【脳卒中で倒れる】

救急の日、救急指導中に救急車で救急病院に運ばれてしまった笑い話のような出来事だった。
平成8年9月9日(救急の日)、救急医学界の依頼で日本赤十字社が、東京駅で救急法コーナーを開設していた。私は、日本赤十字社の救急法指導員として参加していた。
私は、ステージ中央に元気よく立ち、マイク片手に、救急法の意義を5分程スピーチした。「人が倒れています。」このセリフから始まり、人形を使っての人工呼吸や心臓マッサージ等の実技を行った。
お客さんも急に増えて、乗降客や一般の人でかなりの人だかりになってきた。
順調に事が運び、これからという時に気分が悪くなり、次の指導員に交代を申し出た直後、全身の力が抜け、記憶も薄れてしまった気がする。
幸いな事に、脳外科の医師も参加していたおかげで、医師による応急処置がすばやく施され、救急車で駿河台日大病院へ搬送された。
私がステージでやっていたことが、実際に自分に施されるとは皮肉だった。





【救急車で駿河台日大病院救命センターへ】

病院到着時は、まだ辛うじて意識が有った。
各種の検査を実施中に意識が次第に薄れ、十数時間は意識が無かった。気が付いた時は、あたり一面カーテンで囲まれて、何も見えない状況だった。
意識が戻って最初の面会の時、鉛筆を持ち、文字を書いた。「すまん」とか「ごめん」というような言葉だったらしい。
それ以後、一度も字を書くことも、言葉を発する事もなくなった。
 感情もなく、要求もなく、自分の名前すらわからなかったが、不思議なことに一つだけ大きく反応したものがある。
それは、カレンダーであった。私は、カレンダーを見せられると、決まって同じ日を指さしていたという。その日は、勤務先の大きなイベントがあり、前々から準備をし、そして楽しみにしていた。脳卒中で倒れる寸前まで一番気にかけていた日である。今もそのことだけは、うっすらと記憶に残っている。
 カーテンを開けると、高いビルが見えるだけ、実に殺風景、病室の看護婦さんの動きが気になった。夢は、元気だった時の自分の事ばかりだった。そして、「何時かは必ず直るんだ」と信じていた。
この病院での記憶をたどることは難しく、家族からの後日談をもとに書いてみた。








【転院】

10日後、千葉の成田赤十字病院に転院となった。
懐かしい成田赤十字病院に向かうというのに、何故か、道中は泣いてばかりいた。この日、私の勤務先の同僚が付き添ってくれたことが、心強かった。





【成田赤十字病院】

朝の検温時、「今日は何日で何曜日ですか?」「名前は?」「年齢は?」「ここは何処ですか?」と、看護婦さんから毎日質問された。はじめは、自分の名前もよく言えず、質問に答えられるよう練習した。
 妻は、毎日付添いで来てくれた。其の殆どは、言語訓練として、紙にいろいろな文字を書いて見せたり、発音させられたりした。まるで出来の悪い幼稚園児みたいだったが、真剣そのものだった。
 恥ずかしい話だが、この時はまだオムツをしていた。
赤ちゃんの時以来の経験である。倒れて1ヶ月余りで、やっとオムツが取れたときには、言葉が話せるようになった以上のうれしさを感じた。少しずつであるが、良い方向に向いているなあと実感した。
 リハビリは、当初1週間は、理学療法士がベッドまで来て行われた。手足のリハビリはもちろんのことであるが、ベッドから車椅子への乗り移りの仕方をこの時に教わった。この動作を、早い時期にしっかりと教わっていたということが、自分の行動範囲を広げ介護をしてくれる人にとっても負担を軽くできたと思う。
その後、5階の病室から1階のリハビリ室へ通うようになり、すぐに一人で車椅子を使って往復するようになった。
 まっすぐ立っているということが難しく、訓練を重ねた。先生に支えられながらの歩行訓練も始まった。病棟に戻ると、短い距離ではあるが手すりにつかまって歩く練習をかかさずした。何とか良くなろうという一心で、日中、ベッドに横たわっているということは殆どなかった。
成田赤十字病院では、神戸の大震災のとき、医療救護として体験を共にするなど、お世話になった人が多く、看護婦さんや看護学生の中には、ふざけて敬礼をして「頑張っていますか」と激励をしてくれる人もいて、恥ずかしい反面、内心嬉しかった。








[転院]

この頃、ようやく言葉が出るようになった。成田赤十字病院では理学療法しかないということで、言語訓練のある病院に転院するよう話が出た。病院からは温泉リハビリへのすすめもあった。とても大きな分岐点のような気がして毎日悩んだが、結局は自宅に近い言語訓練のある病院へと移ることにした。
転院の日、小雨の中、勤務先の上司が迎えに来てくれ、車中では仕事場の様子を話してくれた。まだ話を聞くだけで会話は出来なかったが、気持ちは満足した。
久しぶりに車に乗り、車窓から見える景色は非常に懐かしく新鮮さを感じ、自分は、「生きている」という実感が沸いてきた。








【市立松戸東病院】

到着時の第一印象は、一般の病院とは違い、ホテルのフロントのイメージがした。
病棟の生活で必要な、トイレ・洗面所・入浴施設・その他諸々が、患者本位に設計されていた。
私の場合は、右手・右足・言語の3種類のリハビリを実施した。
正直言って最初の頃は、どちらかといえば言語よりも手足のリハビリが大切だと思っていた。しかし、訓練を重ねる毎に其の重要性が理解できた。
 言語訓練というと、発声練習が中心のように思えるが、私の場合、失語症ということで記憶・連想・文章構築、そして発声の訓練だった。障害によってダメージを受けた脳に、とても強い刺激を与えた。入院の患者に対して宿題が出され、面食らった事もあったが、とにかく一生懸命やった。右手が不自由なため、左手しか使えず苦労した。また、記憶力が無くなり、自分の書いたものが非常に幼稚で、情けなく思ったことも事実である。
正直、くじけることも幾度か有ったが、いつも先生や周りから励まされた。





【退院後のリハビリ生活】

平成9年2月12日退院。2週間に1回、言語訓練のため通院した。言語の先生から、宿題は出来れば「ワープロかパソコンで書い下さい」と指示された。
自分は、ワープロやパソコンは、頭から使えないものとあきらめていた。しかし、文字が打てた時は感動し、それが大きな自信となった。
自分で言うのもおこがましいが、文書を書くのが飛躍的に上達したような気がする。
最近は、インターネットのメール友達もでき、自然のうちに言語訓練になっていると思っている。
毎日、杖を使って黙々と歩き、その実績をパソコンに入力して、月別歩行距離、また、通算の歩行距離をグラフにして、楽しみながら続けている。
歩行訓練以外は、テレビも観るが、パソコンを使って時間を過ごすことが多く、結構充実している。











最後に、現在リハビリ生活を送っておられる全ての方に対し

少しでも元気になられますようお祈りします
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