| 偶然の出会い |
| 熊本大学大学院を間もなく修了する昭和51年2月の頃であった。 |
| 私は山口大学工学部電子工学科の助手としての就職が決まっていた。 |
| そんなある日、学食の食堂で昼食をとっていると中山先生が私のテーブ |
| ルの前に食事のお盆を持ってかけて来られ |
| 「山口大学に就職が決まって良かったね。」と話かけてこられた。 |
| 「ありがとうございます。」 |
| 中山先生とは講義を受けたことがあったが個人的に話を交わすのは初めてで |
| あった。 |
| 「実は山口大学には数年前に当学科から山大の電気工学科に助手として |
| 就職した学生がいたけど、2,3年で突然退職して渡米したんだ。それで |
| 山大の方も困ったみたいなんだ。君はそういうことがないように、頑張っ |
| て下さい。」 |
| 「そうでしたか。ありがとうございます。気をつけます。」 |
| という会話であった。 |
| それから間もなく私は山口大学に赴任したが、この会話の件 |
| はすっかり忘れていた。 |
| 私の所属は電子工学科の第四講座であった。教授と助教授の下で私が |
| 助手として働くことになった。 働くといっても、電子工学科はその年に新設 |
| された学科で第一期生の一年生は40qほどはなれた山口市の |
| 教養学部にいて、次年度に宇部市にある工学部に進級してくる予定で |
| あった。そういうわけで私は次年度に備えて電気工学と電子工学の実験準 |
| 備が主な業務であった。 |
| 数か月前に熊大に私を助手として採用を検討するための面接に教授と |
| 助教授ふたりで来られた際、面接時に教授から |
| 「あなたが大学院時代に研究された内容とは異なる分野で一から勉強 |
| していただいて学位(工学博士)を取得していただきたいと考えていますが、 |
| 構いませんか。」 |
| という問いかけに、私は即座に |
| 「構いません。その方向で努力したいと思っています。」 |
| と応えた。 |
| 私は当時はコンピュータサイエンスの新しい分野でオートマトンという分野 |
| での学位取得を目指して週に三度ほど教授、助教授、私の三人で3,4時間 |
| のゼミを行うことになった。そのため実験準備の傍らゼミの準備で忙しい |
| 日々が続いていた。 |
| 3年が経過した頃には教授の吉井先生、助教授の山内先生ともすっかり打 |
| ち解けていた。昼食にはいつも山内先生と学外の食堂に出かけていた。 |
| そんなある日の昼食の雑談の中で山内先生が |
| 「電気工学科の小山さんという助手の先生がいたけど突然渡米して帰国 |
| しなくなり、大学を退職してしまった。」 |
| と話された。 |
| このとき、山大に赴任する前の熊大時代に中山先生が私に忠告されたことを |
| 思い出した。 |
| それから7年後、山大に赴任して10年後、私は、努力が実を結び、工学 |
| 博士の学位を取得することとなった。 さらにその2年後、客員研究員として |
| アメリカはロスアンゼルスにある南カりフォルニア大学に客員研究員として渡米 |
| することになる。 滞米中に偶然にも小山さんに会うことになるのであった。 |
| 1989年10月に家族とともに米国に入国しそれから約1年間ロスアンゼルに |
| 滞在することになる。 |
| 渡米して2カ目が経過した頃の12月31日の大晦日の日に私の研究室に |
| NTTから派遣された石田さんが私の研究室に研究員として来られた。 |
| それまでは中国人のJimmyと私二人であったがそれから4ヶ月後に帰国 |
| されるまでの間研究室は3人となった。私は当時40歳、東大卒の石田さんは |
| 26歳で年齢は離れていたが、石田さんの明るい朗らかな性格もあって、私たちは |
| とても親しく付き合っていた。 |
| 私は趣味の一つが囲碁で週末には町の碁会所に出かけていた。当時私は二段 |
| であった。宇部市で開かれた囲碁大会では二段の部で優勝したこともあった。 |
| ある日、石田さんとの雑談の中で彼が囲碁を覚えて間もないころで、囲碁にはまって |
| いることが分かった。私も囲碁が趣味であることを打ち明けると石田さんは喜んで |
| 私との対局を楽しみにしていた。 |
| 碁盤と碁石はお互い日本から持参していなかったが、私はリトル東京の日本の |
| 文化会館に碁会所があるのを知っていたので、石田さんと一緒にでかける |
| ことにした。石田さんには碁会所に来ている年配の方と対局するように薦めた。 |
| 石田さんは一級として三段の方と三目のハンディーで対局された。傍らで見ていたが |
| 石田さんはとても楽しそうであった。 |
| それから数日後、石田さんがUSC(南カリフォルニア大学)の学内新聞で同じPHE |
| ビルディングの2階(私たちはは4階)の研究室にいるホワイト教授が囲碁が趣味である |
| という記事をを見つけて、わたしにホワイト教授を訪ねてみませんか。と言ってきた。 |
| 後日、二人でホワイト教授のオフィスを訪れると、快く歓迎してくれた。 |
| 囲碁はここ数年実戦から遠ざかっているいうことであった。雑談の中で日本人のユーコー・ |
| コヤマと親しくしているという話がでできて紹介しましょうということになった。 |
| 私はそのとき日本で中山先生と山内先生が話しておられた小山さんのこととは |
| 気がつかなかったが、ホワイト教授の部屋を出て間もなく、あの小山さんなの |
| かもしれないと思った。 |
| ダウンタウンのリトル東京にある喫茶店で会うことになったが、やはりあの小山さん |
| であった。おなじ熊大の出身であり、その後山大に就職されたこともあり、両大学 |
| の先生の動向の話をしたり現在の小山さんの状況の話をしたりした。わたしより6歳 |
| 年上の46歳であり、日系人向けのフリーのコミュニティー新聞であるfriend of Japan を |
| 発行しているということであった。 |
| 当時、リトル東京には日系人向けのスーパーであるヤオハンがあったが、そこで |
| friend of Japan を入手することができた。 |
| それにしても奇遇な巡り合わせであった。 |
| 小山さんはどうして日本に帰国せずにLAに住み続けているのだろうか。LAに旅行で来た若者 |
| の中にはLAの魅力に引き込まれそのまま帰国せずに滞米してしてしまう若者は少なくない |
| という。私もLAに来て三ヶ月もするとその魅力にはまりこのまま米国で生活したいと思うように |
| なったが。 小山さんが帰国しないのは同じような理由からかもしれない。 |
| カリフォルニアは地中海性気候で年中温暖であること、また特にLAは人種のるつぼと言われるくら |
| い世界中の人種が住む都市であり国際色豊かであること等LAの魅力はいろいろあるが。 |
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