【序 幕】

”じゃあ、行って来るよ” そう言って仕事に出かけて行った。お昼頃には、病院のベッドの上で意識はなく、全身管だらけで寝かされていた。
意識の戻ったとき、何か言いげな表情をしていた。彼の目の動きからそのように察した。すかさず左手に鉛筆を持たせ、紙を近づけると何やら文字らしきものを書いている。”ずゆん・・・?、すめん・・・?、何だろう。次に”ごゆん・・・?、ごまん・・・???と書き続けた。この言葉だけを繰り返し書いたので、何か意味があるに違いないと思っていた。
後日、この意味がこんな病気になって「すまん」 あるいは 「ごめん」と言いたかったのではなかろうか、と私なりに解釈した。

入院中は病院にお任せしただ頼っていればよかったが、いざ退院となると本人の不安もさることながら、私自身が一番パニックに陥ったように思う。
”案ずるより生むがやすし” 今ではそれほど気負う事もなく、ごく自然に接しられるようになった。発病後3年が経過したのを機に、今までを振り返ってみることにした。





【入院中の出来事】

医師の話によると、出血した部分が大きいことで、身体にかなりの障害が残り、全介助(ねたきり)になるということだった.。
失語症のため言葉は勿論の事、寝返り不能、座位保持不能という判断だった。
座る事が出来なければ、当然ベッドの上では寝ているだけという事になる。このままでは本当に寝たきりになると、焦りのようなものを感じた。

病院内では車椅子に乗せてもらうことにした。一日中病院の中を押して歩いた。どうかすると食事も車椅子に乗ったままということも度々あった。
ベッドに戻るのはオムツ交換の時ぐらいである。そして、何も話せない彼に向かって一日中話しかけていた。
車椅子の成果があったのであろうか、ベッドの上に座れるようになっていた。この頃になってようやく一ヶ月位リハビリで様子を見ようという話が出ていた。 当初は、リハビリ云々の話は全くなく、介護中心の病院を勧められていたのだが。

3ヶ月程経ち手指のリハビリが始まったが、私の予想に反していきなり左手の訓練が始まった。
どうして?患側右手の訓練をしてもらえないの?指がかすかに動く場合、努力次第ではある程度回復するという。 彼の場合、右手は全く機能しないということで残っている左手を活かすリハビリが始まったのだ。具体的には、字を書いたり、お箸を使って細かいものを挟んだり、洋服脱着からボタンのかけ方まで。
失語症の訓練は、患者さんの中には訓練を拒否する人も見られた。我が家の場合は、なぜか家族揃って楽しみであった。彼の記憶が障害により一部喪失しているせいか、突拍子もない受け答えや、ここ何年か聞いたことがない方言に、周りの笑いを誘っていた。一見地味な作業に見えるが、一歩中に入ってみると、なかなかどうして興味深く引き込まれていった。

発病して5ヶ月、退院の話が出はじめた。しかし私の気持ちは複雑であった。退院が決まれば先ず、諸手を上げて喜ぶべきだろう。なのに一日でも病院においてほしかった。退院にあたって、家の中での行動は車椅子を使い、夜のトイレは尿器を使う、入浴は専門の人にお願いするようにとPTから指示を受けていた。
車椅子の生活にはなったものの、家の中での生活は不安以外に何もなかった。








【自宅療養生活】

今日からが我が家にとって、本当のリハビリがはじまるのである。いくつかの決め毎を作って実践した。
○ベッドの上の布団は、朝片づけてしまう。
○毎朝きちんと洋服に着替える。(たったこれだけのことで病人には見えないと思った。)
○指示に反してしまったかも知れないが、家の中では車椅子は使わない事にした。
○お風呂は家族で入れてあげる。

日常生活で、車椅子を使いながら一日20分〜30分歩行訓練をしたところで、一体どれだけの成果が上がるだろうと・・・少々乱暴だったかも知れないが思い切って車椅子を片づけてしまった。
実践でいくのが何よりのリハビリと考えたのである。食事をするために2メートル歩く、トイレのために3メートル、洗面のために何メートルといった具合に。といっても一人で歩けないのだから、その都度私が身体を支えなが ら歩いた。この頃は一日にせいぜい20メートル歩くのが精一杯であったように思う。








【自問自答の時期】

問題は夜中のトイレである。まず私の布団を片づけて、歩くスペースを作るところからはじまる。身体を起こして足に補装具をつける。今でこそ補装具をつけると足が前に出るようになったが、当時は足が前に出るまでにかなりの時間を要しトイレに連れて行き戻ってくるまでに30分という時間が必要だった。

この間彼は、車椅子を使いたいとか歩くのは大変だとか、弱音をはいたり文句を云うようなことは一度も無かった。ただ、言葉が思うように話せないために、黙っていただけかも知れない。その辺はさだかではないが、私の方は、今夜こそ尿器を、今夜こそ車椅子だけでも使おうか。いや昨晩まで頑張れたのだからと、自問自答を繰り返していた。

後に中島和夫氏の書で「可能性への挑戦」を読んだ。この本をもう少し早く読んでいたら、この頃の迷いは生じなかったのかも知れない。
中島さんは、彼が最初にメールを送った人です。それまで中島さんとは一面識もなかったのですが、その後自らの運転で我が家(立川〜松戸)を訪ねてくれました。 リハビリに対する頑張りと前向きな考え方は、おどろきと共に大きな励ましになりました。可能性とは限りないないものであると今ではそう思えるようになりました。





【シャワートイレ】

ある時、PTから「シャワートイレにすると良いですよ」とアドバイスを受けたことがある。そうだこんな便利なものがあったのだ、これで我が家のトイレの問題は楽勝とばかり、すぐにシャワートイレにした。
自分で使ってみると何とも快適・・・。ところが半身マヒを起こしているものにとって、肝心のシャワー部分が体のどの位置にあたっているのか自分で感じることが出来ないのである。
その為ほんの数ミリ、的が外れただけできれいに洗浄出来ないものである。もう少し身体を前に、いや左に、後ろに、といった具合に体を動かしながら試みている。これを3〜4回と繰り返している。
今でも一度で洗浄するのはなかなか難しいらしい。健常者からの視点でこれは便利だなあと思うことでも、現実に使ってみると上手くいかないものもある。気長にやって見ることにしよう。








【トイレ珍事件】

これはリハビリとは関係ない話であるが、トイレに手すりをつけるようになった時のこと。業者に頼んで簡易手すりを取り付けてもらった。ドアを開けると、な・な・なんとトイレの入り口が20cm程になってしまった。
業者の話では、我が家のトイレの構造上しかたがないと言って帰ってしまった。

子供が帰宅し、トイレを見て爆笑。しばらくして、何とかなるかもしれないと明るい答え。取り付けてあった手すりの一部をはずし、上向きにつけてあった部分を下向きに付け直した。給水タンクにひっかかっていた部分がタンクの下にもぐり、全体的に奥にさがったのである。出入口は元の広さに戻った。
おそらく業者の方は説明書に書いてある基本的な型に組み立てたのだと思う。もうひと工夫欲しかった。お客様は神様です。いや、我が家にとってお子様は神様でした。








【歩道に慣れる】】

退院して一年間は、床屋に行く時は車椅子を使っていた。今は歩いて行く。自宅から200m先の距離であるから、健常者ならほんの2〜3分で行ける事になる。
200mの間には横断歩道があり、歩行者信号が青の時間は18秒であるが彼の足ではとうてい渡りきれない。道路の真ん中あたりで信号が替わってしまう。 幸い、彼は下を見て必死で歩いているため信号が変わっても気がつかない。慌てさせてはいけないので、そのまま歩かせ私は後から止まってくれる車に向かって頭を下げながら歩いた。

床屋までに要した時間は片道30分、考えていた以上に時間を費やした。
これまで屋外歩行訓練といえば安全で歩き易い場所を捜して練習をしてきたが、これからは実際の道路に慣れることが大切なのではと思った。今現在、床屋まで所要する時間が短縮されてきているが、決して歩くペースが速くなったのではない。道路を歩くことに慣れてきたのだと思う。








【掃除もリハビリ】

最近彼はパソコンの置いてある部屋だけ掃除機をかけるようになった。掃除機を使うということは杖を持てない事になり、そのため立つこと自体が不安定になる。
患側の足に力を入れる訓練として良い方法であると考えた。最初はやはり、後ろで支えていた。本当は私一人で掃除した方がずっと早いのであるが、ここもリハビリに徹しようと思った。
今では上手に掃除機をかけ終わると、コードも巻いて後片づけもしている。私の忙しい時など廊下の方まで出張?してくれるようになって いる。

家の中には洗面所やトイレなどあちこちに段差があるが、それらを避けるのではなく出来るだけリハビリに取り入れるように心がけている。よくこんな話を耳にすることがある。「今日は雨が降ったので歩行練習は出来なかった。」 歩行練習は工夫次第で家の中で十分出来ると考えている。





【発想を変えて】

右利きから左手になってどんなに不便だろう。退院した頃は、スプーンを使い介助用のエプロンを付け食事をしていた。食後、必ずエプロンを洗わなければならないほど食べこぼしていた。そこで、私なりのリハビリを考えてみた。
一つは、野菜を出来るだけ細かく切った。(挟みにくくして、リハビリにした。) もう一つは、常時、煮豆や昆布のつくだ煮を作った。(豆は丸くて挟みにくい、昆布は薄くてすべるため、これまた挟みにくい。 )これをほんの少しづつ毎日食卓に出すことにした。

リハビリのためにやっているという気持ちをなくすために、家族が同じものを食べた。豆や昆布は栄養価も高く、一石二鳥である。一ヶ月もしない内に上手に箸を使い、左手で食事が取れるようになった。そのうちにスプーンも食卓から消える事を願っている。
しかし、朝から晩までリハビリ一辺倒で頭を固くしていたのでは、お互いにやりきれない。常に遊び心を忘れずに接して来たつもりである。








【リハビリ教室】

ここで忘れてはならないのが、市のリハビリ教室である。
彼の入院していた病院は、退院後のリハビリはみてもらえないのである。そんな不安を打ち消してくれたのが、市のリハビリ教室だった。
”退院して一年以内の脳卒中患者” と限定されているため、常時患者は3人〜5人程度であった。 そこにPT・保健婦・看護婦・ボランティアと、充実しているために付き添いはいらなかったが、私は一年間いつもついていった。それは、私自身も一緒に学んだ方が良い結果につながると考えたのである。

横向き・うつ伏せ・床への座り方・立ち上がり方、その日に教わったことは必ず毎日復習する事を心掛けた。これらが一つづつ出来るようになってくると動きに幅が出てきた。この教室は個別指導もあり、個々の障害に応じそれぞれに必要なリハビリを施してくれた。自分が頑張ろうとやる気を出させる指導に満足し、内容ある教室で感謝している。
ここでのリハビリは、退院後の私達に大きな自信をつけてくれた。 残念ながら、市のリハビリ教室は一年間だけという期限があるため、今では地域のリハビリ教室に替わった。 ここはリハビリというより交流の場というように考えている。








【おわりに】

リハビリ生活がはじまった時、これだけは守ろうと心に決めていた。
○家族が笑顔で明るくしていること。
○患者に向かって、「リハビリ頑張って」は、決して云わないこと。
○手を出さずに見守ること。

発病して3年、彼と一緒に頑張ってきたが私自身一番大変だと思ったこと、 それはお風呂に入れる事でも、身体を支えながら歩く事でもなかった。また、トイレの問題でもなかった。
それは自分自身の性格、せっかちな処であろう。何をするのも時間がかかる、会話をするにも失語症のため言葉が出ない。それらを黙ってゆったりした気分で相手の言葉が出るのを待つ、手を出さず気長に待つという事であったと思う。

人は誰でも五体満足でありたいと願うもの、はからずも1種1級という障害を背負ったとき、その事実を彼自身が認識し受けとめてくれたことで、家族としては、安心してリハビリに協力する事が出来ました。
健康なときには言えなかった”ありがとう”という言葉。今では、私が何かする度に”ありがとう”という言葉が返ってきます。こうしてみると、病気もなかなか良いものだなあ?と、家族も前向きに頑張ろうと思います。
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