渋谷川・古川トピックス・白金台から五之橋への流れ(その1)New!    本文へジャンプ
        
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おかげさまで、2010年6月10日に『あるく渋谷川入門』を刊行することができました。その後のこと、渋谷川、 古川に関する新しい話しがいろいろと出てきましたので、「トピックス」欄を設けて紹介していきます。なお庵魚堂様のご好意で『世田谷の川探検隊』のサイトに本を紹介していただいたところが、そのコメントに加藤秀俊先生がメッセージを寄せられ、それがきっかけとなって、そうそうたる川の研究家の方々の交流が始まりました。あわせてご覧ください。「世田谷の川探検隊」へ


    
2012年 
 3月3日 渋谷川(古川)支流・白金台から五之橋への流れ(その1)
       ―傳染病研究所と小さな池の物語―
2011年 
 10月7日 中田喜直と「メダカの学校」

8月5日 恵比寿「たこ公園」にコウホネの池が完成

 6月吉日 古川探訪のツアー「天現寺橋から東京湾浜崎橋まで」
 6月14日 最新版“渋谷川”の本のご紹介 
       田原光泰
著『「春の小川」はなぜ消えたか―渋谷川にみる都市河川の歴史―』
 6月13日 「発見!古川物語〜歴史編〜」港区ケーブルテレビ『みなとクイックジャーナル』
 6月10日 臨川小学校で“7代目”のホタル鑑賞会
 6月4日 「渋谷川と渋谷地域に関する新しい情報-益井邦夫先生からのメール」
 5月6日  「発見!古川物語~歴史編~」を港区のケーブルテレビで放映
 4月25日 『あるく渋谷川入門』の登場人物(当時5歳)からのお便り
 4月17日 ブラタモリで「渋谷 不思議な“谷”の都市」を放映(3月31日)
 2月26日 緑の中の「蝦蟇(がま)池」の姿(NHKブラタモリから)
 11日 渋谷駅の地下にひそむ渋谷川(1月27日テレビ東京放映の報告
 2月3日 「渋谷川の川神」について‐鈴木英一さまのお話
 1月19日 新作カブキ踊り『渋谷金王丸伝説』に現れた渋谷川の川神
 1月16日 「1月27日(木)」テレビ東京で渋谷川の特集番組を放映
2010年
 12月20日 ビール工場のオブジェ
 12月13日 資料と証言から見る「蝦蟇(がま)池」の移り変わり
 10月28日 広尾橋近くに笄川の跡を探る
 9月25日 スイカを冷やした清水が麻布に
 9月10日 真っ青な貯水池のミニチュアが (ヱビスビール記念館にて
 7月22日 麻布十番に古川地下調節池工事現場を見学
 6月11日 群生するコウホネをたずねて



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 「傳染病研究所 池」(近代医科学記念館所蔵 無断転載禁)

川を研究していると、時々びっくりするような資料に巡り合います。今回、渋谷川(古川)の支流であるかつての傳染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)からの流れを調べていたところ、奇跡的にも水源の池の写真が見つかりました。そして、池があった傳染病研究所の設立と予防医学にまつわる興味深いお話を知ることができました。何はさておき、貴重な資料を提供して下さった近代医科学記念館にお礼申し上げます。

かつて渋谷川は、玉川上水や宇田川を源流とし、他にも多くの支流を集めて東京湾に向かって流れていました。現在はその半分以上が暗渠で、渋谷駅近くの稲荷橋から地上に現れます。渋谷川の流れは中ほどで渋谷区から港区に入りますが、区の境の天現寺橋より下流は古川と呼ばれています。その天現寺橋のおよそ500メートル下流に、かつて白金三光町を南から北へ流れる小さな川がありました。全長800メートルぐらいでしょうか。この支流は、かつて傳染病研究所の庭の池から発して北に向かって流れ、五之橋(現在の白金3丁目、5丁目の境)の辺りで古川に注いでいました。白金台町に傳染病研究所ができる以前の、明治20年の内務省地理局「東京実測図」を見ると、水源である池は細長いおイモのような形をしていて、両側が崖であることを感じさせます。これまで明治、大正、昭和の地図(*1)を年代順に調べ、また現地を歩いてみたりしたのですが、この川を実際に見た人の記録がないため、全体のイメージがなかなかつかめませんでした。しかし今回、水源の池の写真と細かい図面が見つかり、また地域の方々から池や川にまつわるお話を聞くことができて、その姿がはっきしてきました。


 
 川の案内図












    池周辺の拡大図

1月のまだ雪が残る寒い日に、JR目黒駅から目黒通りに入り、東の方に歩いて東京大学医科学研究所附属病院に来ました。医科学研究所はメトロ白金台駅のすぐ近くで、大きな門が昔の面影を残していました。広い敷地の奥にはどっしりとしたゴシック風の病院の建物が建っています。右側にも同じようなスタイルの古い建物が一つありますが、それが旧国立公衆衛生院(*2)です


 
 旧国立公衆衛生院(現在工事中)


樹々の向こうが池の底と思われる

正門から敷地に入って、200メートルほど奥に歩くと、東側に向かって地面が緩やかに傾斜しており、ここが池の周りであったことを直ぐに感じさせました。斜面の底のようなところが少し平らになっており、カラスを捕獲するための檻が設置されていました。地図によるとこの辺りが池の底になりますが、はっきりとは分かりません。池の近くの西側の崖に小さなお稲荷さんがありました。「神社稲荷」と書かれてあり、古びた絵馬が下がっていました。




 
 
池の場所から住宅地に向かう急斜面



崖に残る神社稲荷(水守の神様)

ところで、ここが池の跡ならば「すり鉢」のようになっているはずですが、この土地の北東側はどんどん下がっていて、最後は崖のようになり、その下は住宅地になっていました。このような形では水が溜まるはずがありません。度重なる造成によって土地の形が変わったのでしょう。後に崖下の住宅地に下りて南側の方を見ると、西洋のお城のように旧国立公衆衛生院が高台にそびえていました。この池も住宅地よりかなり高い所にあったと思われます。おそらく池から流れ出た水は、崖から落ちるように下ったか、崖の途中から浸出していたのでしょう。

池が高い所にあるのは不思議な気もしますが、この辺りの土地では時々見かけます。海抜25-30メートルのところに渋谷粘土層という水が浸み込みにくい地層があり、地下水がその上を滑って崖から浸みだしてくるからです。これは「宙水」と呼ばれており、目黒通りを挟んで反対側にある玉名池(白金台2丁目)や、『ブラタモリ』で取り上げられた「蝦蟇池」(元麻布2丁目)も高い所にあります。以前に覚林寺(清正公堂)脇を流れた玉名川について調べていた時ですが、上大崎1丁目にお住まいの方から面白い話を聞きました。「およそ10年前にお隣の方が家の工事をしたとき、自宅の下から水がザーザーと溢れ出て、家の手前の道路いっぱいに溢れました。ここは高台なのに、あの水はどこから来てどこへ行ったのか不思議でしょうがない。」上大崎の土地の下には大量の宙水が存在していて、それが噴き出したのでしょう。(*3)

この日は、この辺りの土地の様子について資料が見つからないため、何か手がかりが無いものかと敷地内の近代医科学記念館に入りました。池や川に関連した資料が展示されていないかと淡い期待を抱いていました。
玄関ホールに職員の木下恵子様がいらしたので、「昔こちらの構内に池があったそうですが、何かご存じでしょうか?」と声をお掛けしました。そうすると、思いもかけない答えが返ってきました。「ええ池があったという話は伝わっていますよ。崖にあるお稲荷さんの下の方だったそうです。」「何か写真とかはあるのですか!?」「ええ、書庫の古い写真の中で池の写真を見たことがあります。小船を池に浮かべて白衣の先生が舟遊びをしていた写真です。」ここまでお聞きして、もうびっくりです。「スゴイですね!展示はしていないのですか?」「本筋の話ではないですからねえ。でも探してみましょう。」早速探して下さることになり、約1週間後にいただいたのが巻頭の写真です。
またその時、木下様は展示されていたパネルの地図を指さして、「この地図は昔のものです。ここに何か書いてありますが読めますか?」と。そこには細い小さな活字で「池」と書かれていました。これも元の資料を探してくださるとのこと。木下様に心から感謝です。

話しはここで終わりませんでした。木下様はご親切にも、先程の神社稲荷を案内して下さいました。「たしか五島稲荷と言って、水守の神様がお祀りされていました。お稲荷さんのそばから湧水がありました。しばらく前まで永年勤続の先生がお稲荷さんのお守をしていらして、2月の初午(はつうま)になると、お飾りをして、お賽銭をあげて、お神酒やその他のお配りものをしていました。私もそれらをいただいたことをよく憶えています。先生が退職なさってお守りをする方がいなくなったので、御霊はお返ししましたが。」「以前この辺りに積もった枯葉を取り払ったところ、丸い池の縁石のようなものも出てきました。窪地にある通路も昔からあった様で、改築の時に掃除をしたら、きれいな丸い石が出てきました。」


 
雪の日の近代医科学記念館



現在の医科学研究所の模型。(記念館のパネルより)

記念館に戻り『傳染病研究所案内』(大正10年)を見せて下さいました。そこには傳染病研究所について詳しく記されていました。池の話から少し離れますが、日本の予防医学の歴史を語る上でとても貴重な資料なので、創設のいきさつをご紹介します



 
      


初代所長北里柴三郎と福澤諭吉、『傳染病研究所案内
(大正10年)より。

傳染病研究所の前身は、明治25年(1892、港区芝公園の地に設立されました。福沢諭吉が、細菌学を修めてドイツから帰国した北里柴三郎のために、私財を投じて土地と家屋を提供し、そこに大日本私立衛生会の長与専斎たちが協力して、「大日本私立衛生会附属傳染病研究所」を開設したのが始まりです。しかし芝公園の土地がすぐに手狭になったため、その翌年に愛宕町の内務省用地に移転し、政府の補助金を受けながら発展していきました。明治32年、それまで私立であった傳染病研究所は「国立傳染病研究所」となりました。その後、従来の研究、講習などの仕事の他にも血清の製造などが加わったため、またも手狭となり、明治39年に現在の芝白金台町に引っ越しました。あちこちに散らばっていた施設を一つにまとめ、破傷風菌の純粋培養、ペスト菌発見、血清療法の開発などで名高い北里柴三郎所長のもとで、日本の伝染病医学の一大拠点がスタートしたのです。

木下様はもう一冊の資料、福島伴次(*4)『東京医事新誌』70年記念号別冊『学究風雪六十年』を見せて下さいました。福島氏は子供の頃から傳染病研究所に住み、後に傳染病研究所に35年間勤続した細菌学者です。同誌によると、構内には赤いレンガ造りの1号本館、裏手の研究室、木造の事務所と病室、講堂、その他氷室、培養器室、機関室、写真室、小動物室など木造の建物などが連なり、細菌学研究の一大王国のようであったそうです。そこでペスト菌など様々な細菌を研究し、ジフテリアなどの免疫血清を製造し、また日本中の衛生技師に最新技術を講習して日本全体の衛生レベルを上げたことが、記されています。
この当時は、脚気の原因が脚気菌だというような俗説が幅を利かせていた時代でした。1893年から1896年の赤痢の大流行では、日本で4万人以上が亡くなったと伝えられていますが、当時多くの学者が赤痢菌を探そうと必死の努力を重ねました。その中で、1897年に傳染病研究所の志賀潔が、世界で初めて赤痢菌(学名Shigella)を発見したのです。学名に日本人の名前が付いているとは何とすばらしいことでしょう。傳染病研究所には、黄熱病(マラリア)の研究で知られる野口英世も一時在籍しました。当時は伝染病の研究は命がけだったようで、野口はマラリアの研究を続けるうちアフリカのガーナで感染して、51歳で亡くなりました。傳染病研究所のペスト室勤務の研究者が、ペストにかかって亡くなったこともあったそうです。現在の私たちにとって伝染病の脅威はインフルエンザぐらいで、コレラやぺストなどは無縁であると考えています。それは明治のこうした研究者たちの、献身的な努力の賜物であることを改めて感じました。


 
 「傳染病研究所 池と昆虫室」
(近代医科学念館所蔵  無断転載禁)


東京大学医科学研究所1号館

再び池の話に戻りますが、木下様は傳染病研究所の池の写真2葉と地図を見つけて下さいました。巻頭にご紹介した写真「傳染病研究所 池」は、白金台町に引っ越してからのものです。白衣着用の研究者か医師が小舟に乗り、和服の男子が櫂で舟をこぎ、周りに白衣の看護婦さんたちでしょうか、草花を摘んでいるようです。池には水草とハスの葉が茂っています。上の写真は「傳染病研究所 池と昆虫室」というタイトルです。『傳染病研究所案内』(大正10年、p13-14)には、この池の水源が井戸であったことが記されており、当時の池の周囲の状況描かれていますので、現代文に直してご紹介します。

「梅林の上の方に古井戸があり、かの大久保彦左衛門が茶の湯に使ったものと伝えられる。コンコンとわき出した水は地下をくぐって谷底の小池に入る。池は深くもなく浅くもない。小舟を浮かべて釣り糸を垂れるのに良い。谷の左岸には樹木がうっそうとして医院その他の建物が見え隠れして実に美しい景色だ。」また『傳染病研究所案内』と『医科研80年の歩み』には当時の研究所の地図が出ています。それによると、現在の1号館の場所はこの昆虫室の奥の土地です。


 
 「東京帝國大學所属傳染病研究所平面図」
(大正13年3月31日 現在。
『医科研80年の歩み』より。近代医科学記念館所蔵 無断転載禁)


池周辺の拡大図

この地図を見ると、敷地の右手3分の1のところにある池の形はボートのようで、明治20年の内務省地理局「東京実測図」の長いお芋のような形とはだいぶ違っています(*3の地図参照)。また池の上の方に向かってまっすぐ伸びる崖が描かれていて、その崖に沿って小川が流れていたことを感じさせます。
『東京医事新誌』(2161号、昭和40年9月25日)の「伝研と私」(江島真平氏)には、池の形についての面白い記述がありました。「梅林の尽きるところには、椎、樫の巨木がうっそうと茂っていて、その間に池があった。この池は約300坪ぐらいの面積で、形状は北里先生の考案になるとかで血清アンプル型であった。ここにも血清大量生産の理念が偲ばれる。池水の湧出際、すなわちアンプルの細口からほど遠くないところに古井戸があった。」ここではアンプルの形とかいてありますが、木下様によると、北里博士は池を「培養ビン」の形に整えたという話もあるそうです。

『学究風雪六十年』の中にも池の話がでてきます。「この俱楽部の後方には化学室の煉瓦の洋館をみせ、なだらかな斜面の庭には、芝生と梅の古木や四季それぞれに咲く樹木が充満し、それらは形の良い池を取り囲んで、花の絶えるときを知らないようだった。」「門から研究所の建物までの道には、その両側に姿の良い松が巧みにあしらわれ、谷間の梅林や池とも良く調和し、庭園造りの名手だと言われた北里博士の趣味の深さが偲ばれた。」池の景色が目に浮かぶようですね。またこの話には、北里博士が庭を作ったことがはっきりと記されています。


  
  福島伴次『東京医事新誌』
 創刊77年記念号別冊
 『学究風雪六十年』  




「傳染病研究所前景」『傳染病研究所案内』(大正10年)より。 

さて池の話もフィナーレとなります。『学究風雪六十年』には池の埋め立てについての残念な話が綴られています。「この名園は(中略)昭和13年、公衆衛生院ができるので、潰された。そしてかつて咲き誇った老梅は池の蛙と一緒に放り出されて裏庭の片隅に雑然として配所の月をみている」(「学究風雪六十年・その9」47ページ)。北里博士により作られた庭園の池は、およそ30年間にわたり傳染病研究所の歴史と共に存在しましたが、この時に庭園と共に埋められたと思われます。『東京大学傳染病研究所年次要覧』(1955年度)付録の地図には、現在の1号館と旧国立公衆衛生院は描かれていますが、池の姿はありません。(その1終り)

*1「御府内場末往還其外沿革図書」(弘化3年)、内務省地理局「東京実測図」(明治20年)、「東京芝区全図」(明治30年)、「東京市芝区図」(大正10年)、植野録夫「芝区詳細図」(昭和12年)『増補 東京都港区近代沿革図集‐高輪・白金・港南・台場』、東京都港区立三田図書館編。「明治34年芝区地図」『芝区史(全)』昭和13年、394ページ。「東京市十五区番地界入地図」(明治40年)『Goo地図』(2009年)NTTレゾナント。「明治40年前後復元地図」『江戸明治現代重ね地図』(2004年)APP社。「東京帝国大学所属傳染病研究所平面図」(大正13年)『医科研80年の歩み』近代医科学記念館所蔵。

*2 旧国立公衆衛生院は、大正12年の関東大震災の災害地復興援助の一部として、米国ロックフェラー財団の寄付により、東京大学医科学研究所の敷地に昭和13年に建設されました。設計は、医科学研究所1号館と同じく“鉄筋コンクリート建築の父”といわれる内田祥三。港区が厚生省から譲り受け改修して、地域の保健・医療のための施設となる予定です。

*3 医科学研究所の西側、外苑西通りとの間の土地に、もう一つのやや大きな池がありました(現在の白金台4-11辺り)。それは旧国立公衆衛生院の池と同じく、三光町を南北に走る谷間にあったもので、明治20年の地図で見ると四方から土地が下り、どこにも流れ出していません。湧水地というよりは水たまりだった可能性があります。二つの池が地中でつながっていたことも考えられます。この池は明治40年の地図に描いてありましたが、大正10年の地図からは消えていました。現在はその一方を医科学研究所の壁でふさがれ、昔の地形をそのままに残した住宅地になっています。下の地図は内務省地理局「東京実測図」(明治20年)の一部で、左下が医科学研究所の土地の西側にあった池で、実測図の中心の細長いマダラ部分が、後に傳染病研究所の庭にあった水源の池です。右下には、現在の目黒通り沿いに白金台町が走っています。



 
 池跡へと下る急な坂道      



池の底辺りにある駐車場



「東京実測図」に現れた二つの池
*4 福島伴次には『細菌の科学』(畝傍書房、昭和16年)、『細菌への闘争』(大日本出版, 1942年)など多くの著作があります。

 

    

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10日 中田喜直と「メダカの学校」

先日の朝、恵比寿ガーデンプレイスの北側の住宅地を散歩している時に、坂の上の家の脇に「中田喜直の住居跡」と書かれた新しい標柱を偶然見つけました。住所は恵比寿4丁目15-1のところです。標柱の斜め向かいは、コンクリートの真新しい公園になっていて、その看板には、中田喜直が大正12年に東京市渋谷区欠塚(かけづか)に誕生して加計塚小学校に入学したこと、中田家は音楽一家だったこと、「めだかの学校」「夏の思い出」「小さい秋見つけた」などを作曲したことなどが説明してありました。公園の名も「小さい秋見つけた」にちなんで「景丘小さい秋公園」でした。渋谷区の記録を調べたところ、2010年3月に中田喜直氏住居跡説明板の除幕式を行い、加計塚小学校2年生の元気な歌声で公園の誕生をお祝いしたそうで、地域の子供たちともつながりが深いようです。100坪も無い新しい小さな公園ですが、地域の歴史や文化をしっかり受け継いでいて素晴らしいと思いました。




 
 「景丘小さい秋公園」


自販機の隣の「住居跡」標柱

ところで、「めだかの学校」の作詞は茶木滋という方です。戦後1946年に、食糧難から息子さんと一緒にお芋の買い出しに行くときに、小田原市にある荻窪用水を通り、その時にメダカを見つけた息子さんの様子を思い出して作詞したそうです。作曲をした中田喜直も、恵比寿ガーデンプレイスの西を流れた三田用水、サッポロビールの池、北側の渋谷川などたくさんの水に囲まれて育ち、どこかでメダカの群れを見たことと思います。拙著『あるく渋谷川入門』の5章の5「ビールの町恵比寿の分水」の中で、三田用水についてお話を伺った渡辺さまも、「三田用水は近くを流れていたよ。細い川にきれいな冷たい水が流れ、小さな魚も釣れた。」と教えて下さいました。


 
 神奈川県小田原市荻窪の荻窪用水脇
にある「めだかの学校」(ウイキペディアより)


「東京湾に住んでいる生物の写真パネル」
(東京都建設局)

現在の渋谷川の魚の様子はどうでしょうか。先日古川(渋谷川)五之橋の脇を歩いていたところ、都建設局による古川の工事現場に魚のパネルを見つけました。そこには、東京湾に住んでいる生物たちと共に、古川に生息する魚も紹介されていました。「現在、古川では、12種の魚類が確認されている。メダカやドジョウといった淡水魚のほか、ボラやマハゼ、ウナギといった、海からさかのぼってくる魚が多く生息している。」古川にまだメダカがいたとは驚きです。川辺に行って実際に見てみたいものですね。


 
 コウホネの池


葉の間を泳ぐメダカ

メダカといえば、今年7月に作られたたこ公園(恵比寿東公園)の「コウホネの池」にもメダカがにぎやかに泳いでいます。池にはびっしりとコケのような藻が生え、アメンボーや小さな昆虫が泳ぎ、シオカラトンボのヤゴもいて、もう立派な自然の池です。メダカは7月に「渋谷区ふれあい植物センター」から頂いたもので、当時は体も小さく、色も薄い灰色でしたが、2か月たった今は目玉が大きい逆三角形のような体型の、黒いたくましいメダカに育っています。日差しの下で、メダカはコウホネの葉の間に静かに群れて泳いでいるかと思うと、今度は追いかけっこをするように素早く移動します。池を見に来る子供たちにはコウホネより動く魚の方が興味深いと見えて、ワーッと歓声を上げてメダカを一生懸命に眺めます。たこ公園のコウホネの池は、今ちょっとした「メダカの学校」です。(以上)


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日 恵比寿「たこ公園」にコウホネの池が完成

去年の6月『あるく渋谷川入門』を刊行した日に、箱根湿生花園を訪れました(トピックスの昨年6月11日参照)。渋谷では“伝説の花”であったコウホネが、大きな池にどっさり咲いているのを見つけて、もうびっくり。コウホネをぜひとも渋谷川岸辺の「たこ公園」に植えたいと思いました。




 


 箱根湿生花園のコウホネの池(左)と黄色い花(右) (2010.6.11)

コウホネ(Nuphar japonicum)は、スイレン科の多年草の植物で、北海道南部から九州にかけて分布しています。太い根茎に水中葉、浮き葉、水上葉を付け、春から秋にかけて水から突き出た黄色い花を咲かせます。白く硬い骨のような根が、コウホネ(河骨)という植物の名の由来 です。その根は漢方で利尿、浄血、鎮静薬として利用されるとか。

コウホネは、明治・大正時代に渋谷川の支流に群生して、河骨川という名前になったと伝えられています。この川はかつて明治神宮の西側を流れる宇田川(渋谷川の上流)のさらに上流にあり、甲州街道から切通し坂にかけての広い一帯を占めた「山内侯爵」のお邸の池やその辺りの水源から流れ出していました。童謡「春の小川」に歌われたことでも有名で、コウホネは邸の近くに群生していたようです。

去年の11月のことですが、町内会長の高根沢吉正様に「たこ公園」にコウホネを植えようと相談したところ、「それはいい考えだからやりなさいよ」と言っていただきました。しかし当時の「たこ公園」はリフォームの真最中で、渋谷区の公園課が池の設置を決めて下さったのは今年4月になってからでした。




 
 
緑の芝に、赤いタコが映える




芝の苗植えは子供たちも手伝いました
(2011.5.18)

池の設置が決まると、次は設計と実際の作業です。コウホネは渋谷に残っていないという話だったので、箱根湿生花園からコウホネをいただく予定で準備をしていたところが、コウホネが渋谷の鍋島松濤公園に保存されているという話を、渋谷区公園課の方が偶然に耳にし、私に教えて下さいました。これはビッグニュースでした。




 
 
鍋島松濤公園の池のコウホネ(手前)




柵は水中葉がカメに食べられないため

そのコウホネは、白根郷土資料館が2005年の建て替えの直前に鍋島松濤公園に預けたもので、株が増えすぎて密生しているため、株分けをしなければならないという絶好のタイミングでした。早速、鍋島松濤公園からコウホネを受け取る手はずを整えていただきました。こうして“渋谷原産で由緒正しいコウホネ”(元山谷小学校副校長の吉川光子先生のお言葉)が手に入ったのです。「荒木田土(あらきだつち」という粘土質の畑の土も、素焼きの鉢もそろって、準備万端です。


 
 
渋谷川脇の池の設置予定地
 右は雨水のタンク)

7月4日に工事開始!

7月4日午前9時から渋谷区公園課の方が池を掘る作業を始め、池を設置して、6日までに準備は全て完了しました。7月7日の少し曇った涼しい日の午後1時半、15人ぐらいの方々(地域の皆さんや友人)が芝生も新しくなった緑の「たこ公園」に集まりました。そこへ、鍋島松濤公園の池からコウホネの株が到着しました。公園課の方々が運んで来て下さったのは、1メートル四方位の木枠の中に密生したコウホネです。黄色の花も一つ咲いています。つやがある緑色の葉っぱが元気な様子で、枠をこわすと、中にはぎっしりと詰まった白く堅そうな根があり、その下には、泥と、直径が15センチもありそうな大きな石がゴロゴロと詰められていました。コウホネの木枠は、水を含んで、さぞ重かったことでしょう。公園課の方から伺ったお話によると、「初めはボートの上から株を切り取ろうと思ったが、到底無理なので、職員が池に入り、ずぶぬれになりながら木枠ごと取り出した」ということでした。本当にご苦労様でした。




 
 
鍋島松濤公園からのコウホネ



株分けの前に様子を見る(ⓒFukuda)

株分けと植え込みを指導してくださった生物の鈴木利博先生が「こんなに元気そうな株なので、植え替えは何の心配もありません」と皆を安心させ、また、水中葉と水上葉の2種類の葉があることなどを説明されてから、コウホネの株分けをすることになりました。「何かナイフはありませんか」と言われて、私は、おやつの羊かんを切ろうと持ってきたナイフをさし出しました。先生の手さばきは鮮やかで、小さなナイフは、株を切り出したり古い根をカットしたりと大活躍でした。
池の準備も並行して進めました。池は、2m×1.6mぐらいの黒い合成樹脂のもので、深さ60センチの所もありましたが、土と玉石を入れて、深さが30センチ以下になるよう調整してありました。 




 
 
池を準備する公園課の方々




池に鉢をセットするメンバー

コウホネは直接池の土に植えるのではなく、鉢に植え込んで、その鉢を水の中に沈めます。この手順で、先ず池に水を張り、次に鉢に「荒木田土」を入れ、株分けしたコウホネを鉢に植えて池の中に沈めて、植え込みが完成!午後2時20分頃です。7月4日から始めて4日がかりの大仕事でした。その間に公園課の方が、池のコウホネの由来を書いた表示板を立てて下さいました。最後にコウホネの植込みに参加して下さった皆さんと記念写真を撮り、めでたく終了となりました。




 




左:記念写真、手前は株分け後のコウホネ 右:植込み翌日の池(7月8日)、奥は渋谷川

ところで、7月9日の昼ごろ池に行って手を水に入れてみると、温泉のように熱いので驚きました。水温を計ると37℃。大慌てで友人の富安さんと相談して、水道水で池の水温を下げることにしました。鈴木先生から50℃まで水生植物は生きていられると教えていただいていましたが、とても心配で、それから10日間ほど、富安さんと2人で午前・午後の2回、とにかく30℃ぐらいまで水温を下げ続けました。毎日、それは暑かったこと。大きな葉が枯れていきましたが、その後は台風で雨が降り、曇りがちの天気が続き、18日ごろから水温も30℃より低くなって、植物も、そして私たちも生き返りました。小さな生き生きとした葉っぱが、すべての株から出てきました。葉っぱの間をぬって水面に突き出したつぼみも黄色い花をきれいに咲かせました。





7月12日の池の様子









「たこ公園」のコウホネの花

7月24日に、植込みをした方々と再びお会いしましたが、そのときに鈴木先生から、「コウホネはほとんど“活着”したと思われます」といううれしいお言葉をいただきました。9月ごろには元気に花をつけてくれることでしょう。

7月22日に渋谷区の「ふるさと植物センター」からメダカを15匹いただいて放しました。晴れている日のお昼頃行くと、“♪今日も一日ひなたで泳ぎ”と、『春の小川』の歌詞そのままに群れて泳いでいるのを見ることができます。コウホネの株の間を泳ぐ可愛いメダカさんたちを眺めるのも楽しいですよ。                   (以上)

(追記)この原稿を書いていた8月1日の朝のこと、水の中に1センチほどの小さな丸いつぼみを一つ見つけました。これが咲けば、たこ公園で生まれた最初のコウホネの花になります。

 
 7月24日現在のコウホネの池





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6月 古川探訪のツアー「天現寺橋から東京湾浜崎橋まで」 

5月4日水曜日・快晴 「渋谷歴史散歩の会」を中心とする古川探訪のツアーは、総勢15人、渋谷駅に10時に集合。渋谷川に沿って走る都バス06(新橋駅行)に乗って、渋谷区と港区の境にある天現寺橋へ着きました。さあ、天現寺橋から東京湾浜崎橋まで歩いて出発! 橋の周りの暗渠の出口や土地の歴史を探りながら、およそ4.5kmの古川(渋谷川下流)の探訪です。その中から、数か所をピックアップしてご紹介します。

 

  古川周辺の地図と主な橋(古川は高速道路の下)

 

<古川探訪のツアーで立ち寄った主な橋と天現寺橋からの距離>

1.天現寺橋(10:20 a.m.)          8.小山橋(~2.2km, 12:08 a.m.)

2.狸橋(~200m, 10:37 a.m.)      9.一の橋(~2.4km)

3.四之橋(~800m)               10.赤羽橋(~3.0km)

4.新古川橋(~1.0km)        11.芝園橋(~3.5km)

5.古川橋(~1.3km)                12.将監橋(~3.8km, 14:32 a.m.)

6.三之橋(~1.6km)         13.金杉橋(~4.0km)

7.二之橋(~2.0km)               14.浜崎橋(~4.5km, 15:01 a.m.)

 

 <天現寺橋からスタート>

 

 
ツアーの初めに「渋谷川・古川清流の復活」         の看板を見る。



初夏の天現寺橋。ここで古川支流・
笄川暗渠が合流する。

 

<狸橋へ>  

天現寺橋を後にして明治通りを東に進み、ニュー山王ホテル前を右(南)に曲がり、少し裏手の狸橋に出ました。先日下見をした時には、何台ものクレーン車を使ってこの付近の河川整備工事をしていました。工事はほとんど終わり、南岸の壁にある四角い三田用水分水の出口跡は、きれいに白く塗られていました。狸橋の由来を記した石碑によると、「昔、狸橋のそばにお蕎麦屋があって、子供を背負い手拭いをかぶったおかみさんがおそばを買っていった。おかみさんが払ったお金は木の葉になった」そうです。


  

   石碑と、工事中の狸橋を通るツアーの一行(ⓒfukuda)

       

また、『三田評論』(2010年11月号)によると、江戸から明治初期にかけて、狸橋脇に「狸蕎麦」というそばの名店があり、福沢諭吉がよく食べに来ていたそうです。彼はこの場所が気に入り、明治12年、狸蕎麦の土地を購入して別荘を建て、それが現在の慶応幼稚舎の一部になりました。

                  

 <新古川橋へ>

狸橋から北里大学前を通り、四之橋わきを通って、新古川橋に着きました。明治通りではなく住宅街を通っていても、五月の強い日差しは今年の夏を予感させました。新古川橋は、干潮で川も干上がって暑そう。下見のときに、橋の脇の古川橋電気店のご主人からお話を伺うことができましたので、ご紹介します。

「川は昔よりきれいですよ。大きなボラがいるし、ボラの子供もたくさんいるし、蛇も良く来ます。カモも20羽ぐらいくるし、木が多いのでエサになる虫がいるからか、コウモリも夕方になるとたくさん出てきます。40年前にはネズミがたくさんいて汚かったが、今はきれい。ここは川風で涼しいから好きですよ。」新古川橋の川縁はエコな場所に変身したようです。今度は涼しい夕方に行ってみたいですね。



 <古川橋へ>  


 

 
古川橋から下流を望む



龍源寺の門前

次に古川橋の東50mぐらい三田寄りのところにある龍源寺に立ち寄り、ピンクの花が咲くきれいなお庭で休ませていただきました。龍源寺は臨済宗のお寺で、今から300年以上前、江戸時代の初期に創建されたとのことです。『江戸明治東京重ね地図』の江戸地図(安政3年)に、「水月観音・竜源寺」と記されて、脇には堀が描かれていました。以前にお寺の奥様から伺ったお話をご紹介します。

「昔、龍源寺には大きな松があり、松の木寺と呼ばれていました。その松が倒れた時は、向こうの川岸まで届いたという話があります。昨年103歳で亡くなった父は、お寺の脇を流れていた古川の支流で遊んだものだとよく話していました。以前は古川沿いの道に運送屋さんが何軒もあって、ありとあらゆるものを船で運んでいました。今でもそのうちの「ダイゴ運送」というお店が残っていますよ。ネジの工場もあって、ここに来れば、どんなネジでも手に入りました。」東京オリンピックの前の、まだ川を利用した運送業が盛んだった頃のお話です。お寺を後にして、前の通りを三之橋に向かって歩き始めたところ、その「ダイゴ運送」の看板を見つけて納得しました。



 <小山橋へ>

 

 
小山橋から上流(古川橋方面)を望む



小山橋で川の説明をする上野様と、ツアーの
仲間たち


小山橋では、橋のすぐ脇(東側)で青果店を営む上野様から、現在の川の様子をお聞きすることができました。「ふだんから川を気を付けて見ていて、川に落ちた子供や、上流から流れてきた人を今までに3回も助けたよ。川底まで届くロープを常備しているので、いつでも川に降りられる。(中略)平成11年8月29日の集中豪雨では、土嚢を一生懸命積んだが、近所で34戸が床上浸水した。」上野様は、今にも水が溢れそうな小山橋付近や地下鉄麻布十番の浸水の写真を見せて下さいました。


 

 
“止水板”をはめ込む上野様
(ⓒfukuda)



小山橋の脇に咲くピンクのブーゲンビリア
(2011.5.25)

「その後は消防に頼んで、警報設備や土嚢を常備してもらい、子供が橋から落ちないための柵も付けてもらった。子供は頭が大きいので、ボールが落ちたりすると下を覗き込んで落ちたりするからね。満潮になると、新古川橋の辺りまで海水が入るよ。満潮のときは水深2メートル、干潮のときは0メートルで、川底が見えます。川底から橋まで5メートルだが、水位計があって、水が3メートルの高さまで来ると警報が鳴り、役所の方へ連絡が行く。水位が高くなりそうだと、消防署から僕のところにも連絡が来るんだよ。」

橋から水が溢れてきそうな時に取り付ける“止水板”を出して、実演してくださいました。止水板の取り付けの手際がなんと鮮やかだったこと。最後に「こんなのも来るんだよ」と、蛇の抜け殻を乾かしたものを見せて下さってドッキリ。蛇は古川に棲んでいるそうです。「またブーゲンビリアが満開の頃に来てね」という言葉に送られて、お宅を後にしました。上野様、ありがとうございました。

 

  <一之橋へ>

 

 
一之橋



地下貯水池の看板

小山橋から歩き出して熱心に川を眺めている私たちに、若い女性の二人連れが、「何の見学ですか?」と聞いてきました。「古川見学のツアーです」とどなたかが答えたところ、「ええっ!」とほんとうにびっくりされたご様子。この一見ありふれた川を見学して歩くなんて、近くにお住いの方々には想像もつかなかったのでしょう。私たちもその様子を見て大笑いしてしまいました。

お昼の時間は、麻布十番の「永坂更科」本店でおそばをいただいてしばらく休憩。その後、地下貯水池を造成中の「一の橋公園」へ。古川の浸水をなくすために地下に造成している巨大な貯水池で、予定通り27年度に完成すれば、小山橋近くでの浸水も無くなることでしょう。(地下貯水池の工事については、「トピックス」2010.7.22参照) 

               

 <赤羽橋へ> 


 
 
「増上寺塔赤羽根」(『名所江戸百景』より)



















現代の赤羽橋から上流(麻布十番の方向)を望む 

次は東京タワーを左に見ながら、桜田通りにかかった赤羽橋に来ました。まず、広重により描かれた「増上寺塔赤羽根」(上図)を皆さんにお見せしました。この絵の右半分に描かれた赤い堂塔は、昭和20年5月25日の空襲で焼けてしまいましたが、現在の芝公園の中の「ザ・プリンスパークタワー東京」がある辺りです。『広重 名所江戸百景』(岩波書店)の著者ヘンリースミスによると、「絵の堂塔は、(中略)二代将軍秀忠の霊廟の一部で、(中略)2階建てのように見えるのは、実は5階建ての最上階の部分である」とのこと。日光東照宮とも並ぶ壮麗なものだったそうです。また、この絵の左側、古川の南側の有馬邸内には有名な目印が二つあったそうで、「ひとつは左手にそびえる江戸で最も高いと言われた火の見やぐら」で、絵の中では、木の茂みから空に黒々と突き出しています。もう一つは中央に6本の幟(のぼり)がはためく「有馬家の邸内社として有名な水天宮」で、「本国の久留米の水天宮の分社でとりわけ安産の効験あらたかなことで有名であった」そうです。有馬邸脇の川辺沿いの道には、長い土塀のような「なまこ壁」の長屋があって、その前で何人もの人々が歩いたり、輪になっておしゃべりしている様子が描かれています。それらの華やかな景色の真ん中に古川が流れ、赤羽橋が描かれています。今では首都高が、川の上に重なる形で走り、赤羽橋の周りは良く見えません。




 <将監橋>




 

 
将監橋から下流を望む



橋の脇の「瘡守(かさもり)稲荷大明神」

日比谷通りを越えて増上寺近くの芝園橋を通過し、将監橋に出ました。橋の両岸には色とりどりのつり舟が繋がれ、海が近いことが実感されます。ここで橋のたもとの「瘡守(かさもり)稲荷大明神」にお参り。神社の傍らに、元禄七年戌辰(1694)の銘のある納経石塔が建っていました。瘡守稲荷と石塔の説明については、「世田谷の川探検隊」もご参照ください。 http://tanken.life.coocan.jp/weblog2/?p=3947) 



 


 
「元禄七年銘  納経石塔」
(港区指定文化財)ⓒfukuda


銘文が刻まれた石塔背面



 <浜崎橋へ>

将監橋から金杉橋を通り、山手線のトンネルをくぐって、しばらく東京瓦斯ビルに沿った道を東京湾へと歩きました。「海岸通り」に出ると、すぐそこは、浜崎橋。14時58分に古川の河口に到着!天現寺橋からおよそ4.5㎞、5時間のお散歩ツアーでした。天現寺橋では10メートルもなかった川幅がここでは80メートルに広がり、そのまま海につながっていました。後ろを振り返ると、首都高のジャンクションの下から出る古川に、たくさんの船が係留されているのが見えました。皆さま暑い中をご苦労様でした。

 
 浜崎橋から首都高の下の古川を見る

   

 

 <ツアーの終わりに>

5月の強い日差しの下、88歳のご高齢の方も含めて、皆そろって最後まで歩き通しました。古川河口に着いた後、浜崎橋近くに復元された石垣の脇で記念撮影をしました。皆さんからは「楽しかった。」「川にこんなにいろいろな話があるとは!」「小山橋のお話しが圧巻だった」「後ろの方は説明の声が聞こえなかったので、もっと声を張り上げて欲しかった。」「歩行速度が遅い人にも配慮が必要」などの感想をいただきました。また皆さんとご一緒に渋谷川をめぐる散歩をしたいですね。(完)                           



 
発掘・復元された石垣の脇で記念撮影






集合写真の左手に写っている石垣、
(海岸1丁目特定街区建設工事の際に発堀
された石垣を保存のために移築して作ったもの
http://tokyominato.blog.shinobi.jp/Category/7/




ravel q

6月14日 最新版“渋谷川”の本のご紹介

『「春の小川」はなぜ消えたか―渋谷川にみる都市河川の歴史―』
田原光泰 著 (之 潮)   定価 (本体1800円+税)


2011年5月25日刊行
「“さらさら流れ”た清流は何処へ?「日本の典型的な都市河川」を徹底的に調査した原点。若者でにぎわう“キャットストリート”と呼ばれる道の下には、誤って落ちれば流されてしまいかねないほどの大量の水が、山奥の真っ暗な洞窟の中を流れるように轟々と音を立てながら流れている…」(本の帯より)
           

この度、渋谷川に関する解説書『「春の小川」はなぜ消えたか―渋谷川にみる都市河川の歴史―』が出版されました。出版社は地図の出版で有名な之潮(コレジオ)です。

私の川の師匠であり、白根記念渋谷区郷土博物館・文学館学芸員の田原光泰さんが書きました。さっそく本を読ませていただいたのですが、都市と郊外の境を流れる小川に過ぎなかった渋谷川が、時代と共に都心の大きな川に変貌し、そして産業の変化やオリンピックによる都市再開発を経て、次第に地下に埋められていく様子が、貴重な写真や地図を交えて、詳しく描かれています。大型の折込地図も付いている親切な作りで、貴重な参考文献がたくさん紹介されて川の研究に役立ちます。

先生は渋谷に生まれ、学生の頃から渋谷川を観察し、大学院では歴史学を専攻され、今日では学芸員として渋谷と渋谷川を研究されているという、まさに渋谷が生んだ渋谷川のプロフェッショナルです。2008年には、渋谷区郷土博物館・文学館で『特別展「春の小川」が流れた街・渋谷』を執筆・編集していらっしゃいます。

この本の出版を、渋谷と渋谷川が好きなすべての方々と共にお祝いし、ご一読をお勧めしたいと思います。


ravel p

6月13日 「発見!古川物語〜歴史編〜」
 ‐港区ケーブルテレビ『みなとクイックジャーナル』4月放映番組‐

「発見!古川物語〜歴史編〜」番組のロケは318日、あの東日本大震災の後でした。様子によってはキャンセルになるということでしたが、情勢に大きな変化は無く、予定通り。渋谷川沿いにロケ地の白金公園へと急ぎました。公園は、真っ青な空の下で、風は冷たくても、少し芝生の芽が出ていて春を感じさせましたが、不安な思いがぬぐえない中でのスタートでした。

一行はディレクター、カメラマン、助手の方そしてコメンテーターの岩田まこ都さん、私の
5人でしたが、途中から港区の広報室の方が参加され、総勢6人になりました。岩田さんには初めてお会いしましたが、チャーミングで、話をとても上手にリードして下さいました。


  
     
『みなとクイックジャーナル』のタイトル



白金公園のテラスから渋谷川を見る


最初に岩田さんにより、番組の紹介がありました。地域情報番組の『みなとクイックジャーナル』は新年度からより詳しく地域の情報・歴史や文化を紹介していきますが、先ず2回にわたり、古川の特集をしていくということでした。では番組を、順を追ってご紹介します。
                

話は「其の1 どこからが古川?」というサブタイトルで始まりました。先ず、古川の上流が渋谷川であること、渋谷川は渋谷駅南口で暗渠の川から地上の川になることが説明され、次に、渋谷区と港区の境にある天現寺橋まで画面が飛んで、ここから古川になることが紹介されました。



  
  
渋谷駅南口で暗渠の渋谷川から地上の川に




天現寺橋で港区に入った渋谷川は古川になる
                 

次に私の出番です。午前11時ごろ、カメラに向かって紹介された時は、上がってほとんど気絶しそうな感じでした。実は、前日にできてきた進行表を手に持っていたのですが、それでも私の話は横道に逸れてしまったり、肝心なことを言い忘れたり。


  
     
 斜めの光がさし込む川



白金公園橋、少し緊張して

白金公園の橋(白金公園橋)から川を眺めました。うららかな日差しの中で、小さなカメが一匹気持ちよさそうに泳いでいて、次第に緊張がほどけました。(番組の中では、カメさんではなくアオサギらしい鳥が写っていました。)

                 

<其の2 古川の形>

  
  
 かっちり曲がった現代地図の渋谷川



カーブしながら曲がる「寛永江戸全図」の
渋谷川

現代の地図を見ながら「昔からこんなにかっちりと曲がっていたのですか?」と岩田さん。何しろ、現在は古川橋のところで川はほとんど真北に曲がり、次に一之橋で、また眞東に曲がります。私は「寛永江戸全図」のコピーをお見せしながら「江戸の初期の地図ではこんな風に膨らんでいたんですよ。」と説明しました。「寛永江戸全図」は、有名な「正保の地図」よりおよそ1年前にできた江戸で一番古い地図ですが。「正保の地図」と違い、古川の下流部分がきちんと描かれています。上の二つの図は方位が違いますのでご注意ください。(方位は筆者)


  


       「寛永江戸全図」





「寛永江戸全図」の古川の下流部分

現在の古川橋の近くを通過した後、川は三之橋と二之橋の間で2すじに分かれ、一方が増上寺の南を流れて海に入り(地図の左側の赤線)、もう一方は増上寺の裏手に流れ込んでいました(地図の右側の水色の線)。その辺りは、支流も多く、川はどこに向かうのか分かりません。大雨が降ると川は溢れて辺り一面を水浸しにしたことでしょう。

                                  

 

次にナレーションで、渋谷川(古川)の水源である玉川上水が紹介されました。

  
     四谷大木戸の水番屋。玉川上水開渠の終点

玉川上水は承応2年(1653年)に江戸市中に飲料水を供給するため完成し、江戸に入る前に余分な水を四谷大木戸の手前で渋谷川へ流し始めました。それにより、水車を回したり舟の水路に使えるような、豊かな流れになりました。                   
                  

<其の3 古川沿いに名店?>

川の様子や名前も様々に、移り変わって行ったことが紹介され、広重の「広尾ふる川」(『名所江戸百景』)が登場しました。

  
   
広尾ふる川(『名所江戸百景』)
橋の向こうには当時の江戸の行楽
地、
広尾ヶ原(土筆ヶ原)
 





左の絵を説明する(この辺りから緊張が解けました)

名所江戸百景の研究者ヘンリースミスさんが、何もない原っぱだけのこの絵をなぜみんなが好きなのかと調べたところ、橋の左側にうなぎ屋さんがあったことが分かりました。狐鰻とか尾張屋と呼ばれていた当時人気のうなぎ屋さんで、いわば“花よりうなぎ”で行楽の後のうなぎが江戸っ子の楽しみだったそうです。


                 

<其の4 麻布に花畑?>

次に四之橋の近くにあった薬園が紹介されました。


    
 薬園坂を歩く


花癖だった2代将軍秀忠

2代将軍秀忠には「花癖」があり(「花癖」って面白い言葉ですね)、「麻布花畑」を作ったこと、3代将軍家光が中国などから輸入した薬草を研究するために御薬園を作ったが、5代将軍綱吉のときに、麻布御殿を作るので薬園を小石川に移転したことが紹介されました。現在の小石川植物園です。もったいないことに、麻布御殿はたった4年で焼失しましたが、その工事のおかげで古川は四之橋のところまで舟入の川になり、水運で、米、まきや炭その他あらゆるものを運べる川になりました。

  
  
    
「宝永三江都図鑑」麻布御殿の部分 



花盛りの小石川植物園

                                       
<其の5 古川に支流?>

次に、古川の支流である吉野川と桜川を紹介します。

吉野川は六本木の芋洗坂を流れた川です。かつてその一帯は日ヶ窪の谷と呼ばれていて崖からしみだす水が川になって流れていました。「吉野川という名前は素敵でしょ。そこを流れる水もとても澄んできれいだったのですよ。」「歩道の下を今も流れていて、一之橋の脇の暗渠の出口から流れ出しているんですよ。」吉野川は、軍靴が響く昭和の初期に暗渠になりました。(この近くにあった歩兵連隊が2.26事件とかかわったという話があるのですが、そのいきさつを説明しそこなったのは残念でした。)

          

           吉野川暗渠の出口(一之橋)

                                     

次に紹介したのは桜川と柳川、それぞれ芝公園の奥の愛宕山辺りと敷地の北の井戸から流れ出た川でしたが、初代広重の「東都名所・芝神明増上寺」の錦絵に描かれています。
          
           初代広重による「東都名所・芝神明増上寺」(全体

  
  
 
 大門の前を流れる桜川(上の拡大図)



現在の桜川暗渠の出口(将監橋)

これらの川が合流して大門の前を流れていたのが、初代広重により、「東都名所芝神明増上寺全図」に、描かれています。人々は皆門前の川を渡って増上寺に入り、お参りをしたことでしょう。今では増上寺の南にある将監橋のところで、クラシックなスタイルの暗渠の出口を見ることができます。ディレクターの方が見つけたのですが、画面の暗渠の口をよく見ると、暗渠の口の奥に板が張られていて、水が流れない様になっています。津波に備えて、海からの水が逆流しないようにしたのでしょうか。


                 

                                

ケーブルテレビの収録が何とか終わってホッとしました。あとから思うと言い足りないところだらけですが、番組の中で「寛永江戸全図」(1642年ごろ)と「宝永三江都図鑑」(1706年)を皆様にご覧いただけて良かったと思います。ともに貴重な地図ですが、「寛永江戸全図」は2001年から始まった調査により九州臼杵市で発見されました。玉川上水ができるおよそ10年前の地図で、江戸初期の地形がはっきりと描かれていて、まだ自然の形の渋谷川と古川が描かれています。それまで分からなかった武家屋敷名などが詳しく書きこまれているのも特徴です。

また、「宝永三江都図鑑」は、古川下流が金杉橋から一之橋まで舟入の川になってからちょうど30年後、また四の橋まで舟入になった直後の江戸全図です。武家屋敷や田畑、町、寺などと共に、渋谷川と古川全体がきれいに描かれています。いかにも区画整理されていることが感じられる地図です。これらの地図を見ると、江戸の町づくりのプロセスで、川の流れが作り変えられてきたのがよく分かります。

なお、この番組の続きである5月番組「発見!古川物語~歴史編2~」が次のアドレスで見ることができます。昔から土地に長くお住まいの方々の興味深いお話が聞けるのでとても楽しいです。ぜひご覧ください。

みなとクイックジャーナル 2011年5月号(Windows Media Player形式/50MB)



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ravel o

6月10日
 臨川小学校で“7代目”のホタル鑑賞会

6月6日に、渋谷区立の臨川小学校にホタルを見に行きました。臨川小学校は、渋谷川とその支流のいもり川が合流したところにある学校です。『あるく渋谷川入門』で臨川小学校付近の話を伺った「鳥政」のご主人が、“ほたるウィーク”のことを教えて下さいました。ご近所の方々が企画のお世話をしているそうです。

  
  「鳥政」の壁のポスター








奥が「ハラン」の茂み、手前が池の流れ
とドクダミ

さて、ホタルの会が始まる午後7時に学校に着き、裏庭の一番奥まで行くと、ザーザーと池の水の音がしています。ポンプの力で流しているのです。昔は近くを渋谷川が流れていましたから、こんな音がしていたのかもしれません。少し待っていると、辺りが段々に暗くなり、池の周りに植えられた「ハラン」の株の奥に黄色い小さな光がまたたき始めました。


  
  ようやく1匹をキャッチ!


ホタルを見る親子連れの方

辺りが真っ暗になると、何匹ものホタルが順番に光りだし、どんどん高く飛び始めました。見物人も増えて、皆、「来た、来た!」と叫んだり、写真を撮ったり。「ホッ、ホッ、ホタル来い!」と、抱っこした女の子に歌ってあげながら見ているお母さんもいました。「去年は手のひらに止まってくれたんですよ!」と。アベックの方の撮った写真には一度に4つの光が写っていましたが、私のカメラでは一匹しか写らなくて残念。

家に帰って、インターネットで調べたところ、臨川小学校の池は、平成17年度の「河川整備基金助成事業」(河川環境管理財団)により、昔ホタルが飛んだ「春の小川」を校庭に再現することを目的に作られたそうです。生徒たちが生物や環境に対して関心を持ち、皆で学んでいくことが目的の一つでした。PTA,学校、地域住民が協力して、かつてホタルが飛んでいた渋谷川の岸辺を、長さ約15mの人工の川の循環型ビオトープを作って再現しました。穴を掘るところから始めて、「春の小川」の象徴のスミレとレンゲを植え、野の植物ホトトギスやハランそして花菖蒲も植えて、「カワニナ」というホタルのえさの巻貝が住みつくようにしました。http://www.kasen.or.jp/seibikikin/h18/pdf/rep6-02h.pdf

副校長の宮田俊明先生のお話を伺うことができました。「この池は先代の校長先生たちが作られたのですが、今年は、流れの上に小さな柱を立ててそこにコケを生やして、アリなどにやられない場所に卵を産み付けられるようにしました。また向かいの建物が無くなったので、池が明るくなるのを防ぐため、そこに暗幕を垂らしました。カエルはホタルを食べてしまうので、カエルの卵を取り除いたりと工夫しました。うまくいくと来年はもっと増えるのでは…。」

「鳥政」のポスターには“7代目”のホタルとありましたから、1番最初の年に1年生だった生徒さんたちはもう中学1年生です。下の写真は、臨川小学校の玄関にあった6年生の「ホタルの学習」の発表です。題を紹介すると、ホタルの種類、ゲンジボタルの特徴、ホタルはなぜ光る、ホタルの一生、ほたるの食事、ホタルの発光について、ホタルの光の出し方、などなど。宮田先生には、貴重なお話をありがとうございました。

  
  
6年生の学習の成果



(終り)
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6月4日「渋谷川と渋谷地域に関する新しい情報-益井邦夫先生からのメール」

先日、渋谷の歴史を長く研究されている國學院大學の益井邦夫先生から、『あるく渋谷川入門』についてコメントのメールをいただきました。貴重なご指摘があり、また渋谷の興味深いお話しも含まれていることから、特に先生のご了承を得て、そのまま掲載させていただきますの、ぜひご一読下さい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

梶山公子様

略 貴著『あるく渋谷川入門』を拝読しました。まことに調査のご苦労お察しいたします。私は、付録「渋谷川をたどるお散歩ツアー」の「記録」201頁に記載の「國學院大學校史資料課」を長年運営して来た者で、渋谷の変遷を昭和20年代から眺めて来ましたから、大変興味深く読ませていただきました。多分、百周年記念館2階の展示室をご見学いただいたのだろうと思いますが、本書を読み、当日、解説に立ち会うことが出来なかったこと、誠に残念でした。ところで、139頁の「広尾中学校」の校歌「流れは清らかな渋谷川」は「太平洋に行く水の流れ静かな渋谷川」が正しいのではないでしょうか。ご確認ください。

112頁の「三田用水」のことですが、多分、記載もれと思われますが、駒沢通りの「鑓ケ崎」坂の切通しの上をかつて「三田用水」の水道管が渡っていました。その下を都電が走っていた写真が有るはずです。この記述が有るとよかったですね。

◆115頁の「三田用水」の分水は現在の防衛庁技術研究所内のプールにも使用され、そこで戦艦大和・武蔵の設計・試験が行われたと古老に聞いたことがあります。このプールは現在も使用されているようです。

◆渋谷の街がガラリと変わったのは東京オリンピック以後です。特に渋谷の街を世田谷区や目黒区在住の庶民が気さくにショッピングに来てもらえる街にしよう、と東急電鉄では「カタキ」の西武百貨店にも三顧の礼をもって渋谷への進出を呼び掛け、自らも大向小学校の跡地に東急百貨店を建てました(当時の朝日新聞などがこのことを詳しく紹介しています)が、今はその思惑とは異なる街に変貌し、中央街を歩くのも嫌いになりました。東急電鉄OBの方も「理想とはほどとおい」と嘆いていました。恋文横丁の賑わいや円山の三業地の三味線の音も懐かしくなりました。

◆ワシントンハイツ跡地にNHKが来てガラリと変わりましたが、変わらないのは、NHK正門前の「道」(井の頭通り)です。交通信号とバス停留所の有る場所の西側、三日月のように弧を描いている短い「道」は、かつてのバス通りです。ワシントンハイツが有った時代、織田フィールドの辺りにアメリカンスクールも有りましたが、その道はこのように台地にそってクネクネと曲がっていました。唯一面影を残している所です。渋谷川も宇田川も暗渠になる前の風景が、汚い川ながらも懐かしいですね。

◆最近、頓に渋谷川がマスコミに取上げられていますが、先年、東京都下水道局に、新宿区下落合の下水処理場の処理水が渋谷・並木橋交差点下で放水されているのを、東横線渋谷駅下、稲荷橋の所からの放水に変更することができないか、と要望しました。夏の暑い時期、川から立ちのぼる臭い匂いが辺りに立ち込めています。文化都市として相応しくないのでは、と伝えました。係りは「予算が無くて…、課題にします」と返事がありましたが、未だに旧態のままです。東横線が地下に入り、高架線を除去したあと、渋谷川沿いの緑化を東急は考えているようです。

◆テレビ番組で、よく「渋谷川は新宿御苑の池に発し…」と紹介していますが、貴著やNHKの「ぶらタモリ」では正確に「天竜寺の池」と紹介、そもそも新宿御苑の池は「玉川上水」の余水を引いて造った池で、このことは高遠藩の記録に残っています。池は後から造ったものです。渋谷川は玉川上水の余水を流すために、天竜寺の流れと繋げたもの。千駄ヶ谷中央線ガード下付近から四谷大木戸までの間は人工の掘割です。この史実を見落としています。

◆最後に、ご存じでしょうか?
添付した写真の銘板が新宿駅南口ー西新宿一丁目交差点(大江戸線新宿駅上)から代々木駅方向に向う道の左側(葵通りの反対側)にある「東京南新宿ビル」を入ったすぐ左側の壁に有ります。このビルの前がかつて玉川上水の「葵橋」でした。その解説文です。お気付きでないようでしたら参考になさってください。


ご活躍をお祈り申し上げます。

平成23528

國學院大學研究開発推進機構客員教授

益井邦夫


先生が添付して下さった「葵橋」の銘板です。

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益井先生、

この度は、『あるく渋谷川入門』をお読みいただきましてありがとうございました。またご丁寧な、しかも情報を満載したメールをいただきまして、心から感謝申し上げます。國學院をご訪問したのもいい思い出です。百周年記念館2階の展示室を、皆さんとご一緒にとても興味を持って見学致しました。またいつかご訪問できましたらその時はよろしくお願い致します。校歌の中の「渋谷川」の部分ですが、渋谷区発行の「校歌園歌全集」を調べたところ、正しくは「太平洋に行く水の 流れ静かな渋谷川」でした。ご教示をありがとうございました。渋谷区立西原小学校の歌詞にも「みなもと清き渋谷川 細くあれど一筋に」とあることを見つけびっくりしました。先生のメールはいろいろと貴重なご指摘があり、また渋谷の興味深いお話しも含まれていることから、私だけがお聞ききするのはもったいないと思いますので、私のホームページの「トピックス」というページに載せてよろしいでしょうか。先生のご了承をぜひいただきたいので、よろしくお願い致します。梶山公子

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梶山公子様

ご多忙のところご返信ありがとうございました。「トピックス」に掲載をとのこと、どうぞご遠慮なくお使いください。載せることにより、いろいろな方から新たな情報が得られることを期待いたします。

◆そこに書きました「三田用水」鑓ケ崎付近の写真については、現在、白根記念渋谷区郷土博物館・文学館で開催中の「渋谷を走った鉄道写真展」(423日~612日)に展示(昭和39年、改修中の三田用水と都電)されています(入江藤吉氏撮影)。この都電は⑧番で、たしか中目黒ー築地間を走っていました。都電が走っていた当時、都心の買い物や散歩に大いに利用しました。渋谷駅前の都電停留所がハチ公広場から東口に移動したのは昭和32年のこと。その春に東急文化会館がオープン、プラネタリュームも出来てよく通いました。同会館地下にはニュース映画館も出来、四六時中ニュースばかり映写、それを観て世間の流れ?を知りました。新宿追分付近にもニュース専門の映画館がありました。大変盛況で、よく通ったものです。ナレーターの竹脇昌作さん(元NHKアナウンサー)の声のフアンが多く、NHKラジオののど自慢大会ではよくものまねで出る方がいました。

◆渋谷東急文化会館が出来、しばらくして首都高速の橋の工事が始りました。橋造りの工法は西独逸が開発した、ヤジロベーに似た「デビダーク工法」というのだそうです。その工法の看板が工事現場に大きく書かれていました。毎日、両側に腕が伸びてゆくのを見ながら通学したものです。

◆新宿御苑のこと、ご存知のように、ここは高遠藩下屋敷跡ですが、内藤家当主内藤頼由が池を造ったのは安永元年(1772)以後のこと。その年229日に有名な「目黒行人坂大火」があり、被災した頼由は下屋敷に移り、その時、幕府の許可を得て玉川上水の余水を引き込みました。その庭を「玉川園」と命名しました。内藤家は上屋敷をその大火で失いました(この大火で大名屋敷169が焼失、江戸全体で死者14700人)ので、しばらくは下屋敷を再開発して上屋敷として使ったらしく、池もこの時に造られました。玉川上水は1653年に完成、その時、四谷大木戸で渋谷川と繋げ、大雨の際の余水を流しました。玉川園の完成はおよそ120年後のことになります。今の状態なら「渋谷川は新宿御苑の池に発し…」と見られますが、歴史的にはこれだけの時間差がありますから、「 」内の表現は余り使わないほうがよいでしょう。

◆下落合下水処理場の水を並木橋脇から流すようにしましたが、その際、都・下水道局は「 」の文章で案内板を立てました。そこで同局に修正を申し入れました。「いろいろ調べましたが、結局こうなりました。善処します」。随分、時間が流れて、漸く先年、造りかえられました。その水の出口を、暗渠から出たところの稲荷橋脇に移すことはぜひ実現して欲しいものです。この間の流は無く、夏の猛暑の時はひどい匂いが漂っています。国際都市渋谷を標榜しながら、区はどうしているのでしょうか?

お役に立てば幸いです。

平成2361

益井邦夫

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内藤家の玉川園の完成に至る詳しいいきさつを教えていただき、ありがとうございました。稲荷橋のところも、落合処理場からの水が流れると、川らしくなってしかも匂いもなくなり、本当に良いと思います。また、先生からご指摘いただいた広尾中学校の歌詞ですが、先のご返事にも書きましたように、これを調べている時に、渋谷区立西原小学校の歌詞が「みなもと清き渋谷川 細くあれど一筋に」であることを偶然見つけました。西原は渋谷川の上流(宇田川の支流)ですから、流れが細かったんですね。ここで、二つの校歌(いずれも二番)を紹介します。

 

広尾中学校校歌

太平洋に行く水の 流れ静かな渋谷川

親しい集いの日日(にちにち)を 

注いで学び舎 ここにたつ 

その名は広尾 その名は広尾

誉れあれ 母校広尾中学校

 

西原小学校校歌

みなもと清き渋谷川 細くはあれど一筋に

つらぬき進めば末遂に 海にもいたるぞ事々に

精魂かたむけ 当たらん我らも

いずれの歌詞も、海に流れ込むことがモチーフになっています。足元を流れる渋谷川が大海につながっていることで、子供たちもに大きな夢を持ってほしい、将来は立派な人になってほしいという願いが込められた歌詞のように思えます。当時の渋谷川が地域の人々と共にあったことが偲ばれますね。益井先生、貴重な情報と幸運なチャンスを与えていただき、ありがとうございました。(以上です)

◆最近、頓に渋谷川がマスコミに取上げられていますが、先年、東京都下水道局に、新宿区下落合の下水処理場の処理水がravel mave渋谷・並木橋交差点下で放水されているのを、東横

5月6日 「発見!古川物語~歴史編~」を港区のケーブルテレビで放映

港区のケーブルテレビ『みなとクイックジャーナル』の4月の新番組で「発見!古川物語~歴史編」が放映されました。渋谷川は、港区に入ると古川と呼ばれますが、区の境となる天現寺橋から、東京湾に注ぐ浜崎橋までの川の流れと歴史を紹介する面白い内容です。港区にお住いの方でなくても、「港区ポータルサイト」のインターネット版で見ることができますので、ぜひご覧ください。実は、その「前篇」の案内役を私が務めています(とても緊張しています)。

近日中にホームページ 『あるく渋谷川』の「トピックス」でも取り上げますので、どうぞお楽しみに。

http://www.city.minato.tokyo.jp/koho/video2011/ku_110405.asx




ravel c

4月25日 『あるく渋谷川入門』の登場人物(当時5歳)からのお便り


『あるく渋谷川入門』を出版して以来、読者の方々や友人からメールやお手紙を時々いただきますが、その第31「春の小川を散策して」に登場する、当時5歳だった鈴木博さまからのメール(47日)には、本当に驚いてしまいました。とても面白いお話なので、ご本人の承諾をいただいてご紹介します。


「初めまして。ご本読ませて頂きました。文中にも登場する鈴木みつ子の長男です。読み進めるうちにまさか母親が登場するとは夢にも思えませんでしたので、びっくりいたしました。かの川に落ちたというのは恐らく私の事だと思います。昭和31年頃でしょうか?すでにどぶ川と化していまして、たしか上流にブルドッグソースの工場が当時あり、その廃液が何の処理もされずに時々流れてきます。付近の民家はこの圧倒的なソースの臭気に包まれてしまいます。夏は臭気が上がりますし、けっしてあって楽しい川ではなかったですね、ですからあの歌碑が建った時にも驚いたのは私だけではなかったはずです。ちなみにあの歌碑が建っている前面道路は旧道で路面バスがかろうじてすれ違っておりました。文中の水源地や土地の凹凸など土地勘もあってよく理解できました。なるほどと思うことも、そうだったのかと思うことも存分に御座いました。」


  

  「春の小川」の碑(代々木5丁目)

ところで、私が鈴木さまのお母様を取材した日は、「渋谷歴史散歩の会」のメンバーと共に小田急線代々木八幡駅近くを歩いていました。昔と今の渋谷を対比させた写真集「渋谷の記憶Ⅱ」(渋谷区刊行)の中の「昭和31年・河骨川」の場所を探すためです。その場所を探し当てて、“あーここだ”と皆で話しているところに、ちょうどそこにお住いの奥さま(鈴木博さまのお母様)が出ていらしたので、ご挨拶しました。これからお買い物に出かけるとのことでした。会のメンバーは写真の場所が分かって一段落で、皆でお茶を飲むことになり、私も一緒にお茶を飲んでいたのですが、ふと奥さまの話が聞きたくなって、写真の場所に一人で戻りました。

呼び鈴を押すと、奥さまはもう家にお帰りになっていました。「先ほどおうちの前を通りかかった者ですが、河骨川についてお話を伺いたいのですが…。」と言ったところ、「家の前に流れていた川のことですか?」とおっしゃって、少し驚いた様子。そして60年前川が実際に流れていたころのことを教えて下さいました。それは、高野辰之が唱歌「春の小川」を作ってから、40年ぐらい後のお話でした。とても興味深い内容なので、『あるく渋谷川入門』から引用します。


  河骨川暗渠の道、私鉄小田急線沿い

「約60年前(昭和二六年)に、建売を買って一家で越して来たら、家の前に川が流れていたのでビックリ。もうそのころは木材やごみが流れていて、昔の面影はありませんでした。大雨が降ると水面が地面ぎりぎりまで盛り上がって、ごうごう流れて怖かったですよ。子供が五歳のころ二回、川に落ちました。行水をしていたときにたらいごと落ちましたが、浅かったので大丈夫でした。でもせっかくきれいになったのが、またぬるぬるになってしまって。近所の子供たちも良く落ちていました。」「昔の人の話では、蛍が飛んだりザリガニがいたりと、きれいだったそうですが。近くの橋は木でできていたのですぐ腐り、良く修理に来ていました。川の向こう岸には小道があって、その先に小田急が走っていました。当時はずっと畑で見通しが良かったけれど、こちら側には橋の上流は道が無かったので不便でした。川が暗渠になってからは暗渠を通って上流に行けるようになり、買い物が便利になりました。埋め立て直前の頃はねずみもチョロチョロしていたし、蚊もたくさんいたのですが、オリンピックのおかげで埋め立てて、便利になったし、清潔になって本当に良かったと思います。」(『あるく渋谷川入門』 64-65ページ

最初に紹介したメールの鈴木博さまとは、ここに登場した5歳の子供さんなのです。本を出版した後、奥さまに1冊お届けしたのですが、当時2回も川に落ちた登場人物がこの本を読まれて、私にメールをくださったという訳です。

その後、410日に再びいただいた鈴木さまからのメールには、現在の家の近くを流れる川について書かれていました。「現在、住んでいる近くでは野川が流れています。今日、お日柄もよく犬と散歩をしておりますと、両岸とも櫻が競うように満開でした。三々五々河川敷では弁当が広げられこれも満開でした。野川は23区を流れる河川の中でもメダカが生息する唯一の河川だと河畔の住民が自慢します。皆に大事にされた野川は幸せな川です。」

息子さんのお話に出てきた野川はJR国分寺駅近くから発する川で、崖から出るいくつもの湧水が集まってできています。これも不思議なご縁ですが、渋谷歴史散歩の会は413日に行われましたが、実はその場所が鈴木さまのメールにあった野川での花見でした。野川は桜やレンギョウの間を流れるきれいな川で、一日川辺の桜でうっとりし、写真にも納めてきました。江戸や明治には、渋谷川にもきっとこんなところがあったのでしょう。

  
  野川のさくら(2011年4月13日)

最近の渋谷川はだんだんきれいになっています。先日渋谷川の下流・古川の古川橋のたもとの方にお話を伺ったところ、「40年前よりずいぶん水もきれいになったし、1メートルもあるボラもいて、今ボラの赤ちゃんもたくさん生まれているよ」と話してくださいました。渋谷川・古川が、川の流域の方々に大事にされ、愛される川になってほしいと思います。鈴木さま、素敵なメールをありがとうございました。



ravel j

4月17日 ブラタモリで「渋谷 不思議な“谷”の都市」を放映(3月31日)


あの『ブラタモリ』で渋谷川が取り上げられました。東京の川のファンの多くの方がご覧になったと思いますが、番組のストーリーを簡単に紹介して、感じたことを少し述べたいと思います。

  
  稲荷橋に一行が登場


この番組はどこから始まるのかなと思っていたら、タモリさんが渋谷駅南口の稲荷橋に現れました。いきなり「渋谷川が臭い」とか「流れていない」と言うので、本当のこととはいえ、ちょっと複雑な気分。そこに渋谷区郷土博物館・文学館学芸員の田原さんが颯爽と現れてほっとしました。田原さんは私の渋谷川研究の師匠です。さっそく田原さんの案内で渋谷川の源流に向かって歩き始めました。渋谷川が地下を流れているため、東急東横の東館にはデパ地下が無いこと、宮下公園脇の駐輪場が実は昔は渋谷川だったこと、明治時代、川沿いに渋谷小学校があったことなど、面白い話を次々に紹介していきます。


キャッツストリートと“隠田の水車”こんなところに水車があったとは!

番組のストーリーは、渋谷は渋谷川が創った谷から始まったという構成で、「江戸切絵図」(1846年)に沿って源流へとさかのぼって行きました。渋谷駅の次は、おしゃれなキャッツストリートを通り、江戸時代に北斎が描いた“隠田の水車”の絵を紹介したり、隠田橋の跡を見たり…。私が今年1月に『日本を空から見てみよう』(テレビ東京、トピックス2月11日を参照)で渋谷川の暗渠を案内した時は、ご覧になった方もおられると思いますが、渋谷駅下の暗いトンネルの中だけで、ガスマスクもしていましたので、青空の下を歩いているのが少し羨ましかったです。


次にタモリと田原さんの一行は、暗渠の道に沿って北上して新宿御苑まで行き、御苑の塀の際に小さな流れを見つけ、それを渋谷川の源流と説明しました。次に「江戸切絵図」に沿って渋谷川の水源の一つである天龍寺に行き、井戸にしつらえた「水琴窟」に着き、地中から聞こえる水滴の音に耳を澄ませて、渋谷川の流れの話は終了。江戸情緒あふれる風流な番組構成でした。

新宿御苑の塀際の小さな流れ

「江戸切絵図」の天龍寺と池
タモリさんたちはここで田原先生と別れて、再び渋谷駅南口近く、明治通りと六本木通りとの間の静かな高台にある金王八幡宮に向かいました。金王八幡宮の辺りは、鎌倉時代の豪族渋谷氏の館「渋谷城」があり、渋谷の英雄「金王丸」がここで生まれたという伝説もあります。


國學院大學制作の模型「中世渋谷城」


「中世渋谷城」のCG


左上の写真は、金王八幡宮が所蔵している國學院大學制作の模型「中世渋谷城」です。金王八幡宮の門を映し出すうちに、テレビ画面はNHKお得意のCGになり、模型では杭(くい)だけの門が立派な門に変わり、門の中には、城というよりはたくさんの小屋が並び、周りに渋谷川とその支流が青く輝いて流れ始めました。渋谷川は、外敵から集落や人々を守る堀のようにも見えました。

実は『ブラタモリ』が放映される2カ月ほど前、この番組のディレクターとリサーチャーの方から取材を受けていました。その時に「渋谷城をCGにしたら面白いが、城が本当にあったかどうか分からない」という話をお互いにしていました。ここに多くの人が住んでいたことは間違いないですが、城となると、またスケールが違います。ディレクターの方は史実に近いところと考えて、城を集落にしたのかもしれません。
ところで、取材を受けていた時に、『江戸名所図会』(1834年)の中の聖輪寺にまつわる話(「千駄ヶ谷観音堂」)をCGにすることを提案しました。奈良時代のこと、現在の国立競技場近く、観音坂の上にあるお寺で行基さまが休んでいた時、夢の中に観音様が現れて、「谷にある古い木の株からご本尊を掘りなさい」というお告げがありました。谷とは渋谷川の谷のことです。そこで行基さまは、谷にあった木でご本尊を掘り出して、ここにお祀りしたという話です。当時の深い谷間を流れる渋谷川をぜひともCGで再現して見せて欲しかったのですが、残念ながら採用されませんでした。番組はその後、地下鉄銀座線がなぜ渋谷駅近くで高架になっているかを説明していました。東京の地下を通る地下鉄でも、渋谷まで来ると地上の高い所に出てしまうのです。渋谷は、渋谷川が創った“谷の町”であるということがよく分かりました。


「千駄ヶ谷観音堂」(わたし彩(いろ)の『江戸名所図会』より)*

       
番組の全体の印象として、画面が明るくきれいで、「江戸切絵図」やCGなどもたっぷり見せてくれて楽しかったです。リクエストをするならば、渋谷川の大きな水源であった玉川上水を取り上げてほしかったことです。渋谷川が水車や水路として歴史に名を残したのは、玉川上水の豊かな余水のおかげだからです。人工の水源よりも、自然の湧水を強調されたのかもしれません。

『ブラタモリ』の最終回で渋谷川を取り上げてもらえて本当に良かったです。このところ、不思議な偶然というか、渋谷川が連続して話題になりました。昨年11月は渋谷区文化総合センター大和田の伝承ホールこけら落としの『渋谷金王丸伝説』、1月にはテレビ東京の『日本を空から見てみよう』、3月はNHKの『ブラタモリ』です。渋谷川の“川神”も出番が突然増えて満足されていることでしょう。なお、4月は港区のケーブルテレビで「古川の歴史」を取り上げています。またトピックスでご紹介しますので、是非ご覧ください。*http://otonanonurie.image.coocan.jp/2006/02/0296.html




gama
2月26日 緑の中の蝦蟇(がま池)の姿

―NHKブラタモリ「発見!“伝説の水辺”三田・麻布」から―

昨年12月13日に、このホームページの「トピックス」で、がま池の歴史を紹介しましたが、その際、がま池がある敷地のマンションで取材を断られ、池の姿を間近に見ることができませんでした。折しも、最新のがま池の姿がNHKのブラタモリで放映されましたので、ご紹介します(12月16日放映)。がま池に面したマンションTHE HOUSE GAMAIKEの3階からの映像は、庭一面に池が広がり、周りは緑がいっぱいでした。

番組でタモリさんたちをがま池に案内したのは、上記「トピックス」で文章を引用させていただいた五味澄子さんでした。五味さんは、タモリさんたちを池に面したマンションの外国人夫婦の一室に案内しました。その時の池の様子をテレビ画面からご紹介します。



まずガマが特別出演


3階のベランダから見た池の様子


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池の中にはまだ湧水が残っています


 緑の水の中に泳ぐカメ

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緑の葉に映える赤とんぼ


水面に姿を映す桜の写真

 

「ここ高台ですけれども 湧水があるっていうのが不思議だって…。」という画面のキャプションが印象に残りました。この湧水は、渋谷粘土層の上を伝わって出てくる「宙水」と思われます。渋谷近辺では、水がしみこみにくい渋谷粘土層が、標高25m-30mのところに地層として広がっています。その上は関東ローム層で、渋谷区や港区に湧き出す水の多くは、渋谷粘土層の上を伝い、崖になったところからしみだしてきています。地図(国土地理院1万分の1)で調べると、池の南側、崖の上の駐車場辺りは標高27mで、池はそれより5mから10m低くなっています。地形の様子から考えて、渋谷粘土層の上を伝わってしみだしてくる水のようです。

季節が冬のせいか、登場したのは特別出演のガマでしたが、春になると鳴き声とともに一斉に出てくるのでしょう。がま池については、私も友人の方も取材を断られてしまい、近くで見ることができずに残念でしたが、今回の関係者の方のお話でもご苦労があったようです。ご尽力に感謝します。実のところ、がま池とその周りの緑がこんなに素晴らしいとは思いませんでした。池には、現在も、カメ、魚、鳥、虫が見られ、桜も美しいそうです。貴重な映像を間近に見ることができて本当に良かったと思いました。





2月ankyo
2月11日
渋谷駅の地下にひそむ渋谷川

―テレビ東京『都会の川SP渋谷川と道頓堀川』(2011年1月27日放映)から― 

昨年11月に「テレビ東京」の方から、突然連絡をいただき、『空から日本を見てみよう』という番組の中で渋谷川暗渠を紹介したいというお話でした。区役所関係の方をご紹介したのですが、ご都合がつかなくて、テレビ局の方のお勧めもあり、代わりに私が出ることになりました。


  
  暗渠の入り口がある稲荷橋(手前)

撮影の当日は、ディレクター、カメラマンなど、総勢6人。私の役割は、渋谷駅南口の稲荷橋から川に降りて、東急東横店地下の辺りの暗渠を案内することです。テレビ局が用意したヘルメットとレインコート・長靴姿になって、稲荷橋脇のステップをこわごわ降り、暗くて何やら異臭がする川に入り、ぬるぬるした川底を歩き始めました。ガスマスクもしていました!ナレーションで「ノリノリ」とか言われましたが、カメラは回っているし、川で転ばないようにと必死で、ガスマスクが汗でズレてきたり、それを手で押さえたり…。

入口から少し行ったところで、重装備のカメラマンの方が、「水が長靴の中に入った!」と叫んで、なんでこんなところで撮影するんだとつぶやいていました。川の端は乾いていますが、中心部は所どころ長靴がすっぽり入るぐらいの深さがあるのです。

稲荷橋の脇の川に降りるステップ
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暗渠の入口の様子、新水路の中に旧水
路の壁の跡が残っている(真中あたり)

転んだら大変と緊張の連続でしたが、そのうち慣れてきて、川底の段差、壁の様子、天井の構造などを観察しました。昭和36年‐昭和37年にできた暗渠の新水路(稲荷橋からおよそ100m)を歩いていくと、旧水路とつながる辺りで、川底が段差で70-80cmも高くなり、天井もそれまでの整備されたコンクリートから、斜めの鉄骨が入った不規則なものに変わりました。ちょうど東急東横店「のれん街」の下あたりでしょうか。天井と壁の上部には、様々なパイプの切り口や紐のようなものが残されていました。その辺りの場所が、地上のどこに当たるのか正確に分からないということで、テレビのシーンに使わなかったそうです。(残念!)また、天井の穴から透明な水がザーッと流れてくるところがあり、下には白い泡が溜まっていました。カメラマンは水中を写せる特殊なカメラで撮影していたので、その水を時間をかけて撮っていましたが、あの画面も出てきませんでした。

宮益橋の下の暗渠には橋の土台があり、そこは、天井から床まで高さ4mぐらいの大きなカーテンでぴったりと閉じられていました。カーテンには触らないということでしたが、ちょっと開けてみようという話になり、宇田川の合流口方向を見ることができました。その日は外は晴れていましたが、カーテンの向こうの暗渠は、どういう事情か濃い霧が立ち込めており、100m位先にあるはずの宇田川の合流口を、カメラが捉えることはできませんでした。でも私には、かすかに見えたような気がします。宮益橋の下で「この暗渠を見て、梶山さんの渋谷川のイメージはどう変わりましたか」とディレクターの方に聞かれました。これは難しい質問で、何と答えたらいいのでしょうか…。時代を追って様々な渋谷川の姿が頭に浮かびますが、暗渠となった今も、渋谷川はそこにしっかりと存在していることを確かめることができたと思います。

以下にテレビの画面にコメントを入れて、暗渠の中をご紹介します。


番組のタイトル
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東京湾の浜崎橋から新宿御苑に至る渋谷川の地図

番組の初めで、渋谷川がかつて東京湾から新宿御苑まで流れていたことが説明され、東京湾から流れをさかのぼる形でテレビのシーンが始まりました。そして、芝公園近くのセレスティンホテル(旧薩摩藩屋敷跡)の屋上の家や、ユニークな防災用品がある白金公園などの、渋谷川(この地区での呼び名は古川)流域の面白い形の建物や場所を紹介していきました。

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そして、「くもじい」と「くもみ」はついに稲荷橋のところにやってきました。そこで、「くもじい」は渋谷川が地下に入ることを説明するうち、川底で何やら準備をしている様子の人を見つけました。「くもじい」は川のほうに近づいて、その人が川の岸壁のステップを降りてゆくところを追いかけ、声をかけて、一緒に暗渠に入ることにしました。その人というのが、私です。



ステップを降りているところ



ヘルメットを着け、防ガスマスクを首にぶら下げて
出発です

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暗渠はクジラの口のように大きいです
 


ガスマスクを付けて(万が一のために!)

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『あるく渋谷川入門』を紹介してくださいました


入り口付近の水の様子


入口付近では、水はくるぶしのところぐらいですが、川底は砂利でデコボコ。すべりそうで緊張しました。                                              

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川底の謎のガレキや布


ぴったりと閉じられたカーテン、両脇は宮益橋の橋げた

内部に行くと、様々な“謎の物体”がいっぱいでした。恐れていたネズミはでてきませんでした。11月も末だったからか、コオロギ(らしい虫)が1匹壁に止まっていただけでした。

稲荷橋からおよそ300mで、渋谷川としての終点宮益橋の下に来ました。橋げたが両脇に残っていて通路は大きなカーテンでぴったりと閉じられており、その先へは進入できません。これより先は川ではなく下水です。

                          説明: C:\Users\kimiko\AppData\Local\Microsoft\Windows\Temporary Internet Files\Content.IE5\K1ZPXL7G\MC900348643[1].wmf 説明: C:\Users\kimiko\AppData\Local\Microsoft\Windows\Temporary Internet Files\Content.IE5\K1ZPXL7G\MC900348643[1].wmf             

仕切りの向こうをのぞいてみることにしました。中はどうなっているのでしょうか。カーテンの両端は壁ではなく、橋げたです。



重いビニールのカーテンを持ち上げる
いいい


カーテンを開けて見た景色、点々で描かれたところが合流口の場所

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昭和32年、上流側から宮益橋を望む

番組では、ここで昭和32年の写真が紹介されました。それは上流から宮益橋を眺めた川の写真で、赤い丸印は宇田川旧水路が渋谷川に合流した地点です。(渋谷区郷土博物館・文学館提供)

                    説明: C:\Users\kimiko\AppData\Local\Microsoft\Windows\Temporary Internet Files\Content.IE5\K1ZPXL7G\MC900348643[1].wmf

次は宮益坂下の写真で、宮益橋があったところです。私たちはちょうどこの下まで、暗渠を歩いてきたのです。



 現在の宮益坂下(地上)


赤い線は、暗渠になる前に宮益橋があった辺り

テレビの画面はこの後、渋谷駅西口のモヤイ像の周りで渋谷フラワープロジェクトとキャラクターの「くもっくるくん」を紹介し、原宿に向かって進んでいきました。番組はこの先も続きますが、暗渠の話はここまでです。

ところで、下の2枚は私の「お宝写真」です(テレビには出ていません)。私たちの暗渠での撮影は2時間半ほどかかりましたが、だれも転んだりすることもなく、稲荷橋に戻って、トンネルの脇で皆さんと盛り上がって、カメラマンの方に記念写真を撮っていただき、ハッピーエンドで終わりました。(以上です)



撮影を終った、スタッフと私
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kawakami
2月3日「渋谷川の川神」について‐鈴木英一さまのお話

昨年の11月27日に新作カブキ踊り『渋谷金王丸伝説』が渋谷区大和田の伝承ホールで公演されましたが、そこにはたくましい金王丸と美しい桜の精とともに、典雅な「渋谷川の川神」が登場しました。思いがけず渋谷川の川神に初めてお会いし、しかも、派手やかな舞台の真ん中に登場したことで、本当にうれしい衝撃を受けました。プロデュースをなさった鈴木英一さまにお話を伺うことができましたので、ご紹介します。


「渋谷カブキ音頭」リハーサル風景
(『渋谷金王丸伝説』パンフレットより)

「僕は千駄ヶ谷に生まれ育ちました。昭和39年の生まれなので、僕が生まれる前に渋谷川は大きく変わりました。僕は渋谷川を知らない世代なので、話に聞く渋谷川を、子供の頃からどういう川だったかと想像していて、渋谷川を追及してみたいと夢のように思っていました。今回、このカブキ踊りを作るために、何をテーマにしようかと思いましたが、金王丸は色々な人が出たり入ったりする渋谷の街のヒーローなので、渋谷の作品を作ろうと思うと、金王丸であり、渋谷川だと思いました。」

「渋谷川は都市の中を流れているが、暗渠になっているので、その中には、深いものがありそうな感じがして、川の神様のキャラクターが出来上がりました。自分たちの祖先を育んでくれた水は大事です。水は土地を育み、すべての人間は渋谷川の恵みを受けているのです。桜は金王八幡宮の伝説があるし、渋谷川とともに渋谷の柱のような存在なので、子供から大人までもっと認識してもらいたいと思いました。染五郎さんも南麻布に住んでいて、渋谷川とは縁が深いんですよ。ハチ公も金王八幡宮も渋谷川も知らない子供たちが多いいから、これからもそういう話を作っていきたいと思います。」

鈴木さまは、早稲田大学講師でいらっしゃると同時に、常磐津の和英太夫師でもあり、今回も祝言『寿金王桜三番叟(ことぶき・こんのうざくら・さんばそう)』の浄瑠璃を謡われました。渋谷カブキ音頭も鈴木さまの作詞で、渋谷の川と街にとても愛着を持っていらっしゃるのが印象的でした。これからも渋谷に関して、ぜひ舞台芸術を発表していただければと思いました。



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1月19日 新作カブキ踊り『渋谷金王丸伝説』に現れた渋谷川の川神

昨年の11月21日、渋谷区桜丘町にオープンした「渋谷区文化総合センター大和田」に、新作カブキ踊り『渋谷金王丸伝説』を観に行きました。伝承ホールの杮(こけら)おとし公演で、プロデュースは早稲田大学講師で日本文化にくわしい鈴木英一さん、渋谷金王丸を演じたのは市川染五郎さん。渋谷に住む公募出演者の方々、およそ40人によるにぎやかな歌と踊りもありました。


  
 
渋谷区文化総合センター

渋谷金王丸は、渋谷の地名の由来ともなった中世の豪族で、渋谷の伝説的な英雄であるとともに、全国にもさまざまな言い伝えを残しています(*1)。今日は金王丸のどんな物語を見ることができるのでしょうか。わくわくしながら会場の席について周りを見渡すと、川の流れを描いた黄金色の緞帳が目につきました。「渋谷川を表したものかしら」と思いながら向こうの桟敷席を見ると、白根渋谷区郷土博物館・文学館の方が座っておられました。ごあいさつすると、「今回の公演は、郷土博物館・文学館もいろいろと協力したので、とても楽しみです。」というお話でした。


  
 
緞帳「水辺の朝」金色が渋谷川(?)の流れ 

客席が暗くなり、まず、新しくできた舞台に命を与える「一番太鼓」が奉納されました。おなかにずしんと響くような音で、新しく作られた舞台だけで演じられる習わしだそうです。舞台の緞帳が上がると、男女二人の踊り手が静かに立っていました。プログラムを見ると、出演は「渋谷金王丸」「渋谷川の川神」「桜の精」。なんと、渋谷川の川神が、3人の踊り手の一人としてカブキに登場しています。渋谷川の研究をしている私としては、「晴れの舞台おめでとう!」と心の中で声をかけてしまいました。


  
 当日のパンフレットの表紙に金王丸が
 描かれている

<第1幕>は、祝言『寿金王桜三番叟(ことぶき・こんのうざくら・さんばそう)』。三味線と歌と舞で「1000年の昔、武蔵の国、やもりの庄。所々に水あり。聖なる泉を讃うべき...」と始まりました。尾上青楓さんが演じた川神は、典雅なはかま姿で、常磐津に合わせて品よく踊ります。「そもそも我は八幡宮が遣わした、この川底深くに住む川の産土神(うぶすながみ)に候。」すると桜の精が「この地に千年生うる桜にて候」と続けました。尾上青楓さんは、おそらく渋谷川の川神を演じる初めての方ですが、なんて端正で美しい川神でしょう。尾上京さんが演じる桜の精も優雅でした。桜の精は、おそらく渋谷の金王八幡宮の金王桜がイメージされているのでしょう。川神と桜の精が「あーら、めでたや、めでたや」と歌いながら、二人で協力して、7年も懐妊されていたという金王丸をこの世に生まれさせると、突然舞台の様子が変わって、金王丸が舞台の奥から這い出してきました。音楽もアップテンポになり、染五郎が演じる金王丸は、強そうで元気一杯です。川の精と桜の精も、金王丸と一緒になって舞台いっぱいに踊りました。

<第2幕>は『新作カブキ踊り KONNOHMARU伝説』。渋谷のラップ界のスター、ケーダブシャインさんの軽快な音楽と、ひたすら走る元気なカブキ踊り(染五郎さんが歌舞伎の原点を見つめなおすために始めたそうです)のコラボです。家宝の霊玉をなくしてしまった金王丸が、川神と桜の精と一緒に、玉を探して走り回り、リズミカルな舞台でした。その間に、桜子ちゃん(桜の精)にプロポーズした川の神がフラれてしまい、「なんだか水臭い」というと、「お前は最近泥臭いよ」と言われて観客席も大笑い。強そうで男前の金王丸の方が好きになったようです。私も渋谷川の暗渠のことを思い出して笑ってしまいました。3人で海や空に行って霊玉を探すが見つからない。ついに川神が、間が悪そうに言い出したのは、「なんだか川の底が重いと思っていた。実は...。」なくした玉は、川神が隠し持っていたのです。真面目そうな川神も結構面白いキャラクターです。めでたく玉を見つけてからは、金王丸がその玉を持って、皆で主君の仇を討つために世界に乗り出していくという筋書きでした。


  

 
金王桜が美しい渋谷の金王八幡宮

<最後の幕>は、小学校1年から、76歳までの38人の公募出演者の方々が踊る「渋谷歌舞伎音頭」でした。鈴木英一さんの作詞で、「ふるさと渋谷の幕開きは、とうとうたらり 神の水 春の小川はさらさらり 回る水車は 大舞台」と、渋谷川が渋谷の地の始まりとして歌われていました。杮落とし公演パンフレットの鈴木英一さんの文には、「これまでの伝承に基づきながら、新たな伝説づくりをしたい」と書いてありました。渋谷川の川神が主役に準じて出てくるのも、渋谷川が渋谷の発展にとって欠かせないとのお考えからでしょう。

という訳で、思いがけず渋谷川の川神にお会いし、新作カブキ踊りの迫力に圧倒されて会場を後にしました。いつも街の裏通りを流れている渋谷川が、晴れの表舞台に立った記念すべき日であったと思います。渋谷川の心のようなものにも触れた気がしました。素晴らしい舞台を見せて下さった市川染五郎さんを初めとする出演者の方々、そして鈴木英一さん、本当にありがとうございました。 

*1 金王八幡宮の社記によれば、金王丸は、それまで子宝に恵まれなかった中世の武士渋谷重家が渋谷八幡(金王八幡)に祈願したことにより誕生したとされています。歌舞伎などの芸能では、勇猛果敢な武士として描かれ、また、一番最初に金王丸が出てきた『平治物語』では、源義朝の仇を討つために奮戦し、その最期を知らせに常盤御前のもとに駆け付けた忠実な従者として描かれています。(詳しくは、渋谷区郷土博物館・文学館発行の『伝説のつわもの 渋谷金王丸』を参照)




TVravelw

1月16日 「1月27日(木)」にテレビ東京で渋谷川の特集番組を放映!

テレビ東京が渋谷川を取り上げることになり、私もほんの少しだけですが、顔を出す予定になりました。今月1月27日、夜8時(正確には7時58分)からの『空から日本を見てみよう』の「渋谷川・道頓堀川を空から見てみよう」です。撮影の様子や内容について色々と面白い話があるのですが、どこまで放映されるかわかりませんので、番組放送後に、皆様に様子をお伝えしたいと思います。どうぞ番組をご覧いただければ幸いです。
  
   稲荷橋と渋谷川(お正月に撮影)

ご挨拶が遅れましたが、『あるく渋谷川入門』を出版しておよそ7か月がたち、新たな年が始まりました。これからもよろしくお願い申し上げます。




ravelx

12月20日 ビール工場のオブジェ  

クリスマスにちなんだ話題をひとつ書きます。恵比寿ガーデンプレースに散歩に行った時に、奇妙な形をしたオブジェに改めて注目しました。『あるく渋谷川入門』の5章5「ビールの町恵比寿の分水」で触れたように、ここには、三田用水の田道口や銭噛窪(ぜにかみくぼ)口から水を引いた日本麦酒醸造会社(現在のサッポロビール)があり、明治22年に日本の草分けの恵比寿ビールを製造していました。

  
 サッポロビール本社脇の謎のオブジェ

加計塚小学校の前から入ると、サッポロビール本社脇に、花の浮島がのんびりと浮んだ水の空間があり、そこにニョッキリ茶色い物体が立っています。一体このオブジェは何でしょうか。見渡しても何の説明もありません。前から目にはしていた茶色いオブジェですが、気になったので調べてみました。オブジェの高さは上に光る避雷針を入れて5メートルぐらい。幅は2メートルぐらいで、金属製のかぶとみたいなものです。サッポロビールとドイツの中世の騎士たちと何か関係があるのでしょうか。このオブジェについて、広報室にうかがってみると、騎士のかぶとではなく、製麦場の煙突の頭の部分で、大正2年に輸入したドイツ製のものだそうです。製麦場とは、最初麦を水に浸し、次に高温で乾燥させて、麦から麦芽を作るところ。その煙突の名前はその様子のとおりで、「兜煙突(かぶとえんとつ)」。恵比寿工場の煙突に実際に付いていたものを記念にそこにおいたそうです。インフォメーションの方に話をうかがうと、兜煙突は、風によって向きを変えることで、煙突に雨風が侵入しないように、煙突の頭に付けられていたものだとか。

  
 
恵比寿工場の煙突(ビスビール記念館より)

家に帰って兜煙突について調べて見ると、Wikipedia―USA の Chimneyの項に、Chimney pots (煙突の被り物)という項目があり、それは、安価に煙突を高くするため、また煙突の排気の性能を改良するため、鳥が巣を作るのを防ぐため、そして煙突から雨が振り込むのを防ぐなどの目的で、煙突の先端に付けられていたということでした。その中に、修道士の頭巾の形をしているところから「煙突頭巾(a chimney cowl)」または風向きキャップ(a wind direction cap)と呼ばれるものがありました。それは、ヘルメットの形をしていて、風に合わせて向きを変え、煙や風が煙突の下方に逆流することを防いだそうです。確かにサッポロビールの兜煙突もそんな様子です。
イギリスの会社ですが、デービス・ブラザーズ・エンド・カンパニー社がちょうどその頃(1910年)に出したカタログの煙突頭巾の写真が、イギリスのMuseum siteに出ていたのでご覧ください。ヨーロッパには“煙突の文化”があるんですね。

  

  
煙突頭巾の写真(デービス・ブラザーズ・エンド・カンパニー社のカタログより)

後日に、ガーデンプレースに出かけたときに、兜煙突は、以前と違う方向を向いていました。今は涼しい水の上で風を追っていますが、昔はビールのもとの麦芽を作るために、ずっと風に合わせて向きを変えていたのでしょう。今日は渋谷川の話題から少しそれてしまいましたが…。

参考: 
http://www.localhistory.scit.wlv.ac.uk/Museum/metalware/daviesbros/daviesbros01.htmhttp://www.localhistory.scit.wlv.ac.uk/Museum/metalware/daviesbros/catalogue.htm

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クリスマスと掛けて何と解きますか?
ヱビスビールと解きます。
その心は、
エントツからのプレゼントです。
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ravely

12月13日 資料と証言から見る「蝦蟇(がま)池」の移り変わり

1.蝦蟇池からの流れ

<現在の池の姿>

麻布の「蝦蟇池」(以下、がま池と書きます)は、江戸時代には、池に住む大ガマが火事を吹き消して旗本山崎主税助治正の屋敷を守ったという伝説*1も伝えられる大きな池で、現在もその一部が残っています。前回、9月25日の「スイカを冷やした清水が麻布に」では、がま池の水が宮村児童遊園の辺りに流れ落ちて吉野川に向かったルートを探りました。その際に、ご近所にお住まいの方のお話から、昭和35年ごろにはすでに川が流れていなかったことを知りました。明治16年の地図にはがま池からの流れが描かれていますから、昭和35年までの間に流れが消えてしまったことになります。がま池からの支流はいつ頃、どのように無くなったのでしょうか。またがま池は現代まで、どのような歴史をたどったのでしょうか。

がま池の歴史を調べる前に現在の姿を確かめようと、がま池がまだ残っているマンションに行きました。管理人の方に交渉したのですが、残念ながら中には入れていただけなかったので、池の南側の崖にある駐車場奥に行き、下のがま池を眺めました。うっそうとした竹の中に青い水面が見えて、イメージが膨らみますが、大きさや形がよく分かりませんでした。

この近くに「がま池」やその流れについて話してくださる方がいらっしゃるといいのですが。辺りはお屋敷やマンションばかりで人気がありません。そこで、がま池の下にある本光寺のご住職さまに思い切ってお電話したところ、快くお話を聞かせていただくことができました。
  
    駐車場からの池の眺め

<本光寺住職様のお話>

「お寺がここに移ってきたのは300年ほど前のことで、現在の麻布学園のところが、当時は大隅山という名前で呼ばれていました。寺は、山を削り、谷を埋めて土地を開墾してここに落ち着きました。崖の下の土地を人々に貸し始めたのは大正10年ごろですが、その頃そこに川が流れていたという記録はありません。ただ、その辺りは雨が降ると水がたまりやすいところであったし、がま池の水も大雨のときは流れだしていたのかもしれません。本光寺には昔からの井戸がありますが、水が枯れたことがないので、今でもポンプ式に変えて使っています。水が豊かな土地柄ですね。がま池については、この地域の再開発の時に、周りの人々が港区に保存を頼んだ経緯がありますが、駄目でした。」

  
    本光寺山門

住職様のお話から、がま池からの流れは、大正10年にはすでに無くなっていたらしいことが分かりました。この辺りの開発が始まるのは昭和に入ってからで、その影響で昭和の中ごろに無くなったと推測していたのですが、もっと早い時期に流れが途絶えていたことが分かりました。次にがま池の大きさの変遷をたどります。


2.がま池の大きさの変遷

<江戸・明治時代のがま池>

がま池の大きさを昭文社のMAPPLE地図で見ると、池は、現在、縦横が25×20メートルほど(約150坪)です。昔はどの位の大きさだったのでしょうか。古地図を時代を追って比べてみます。まず、『江戸明治東京重ね地図』(APP社) の江戸地図*2を見ると、「がま池」は伝説の山崎主水助の屋敷内にはっきりと描かれています。縮尺から推計して1000坪前後でしょうか。次に、明治16年の地図*3を調べると、『重ね地図』と同じような形の池ですが、たて80‐100メートル、横30メートル弱の長四角に近い形で、より細かく描かれています。この地図での大きさは800坪前後と考えられ、吉野川への支流も描かれています。江戸地図のがま池は明治16年地図のものより太めに描かれていますので、江戸後期から明治16年までに、少し小さくなっていた可能性もあります。 


江戸地図より

明治16年の地図より

東京市麻布区全図番地界入(大正13年)

昭和16年の『麻布区詳細図』より
                
次に、大正13年の地図を見ると、池は渡辺子爵邸の中にあるはずですが、私有地のためか、地図の中には描かれていません。昭和8年の『東京市麻布区地籍図』*4も同様に池が描かれていません。次に、昭和16年の『麻布区詳細図』*4の地図(上図)を見ると、池は明治16年のものと同じような形をしていますが、大きさは一回り小さいようで、これまでにない特徴は、池の周辺に道が作られ、真ん中の島とそこに続く道(または橋)が描かれていることです。池の周辺の整備がかなり進んでいる様子です。

<昭和2年からの開発>

次に、昔のがま池について書かれた資料を紹介します。『港区 私と町の物語』*5によると、「(前略)昭和2年に池の一部を埋め立てて分譲地として販売したため池は縮小され、戦後さらにマンションを建設するため池が埋め立てられた。(後略)」とあります。その本の中に登場する五味澄子さんの話では、昭和12年のころには、まだ、広々とした池にはコイがたくさん泳いでいたそうです。

もう一つの資料『麻布本村町』*6には、昭和の初め筆者の荒潤三さんがまだ子供のころの話が書かれています。筆者ががま池があった渡辺家の前を通ると「自動車にひかれてぺちゃんこになった蛙の哀れな姿があちこちに見られた。まだひかれたばかりで血の流れているのや、ひからびて干物のようになっているのもあった。」「はるか昔からがま池からはい出てきた蛙たちは、今は『麻布野球場』『有栖川宮記念公園』となっている所にある大きな池の間を行ったり来たりしていたのだろうか。やがて、人が住むようになり…」。その辺りが、かつてはカエルの天下だったことに触れ、開発されて分譲地になってからは、「縮小された池の蛙はもう道路に出てくることもなく、ひかれた姿もなくなった。」と話を結んでいます。

   

  

  
蟇ヶ池( 麻布鳥居坂警察署誌)昭和6年;  がま池 昭和34年;池の奥には四角い建物
  全てが自然の中の景色           

『写された港区 3(麻布地区編)』*7(港区、2007年)を見ると、その中に「蝦蟇池」の風景写真が2枚入っていました。昭和6年のものと昭和34年のものですが、昭和6年の写真(「蟇ヶ池」 麻布鳥居坂警察署誌)では、湖の手前に蓮の葉が重なり、奥は雑木林である様子で、全てが自然の中の景色です。次の昭和34年の写真は、池を囲った低い生垣の外から写したもので、池の奥には四角い建物が建っていて、その背後には数軒の家々の屋根が重なっています。昭和34年前後の東京は、池田内閣は高度成長を掲げ、昭和33年に高速道路の計画が答申され、それを受けて、35年から一気に高速道路建設が進んでいきました。また33年には元紅葉館跡に東京タワーが建築されました。高度成長による道路建設そのほかの整備は、静かな土地だった麻布の地域、そして「がま池」に、この2枚の写真に見られるような大きな変化をもたらしたようです。

          
    
MAPPLE地図で見た現在の池

 近代地図を調べると、グーグルやヤフーには池が描かれていませんが、MAPPLE地図にははっきりと描かれています。現在(2010年11月)のがま池は、前にも書いたように、およそ縦25メートル、横20メートル(約150坪)です。どんどん小さくなって、明治16年から比べると、5分の1以下になってしまいました。平成の時代になってからも、マンションの建て替え工事など地域の開発によって、さらに小さくなっているようです。五味澄子さんは、先の『港区 私と町の物語』の中で、「平成12年、蝦蟇池の所有者が変わり、新しいマンションが池の半分を埋めて建ってから、春になってもまだ鯉の姿を見ておりません。」と書かれています。何かの機会にマンションのオーナーにお願いして、実際に池を確かめてみたいものです。

*1「その昔、旗本山崎主税助治正の屋敷内の池に棲む大がまが、夜回りに出た家来を殺した。がま退治を決意した治正に、がま は白衣の老人となって夢枕に立ち、罪をわびて防火に尽くすことを誓った。その後、文政4年(1821)7月2日、麻布古川より始まった大火が山崎邸を焼かんとする折りしも邸内の古池から一匹の大蝦蟇が忽然と現れ、水を邸に吹きかけて猛火を退け山崎邸だけが火災よりまぬかれたのです。世の人々、この奇端を感じて山崎家にお守り札を乞う者が後を絶ちませんでした。このお守り札が「上の字様」と称され、江戸時代には芝赤羽橋の有馬邸から出された水天宮の御守と並び称されたものです。」(「麻布七不思議+α」http://jin3.jp/7fusigi/gamaike.htm#topより)「夜回りに出た家来を殺したから」というかわりに、「皿に盛りつけたお菓子を持って行って食べてしまったから」というかわいいバリエーションもあります。
*2『江戸明治東京重ね地図』(APP社、)の中の江戸地図は安政3年1856年度実測復元地図。

*3「東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍」図(明治16年10月)

*4『東京都港区近代沿革図集‐麻布・六本木』(東京都港区立三田図書館、昭和52年)

*5『港区 私と町の物語(過去と未来をつなぐ、人と人をつなぐ 下巻)』(港区、2007年)

*6 荒潤三『麻布本村町』(ラ・テール出版局、1995年)

*7『写された港区 3(麻布地区編)』(港区、2007年)


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10月28日 広尾橋近くに笄川の跡を探る
     -広尾タワーズのオーナー磯野さまを訪問して
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「渋谷歴史散歩の会」の友人から、広尾橋交差点近くの広尾タワーズの敷地に笄川の暗渠が残っているという話を聞き、早速現地に行ってお庭の様子を外から拝見しました。窪んだ土地に、緑の木々や下草が豊かに生えています。ここが川の跡であるとすれば大発見ですが、証拠のようなものは残っているのでしょうか?

  
外苑西通り(西麻布側)から広尾交差点を見る。正面は
広尾タワーズ。その手前は三菱東京UFJ銀行。


笄川については、『あるく渋谷川入門』で、青山・梅窓院からの流れ、根津美術館からの流れ、また蛇ヶ池からの流れなどをたどりましたが、広尾近くの流れは資料が見つからず、詳しくは書けませんでした。ここは思い切って「本の丸」へと決心し、図々しくも磯野不動産の社長磯野謙蔵さまにインタビューを申し込んだところが、お受けいただけるとの連絡があり、大喜びでお話を伺いに出かけました。

お会いしたのは、広尾プラザの4階の社長室で、明るいお部屋には、磯野不動産の社員の方々が野球大会や水泳大会を楽しんだ時の集合写真が何枚も飾ってありました。ドキドキしながら待っていると、しばらくして、優しそうな立派な紳士が入っていらっしゃいました。大正7年に生まれ、今年92歳になられたという磯野さまは、スーツ姿で背筋がピシッと伸びて、とてもご高齢には見えません。そして穏やかな口調で話を始められました。

「現在のタワーズの場所にあった屋敷に生まれて、それから92年間、兵役に行った4年間以外はずっと広尾に住み続けてきたから、僕ぐらい広尾のことをよく知っている人はいないよ」と言って笑いました。「この土地は僕のおじいちゃんが堀田家の下屋敷を買って手に入れたのが最初だった」とも。ちょうど4歳の時、広尾タワーズの場所にあった旧磯野家の前のお庭で、お母様やご家族と撮った写真を見せていただきました。翌年が関東大震災だったそうです。磯野さまからは、その頃の笄川と人々の様子を伺うことができました。

「外苑西通りは、当時電車の軌道だけの細い通りだったが、そこから今のタワーズの場所にあった屋敷の中に川が流れてきていた。電車の駅が広尾橋といったので、川は広尾川だと思っていたが、呼び名はただの“川”だった。きたない川だったので、入って遊ぼうなんて気も起きなかったよ。川にはごみがたくさん捨ててあり、金物を拾う人たちが川伝いに屋敷の中に入ってきて、ごみの中の金物を拾い、そして川伝いに出て行った。何をしてるのかと思ったものだよ。川の幅は5mぐらいで、中を覗き込むと、かなり深くて怖いようだった。屋敷の中では、川に橋が2本かかっていた。1本は立派な橋で、もう1本は丸木橋だった。庭に池もあったが、そちらには橋が3つかかっていたし、和船も浮かんでいて、乗って遊んだこともあるよ。池のほうがきれいで、写真も残っている。戦争中は食料がなかったので、近所の人が池の鯉やフナを釣って食べたようだ。」

「ちょうど二十歳の時に、広尾神社に戦勝祈願して出征した。フィリピンに行くはずだったのだが、海峡でアメリカ海軍に追われて、台湾のキールに逃げ込んだ。フィリピンに行っていたら生きては帰れなかっただろうね。その後、米軍は台湾には攻めて来ずに、沖縄を攻撃した。そんな訳で無事に帰ることができたというわけだ。もちろん広尾神社にお礼のお参りをしたよ。」
「この辺りは、今も住宅街であるということを除いてほとんど変わってしまったが、お寺や神社だけは変わらない」。そうおっしゃりながら、出征の時の写真を見せてくださいました。何十人もの方々の真ん中で写真に写っている磯野さまを見て、戦前はこういった様子で若者が出征していかなければならない大変な時代だったと思いました。磯野さまが元気で戻られて本当によかったです。

私が「広尾タワーズの木やシェ モルチェ*の庭の木は緑が濃くて立派ですね」と申し上げたところ、「木は時間がかかるからねー」と目を細められました。
「シェ モルチェのレストランの側の庭は木が茂っている。当時の川は外苑西通りの下で、今は跡が全く無いが、この辺りに笄川が流れていたのだから、いつか水を流したいと思っているよ。循環では不自然だからねえ。どうしたら流せるかだ。」

  
レストラン シェ モルチェとその前庭に広がる緑のくぼ地

「天現寺橋には玉電の終点があった。四谷3丁目に行く市電の7番も通っていたが、その車庫の跡が今は都営住宅になっている」と、広尾橋の隣の天現寺橋の辺りのお話をしていて、突然「あなたは何故、川の研究をしているのかな?」と聞かれました。少し戸惑いながらも、「川と人とのつながりも知りたいし、また、渋谷川に注意を惹き起こして、少しでも川辺をきれいにすることで、都会の環境を、良くしていきたい」といった拙い考えを述べました。すると磯野さまは、「そうだね。ぼくもシェ モルチェの前庭に川を流して、笄川を復活させたいと思っている。できればホタルも放ちたいと思っているのだが」とおっしゃいました。ご自分の事業とともに広尾の街を良くしていこうと考えていらっしゃるのがよく分かりました。また、笄川を復活させたいという夢を聞くことができたのは、本当に素晴らしいことでした。いつか、真夏の夜に、レストランで、笄川の川風やホタルを楽しめるようになるといいですね。インタビューの後、秘書の方にシェ モルチェに案内していただき、庭の写真を撮らせていただき、おいしいお紅茶とお菓子をご馳走になり、ちょっと幸せな気分にひたって帰ってきました。

磯野さまは、当時の笄川は外苑西通りの下に埋まってしまったとおっしゃっていましたが、江戸や明治の時代はどうなっていたのでしょうか。家に帰って古地図**を調べると、笄川は西麻布の交差点から外苑西通りに沿って流れ、広尾橋交差点を越えたところで道路を東側に外れ、現在の三菱東京UFJ銀行の辺りから広尾タワーズの敷地の下に入っていました。そして、南に向かって天現寺橋方向に流れていました。そこはシェ モルチェがある辺りで、緑の木々と下草がたっぷりと生えている所です。この辺りに昔の川の跡が残っている可能性がありますが、地上の姿を見た限りではよく分かりませんでした。

  
交差点を越えた笄川が広尾タワーズの敷地に入った辺り

それにしても、今回、笄川を、実際に見た方から、初めてお話を伺えて幸運でした。磯野さまには貴重なお話を本当にありがとうございました。(完)

*レストラン シェ モルチェ : 〒106-0047 東京都港区南麻布4丁目1−29 広尾ガーデン 1F 03-3442-1851
**『江戸明治東京重ね地図』(APPカンパニー)



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9月25日 スイカを冷やした清水が麻布に

8月の終わりに、早起きをして港区の麻布一帯を歩きました。『あるく渋谷川入門』では、六本木から麻布十番を通って古川に注ぐ吉野川を歩きましたが(165ページ)、その吉野川の支流を一つ(毛利池からの支流)しか取り上げることができず、気になっていました。この辺りを探訪した先輩たちのサイト(注)に刺激され、資料と水をハンドバッグにつめて張り切って出かけましたが、昔ながらの麻布の道に迷ってしまい、気がついたら、見覚えのある「宮村児童遊園(元麻布2- 6-2)」に出ていました。この公園は有名な「がま池」(元麻布2-7)の北の崖下にあり、その昔、がま池の水が流れ落ちて吉野川に向かっていたと考えられる所です。今でも公園の崖から水が浸み出しています。
  
「がま池」の崖下にある宮村児童遊園

どの辺りを水が流れていたのか、暗渠の跡を探していると、幸運なことに公園の近くにお住まいの方が家から出てきて、「何を調べてるんですか?」と話しかけて下さいました。そして、この土地に越して来られた昭和35年頃のことを教えて下さいました。

「水がたまっていたのは、ちょうどここら辺り」と、その方は、児童遊園のがけと住宅の間を通る細い砂利道の一角を指差して言いました。「今は土地を造成して平らになっているけれど、当時、ここから上まで全部崖だったのよ。上は大きなお屋敷で木がいっぱい生えていたので、崖から清水が出てきていて。それを溜めた洗い場があって、中が2つに分かれていて。一つは洗濯場で、もうひとつでスイカを冷やしていました。」その一帯はいつも湿っていて、蛇やかえるがよくいたそうです。それにしても麻布の高台に、おしゃべりをしながら洗濯をしたりスイカを冷やしたりした清水の溜め池があったとは。ちょっと幸せな気分になりますね。

  
清水の溜め池があったのはこの辺り

ところでこの公園から麻布十番に向かって崖が続いており、その脇に、人がやっとすれ違えるぐらい細い暗渠の道が伸びていて、狸坂のある4差路(元麻布2-11-5)で合流していました。いかにも川の流れの跡のようでしたが、その方は、「公園の辺りはいつも清水で湿っていて、雨が降るとすぐに水が溜まった状態になるので、区が土管を敷いて水を流したんです」と説明されていました。「50センチぐらい掘るとすぐに水が出てくるので、井戸があちこちにありました」とも。この細道は元々が本光寺の土地で、区に土地を寄付して土管を敷設したそうです。「川を暗渠にしたのですか」と尋ねたところ、「川は流れていなかったです」という意外な答えでした。麻布中学の方にも水が浸み出していて、そちらの方は川があったかもしれないというお話しでした。今日は大収穫です!
  

4差路に向かう細い暗渠の路

帰宅して、「がま池」の地図を調べてみました。一つは、『東京都港区近代沿革図集‐麻布・六本木』の中の、麻布台近辺の「内務省地理局・東京実測図」(明治20年)です。この地図では池と崖がはっきりと描かれていますが、「がま池」からの川すじは描かれていません。昔の地図では、小さな川が記されていないことがよくあります。次に、「東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍」図(参謀本部陸軍部測量局・明治16年10月)を見ると、「がま池」からの流れが、うっすらと青い色で、吉野川の近くまで描かれていました。池から流れ出した水は、崖下(現在の公園の脇とこれに続く細い暗渠の道)を通って狸坂の下の4差路に出て、その後、光隆寺、安全寺などのお寺の南側を道沿いに流れ、吉野川に向かっていました。川の脇に小さな池がいくつか描かれていましたが、この辺りに多かったと伝えられる金魚の養殖池でしょうか。最後に、『東京都市地図3』の中の「渋谷1880」をチェックしました。本を書くときには何回も使った地図ですが、「がま池」から50メートルぐらい、等高線を突っ切って崖を下る水の流れが描いてあり、それから先は他の地図と同じようになだらかに流れて、4差路に出ていました。その後は町家に隠れて見えません。三つの地図と大野様のお話から、川は明治10年代には流れていたけれど、昭和35年には無くなっていたことが分かりました。この80年の間のいつごろに川は消えたのでしょうか。
  

4差路、左に細い暗渠の出口
(元麻布2-11-5)


そもそもの水源である「がま池」はどんな池だったのでしょう。現在はマンションの敷地の中で、近くから見ることができませんが、以下のサイトには水を豊かに湛えた池の写真が掲載されています。以前にマンションを訪れた時は池を見ることができませんでしたので、再挑戦してみます。
  (注)「世田谷の川探検隊」http://tanken.life.coocan.jp/setagaya/azabu.html 
  「東京の水」http://tokyoriver.exblog.jp/13955876/ 
  「東京ピーリング!」
http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/21/index.html

 
bebisu
9月10日 真っ青な貯水池のミニチュアが(ヱビスビール記念館にて)

夏の日の午後、木陰に白百合が咲く姿を見ながら、恵比寿ガーデンプレースを散歩しました。『あるく渋谷川入門』の「第5章三田用水の分水と渋谷川」(121ページ、地図5‐5)でご紹介したように、ここには三田用水の田道口や銭噛窪(ぜにかみくぼ)口から水を引いた日本麦酒醸造会社(現在のサッポロビール)があり、ちょうど120年前の明治22年(1890年)に、その水を使って、日本の草分けの恵比寿麦酒を作り始めました。
この度リノベーションされたヱビスビール記念館に行って見ると、当時の工場の姿を現した新しいミニチュアが展示されていました。本の地図と比べると迫力が違います


  
 三田用水を湛えた貯水池と工場の全景。
 (中央が2号貯水池。右上は1号貯水池)

 

煙突などが実に巧みに作られていて見事でしたが、中でも目を引くのが工場の施設としては不釣り合いなほど大きい、真っ青な貯水池でした。ちょうど現在の三越とセンター広場があった辺りで、まるで公園の池のようです。
広報室の森伸一様にうかがったところ、それは明治42年に作られた2号貯水池で、実際には、たて100メートル、横100メートルで、深さは9メートルのところもあったとか。巨大ですね!そこに溜められた大量の水が、ビールの瓶の洗浄に使われていたそうです。オリンピック用プールのサイズはたて、横が、50メートル、25メートルなので、広さだけでも8つ分です。当時のこの貯水池を見た村の人々は、その大きさにさぞかし驚いたことでしょう。この地域がビールのブランド名を付けた“恵比寿”の町として発展し始めた様子が目に映るようです。ミニチュア敷地内の右下部分は現在のアメリカ橋公園です。


  
恵比寿ガーデンプレースの百合の花



工事
7月22日 麻布十番に古川地下調節池工事現場を見学

<古川の最近の浸水被害>
渋谷川・古川流域連絡会の会合の後で古川地下調節池工事現場の見学に行きました。
渋谷川・古川は、平成に入ってから何回も浸水被害を起こしています。たとえば、平成11年には集中豪雨によって、古川橋から一之橋にかけて床上の被害が約300棟、また平成16年には、再び古川橋近辺で床上15棟の床上被害があり、南北線の麻布十番駅地下ホームにも水が流れ込んで、地下鉄は2時間運休になりました。最近は、ゲリラ豪雨のせいで特に被害が大きくなっています。安全な川にするにはどうしたらよいのか、渋谷川・古川流域連絡会でも会合のたびに議論が行われていましたが、何しろ岸のすぐそばにビルや高速道路の橋脚があって、川幅は広げられません。
それに対する解決策として、急激に増した水を古川の下に一時的に貯める地下貯水池を作る計画が、平成18年の12月に東京都から発表され、平成21年から工事が始まりました。そこで地下貯水池を作る現場を見学することにしました。

  
古川地下調節池工事の看板

<古川地下調節池とは>
麻布十番駅で地下鉄を降りて地上に出ると、首都高速で囲まれた川のそばの「一の橋公園」にでました。その一角に古川地下調節池インフォメーションセンターがあり、平成11年から17年の間の古川流域での浸水の記録や、取水施設の発進立坑の写真、シールドマシンの20分の1模型が展示してありました。また洪水被害を防ぐために、大雨のときに雨水を貯留する施設が必要であることと、どのように地下調節池を作るかの説明をうかがいました。公園の一角に大きなコンクリートの円筒(発進立坑)を作って地下に埋め込み、それが完成したら、円筒の一部に横穴を開け、シールドマシンでそこから横にトンネルを掘り進めるそうです。それが古川地下調節池です。古川の下を恵比寿橋の少し先まで、約3.3kmを掘り、そこに大雨のときに水を貯めるという、想像を絶するような巨大なものです。完成すると水は約13.5万トン貯めることができ、かなりの大雨でも洪水はもう起こりません。

   
 シールドマシンの模型    発進立抗(東京都建設局パンフレット
************************ ccccccccc「古川地下調節池」より作成)

発進立坑を作る工事現場>
説明の後、私たちはすぐ隣の発進立坑の工事現場に行きました。大きな円形の工事現場では、炎天下、枠にどっさりとコンクリートを流し込んで、高さ4m位の円筒を作っていました。「発進立坑は、最初刃の形になったコンクリートの筒の先端部分を地中に降ろし、その上に順に新しく作った同じ口径のコンクリートの円筒の一部を重ねて載せて、泥をかき出しながら地中に沈めて行き、最終的におよそ地下50mの長さにする」ということでした。スカイツリーのように、コンクリートの円筒を順番に上に積んでいくわけです。今はその2番目のものを作っているところでした。一つの筒の部分は約1000tもの重さで、自分の重さプラス少し圧力をかけることで沈むそうです。工事現場が暑いのと、お話のとんでもないスケールに圧倒されて、汗だくになりました。

  

 一の橋公園内発進立抗工事現場

以前のことですが、2月の寒い時期に腰まで古川につかって、川底にコンクリートのマットを敷くための測量をしているのを見ました。暑いときの工事も寒いときの測量も、本当にご苦労様です。治水というと、堤を築いたり流れを変えたりという印象がありますが、こういうのが現代都市の治水なのですね。


  
 
「古川地下調節池区間」の図(東京都建設局パンフレット『古川地下調節池』より作成)

東京都第一建設事務所
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6月11日 群生するコウホネをたずねて

『あるく渋谷川入門』をなんとか無事に発刊できた次の日、ほっとして、箱根湿生花園に出かけました。もしかしてコウホネが咲いているかしら!コウホネとは、昔、渋谷川上流に群生していたという花です。その日は花曇りの空模様でしたが、門に入ったとたんにいろいろな花の匂いが漂ってきました。広々とした箱根湿生花園の案内板を見ると、一番奥のところにコウホネの池があることが分かります。早速歩きはじめると、エーデルワイスなどきれいな花々がありましたが、横目で見ながら急いで目的の池に行きました。 
  
  
箱根湿生花園の池に群生するコウホネ

突然、目の前に大きな池が広がり、緑の濃い葉の間から小ぶりの黄色い花が見えました。コウホネの花は4,5センチで、濃い黄色です。渋谷の河骨川の上流にあって、川の名前の由来になったと言われる花が、こんなに無造作にたくさん咲いているなんて!大きな池で、葉っぱも花もスッと水面に出ているものと、またユラユラと水中に咲いている花や葉もありました。水面に写る葉の影と空の光のコントラストがきれいでした。7月に向かって、まだこれから、もっともっと咲くそうです。コウホネの池の奥に仙石原湿原植生復元実験区が広がっていました。

    vvvvvvv箱根湿生花園のコウホネ五種

       
            
  ①水から突き出てぽっかり
             
 開いた花と、深く切れ込ん
              だ葉の「コウホネ」

                 
  
   ②葉も花も丸い「ヒメコウホネ」    ③花の真ん中が赤い
  
サイジョウサイジョウvサイジョウ    「サイジョウコウホネ                   
  
  ④花弁のように見える部分が赤く  ⑤葉が全部水面にでる
  変わった「ベニコウホネ」    「ネムロコウホネ」    

コウホネを見た後は気も落ち着いて、ゆっくりと他の池のまわりの花も見て、喫茶室で休みました。コーヒーとソフトクリームが安くて、早く出てきて、そしてとてもおいしかったこと。売店で買ったブルーベリーも。本を刊行した翌日にこんなにたくさんのコウホネの花を堪能することができるなんて、不思議なめぐり合わせです。自宅のベランダでもコウホネを育て始めました。直径50センチほどの小さな水槽で、小さな葉っぱが4枚出ていますが、いつ葉がもっと茂って、花が咲くことでしょう。

みなさんも箱根湿生花園に行って、群生するコウホネをご覧になりませんか。

箱根湿生花園へ

  
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我が家のベランダのコウホネ


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