店街の道を斜めに越えて駐車場に入り、その先で「上原の流れ」(前編5.参照)と合流し、その後小田急線の脇を線路と平行に流れていました。この川の跡を確かめることができるのでしょうか。私たちは地籍図に描かれた川のルートに沿って商店街の道を越え、小さな駐車場の前に出ました。その左隣は小田急線下の上原自転車集積所で、階段の左脇に大きな古いマンホールがありました。この下に水路があるのでしょう。階段を上り線路の脇を覗き込むと、手前は石の板でふさがれていますが、その先に開渠の「U字溝」の水路が続いていました。これが地籍図に描かれた小川の跡と思われました。



昭和10年『渋谷区地籍図』に描かれた代々木上原駅周辺。二原橋その他の場所の名称は
筆者加筆




上原自転車集積所前の階段。階段の上は小田急線の高架。流れは駐車場から階段脇のマンホールの下を抜けて、小田急線沿いに東方面に続く。



境界確定図」の索引である「住宅地図」の部分図。官有地(赤い帯)の0720号の場所が小田急線沿いを流れた小川と一致している。

左図の「小川跡」拡大図。0720の字が駐車場と上原自転車集積所の前の官有地に見える。

このことを確かめるため、代々木上原駅周辺の「境界確定図」の索引である「住宅地図」を渋谷区にいただきました。「境界確定図」は官有地と私有地の境界を確定した地図で、赤い帯が官有地です。これを先の地籍図と対応させると、二原橋からの赤い官有地の部分がかつての小川と一致しています。また上原自転車集積所の脇の官有地(地図中0720号)も、小川とぴったり重なっています。「番地先土揚敷境界指示・再標示図」(注2)によると、この土地はかつて土揚敷(小川に沿った土手)でした。ここが「小川跡」であることは間違いありません。宇田川上流のこの部分が開渠として今日まで残っていたとは本当に驚きです。「住宅地図」の赤い帯の線は、その後約60メートル「熊谷ビル」まで続いています。




階段左脇にマンホール。



階段の上から見たU字溝(0720号)。
   
    熊谷ビル裏手から見たU字溝。

私たちは階段の上からU字溝を確認した後、表の商店街の道を約60メートル歩いて熊谷ビルの所まで行き、脇道に入ってビルの裏側を覗き込みました。そこで鉄のフェンスの向こうにU字溝を確かめました。U字溝は乾いていましたが、雨の日は水が沢山流れていることでしょう。なお、この「小川跡」の確認については渋谷区の土木清掃部認定係の志村裕様のご指導をいただきました。この場を借りてお礼申し上げます。

その後、小川は熊谷ビル裏手で再び暗渠となって家々の下を流れ、商店街の道を少し通ってから裏道を南地蔵橋まで続いています。私たちもこの流れに沿って南地蔵橋まで約200メートル歩きました。まだこの下を水が流れているのでしょうか。ひんやりとした気持ちがいい道で、昔の川の流れを感じさせました。

南地蔵橋のすぐ近くに立派な田中地蔵の祠がありました。5体のかわいらしいお地蔵様が赤いずきんとよだれかけを掛けて置かれ、お花や水、お線香もお供えされていました。青い旗に書かれたお名前は「延命・子育地蔵尊」。渋谷区教育委員会の立札に元文3年(173810月、向井七佐ヱ門が五穀成就、庶民安楽、子供の延命を祈って福泉寺領の田地に地蔵尊を安置」とありました。田んぼの真ん中に立って皆のことを守っていたのですね。隣には享保10年(1725)に作られた庚申塔もありました。


田中地蔵と庚申塔を前にして。


8.宇田川上流と山手通りの沖積層

代々木八幡宮西側」Googleマップより作成。幾すじもの宇田川上
流の流れが山手通りの下に集まった後、新富橋で河骨川と合流して
宇田川本流を形作っていた。(図中A,
Bの場所の赤丸は、下の
地層図のA,Bに対応している。)

南地蔵橋から出た暗渠の道は南東に向かい、小田急線の所で消えていました。地籍図によると、流れは小田急線を越えて富ヶ谷小学校と山手通り、そして新富橋の方に向かっています。私たちも小田急線の高架の歩道橋を歩いて線路の向かい側に行き、富ヶ谷小学校前の坂を下りました。

2、3分歩くと山手通りに出ました。かつての川の上を山手通りの高架が覆っていて、地下道のようです。この山手通りの下にJICANITEからの流れと、上原の流れ、そして初台川も流れ込んでいました。さらには、今回は行きませんでしたが、井の頭通りの南側の東海大学代々木キャンパス辺りからの流れ(仮称「東海大からの流れ」)も来ていました。この地域は特に低い土地であったため、昭和45年まで代々木深町と呼ばれていました。


ところで、首都高速道路公団「山手通り改修時の平面図と地層縦断図」2004年)を見ると、それらの宇田川上流の流れが、この地域のABの地下に沖積層(約2万年前以降に川や海によって堆積した土砂の地層)を形成したことが分かります。下の地層縦断図で小田急線と地下鉄千代田線が走るAの場所は、先ほどの宇田川上流が集まっていた山手通り下の地域に該当し、地下の沖積層の深さは約17メートルあります。渋谷区郷土博物館・文学館の学芸員の方にお話を伺ったところ「約2万年前のヴュルム氷期に渋谷川・宇田川の原型は開削されましたが、その後海進や海退の時期があって土砂が堆積していきました。」とのことでした。海進による土砂とは言っても、海が徐々に広がって作りだしただけではなく、時には地震による津波が作りだしたものもあると考えられます。





山手通りの平面図(上)と地層縦断図(下)。紫色に塗られた沖積層A,Bは、前掲Googleマップ「代々木八幡宮西側」の赤丸A,Bと対応している。それぞれ約17m、15mと深く、ここに宇田川上流が古くから流れていたことが分かる。「工事概要」『首都高速中央環状新宿線・代々木シールドトンネル(内回り)』(首都高速道路公団、2004年)より作成

ツアーの話に戻りますと、山手通りには地下道のような道が2本がありました。その右(南)の方の通路を50メートルほど歩くと、暗い空間の出口にカラーの壁画が描かれていました。大きく「春の小川」と書かれていて、青く細い川に魚が泳ぎ花が咲き、渋谷の街のビルも描かれていて「ここは春の小川の暗渠ですよ」と教えています。川のプロの仕業ですね。




山手通りの下は地下道のよう。


通路の出口に「春の小川」の壁画が。

緩やかに右にカーブした川の道

トンネルのような道から明るい外に出ると、そこは緩やかに右にカーブした川の道で、のどかな流れを感じさせました。南側は小高い崖になっていて小さな階段が道に数ヵ所降りていました。この流れは井の頭通り手前で宇田川本流に合流していますが、私たちは100メートル位歩いてから流れを離れ、北に方向を変えて、代々木八幡商店街の東の端にあった新富橋の所に向かいました。そこには車止めがあり、「この遊歩道は宇田川を暗渠にした際に整備されたもので、入口にはかつて新富橋がかかっておりました」と書かれていました。ここから渋谷駅方面に向かう宇田川本流(現在の宇田川遊歩道)が始まっていたのですね。この地域で長く青果店を営まれていた富沢様によると、昭和初期の新富橋はコンクリート造りで、親柱は三角の御影石で飾られ、その上に電灯がついていたそうです。





新富橋の車止め。ここから宇田川本流が始まっていた。


                   前掲Googleマップ「代々木八 幡宮西側」の幡宮西側」の部分 幡宮西側」の部分拡大図。

次に代々木八幡宮に向かって北に歩き始めました。小田急線代々木八幡駅の踏切を越え、山手通りの高架を潜って西側の水道通り商店街に入りました。この商店街の道は初台川の跡で、いかにも川のルートらしく、山手通りの西の低地を緩く湾曲しています(上の拡大図)。この川の道を200メートルほど歩いて再び山手通りに出ました。初台川のルートを見ると、流れはその後山手通りと重なりおよそ300メートルさかのぼり、北西に向きを変えて水源の初台に向かいます。私たちは山手通りを北方向に70メートルほど歩き、代々木八幡前の信号を渡って階段を上り、小高い山の上の八幡宮境内に入りました。

なお先ほどの「地層縦断図」に戻りますが、初台川が山手通りと重なった300メートルの部分の地下が沖積層Bです(拡大図の赤丸B)。山手通りが川のルートから外れた部分(ABの間)には沖積層はありませんが、この部分が高台を削っているためです。

9.『江戸名所図会』に見る3つの流れ

代々木八幡宮は建暦2年(1212年)に元八幡といわれた所(西原3丁目25)に創建され、後にこの地に遷座しました。代々木の鎮守の神様で、江戸時代に書かれた有名な江戸の地誌『江戸名所図会』にも取り上げられています。この図会を原寸大で見ると、八幡宮やお寺の様子、ふもとを流れる川や橋、そして小道や歩く人の姿などが細かく描かれています。(注3)




」『江戸名所図会』。川の水色と赤丸(八幡橋)は筆者加筆。


左の「図会」の左下の部分の拡大図。西原・上原からの流れに
八幡宮へ向かう道が交差し、橋が描かれている。橋には杖を突
いた人物が見える。

まず図会の上部、丘の上右手の高い所に代々木八幡宮、その左に別当寺の福泉寺が描かれています。丘の下には左右から二すじの宇田川上流の流れがありますが、代々木八幡宮と福泉寺の位置関係から、右側の流れは河骨川です。左側の流れは初台川でしょう。図中の赤丸は河骨川に架かる昔の八幡橋で、現在の代々木公園西門の近くです。そこから参道と階段が福泉寺に向かっています。
次に図の下の流れは西原・上原(JICANITEと底抜け田んぼなど)からで、私たちが歩いてきたルートと思われます。この川には八幡宮へ向かう道が(図の左下から)交差しており、そこに橋が描かれていますが、名前は分かりません。『復元江戸情報地図』(朝日新聞社刊)などを見ると、この道は南から八幡宮に向かう一本道で、現在の富ヶ谷小学校の東側を通る道と推測されます。道や橋には荷物を運ぶ人や旅人が描かれていて、当時の様子を偲ばせます。
ところで絵師が図を描いた場所はどこでしょうか。代々木八幡宮と福泉寺が両方見えて、川も三すじ見える小高い所です。ピッタリとした場所は見つかりませんが、おそらく代々木公園の西の高台で、代々木公園交番の北側辺りでしょうか。当時の画法に基づいてやや天空から描かれています。図会を細かく見ていくと興味は尽きませんが、これぐらいにしてツアーの話に戻ります。


代々木八幡宮境内の復元古代住居





金魚まつりでにぎわう境内


打製石斧と縄文中期加曾利E式土器。縄文中期の
4500年位前。(代々木八幡遺跡出土品展示館の
展示より。)

当日の代々木八幡宮はちょうど金魚まつりで賑わっていました。所せましと並ぶお店と歩き回る人々の間を抜けるのは大変で、参加者がはぐれないように手を挙げて合図を送りながら境内を進み、やっと縄文時代の復元古代住居にたどり着きました。
復元古代住居は昭和25年に境内で発掘された住居跡を再元したものです。古代住居の中は半地下になっていて意外に涼しく、広い静謐な空間でした。柱の間に萱(かや)をふいて壁にしてあります。土間には囲炉裏の跡がくぼみ、わらぶきの天井は高く、天頂には煙抜きの穴も開いています。土間の囲炉裏で煮炊きをしたり、手仕事をしながら家族で暖を取ったり、おしゃべりをしたりと、縄文の人々の生活が時を越えて伝わってきました。丘の周りには宇田川上流が流れており、そこから魚や貝を採って暮らしていたのでしょう。川と人々の長い長い絆を感じました。

時間は既に1時半頃になってしまい、花より団子です。スタートとは打って変わった炎天下、代々木八幡駅のそばのカレー専門店に回り、冷たい水でホッと一息。カレーもおいしくいただいて、気分も上々のうちに終了しました。後のアンケートで、「水の流れの跡が今でもあちこちと見られることに自然の力を感じます。」「資料がカラー印刷で写真もふんだんに取り入れて昔を充分想像できた。」「歩く時間と距離は欲張りすぎないように。」などの貴重な感想をいただきました。


復元古代住居の前で。

(注1)この代々木の地域は大正末期まで人口密度が低かったが、京王線新宿御苑―調布間が開通した大正4年以後、徐々に宅地開発の波が広がっていた。大正12年の関東大震災で被害にあった下町の人々がこの地域に多く移り住み、その動きは加速した。昭和2年には小田急線の新宿―小田原間も開通し、当時は「底なし田んぼ」と呼ばれていた宇田川上流地域の開発に繋がった。

(注2)渋谷区の「番地先土揚敷境界指示・再標示図」(原図番号・渋谷区第0720号」は、官有地が土揚敷(土手)であることを示しており、ここが水路であったことがこの資料からも裏付けられる。図にある土揚敷の距離の実測値を見ると、自転車集積所の階段沿いの場所(地番:元代々木10-12番)から東側の道路(地番:元代々木10-14番)までの合計がおよそ80メートルで、その中の60メートルが現在の小田急線下の自転車集積所の塀に接している。


「番地先土揚敷境界指示・再標示図」(原図番号・渋谷区第0720号)  

(注3)『江戸名所図会』は斎藤長秋(幸雄)・莞斎(幸孝)・月岑(幸成)の3代にわたって書き継がれた江戸の地誌。天保5年(1834)と天保7年(1836)に斎藤月岑が720冊で刊行。挿図は長谷川雪旦。なお原寸大の図会は石川英輔・田中裕子監修『原寸復刻 江戸名所図会』評論社。

                                                  (完)



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2015年8月15日


5月24日(日)朝9時。前日までの雨の予報が外れ、晴れ間ものぞく快い一日。京王新線幡ヶ谷駅に朝9時に集合して渋谷川支流の宇田川上流をたどるおよそ3キロのツアーでしたが、スケジュールが盛りだくさんで午後1時ごろまでかかりました。最後に訪れた代々木八幡宮はちょうどお祭りの日で、人やお店でいっぱい。参加者がはぐれないように手を挙げて合図を送りながら境内を歩き、縄文時代の復元古代住居にどうにかたどり着いて見学しました。当日のルートは以下の通りです。

ルート:幡ヶ谷駅→玉川上水・二字橋→宇田川水源の池(JICANITE→代々木大山公園東の小低地→JICAとNITEの流れ(旧徳川山)→大山の池→上原の流れ(小田急線南側の「底抜け田んぼ」)→西原児童遊園地(JICAとNITEの流れと上原の流れの合流点)→元代々木町の流れ(小田急線北側の「底なし田んぼ」)→小田急線沿いの小川跡→田中地蔵→元代々木町の流れと南からの流れの合流点(山手通り下)→新富橋(宇田川上流と河骨川の合流点)→代々木八幡宮(縄文遺跡)


宇田川上流が流れていた地域は西原、大山町、上原、元代々木町、富ヶ谷など広範にわたった。『渋谷区文化財マップ』(渋谷区郷土
博物館・文学館)と『東京市渋谷区地籍図下巻』(内山模型社、昭和
10年)から作成。赤丸は今回のツアーの主な立ち寄り地点。v

(前編)

1.宇田川上流とは

2.宇田川の水源・JICANITEの池

1JICAのひょうたん型の池

2)NITEの丸い池と四角い池 

3.徳川山西側の流れ

4.「大山の池」

1) 鈴木錠三郎氏の「絵地図」の世界

2) 鈴木錠三郎氏の写真に見る「大山の池」

5.上原の流れと「底抜け田んぼ」

後編)


1.宇田川上流とは

ツアーの様子をお伝えする前に、宇田川上流が流れた地域の地形や歴史、今回訪れる場所を簡単にご説明します。宇田川上流とは、幡ヶ谷台地の南の代々木や初台、西原、大山、上原などの広い地域から湧き出ていた幾つもの流れの総称です。約2万年前の氷河期に東京湾が海退により陸地になった時代に、川の侵食によって後に「代々木九十九谷」と呼ばれた入り組んだ谷地形が作られました。それらの流れは小田急線の代々木八幡駅の南で合流し、宇田川本流となって渋谷駅に向かい、渋谷駅北側の宮益坂下で渋谷川に合流していました。

今回のツアーは宇田川上流の中の一つ、国際協力機構(以下JICA)と製品評価技術基盤機構(以下NITE)の水源の池から始まる流れをたどりました。JICANITEの池を見学した後、その流れを追って旧徳川山の西側脇の暗渠の道を歩き、大山の池(後述する「絵地図」の池)を通って代々木上原駅南側の「底抜け田んぼ」があった場所を見学しました。その後「底抜け田んぼ」からの流れとJICANITEからの流れが集まった西原児童遊園地から小田急線に沿う流路をたどって、初台川と河骨川との合流点であった新富橋跡まで行きました。最後に宇田川上流の流れが囲む台地の先端に位置する代々木八幡宮の古代住居遺跡を見学し、4500年前の縄文中期に人々が川と共に生活をしていた様子を確認してツアーを終了しました。今回のツアーではJICANITEの水源の池を眼前に見学することができ、またこの地域に住まわれた鈴木錠三郎様が描かれた絵や写真から昭和十年頃の地域の様子を再構成し、また小田急線北側に沿った宇田川上流のU字溝の流路を確認するなど、新しい知見がありました。

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江戸時代(寛永年間~)に描かれた「代々木村絵図」『堀江家文書』首都大学東京図書館所蔵・無断転載禁)。左上の方位は筆者。この図の紺色の部分は田んぼで、右の図の黄色の田んぼとほぼ対応している。年代は不肖。

「渋谷区土地利用図・明治42年」(昭和54年、渋谷区白根記念郷土文化館)。3つに分かれた黄色い部分が田んぼで、その中を宇田川上流が流れる。緑は樹林、茶色は集落、白は畑その他を表す。甲州街道沿いと図右上の山谷(現在の代々木)に集落(茶色)が多い。

ところで、今回のルートとなった小田急沿線の地域は今では住宅街ですが、江戸時代から明治、大正時代にかけては大きな田下駄を履かなければ作業ができないような底の深い田んぼが広がっていました。江戸時代の「代々木村絵図」『堀江家文書』(首都大学東京図書館所蔵)(注1)と鈴木錠三郎氏が描いた「大正11年頃の上原。西原絵地図」には、その様子が表されています。先ず江戸時代の「代々木村絵図」を紹介すると、この図は現在の渋谷の西部の幡ヶ谷駅から代々木八幡駅までのおよそ6平方キロの場所を表しており、右側の「渋谷区土地利用図・明治42年」にほぼ対応しています。中央紺色の力強く描かれた三本指のような部分が水田で、それらの中を白く細い宇田川上流が流れています。その中の左側が今回歩いたJICA, NITEからの流れ、真中は初台からの流れである初台川(注2)、右側は河骨川と一致し、合流点が宇田川本流の起点となっています。上部の紺色の波形の線は玉川上水です。また「代々木村絵図」の左下には代々木八幡宮から各方位の村境までの距離が4行記してあり、人々が村の鎮守である代々木八幡宮を起点として距離を測っていたことが分かります。黄土色の土地は大名や旗本の下屋敷・抱え屋敷(別邸)などで、「代々木村絵図」の右側に位置している大きな土地は井伊掃部頭の下屋敷です。この図は江戸時代のこの地域の様子を探る上で貴重な資料です。

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「大正11年頃の上原。西原の絵地図」(鈴木錠三郎氏描く。辻野京子氏所蔵。無断転載禁)。川と池の青色と右下の方位は筆者。

次に鈴木錠三郎氏が描いた「大正11年頃の上原。西原絵地図」(以下「絵地図」)を説明します。この辺りの農村風景は、昭和2年に小田急線が敷かれて西原や大山町に分譲地が作られるまであまり変わらなかったようです。その大正時代の村の様子が、鈴木錠三郎氏の絵地図」に詳しく描かれています。川や湿地帯と共に野菜畑、茶畑、雑木林、そして竹の子、野ウサギ、ホタルなどから、当時ののんびりした村の様子が伝わってきます。宇田川上流はそんな農村の中を「春の小川」の歌のようにサラサラと流れていたのでしょう。今もその形跡は残っているのでしょうか。なおこの「絵地図」の真ん中に大きな池が描かれていますが(仮称「大山の池」…筆者)、現在は住宅地となっており、池の名残はありません。これが現在のどこに存在したかについては、本『トピックス』欄の5月20日付「鈴木錠三郎氏の『絵地図』に描かれた大山の池をさがす-大正11年頃の宇田川上流の風景から-」をご覧下さい。では、次にツアーの報告に入ります。


2.宇田川の水源、JICANITE

 1JICAのひょうたん型の池

初夏の日差しの下、2年ぶりに参加のK君と初参加のTちゃん(4歳)も交えてにぎやかに出発しました。駅から2,3分歩くと玉川上水の二字橋に出ました。代々木、幡ヶ谷という二つの字(あざ:地名)を分ける橋なのでこの名前が付いたそうです。今は暗渠になっている玉川上水を相生橋方向(西)に歩きました。木々が緑道に心地よい影を落とし、ピンクのサツキの花が日差しを受けて光っています。玉川上水に詳しい鈴木利博先生が「今でも道路の下には玉川上水の大きな土管が入っていて、水も少し流れているはずです」とコメント。7,8分歩いてから相生橋で緑道を離れて、南側のJICAに向かいました。

JICAの東京国際センターに到着すると、玄関前でかわいいアフリカの人形が出迎えてくれました。「地球の料理教室」の看板です。早速中に入らせていただき、庭の池に向かいました。




JICAの玄関に「地球の料理教室」の看板が。

中庭奥の階段を下りて谷底へ。

先ず建物の地下一階に降り、次に中庭奥のコンクリートの階段を降ると、崖を下る細い踏み段がありました。周りには緑の木や草が茂り、ちょっとした原生林です。階段の途中にはロープが張ってあり、その奥に池が見えていました。

私たちは特別に許可をいただき、踏み段をさらに降りて崖の中段にある池に着きました。縦の長さ15m位の小さな池で、水面に木の間隠れの空が映っています。ひょうたん型の池の周りには柵が無く落ち葉が厚く重なっていました。私たちは池の縁から落ちないように慎重に歩きました。江戸時代に「大上谷(おおかみだに)」や「狼谷」と呼ばれていた谷間の池は、1階エントランスの高さと比べると123mは下にありそうです。どなたか「こんな都会の真ん中に!」とつぶやいていました。ここから宇田川は流れ出していたのですね。

 

JICAのひょうたん型の池と原生林を思わせる池の周囲。

池からは細い水路が伸びていて、少し下のNITEの池に繋がっていました。しかし直接行くことはできないので、再び階段を上って中庭に戻ると明るい日差しがまぶしく感じられ現代に戻った感じがしました。


2) NITEの「丸い池」と「四角い池」

次にJICAを出て隣のNITEの池に向かいました。途中うっそうとした林の中を通り、池へと階段を下ると、緑の窪地の中にNITEの「丸い池」が水を湛えていました。先ほどのJICAの池よりおよそ1.5m下った所にあり、その先に「四角い池」に向かう細い水路が続いています。NITEの原和朗様によると湧水はJICAの池の方にあるそうです。「2007年頃NITEの池を全面清掃したことがあります。その時に水を全部抜きましたが1日で戻ったので、まだJICAの池の湧水は多いと思います。湧水は宇田川の水源になっていましたが、今では下水に流されています」とのお話でした。都の「下水道台帳」によると、敷地の外の下水が宇田川下水道幹線の起点になっていました。




NITEの「丸い池」。

「四角い池」。池は2001年の別館建設時に大きなひょうたん型が小さく作り直された。 

またNITEの「丸い池」に続く「四角い池」についても貴重な情報を提供して下さいました。「今の四角い池は、平成13年にNITEの別館を建設する際に小さく再施工したものです。昭和604月にNITEの本館が竣工した頃には、もっと大きなひょうたん型の池がありました。NITEの別館建設時の池の全容写真とその池の生物を避難させたときの写真があります。当時は今の池が9個以上入る位の大きさでした。撮影したのは2000年(平成12年)2月です。」


昔のNITEの池(原様提供。撮影は20002月。右写真も同様。) 
NITEの別館建設時に池の工事のため生物を避難させているところ。

原様は大正、昭和の頃のこの土地の様子についてもNITEのパンフレット(昭和60年当時)から紹介して下さいました。それを引用すると、「大正12、13年ころは、森永製菓(株)の初代社長であった故森永太一郎氏の土地であり、それを代々幡ガーデンと称して一般に公開されていたそうです。同会社の元社員(故人)が書かれた「森永翁の思い出」の一節に次のように記されています。『・・・社長が住んでおられた幡ヶ谷の敷地は七千坪もあり、なかには山あり谷あり林ありで恰かも自然の公園の如く高台の一部二千坪の芝生には広大な温室や猿、孔雀等も飼い、四季とりどりの花の眺めが美しく殊に春には吉野八重桜、数千株のつつじ、皐月が研を競うて実に見事であったが、社長はこの大庭苑を「代々幡ガーデン」と命名して無料開放され、更に池に二千尾の金魚や鯉を放ちベンチから児童の運動用具まで完備されて、無邪気な子供達が終日嬉々として遊びたわむれる有様を見ては白髭をしごきながら童顔を綻ばせおられた。そして社長自身は粗末な小さい住宅をその一隅に建てて満足して居られた。・・・・』」

「代々幡ガーデン」(森永ガーデン)の池に2000匹もの金魚や鯉が泳いでいたとは!さぞかし大きく水の豊かな池だったのでしょう。子供たちの大好きな洋菓子のパイオニアだった森永太一郎氏らしいお話ですね。「代々幡ガーデン」は、戦後GHQの接収を経て医療少年院になり、その跡地がJICANITEに生まれ変わったそうです。


NITEの「四角い池」の前で記念写真。


3.徳川山西側の流れ

大山町、西原、上原周辺。川跡は後出の『渋谷区地籍図下巻』(内山模型社、昭和10年)を参考に描いた。茶色い点線は歩くルート。図の中央には鈴木錠三郎氏が描いた「大山の池」がある。流れは池の東側を通って「底なし田んぼ」へ続く。池とその西側は大正から昭和にかけて整地された大山分譲地で、電線が地下に埋め込まれたモダンな住宅地だった。小田急線の南には上原の流れと「底抜け田んぼ」がある。

私たちはNITEを出て、玉川上水に平行した道を代々木大山公園へと向かいました。本来は「四角い池」からの流れに沿って歩きたいのですが、NITEの塀で流路が遮られており、その先も人家なので、流れのルートを歩くことができません。そこで代々木大山公園を大きく迂回して、NITEの「四角い池」からの流れの出口地点に行き、そこから川跡を進むことにしました。JICANITEを出て坂を上ったり下ったりしながら着いた代々木大山公園の南の角は、北と東と西の3方向に坂が下っていて、この一帯を「代々木九十九谷」と呼んだ理由に納得です。近くに住まわれている参加者の方が「坂があっていやだと思っていたけど、そういう成り立ちだったのね。そう思って歩くと楽しいわね」と話していました。


渋谷区資材置場前の小低地。奥にはNITEの池がある。 

旧徳川山分譲地の西側の道(川跡)を歩く。

代々木大山公園の南の角から北に向かう坂を降りると、そこは渋谷区の資材置場前の小低地で、NITEの「四角い池」からの流れが住宅の下を通って出てくる地点でした。いかにも雨水や湧水が集まりそうな所です。ここには北の代々幡斎場からの細い道もつながっていました。この辺りが昔は狼谷と呼ばれていたことから、さびしい所だったのでしょう。斎場からの道の小川にはフナがいたという証言も聞いたことがあります。

資材置場の前から川の流れに沿って東に50メートルほど歩き、旧徳川山分譲地の西側の道に出ると、突然明るい開けた景色になりました。参加者の方が左の徳川山の方を指して「あちらの黄色の建物は林真理子の家よ」と。私たちは川跡を「大山の池」に向かって下りはじめました。少し平らな道の先は長い直線的な下りの坂道で、「大山の池」があったところまで約500メートルありました。大雨の時はドーッと大量の水が土砂を巻き込んで流れたことでしょう。


4.「大山の池」

1) 鈴木錠三郎氏の「絵地図」の世界

「大正15年地図」。大日本帝国陸地測量部『東京一万分の一地形図』「中野」と同「世田谷」を連結して作成。図中程の青く塗った池が「大山の池」。鈴木錠三郎氏が「絵地図」で描いた池に対応している。(前掲「絵地図」参照) 

私たちは、長い坂を下りきって地図にある「大山の池」の場所(大山42-19の辺り)に着きました。鈴木錠三郎様が描いた先の「大山の池」は、現在はありませんが、大日本帝国陸地測量部『東京一万分の一地形図』の「大正15年地図」の中に三日月形にはっきりと現れています。当時はこの地域を特徴づけるような大きな池だったのでしょう。なお、この地図をよく見ると、JICANITEの池の辺りは田んぼになっていて池は描かれていません。徳川山の西側の道も前半は田んぼで、池や川もありませんが、経緯はよく分かりません。(注3)

「大山の池」については、前回のトピックス鈴木錠三郎氏の「絵地図」に描かれた大山の池をさがす-大正11年頃の宇田川上流の風景から-」に詳しく書きましたが、新しい資料を交えて少し説明を加えます。

辻野京子著『まちの記憶』の中の鈴木様が書かれた「大正期の田園風景」には、「絵地図」と共に次のような池の証言がありました。「大きな池(「大山の池」のこと…筆者)は冬、氷が張って滑って遊んだこともあったが、昭和7年頃に埋め立てられた。」子供たちがワイワイとスケートを楽しんでいるのが想像できますね。もう一つ、大山町会『渋谷区大山町誌』(2004年)の中の藤森謙一様が書かれた「大正時代の大山町」の中に、この池について記述がありました。大正7年、藤森様は現在の原宿近くの穏原尋常小学校の2年生で、その日は小学校初めての遠足でした。広大な草原であった代々木練兵場(現在の代々木公園)を越え、富ヶ谷に出て、代々木八幡や徳川山の下を流れる小川(宇田川上流)を眺めながら「大山園」に行った時の記録です(注4)。「徳川山に沿った小道は、“おおやまみち”の名称もあった古い道路で、私たち遠足の一行は、この道を歩いて目的地「大山園」に向かった。やがて右側に広い竹やぶがあり、すかして見ると池(「大山の池」のこと…筆者)があるようだ。少し坂を歩くと、大山園の入り口に到着した。」当時の代々木一帯ののどかな田園風景が目に浮かびます。下の鈴木様の写真の年代(昭和10年)より18年ぐらい前の頃の様子です。


2) 鈴木錠三郎氏の写真に見る「大山の池」















鈴木錠三郎氏の「雪の日の写真」(左)と、宇田上流の場所(赤丸)の拡大図(右)(無断転載禁)。       左の写真に対応する現代の場所。
写真の裏に「S10.2.大山町42-19近より小田急線と上原方面(大山町47-20)」と記されている。
徳川山の南の崖から撮影していると思われる。

上左の「雪の日の写真」は、昭和102月当時の、既に埋め立てられた池の周辺の様子を写したものです。この写真については不思議なご縁がありました。鈴木様のお宅に伺い、お父様が撮られた代々木上原近くの多くの写真を見せていただいた時、この「雪の日の写真」が目に飛び込みました。その時は何を写したものか分からなかったのですが、土地の様子から川と関連しているかもしれないと思いお借りしました。何とこの写真は、昔の「大山の池」の跡と川の流れの一部を撮ったものでした。

写真について説明しますと手前の道は代々木大山公園から来る道路、右側の低いブロック塀は池との境と思われます。奥は小田急線と現在の古賀政男音楽博物館辺りの森でしょうか。当時は「松林山」と呼ばれていたそうです。そして写真の左端に小田急線に向かって流れる川(赤丸、宇田川上流)が黒く写っています。この部分が黒いのは、水が流れて雪が融けているためでしょう。ここを拡大すると、流れの水面や岸辺らしきものが見え、その先が暗渠になっています。鈴木様は、ご自分がスケートを楽しんだ池の辺りの風景を懐かしみ、また変化の様子を記録に留めておくため写真に撮られたのでしょう。

この辺りは、松林山という名前が示すように松が多かったようで、「鞍掛松(くらかけのまつ)」という伝承の松が富ヶ谷1丁目の山手通り近くにありました。それは八幡太郎義家が奥州に向かった時にこの木に馬をつないで鞍を掛けたとするもので、江戸時代前期の地誌『江戸砂子』に記されています。今回のツアーで説明をいただいた(後出)地元の和田様のお宅にも、お父様の時代に植えられた立派な松があり、毎年手入れをされているそうです。

さてツアーの話に戻りますが、私たちは旧徳川山の西側の流れに沿って川の道を南に向かい、「大山の池」の場所にたどり着きました。場所は徳川山の南の角の反対側でした。その角で「雪の日の写真」と現在の景色を比べてみようと辺りを見回しました。住宅の先には小田急線と井の頭通りがありますが、どこを見ても家ばかりです。しかし、私たちが今立っている道路だけは、写真に写っていた道と同じでした。私たちも鈴木様にならって池や辺りの田園風景を思い起こしました。

拡大図に写っていた宇田川上流は50メートルほど南に流れて、次に東側の西原児童遊園地に向かっていました。私たちはその流れの跡を一時離れて、次の目的地である小田急線南側の上原の流れと「底抜け田んぼ」跡に向かいました。


5.上原の流れと「底抜け田んぼ」

小田急線の代々木上原駅西口の道には、もう一つの宇田川上流「上原の流れ」が南(東北沢)の方から来ていました。私たちは小田急線のガード下の道を歩き、井の頭通りを渡って古賀政男音楽博物館の脇の道を少し下り、そこから上原の流れの跡を200メートルほどさかのぼって「底抜け田んぼ」の所に出ました。そこは現在の区立上原中学が建っている場所です。「底抜け田んぼ」は名前から見てもとても深い田んぼだったようで、中学を建設するのは難事業だったことでしょう。この辺りの道路のカーブはいかにも川の形です。戦後からこの土地にお住まいだった山田義男さまによると、その道の歩道部分が昔は川だったそうです。

「上原の流れ」は三田用水が通る東北沢近くの崖から浸みだしていました。地元の方のお話によると、昔この辺りに大きな沼があったそうです。「底抜け田んぼ」はその流れが形作った広い湿地帯だったのでしょう。鈴木錠三郎様は昭和10年当時の「底抜け田んぼ」と「小川」の様子を貴重な写真と共に、文章にも記録されています。「あぜ道を北西に行き、急斜面の松林の中の細道を下ると湿地帯、いわゆる底抜け田んぼに出る。ここは我が家の田んぼだったが人手がないため売ったところで、荒れて水溜りになっていた。そばを流れる小川はきれいで、小魚が泳ぎ、河骨(こうほね)が黄色い花を揺らし、上流にはカワニナが住んでいた。」(辻野京子『まちの記憶』より。)現在の上原中学の前の小川にはコウホネが咲いていたのですね。




写真右の上原中学一帯が「底抜け田んぼ」で、歩道の部分が小川(上原の流れ)の場所だった という。

S11.8 上原底抜け田んぼ(上原343)写真と説明は鈴木錠三郎氏(無断転載禁)。田んぼというよりも沼地を思わせる風景で、当時の代々木上原の様子を偲ばせる

この地域の昭和初期の様子については『渋谷区大山町誌』の中の第10回座談会(p101)にも出ていますのでご紹介します。

<保谷様> (水道道路の…筆者)トンネルの向こうの土地が湿地帯でヨシが背丈ほどもあり、怖かったです。足早に向うに抜けると山のような坂があり、そこにきつねやたぬきが出たという話がありましたね。とにかく怖くて気持ち悪かったですよ。

<久保田様> 上原中学校の辺りが、「底抜け田んぼ」と呼ばれていました。

<鈴木様> 小田急線は代々木上原駅に向かって下がっていて、線路脇の土手の上を人が歩いていたりしていました。それこそススキなど生えたりしていました。

今はにぎやかなこの地域に当時はきつねやたぬきが出たのですね。

先の山田様から戦後の「底抜け田んぼ」の様子も伺いました。「昭和22,23年頃のことだが、その辺りは葦やヨシがたくさん生えていて上原中学の奥のポストの辺りに下水があって、きれいな湧水がジャージャー流れていた。僕は飼っていたウサギを連れて行って生えていたスカンポの葉をきれいに洗って食べさせたりした。そこは昭和25,6年頃まで沼地だったが、その後宅地に開発されて、上原中学の向こうの奥の角には小沢昭一がつい先ごろまで立派な家に住んでいた。」「底抜け田んぼ」の辺りにも豊かな湧水があって、戦後になっても川や沼地などの田園風景を形作っていたのですね。

私たちは「底抜け田んぼ」の場所を離れ、小田急線の北側にあるJICANITEからの流れに戻り、五月晴れの太陽の下、西原児童遊園地でしばらく休憩をしました。水とは無縁の感じの公園ですが、実際は水と大きな関係があって、JICANITEから発して「大山の池」の脇を通った流れと、先の「底抜け田んぼ」脇の「上原の流れ」が集まっていた場所でした。まだ暗渠以外の水が公園の下を流れているのかもしれません。その先の川沿いには、かつて「底なし田んぼ」が続いていました。江戸時代は、そこに落ちて命を落とした鷹匠や鳥さしが居たという伝説も残っています。田んぼの中に深い沼や川が潜んでいて、土地の人以外には分からなかったのかもしれません。ツアーは西原児童遊園地で休憩しましたが、報告もここで一休みです。後編は「底なし田んぼ」から始まり小田急線沿いの「小川跡」を探訪し、富ヶ谷の合流点を抜けて、代々木八幡に向かいます。お楽しみに。(前編終り)

(注1)『堀江家文書』は武蔵国多摩郡中野村(東京都中野区内)の世襲名主・堀江家に伝来した江戸全期にわたる村方文書で、寛永年間(16241643)から記録されている。図書館によると、「代々木村絵図」は年代不詳。(東京都立大学付属図書館『武蔵国多摩郡中野村名主堀江家文書目録 改訂増補版』
(注2)初台川は京王新線の幡ヶ谷駅と初台駅の中間から小田急線代々木八幡駅に向けて南北に流れ、富ヶ谷でJICANITEの流れと合流していた。
3)同じ地域について「大正15年地図」と『東京市渋谷区地籍図』(昭和10年)を比較すると、大正から昭和にかけての住宅地の開発の様子がうかがえる。JICAやNITEの辺りの田んぼが無くなり、田んぼを囲むような川すじが現われ、その先は川沿いの「テニスコート」になっている。また「大山の池」も無くなり、池を囲むような川すじと川沿いの「テニスコート」になっている。当時この地域に住んでいた人々はテニスをするなど、モダンな暮らしを楽しんでいたようだ。


       京市渋谷区地籍図』部分。(昭和10年)

(注4)「大山園」は和風庭園を主とした当時の遊覧施設。藤森氏の文中に、「大山園は広い芝生の広場があり、右側には大樹がたくさんあって、別荘のような建物があった。」と記されている。石川源助『東京代々木・幡ヶ谷沿革名跡史』によると、「当時(明治の頃)には面積76千坪に及べり」とある。
5)座談会で話題となった昭和初期の「代々木大山町全図」(昭和15-16年)が『渋谷区大山町誌』(平成16年刊)の中に収録されている。地図右下の水道道路の南に「底抜け田んぼ」が描かれている(赤丸)。北側の赤丸部分はJICANITEの池と思われるが、「沼」と書かれている。中央の赤い点線の図形(筆者)は「大山の池」であるが、昭和初期には埋め立てられていた。宇田川上流の流れは描かれていない。


 「代々木大山町全図」(昭和15-16年)

 

 


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2015年5月20日

宇田川上流は渋谷川の西端に位置しており、現在の幡ヶ谷駅の南側に広がる幡ヶ谷台地の谷間をぬって幾すじも流れていました。こうした流れが代々木八幡宮の近くで北からの河骨川と合流して宇田川本流となり、さらに渋谷駅近くの宮益橋で渋谷川と合流していました。幡ヶ谷台地は谷が多く重なる所から「代々木九十九谷」とも呼ばれており、2万年前の氷河期に台地から流れ出た湧水が作りだしたと言われています。

5月恒例の「あるく渋谷川探訪ツアー・宇田川上流と代々木九十九谷を歩く」ではこの興味深い谷地形の宇田川上流を訪れるため、池や川のことを調べてみました。現在でも幡ヶ谷駅近くの「国際協力機構」(JICA)と「製品評価技術基盤機構」(NITE)の敷地内には宇田川水源の池が残っており、かつてはその湧水が台地を南北に流れて代々木上原へと向かっていました。その流れの中程の大山に大きな池があったようで、今回の『トピックス』はその池の場所がテーマです。


Googleマップに見る「絵地図」の地域とその周辺。流れは「絵地図」の池を通って「底なし田んぼ」へと続く。この辺りは湿地が多く、田んぼは直径60センチもの田下駄をはかないと田植えができなかった。井の頭通りの南には「底抜け田んぼ」もあった。代々木上原駅周辺の川跡は『渋谷区地籍図下巻』(内山模型社、昭和10年)を参考に描いた。池は「絵地図」に基づく推定。

S11.8 上原底抜け田んぼ(上原3-43)(写真と説明は鈴木錠三郎氏。無断転載禁)。田んぼというよりも沼地を思わせる。鈴木氏は他の写真の説明で「田んぼ」ではなく「湿地」という言葉も使っており、当時の代々木上原周辺の様子を偲ばせる。

ところで上原に長く住まわれた鈴木錠三郎様は、この辺りの景色や歴史を愛して風景写真などを数多く残されました。その点数は膨大なもので、一部は辻野京子著『まちの記憶』や渋谷区郷土博物館・文学館発行『「春の小川」が流れた街・渋谷』などに収録されています。鈴木錠三郎様は、3年前にご高齢で亡くなられたのですが、その鈴木様が「大正11年頃の上原。西原絵地図」(タイトルは原題のまま表記。以下「絵地図」)という図を描かれています。そこには幡ヶ谷台地を流れる川と池、その周辺には水田、湿地帯と共に、野菜畑、茶畑、雑木林、そして竹の子、野ウサギ、ホタルなどが描かれており、とても味わい深い情景です。




「大正11年頃の上原。西原の絵地図」(鈴木錠三郎氏描く。辻野京子氏所蔵。無断転載禁)川と池の青色と右下の方位は筆者。



今回その「絵地図」を改めて眺めたところ、流れの中腹に大きな池が描かれているのに気付きました。そこで前掲『まちの記憶』に収められた鈴木様の証言「大正期の田園風景」を読み直したところが、「(大山園の…筆者)手前には西原の火葬場あたりからの流れが大きな池を作り、そこから流れ出た水が底抜け田んぼからの流れと合流して小川となり、代々木八幡駅の方へ流れていて、川の周辺の低地は田んぼになっていた。大きな池は冬、氷が張って滑って遊んだこともあったが、昭和7年ごろに埋め立てられた。」という記述が目に留まりました。おそらく大山の池に関する唯一の記録です


この「絵地図」に描かれた池はどこにあったのでしょうか。現在の代々木上原駅の北側には「池」の痕跡は何も見当たりませんが、「絵地図」の中にはこの池の場所を特定するための様々な手掛かりが残されています。徳川山と斎場は言うまでもなく、当時計画中の井の頭通りと宇田川にかかる二原橋、そして大山園などです。こうした手がかりを現代地図と対比させると、道の形状や方角などから考えて、現在の「大山町42-19」の辺りが浮かび上がってきます。

折しも、『まちの記憶』を書かれた辻野様とお会いする機会があり、そのご紹介で鈴木錠三郎様のご子息の信広様のお宅に伺って、宇田川上流と関連がありそうな写真を見せていただきました。信広様のお話によるとお父様は「こういう写真は残しておくと、後になって貴重になるんだよ」とおっしゃっていたそうです。いろいろとお話を伺いながら写真を見せていただいていると、その中に上原の辺りを写した雪の日の写真が1枚ありました。なぜか気になって他の数点の写真と共にお借りしました。資料を整理しながら改めて見直していると、雪の日の写真の裏に「S10.2.大山町4219付近より小田急線と上原方面(大山町4720)」と記されています。何とこの写真の住所は推理した池の場所とピッタリ同じなのです。驚いてしまいました。



昭和10年、大山町42-19から小田急線と上原方面を望む。(写真と説明は鈴木錠三郎氏。無断転載禁)。向かって右側はかつての池の場所で、写真の赤丸の部分には、南に向かって流れる川の姿がある。


左図の川部分(赤丸)の拡大図。流れの水面や岸辺のようなものが写っている。




写真に収められた場所の様子をイメージしますと、手前の道は代々木大山公園から来る道路、右側の低いブロック塀は池との境でしょうか。奥は小田急線と現在の古賀政男音楽博物館辺りの森と思われます。そして写真の左端には小田急線に向かって流れる川の溝(赤丸)が黒く写っていました。水が流れているため雪が融けているのでしょう。この黒い部分を拡大すると、流れの水面や岸辺らしきものが見え、その先が暗渠になっているようです。解像度が高いことから、当時としては相当高性能のカメラで撮ったのでしょう。これが宇田川上流の流れである可能性は高いと思われます。この雪の日の写真を入手した直後に「渋谷歴史散歩の会」の方々とお会いしたので、写真をお見せして「絵地図」の池と写真の関連をあれやこれやと推理して盛り上がりました。しかし池があった当時の地図がないため、正確な場所は分かりませんでした。

その後に、「渋谷歴史散歩の会」の天羽様が「代々木上原が出ているから何か役立つかもしれない」と言って、北沢川文化遺産保存の会の『下北沢文士町文化地図』を持って来て下さいました。その中の「大正の古地図」を見ると、その右()側の端の方に三日月のような形の大きな池があり、その場所の現在の住所を地図から調べると「大山町42-19」でした。これで「絵地図」の池の場所が最終的に確定すると共に、雪の日の写真が池の場所を撮ったことも裏付けられました。

なお右下の地図は、後に図書館で探した「大正の古地図」のオリジナル(大日本帝国陸地測量部『東京一万分の一地形図』)で、色はついていません。宇田川上流の水源であるJICAとNITEの池の辺りと続きの部分は細長い形の田んぼとなっており、そこから流れ出した川は池の北の端をかすめて、その後少し南下してから東の代々木八幡へと向かっています。この南下した短い流れの部分が、先の雪の日の写真に黒く写っていた川の溝(赤丸)と思われます。



北沢川文化遺産保存の会「大正の古地図」『下北沢文士町文化地図』(改訂5版)、201311日。




大日本帝国陸地測量部『東京一万分の一地形図』明治42年測図、大正10年第2回修正測図、同14年部分修正図、大正15年。その「中野」と「世田谷」を連結して筆者作成。図中程の青く塗った三日月形の部分が「絵地図の池」。

鈴木錠三郎氏の雪の日の写真によって、この地域の宇田川上流の姿を初めて目にすることができました。原寸の写真では川面が見え、道路も上から眺めている様子なので、道の北側にある徳川山の少し高い場所から撮った可能性が大きいです。写真の木や盛り土の影の向きから考えて、午後に撮影したようです。当時の徳川山はまだ住宅地として開発されていなかったので、崖によじ登って撮ったのでしょうか。これは私の勝手な推測ですが、鈴木様がまだ子供の時に遊んだ大きな池や川の記憶があって、その場所を雪の日の写真に残したのかもしれません。

大正12年の関東大震災以後、この地域は小田急線が敷設され、池とその辺り一帯は整地されて分譲地になり、今日のモダンな街へと移り変わってきました。鈴木錠三郎様の「絵地図」と写真は、この地域が自然豊かな農村からモダンな街へと移り変わる時期を捉えた貴重な記録であると思います。

5月の「ツアー」では参加者の皆さんとこの写真の場所に来て、この道の角に立って、当時の大山の池が広がる田園風景を心に描きたいと思います。      (完)

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