幻の入間川を歩く(あるく渋谷川)     本文へジャンプ








9.恵比寿「たこ公園」   にコウホネの池が   完成 9.恵比寿「たこ公園」   にコウホネの池が   完成 9.恵比寿「たこ公園」   にコウホネの池が   完成 9.恵比寿「たこ公園」   にコウホネの池が   完成


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<入間川とは>

昔の渋谷川(古川)の下流には、本流の他に、入間川(いりあいがわ)というもう一つの流れがありました。江戸幕府がまとめた『新編武蔵風土記稿』には次のように書いてあります。渋谷川は、内藤新宿の東南にある四谷大木戸近くの玉川上水の枝流に始まり、千駄ヶ谷、原宿、隠田、渋谷、豊沢、白金等の村々を流れて三田村に至ります。その三田村の辺りで二つに分かれ、一つは郡界(現在の麻布と三田の間)を流れて本芝町に至り、入間川を通じて芝橋の東で海に入ります。もう一つは、郡中(麻布)に入って芝赤羽根、芝金杉を経て海に入ります。この書に収めてある「正保年中改定図」(1644年ごろ)を見ると、阿佐布村(麻布)の東で二つに分かれ、入間川の流れは柴町(芝町)で海に入り、本流は金杉町で海に入る姿が描かれています。

江戸時代には多くの江戸地図が出回りましたが、その多くに入間川が描かれており、明治・大正時代に埋め立てられるまで、川の流れの一部がたしかに残っていました。しかし渋谷川がどの地点で二つに分かれていたのか、その流れはどこを流れて入間川に入ったのかは知られていません。

そこで、古地図を手掛かりに入間川の流れの跡を歩いてみることにしました。入間川の川跡は橋も石垣も残っていないため、分からないことだらけですが、とにかく現地を歩き回って入間川をイメージします。勇み足があればお許し下さい。(古地図の画像は著作権の関係で残念ながら紹介できません)


      古川を歩くルート:『あるく渋谷川入門』(中央公論事業出版)183頁のマップより

<1.古川橋>

その昔、渋谷川(古川)が二つに分かれたと伝えられる三田村は、今の古川橋から一之橋の間の東側(現在の三田)の地域です。そこで、まず古川橋(マップの左下)から話を始めます。麻布台地と白金台地・高輪台地の間を東に向かって流れてきた渋谷川は、古川橋で北に曲がって一之橋に向かいます。ほぼ直角に曲がるのが不自然ですが、それもそのはずで、四之橋から一之橋までは、麻布御殿を造営した元禄時代に人工的に整備したからです。それまでの渋谷川は、自然に任せて蛇行する細い流れでした。
  

古川橋で北に大きく曲がる古川。川は
高速道路のカーブに沿って下を流れて
いる。

  


<2.三田段丘>

もし古川が古川橋の先で直角に曲がらずに、勢いよく流れて蛇行していたとすると、もう少し東の方に進んでから曲がったことが考えられます。この辺りは低い土地で、現在は慶応女子高校などがあり、その先は三田段丘の高い丘(慶応大学)となっています。東に流れた川は三田段丘の麓で遮られ、丘の縁に沿って北の方に曲がったと思われます。なお昔の古川が北に曲がらずに、そのまま東に抜けて東京湾に入ったという見方が江戸時代にあります。詳しくは、『あるく渋谷川入門』第8章(注3)の「合考荏土覧古図」(1790年以降)をご覧下さい。
  

   流れの前に立ちはだかる三田段丘

<3.三之橋の辺りから二つに分かれる川>

古川橋の東の低地を川が流れていたことをイメージしながら、現在の川に沿って三之橋まで歩いて来ると、三田段丘が川にせり出して道がなくなりました。このため少し戻って川の反対側(西側)に渡りました。先の「正保年中改定図」では、そろそろ流れが二つに分かれるところです。あらかじめ港郷土資料館を訪ねて、「古川の流れが二つに分かれたとすると、慶応大学グラウンドの南西、三之橋の辺りからで、その一すじが入間川に入った可能性も無いとは言えない」と教えていただきました。また2006年に九州で発見された「寛永江戸全図」(1642年)の存在を教えていただき、さっそく地図を入手して調べると、やはりこの辺りで二つに分かれていました。

三之橋の先の麻布一丁目の歩道橋に上がって、川が流れていく北の方を見渡しました。都道に面する象印マホービンと東町小学校の建物の間を、脇道が北西の方にまっすぐに伸びていて、まるで二つに分かれた川の跡が道になったように思えました。一つは三田段丘の縁に沿って入間川へ進む流れ、もう一つは善福寺や麻布十番へ向かう本流です。イメージが勝手に膨らみます。
  

象印ビルを挟んで分かれる道(歩道橋から北を望む)。

<4.小山橋から一之橋方面へ>

麻布十番に向かう本流は後で取り上げるとして、まず三田段丘の縁を北に向かう流れを探ります。三田段丘は二之橋の先まで川にせり出していましたが、一之橋に近づくにつれて後退しました。一之橋手前の小山橋の東側は、湿った感じの低地でした。川の近くにお住まいの方の話では、大雨の時は水位が5メートルも上がり、辺り一帯が水浸しになることがあるそうで、橋の脇には水止めや警報機が取り付けられていました。川岸に南国のような大きなブーゲンビリアがあり、10カ月も咲くというお話しでした。ブーゲンビリアには東京湾からの海の風が良いのでしょうか。
  
(写真を大きくできます。)
   小山橋脇の新広尾公園の掲示板

古川の流れの一すじは、一之橋の近くで今より内側を東に曲がったようです。港郷土資料館によると、この辺りの工事現場から、川の流れを示すU字溝の遺跡が見つかったそうです。杭が2、3本あるだけのもので、石垣のようなものは無かったとか。延宝(1673年以降)の頃から古川の大掛かりな開削工事が始まりますから、U字溝は江戸の初めでしょうか。当時は一之橋から赤羽橋辺りまで、二つの川が南と北にほぼ並行して流れていたのでしょう。
  
    工事中の一之橋付近

<5.入間川へ>

一之橋の内側を東に曲がって、古川の南側の低い所を選んで歩き、中之橋を通って赤羽橋南の交差点まで来ました。この辺りの南側はかつて有馬屋敷として知られ、現在は済生会中央病院と三田国際ビルの庭です。ここから海までの三田と芝の一帯は広く平らな土地です。三田段丘の縁を東に向かって流れていた川は、ここから次第に東南に曲がって入間川に向かったと思われます。『新修港区史』(昭和54年)によると、この地域は「芝埋没台地」といって、金杉橋など本流のルートよりも土地が低いそうです。
  写真を大きくできます。)
     三田の由来を伝える案内板


川は東南に流れて日本電気本社近くに来ました。この辺りは幕末に薩摩藩邸があった場所で、西郷隆盛と勝海舟の会談が行われた屋敷としても有名です。この屋敷の東側から海までの「旧海岸通り」が入間川です。厳密に言うと、芝3丁目の交差点の少し東からJRのガード下までです。

  
薩摩屋敷辺りに建つ日本電気本社ビル

これは「旧海岸通り」で、海に向かってほぼ東に進んでいます。『新修港区史』によると、入間川の河口近くは漁業の中心地として栄え、漁民が漁獲物を初穂として将軍に上納していたそうです。
  
入間川が流れていた旧海岸通り

入間川は400メートルぐらいでしたが、その間に崩橋、芝橋、廻り橋と三つの橋が掛っていました。当時の繁栄が偲ばれます。今の芝4丁目交差点が、旧東海道に掛っていた芝橋です。
  

東海道の芝橋付近、芝4丁目の交差点


<6.入間川河口>

入間川の河口付近はJRガード下の少し海寄りです。この先の重箱掘りや日の出、芝浦桟橋は、明治時代以降に作られたものです。河口をイメージしながら何枚も写真を撮りました。ちょうど新幹線が通ったときの風景です。入間川の探訪は終わりです。
  
    入間川河口はJR線路の下

<7.古川本流は金杉橋から東京湾へ>

(話は戻り、先の国道15号の麻布1丁目歩道橋です)三之橋の辺りで古川が二つに分かれていたとすると、その本流は二之橋の手前から北西の方向に、つまり現在の古川よりやや西側を流れていた可能性があります。
  

  再び麻布一丁目の歩道橋から北を望む

そうだとすると、この流れは善福寺の山門の近くを通っていたのでしょうか。善福寺は天長元年(824年)に弘法大師が開いた名刹で、お寺の山号も麻布(阿佐布)です。境内には大師縁の「柳の井戸」があり、この水が古川に注いでいました。「清正の井」と並んで東京「湧水57選」の一つです。
  
      善福寺の「柳の井戸」

善福寺の門前町もにぎやかだったことでしょう。
  
      麻布十番商店街の入り口

川の流れは、西の麻布台地と北の飯倉台地に阻まれる形で東に曲がり、中之橋を通って赤羽橋に至ります。延宝年間及び元禄年間に川が整備されましたが、それまでは今の流れよりも少しだけ北を流れていた可能性があります。先の「寛永江戸全図」を見ると、意外なことに、流れの一すじが増上寺の裏手、宝珠院の弁天池(白蓮池)辺りに至っており、流れ込んだ水はお寺の堀に繋がっていました。古川は時代によって色々なルートを辿っているようです。
  
       
宝珠院の弁天池

赤羽橋まで来た古川は、増上寺の南の麓を通り抜けて、ほぼ真っ直ぐに東の海に向かいました。川岸の道を辿って海まで歩くことができます。赤羽橋の近くには古墳や貝塚がたくさんあります。古代は海の幸に恵まれた豊かな土地だったのでしょう。
  
        
赤羽橋の碑

江戸時代から有名な金杉橋です。元禄時代に舟入になった古川の本流が海に出る手前の橋でした。川は地元で「金杉川」とも呼ばれていました。金杉町は、入間川の芝町と同じく漁師町で、米問屋や海鮮問屋も立ち並んで賑わったそうです。将監橋、金杉橋ともに橋の周りの土地が盛り上がっていますが、自然の地形でしょうか。それとも、水がつかないように盛り上げたのでしょうか。

  
   
金杉橋から見た古川の流れ。

古川の河口と東京湾です。それにしても、何という大きな河口でしょう。高速道路の下に押し込められていた川は最後に伸び伸びと広がることができました。
  古川の河口と東京湾

なお、江戸時代の古川は、延宝年間に整備が始まりました。延宝4年(1676)に金杉から一之橋までが舟入の川となり、、元禄12年(1699)の麻布御殿造営のときには、一之橋から四之橋までも舟入ができる川になりました。その結果、ほぼ現在の川に近い形になり、地元の人は古川を「新堀川」と呼びました。
(END)

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